小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

胃ろうの功罪を考える

2011年12月16日 | 社会戯評
何年か前に、叔母が、脚を骨折し、手術が失敗して、寝たきりになり、嚥下が、不調になるに及んで、結局、胃ろうを実行したところ、見る間に、元気になったが、逆に、胃は丈夫になったものの、まだら呆けが出てきてしまった。その後、食べる実感がないせいか、食事をしていないとか、もっと、食べたいということを口走るようになったと、従兄弟は、言っていた。病状が回復するのであれば、胃ろうも人工栄養補給の選択肢の一つではあるが、結果として、「尊厳の無い延命」につながり、自分の死期までもが、肉体の自然な衰えすらも、ママならぬようになってしまうのでは、生前から、意識のしっかりした時から、事前に、選択するかどうかを、しっかりと、取り決めておかなければ、本人も、家族も、たまったものではない。医療技術が、進歩するにつれて、こうした難しい問題が、考えも及ばなかった事態が、生じるものである。何とも、皮肉である。脳死の問題や臓器提供のように、本人の意思が、きちんと、反映されるような仕組みが、たてられることを望みたいものである。90歳近くになっても、寝たきりで、本人の意思もはっきりしなくなってくると、この先、どのような判断が、下されるのであろうか?難しい課題である。少なくとも、自分は、胃ろうが、「尊厳の無い延命」になる場合には、行わない意思を事前に、確認しておこうと思う。



手作り干し柿を食す

2011年12月15日 | 自然・植物・昆虫
手作り干し柿を食す=
10月の中旬頃に、仕込みをしたから、約2ヶ月にもなろうか?形は、ほぼ、半分から、3分の1に、乾燥して、小さくなってしまった。もっとも、全部が全部、上出来な訳ではない。どうやら、気温が、乾燥時に、高かったのと、陽当たりが、悪かったせいだろうか、一部、蒼っぽい、黒カビが、表面に、生えてしまった。市田柿のような白っぽい感じの綺麗な上品なカビではない。仕方なく、諦めることにした、もっとも、そういう干し柿に限って、何とも謂われぬような果肉が、ゼリー状に柔らかく食べ頃になっているのは、大変皮肉である。種は、なかった。果肉は、一部、一寸、固いところがあったものの、味は、噛むと同時に、ジュワッと甘いゼリー状を感じる。これが、元々は、渋柿だとは、誰が、想像しえようか?去年に続き、自分ながら、なかなか、良い感じに出来たものである。(自画自賛である)反省としては、乾燥工程と陽当たり場所・時間の管理の問題のようである。来年は、吊す場所選びと、寒くなる頃合いを、再検討しなければならない。どうやら、鳥は、つつきにこないようである。本格的には、網で、乾燥させる方法も、候補に、上げなくては、ならないか?来年の愉しみが、また、ひとつ、増えた。


健康について再考す:ラクナ梗塞の検査

2011年12月14日 | 自然・植物・昆虫
定年になってから、これからだというのに、大体、世間の相場では、体が、どこか、痛み出すと謂われている。そもそも、臓器という物は、何の問題もない時には、その臓器が、体の何処にあるのかを、自覚しないものである。逆に言えば、具合が悪くなって初めて、ああ、ここに、胃があったのかとか、心臓があったのかということが、改めて、再認識されるようである。謂わば、私が、Quality Assurance Systemで、海外で、教えたところの「信号機理論」と同じである。要するに、赤信号が点る前に、黄色い信号の点滅、或いは、青信号から、黄色に変わるときに、事前に、リスクを察知するシステムを構築することである。自分の体も同じである。

