小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

今年も栗が一粒穫れましたよ!

2012年09月30日 | 自然・植物・昆虫
今年も栗が一粒穫れましたよ!
桃・栗3年、柿8年と言われているが、小諸の里山では、やはり、自然環境が厳しいのであろうか?栗の樹は、植えてから、もう10年くらいが経過したが、未だ、幹が細く、柿に至っては、15年以上経過している今でも、未だ、背が低くて、実を結ぶ処の話ではない。元々、赤松の林を開発した場所だから、とにかく、土を掘っても、根が、すごくて、おまけに、松葉やドングリの落葉樹の葉が、分厚い腐葉土となっていて、なかなか、根を大きく張るのには、大変である。栗の樹は、やっと、3年程前から、実をつけ始めるものの、途中で、雨や風の為だろうか、見事ないが栗ごと、緑色のまま、落ちてしまう。それでも、去年辺りから、やっと、実を結ぶようになってきた。花房は、たくさん咲き、いが栗はなるのであるが、なかなか、食べられるような立派な栗の実が、穫れなかった。栗を栽培する専門の栗園では、一つのいが栗に、いくつもの粒が、入っていて、パンパンにはち切れんばかりに、割れてくるが、残念ながら、こちらは、一粒だけ大きくて、残りは、平べったくて、食べられない。それでも、無事、今年も、立派な栗が、一粒でも穫れたことは、大きな喜びであるし、自然の恵みに感謝したい。今年は、後、幾つ、穫れるか楽しみである。



トマト味ポトフを作る

2012年09月29日 | 男の手料理・食
トマト味ポトフを作る
何故、これまで、気が付かなかったのだろうか?成る程、鶏肉とトマトは、相性が良いのは知っていたが、、、、、、、。これまでは、コンソメ味だけだったが、これで、2種類、完成し、これに、薄いカレー味を加えれば、更に、バリエーションが、増えそうである。何せ、野菜が、たっぷり食べられるから、健康にも宜しい、野菜嫌いの子供には、もってこいですよ。キャベツ、人参、玉ねぎ、じゃがいも、セロリ、ベーコン、ソーセージ、鶏の手羽元(軟骨まで、柔らかく、食べられるようになる)、ロリエの葉、コンソメの素、それに、ついでに、秋刀魚の塩焼きの時に作った大根おろし用の大根が、残っていたので、これも、追加して、、、、、冷蔵庫の在庫一掃です。(本当は、かぶが合うが、、、、在庫一掃なので、、、、)今回は、イタリアン・カット・トマトに、ニンニクを少々、最近は、缶詰ではなくて、紙パックになっているのには、流石、EUは、エコであると、味よりも、変なところに感心してしまいました。塩胡椒で、鶏肉も、馴染ませておいて、野菜は、男の料理だから、すべて、ザックリ・カットである。後は、味を見ながら、煮込むだけである。加圧鍋だと、時間の節約にはなるが、野菜の食感が、ふにゃっとなるので、最期の方だけに、蓋をすることにしました。味が薄ければ、ケチャップで、整えるのも宜しいでしょう。スープを初めから多目にして、残りご飯と少量のバターで、リゾット風にして、実際、美味しく戴けて、良いですね。冷凍して置いたご飯が、大活躍です。子供に受けるのは間違いなし。夫婦で、ワインとバケットも、お似合いでしょう。とにかく、簡単で、大雑把なレシピーで、しかも、野菜、βカロチン、たっぷりで、栄養バランスも宜しい。今度は、カレー薄味でも、挑戦してみることにしよう。



