瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

気づきが進むとき

2007年01月03日 | 瞑想日記
浮かんでは消えていく想念をジャグジーの泡にたとえた方がおられたが、心の深層から無数に飛び出ては消えていくという意味で、ぴったりの喩えだろう。日常生活の中で、その無数の想念の泡のすべてにサティ(気づき)を入れるのは、ほとんど不可能に思える。

しかしだからと言って、想念の噴出の前に全くのお手上げというわけでもない。想念・思考は、その性質にしたがってある程度分類できる。生活や仕事にとって必要な思考もある。かなり自覚的・意識的に目標を立てたり、計画したり、具体的な段取りを考えたりすることは、非常に重要なことである。

そこまで自覚的ではないにせよ、ちょっとした仕事をしている最中に、次にどうするかなどと考えることはかなり多いし、やはり必要な思考である。

問題なのは、今行っている仕事とは直接関係ないことに、ついつい心が飛んでしまうケースだ。そういう雑念・想念を観察すると、似たような事柄について同じようなことを繰り返し考えている場合が多い。こうした想念に関しては、かなりサティ(気づき)が入りやすくなっている。

最近感じるのは、ある程度こうした種類の想念に気づきが入るようになると、ある時点で急に視界が開けてくる感じがあることだ。噴出する無数の泡の前でも「お手上げ」という感じがなくなるのだ。気づきを入れるべき想念には、容易に気づきが入っていく感触が得られるようになる。

人によって差はあるのだろう。しかし根気よくサティを続けてれば急に視界が開けてくる時が、かならずやってくる。そして恐らく、視界が開けるという体験は、これからも何度もやってくるに違いないという予感がある。