「ラクナ梗塞」の原因は、「高血圧」による細い動脈に発生する動脈硬化が、最大の原因らしい。結局、動脈硬化を発症すると血管の内壁に高い圧力が掛かり、内壁を傷つけて、堅く、もろくし、血管内の血流が狭くなり、ついには、途絶え、脳梗塞を引き起こすことになると。ラクナとは、ラテン語で、(空洞)という意味だそうである。「楽な」梗塞ではない。誤解のなきよう、間違わないこと!
運動麻痺やしびれの感覚障害が主に、起こるらしい。段階的に、少しづつ進行するようである。これを、「無症候性脳梗塞」と呼ぶと、或いは、症状が出ないので、「隠れ脳梗塞」とも、呼ばれると。更には、発作がない状態でも、脳の色々なところに、発生して、少しづつ、症状が進行する場合もあると、「多発性脳梗塞」と、いうらしい。この段階になると、言語障害、嚥下障害、認知症の症状が、現れてくると、、、、、。ラクナ梗塞は、安静時に、特に、睡眠中に発症すると、朝起きた時にも、起こることが多いと、、、、。

今にして思えば、父も、足の具合が、悪くなり、それが原因で、転倒したのではなくて、逆だった可能性が高く、小さな脳梗塞の積み重ねが、徐々に、悪化して、最終的には、脳梗塞、痴呆へと進んでいったようである。これは、医者からの見立てである。自分は、3年前の脳ドック(MRI)で、何ごともなかったのに、その時、脊柱管狭窄症と、診断されたが、今や、再度、頭の方も、再スキャンしてもらわなければ、ならないようである。左手指の痺れとも、違和感ともとれる感覚の衰えは、頸椎や、腰椎ではなくて、実は、ラクナ梗塞からだと謂うことにでもなれば、一大事である。この冬は、徹底的に、体と頭のスキャンか?自分のPCは、毎日、バージョン・アップで、ウィルス・スキャンしているのに、自分の体は、後回しだったことを、反省することしきりである。何とも、皮肉である。



すわ、我が老犬の介護開始か?

2011年12月13日 | 自然・植物・昆虫
すわ、我が老犬の介護開始か?=
元々、外で、飼っていたので、室内での排泄などは、特別な躾けもせず、散歩の都度、処理していたが、今では、念の為に、室内では、一応、おむつを着けるようにしていた。もっとも、このおむつが、時として、知らぬ間に、外れて、うんちやおしっこをしたりもする。もっとも、必ず、嫌がって、その前には、フェーンとか、吠えて、「おしっこしたいよ、」とばかりに、催促するのであるが、こっちも、かかりつけの専門の看護師ではないので、そうもゆかない。たまたま、朝、女房殿が起きてきたら、廊下に、うんちの塊と、おしっこの後が、防水シートの上に、残っていたと知らせてきたので、急遽、回収処理作業に当たった。私の仕事である。うんちは、一つを回収したものの、もう一つは、危うく、知らずに、スリッパで、踏んづけるところだった。本犬は、ケロッとした顔で、「早く、朝の散歩へ、連れて行かないのが、悪いのだ!」とばかりに、玄関のドアーへと、足早に、移動して行き、散歩の準備・催促である。目の不自由な人の盲導犬などは、どうしているのであろうか?決まった時間と場所で、きっと、訓練されているのであろうが、それにしても、万が一にも、粗相をすることがあるであろう。しかも、そんなに、長生きもしないだろうから、きっと、苦労は、計り知れないものがあろう。定期的に、ションプーもしなければ、ならないだろうし、耳の掃除もしてやらなければならないだろうし、そういうケアーは、誰かが、定期的に、面倒を見に来てくれるのだろうか?要らぬ心配を、思わずしてしまう。両親の介護で、合計、7年ばかりを費やしたが、いよいよ、今度は、我が老犬の番だろうか?そして、その後には、今度は、自分自身の順番だろうか?まだ、冗談を言える余裕があるか!?