長野県による小水力発電への法的アドバイス開始

2012年09月28日 | 社会戯評
長野県による小水力発電への法的アドバイス開始
長野県は、国内でも随一の小水力発電の普及の可能性が、多いにあると謂われながらも、複雑で厄介な法律的な解釈と運用との狭間により、せっかく、その意思があるNPO法人や個人でも、二の足を踏み、その具体的な普及が、今も尚、期待通りには進んでいないらしい。何が、普及を遅らせる本当の理由であり、障害なのであろうか?しかしながら、ローカル・ニュースによれば、県では、これらの障害を克服すべく、県の組織の中に、法律的な解釈や運用に詳しい専門家を配して、遅ればせながらも、小水力発電の普及を促進される手立てを講じることになったらしい。一歩前進ではないだろうか?これが、県単位から、今度は、各市町村へと拡がってゆけば、ゆくゆくは、長野県は、森林のバイオマス発電、メガソーラー発電も含めて、電力発電大県になる可能性を秘めていることになろう。何せ、大規模な設備投資を必要とすることなく、農業用水路とか、一寸した高低差を利用した河川とかを利用するだけで、小さな発電を可能にするこうした事業には、実現に向けて、積極的な啓蒙啓発と公的な法的なアドバイスをするべきであろうと思う。その一歩として、今後の活動の成果が、発電量の増加という数値で、具体的に、早く望まれるところである。既に、総論から、各論を実施する段階に入っていると思われる。



