「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい
マタイによる福音書10章7節
マタイは神の国を天の国と書き変えています。マタイによる福音書は「天の国」がイエスの教えと働きを通して、最後にイエスの十字架と復活によってはっきりと姿を現すという物語であります。
この箇所は12弟子の派遣の場面であります。なぜ12弟子を派遣されたのでしょうか。マタイによる福音書を読んでみましょう。 9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
ここに憐れみという言葉があります。苦しむ人々へのイエスの近づき方として用いられている言葉です。英語ではコンパシオンです。 この感情は、ただ気の毒に思うだけでなく、関心以上のことを示しています。それは分かち合うこと、他者の苦しみと切望を自分の苦しみと切望にすることです。
この主イエスの感情に押し出されているということです。
もう一つはマタイによる福音書を読んでみましょう。9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
収穫の約束がなされているということです。
どんなところに弟子達は派遣されるのでしょうか。それは命が欠乏されたところ、又周辺化され悪霊や不正義の霊が支配するところです。今日でも、このままゆくと世界は絶望に支配されるのではないかと不安を持つ人もいます。
そのような世界に伝道に出てゆく心得が示されています。
①旅には持ち物のリストがあって良いのですが、ここでは持ってはならないリストが書 かれています。そのまま受け取るのではなく、ここの象徴的な意味を理解したいと思 うのです。
履き物も杖ももっていってはならないとあります。パレスティナは岩山で、平坦で はなく、旅行には杖は必需品でした。おそらく、これは礼拝の行為を表しています。
人が神殿にはいる時に姿です。伝道は神の聖所に入る気持ちでなすのです。悔い改め と神の助けを祈りながらなすのです。
②愛の業はただでしなさいと勧められています。教会を自己目的化してはなりません。 もうけるために伝道をするのではないのです。共に重荷を負うためです。
何を伝えるのでしょうか。それは「天の国は近づいた」ということであります。7節の天の国とは神の国のことです。神の国とは神の支配されるところです。それは空間領域というよりも支配するという神の活動そのものです。主イエスにおいて神が働かれ、神自身の国が来るのです。イエス・キリストは神の愛と、その栄光の音信を私たちにもたらします。イエスのみ言葉や愛の行いによって神はその指を人間の方に伸ばされます。
伝道の働きにおいて、主イエスも私たちと共に働かれて、神の国をもたらして下さるのであります。
その言葉としるしによって、主イエスはすべての可能性のつき果てた私たちに新しい始まり、新しいチャンス、大いなる約束そして未来を示して下さいます。闇の力や悪霊の支配化に対して、イエスは宣戦布告し、私たちをその支配化からもぎとって下さるのです。 宣教の言葉によって人々は神の国の支配がすでに始まっていることを知るのです。
神の国は神様が実現するのだから、私たちは何もしなくて良いのでしょうか。賀川豊彦は神の国運動を始めました。貧者の解放、平和を実現することに専念しました。しかし、下から上への営みによって神の国が完成するのでしょうか。
神の国の実現をボーとして待つのではありません。逆に人間がそれを完成させるのでもありません。教会の働きは神の国を指し示す指先となることです。
「飢えている者にはパンが、住む家のない者には住居が、権利を剥奮されている者には正当な権利が、孤独な者には交わりが、規律にかけている者には秩序が、奴隷には自由が必要である。飢えている者を見過ごしにすることは、神と隣人に対する冒涜である。なぜなら、隣人の困窮こそ、神にとって最も近いことだからである。私の者であると共に又飢えている者のものであるキリストの愛のゆえに、われわれはパンをさいて彼らと分かち合って食べ、住む家を分かつ。もし飢えている者がその飢えのために信仰にはいることが出来ないとすれば、その責任は彼のためにパンを分かつことを拒んだ者に帰せられる。飢えている者にパンを分かち合えることは、恵みの到来のための道備えの行為である」。ボンヘッファー現代キリスト教倫理
キリストの力を受けつつ、互いに病める人の癒しに関わることこそ、神の国のしるしをたてることです。又社会の平和のために力を合わせることです。