季節の日課=ケヤキの枝払いをする

2011年12月12日 | 自然・植物・昆虫
季節の日課=ケヤキの枝払いをする
結婚した頃に、女房殿の実家に植えられていたケヤキと思われる大きな樹のそこから、こぼれた種から芽生えた小さな芽を土ごと、自宅の車庫の脇に、移植したところ、あっという間に、巨木となり、秋の黄色い紅葉を、毎年、楽しませてくれる。しかしながら、やっかいなのは、その樹木の旺盛な生命力で、農家の実家のように、広い敷地であれば、放っておいても、問題がないが、都会の狭い敷地では、その縦横無尽な枝の拡がり、落ち葉の処理、等、毎年、12月中旬には、冬支度で、枝を払うことが、季節の日課にいつしか、なっている。今年も又、その季節がやってきたが、年々、頭でっかちになり、又、お向かいさんからは、程々に、切り詰めて、殺さないように、来年も、黄色い紅葉が楽しめるように、御願いしますと、言われてしまった。脚立で、ブロック塀によじ登り、交代で、枝を払ったが、その後の葉っぱ取りと、枝を短く切る作業とそれを、紐でくくる作業など、結局、午前中一杯、掛かってしまった。たった1本で、この始末だから、大きなお屋敷だったら、職人の手が必要になるだろう。そこは、エコだから、自前の労働力で、趣味と、堆肥作りの実益もかねて、、、、。我が老犬は、手伝いもせずに、いつもの午睡ならぬ、朝食後の爆睡中である。残るは、姫リンゴの樹の剪定だけである。



呼吸法の再考

2011年12月11日 | 自然・植物・昆虫
一日のうち、何回、深呼吸をするのだろうか?1週間では、1ヶ月では、1年では、どうだろうか?ゴルフのスタートの時に、ドライバー・ショットの前に、深呼吸をすると良いと言われて、実践すると、逆に、チョロったり、OBを打ってしまった経験は、数多くあるが、、、、、。ラジオ体操くらいしか、せいぜい、深呼吸などは、日常の生活では、やっていないか?ヨガやティラピスを習い始めたら、否応なく、この呼吸法が、ストレッチや深部腹筋の強化の課程で、取り入れられる。もっとも、意識的に、呼吸法を取り入れないと、すぐ、素人では、苦しいと呼吸を止めてしまうものである。下腹を、ぐっと、引っ込めて、深部の腹筋が、鍛えられるように、呼吸法を取り入れていると、どういう訳か、下腹の腹筋周りの脂肪燃焼が知らぬ間に、進んでくる。何と、体脂肪が、急激に、落ちて、腹筋が、若いときのように、割れてくる。新日本プロレスの棚橋選手のようには、ゆかないが、、、、、うっすらと、割れてくるのが、鏡を見ると、確認出来る。これが、呼吸法による深部腹筋の鍛えられた証拠なのであろうか?どうやら、ストレッチ単独では、駄目なようである。必ず、「呼吸法をセット」で、やらなければ駄目なようである。皆さん、騙されたと思って、試してみては如何なものだろうか?外為為替FXのように、大損をすることはないことは、受けあいである。腹筋運動も、腹筋をスクープ状に、意図的に、へこませて、呼吸法と一緒にすることが、肝心なようである。体脂肪率が、激減するのは、受けあいである。

新しい型のうつの記事を読んで

2011年12月10日 | 社会戯評
新しい型の鬱病が増加しているという。何でも、自己愛が強く、うまくいかないと、他人のせいにしたがる新手の鬱病のようである。自己愛性人格障害に近いそうである。これまで、「逃避型」、「未熟型」等のマイナス・イメージで、語られてきたが、「dysthymic disorder(気分変調性障害)= ディスチミア親和型うつ病」と謂われているものらしい。従来の型とも違うらしいとも、、、、、、。

メランコリー親和型うつ病(従来型のうつ病)年齢層:中高年層
病前性格:責任感や役割意識が強く、自分を追いつめて(自責的になって)発症する。
仕事熱心で社会的にも、家族的にも、成功している場合が多い。
診断に対する態度:初期にはうつ病の診断に抵抗する。
薬物への反応:良好で、中止まで持っていける。
経過:休養と服薬で軽快しやすい。病み終えて、新たな役割意識を獲得するに至る。
自殺傾向:完遂しかねない熟慮した自殺企図。

ディスチミア親和型うつ病(新しいタイプのうつ病)年齢層:青年層
病前性格:役割抜きでの強い自己愛と漠然とした万能感を持ち、挫折に際しては他罰的傾向を示す。もともと仕事熱心ではない。社会的役割で成功する前に、回避的となり職場を移動しがち。
診断に対する態度:初期からうつ病の診断に協力的だが、症状からの離脱には消極的。
薬物への反応:部分的で、なかなか中止できない。
経過:休養と服薬だけでは慢性化しやすい。病み終えず、どこからが病気で、どこからが生き方(人格)かが不分明。
自殺傾向:衝動的な自傷行為、大量服薬など。

