帰宅してすぐ風呂に入った。湯船につかっているときにふと考えていたこと。仕事で、他の係が作った書類をチェックしていて、少し重要なミスを見つけ、報告した。その件をぼんやり反芻していて、「思考」とラベリングした。湯船につかってのんびりしたときに、この件がふと思い出されるのは、そこにささやかな「手柄」意識があり、得意げになっているからだ。実際には得意になるほどのものではないのだが。
このとき、サティをいれず想念・思考が浮かんでは消えるままにしているのと、思考に気づき、自慢げな自我に気づいてサティをするのとでは、やはり大きな違いがあるのだろう。
得意げな自我を批判するのではない。ただ、そういう自分に気づく。そういう思考をして何かをもう一度確認したがっている自我に気づく。それだけでいい。そこに微妙な変化が生じるのだ。
思考に埋没しているのと、そういう自我の思考に気づいていることとの違い。毎日、数え切れないほど浮かんでは消える思考の何割かに気づいていくだけでも、違いは確実に生じる。そういう自覚化に毎日、毎時間あくことなくチャレンジしていくこと。
このとき、サティをいれず想念・思考が浮かんでは消えるままにしているのと、思考に気づき、自慢げな自我に気づいてサティをするのとでは、やはり大きな違いがあるのだろう。
得意げな自我を批判するのではない。ただ、そういう自分に気づく。そういう思考をして何かをもう一度確認したがっている自我に気づく。それだけでいい。そこに微妙な変化が生じるのだ。
思考に埋没しているのと、そういう自我の思考に気づいていることとの違い。毎日、数え切れないほど浮かんでは消える思考の何割かに気づいていくだけでも、違いは確実に生じる。そういう自覚化に毎日、毎時間あくことなくチャレンジしていくこと。