宣教・交わり・奉仕によって神の国のしるしとなりましょう。
マタイによる福音書10章7節
マタイは神の国を天の国と書き変えています。マタイによる福音書は「天の国」がイエスの教えと働きを通して、最後にイエスの十字架と復活によってはっきりと姿を現すという物語であります。
この箇所は12弟子の派遣の場面であります。なぜ12弟子を派遣されたのでしょうか。マタイによる福音書を読んでみましょう。 9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
ここに憐れみという言葉があります。苦しむ人々へのイエスの近づき方として用いられている言葉です。英語ではコンパシオンです。 この感情は、ただ気の毒に思うだけでなく、関心以上のことを示しています。それは分かち合うこと、他者の苦しみと切望を自分の苦しみと切望にすることです。
この主イエスの感情に押し出されているということです。
もう一つはマタイによる福音書を読んでみましょう。9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
収穫の約束がなされているということです。
どんなところに弟子達は派遣されるのでしょうか。それは命が欠乏されたところ、又周辺化され悪霊や不正義の霊が支配するところです。今日でも、このままゆくと世界は絶望に支配されるのではないかと不安を持つ人もいます。
そのような世界に伝道に出てゆく心得が示されています。
①旅には持ち物のリストがあって良いのですが、ここでは持ってはならないリストが書 かれています。そのまま受け取るのではなく、ここの象徴的な意味を理解したいと思 うのです。
履き物も杖ももっていってはならないとあります。パレスティナは岩山で、平坦で はなく、旅行には杖は必需品でした。おそらく、これは礼拝の行為を表しています。
人が神殿にはいる時に姿です。伝道は神の聖所に入る気持ちでなすのです。悔い改め と神の助けを祈りながらなすのです。
②愛の業はただでしなさいと勧められています。教会を自己目的化してはなりません。 もうけるために伝道をするのではないのです。共に重荷を負うためです。
何を伝えるのでしょうか。それは「天の国は近づいた」ということであります。7節の天の国とは神の国のことです。神の国とは神の支配されるところです。それは空間領域というよりも支配するという神の活動そのものです。主イエスにおいて神が働かれ、神自身の国が来るのです。イエス・キリストは神の愛と、その栄光の音信を私たちにもたらします。イエスのみ言葉や愛の行いによって神はその指を人間の方に伸ばされます。
伝道の働きにおいて、主イエスも私たちと共に働かれて、神の国をもたらして下さるのであります。
その言葉としるしによって、主イエスはすべての可能性のつき果てた私たちに新しい始まり、新しいチャンス、大いなる約束そして未来を示して下さいます。闇の力や悪霊の支配化に対して、イエスは宣戦布告し、私たちをその支配化からもぎとって下さるのです。 宣教の言葉によって人々は神の国の支配がすでに始まっていることを知るのです。
神の国は神様が実現するのだから、私たちは何もしなくて良いのでしょうか。賀川豊彦は神の国運動を始めました。貧者の解放、平和を実現することに専念しました。しかし、下から上への営みによって神の国が完成するのでしょうか。
神の国の実現をボーとして待つのではありません。逆に人間がそれを完成させるのでもありません。教会の働きは神の国を指し示す指先となることです。
「飢えている者にはパンが、住む家のない者には住居が、権利を剥奮されている者には正当な権利が、孤独な者には交わりが、規律にかけている者には秩序が、奴隷には自由が必要である。飢えている者を見過ごしにすることは、神と隣人に対する冒涜である。なぜなら、隣人の困窮こそ、神にとって最も近いことだからである。私の者であると共に又飢えている者のものであるキリストの愛のゆえに、われわれはパンをさいて彼らと分かち合って食べ、住む家を分かつ。もし飢えている者がその飢えのために信仰にはいることが出来ないとすれば、その責任は彼のためにパンを分かつことを拒んだ者に帰せられる。飢えている者にパンを分かち合えることは、恵みの到来のための道備えの行為である」。ボンヘッファー現代キリスト教倫理
キリストの力を受けつつ、互いに病める人の癒しに関わることこそ、神の国のしるしをたてることです。又社会の平和のために力を合わせることです。
宣教・交わり・奉仕によって神の国のしるしとなりましょう。