小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

雷雨の恵み?:

2015年07月31日 | 自然・植物・昆虫
雷雨の恵み?:
最近では、スマホのアプリにも、例えば、「Go雨探知機」なるものが紹介されていて、ダウンロードすれば、自分のいる現在地点の半径5キロ程度にリアルタイムで、近づいてくる雨雲や雷雨や豪雨の動きを逐一、事前に知らせてくれるから、便利になったものである。標高900m弱の里山では、それだけでも、都会に較べれば、気温が低いのであるが、これに加えて、赤松の林やどんぐりの林のせいなのか、夏場でも、都会に較べれば、10℃程度は、低いのは有難い。更に、夕方から夜に掛けて、もっとも、時として、午後早い時間帯の場合もあるが、群馬県・栃木県に掛けて、よく生じる雷雨が、上空を通過するためだろうか、ひとしきり、強い雨が、雷を伴って、通過する。そのお陰かどうかは、分からぬが、通過後は、気温が一挙に下がり、空気は、更に、濾過される。都会ならば、帰宅時間や、最寄りの駅に到着してから、徒歩で帰宅する頃に、雷雨に打たれるような感じで災難であるが、里山では、そんなことはない。お陰で、シャワーならぬカー・ウォッシュではないが、フロント・ガラスも、ボディーも、綺麗になってしまう。気温も下がり、車も洗車出来るし、たまの雷雨も、決して悪いことばかりではない。都会では、ゲリラ豪雨で、地下街の浸水や、住宅街の近くでは、河川の浸水や崖崩れとか、何かと厄介者であるが、里山では、別の意味での恩恵ももたらしてくれるのが、有難いことである。どうやら、雲行きを眺めていると、今日も又、要注意の時間帯がありそうである。洗濯物は、早めに、取り込んでおいた方が良いであろう。落雷による停電だけは、勘弁願いたいところである。

TPP最終局面か:

2015年07月30日 | 社会戯評
TPP最終局面か:
通常、二ヶ国間でのFTA交渉でも、むき出しなそれぞれの国益が、或いは、国内からの圧力団体や、業界既得権益団体からの強い反対があったりと、なかなか、難しいモノである。ましてや、それが、それぞれ、複雑に絡み合った12ヶ国が、同じテーブルの上で、しかも、広範な様々な分野に亘って、議論交渉すること、更には、これを纏め上げることは、至難の業であろう。考えてみれば、日本人は、気が短いから、すぐにでも、交渉がまとまり、合意が果たされるものと、期待しがちであるが、そんなものでないことは、この2年にも亘る交渉経緯をみても、分かろう。未だに、国有企業の規制の問題や、著作権、或いは、保険や、医療制度の問題など、更には、農畜産品の輸入関税の件でも、まだまだ、観山合意には、程遠いものがあろうが、いずれにせよ、曲がりなりにも、それなりの大筋合意、とりわけ、一番影響力のある日米での一定の成果と合意の見通しがつけば、全体会合への道筋も自ずと出来てこようか、、、、、、、。今後、どのように、日常生活がこれらにより、変化してくるのであろうか?或いは、変わりがないのか?おおいに、注視して見守ってゆきたいものである。

鶴見俊輔を追悼する:

2015年07月29日 | 社会戯評
鶴見俊輔を追悼する:
姫岡玲治に続き、奇しくも、鶴見俊輔の93歳での死亡が報じられた。「思想の科学
」も、丸山真男や都留重人も、最近では、戦後民主主義の硬派の議論も、時代と共に、萎んでしまったのであろうか?IT技術が今日これまでに進化したにも拘わらず、相変わらず、代議制間接民主主義制度の虚構に、安穏として、依拠し、僅かな得票率でも、議席数においては、数多くのマジョリティーを有するという訳の分からない小選挙区制度により、相変わらず、一票の格差是正も、ままならず、直接民主主義の理念は、いつしか、議会外での直接行動の収縮に伴い、依然として、問題の解決には至っていない。「何でも見てやろう!」と、世界に出ていった小田実と結成された、「ベ平連:ベトナムに平和を、市民連合」は、今にして思えば、党派制を乗り越えて、広く、一般市民・学生を巻き込んで、反戦・反安保の運動の底流を担ってきた思いが、今にして、想い起こされようか?あの新宿駅西口広場を埋め尽くした反戦フォーク集会も、今にして思えば、隔世の感があろう。時代のイデオローグとは、よくいったものであるが、歴史を振り返ってみると、その時代時代に、思想の流れのなかでそうした人物がいたものである。そういう意味からすれば、今の若い人々の中に、近い将来、日本の思想史の中で、リードできるような人物が一体、どれ程、存在しているのであろうか?もはや、年寄りは、そんなことを心配する死滅世代に、なろうとしている。戦後70年、今や、60年安保世代も、70年安保世代も、ところてん式に、時間という無慈悲な流れの中で、死滅視されようとしている。これからの世代で、どんな新しい思想家が、出てくるのであろうか、それとも、既に、どこかで、雌伏しているのであろうか?なかなか、姿・形が、見えてこないのは、淋しい限りである。

今年初めてのゴルフ:

2015年07月27日 | スポーツ
今年初めてのゴルフ:
前回、いつ何処でやったのか、想い出せない。あんなに、昔はやっていたのに、米国駐在時代には、週二回も、やっていたのに、どうしたものであろうか?もう、そろそろ、ゴルフも卒業なのであろうか?もう、18Hもやる必要も無い。一寸、景色を眺めて、ドライバーショットの良いモノが何回か出ればよいし、アプローチもピンにピタリと、寄せることが出来れば良いし、パットも、ロングパットが、一発入ればそれで、万事宜しいかな?それにしても、いつまでも、繋ぎのユーティリティーが、安定しないし、腰の手術後のスウィングの改造により、アイアンが振り抜けないから、ボールが、どうしても、右に飛んでいってしまう。スコア・メイクに必要な100ヤード圏内のショットも、昔みたいに、ピタッとピンに絡まないし、寄らない。元々、ボギー・ゴルファーだから、パー4でも、3オン2パットで上出来である。然るに、アプローチとショートアイアンが、駄目になってきているから、4オン2パットや、3オン3パットのダブルボギーになってしまう。所謂、ダブルボギー病である。おまけに、ショート・ホールでも、アイアンの切れと正確性が落ちているから、ワン・オンしないし、アプローチで、ピンにピタッと寄らない。所謂、寄らず、入らずというダボである。困ったものである。こんなはずではなかったという感慨と自分自身への惨めさが増してゆく。おまけに、女房殿と一緒のプレーだから、おまけのレディース・ティーからだから、距離も短く、イージー・スコアの筈が、パーも一向にとれず、結局、52という、ボギー3つのみで、散々なスコアで、薄暮プレーだから、ハーフで、今年初めてのゴルフは、終了しました。昔なら、帰りに、即、練習場で反省の練習と修正ですが、もはや、その必要も無く、出たところ勝負の有様である。次回は、8月にでも、又、挑戦してみることにしようかな?もう、スコアよりも、ゴルフが出来れば良いかなと言う方へ、大きく、傾き始めています。それにしても、ゴルフの腕が衰えてきました。後は、いつまで、出来るかというところまで、来たようです。昔みたいに、一打一打のデータもとりませんし、反省も今や、する気力も失せました。あの頃の情熱が懐かしいですね!それでも、やっぱり、ゴルフは、楽しいですね。