戦後の、経済的には比較的恵まれた環境に生まれた現在の青年層は、規範よりも自由を尊重する風潮の中で育ったが、近年、職場は激しい競争に曝されており、過酷なノルマを課すようになった。若者は就職後、早々と挫折を味わうが、そのような困難な状況を何とか切り抜けるための、人間関係の構築が不得手な人が多く、その解決策として、他罰的な感情を抱き、逃避的になってしまう。するとさらに叱責される結果となり、悪循環が形成され、その葛藤に耐えられなくなってディスチミア親和型うつ病を発症する。要するに、このタイプのうつ病は、規範よりも自由を尊重してきた風潮と、過酷な現実社会のギャップを反映したものである、というわけです。、、、、、、、、、と説明にある。
更には、こうも書かれている。訴えを傾聴し、時間をかけて問題点を整理し、患者と協同して解決策を見出していく。職場への回避の気持ちが強い場合は、復帰へのリハビリテーションも重要である。従来のうつ病治療の原則であった、「まずは休むこと、薬を飲むこと」、だけでは置かれた立場が悪化して、病気が遷延化しやすいことを念頭に置く必要がある。、、、、、、、とも。

私は、過去2回程、従業員の採用の際に、鬱病患者と接点があった。一度は、全く見抜けず、採用後、薬の大量服用で、突然、無断欠勤、2度目は、履歴書に、空白期間を発見し、質問したら、完治の診断書を見せられた。友人が経営するIT会社や、大手広告会社の人事部の友人や、出版社に勤めていた友人は、まるで、掃きだめのような部署で、彼らの面倒を任せられ、こちらが、逆に、鬱病になりそうになったと、謂っていた。子供の時から、飯を喰うのも、競争だし、すし詰め教室に、55人~60人も、押し込まれて教育された世代には、全く、ゆとり教育や、25人学級などは、夢の世界の話であるが、「心の風邪」などと、簡単に、言っていられる程、実際には、生やさしい状況ではなさそうである。何でも、神経症や、軽い気分の落ち込みまでも、ある種のガイドラインに沿って、薬を処方されたり、鬱病とされたら、たまったものではない。適度の運動と、心と体のバランスをメインテナンスすること、今まさに、必要とされているようである。家族という自分を視てくれる客観的な鏡になってくれる眼も、必要であろう。ヨガやティラピスの呼吸法も、良いのではなかろうか?温泉に浸かると、全身の体内の血流が、つま先から、頭のてっぺんまで、まるで、入れ替わったような気がする。これを毎日、欠かさずやっていたら、防止になるのだろうか?



我が老犬に、散歩用冬着を作る

2011年12月09日 | 動物・ペット

といっても、私が、縫ったわけではない。せいぜい、ボタン付けか、雑巾を縫うくらいの小学生に毛が生えた程度の裁縫の腕前では、採寸して、型紙を起こして、縫製するという技量は到底ない。もっとも、かく言う私は、その昔、防寒衣料着や、ジーンズ、靴下、女性下着の縫製工場管理をして、英文で、縫製仕様書を海外や、国内に、発注し、ストーン・ウォッシュまで、やっていたことがあるが、、、、、、なかなか、自分では、ミシンを使いこなせないものである。我が老犬も、来年2月には、推定、満17歳になろうとしているが、東京の城南島にある動物愛護センターから、2日に亘る講習の末に、里親として、認定されて、生後3ヶ月の時に、貰い受けてきて以来、ずっと、これまで、外で、飼っていたが、寄る年波には勝てず、耳も目も、ほとんど、機能せず、衰えが進んできたので、今年の初めから、室内で、飼うことにした。冬場は、室内外の気温差が、大きいので、女房殿に、頼んで、散歩用冬着を、我が老犬が大好きだった亡くなった母の冬用の分厚いスラックスを再生利用して、作って貰うことにした。犬用レインコートの型や、HCで、販売されている既製品の大きさを参考に、まずは、型紙を作り、それに沿って、微調整を加えながら、最終的に、マジック・テープで、止めるような仕様で、完成した。少し、柄が、年寄りじみているので、(もっとも、我が老犬も、人間で言えば、88歳程度なので、仕方ないか?)お尻に、アクセントとして、赤いリボンを、添えてみた。本人は、全く、嫌がりもせず、いそいそと、ルーティンの朝の散歩へ、喜んで(?)着用して出掛けていった。とんだところで、古着の再利用がされたものである。いよいよ、本格的に、寒くなり、冬の到来であろうか?作った甲斐がありそうである。母もあの世から、嬉しく思ってくれているだろうか?



