小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ニホン・カモシカに出くわす!

2012年05月31日 | 自然・植物・昆虫
荘内の一番カーブのきついS字のヘヤピンカーブを曲がろうとスピードを落としながら、ハンドルを切ったところ、道路を、小走りに、横切ろうとする灰色がかった黒い馬のような動物が、突然、眼に入ってきた。今年だけでも、2度目の目撃である。1度目は、険しい谷底から、道路の脇にあるガードレールを、乗り越えようとして、果たせず、躊躇して、様子を伺っていたが、そこは、丁度、今回の2度目の目撃場所から、約50m程度しか、離れていない場所であった。そこから、200m程度、下ったところでは、以前、鼻のところがT字形に白いハクビシンを、見かけたことがあった。何年か前の冬には、平然と、カモシカが、道端に作られた花壇の植物を、車の通行をも、ものともせずに、食べているのに、出くわしたことがある。日本鹿だけでも、この里山周辺には、2000頭を越える群れが確認されているとかで、今年は、流石に、自然保護樹林の中に、罠を仕掛けて、駆除に、乗り出したそうである。運悪く、交通事故死に遭う鹿を昨年は、獣道の近くで、見かけたが、その程度では、森林や、野菜畑の被害が、もはや追いつかないらしい。何とも、互いに、共存共栄する道はないものであろうか?鹿のピューという甲高い鳴き声は、聞いたことがあるが、カモシカは、何と鳴くのであろうか?一度くらいは、聞いてみたいものである。それにしても、急な斜面を、難なく、容易く、登っていく姿には、さすが、カモシカであると、妙に、感嘆してしまう。流石に、ここら辺には、月の輪熊のような肉食獣がいないから、良いようなものの、熊でも出没したら、それこそ、散歩なども、鈴でも鳴らさなくては、たまったモノではない。又、いつの日にか、あのニホンカモシカに会えるだろうか?



「きゃりーぱみゅぱみゅ」的なるもの?

2012年05月30日 | 社会戯評
最近では、もはや、「名は、体を表さない」のは、これで、間違いない!。余りに、名前が、長すぎて、舌を噛みそうで、もう、訳が分からない。ウィキペディアで、調べてみると、アルファベット表記はkyarypamyupamyu。正式な芸名はきゃろらいん・ちゃろんぷろっぷ・きゃりーぱみゅぱみゅ(Caroline Charonplop Kyarypamyupamyu)だそうである。タイ人名っぽいゾ、だが、日本名は、何と、竹村桐子だそうで、現役高校在学中であると。これでは、源氏名でも、何でも無いではないか。この日本語の表記は、何処で、区切ったら良いのだろうか?そもそも、日本語ではないのか?それとも、ぱみゅぱみゅという一語なのか?或いは、ぱみゅで、一度、区切るのか?もし、区切るとすれば、どういう意味なのか?記号か、符号か?いや、全く別の意味合いなのか?モデルなのか?歌手なのか?ダンサーなのか、影武者までもいるらしい、又、ドレス・コードを自ら、設定するとも、考えているらしい?ドレス・コードよりも、自らのアイデンティティー・コードを、明確にすべきではないだろうか?もっとも、そんなことをしたら、台無しになってしまうか?もう、オジサンには、さっぱり、分からない。現代では、今や、見かけだけでも、怪しげで、性別ですら、うかうかすると、峻別不能である。外見が、第一などと、言っていた人もいたが、就活の人は、羨ましく思っているのだろうか、ましてや、名前ですら、今日では、どこからが、姓で、何処が、名前なのか、それとも、合い言葉か、符号なのか?新種の「青文字系」の未確認生物(Unidedentified Misteriou Animal)なのか? 分かりにくくすることが、正体不明であることが、売りになるのか?ここまでくると、オジサンには、ますます、不可解、摩訶不思議であるとしか、表現の仕方が分からないものである。10年後、いや、30年後、(もう生きていないから、まあ、良いか?)果たして、この名前を、記憶している人が、いるのだろうか?一人でも、多くいることを願ってやまないし、自分の存在を、identifyする為に、敢えて、こういう名前を使って、才能を開花させることを目指しているのであれば、オジサンは、陰ながら、応援することにしよう。スタッフは、さぞや、才能ある人達であろうと思うので、、、、、、。褒めすぎだろうか?歌詞の意味も、今一、理解不能、全く、摩訶不思議である。



こもなみ倶楽部、麦の穂が、青々としている!

