互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
ヨハネによる福音書5:44
聖書がキリストによる人間の救いを教えているゆえに、人類の比類なき宝として世の終わりまで大切にされ、世界のベストセラーとして続いています。
もしも、無人島にもっていける本が一冊あるとすれば、多くの方が聖書を選ばれると思います。
しかし、聖書の目的は、ただ読まれ、研究されることではありません。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と39節に書かれています。
セシルという人はこう言うのです。「わたくしどもがもし、聖書の全編を貫くキリストという金線を認めないならば、これ鍵なくしてみことばを開かんとすることなり」と。
モーセと呼ばれる権威ある旧約聖書は、人がメシアのイエス・キリストを信じて救われるように書いてあるのです。
旧約聖書はその全体がメシア出現の預言を中心に書かれています。旧約聖書を調べる物は、メシアがどんな人物であるかを知る事が出来ます。当時のユダヤの学者は、もちろん
聖書を調べていました。しかし、学問的に調べるだけで、とどまったのです。
「窓を開けて神への信仰を投げ捨てれば、すぐにその窓から偶像がはいってくる」というドイツの諺があります。
聖書に示される神様を捨てる時、それに変わるお金、権力、快楽などを神として招き入れてしまいます。
ユダヤの指導者達は、聖書に示される神様を見失い、人からの誉れを求める生き方をしていました。「誉れ」は、わたしたちの心を喜びで満たし、志を強め、人生を励ましてくれます。
人にはほめられたり、認められたりする体験が必要です。しかし、「ほめ殺し」という言葉もあります。親の都合で子どもをほめたり、何かの策略をもって人をほめ、人を陥れることなどがあります。
人の褒め言葉は、警戒していかなければならない部分もあります。
人間のほめ言葉には、不完全な部分があるからです。
イエス様の敵対者達は、なぜ主を処刑したのでしょうか。主は威張らず、人からの名誉を気にされずに、貧しく・社会的に弱い人を助けることを大切にしました。
多くの偽りのメシアが現われました。彼らは自分の名によって勢力を拡大し、威張りました。しかし、彼らは忘れられて、この世の勢力を持たすして十字架の上で殺された主の名だけが残っています。
東方の博士達を導いた星は、私達にとっては、聖書です。聖書が主に私達を導きます。
主と出会い、新しい年は、神に高めて頂く生き方をしていきましょう。