橋本 治著「三島由紀夫」とはなにものだったのか

2012年09月27日 | 書評・絵本
橋本 治著「三島由紀夫」とはなにものだったのか

「小林秀雄の恵み」同様、なかなか、難しい課題に、橋本は、良く挑戦したものである。それにしても、良くも、これ程、膨大な三島の著作を、読み返したものである。こちらは、全部が、全部、読破したモノではないから、その論旨が、果たして、どうなのかは、自分が読んだことのある著作に関しては、ある程度、理解出来るが、そうでない部分は、とりわけ、同性愛的な部分に関しては、確固たる意見が持てないのも、事実である。その辺が消化不良を起こすことになるが、「戦後」という時代を考え直す時には、どうしても、この人物の著作と死に様が、余りにショッキングだったので、避けては通ることが出来ないことも、又、事実であろう。
未だ、学生だった頃、その日は、友人達と一緒に、ヘリコプターが、頭上を旋回する騒然とする市ヶ谷の防衛庁の門の前まで、人混みに揉まれるようにして歩いて行ったことを覚えている。
日本の知性の在り方に対して、要石のような存在の仕方をする、死に遅れた知識人、日本人は、ただ、馬鹿になっただけであると公言して憚らない時代の寵児、自分自身を嫌悪し、作家を拒絶した作家であると。代わりに、人間であることを辞めてしまったとも、、、、、、。豊饒の海=空虚とは、何を以てして、承知したのか?禁色から、金閣寺へ、そして、豊饒の海への内容の違い、とは、、、、、、、、。
生きようとする意思をストレートに肯定する小説とは思われなかったが、金閣寺は、作者を死に至らしめるような小説ではないと、作者に、生きようと思わせたし、生きられると思っていたと。しかしながら、生きようと思ったが、それは無理だと、どこかで、何かが、変容した。何かが起こったのであると、禁色は、潜在的な同性愛者の存在を明確に表するものではないと、三島は、主人公の分身なのか?
豊穣の海(春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰)は、他者と関わりたがった小説であると。一人の三島と転生したもう一人の三島=他者という構図なのか?禁色の中の三島は、南である自分に転生を遂げてしまうが、豊饒の海では、生き残った片割れの三島が、敗北してしまい、その転生の結果、別の人物(=他者)がもう一人の三島の前にあらわれるという構図であると、果たして、暁の寺は、桜姫東文章の書き直しであろうが、そんなことよりも、実際に、バンコクでチャオプラヤー河の水上から見た暁の寺(ワット・アルンラーチャワラーラーム)は、早暁の下では、もっと、崇高な景色に、きっと、見えたのではないかと思う。輪廻転生の難解なる議論の展開には、やや、疲れる。
同性を決して知らなかったとは言いがたい三島は、同性愛を語らなかったし、書かなかったと、
それが、時代の流れで、生きていた時代背景であったと、三島は、自らを幻想文学にしないために、自刃したのだろうか?終焉を知らせるリアルな文学の作者として、作品に殉じて、自殺したのか?
仮面の告白に書かれた内容を事実とする為に、作者である自身を「虚」としてしまったと。
裏返しの自殺:フィルムの逆廻しのように、崖下から、崖上へ逆戻りする「生の回帰」であったと。
「死者の自殺」である。死の領域を放擲したが、「生に値する生」ではなく、仮構であるとしか言えない「実体のない生」であったのか?「虚」はここから始まったのか? それとも、時代に忠実に生きた為か?
同性愛は、芸術家のみに、許されると、、、、、。今日のお姉系の露出は、一体、どのように理解したら良いのか?芸術の一かけらすらも、見られないが、、、、、、。三島は、同性愛をもっと、知ろうとする読者に対して、芸術という支柱の「その先」を語らなかったと、実際、この辺になると、もう良く分からない、、、、、。
仮面の告白の「断絶」、「断層」とは、一体何だったのか?
それが書かれた昭和23年は、(奇しくも、私の生まれた年である)、戦後間近で有り、これまでの人生の在り方と対比しながら、新たな自分の人生を生きるということが、要求されていた時代、そういう模索がなければ、戦後という時代は、未来に向かって動き出せなかった筈であると、今日の状況は、では、どうなのであろうか?
そういう先の答を出さなかったのが、三島由紀夫である、言いにくい告白を事実とするために、自分自身を「虚」にしてしまった三島に、それを望むのは、酷かもしれなかったが、やはり、答を出して貰いたかったと、その問いを、「戦後」という時代は、そのままにして、やがて、一切の虚無と直面して、死を選ぶ。何故、自身を虚にしたのか?という問いと答は、とてつもなく、重大である。
戦後民主主義をまるで、その鏡の裏表のように、或いは、印画紙のように、対比して見せた、或いは、対立とある種の共感を得た安田講堂での「全共闘との討論会」でも、今になって思えば、どこか、消化不良の「隠し球」があるような、結局、その答は、最終的な「自刃」という形での回答提示しかなかったのか?今にして思えば、戦後の引きずってきたものが、その時に、初めて、裁ち切られたのか?だからこそ、その時に、当時の我々若者は、衝撃を受けたのか?当時提起された「言葉の責任と行動」という重い課題は、今でも、胸に突き刺さったままである。まるで、松下村塾の塾生達が、師の松蔭の生き様に触発されたかのような衝撃、死後に読んだ「天人五衰」も、本当に、それらの回答になっていたのだろうか?今でも、永遠の謎であろう、、、、。今日の日本を、維新ブームを、三島だったら、どのように、一刀両断するだろうか?本当に、戦後は、もう終わったのであろうか?重い課題を引きずりながら、それでも、残された我々は、生き抜かなければならないし、考え直さなければならない。
今回の書評は、腰折れならぬ、筆折れの状態で、途中で、ギブ・アップというところだろうか?本来の著作を全て、読み込んでおかないと、何とも、コメントのしようがないのも、厳然とした事実であろう。



久しぶりのシャンプー日和である

2012年09月26日 | 動物・ペット
久しぶりのシャンプー日和である
と言っても、我が老犬のことである。ここ、一両日、雨にたたられて、もっとも、雨も降ってくれないと困るが、、、、洗濯と我が老犬のシャンプーが、先延ばしになってしまった。朝から、清々しい、一寸肌寒い、乾燥した風と程よい太陽の恵みである。思いっきり、大量の敷布やタオルケットも含めて、秋の日差しの下へ、干すことにした。我が老犬は、相変わらず、シャンプーとシャワーが大嫌いだから、途中で、大きな声で、「早く、止めてくれぇ~」とばかりに、唸り、吠え始める始末である。もっとも、いつものことなので、こちらも、臆せず、終わるまで、シャンプーの泡立てを止めないが、、、、、、、。ベランダに、放っても、最近では、若いときと違って、辺り構わず、狂ったように、走り回ったりせずに、トボトボと、臭いを嗅ぎながら、歩いている。(突然鳴くので、何かと思えば、気持ちよくなったのか?ベランダに糞をして、早く、処理せよと催促している)萩の花はもう既に、終わり、種を一杯つけて、葉が黄色になるのを待っている。桜の葉は、黄色や赤に、紅葉し始めてきた。すすきは、(月に向かって、)穂先を拡げて、何やら準備中である。中秋の名月が、愉しめそうであろうか?もっとも、天気次第である。