東芝不正経理を考える:

2015年07月26日 | 社会戯評
東芝不正経理を考える:
当期利益至上主義が、行き過ぎてしまったとか、上に対してノーと言えない企業風土とか、起業ガバナンスの実質的な屋台骨が機能していなかったとか、様々な原因と理由が喧伝されているが、「清貧とめざし」で有名になった東芝出身の経団連の土光も、草葉の陰から、憤っていることであろう。それにしても、東芝一社だけの問題であれば、それで済むかも知れないが、今日、これまでも、カネボウ、オリンパスなどの不正経理を考え合わせると、或いは、国際的な国境を跨がった集団的な損害賠償に対する株主訴訟とか、証券市場での国際的な信用の失墜を考え合わせると、100年の信用毀損というだけでは済まされないであろう。東芝という名前は、自分が、子供の頃、父が仕事の関係から、テレビも、洗濯機も、電気掃除機も、はては、蛍光灯までもが、東芝だった思い出がある。その延長線上で、パソコンも、ダイナブックを使用し続けてきたが、そもそも、そのパソコン事業の失墜や、原子力事業の頓挫も絡み合って、結局不正経理の手法が、3代の社長にも亘って、路線対立も含めて、こういう結果になったのであろうか?もともと、組織の中では、サラリーマンだったら、いつも、期末が近づくと、売り上げや利益の先取りや先送り、経費の調整などで、売り上げや利益を調整するのが当たり前で合ったような気がしないでもないが、逆説的に謂えば、そういうことを事前に、調整出来ないと管理職としては、不適切であるとばかりに云われた時代すらもあったことを想い出す。法的コンプライアンスも企業ガバナンスも、社外取締役制度の形骸化、国際的な会計監査、会計検査体制も、改めて、問い直されることになろう。それにしても、ソニーも、パナソニックもシャープも、何処もかしこも、多かれ少なかれ、何らかの構造的な問題を抱えていて、何処かの隣国の企業情報開示に関する不透明性などを揶揄出来る資格は、なかろう。この先、どういう成り行きになるのであろうか?

東京江戸博物館、「花燃ゆ」展を観る:

2015年07月25日 | 伝統工芸・展示会
東京江戸博物館、「花燃ゆ」展を観る:
様々な人々の生きた時代のグラフが、重なり合っていたり、途中で、途切れていたり、何とも、自分の人生も、よくよく、考えてみれば、所詮は、100年も生きられるわけではない。そう考えると、自分が生まれてから、死ぬまでのグラフの長さは、何処まで行っても、せいぜいが、この先、15年程度であろうか?人生、如何に、生きるべきかということも、この歴史上の人々の写真や手紙や資料をみていると、おおいに考えさせられる。それにしても、昔の人といっても、幕末の人達は、杉 文ではないが、私の父が大正7年生まれであるから、文が亡くなる年が、大正10年であることからして、同時代という同じ時間を共有していたのかと思うと、なかなか、彼らの人生模様というものも、身近に感じられるものである。それにしても、当時の人々は、手紙をよくしたためたものである。恐らく、残っているものだけでも、これだけあるのであるから、今日の如く、データ・ベースやハード・ディスクでもあれば、どれ程の手紙の原稿や著作が、原本として、残されていることであろうか?そう考えると、昔の人は、随分と、筆まめだったということが了解されよう。久坂玄瑞の文に宛てた手紙を再婚の際に、「涙袖帖」という形に纏められているが、合計すると、凄い量の巻紙であることに、改めて、驚かされる。しかも、その内容たるは、どうみても、蛤御門の変で、自刃するという選択肢は、この手紙の中には伺えないほど、日常的な内容である。今や、現代は、メールやショート・メールでのやり取りが当たり前であるが、手書きの手紙というものも、巻紙で、筆で書くのもよいかもしれない。当時の人々の紙に対する思いとか、コミュニケーションに対する考え方の一端が、忍ばれよう。
それにしても、昔の人は、よく歩いたものである。自分の脚で、一体、地図など、販売されていたのであろうか?詳細な地図などは、今日考えてみても、実際に、測量して、歩いて作成しなければ正確性を損なうわけだし、そもそも、正しい地図などは、作成出来ないはずである。ましてや、それが、当たり前に、旅をするときにも、街道を辿るだけで、出来たのであろうか?否、手紙なども、どのようにして、配達されたのであろうか?誰かに、常に、託して運んで来られたのであろうか?藩内の通信や公的な文書のやり取りであれば、まだ、了解できようが、私的な私信のやり取りなどは、飛脚などを使用したものなのであろうか?昔、外国に出張したときに、その会社の事務所に、創業当時の創設者の旧い手紙が、額に入れられて、飾ってあったことを想い出したが、父や母の手紙などは、我が家には、残っているであろうか?筆まめだった父や母からのそう言えば、海外赴任先で、随分と手紙をまだ幼かった頃の子供達宛てに貰ったモノである。そんな手紙も、今や、宝物なのかも知れない。それにしても、よく、昔の人達は、歩いたし、手紙を書いたことに、改めて、感心せざるを得ない。
よく見ると、手紙の毛筆の字体というものも、高杉晋作も、吉田松陰も、久坂玄瑞も、それぞれ、性格が表れているのであろうか?今日では、もはや、私のような悪筆は、パソコンで、打つことで、ごまかしがきくが、当時は、そうはゆかなかったのであろうことは、容易く、理解されよう。フィルム写真が普及する以前の原板写真には、何故か、画像が呆けたところが何とも言えない被写体の人物に、その映るんだという意思が感じられて、面白い。ジッと動かないでいることからくる緊張感なのか、それとも、魂を抜き取られまいとする強い意思が互いに、格闘しているのであろうか、画像がハッキリしていなくても、何か、その被写体の意思を感じざるを得ないところが面白い。奇兵隊士のそれぞれの出で立ちも面白いが、その面構えに、野心が萌え出ているようでいて、生き生きとしている心模様が発露されているようである。又、写真が、発明される前の絵も、或いは、恐らく、後に、写真から描かれたであろうと思われる人物画像も、なかなか、味わいがあって興味深い。まるで、その人物の息遣いと立ち居振る舞いが窺われるようである。とりわけ、様々なルートで伝えられるところの吉田松陰像の絵は、微妙に、その仕草が異なっていて、興味深い。それにしても、紙が貴重な時代だったのであろう。メモ書きもさることながら、余白にも、これでもか、これでもかと、まるで、殴り書きでもしたかのように、小さな文字で、補足やリマークを書き込まれた文字をみていると、その人物の、本というもの、情報というものに対する当時の必至な思いが、熱意が、今にも、こちらにひしひしと伝わってくる。墨蹟も手紙も、絵も、地図も、写真も、すべて、直接的に、時間と空間を越えて、当時、生きてきた人達の必至さとか、重いが、直接的に、現代の我々、観る側に、迫ってくることが、おおいに、感じられて実に楽しいモノがある。テレビの大河ドラマの史実と異なる展開とは違って、真実の資料は、そのまま、我々に、直接、自分の生き方までをも問いかけてくるように思えてならない。

