瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

日常そのものが瞑想2

2007年02月25日 | 瞑想日記
引用した「障害児の母Jさん」の言葉の中でいちばん心に響くのは、「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」というものだ。もちろん最近の私自身の関心から、この言葉に引かれるのだろう。

Jさんは、出産時の脳損傷のため重症を障害をもった娘さんを産んだ。その衝撃と絶望。糞尿まみれの介護の日々。その想像を絶する苦しみ。やがて彼女はたった一人で「障害者運動」をはじめた。7年で2000人もの会員が集う大きな運動になった。

しかし、やがて彼女は「もっと根本を考えなければいけなかったのに、外側にばかり解決を求めていた。自分の内側をきちんと見なければダメだ」と思うようになる。

禅寺に飛び込み、ひたすら座禅をするようになる。やがて「なすべきことをやらないで運動ばかりしていた。苦しみから逃げるために運動にすりかえていたんだ」と気づくようになる。

絶望の日々が、彼女に「もっと根本」のところへと向かわせた。「自己」が悩んだり、劣等感に苛まれたり、絶望したりする。その「自己」と直面するところへ向かわざるを得なかったのだろう。

そして自分に強いられた絶望的な苦しみを、むしろ感謝するまでになる。そのような経験から「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」という言葉が発せられる。

私には、彼女に課せられたような絶望的な苦しみは知らない。しかし、生きているというそのことが、日々瞑想なのだという思いは、ますます深まっている。日常の中で直面する様々な出来事、大小の悩みや苦しみがすべて、「自己」をどうするか、という問いかけとなって迫る。「自己」が悩みや苦しみ、怒りや悲しみの原因を作っている。それをどうするのか。それが瞑想だ。

いかにして「自己」に縛られずに、そのつどなすべきもっとも大切なことをまっすぐに行うことができるか。それが瞑想であろう。

日常そのものが瞑想1

2007年02月25日 | 瞑想日記
一週間ほど前からサイト臨死体験・気功・瞑想のコンテンツを「覚醒・至高体験事例集」・「臨死体験者の場合」から出発して、少しずつ、字の間違いなどを訂正したり、枠のデザインや行替えの仕方を統一したり、若干の追加文を加えたりなど、見直し作業をしている。どうせならコンテンツとこの見直し作業をブログに紹介しつつやろうと新しいブログも作ってみた。まだ試行中ではあるが。

またこのサイトのトップページに「心に響く癒しの言葉」というコーナーを作り、折々に出会った印象に残る言葉を紹介するようになった。これまでにこの日記で取り上げた言葉(ガンガジやエックハルト・トールのものなど)が多いが、その他にもソースは様々だ。

今日は、「臨死体験者の場合」>「障害児の母Jさん」の記事の見直し作業をやったのだが、「心に響く癒しの言葉」は、この人の言葉を選んだ。ここにも挙げてみる。

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「この世界がすべてではないことがわかった」

そして「木も車も、人の心もみな一つに溶け合って生きている。木の葉の一枚も本当に生きている、そして生かされている」

「迷うことは何もない。自分の思うままに生きればいい。問題が起きたら、ただ受け止めればいい」

「ただそれだけ」

Jさんは「迷うこと」がなくなった。そして、振り返れば、考え方が「百八十度変わった」という。あれほど苦しんだ娘さんの問題も、いまでは、「苦しいことも悲しいことも味わわせてもらったんだな」と感謝の気持ちをもっている。「苦しみ、悲しみ、そういうものは全部自分の感情が作っているということがよくわかった。それを娘は私に教えてくれていたんだ」と。

いま彼女は「よくやってきたな」と自分に対しても素直に誉められるようになったし、「娘をもたせていただいたことが本当によかった」と深い感謝の気持ちを抱いて毎日を暮らしている。そして、Jさんはいう。

「生きていること、日常そのものが瞑想なのだ」と。

(安藤治『私を変えた<聖なる体験>』春秋社)