活きイナゴの販売開始の報に想う

2012年09月25日 | 自然・植物・昆虫
活きイナゴの販売開始の報に想う
ローカルのニュースというのは、時として、興味深いことを知らせるものである。伊那市や駒ヶ根市では、丁度、今頃から、家庭用の「いなごの佃煮」を作る原料として、何と、「生きたイナゴ」を袋に詰めて、販売しているそうである。しかも、キロ3800円程度という高値であるそうである。震災に因り、福島や宮城からのこれまでの原料供給が先細ったのも、一因であるらしい。購入する人の言では、自分の口に合った味付けが出来るそうで、こういう人達がいることも、大変、希少価値であろう。食文化の遺産の継承は、大変である。確かに、昔は、タンパク質が不足がちだったから、いなごや蜂の子などが、佃煮として、珍重されてきたが、、、、、、、、。時として、田舎の旅館などで、いなごの佃煮が、出たりすると、懐かしく感じるものである。未だ、農薬や、食生活の変化にも、抗しながら、こうして、伝統的な地方の食文化遺産が、存続していることをニュースで、聞いたりすると、何故か、嬉しくなるものである。長野県では、蜂の子を取る為に、地蜂に、薄紙のこよりや付箋をつけて、追跡して、その巣を掘り出す趣味を持つ人達があるという。細々でも、地方独自の食文化の習慣を、絶やさないようにしてもらいたいことを願ってやまない。



中秋の小諸本陣ライブを聴く

2012年09月24日 | 社会戯評
中秋の小諸本陣ライブを聴く
松本市も、長野市も、結構、音楽や絵画、芸術に、力を注いでいる様な気がするが、小諸市も、遅ればせながら、一歩を踏み出したような感じがする。春の小諸城址公園の馬場で、開催されたサクラ・ライブを、中秋に、歴史的な遺産である大名の宿舎であった小諸本陣主屋で、初めて、ライブ公演するモノで、世界的な尺八奏者(杉沼左千雄)の奥深い幽玄の世界と南米・アフリカなどの心躍る音楽、オギタカ・ユニット(オギタカ:ボーカル、キーボード、ジャンベ、多種民族楽器、星山剛:ブルースハープ、池野礁:コンガ、パーカッション、ベース)の融合とを目指し、前衛的な音楽を堪能しようとするものである。成る程、「虚無僧」の音楽に由来する尺八の音は、アフリカの太鼓や、木琴や、中南米のコンガ等に、或いは、ハーモニカの音にも、違和感なく、調和するものであることに驚かされる。「耳濯ぐ」という言葉があるが、鼓膜に、太鼓のズンズンという音が、響いてきて、そこに、尺八の幽玄な「虚無」の音が、浸透するように、心の奥底までに、響いてくるような感じがする。盆踊りや、民謡(小諸節の現代風なアレンジの曲も披露された)のように、自然に、身体が動き出したり、踊ったり、跳ねたりする原動力は、音楽のリズムや、音の中にあるように、このライブを聴きながら、感じ取れる。アフリカの太鼓や、中南米のコンガの音には、そんな人間の本能に根ざしたような何かが、現として、存在するのであろう。リズム感と踊り出すムチべーションとは、何か、音楽の本質、人間の喜びの表現の一つであると感じてしまう。たまには、2メートル位の近くで、直接、「耳洗う」のも、「心の洗濯」になって宜しいのではないかと思うが、如何だろうか?精神を病む若い現代人が、多いが、元気旺盛な中高老年の男女の聴衆だけでなくて、若い人達も、是非、聞いて貰いたいものである。(実際、中高年の聴衆が多いのには、驚いた)10月21日から、28日まで、信州小諸、「杜の城下町フェスタ」を予定していたり、11月17日に、小諸ユースホステルで、「アフリカの夜」、コンサートが、予定されているようである。これからも、ますますの音楽活動の活躍の場が、拡がることを期待し、応援してゆきたい。会場に活けられていたすすきの穂も、音楽にマッチしていたし、コンサートが終わって、会場を出ると、雨上がりの空には、中秋の朧月が、小諸城趾の上に、雲間から、覗いていて、風情があった。



