ダスカロスの本「クジラと泳ぐ」が気になって手に取るのだが、いざ読むとなるとなんか違うんだよな、となる。
で、この本を窓口にして繋がってみればいいのかと思って試すと、ダスカロスの応身?的な存在がいる。
で、なんかアチューンメントだかなんだかされたようだ。レイキの伝授に近いのかも。
さいきんヒーリングを色々試しているので、この力?能力?みたいなのも借りてやってみることにする。
ダスカロスの本「クジラと泳ぐ」が気になって手に取るのだが、いざ読むとなるとなんか違うんだよな、となる。
で、この本を窓口にして繋がってみればいいのかと思って試すと、ダスカロスの応身?的な存在がいる。
で、なんかアチューンメントだかなんだかされたようだ。レイキの伝授に近いのかも。
さいきんヒーリングを色々試しているので、この力?能力?みたいなのも借りてやってみることにする。
昨日の続き。
ビートたけしに興味をもったので、著作をいくつか読んでみる。
いままで、北野武名義の映画もみていないし、テレビでもきちんと見ていない。
だけど、本での自伝的な内容は、とても面白い。
浅草キッドを撮影した劇団ひとりは、youtubeにあげている浅草キッドの撮影秘話みたいなところで「武さんは神」という発言をしている。
これはグルジェフ式にいうと、ビートたけしという「H6」に感動したH12、という感じなのだろう。劇団ひとり自身、プロフェッショナル意識をもったH24以上の知性を持ち合わせていて、崇高なものをうけとる土台ができているのでは。だから、神であるビートたけしを崇敬し尊敬し、この映画を作った。
で、この映画自体は、H6を感じさせる気がする。H6を感じさせるものは、H12やH24も引き上げ育てられる。劇団ひとりの意識がこの映画にはとても重要だ。それは一見めにつかないが、この映画を保護し、視聴者に学びや師弟関係、永遠性というものを提示している。
ビートたけしと師匠・深見の関係性は、一見すると師弟関係だ。
だが、これはある意味、人間が自分自身の意識や囚われを塗り替え、哺乳動物や「流木」としての人間から、真の人間(アントロポス)になるための方法を象徴的に描いているとも言える。
浅草キッドのなかの「たけ」は、深見を崇高な念で師匠とみなした。それはビートたけし本人もそうだっただろう。著作などで「かなわない」などと言っている。
自分を超えた存在で、永遠性、神性を感じさせるもの。師匠であり、神でありH6。その存在を仰ぎ見、それに近づきたい、その知性が何をとらえているのかを知りたいと欲求し、その頂きにのぼるために自分で自分を変えていく。
これは「ヤコブの梯子」でもある。生命の樹でいえばマルクトからティファレト。タロットパスワークでいうと「世界」。世界は、門である。それは真の人間になるための最初の一歩であり、基本であり、奥義みたいなもの。
つまり、この浅草キッドという映画は、永遠性に到達するために、人はどうすればいいのかの、一つのヒントを提示したともいえる。それは、コロナなどで煮詰まった行き詰まった精神や人間に、大きな救いをもたらす。
そして、これは蜘蛛の糸のカンダタのようだ。ただ、「たけ」はカンダタとは違い、独り糸を登りきり天に至るのに成功したともいえる。
参考:http://from20180211.blogspot.com/2018/09/201809037.html
浅草キッドを見て、色々と刺激される。
普段は映画もドラマも見ないのだが、これを見て魅力的な役者とはなんだろうと考える。
私は演技の良し悪しはわからない。もちろんプロの役者の隣で、素人や下手な人間が演じていたらすぐわかるだろう。が、比較がないとわからない。
また、ジャンルによっても良い・上手いというのは異なるだろう。舞台などだと歌のうまさや踊り、ダンスのうまさがいるだろうが、テレビのドラマと、映画だとまた違うし、台本によっても違うだろう。シリアスものか、元々が漫画からきたコミカルなものか、など。
で、普通は肉体の容貌というものがでてくる。スター、俳優というものは、まず肉体の見目が麗しいというのが暗黙の了解だ。背が高くてかっこいい、綺麗、かわいいなど。あと自己主張も多少は強くないといけない。自己否定で自信のない人間は、そもそも「表舞台」に精神的に立てないし。これは生まれた環境や親など周囲のこともある。
そういう肉体の容貌うんぬん以外の部分、存在感とかオーラとか、スターといわれるための何かを育成するためには、グルジェフのいう「生きとし生けるものの図表」でいう、「人間」としての三つ組みを目指すのがいいと思う。普通の人間ではなく、哺乳類ではない、子羊ではない人間。
H6・H24・H96の三つ組である人間は、自灯明的な気質を持つという。わかりやすくいうと、自分の軸をもち、孤独であるがそれで何もこまらない。精神は充足して独りで立ち進み続ける。何か表現をすれば、それは恒星の力・思考を下ろすことになる。恒星意識というのは、H1ではないが、その片鱗を感じさせる。永遠なもの、久遠なもの。神のような崇高なもの。鳥肌がたつような感動。それを感じるのにはそれに見合う、受け手側の知性というか感性が必要ではあるが、これを発揮できるようになれば多くの人間をひきつけて魅了できるはず。
