小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

2017年02月01日 | 映画・テレビ批評

BS映画、『夏の庭、フレンズ』を観る:

2年程前の秋になるだろうか、同じく、湯本香樹美原作の、主演、本田望結、中村珠緒の『ポプラの秋』を、幼なじみのクラスメートのご主人がカメラマンだったことから、映画を観たことを想い起こすが、その時から、こちらの映画も、一寸、気になっていた。どちらも、肉親ではないが、知り合いである『老人の死』を通じて、子供達が、成長して行く過程を、繊細な文章と暖かい眼をもって、見守り、応援する中で、子供達は、やがて、少年・少女から、大人へと成長して行くというストーリーであろうか。児童文芸賞を受賞しただけあって、この映画も、三國連太郎のお爺さん役は、今となっては、もう、観られないのは、残念である。単なる子供達の仲間の肉親の葬式から、独居老人のその死の過程を見守ろうとする中で、やがて、そのゴミ屋敷同然の家の庭の雑草除去から始まって、家の室内外の改修へと、自発的に、行動を起こし、やがて、お爺さんの体験した辛い戦争中の、身重の女性を手に掛けてしまった話や、その復員後の結婚生活の破綻などの身の上話を通じて、少年達が成長してゆく過程も、そのクラス担任の若い女の先生が、実は、そのお爺さんの別れた奥さんの孫だということが、後に判るとか、そして、その奥さんに、遺産を実は、密かに、遺言で、残していたことなどが、葬式の際に、判るとか、最後の焼き場での、痴呆症を発症した奥さんが、跪きながら、一言、『お帰りなさい、ご苦労様でした!』という一言も、この3人の少年達の尽きぬ行動力とそのモチベーションの源泉とは、一体、何処から湧き出てきたのであろうか?微妙に、それぞれの少年達の家庭環境が、映画の中で、ちりばめられていて、とても、興味深い。何気ない日常生活の中でも、それは、様々なシーンに、例えば、庭の雑草を抜く場面でも、魚屋の少年が、錆びた包丁を研ぐときでも、スイカを美味しく、一緒に食べるときでも、アイロン掛けをするときも、台風の大雨の時でも、綺麗になった、広々とした庭にコスモスの種を播くときも、身の上話を聞くときも、成る程、冒頭の雨の中のサッカーの練習も、後で、見終わって初めて、気が付くモノがある。伊集院静が、『別れる力』か、何かで、云っていたが、『人間は、肉親でも、知り合いでも、誰であれ、別れることで、成長し、その別れることを体験する力をもつという事自体も、必要なのである』と、とりわけ、それが、死別であれ、別の種類の別れであれ、ふとしたきっかけで、知り合いになった、お爺さんとの『心の交流』から、その死別を通じて、これらの3人の少年達は、きっと、大人になっていったことであろう。主題歌を歌っていたザードの坂井も、逝ってしまったし、三國連太郎も、淡島千景も、亡くなってしまったが、この少年達を演じた子役達は、今、どうしているのであろうかとふと、考えてしまう。それぞれに、どんな別れ方をして、大人の階段を登っていったのであろうか?相米慎二監督による何気ない日常の情景に込められた小説の一文一文の描写は、なかなか、俳優達の演技とは別に、又、見終わった後に、じわじわと、印象に残るものである。小説に於ける想像力とは異なり、映画の描写も、実に面白いではないか。