タイ従業員へのビザ発給に思う

2011年12月08日 | 社会戯評
タイの洪水被害により、数千人ものタイ従業員が、日本に、ビザを取得して、やってくると、成る程、現実は、逆説的に謂えば、それ程までに、技術移転が完了していて、産業の空洞化(?)が、現実化している訳であることがたやすく、これより、読み取ることが出来る。確かに、経済の原理原則から考えれば、バック・アップを、国内でも、2重に、設備と人手を持つ馬鹿はいないはずである。ITのクラウドで、出来るデータのバック・アップ等であれば、いざ知らず、、、、。少子高齢化の流れは、止まるところを知らない以上、技術移転と新しい産業の米を、創出する戦略を具体的に、提示・実行することこそが、喫緊の課題である。さもなくば、若者の就業率の低下を、ますます、高齢者の雇用増が、助長することにもなりかねない。今更、教育・訓練をする必要のない、多少、肉体的に若者に劣っていようが、過去のノウハウを、若者に、無償で、伝授してくれる高齢者労働力は、考えてみれば、便利である訳だ。人件費というものには、こうした人材開発費・教育訓練費が、含まれていることを、とかく、我々は、水のありがたみ同様、忘れがちである。もはや、時代の歯車を、無理矢理、後戻りさせることが出来ない以上、若者と女性と高齢者と機械が、お互いに、棲み分け出来るような新しい産業構造を、新しい移民政策も含めて、考えていかなければ、いつまで経っても、同じことの繰り返しであろうし、空しく、空洞化という言葉を叫ぶだけで終わってしまう。3Kという言葉も、やがては、タイやベトナムでも、同じような意味合いをもつことになり、やがては、彼の国も、又、同様に、バングラデシュや、ミャンマーに、とって変わられることは、歴史の必定であるし、現実的に、その流れは、既に始まっている。既に、繊維産業では、何年も前から、現実味を帯びている。もはや、産業の空洞化等という優しい言葉では、済まされないような事態に、立ち至っているようである。そのことが、このニュースからも、ひしひしと、伝わってくる。若年の日本人労働者が、タイ人の有能熟練技能者に、ノウハウを逆に、教えて貰う時代が、つい、そこまで、否、もう既に、来ているのかも知れないが、日本人は、まだ、深刻に、そのこと自体に、そして、その先にあるもっと、もっと深刻な事態に、気がついていないのかも知れない。