JAL、再上場の摩訶不思議

2012年09月23日 | 社会戯評
JAL、再上場の摩訶不思議
それにしても、優待券を期待して、個人株主になった人達は、投資結果への自己責任という形で、どれ程の損害を、これまで、被ったことだろうか?あれから、2年程で、今度は、全く、異なった株主により、再上場が、果たされ、公的資金の一部が、これで、回収される目途が、ついたと報じられている。おまけに、再生法の適用であるから、これからも、一定期間、法人税の免除の優遇が継続されると言うではないか?大手証券会社によるインサイダー取引や、一部大企業顧客への不当な利益供与が、株式市場で、公然と行われているという現状では、本当に、平等、且つ、公正な条件での取引・競争が、なされているのであろうかと疑いたくもなる。今年に入って、世界的にも、フェースブックに次ぐ規模での上場規模であるとも、報じられているが、、、、、、。本当に、證券市場の活性化と信頼回復に、寄与しているのであろうか?他方、ANAの株価との余りの値差や、LCCとの今後の競争や、地方路線からの撤退など、本当に、安心と安全、消費者の利益を考えた再上場なのであろうか?いつも、去って行った従業員の犠牲と、個人株主の紙切れ同然の損失と債権放棄という魔法の杖で、惑わされていることはないのだろうか?




今年も、ナガノ・パープルを食す!

2012年09月22日 | 男の手料理・食
今年も、ナガノ・パープルを食す!
去年、種なしで、しかも、「皮ごと」丸ごと食べられるぶどうということで、ナガノ・パープル(巨峰系)とシャイン・マスカットを、騙されたと思って、試しに、食べてみたが、今年も、又、その季節がやってきた。今年のモノは、夏の気温が高かったせいなのか、心なしか、糖度が高く、甘みが強いような気がする。何せ、不精者、怠け者には、「皮ごと」食べられて、丸ごと、「ポリフェノール」までも、たっぷり、摂取できるのであれば、これに越した喜びはない。確かに、果肉も美味しいが、皮も、ポリフェノールが、たっぷり、含まれているということであれば、尚更、美味しく感じられる。早速、東京へのお土産に、買って帰ることに、山の神は、決心したようである。生のルバーブから、ジャムを作るのも愉しみの一つであるが、皮ごと食べられるブドウは、不精者、怠け者にとっては、ますます、将来のトレンドになることは、必至で、疑いの無いところではないだろうか?まだ、食べたことのない方は、一度、試しに、召し上がってみて下さい。さりげなく、ナガノと入っているところも、差別化で、良いではないだろうか?




