瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

励みのつくところに仏法はない

2007年02月23日 | 瞑想日記
沢木興道は、公案禅に対して実に手厳しい。

「公案と用いるところでは、確かに励みがついて一生懸命に座禅するかもしれないが、励みがつくところに、我欲が知らず知らずのあいだに出張ってくる。励みのつくところには、仏法はない。そしてそこにあるものは、人生から遊離した自己の芸当である。」p166

まさにその通りだろう。ずばりと言い切っている感じだ。言わんとするところがじかに伝わる。

これは、修行だけに言えることではない。日常生活の中でも、私たちは常に、他と競争し、目標設定し、狙い、励んでいる。そして、そこには我欲が働いている。しかし、励む我欲はいずれ挫折する。いずれ限界が来る。「自己の芸当」は、死ととも終わる。だからこそ、かぎりあるいのちの自覚は、生死を超えた真実に出会わせる。そして、我欲による励みは、生死を超えた真実、無功徳の真実を見えなくする。

ヴィパッサナー瞑想の場合はどうか。もちろん凡夫たるわれわれは、大いに励んで修行しようとする。そこに我欲がうごめいている。我欲にまみれるわれわれが我欲を超えようとして始める修行の、その出発点は我欲だ。そのエネルギーも我欲だ。我欲によって我欲は超えられない。

しかし、ヴィパッサナー瞑想がすぐれているのは、方法として、瞑想が徹底すればするほど、その我欲すらも自覚化し、あるがままに受け入れていくことになるからだ。一切の現象に気づき、受け入れていく瞑想は、その瞑想を行おうとする動機さえも、自覚化してそのままに受容してことを、最初から予想しているのだ。

我欲から出発しても、我欲に気づき、超えていけるようなシステムになっているのだ。
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