Talk in Fukushima と新たな情報発信手段

2011年12月07日 | 社会戯評
Facebook の友達のリンクから、約140分程のUSTREAMによる京都・新宿をSKYPE で結んだ福島再生の会の討論を、情報発信する新たなネット・メディアを活用したサイトが、紹介されていたので、立ち寄って見た。確かに、これまで、YouTube やUSTREAM、ニコニコ動画というのは、知ってもいたし、時々、時間があれば、見たりもしていたが、Global Voices from Japan (GVJ)というのは、今回、初めて知った。政府による海外メディア向けの情報発信の拙さは、そのまま、多言語への翻訳の問題だけではなくて、確かに、こういう新たな情報発信メディアへの対応が、必要・不可欠なのであろう。大阪の劇場型、マス・メディア人気投票型のどこかの政治家の手法とは、対局をなす下からの新たな市民型運動の新たな提起になる可能性を内在しているように思える。しかも、2次加工で、日本で学ぶ留学生による自国言語への翻訳や、母国への情報発信であれば、更なる自前の情報発信が、可能となるであろう。知りたい情報源へ、アクセスでき、又、双方向で、同時性を有しつつ、或いは、後日加工できたりと、様々な情報を自ら発信したり、受けたり、自ら、判断したりと、、、、、、。これまでの受動的なマス・メディアからの解放ともなろうか?メディアとITが、間違いなく、融合しつつある現状を肌で感じた。ベトナム語や、韓国語・中国語・モンゴル語・イスラエル語、英語等で、、、、、。確かに、自分の知りたいと思う情報を知りたくても、マス・メディアでは、それも、実現が難しく、ある種の情報操作・規制も、行われているかも知れないし、アクセスの方法が、皆目わからない。それに較べて、自分の判断で、ネット上で、ある情報発信を選択、受発信でき、更には、判断し、Plan Do See Check and Action ではないが、最終的に、行動へ至る、世論の形成までも、その延長線上では、視野に入れることも、又、その地平もやがて見えてくるように思われる。それにしても、落ち葉や、土壌の除染は、大変な課題である。
一寸、長いかも知れませんが、サラリーマンの人は、飛ばし飛ばしででも、視る価値はあるかと思います。その昔、会社が、数百万円も出費して、購入したテレビ会議システム機器は、一体、何だったのでしょうか?あの機器は、どうなってしまったのでしょうか?

Talk in Fukushima on USTREAMのサイト:
http://www.ustream.tv/channel/talk-in-fukushima
福島再生の会サイト:
http://www.fukushima-saisei.jp/

English Haikuを発句する愉しみ

2011年12月06日 | 俳句・漢詩
実に、久しぶりである。もう、2年くらいも、過ぎてしまっただろうか?創作意欲とお題とが、なかなか、マッチしなかった為だろうか、それとも、ほとばしり出る創作意欲が欠落していたためであろうか?いずれにせよ、Hot Spring Bathsというお題が、身近なものだったので、又、ペンを執ろうと思った次第である。David McMurray先生に、前回同様、校正・加筆して貰ったので、技術的にも、これまでの無手勝流を、多少、脱し得ていようか?日本語の5・7・5ではなくて、2・3・2の音節を使い、簡単な名詞を使用して、情緒を叙述する英語俳句は、一種のわかりやすい情景詩を書くような感じに近い。正岡子規は、根岸の家で、脊椎カリエスと闘いながらも、その病の床から、広くはない庭を眺め、俳句・短歌の革新を迫り、虚子や碧梧桐も、これに倣った。眼を閉じれば、そこには、無限の肉体を解き放つ思想性の自由な空間があり、限りなく、その自由を、思う存分、愉しむことが、この言葉の精神世界にはある。季節のふとした移ろいや、小さな草花の美や風景の情景を、わずか17文字の中に、凝縮させることは、詩作の愉しみでもあり、その生まれるまでの推敲の課程の苦しみも、又、出来たときの喜びも、充分に、至極の愉しみでもある。露天風呂に浸かりながら、まず1句、

BEFORE (My original English Haiku)
A Maple Leaf red-colored
Floating alone
Outdoor Hot Spa in peace

(A piece of red-colored Momiji was falling down from somewhere around, and floating peacefully, and watching it is really of great fun.)

AFTER (After revised by Professor David McMurray)
Maple leaf, red-colored
Floating alone in peace
Outdoor hot spa

成る程、この方が、技巧的にも、宜しいようです。
http://www.asahi.com/english/haiku/
これ以外にも、10数句、書き散らかしたが、いずれ、稿を改めて、論じてみたいと思います。