丸山晩霞展を覗く:日本水彩画会創設100周年記念

2012年09月21日 | 伝統工芸・展示会
丸山晩霞展を覗く:日本水彩画会創設100周年記念
昨夜半からの雨もすっかり上がり、雲一つ無い、青空で、浅間山も、よく見える東御市である。旧祢津村の出身で、吉田博との出会いをきっかけに、水彩画に、邁進し、日本水彩画会を創設することになった丸山晩夏の作品を、県内外から借り受けて、掛け軸なども含めて、130余点を、一挙に、公開・展示するもので、なかなか、見応えがある。確かに、水彩画と油絵は、水と油の様なものであるが、子供の頃から絵を描き始めるときは、まずは、水彩画から、始めるものである。「石楠花」や、海外での作品のような色使いのはっきりしたモノも良いが、やはり、水墨画のような、一寸、曖昧な微妙な色使いや、山並みの幾重にも重なる様、或いは、霞や、雲や、霧のかかる信州の山岳・風景画や、「白馬神苑」や「秋草」の描写や、鄙びた農家の家や、風景画が、何とも謂われぬ色使いと趣きを醸し出していて、秀逸である。油絵とは、確かに、異なる技法が、「水彩画」にはあるように思えてならない。再評価のきっかけになることを願ってやまない。10月28日まで、東御市の丸山晩霞記念館にて、



バイリンガルで観る大相撲

2012年09月20日 | スポーツ
バイリンガルで観る大相撲
デジタル放送では、副音声で、映画やニュースを時々、英語力の耳を慣らすために、聴いたりするが、なかなか、大相撲も、英語での解説を聞きながら、観戦するのも、又、面白い。何か、別の感覚で、大相撲が楽しめて、面白いものである。技の英語での解説や紹介、インタビューも、面白いし、勝ち越しや負け越しの英語での言い方、ある程度の同時通訳ではあるものの学校での英語教育などにも、使ってみたら、もっと、相撲自体にも、英語にも、親しみが湧くのではないかと思える。英語に訳せないものは、そのまま、日本語が、通用するので、ある程度の英語力さえあれば、日本語解説とは別の意味での楽しみがあろう。どういうキャリアーの人物が、通訳をしているのかは、定かではないが、SUMOUの国際化の中では、とても、大きな意義があろう。デーモン木暮閣下による英語での解説とか、武蔵丸や東関親方による英語解説とか、積極的に、相撲協会も、若いファンや海外のファン層の開拓に向けて、考えて貰いたいもらいものである。



世界史図説を読んでみる

2012年09月19日 | 社会戯評
世界史図説を読んでみる
歴史は、日本史でも、世界史でも、分かっているようでいて、大局の流れをなかなか、世界史の観点から、理解出来ていないことが、ままある。今日のモスリム文化の興隆や、中近東の歴史、或いは、翻って、戦後のマッカサー・吉田茂の外交政策等の背景など、改めて、読み返してみると、新たな視点が、そこに、見えてくるものである。自分の生きてきた時代とは、何であったのか?これから、どのような流の中で、推移してゆくのであろうか?来し方を眺めながら、行く末を見つめる。とりわけ、自分が、子供の頃の歴史とは、今考えてみても、あまり、充分と考え直して見るゆとりがなかったかのように思われる。改めて、そうした観点から、様々な課題を、この図説を読み込みながら、中学生や高校性になった気持で、読み返してみたい。今、何故、日本は、こうなってしまったのか?それとも、こうなってしまった原因は、どこにあったのであろうか?そんな観点から、一日一題でも良いから、読み解いてゆこうかとも考えている。詳しい検索も、ネットで、可能であるし、専門書や、関連書物を読んだり、調べたりすることも可能であるし、今後が楽しみである。改めて、自分が生まれた時代が、どんな時代で、どんな時代背景があったのかから、始めて見ても面白そうである。1948年とは、どんな時代だったのであろうか?



木村文乃という女優

2012年09月18日 | 映画・テレビ批評
木村文乃という女優
梅ちゃん先生の堀北真希は、既に、「三丁目の夕陽」シリーズで、その六ちゃんを演じた時から、ある程度は、注目していたが、朝ドラには、随分と、色々な脇役の中で、若手の積極的な登用が、観られて愉しみである。成る程、以前、気になる俳優として、佐藤光男役の野村周平について、述べたが、夫役の松坂桃季もさることながら、下村静子役、(梅子の義理の姉役)の「木村文乃」という若い女優が、一寸、気になる演技をしている。演技とは異なり、本人は、明るい性格であるそうであるが、一寸、陰りのある演技で、静的な演技が、なかなか、効いているような感じがしてならない。それにしても、脚本家というモノは、突然、俳優を、予想だにしない理由でもって、消し去ったり、或いは、突然、再び、持ち出してきたり、、、、、。そういう中で、俳優とは、一途に、その役に徹して、演じるのであろうか?木村文乃という女優が、どういう演技を今後してゆくのか、分からないが、「Aスタジオ」に垣間見られた素顔からは、今後に、期待しても良いのではないだろうか?