そうなると、舞台とかテレビとか映画とか、そういうところに出る人間というのは、表現技術や外見以外に、オーラ的なものを養う必要性がある。で、この6・24・96の三つ組に近づくほど、自分に不要なものは去り、必要なものが手に入る。それは機会や環境や才能や能力。
ただし、もっとも重要なことは、自分がその三つ組としての人間、アントロポスとしての存在になるということを「あきらめない」ということ。あとは、人間世界でのバランス。
とある人のことをすごく羨ましいと思ってしまい、その感情が久々に強烈だった。
ヘミシンクのOpeningTheHeart3「愛の癒す力」を聴きながら、その人たちを登場させて対話をしていたら、その羨ましいと思う気持ちが、自分のこれまでの半生を主体に考えていたからだと気づいた。
自分のこれまでの半生がつらく不運なもので、苦しいから、若い時から評価されたり、成功したり、家族に愛されていたりする他人の姿を見ると苦しくなる。嫉妬、羨望。
「自分のこれまでの半生がダメなもの」という意識の囚われがあるから。
登場させた人が、近寄って私にハグして「あなたは、私たちには持っていない素晴らしいものをもっているじゃない」と言った。そうしたら涙がでてきた。こうして自分にむかって、無私や無償の愛情でもって、褒めてくれたり評価してほしかっただけだった。
で、自分は現実世界で評価されたという感覚があまりない。でもそれは、自分で自分を評価していなかったし、どうせ自分は評価されない人間なんだと意識設定してしまっていたから。
なので、つらく、不運な半生という思い込み自体を全て破棄した。古い殻を破り捨てるように。古い服はもう二度と着ないように。
パラマハンサ・ヨガナンダ
セルフ・リアリゼーション・フォローシップより
『
ヨガとはなんですか?
ヨガという言葉は、個人の意識(魂)が、神の普遍の意識(スピリット)に「合一」することを意味しています。ヨガは今日、様々な形式のものが実践されており、中でも一番わかりやすい身体を用いた形式のものが普及していますが、ヨガ実践の最大の目的は、個々の魂が、無限者(神)と一つになることです。』
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『
私たちは時々イエスと比肩しようとする不遜な者との非難を受けたりします。それは共同の世嗣(せいし)ということの意味を人々が知らないからです。
(中略)
この共同の世嗣とは、同じ力を開き、同じ程度の悟りに達し得る可能性があるということなのです。』
ヒマラヤ聖者の生活探求II p170
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※世嗣(せいし)・・・天子、諸侯、大名など、貴人のあとつぎである子。 また、あとつぎ。
『
イエスが『我はドアーである』と言われたのは、各人の魂の中にあるI AM(神我)(われ神なり=実相)が、神としての偉大なるI AM(真我)の生命と力と本質とが、各人を通じて具象化するドアーであることを言い表したのです。
このI AM(真我)が顕われ出る方法は只一つあるだけで、それは考え、想念、言葉、行為ということです。このI AM(真我)即ち神なる実相 − それは力、本質、智恵である − は意識だけによって形が与えられる。
この故に大師キリストは、『汝の信ずるが如く汝になれ』と言い給い、又『信ずるものにはすべてのことが可能である』と言われたのです。 』
ヒマラヤ聖者の生活探求I p65
『(5)(i)
人間の実相は肉体に非ず、様々の心に非ず、神に等しいものである。故に、人間の実相は神と等しく無限の知恵、愛、生命、美、歓喜、調和、豊富、等である。それらをどこまで出すかは、本人が自分の能力、才幹をどの程度までと思い込むか、即ち「私はどの程度まで…である」(I AM)かによって決定される。故に、人間は常に「私は無限(例えば愛、知恵など)である」と観ずべきであるとの意。 』
ヒマラヤ聖者の生活探求I p24
『
我が外より我が内なる沈黙に向かった時、われは神との意識的な融合を望み得るのです。神は人間に活用される為にあるのであり、人間は常に神を活用するようになることを、いつかは悟る時が来るでしょう。その時、人間が神の力と一つであることを悟るでありましょう。又、その時初めて人間というものが本当によく理解されるでしょう。
(中略)
人間は今日までのところ、これまでしてきたよりももっと偉大なる神の業をなし得ることを学びとっていない、それは神の力の偉大さを知らず、神の力は人間が使用する為にあると言うことを知らないからです。 』
ヒマラヤ聖者の生活探求I p60
『
菩提樹には、細胞の生命エネルギーに有害な影響を与えるような腐朽とか、老衰とかいう自然法則があるとは考えられない。神聖なる人体もまた同様である。
人間の場合も、事故でない限り死や老朽という如き自然律はありえない。人間の肉体又は細胞群には、不可避の老化と言うものや人を次第に麻痺させるようなものは何等存在しない。だから死という事故は避けられるものである。
