イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
マタイによる福音書14:27
主イエスは弟子達を強いて、船に乗せて向こう岸に渡らせました。船はガリラヤ西北の町を目指しました。ところが弟子達を乗せた船は逆風のために前に進まなくなりました。波に悩まされ、弟子達は右往左往していました。
ガリラヤ湖は、絶えず揺れ動くこの世界を象徴しています。陸に比べて海は、変化しやすく不安定であります。そこは不可測性・不気味な環境です。
聖書の中では荒れる海は人間に襲いかかる悪の力にしばしば譬えられます。
ペトロを代表するキリスト者の少数者の群れもユダヤ教やローマの迫害を受けて、揺り動かされました。
この世を旅することは常に沈みかける危険にさらされます。
人生にも様々な波風と嵐があり、自分の知識や力だけではどうにもならないことが多くあります。わたしたちにも祈りが必要なのです。静かな山の上と、嵐の海に象徴される山の下の動揺は、祈りの世界と祈りのない世界の違いを現しているように思います。
山上の主イエスは、弟子たちの困窮に心を痛め、急いで山を下り、荒れ狂う湖の上を歩いて弟子たちのもとに近づきました。それは海の底へ引きずりおろすものとの戦いです。
人間を襲う死の力があっても、確かな基礎があるのです。波が押し寄せても揺るぎない岩があるのです。それが救い主イエス様です。
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
主イエスはわたしのところに来なさいとおっしゃっています。船にいるよりも、波の上の主イエスのところは平安であるというのは不思議な対立であります。ペトロにとって海上の安全地帯は、イエスのところにありました。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
嵐の海の中で、ペトロが一歩を踏み出し主イエスのもとにいったことは、他の弟子になしえなかったことです。本当の失敗は私たちが主イエスのところに踏み出さないことです。 イエスについてきた人は自分の家や周りを見ているともうとても立つ瀬がないのです。沈むばかりです。しかし、イエスを見ていると元気がでてくるのです。イエス様から目を離すと、もう駄目だとなる人たちです。
イエスだけが頼りであり支えであるという信条がここに示されています。
現代も、さまざまな嵐が逆巻いて、私達を襲うことがあります。主はそこにも生きて働いておられます。
私たちの生活は、嵐の中を歩く営みです。日常で、安全が確保された舗装道路を歩いていても、沈みかける危険は伴うことがあります。暗い海の中に身を沈めてしまいそうな時に、山でとりなしの祈りを捧げて下さったイエス様がそばにいらして下さり、私たちをすくい上げてくださるのです。
私たちの肉の目には主イエスは見えません。ある意味において、この記事のように「海を渡る舟にのっているのは私達だけだ」と思えるところに立っています。
しかし、私達の歩みは主イエスに覚えられているのです。主イエスが父なる神様に私たちのことをとりなしていて下さいます。そのとりなしの祈りに私達は支えられています。
そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」語りかけて下さるのです。
詩編107:20には、「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された」とあります。
「安心しなさい」という言葉は。9章の2節と22節の「元気になりなさい」と同義語です。不在の船に主が降りてきて、み言葉を語りかけて下さいます。山の上の平安を分けて下さり、元気を下さいます。
きっと後の時代の人にも同じ体験が与えられることを福音書記者が述べています。