2012年05月29日 | 自然・植物・昆虫

前回は、じゃがいもの種芋を、マルティングを敷いて、その穴の中に、植え付けしたが、その時には、未だ、麦の芽は、少し、出揃っている程度で、何のタネを播いたのか、よく判読出来ないほどであったが、今回は、何と、もう、50cm位の高さに、青々と成長して、穂先には、小さな実をつけて、麦独特の穂先が、シャキッと、五月晴れの青空に、すっくと、大地に、根を生やして、佇立していた。何とも、植物の生長というものは、驚愕する程、強いものであることを実感する。じゃがいもも、緑色の茎から、葉を茂らせようとして、雑草と闘っている。土が、少しずつ、有機質に、よりよく改良されて活き活きしているのであろうか、、、、、、、、と実感する。自動草刈り機で、刈り取られた、下の土手に生えている雑草を、掻き集めていると、小さな薄緑の蛙が、ゲロゲロと、田植えを終えたばかりであろう田んぼの中から、合唱し始める。うまい具合に、蛙泳ぎをするものである。畑の用水路にも、何匹かが、飛び込んできた。糸とんぼとおぼしきものも、草の茎に止まってじっと、五月晴れの暖かくなった風を愉しんでいるようである。それにしても、ヨモギ畑と揶揄されても致し方ないような雑草との果てしない戦いの幕が、切って落とされたようである。茄子、オクラ、ミニ・トマト、南瓜、きゅうり、ズッキーニ、スイカ等の苗を明日には、植える予定であるが、確実性の高い品目中心になろうか、それにしても、月1-2回程度の農作業で、収穫がうまくいったら、お百姓さんからは、罰が当たると言われかねない。いよいよ、来月には、田植えの予定である。お楽しみに、、、、、。飲んべえ連中は、山田錦の酒米も、併せて、植えてみて、どぶろくでも作ろうかと、今から、手ぐすねを引いているが、、、、、、、。どうなることやら、、、、、おおいに、楽しみである、、、、、。



ベランダでの読書中の小さな出来事

2012年05月28日 | インポート
東京では、かなり、暑くなったようであるが、小諸の里山では、まだまだ、夜は、長袖のシャツだけでは、肌寒く、朝まだ、気温が上がらない内は、部屋の中でも、少し、陽にでも当たりたくなる。そこで、デッキ・チェアーを持ち出して、日向ぼっこがてら、読書をすることにした。何とも、緑が濃くなり、梢を渡るそよ風の葉の音色、野鳥のさえずり声や、春蝉の声、おまけに、熊ん蜂の羽音まで、聞こえてくる。流石に、小さなアブ程度ならば、しつこいと、手で払って済むが、大きな蜂の類では、そうは行かない。じっくりと、移動してもらうのを待つ他ない。陽に当たりながら、上を見上げると、何やら、白い霧のようなものが、(実際には、黄色い色である)さらさらと太陽に照らされながら、降り注いでくる。どうやら、これまで、春の黄砂と見間違っていたのは、実は、樹木のおしべの花粉のようである。とりわけ、ドングリの樹の花粉が、多いようである。スギ花粉でないのが、幸いであるが、、、、、、。そうこうしているうちに、一羽の茶色い羽に、白い紋様のある蝶蝶が、どういう訳か、近くを舞っては、近づこうとする。何と、ズボンの太股付近に、止まってしまった。写真は、その時に、待ち構えていて、撮った物である。(後で、昆虫図鑑で、調べたところ、ミスジチョウという名の蝶のようである。) 何とも、不可思議な人なつっこい蝶蝶である。それにしても、都会では味わうことできない屋外での読書である。



かきつばたの群生が見事である!