市場型金融民主主義の危うさと強権的徳政令

2011年12月05日 | 社会戯評
金融工学の専門家ではないから、リスク分散をちりばめたデリバティブ等の数学的金融商品のことは、詳しくは、分からない。もっとも、そのリスクは、為替だけでも、随分と、先物為替デリバティブで、否応なしに、実地に、銀行から、融資とともに、苦労勉強させて貰った。プライム・ローン問題をきっかけに生じたリーマン・ショックの金融危機以降、その危機を脱したかにみえた世界経済も、今又、相も変わらず、自らが作り出した「市場型金融民主主義」という怪物に、飲み込まれようとしている。Credit Default Swap のような無関係の第三者によって、売買されるマネーゲームであることに、本質的には変わりはない。保険料なども、一種の金融商品と見なされるような商品が、ただ、単に、「あなたにとって利益となる」と吹き込まれ、浸透してゆくことは、年金制度の破綻にみられるような国家的な詐欺まがいの犯罪に等しいのではないか?お金には、色がついていないから、分からないうちに、グローバリズムの一層の進展の中で、今や、「市場型金融民主主義」は、行き着くところへ、行ってしまうのか、それとも、ある程度の倫理的な規制や歯止めが、掛けられるのか、こどもの頃、歴史の教科書で習った強権的な「徳政令」という言葉が、現代でも、忘れた頃に、想い起こされるのは、偶然だろうか?徳政令とは、鎌倉や室町時代の歴史上の単なる言葉ではなくして、如何にも市場型金融民主主義的な危うさを持った今日的な現実味を帯びた言葉に、今や、なろうとしている。中谷巌は、自己懺悔だけで、済むのであろうか?それとも、竹中平蔵は、相変わらず、持論を主張するのだろうか?とんと、聞こえてこないのが、気懸かりである。誰か、金融工学の天才が、今日の世界的な経済の苦境を、見事に、数式で解き明かし、これだという解答を提示してもらえないものだろうか?



昨今の就活に想う

2011年12月04日 | 社会戯評
学卒の就職率が、約6割程度であると謂われている。いやはや、大変な時代である。戦後間もなく、何度か、大学は出たければ、、、、という悲壮な就職難の時代があり、特に、繊維産業華やかなりし頃、当時は、屑のように謂われていた商社に、仕方なく就職した人が、30年も経て、今や、左団扇であることを、誰が、予想し得たであろうか?或いは、一流企業に、就社出来たからと謂って、朝刊を見て、初めて、一部上場企業の自分の会社が、倒産したことを知る羽目になるとは、、、、これも、又、現実の出来事である。それでも、今の若い人達は、英語も習い、貿易実務の基礎専門用語も、勉強し、日経新聞を熟読玩味し、スマホを駆使し、就活情報に、1秒でも早く、アクセスし、ツィッターで、つぶやき、フェースブックで、SNSで、友達の輪を拡げ、、、、、、と、全く、アナログだった自分たちの若い頃とは、様変わりである。何にも知らずに、ただ、ただ、本を読み、ジャズ音楽を聴き、酒に酔い、やりたい放題に、暴れ回っていた若者が、逆に、分別がましい大人に、なってしまったのは、実に、皮肉である。ドラフト会議で、初志貫徹とばかりに、交渉を蹴った若者は、何故、そんなつまらないことに、こだわるのであろうか?まずは、「石の上にも3年」ではないが、社会というムショの掟に、どっぷり浸かって、色々なことを教えて貰い、学ぶことが、先決ではないだろうか?想えば、「学ぶことを学ぶ」場が、地域・家庭・会社の組織ではないかと、ふと、想い起こされる。それにしても、今や、同じ机を並べた日本人だけはなく、海外の日本語を話す外国人までもが、競争相手となると、それは、それで、大変だが、逆に、外国語で議論できる日本人も、確かに、これからは、海外で、必要・不可欠な人材であることに、変わりはない。This is a pen よりも、俳句を英語で、勉強した方が、面白いのではないだろうか?それにしても、大変な時代である。



