無意識に我慢する癖について。
タロットの15悪魔の姿がチラチラするので探索する。
今回は、悪魔というか、アルゴルが出てくる。
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手にはいりにくい高額なものを、欲しいと言ってはいけない。
値段が高いものコトを選ぶと怒られる。
「欲しい」ということ、願うこと、高次存在に要求すること、伝えることは別に罪ではない。
高次存在からしたら不思議で仕方ない。
願えば、意図すればいいだけなのに。
なぜ自分の願いを伝えること自体に罪悪感を持つのだろう?と。
「そうだね。まったくもって不思議だよ」とアルゴルが言う。
「まあそれも人間生活のなかの癖、思考パターンなだけなんだけどね」
叩かれなくても、キツい大きな言葉、汚い言葉は暴力だ。
とくに耳の良い人間にとっては、普通の人よりはずっとずっと。
聴覚を通じて、脳にこびりついている感じ。
もうそれらすべてを手放す、とアファメーションした。
本当に欲しいものを、欲しいと言っていいしやっていい。
なんとなく気が乗らないことは、結局やっても満足度が高くない。
そこそこの結果や成果は得られるし、たぶん普通だったらそれは「良い結果」に見えるかもしれない。
だけど自分にとって「こんなもんか」となんとなく不満が燻り残っている感じがある。
それは、常識からしたらお得で、良いといわれることかもしれないけど
自分にとって違うなら、やりたくなかったのなら、やりたくないのなら、やらなくていい。
「それは自分にとって不満だった。実は実入りの少ない行為だった」と感情をを覆していい。
自分は、別にそれがやりたかったわけではないのだ。やりたくなかった。
そういうことは、もう今後はしなくていいし、断っていい。
こういうことは何度もアファメーションした気がするんだけど
まだまだ残骸、残滓、こびりついているものがあったようだ。
で、今回このことに気づいたら、ここしばらく続いていた便秘が改善していた。
気がついていなかったけど、腸のほうはずっとこの「なんとなく無意識の我慢」に敏感だったのかも。
腸内細菌とか食べ物が水分量が、とかではなく。
自分が無意識に我慢して、やりたいことをやらず、やりたくないことをやっていることにたいして。