2012年05月27日 | 自然・植物・昆虫
尾形光琳の燕子花(かきつばた)八橋図屏風も、酒井抱一の燕子花(かきつばた)屏風も、ともに、大変有名であるが、燕子花の名の由来は、『伊勢物語』の九段目「東下り」の段をモチーフにしているとか、「都には自分の居場所がないと思った在原業平は、同じ気持を共有していた友人たちと、京から愛知へ道に迷いつつ下り、八橋にたどり着く。川のほとりで食事していると目の前には燕子花が咲き乱れていた。そこで友から“かきつばた”の5文字を上の句にして歌を詠めと促された業平はこう歌ったという。“唐衣/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/旅をしぞ思ふ”(着慣れた着物のように親しく思う妻が都にいるのに、私はこんな遠くまで来てしまった)。これを聞いた友人たちは思わず飯の上に涙を落とした」。成程、情景が、目に浮かんでくる。車を走らせていると、東御市の加沢地区の有志が、運営するビオトープのような池があり、冬は、全く、殺風景なものであるが、車の窓に、突然、蒼い燕子花の群落が、飛び込んできたので、おもわず、写真に、撮ってみた。実に、見事に、岩肌と池の水に、映えて、凜とした出で立ちで、すっくと、佇立している様がよいではないか。黄色や白も、決して悪くはないが、何はともあれ、やはり、ベーシックな群青色の燕子花こそが、一番である。カメラマンの腕がもっと良ければ、もっと感動的な構図の写真になったのであるが、心残りである。



シリコン・タジン蓋を活用する!

2012年05月26日 | 男の手料理・食
山の神によれば、何でも、オールパンを購入したところ、シリコン・タジン蓋が、付録で、付いてきたそうで、これを使用したら、野菜を蒸すのに、大変便利であると、、、、、薦められた。昨年の夏は、シリコン容器で、毎日、露地物の枝付き枝豆を、せっせと、レンジを使用して、蒸しては、食べたものである。そこで、早速、産直売り場に、朝採りで、鮮度の良さそうなものが、安く販売されていたので、これをカットして、レタスとともに、蒸して、ドレッシングで、健康的に、食してみた。これは、大変、便利だし、健康フードそのものである。テレビ等で、芸人の暴飲暴食、これ極まれりといった具合の食事の摂り方を、番組でよく観るが、それ程まででなくとも、糖尿病予備軍には、知らぬ間に、簡単に、なってしまうものである。まずは、野菜、蒸しに、或いは、軽く煮た緑黄色野菜とか、カボチャ、人参、ブロッコリー、等、これなら、毎日、食べられるものである。独身の人には、必見のレシピーではないだろうか、、、、、、、、。便利なものができたものである。



黄色い八重の山吹の花が、盛りである!

2012年05月25日 | 自然・植物・昆虫
もともと、白い雪柳の花に、映えるようにと、わざわざ、八重の黄色の山吹の花を、横に、一緒に、植えたのであるが、なかなか、うまく、一緒に、咲くことがないのは、残念である。いつも、雪柳が、咲き終わる頃になって初めて、山吹の蕾が大きくなり始める。どういう訳かはしらぬが、この花を観ていると、いつも、太田道灌が、少女から、歌の道に、もっと精進しなければいけないと、その不明を恥じたあの有名な歌を想い出す。
「七重八重、花は咲けども、やまぶきの、実の(蓑)ひとつだに、なきぞ悲しき」
花を観ながら、花言葉や、たまには、和歌を想い出したり、俳句でも創ってみるのも、宜しいのではないだろうか?一寸、人生に、巾が、或いは、心に、ゆとりが、出来るかも知れませんね。しかも、一銭もお金は、要らないし、、、、、、、。(笑)



