瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想と浄化02

2008年07月29日 | 瞑想日記
集中がある程度深まらないと、表層の思考を追い続けるばかりで、日常的な意識のレベルから深まっていかない。表層の思考に邪魔されて、深く抑圧された感情は浮き上がってこない。したがって解放も浄化も起こらない。

集中が深まるということは、日常的なとりとめのない思考のざわめきが静まるということだ。そうなってはじめて心の奥に隠されていた感情が浮き上がってくる条件が整う。

ある程度集中が深まれば、抑圧されたものがある程度は浮上してきて、それをきっかけに思考がはじまったりする。サマタ瞑想の場合でも、多くの瞑想者はそういうことを繰り返すだろう。だからサマタ瞑想の場合でも、あるレベルでは、ある程度の集中とある程度の解放・浄化が充分に起こりうるのだ。

集中がさらに深まっていけば、さらに深い抑圧が解放される可能性がある。しかし、サマタ瞑想では、浮上してきたものをしっかりと解放させるための方法がないため、それを無視して集中に戻ろうとするだろう。だから解放・浄化は中途半端にならざるを得ない。集中によって心の表層は澄んでくるが、深く抑圧されたものは浄化されぬまま居座り続ける可能性が高いのだ。

ヴィパッサナー瞑想の場合はどうか。もちろんここでも集中は重視される。しかし、雑念が浮かんだら浮かんだでそれもしっかりとサティされる。集中が深まるにつれて、深いレベルから浮上するものがある。それにも気づきが入る。深いレベルから浮上したものにとらわれそうな状態であれば、心随観によって気づきが深められる。そしてまた集中を続ける。さらに集中が深まれば、より深いレベルでの気づきと浄化が行われる。浄化が進めばさらに集中が深まる‥‥‥。

かなり要約して図式的な表現をしたが、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いは、このようなものだと思う。

最近「浄化」ということに関心があり、瞑想する場合もどこかでそれを意識しているので、整理してみた。