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捨てられる、という感情と感覚と語義

2023-01-20 14:54:42 | 非物質的な知覚

邪魔する存在がいなくなると、「捨てられる」という感情がでてくる。

自分の近くに、今までいた人がいなくなると「捨てられる」という感情がでてくる。

でも、じゃあその人が近くにいると良いのか、というとそうでもない。

この「捨てられる」という感情が、むやみに暴走?している気がする。

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ここについて探索。

いろいろなイメージがでてくる。

ドラマで、恋人にすてられるシーン。

過去に自分が「捨てられる」と思った記憶。

子犬が箱にいれてすてられた映像。

いろいろな情報が混じっている。闇雲に。

「なんで捨てられるのが悪いことなのか?」という思考が一瞬うかぶ。

捨てる・捨てられるということに善悪はない。

どっちが捨てようが捨てられようが、その結果、それぞれが自分によりよい道を歩めば、むしろ幸せではないか。

そこでお腹が痛くなる。

捨てられる、ということに「衣食住がなくなる、お金がなくなる」というイメージがつきまとう。

たしかにそういう場合もあるだろう。

自分の過去生?っぽい情報で、自分がイスラエルのある民族で、国だかなんだかに捨てられ、水も食料もない砂漠を絶望の気持ちで進んでいこうとする、というのがある。

捨てられるに、国家からの追放があると、そこに深い絶望が絡みそうだ。

でも、それは「捨てられる」という言葉の定義に、色々な別の情報や感情や集団無意識をくっつけているからで、それを剥ぎ取ってしまえばいい。

別に「捨てられて」もかまわない。衣食住やお金や必要な縁や交流が残れば良いのだから。

すると、お腹の別の場所が「母親に捨てられたらどうしよう」という言葉。

まあ、昔ショックをうけることがあったしね

なかなかこれが頑固で、うまく納得してくれない。

じーっと目をむけていたら、小さな自分がじわじわと成長していき、「捨てられるというか、放って置かれたほうがいいよね」という。

捨てる・捨てられるの本質は、縁を切るということだ。

それを行うことで、次の自分がより幸せで楽しいところにいけばいいだけだ。

そう思うと、捨てられるというのは悪くない。

言葉の外聞が悪いように感じるだけ。

自分の居場所がないところからは、さっさと移動して自分が求められる場所に行けばいい。そっちのほうが幸せなのだから。

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