「すずらん」の花

2012年05月24日 | 自然・植物・昆虫
もう四半世紀も前のことになるが、自宅の裏庭に、生い茂っていたすずらんを、部下の一人が、くれるというので、車で、取りに行き、大量に貰ってきて、小諸の家の白樺の樹の下に、移植した。それが、毎年、可憐な花を咲かせてくれるのは有難いのだが、いつも、GWの連休時には、間に合わず、その少し後に、開花する。去年から、この時期に、都合をつけては、観るようになってから、人が観ていなくても、ずっと、独りで、咲き誇っているその「すずらん」という花が、なかなか、いとおしく想われるようになってきた。花言葉を調べてみると、純潔、純愛、幸福の訪れ、等で、聖母の涙にたとえられると言われているが、、、、、、。年に、一度くらい、花を観賞したら、その「花言葉」を調べてみるのも、決して、悪いことではなさそうである。何か、こちらの心まで、一寸、得をしたような気分になれるのは、何故だろうか?そう言えば、昔、北海道だったか、どこかの高原だったか、忘れたが、すずらんの香りをベースにした香水のようなものを、お土産に、買ってきたことを想い出した。



春蝉が、鳴き始めた!

2012年05月23日 | 自然・植物・昆虫
久しぶりに、高速道路ではなくて、ゆっくりと、下路を走ってみたところ、思わず、5月の濃い緑が、眼に飛び込んできた。うっすらと、萌え始める頃の緑も、何とも言えないが、ますます、緑が濃くなるその途中も、又、実に、景色は、変わるものである。その微妙な変化を味わえることは、ちょっぴり、贅沢であると感じる。未だ、八重の桜は、力なく、色あせながらも、花房をだらりとつけて頑張っている。春ゼミ達が、陽が照り始めると同時に、一斉に、頭上の梢の上辺りから、ギーギーと、騒ぎ立て始める。ひとしきり、鳴き終わると、今度は、小鳥の声が、甲高く、聞こえてくる。全く、濃い緑に覆われて、景色が、一変してしまった。いよいよ、今年も、春ゼミの到来とともに、初夏が告げられ、当分は、春ゼミの天下が、続きそうである。

春ゼミの声:

カラーの花が、今年も、咲いた!

2012年05月22日 | 自然・植物・昆虫
義理の母から、畑に植えられていたカラーの花を、何年か前にもらい、玄関正面の小さな庭に、地植えしたところ、毎年、白い可憐な花を、貴高く咲かせる。残念乍ら、数は、施肥が少ないのか、球根が毎年、か細くなってしまうのか、日照が、少ないのか、数は、多くなく、せいぜい、一つか、二つであるが、、、、、。今年は、管理が良かったのか、どうか、分からぬが、何と、小さな花が、三つも咲いた。それだけでも、嬉しくなる。何とも、上品な、可憐な花である。高級なホテルの玄関などには、時として、大きな花瓶に、思い切り、数多くのカラーが、生け花として、飾られていることがあるが、実に、羨ましい限りである。緑色のすらっとした長い茎とロート状の花の白さのコントラストが、実に、バランスがよろしい。好奇心から、よく出来ている造花ではないだろうかと、手で触って、確認したくもなる。我が家では、流石に、咲いた花の数が、少ないので、カット・フラワーで、活ける訳にはゆかないが、当分は、そのまま、地植えで、しばしの鑑賞を愉しめそうである。雪柳、小手毬、花桃、つつじ、などの花達も、一段落して、紫陽花の花が、只今、準備中である。「美しい”花“がある。”花“の美しさというようなものはない。」という小林秀雄の言葉が、ふと、突然、脳裏をよぎる。「美しい美がある、美の美しさをあれこれ言うことに意味は無い。」、、、、、、。すると、今度は、世阿弥の言う能における”花“とは、何か?と、、、、、、、。花伝書を、読み返してみるか、、、、、、、。



我が老犬に、もの申す!