STUXNETベースの新たなマルウェアーDUQUの出現

2011年12月03日 | 社会戯評
サイバー・ウォーの中で、又、新たな特定の標的のみをターゲットにして攻撃する産業制御システムの改竄を狙いとする新たなマルウェアーが、出てきたと謂われている。山本権兵衛内閣での汚職で、歴史の教科書で習ったドイツのシーメンス社の提供するイランの核関連施設であるウラン濃縮遠心分離器の生産制御システムを改竄し、核開発を遅延させたものであると謂われている。むろん、イスラエルのモサド辺りが、これまでのイラク、シリア核施設の空爆での実績(対空防衛能力の無力化)同様、事前に、綿密に、仕組まれたサイバー攻撃の一種であろうと想像される。但し、これが、やっかいなのは、いつ何時、「両刃の刃」に、転化するとは、限らないことである。真に、「矛と盾」である。チーズをくすねようとする鼠(ウィルス)でも、この鼠は、ある種の特定の種類のチーズを目標にしか、食いつかないそうである。何とも、厄な代物である。国際ハッカー集団のアノニマスに、公開目標として国際的にリスト・アップされたBP, Bayer、そして、TEPCO(東京電力)等の他にも、最近、攻撃された軍事産業、並びに、関連企業のシステムの情報漏洩のみならず、今度は、生産制御システム自身にも、潜り込み、改竄、暴発させてしまう可能性を有するようになると、もう、これは、謀略とか、情報漏洩とか謂う段階のものではなく、「目に見えない戦争」そのものが、知らないところで、実際に、現在進行形で、行われている可能性があるということを意味している。ネットから、隔離されていたシステムも、たった1本のUSBメモリーで、(この辺は、いまにも、アナログであるが)感染したあるPCが、システム全体を暴走させるという、何とも、恐ろしい兵器である。しかも、格安の開発費ですむのである。便利さの裏で、北朝鮮のゲリラ工作員による原発施設攻撃を心配するだけでなく、こうしたサイバー攻撃をも、想定しなければいけなくなった訳である。日本でも、ホワイト・ハッカーが、対サイバー戦争の最前線で、リクルートされているのだろうか?もっとも、コンピューターだけでは、何とも、信用できない御仁には、最後の頼みの綱である人間自身が、中国の新幹線だけではなくて、居眠りや、メールを運転手がやっていたとなると、もう、何を信用したら良いか、分からなくなってしまうのは、実に、困ったことである。


=「まんが学」の記事に想う=

2011年12月02日 | インポート

谷岡ヤスジの「鼻血ブー」に託した悪ガキの怒りは、メッタメタガキ道講座として、70年代初頭に社会現象化したことを、想い出す。当人は、99年に、惜しまれながら、早世してしまったが、当時は、赤塚不二夫先生の天才バカボンや、おそ松くんのニャロメ人気が、その一方で、ブームを席捲していた。私達の子供の頃は、今から思えば、良く、本を読み、よく勉強もし、よく空き地や、塀の上で、遊び、遊び疲れると、決まって、友達のうちで、(何故か、友達の家だったが、、、、)おやつを頬張りながら、よく漫画も読んだものだ。もっとも、貸本屋も、未だ、一産業として、立派に、残っていたが、、、、。(その貸本屋も、何年か前に、廃業してしまったのは、淋しいが、、、、、)月刊誌の「少年」連載の横山光輝による鉄人28号や、手塚治虫の鉄腕アトム、果ては、月光仮面、等、アニメ化される前の漫画本を、こどもの科学などとともに、実に、よく読んだものである。後の少年サンデーや、マガジンに、更には、今日のアニメーション文化、アキバ・オタク文化へと、広い意味で、繋がっていくのだろうか、「これでいいのだ!」や、植木等の「分かっちゃいるけど、やめられネェー!」等は、今、想い出しても、随分と「深遠な仏教哲学的な思想」が、内在しているようにも、思えてならない。あの頃、「漫画なんかを読んでいたら、頭が、悪くなる」と、良く、母親やPTAから、言われたが、果ては、悪書追放まがいの運動の目標になったことは、「ゲゲゲの女房」の中でも、触れられていたが、子供の心の成長の過程では、今にして、想えば、決して、悪いことではなく、むしろ、友達付き合いや、別に、漫画のみを読んでいた訳ではなく、「一服の清涼剤」のような、或いは、「心のオアシス」、「こどもたちの隠れ家」のようなものだったかも知れない。私の書庫には、その昔の漫画は、残っていないが、子供達の読んでいた昔の漫画は、そのまま、使い古され、傷ついたミニチュア・カーやお人形とともに、残してある。孫でも、持つようになったら、お爺さんの読んだ漫画を、是非、読ませたいものである。復刻本でも出たら、買うとしようか?