四年目の術後診察:

2015年07月24日 | 健康
四年目の術後診察:
もう、丸3年が経過したのか?早いモノである。脊柱管狭窄症による腰・臀部の痺れによる歩行障害の改善の為に、背中の骨に、チタン製のホッチキスのような針を三箇所に埋め込み、更に、骨の固定用にセメントのようなものを注入するという五時間に亘る微妙な全身麻酔による高度医療手術であった。1年に一度、腰の周り6箇所をレントゲン撮影して、前年との経時変化を比較検討するモノである。一応、問題ない範囲で推移している。それにしても、最近では、腰の痛みは、認識行動学ではないが、脳の方で、勝手に、痛みを増幅するとか云う説も現れているものの、私の個人的なケースでは、痛みよりも、むしろ、痺れといおうか、感覚の神経の麻痺で、感覚の伝達が、鈍くなってしまい、歩行が、続かなくなり、休み休み歩かないと駅までの僅か7分程度の歩行も、結局、途中で、3回ほど小休止して、屈伸して、膝・腰を伸ばさないと、筋肉が硬くなって硬直してしまう訳で、結局、3倍ほどの時間を費やさないと歩けなくなってしまったという症状であった。3ヶ月も順番待ちの結果、東京、西五反田のNTT東日本関東病院(旧関東逓信病院)での若い専門医の執刀による全身麻酔の5時間に及ぶ手術と7日ほどのリハビリのお陰で、今や、休み無しに、1時間半ほどでも歩行可能になり、自転車による四国遍路、阿波決め打ちの旅も(1番から17番まで)、可能になりました。今後は、どしどし、運動を重ねてやりたいことをやって下さいと、担当医師から、お墨付きを戴きました。それにしても、何と数多くの整形外科の患者であろう事か?成る程、これでは、医療費も、年々、増加の一途を辿るわけである。又、来年の診察日を決めて、帰ってきましたが、まずは、ホッとしました!。

「朝からやっている居酒屋」で一杯やるの巻:

2015年07月23日 | 社会戯評
「朝からやっている居酒屋」で一杯やるの巻:
流石、繁華街、新宿である。大都会とは、凄いものである。何でも、その売りが、「朝からやっている居酒屋!?」だそうである。24時間営業の店だそうである。別に、酒好きではない。学生時代の友人が、東京へ出てくるので、それに合わせて、朝9時半過ぎに、3人で会おうというものである。東京で、一堂に会するのは、30年ぶりであろうか?それにしても、驚いたことに、結構、夜勤明けとおぼしきグループか、深夜勤務の翌朝とかの暑気払いとか、理由はどうであれ、「朝からやっている居酒屋」に対する客の需要があるものである。もう、24時間戦えますかというコンセプトは、とうの昔に、廃れたとばかり思っていたが、、、、、、どっこい、大都会の中では、生き延びているモノである。蒸し暑い日だから、まずは何より、いきなり、中ジョッキの生ビール、枝豆である。それにしても、なかなかの盛況である。先週まで、早朝五時起きの6時には、朝食を摂っていた人間の身には、想像も出来ないような光景である。一体、この人達は、土曜日の朝から、何をやっている人達なのであろうか?もっとも、向こう側からすれば、こちらの年寄り3人組は、朝っぱらから、何で、ビールを傾けているのかとも思っているかも知れないが、、、、、、。
話は、例によって、まずは、互いの健康談義から、始まり、政治・経済・年金・格差・家族の話、共通の友人の話、新国立競技場の話題、など、多岐に亘る。久しぶりに、生で聴いた広島弁の「わしゃぁのう」で始まる節回しも、学生時代と一向に、変わらず、そのえげつなさは、衰えを知らない。周りの親しい友人達や知り合いが、次々と鬼籍に入って行く中、お互いに、よくまぁ、この歳まで、生き延びてこられたものであると、、、、、、、、。7番の十楽寺で、お土産に購入した眼病治癒祈願のお守りを手渡して、あっという間もない3時間半に亘る「朝からやってる居酒屋」での貴重なる体験も無事終了致しました。右目の失明済んであると云っていた黄斑点網膜症という厄介な病気も、心配である。お互い、それぞれ、色々な課題を背負いながら、これからも、時々、たまには、一杯やりたいものである。

青木昌彦(ペンネーム、姫岡玲治)氏の死:

2015年07月22日 | 社会戯評
青木昌彦(ペンネーム、姫岡玲治)氏の死:
ノーベル物理学賞受賞の南部氏の死亡記事の少し下で、小さく、スタンフォード大学のノーベル経済学賞候補として謳われた青木昌彦氏の記事が、不思議と、眼に飛び込んできた。どこかで、聞いた聞き及んだ名前である。うまく想い出せない。しかしながら、その小さな記事の中で、確かに、ペンネーム、姫岡玲治という名前が、僅かに、一行、見える。そうか、あの60年安保の当時の姫岡玲治だったのか、島成郎と並んで、BUNDの理論的な指導者で、その安保闘争後、何でも、宇野マル経済学論から、アメリカに渡り、「比較制度分析」という新たな手法を開拓したとは、風聞していたが、もうあの頃の指導者達も、随分と、鬼籍に入ってしまったものである。巷間では、安保戦争法案に対する反対運動が盛り上がっているが、何とも、一つの時代の終焉のような感慨がないわけでは無い。どんな気持ちで、60年安保闘争を自分の中で、総括を行い、どのような気持ちで、米国の大学で、勉強し直し、どのような気持ちで、その後の人生を米国から、日本を眺めてきたのであろうか?そう言えば、僕らの時代でも、経済や政治状況の現状分析という手法が存在したが、一体、今日は、アベノミックスではないが、日本経済、或いは、世界経済の現状分析は、どのように読み解かれているのであろうか?60年当時の姫岡とその後、渡米してからの青木との間には、如何ほどの差異があったのであろうか?亡くなる間際での異国から眺めた日本の安保関連法案は、彼の目には、どのように映ったことであろうか?又、一人、60年安保の時代を担ったひとりが、消えて云ってしまった。もはや、60年安保も、そんな時間のなかで、経過していった時代だったのであろうか?やがて、それは、同じように、70年安保にも云えようが、今日の安保関連法案は、どのように、後世、語られることになるのであろうか?

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その10:現代の便利さについて

2015年07月21日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その10:現代の便利さについて

今の世の中は、カネさえ出せば、何でも、手に入るものなのであろう。自分の力ではなくて、一寸、アクセルを踏み込むだけで、急峻な坂も、難なく、登れるし、ワイパーを駆動させれば、雨も何のその、行く手の景色は、クリアになってしまうものである。防水も、菅笠や簑笠ではない。吸湿速乾の素材を活用した下着やレイン・ウェアーで、快適に、過ごせる。飲料水にしても、竹筒に入れて、湧き水を都度、補給するのではなくて、今日では、保温の効く魔法瓶で、或いは、自動販売機で、水分補給も可能であろう。もっとも、そうした便利さは、その恩恵に預からない情況の中に、置かれたときに初めて、或いは、災害時になって初めて、実感されるのかもしれない。ありとあらゆるものが、進化を遂げ、カスタマー・ニーズを具現化し、これでもか、これでもかと実現化して行く結果、「便利」が当たり前と化してゆくことになる。そして、それに、慣れ親しめば親しむほど、便利さは、当たり前となり、その有り難みは、いつしか、薄れてゆくことになるのかもしれない。いつも、メール中心で、連絡しているのに、今回の旅行中には、葉書で、しかも、虫が這って歩くような字で、友人達に、書き送った。通信手段はどうであれ、近況報告をしあうということは、嬉しいものである。歩くことの意味、早起きの意味、雨に打たれることの意味、不殺生の意味、読経を挙げるということの意味、作法を守ると云うことの意味、当たり前に朝食を戴くということの意味、見知らぬ旅の宿での見知らぬ人と会話や挨拶をするという意味、様々な日常生活の中で、普段自分では気が付かなかったことを教えて貰った決め打ちの旅であったような気がしてならない。喘ぎあえぎ、3時間半余りを要して、自転車を押しながら山中、登ってきた峠をわずか、30分程で、あっという間も、文明の利器では、冷たいエアコンの効いた中で、景色を見ながら、過ぎ去ってしまったことには、実にガッカリさせられた。無事に、これで、1番霊山寺から、17番井戸寺まで、今回の阿波決め打ち、自転車による足馴らし篇は、これにて、徳島市内のホテルに泊まるだけで、無事、日程完了である。徳島駅で、輪行バッグから自転車を降ろしていると、安保戦争法案に反対する労働組合の集会に、囲まれてしまった。明日は、フェリーに乗って、再び、東京港まで、帰るだけである。何とか、三つの台風だけは、うまく、逃れることが出来そうである。一路、徳島市内のホテルを目指して、再び、小雨の降り出した中を、自転車をこぐことになった。この晩は、久しぶりに、美味しい阿波牛と寿司でも食べようかと、既に、気持ちは、俗世間に逆戻りの食欲であるのは、凡人、困ったことである。眉山方向とハーバー・ビューの景色を眺めながら、食べる阿波牛と寿司は、久しぶりの有難いご馳走のように、自分の胃袋には、思えた。日常生活の中で、如何にして、凡人は、遍路の精神を保持できるのであろうか?成る程、山中で、峠越えの時に、山頭火の歌ではないが、「ほととぎす、明日はあの山越えて行く」という感慨が、初めて理解し得た喜びは、部屋の中で本を読んでいるときの感慨とは又、別のものがある。久しぶりに、この旅行中に、何句か、発句してみたが、たまには、旅の中で、やってみたいモノである。
「白鷺の 翼羨む 青穂かな」
「谷の雨 迷い打ち消す 沢の声」 
「冷や汗も 熱くしたたる 鬼龍野(オロノ)谷」
「御仏に 心通わす 雨の経」
「石仏 雨に苔むす 遍路道」
何故か、すべて、雨の中での句であるのは、興味深い。
今回は、無事、足馴らしが終了したが、残りは、天気の良い10月頃にでも、今度は、一挙に、無理することなく、車で、ゆっくり、打つことにしてみたい。次は、作法をしっかりと、初めから、愉しみたいものである。これにて、ウォーミング・アップの足馴らしは、ひとまず、終了とする。次の計画を練りたいモノである。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その9:不殺生は難しい:

2015年07月20日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その9:不殺生は難しい:

十善戒という遍路における行動規範がある:
1. 不殺生:生きているもの、すべての命を大切にする。
2. 不偸盗:物を盗まず、他人のものを大事にする。
3. 不邪淫:性は尊いものであり、節度をもって、性を考える。
4. 不妄語:うそ、偽りはいわず、真実をはなすことを心掛ける。
5. 不綺語:虚飾のことばは話さず、飾らない本当のことばを話す。
6. 不悪口:悪口は言わず、相手をおもいやることばで話をする。
7. 不両舌:どの人に対しても二枚舌を使わず、温かな気持ちで話す。
8. 不慳貪(ふけんどん):強欲をはり、貪ることなく、感謝の気持ちで過ごす。
9. 不瞋恚(ふしんに):怒りを抑え、心を落ち着けて、優しい気分で過ごす。
10. 不邪見:邪な間違った考えを捨て、どの人にも平穏な気持ちで接する。