2012年05月21日 | 動物・ペット
我が老犬は、元々、屋外で、飼っていたために、排泄の習慣は、決まった場所に、行なっていたのであるが、寄る年波には勝てず、室内で、飼うようになってから、なかなか、ペット・シーツの上で、オシッコをしてくれない。やっと、最近になって、学習してくれたのか、お利口さんになってきたが、シーツの真ん中に、効率的に、してくれないのである。床が、汚れて臭いが付くので、シートを2枚重ねて、大・小のサイズのシーツを、重ねて敷いておいても、敵は、なかなか、手強い者で、その継ぎ目の所に、狙ったように、オシッコを済ませる。「お願いだから、真ん中に、なるべく、中心に、近い所で、端っこには、滲み出るから、しないように、、、、、」と懇請しても、我が老犬には、どうも、理解して貰えていないようである。昔購入した、子犬時代の立派なシートを入れるプラスチックのシーツ・トレー枠は、どうも、お気に召さない様子である。まあ、じっくりと、長い目で、観ることにしようか、、、、、、。そんなことも、我関せずとばかりに、今日も、ぐっすり、午睡中である。



「射幸心」と「コンプガチャ」と、

2012年05月20日 | 社会戯評
新聞やニュースを見ていて、余り聞いたことのない言葉に遭遇すると、辞書やネット検索で、
何々とは?と調べてみるが、ある程度は、理解出来るものの、全く理解に苦しむ言葉もなくはない。最近では、「射幸心」と「コンプ・ガチャ」「RMT(リアル・マネー・トレーディング)」という余り聞いたことのない言葉がある。「射幸心」とは、幸運を得たいという心理の下、多くの場合においては「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい」と勝手に思い期待することであるらしい。そこで、より幸運を得ようと、レア・カードに、確立が低いにも関わらず、多額の金銭を浪費する傾向が、青少年には多く、とりわけ、こうした「ソーシアル・ゲーム」に、のめり込むのだそうである。この市場自体が、数千億円規模であるらしい。どうも、いつも、法律の後追い規制で、ファースト・ランナーは、やり得、逃げ得、ボロ儲け得、又、法規制をくぐり抜ける新手のゲームを、形を変えて、世に送り出してくるのであろう。何とも、実に、分かりにくい代物である。複雑な金融工学の数式が、ちりばめられている金融派生商品(デリバティブ等)も、形を変えた「射幸心」とは逆に、リスクをヘッジすると称した合法的に、そうした心情を煽る一種の麻薬のようなものではないだろうか、、、、。どこもかしこも、娑婆は、油断もすきもあったものではない。それにしても、こうした現状を、本田宗一郎が、生きていたら、親爺さんは、どう、評論しただろうか?それとも、鉄拳の前に、いきなり、スパナが、きっと、飛んでくるだろう、、、、。ビジネスにも、今や、「矜恃」が、無くなってきてしまったのか、、、、。ゲームやパチンコ、宝くじ業界に、そもそも、そんなものを期待すること自体が、おかしいのか?




伊勢正三、「22才の別れ」

2012年05月19日 | 社会戯評
伊勢正三、「22才の別れ」
いつの頃だったか、忘れてしまったが、NHKのテレビで、「歌はこうしてできた」と言う番組があり、作詞家や作曲家、歌手、制作スタッフらのインタビューを含めて、どのようにして、その歌が、出来上がったのかを、その時代背景を追いながら、解説するというものであった。私は、とりわけ、作詞家の説明が、とても、気に入っていて、アーカイブなどで、もう一度、観てみたいものであると思っているが、、、、、、。とりわけ、「神田川」の作詞家、喜多条忠の回顧には、同世代として、大変、その詞に、共感するところが、多々、あったものである。「若かったあの頃 何も怖くなかった ただあなたのやさしさが 恐かった」等々、、、、、、、、。新聞の「うたの旅人」という欄に、伊勢正三が、還暦祝いに、「なごり雪」や、「22才の別れ」を、南こうせつや、イルカや、杉田次郎らと、アコースティック・ギターをつま弾きながら、歌ったと書かれていた記事に、眼に入ってきた。往年のフォーク・シンガーも、皆、例外なく、太田裕美も、ガロも、歳をとったものである。「、、、、、触れたら きっと言えなくなってしまう そんな気がして、、、、」、「私には 鏡に映ったあなたの姿を見つけられずに 私の 目の前にあった 幸せにすがりついてしまった」、、、、、、「あなたは、あなたのままで、変わらずにいて下さい そのままで、、、、、」、又、歌は、こうして、歴史の中に、どっこい、これからも、記憶の中で、生き抜いてゆくのだろう。昔、システム手帳にリスト・アップした懐かしい接待用カラオケの曲目が、偶然、懐かしく、目に止まった。