病とはとりわけ安らぎよりの分離(dis-ease)、安らぎ−サンスクリットで言うサンティ(心を通して肉体に映じた魂の甘美な、喜ばしき平和の状態)−の欠如である。
人類には老衰の体験が共通しているが、この老衰と言う言葉自体が実は老衰の原因、心と肉体とのある病的状態についてのを蔽いかくしている。事故でさえ適当な精神状態であれば、これを防ぐことができるものである。 』
ヒマラヤ聖者の生活探求I p52
『
タルムードのテクストが完全記号であるのと同じ仕方で、「他者としての師」は「完全な師」である。その叡智が「弟子」の理解能力を絶対的に超えた知的優位、それが「師」である。
師は弟子に向かって「こちらに向かってきなさい」と呼びかける。その呼びかけに応えて、弟子はおのれの外部へ身を乗り出す。
「おのれの外部へ身を乗り出すもの」、それが「主体」である。弟子とは、師からの呼びかけに応じて、おのれの外部に向けて歩を進める者のことである。
』
他者と死者 ラカンによるレヴィナス(内田樹)第二章、p57
サクッと恒星探索した。
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20220125 22:35 くじら座恒星探索
・メンカル
最初グッと重くらいプレッシャーがくるが、意図をしなおすと領域に入れなくなった
・ディフダ(デネブ・カイトス)
無、という感じ。反応なし
・カファルドジマ
暗い画面に、泡立つようなパチパチした色味みたいなものが見える。細かい泡。
・バテン・カイトス
無。反応なし
・ミラ
夜の海、満点の星。とても美しい海の上に鯨が見える。
ザバーっとイルカのように海面からとびでてまた潜ったり。
その様を、人型をかろうじてとどめが白い紙のような自分が、浅瀬で膝をまげて四つん這いになっている姿で、海が浅く膝を濡らしながら見ている。
とても艶やかで誘われているような、魅力的な領域
・デネブ・アルゲヌビ
白い。ミラの後だと不満が出てくる。「なぜミラから引き離したんだ」という不満
・デネブ・アル・シャマリー
おちつく領域。茶色っぽい?何も見えないが、なんだか歓迎されている?
・τ星
オレンジの星に見える。
・オロチ(モンスター銀河)
つかまって、ぐぐぐーーーっと重力がかかって、ペッと捨てられる。
・くじら座全体としての探索
「乗りこなせ」というメッセージ。白線でかかれたイラストっぽいクジラ。その背中に乗せられている点が私らしい。
集団無意識とか、自分が無意識にあらがっていた大きい(と思われていたもの)を乗りこなせ、という意味らしい。
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ミラにいると、とても美しくうっとりする。
ちなみに、ミラは「オミクロン」星らしいw
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ここまでで22:46。11分。
恒星探索を最初にサクッとやるときはこれくらいでも自分的にはOK。
ただし人に対して有効かはしらない。
ダスカロスに関連した本「クジラと泳ぐ」を読んだ。松村潔とも関連する。ダスカロスは愛称・通称で本名はスティリアノス・アテシュリス(Stylianos Atteshlis)。
この本で印象的なのが、ダスカロスはチャネリングに反対していたと言うこと。チャネリングは自分自身を明け渡さないといけないからで、そのリスクを懸念したからだと思う。かわりに提案しているのがアチューンメントやアトワンメント(At-one-ment)。
アチューンメントが同調で、アトワンメントが一体化で、アチューメント自体は人間がもつ元々の潜在的な素養。それを拡大させたのがアトワンメント。
これはたとえば、蝋燭にともした二つの炎があわさってひとつに見える感じ。蝋燭ははなせば、ふたたび別に・・・二つになる。それは、人間の存在に害しない範囲で、智慧など好ましいものが一体化する手法に思える。
で、これを読んでいたら、くじら座の探索を本気でやろうかなと思い始めた。自分はキロンがくじら座にあるので何となく引け目というか腰が重かった。が、これを機にというか、ミラから既に誘いを受けているし、自分が海獣 κῆτοςとしての自覚・記憶を求められているというか自立というか・・・まあ、20審判のあとにでてくる物事いうのは「自分が、自立して、自覚して、物事や世間に影響を与えている」ということを、、、しつこいほど嫌気がさすほどにPUSHさせられていることの自覚・・・でもそれは、「無意識」の範囲内で済まされられる厄介・・・というひとつの事例の紹介になるのかもしれない。
ひさしぶりに「ヒマラヤ聖者の生活探究」を読みたくなったので読む。
はじめて読んだ時はクリックアウトばかりで、数行読むだけで眠くなっていた。
ここで書かれている神はなんなのかと言うと、自分はグルジェフのいう絶対H1が近いのかなと思う。
愛、久遠、永遠、無限、宇宙。神我、内在神、キリスト意識など。