岡崎嘉平太と日中友好40周年

2012年09月17日 | 社会戯評
岡崎嘉平太と日中友好40周年
公職追放された履歴を持ちながらも、国交が正常化される以前に、周恩来と固い絆と信頼関係に裏打ちされて、日中国交回復に、努力した岡崎嘉平太の功績は、その「信を縦糸に、愛を横糸に、、、、、」という言葉は、周恩来の例えた、「井戸水を飲むときには、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」同様に、後のLT貿易(廖承志と高崎達之助の頭文字からとった)から、日中国交回復へと繋がる道筋へと、導いた人脈を、今考えると、やはり、外交も草の根の民間交流も、やはり、人の信頼関係の地道な努力の上に、立って初めて成し遂げられることが、改めて、分かる。交渉とは、そんなモノなのかも知れない。一体、韓国・北朝鮮・中国・ロシアと、現状の外交交渉は、どうなってしまっているのであろうか?若い人達の相互交流や研修生の受け入れなど、人の交流と相互理解が無い限り、歴史認識の問題も解決されず、一夜にして、これまで、何十年とかけて、先人が築いた関係も、脆くも焼き討ちと排外主義により、崩壊してしまうことは、昨今の事例を引くまでも無いところである。加藤嘉一氏のような若い世代に、日本は、もっと、現地の言葉で、意見表明を、もっと、もっと、国内外に発信してもらわなければならないのだろうか?インターネットや、ツィッターや、フェースブックが、いくら発展しても、本当に、相互理解が、進んでいるのだろうかと、考えさせられる。民主党の小沢が率いた大議員団は、一体、何であったのであろうか?ロン・康も、何だったのであろうか?そう言ってしまうと、元も子もなくなってしまうか?マッカーサーと吉田茂ではないが、歴史を後から振り返ると、こういう人間関係が、イデオロギーを超越したところで、何か、必要不可欠なのであろうかと、、、、、、、、。昔の中国研修生達は、息を潜めて、今の事態をどのように、注視しているのであろうか?それにしても、被害を被った会社は、損害賠償は、どうなるのであろうか?中国人従業員は、どうなるのであろうか?又ぞろ、亡霊のように柳条湖事件の日が、やってくる。先人の生み出した恨みをなくす知恵は、どこへ、行ってしまったのか?



精霊(しょうりょう)バッタの子供を見つける

2012年09月16日 | 自然・植物・昆虫
精霊(しょうりょう)バッタの子供を見つける
いつも、玄関脇の花壇の草むらに、ショウジョウバッタの親を見かけるが、今日は、自転車置き場の横に、自転車を止めたところ、偶然、緑色した2cm程の小さな精霊バッタの子供が、2匹、突然、ピョンピョンと飛び出してきた。頭部が円錐形で、その尖った先端には、紡錘形の触覚が、2本、既にしっかりと、突き出して、今にも、後ろ足で、ジャンプしようと身構えている。もうその様は、立派な大人のバッタのようである。今までは、子供の頃から、ショウジョウバッタだとばかり、思い込んでいたが、どうやら、調べてみると、しょうりょうバッタ、精霊流しの頃に、生えてくるので、そういう名称がつけられたらしいと、説明にある。チキチキと鳴くところから、チキチキバッタとも、呼ばれている。稲科の植物の草を主食にしているとかで、狭い庭にも、食糧には、事欠かないのであろうか?冬は、卵で、越冬するそうであるが、来年も又、道路に、飛び出て、車や自転車に、轢かれないように、無事に、大きく、育ってもらいたいものである。