http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=35911

最近の我が老犬の有り様について

2012年05月18日 | 動物・ペット
犬も歳をとると、我慢に欠けることが多いのか、シャンプーをしても、これまでは、嫌がりこそすれ、何とか、我慢して、滅多に、吠えたりしなかったのに、最近では、普段出さないような大きな力強い声で、吠え始める。もっとも、病院などでは、注射や耳の治療などは、我慢強く、辛抱するのであるが、どうも、流石に、満年齢の17才過ぎ(人間で、謂えば、88才相当であろうか?)にもなると、確かに、眼も、耳も、鼻も不自由になり、足腰も弱ってくるから、犬の身になれば、不安なのも、あながち、分からなくはないが、、、、、、。そんな折りに、シャンプーの途中、気持ちが良くなったのか、事前に、オシッコとブラッシングを済ませて置いたにも関わらず、犬生で、初めて、シャンプー中に、何と、大便をしてくれました。どうも、変な匂いがするなと思いきや、、、、、。手は濡れているは、紙は無いし、山の神に、大声で、塵紙をもらい、処分したが、ご本犬様は、気持ちが落ち着いたのか、スッキリしたのか、至極、満足げな様子で、「何をぐずぐずしている。早く、シャンプーを終わらせないか!」と、大声で、吠え始める始末である。まあまあ、何とも、手が掛かり始めたものである。犬も人も、こぞって、「老々介護」の時代かな、、、、、、。



後日談:雛の巣立ち

2012年05月17日 | 動物・ペット
シジュウカラの三羽の雛の内、二羽を保護して、巣に戻したところ、無事巣立ったようであったが、何と、又、そのうちの一羽が、知らぬ間に、巣に舞い戻っていて、親鳥が、必死の声で、探し回り餌を与えていた。午後、我が老犬のシャンプーを始める前までは、元気に、巣箱から、声が、聞こえてきて、餌も貰っていたが、シャンプーが終わって、さて、どうなったのかと、部屋へ、戻ると、もう、声がしていない。親鳥が、一羽、探しにでも来たのだろうか、入り口を覗いてみて、中に、いないことを確認したのか、どこかへ、飛び去ってしまった。今から思えば、餌をやりながら、巣立ちの催促をしていたのかも知れない。何とも、毎年、あっけない出来事である。今年は、多少、ハプニングがあり、雛の写真も撮れたので、まずは、巣立ちが終了して、ホッとしたところである。それにしても、雨の降った翌朝に、大体、これまで、巣立っていったが、今年も、同じパターンであった。トキの雛の誕生と時間的に、同じくらいなので、毎年の恒例行事で、何か、待ち遠しい気がする。5月から7月に掛けては、又、別のつがいが、卵を産みに来るかも知れない。おおいに、楽しみである。今は、網戸に、雛の白い糞が、ついたままで、周囲には、奇妙な静寂だけが、残っている。耳の奥底から、鳴き声が、当分、離れそうにない。

PS)今朝、我が老犬を散歩に連れ出すと、斜め向かいのお宅の庭の樹木の茂みから、一番巣立ちの遅かった雛鳥が、元気に、餌を親に催促して、鳴いている声が聞こえてきた。都会の野鳥も、巣立ちが一段落しても、まだまだ、子育て教育は、当分、続くのであろうか、、、、、、と。声を聞きつけて、カラスが、一羽、電柱のてっぺんで、不気味に、辺りの様子を伺っていたのが、気になった。これも、自然界の弱肉強食で、仕方ないことであろう。無事、生き抜いて貰いたいものである。親子の幸運を祈るだけである。