体験の先に見えるものとは?:
国境を超えた爆買いが、ものの見事に、現地でのネット通販に変貌を遂げてしまった後から、今度は、モノではなくて、『こと買い』や、『体験』であると、しかも、それらは、収穫体験や、住民が暮らしているさまをのぞき見的に、取り敢えず、身近に、農業での収穫・栽培・草刈りでも、何でも良いから、料理までもが、幅広く、体験の対象となるものである。実は、そうしたことに、『価値』が、潜んでいることに、キッザリアではないが、職業体験も含めて、広い意味で、潜在的な大きな価値があることに、なかなか、気が付かないものである。それでは、一体、全体、こうした体験の先に見えるもの、地平は、どんなものなのであろうか?成る程、人間というものは、自ら、体験をしてみないと、今日のVRでは無いが、バーチャルなリアリティーは、体験できても、出来るものと出来ないものとがある。戦争などもその一つかも知れないが、もっと、身近なもので、『疑似体験』とでも云おうか、人間は、その体験を通じて、人と人が、互いに、考え方を共有したり、異なる思考形式を確認出来たりするものであろうか?さすれば、そうした体験をすることで、それが、どんなに、小さなものであれ、兎にも角にも、触ってみたり、食べてみたりすることで、或いは、生活を一緒にすることで、何らかの、劇的な化学的な反応が、その先に、生じてくるものなのかも知れない。謂わば、抽象論を、頭の中で、徹底的にイメージするのではなくて、自らの手で、自分の手で、肌で、感じることが、そもそも、必要なのかも知れない。そうすることで、誤解や、偏見や、中傷といった類のものが、見事に、氷解してしまうのかも知れない。もうこうなると、謂わば、ソフト・パワーではないが、グラス・ルーツ的な、草の根の個々人同士による外交活動にも通じることになるのかも知れない。その意味で、観光などと云うものは、観るだけでなくて、来てみて、触れて、体験して貰うことだけでも、大変な価値が、じつは、そこには、横たわっているのかも知れない。そう考えると、一緒に、汗を流して、同じメシを食うと云う事でも、実は、もの凄い価値が、潜在的に、有しているのかも知れない。更には、一緒に、体験を共有し、労働の後に、風呂に入って、互いの汗を流し合ったり、同じ釜のメシを食う事も、ヒョッとして、『兄弟』と呼び合える関係にまで、発展させるきっかけと礎を有する程の何ものなのかも知れない。そう考えると、異なる文化とか、異なる環境の下で、暮らしている人達、異教徒(?)とも、一夜にして、見事に、兄弟たり得るチャンスが、その体験の先には、あるのかも知れない。音楽とか、芸術とか、何でも良いから、或いは、普通の和食の料理を通じてでも、何でも良いから、一緒に、同時に、時間と空間を体験を通じて、共有することの先には、どうやら、こういう『異文化理解』へと、更には、排外主義の予防にも、なりうる可能性を、実は、秘めているのかも知れない。