別に、これらは、遍路の旅の道中に限ったことではない。日常生活の中でも、あって然るべきものであろう。もっとも、熾烈なビジネスの世界でいきていると、そうも言ってはいられないかもしれない。それはともかく、お遍路の旅行中、一番悩ましいのは、初めにあげられた「不殺生」ではないだろうか?とりわけ、今回、様々な生き物が現れる。まずは、「蚊」、「蟻」、「蜂」、「やもり」、「沢蟹」、「雨蛙」などであろうか?面白いことに、宿坊の中には、しっかりと、防虫・防蚊の殺虫剤のべープマットや蚊取り線香が、建物内や室内には、備え付けられている。どうしたものであろうか?それでも、部屋の中まで、蚊は、侵入してくる。もっとも、デング熱が、徳島県で、流行っているという話を聞いたことがないが、何とも、悩ましい限りである。鬼龍野(オロノ)の山中では、雨の降る中で、カーブ・ミラーの所で、一休みしていると、すかさず、大きなスズメバチとおぼしき蜂が、ブーンという大きな羽音を立てながら、耳許をかすめてゆく。恐らく近くに、巣でもあったのであろうか、それとも、偵察隊の一匹であろうか?左手で持つ金剛棒で、叩きつぶすわけにもゆかないし、仕方なしに、その場を撤退・移動することにした。しかも、沢沿いに、坂道を登ってゆくと、小さな赤い「沢蟹」が、足許と自転車の車輪の間をチョコチョコと挟みを立てながら、まるで、威嚇するかの如く、横切って行く、これでは、車両で登ってきたら、間違いなく、無意識のうちに、轢き殺してしまっているに違いない。実際、小諸の里山では、真夏の夜間に雨の日などは、小さな雨蛙が、ピョコピョコと飛び跳ねて道を横切ってくる。実際、沢カニではないが、小さな雨蛙も、雨水に誘われるようにして、道端に出てくるので、これも又、要注意である。極めつけは、2番の納経所で、扉を開けると何と、一緒になって、ヤモリとおぼしき蜥蜴が、納経所の中に、入ってきてしまった。私は、踏みつぶすわけにもゆかないので、じっと、待っていたら、納経所の女性の人が、出ていて下さいとばかり、そのヤモリを外に追い出すようにして出てきた。それにしても、不殺生とは、なかなか、至難の業である。虫除けスプレーを皮膚に塗布したり、長袖のシャツを着用して、出来るだけ、不殺生を徹底するように、促されているように、思われるが、確かに、悩ましい限りである。それにしても、日常生活の中でも、不殺生を実行するとなると、これ又、難しい課題であろう。それでも、普段気が付かないようなこんなことに関しても、改めて、考え直す機会を持てたことは、実に、有難い貴重な体験である。野宿しているとまむしにも遭遇すると云われている。日常生活の中で、厳格に実行することは、至極、難しく、悩ましいことである。そんな事柄も、今回、学ばせて戴いたことは有難い話である。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その8:早起きと朝食を食べるという習慣:

2015年07月19日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その8:早起きと朝食を食べるという習慣:

現役の時には、何が何でも、朝、決まった時間に起床して、身支度を調えて、出勤しなければならなかったが、引退してしまえば、前日、多少飲み過ぎても、何も、決まった時間に起きる必要は無い。もっとも、どういう訳か、ゴルフをしていた頃には、必ず、目覚まし時計を掛けていても、自分で、どんなに、前日遅くに就寝しても、眼がぱっちりと開くモノであることは全く、不思議である。それに較べて、毎朝、午前5時に起床して、6時半頃には出発するという生活を繰り返していると、こういう生活のリズム感が身体の中に宿ってくるモノであろうか?自然に、バイオリズムがそうなってくるのであろう。恐らく、鬱病などと云うものも、ある種のタンパク質が脳内細胞に溜まり始めるのが原因であるとも云われるが、ある種のバイオリズムがどこかで、変調をきたした結果、精神的な障害が生じるのであろう。この短い自転車遍路巡礼のなかで、何か、「汗をかく」と云うこと、それは、どうやら、身体が汗をかくだけでなくて、実は、頭も、脳内の血流も一生懸命、筋肉も体内の全細胞も、緊急事態であると思ってだろうか、実は、運動をして、汗をかいているのかも知れないと、こんな風に、勝手に考え始めました。多分、朝、早くから起床することも、又、声を上げて、お経をあげることも、きちんと、朝食を摂取することも、どうやら、生活習慣のルーティンの一環であって、或いは、農作業でも、肉体労働でも、何であれ、労働するということも、とりわけ、汗をかくこと、陽に当たること、雨に打たれることも、ずぶ濡れに濡れることも、大いなる自然・宇宙と一体となる契機や橋渡しなのかも知れないと感じ始める。実は、人間の肉体は、その精神との間で、そうした関係性の中で、微妙に保たれているのではないかと思わざるを得ない。食事を摂取すると云うことも、いつもカロリー計算をしてしまうが、今回は、毎日、腹が減っていて、朝と晩の一日2回の食事は、それどころではない。提供された食事は、嫌いなものも難なく、口にして、お腹の中で、その日のエネルギーの回復と明日へのエネルギーの蓄積に廻され、決して、累々と蓄積されて行くモノではない。毎日が、プラス・マイナスが、零ベースで、均衡していて、バランスよく、機能しているのであろう。これが、自然に、毎日、行われていれば、しかも、これが、毎年、毎年、長年、行われていれば、決して、糖尿病予備軍と正規軍の間を行ったり来たりする必要は無いのであろう。身体を動かすと云うことは、そういう意味からも、バランスが、よくなるのであろう、そしtれ、何よりも、自然と、或いは、広い意味での空海の目指した宇宙との一体化を所作振る舞い、読経、印を結ぶことで、或いは、真言を唱えることで、目指すことになるのかも知れない。そういうことの一端を、ほんの少しだけ、実感出来るものなのかも知れない。比叡山での「千日回峰行」などというモノは、更に、食事も水も運動量も、ましてや、場所もとんでもない急峻な山岳地帯で行うわけだから、凡人の遍路とは較べものにならないのであろうが、それでも、そういうことのほんの万分の一でも実感出来ることは、ありがたい貴重な体験である。一日山道を夜間に、60Kmも歩けるのだろうか?もはや、これは、歩くのではない、翔ぶが如く、まるで、山猿の如きであろうか?それも、千日もの長い期間に毎日、天気も体調も関係なし、季節も、しかも、睡眠時間3時間も限られていたら、肉体的な疲労はどのように回復させるのであろうか?精神に異常はきたさないのであろうか?最期の9日間に亘る断食、断水・不眠・不臥の荒行はどうなるのであろうか?それだけでも、こちらは、宿坊や民宿・ホテルで、戴きますと、ご馳走様と唱えるだけでも、(うっかりすると、腹が減っていて、そんな約束事すら忘れてしまいそうであるが、、、、、)ひょっとして、万分かの価値が、そこにはあるのかも知れない。いつでも、そうしたことが出来ることであると確信することと、実際に、毎日、毎日、実行することは、これは又、別の次元なのであろうが、それでも、凡人は、それに気が付くだけでも、宜しいではないだろうかと勝手にそう考える次第である。さて、帰宅してから、きちんと、戴きますとご馳走様が云えるであろうか?そろそろ、身体が、とりわけ、太腿の筋肉や脚が悲鳴をあげ始めていることに気が付く。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その7:12番焼山寺は、タクシー活用:

2015年07月18日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その7:12番焼山寺は、タクシー活用:

11番藤井寺の近くの旅館、吉野で一緒になった歩き遍路の人達は、「遍路転がし」を越えて、12番焼山寺に、雨の中を向かったが、朝6時半頃に出発して、お昼過ぎには、踏破する予定であったと云っていたが、、、、、、。どうしたであろうか?無事、問題なく、登り切れたであろうか?藤井寺の奥まった山の脇に、焼山寺へと登ってゆく狭くて、険しい登山道が、山肌に沿って、並んでいる苔むした旧い地蔵群の中に、見受けられる。少々、そこを金剛杖をつきながら、登ってみたが、なかなか、風情のある急峻な山道である。もっとも、こちらは、足許不如意だから、そもそも、そんな急峻な山道を登って行けるはずもない。やはり、その遍路を志す一人一人の特性に合った打ち方があっても宜しいとは、歩き遍路の人達は、云っていたが、、、、、、その体力に応じて、時に、バスを利用したり、鉄道を利用したり、タクシーをある区間だけ、活用したりと、臨機応変に、対応することが望まれるそうである。成る程、まずは、怪我をせずに、無理することなく、疲れたら休み、休みで、熊本からやってきた同宿になった歩き遍路の人の話では、去年は、この場所で、脚を痛めてしまい、途中断念したそうである。今回は、再度、挑戦で、ゆっくりと、全部を廻る予定だそうで、出来れば、高野山までも一挙に、打ちたいと云っていたが、、、、、どうしたであろうか?後30日ほどで、うまく、結願に至るであろうか?こちらは、そんな風にはゆかないので、まずは、神山温泉、四季の里で、旅館のスタッフに、焼山寺への道のりを尋ねたところ、事前に、調査していた徳島バスでの輪行袋による自転車登坂を、途中の杉杖庵の先から、歩き遍路で、打ってゆこうと考えたが、何でも、バスの停留所が、寺のずっと手前で、その停留所から歩いても、年寄りの脚では、2時間以上は掛かりそうであるとの説明であった。地図に記載されている小さな数字の標高は、わずか、450m程度で、たいしたことなさそうであるが、実際には、高度差、300mでも、随分と急峻である。後で、タクシーの運転手に聞いた話であるが、山、又、山、谷に辿り着いくと再び、又急峻な山が、待ち構えていて、これでもか、これでもかと、身体もさることながら、精神的に、ガックリ落ち込んでしまうそうである。成る程、そういうことなのであるのか?!途中には、2足歩行ではなくて、重い荷物を背負ったまま、四つん這いで登らなければならない場所もあるそうである。確かに、前日一寸覗いた藤井寺からの急峻な山道も、なかなか、地図だけでは分からないものである。神山温泉からのタクシーの道は、それでも、下りてくる道を逆に車で登ってゆく道であるから、まだ、楽であるが、それでも、道幅が狭くて、くねくねと曲がりくねっている。伝説の蛇が山を焼き払ったという話もまんざら、伝説だけではなさそう(?)である。インターネットで、事前に調べておいた旅行記では、杉杖庵(せんじょうあん)から、大きな杉の木のある車道と歩き遍路道の分かれ道が、確かに判別・了解されたが、そこからでも、まだまだ、急峻な山道が続いていた。これでは、確かに、自転車を杉杖庵に置いて、歩いて行っても相当なもので、やはり、私の場合には、タクシーで打つ選択が、正しかったようである。そう納得せざるを得ない有様であった。実に、急峻な石階段の先に、大きな杉の木に蔽われた山寺が、現れる。いやはや、凄まじい山の中であるが、年寄りに便利なように、大きな駐車場が、備え付けられてある。(300円の特別駐車料金を戴くのも納得である。)帰りには、You tubeのビデオで見たとおり、駐車場から、山門へ至る境内の舗道に、石像を見ながらきたが、これが、苔むした旧いモノではなくて、4-5年前に完成した石像群であるとは、若干、興ざめであった。これは、おおいに、残念なことである。境内では、ゆっくりと、作法に則り、鐘も、しっかりと、撞いたり、読経もゆったりと、行なうことが出来た。こちらは、大した願い事もあるわけではないが、一緒になった男性のお年寄りは、昨今の自分の有様を細かく報告し、お願いしていた。成る程、こういうことも、やるのであると、、、、、、。様々な一人一人に応じた参拝の仕方があるものであると、改めて、了解される。単に、読経するだけではないようなのである。これは、もはや、一人の遍路による空海との精神的なコミュニケーション、心的交流なのであろうか?きっと、毎年、一年の報告とお礼と新しいお願いと、又、再び、お礼という未来永劫続きそうな繰り返しの作法なのであろうか?中年の四人組のオバサン達は、一緒に、せいので、揃って般若心経を読経していた。帰る下り坂の道では、黙々と、自転車を重い荷物を積んで、喘ぎ乍ら漕いでくる若者に遭遇した。本当にご苦労さまです!。何のお手伝いも出来ないのが、残念ですと心の中で、健闘を祈りながら、杉杖庵(遍路の原型を作った場所)で、一時停止してから、再び、長い坂道を、クーラーの効いた車で、下っていった。それにしても、外は、一寸出ただけでも汗びっしょりになるほど蒸し暑い!成る程、人間とは、一寸、文明の利器に慣れてしまうと、便利に慣れてしまうものなのだろうか?
「遍路転がし」という意味が実感される11番焼山寺打ちである。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その6:自販機と水:

2015年07月17日 | 健康
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その6:自販機と水:

歩き遍路の人の説明では、人間は、3日くらい食事をとらなくて、何と言うことはない、決して、死ぬことはないが、水を補給しなければ、間違いなく、死に至ると、とりわけ、山の中に入ってしまったときには、人間は、所詮、水分から出来ていることを改めて再認識すると、成る程、1リットル以上の水を携行していても、雨でも関係無い、汗をかくどころか、水分補給しないと身体が持たないのである。そんな分かりきったことが改めて実感される。走行すればするほど、歩けば歩くほど、水分を身体が必要とするのである。ジュースなども、もはや必要ない。湧き水でも雨水でも良いのである。山中で、喘ぎあえぎ、自転車を押しながら、歩いていると、今度は、ガス欠ならぬ、水欠に気がつき始める。こんな山の中で、一体何処に、水が、入手出来るのか?いざとなれば、沢の水を汲めば宜しいかな?そう思うと案外、気が楽になるも、水を汲もうとして、沢に転落はしないかな?怪我はしないだろうか?何とも、人間とは、色々な最悪の事態を考えるモノである。まぁ、車が通る道だから、倒れても何とか、誰かが、自転車を見つけてくれるであろうか?死ぬことはないであろうと、、、、、、。どれ程先に、自動販売機はあるのであろうか?必要な時には、案外、気にもならないし、自動販売機の存在それ自体に気が付かないモノである。必要でないときには、眼に入らないモノである。そして、本当に、必要とされるときには、手に入らないモノなのであろうか?何か、まるで、銀行からの融資のようではないか?必要な時には、手に入らず、必要で無いときには、結構、備えがされている。今回の旅行も、同じような教訓が導き出される。必要だと思って持参したモノは、あまり、用を足さず、実際、必要になったモノは、持参していなかったとは、実に、皮肉である。雨のために、予備として、持参したモノは、役立たず、アナログのポリ袋のようなモノのほうが、役に立つとは、困ったことである。それにしても、予想と予測、想定内と想定外とは、一体、何処から、こうした差異は、生じてくるのであろうか?まだ、旅行だから良いものの、これが、人生そのものだったら、どうなるのであろうか?安全対策上、被っているヘルメットの中から、耳紐の辺りに、どうやら、熱いお湯のようなモノが、したたり落ちるようになってきた。どうやら、汗が、暖まってしまったようである。いつも、冗談で、冷や汗しかかかないのに、汗は、冷たいモノと思っていたのに、何とも、皮肉なことである。
後で、そんな光景を想い出して、一句浮かんだ。
「冷や汗も 熱くしたたる 鬼龍野(オロノ)谷」
おまけに、行けども行けども、下り坂が終了すると、再び、峠で登りである。又、登りながら自転車を押す。この繰り返しである。やや、街の外れとおぼしきところへ出てきたので、自動販売機も期待できようものの、全く、コンビニも食料品店も自動販売機も見当たらない。いよいよ、残り少ない水を最期の一口残して、飲み干して、自転車を漕いでゆくと、行く手に、お店の横に、自販機が見えてきた。まるで、思わず、手を合わせて、拝みたい気持になるのは、都会の自販機とは大違いである。神山温泉に到着するまでに、結局、2回ほど、自動販売機で、冷たい水分補給をした。しかも、水とビタミン・ドリンクと一寸甘いネクターである。それにしても、車ならば、冷たい飲料水を積み込んでおけばそれで済むわけではあるが、自転車では、そうはゆかないことを改めて、実感する。13番大日寺でお握りを食べ終えてから、難行苦行、神山温泉に到着するまでに、結局4時間ほど、午後5時頃に、ヘトヘトになって、転がり込むことになった。山中、二人同行して貰った金剛杖を丁寧に洗って、床の間を見ると、紫陽花の花が、床の間に活けられていた。窓の外には、水車小屋が目にとまった。やっと、景色にも、目が行くようになったのであろうか?何せ、100m程度先しか、これまでは、見ていなかったような気がしてならない。景色は、本当に天気がよいときでなければ、或いは、心に余裕がなければ、愉しめないモノであることが、再認識された。ヌルッとした天然温泉の神山温泉で、この日は、ゆっくりと、疲れ切った筋肉をほぐし、入浴できた。

四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その5:山中雨に打たれてひとり思う:

2015年07月16日 | 旅行
四国お遍路の旅、阿波決め打ち脚ならし篇:その5:山中雨に打たれてひとり思う:

毎朝、五時半には、起床して、朝食を6時には終了して、旅支度を調えて、6時半には、出発するという日程を繰り返していると、不思議と、身体が、それに慣れてくるものであるから、不思議である。昨今流行の朝方早朝出勤ではない。この日も、歩き遍路の人達を見送ってから、自転車に、荷物を積んで、出発するときに、うっかり、金剛杖を忘れるところであった。何処の寺にも、必ず、数多くの金剛杖や、ビニールのポンチョや雨具類、或いは、菅笠までもが、忘れ物として、遺されている。もっとも、お遍路の人々は、それらの遺失物を拾ってゆく訳ではないから、そのまま、遺されていることになるのであろうか?何はともあれ、毎日雨模様であるから、朝から、毎日、雨具だけは、しっかりと、メンテナンスをしておかなければならない。この日も、前日には、風呂に入りながら、洗濯機と乾燥機をフル活用して、まとめ洗いである。それにしても、下着も、白いポロシャツも、ズボンも、レインウェアーを着用していても、雨と自分の汗で以て、びしょびしょになり、宿でも、乾燥機を利用しない限り、着替えを持っていても、乾くことがない。やっと、この日になって、初めて、着替え分も含めて、湿っぽい衣服から、乾燥した衣服に着替えることが出来た。リュックも、防水加工や撥水加工などでは、駄目で、やはり、しっかりとした、カバーを掛けて、二重袋にでもしていないと、中身までもが、濡れてしまうことになる。(結局、ゴミ袋を被せて凌ぐという緊急手段を講じたが、結構、アナログが案外、役に立つモノであることは皮肉である。)確かに、歩き遍路の人は、リュックに、分厚いナイロンの袋を被せて、背負って歩き始めていた。靴も、又、防水の靴でなければならないことが、既に、再認識されたが、手遅れであった。靴の中に古新聞紙を包んで湿気取りに入れたが、そんな程度では乾燥しないモノである。「お気をつけて、お元気にいらっしゃって下さい!」と送り出しましたが、程なく、曇り空からは、無情にも、一粒、二粒と、雨粒が、又、今日も落ちてきた。天気予報では、回復するような予報であったが、どうやら、その期待も、空しく、裏切られることになる。192号線をひたすら、徳島駅に向けて、東方向へ、17番井戸寺を目指して、自転車をこぎ始めるが、通学途中の高校生の自転車の早いこと、この上ない。やはり、ここら当たりで、太腿の筋肉痛と尾てい骨が痛んできて、休み休みゆかなければ、先が思いやられる。徳島駅行きのバス停で、一時休憩していると、乗客が、「ご苦労様です」と労いの言葉を掛けられた。不思議なことに、これまで、何回となく、鉄道の踏切を横切ったが、悉く、何故か、電車が、偶然、通過するのに、遭遇する、その都度、止まって、再び、ヨイショと掛け声とともに、単線の線路を横切らなければならない。そんなに、頻繁に電車は通らない筈であるが、、、、、実に、不思議である。しかも、17番井戸寺に通じる踏切は、異常に狭くて、前後・双方から、車両が渡ろうとすると、両脇の自転車は、通るスペースがない。こちらは、朝の通勤や通学で、急いでいる訳ではないので、車両が、すべて、渡るのを待ってから、踏切を渡ることにした。狭い道なりである。17番井戸寺では、ベルギーからやってきたという歩き遍路の老夫婦と一緒になったが、二人で、ガイドブックを見ながら、ゆっくり廻るそうで、「have a nice trip !」といって、道中の互いの無事を祈りながら、別れてきた。比較的、この付近は、寺と寺の距離が近いので、気分的には、気が楽である。後は、16番観音寺、15番国分寺、14番常楽寺と、そして、少し離れて、13番大日寺へと、午前中には、逆打ちで廻れそうで、宿で作って貰ったお握りを、ゆっくり、大日寺で、食べ終えてから、この日の宿の神山温泉四季の里へ、軽い気持で、向かう予定であった。内心、楽勝、楽勝!と、タカをくくっていた節が見られる。既に、この頃になると、読経も作法も、慣れてくると同時に、自信もついてきている自分に気が付く。精神的に余裕が出てきたのであろうか?13番大日寺に到着する頃には、既に雨が強くなり、山門の横の椅子で、雨宿りも兼ねて、お握りを戴くことにした。同じく、数人の歩き遍路の人達が、雨具の再点検を行なっていた。ここまで来る途中の道路標識には、神山町役場・神山温泉への方向を207号・21号・438号、約16キロと表記されていたし、地図で、確認しても、これなら、食事を終えてから、1時頃に出発しても、3時半頃には、充分到着できるであろうと勝手に、頭の中で、想定していたが、、、、、、。どっこい、実際には、4時間程度も掛かろうとは、この時点では、全く予想だにしていなかった。
少し、走り始めると、街を抜け始めるが、どうも、道の様子がおかしいのである。舗装された広い道は、徐々に、曲がりくねり始めて、しかも、傾斜が、初めは、ダラダラと、そして、きつくなり始め、道幅も狭まってくる。更に、どうも、山の方へと向かっているらしい。スマホのナビで、現在位置を確認しても、丸い点が、なかなか、進まない。もはや、自転車で、漕いで登れる傾斜ではなくなった。やがて、人家は、気がつくと、もう、見当たらない。道が、沢に沿って登っていると云うことは、結局、山か、峠へ入ってゆくことを意味するわけで、雨は、ますます、激しさを増してきて、もう一度、地図を再確認する。207号、この先、21号と合流して、438号で、神山温泉へと至ることは、どうやら、間違いではないらしい。地元の軽トラや乗用車が、登り坂を難なく、ポンチョで、安全帽を被り、後方安全確認の為に、フラッシュ・ライトを後ろに光らせながら、自転車を押している自分を追い越してゆく。気温が上昇していない割には、体温が高く感じられてならない。どうやら、防水のポンチョの内側で、汗が、あふれ出して、びしょびしょになっているかららしい。おまけに、やたらと、喉が渇き出す。100m程、登っては、その都度、スタンドを立てて、水を飲み、小休止し、位置確認をカーブ・ミラーの電波情況の良い場所で、確認するが、なかなか、一向に進まない。一体、こんな山道の中で、どうなるのであろうかと漠然と不安を抱き始める。歩くということは、自分で、前に歩を進めないことには、誰も助けてくれないことが嫌やが応にも理解される。まぁ、当たり前と云えば至極当然なことであるが、、、、、、。とんでもない山中に、迷い込んでしまったものである。今からでも引き返して、路線バスの通る道に向かうべきであろうか?沢沿いの100m程度毎のカーブ・ミラーで、小休止する度に、そんな迷いが、脳裏をよぎる。鶯の鳴き声がやたらと、耳に響く、沢を流れる河の音は、雨にもまして、ザァー、ザァー、と水しぶきを上げて、これでもか、これでもかと、迫ってくる。そんな中、狭い山道を登りながら、一句、浮かぶ。
「谷の雨、迷い打ち消す、沢の声」 まるで、沢の音が、自分の心に宿っている迷いを、打ち消すかの如く、このまま、間違いなく、進んでゆけば、目的地に辿り着くと示唆しているかの如くに聞こえ始める。後で、地図を見ると、地名に、鬼龍野(オロノ)とか、猪ノ頭という、地名を見つける。成る程、昔の人が何故、こんな名前をつけたのが、納得がゆく。もう引き返せる地点ではないようである。神山森林公園入り口へ800mの標識を見つけるも、ゴルフ・コースでのロング・ホール、パー5のようには、ゆかないものである。距離感とは、情況が異なるときには、本当に、面白いモノである。それでも、喘ぎ乍ら、更にこれを過ぎると、今度は、暗い隊道が、目の前に、現れる。桜○○トンネルとか、書いてあるが、緑の枝で、判別できない、いよいよ、この先は、下りの開始だろうかと期待する。確かに、期待通りである。もっとも、下りでも、山道だから、しかも、雨の中であるから、ブレーキの効きが悪くて、道も濡れているので、慎重に下ってゆかなければならない。それでも、この先、まだ、長い坂が、幾つも、幾つも、続くことになる。既に、3時間以上は、押して、止まって休んで、漕いで、押して、、、、、、この繰り返しである。もはや、自転車を漕ぐのではない。押して、歩くことになってしまった。神山温泉の標識が見える頃には、既に、五時近くになってしまった。一体、いつになったら、着くのであろうか?水も、いよいよ、尽きてきそうだが、自動販売機などは、なさそうである。どうなってしまうのであろうか?