小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

NHK「老後破産」に考える:

2014年09月30日 | 映画・テレビ批評
NHK「老後破産」に考える:
何でも老人漂泊社会だそうである。既に、無縁社会とか、独居老人生活とか云う言葉で、これまで、表現されたりしてきたが、「老後破産」となると、もはや、心穏やかではない。考えてみれば、格差社会とか云われても、金持ちにも、貧乏人にも、万人に、等しく訪れるものは、「時間の経過による老い」であることは、事実であろう。一生懸命に、家族のために、或いは、自分の為に、働いてきたにも拘わらず、病気やら、伴侶の死や、或いは、子供の死を契機として、年金だけでは暮らして行けない、しかも、自宅や田畑を所有しているから、(そんなものは、一文の徳にも成りゃあしないにもかかわらず)生活保護すらも受けられないという何とも皮肉な状況が、現実化していると、、、、、、。医療・年金・住居のバランスが、著しく、崩れてしまったから、或いは、過去の制度の設計自体を支えていた社会や家族制度の背景が変容してしまい、当時の有り様とは、全く異なる社会環境が招来してしまったが故に、それらの矛盾が、弱者、とりわけ、年金生活に頼らざるを得ない単身の老人達に、そのしわ寄せが及んできていると、、、、。考えてみれば、これは、何も、日本に限ったことではなくて、北欧の高福祉を目指した先進国でも、或いは、急速な少子高齢化社会を間もなく迎えようとしている発展途上国でも、多かれ少なかれ、程度の差はあろうが、似たような状況を醸し出すことは、必至であろう。それにしても、これからの世の中は、「みんな余裕が持てないもの同士」が、支えてゆかねばならない社会なのであろうか?それとも、そんな余裕すらなくなってしまい、年寄りも若者も、等しく、みんな困窮して、漂泊してしまう社会になるのであろうか?異口同音に、「若い時には、こんなことになるとは、思ってもみなかった」と語っている。万人に、等しく、平等である、「時間の経過という老い」は、最近、余り耳にしなくなってしまった社会保障制度の課題を、改めて、問題提起していることは間違いないであろう。それにしても、毎日、温泉施設にやってきているお年寄り達は、一握りの恵まれた老人達なのであろうか?少々、考えさせられてしまう。それとも、来たるべき近未来の自分たちの現実、或いは、今は若者達の近未来の来たるべき現実なのであろうか?どうなのであろうか?

石榴の実がなり始めてきた:

2014年09月29日 | 自然・植物・昆虫
石榴の実がなり始めてきた:
一体、何年かぶりであろうか?いつの頃だったか、想い出せない。今年は、女房殿が、強剪定で、去年切った枝先に、幾つかオレンジ色の花が咲き、順調にゆけば、実になると愉しみにしていたが、すべて、花が実をつけるという訳にはゆかず、幾つかの花は、強い雨風に打たれて、花自体が、萎れて落ちてしまったが、、、、、、、、。何気なしに、窓のガラス越しに、目をやると、何やら、透明な玉ねぎのような実が、枝先に、たわわに二個ほど実っているではないか?順調にゆけば、晩秋には、真っ赤に色づき、ルビー色の実が自然にはじけてこよう。何年か前には、とても、綺麗な色合いの石榴が、熟していて、その実を食したところ、とても、美味しかったことを、なつかしく想い出す。肥料もやらず、良く結実するものである。もう幹の太さも知らぬ間に、10cm程度になっている。きっと、実付きをよくするには、毎年、きちんと、枝先を切ってやる作業が必要なのかもしれない。徐々に、透明な、まるで玉ねぎのような実が、秋の日差しを浴びながら、赤く染まってゆくことであろう。それにしても、こんなに、玉ねぎのようだったとは、知らなかった。窓ガラスを開けると、何処からか、金木犀の花の甘い香りが、ほのかに、漂ってくる。もう秋も、だんだん、深まってくるのであろうか?ずっと、これまで、愉しませてくれていたピンク色の八重の木槿の花も、そろそろ、店じまいの感が漂い始めている今日この頃である。もう、蝉の声は、いつの間にか、気が付けば、聞こえなくなってしまった。

災害緊急時でのツィッターの強み:

2014年09月28日 | 社会戯評
災害緊急時でのツィッターの強み:
緊急時でのマス・メディアの役割は、今や、ツィッターや動画投稿サイトに取って代わられ始めていることが、先般の広島での土石流災害の時も、今回の御嶽山の噴火災害をみても、もはや、否定は出来ないであろう。ニュースでの偶然のNHKのクルーによる爆発の撮影よりも、頂上付近から投稿された画像を見ると、その迫力と云おうか、生死を分けるような切迫感が、リアル・タイムでこちらに側に、伝わってくる。もっとも、この投稿者達は、無事、下山できたのであろうか?砂礫が、降る中、画面は、真っ暗になり、そこで、途切れているが、その後のツィートは、どうなっているのであろうか?更に、投稿を検索していたら、何と、頂上付近で、爆発1分前に、皮肉にも、「1人でのんびり御嶽山」というように、池のブルーと雲海画像と火口が、晴天の下で、はっきりと、映っていたが、この投稿者は、一体全体、その後、どうなってしまったのであろうか?諸々の画像を見ている限りは、まるで、下山する登山者達が、尾根を這いずり回るような蟻ん子のように、見えるが、その背後には、噴煙が黙々と迫り来る。これは、CG画像ではない。他ならぬリアルな現実である。しかも、そこには、生死を懸けた、つい先ほどまで、お昼のお弁当を愉しんでいたり、晴天下の紅葉登山を楽しんでいた登山者の現実があるわけである。それにしても、NHKの先般放送された「メガ・ディザスター」の中でも、御嶽山や桜島の噴火の可能性と火山マグマの動向を特集していたが、まさに、その警鐘の如く、微弱性の火山地震の後に、水蒸気爆発が、突然、起きるとは、誰が想像したであろうか?地震予知も火山の爆発の余地も、まだまだ、科学のメスが、なかなか、入る余地がないのが現状なのであろうか?雲仙普賢岳の火砕流の悲劇も、決して忘れることは出来ないが、今回の御嶽山の爆発も又、残念乍ら、犠牲者が、増加しそうな勢いである。救援隊・救援医師団にしても、ヘリコプターの操縦にしても、決死の覚悟で、最期は、人間の力でないと、所詮は、救出は無理なのであろう。ロボットの遠隔操作という訳には、簡単にゆかないようである。流石に、軽トラック大の噴石が、降り注いでくるようでは、たまったモノではないし、高温のガスや灰が降り注ぐのでは、しかも、辺りが真っ暗な状態での下山では、たまったモノではない。中高年の登山者も多いであろうし、情報が整理されるに連れて、もっと、詳しい被害状況が明らかにされてくるかも知れない。30数人が依然として、心肺停止の状態では、おおいに、心配である。

責任能力という怪:

2014年09月27日 | 社会戯評
責任能力という怪:
何でも、生活保護中であったとか、知的障害者の手帳を有していたとか、或いは、黙秘を続けていて、弁護士を要求してきたとか、責任能力がない可能性があるので、責任能力を立証できず、刑事責任が問えるかどうか、分からない可能性もあるとか、様々な憶測が入り乱れているが、一体、どの警察発表が正しく、マス・メディアの報道を信じたら良いのであろうか?謎は、深まるばかりである。それにしても、最近、弱者による弱者への事件が、増加しているのは何故なのであろうか?戦争中の社会的な弱者による弱者への戦争という名を借りた暴力的な抑圧の転移と心理的な構造が酷似しているのは気懸かりなところである。盲人への知的障害者による暴行事件や、若い女性の誘拐殺害事件とか、幼女・学童への誘拐未遂事件とか、そのたびに、精神障害とか、知的障害者の問題が、喧伝される。一体、健常者が、まともでも、その健常者ですら、今日、肉体的にも精神的にも、誰が、自信を持って、健全であると云えるのであろうか?それにしても、社会の中で、社会的な弱者を見守るシステムが、なかなか、機能していないことは、残念なことである。病気や疾患による精神の障害なのか、知的な発達障害なのか、健全であると自負している人間ですら、一瞬、自分は、本当に、大丈夫なのかと、危ぶまれる程、全く、怪しくなる世の中である、ホームレスを支援しているボランティアの人達や、善意で、知的障害や発達障害を抱えている人達を支援している人達には、全く、やりきれない事件ばかりであろう。またぞろ、刑罰の強化とか、隔離政策とか、性的な犯罪者に対する韓国並みのGPS足枷を装着させるとかという議論が、出てくるのであろうか?成熟した社会での良識というものも、これまでとは違った風向きに変わりつつあるのであろうか?こういう事件が繰り返される度に、北風が吹きまくってくるような、善意がまるで、ますます、肩身の狭い思いをするような事態背景に、なりつつあるような気がしてならない。もう少し、事件の解明を待たなければ、何とも、云いようがないのが、現状だろうか?

老々犯罪という構図:

2014年09月26日 | 社会戯評
老々犯罪という構図:
老々介護という言葉があるが、最近では、老人による老人を食い物にする犯罪が、露見するに至っては、この社会は、相変わらず、弱者が、同じ弱者を標的にする構図なのであろうか?それにしても、痴呆症を患う資産家の老女を、同じ老人同士が、まるで、共食いの如く、その資産を奪うに至っては、世も末である。そこには、共助とか、協働とか云う概念は、微塵も感じられず、地域社会での互助なる精神も、見当たらない。孤独な老人による、或いは、精神的な病気でもあろうと想像すらされる老人による万引きも、今や、若者を上廻る勢いである。単なる家庭の崩壊とか、地縁・血縁の崩壊社会とか、無縁社会とか云う言葉で、簡単に、語り尽くせない何か、社会のドロドロしたような底流が、流れているような気がしてならない。資産を守るとか、継承するとか、公証人を選択するとか、自分で判断が出来る内に、何らかの形で、きちんと対策を立てておかなければ、いつ何時、善意を装った同世代が、知らぬ間に、自宅に、出入りするような光景が当たり前になるやも知れない。オレオレ詐欺や特殊詐欺なども、依然として、勢いが止まらないが、今後、老人同士での犯罪や詐欺などが、増加してくる可能性が強いという兆候なのであろうか?様々な現代的なトレンドを事前に知っておかなければ、先行き危ういことになりかねない。

日本社会は安全であると云う陥穽:

2014年09月25日 | 社会戯評
日本社会は安全であると云う陥穽:
それにしても、国家の安全保障が叫ばれれば叫ばれるほど、その反面で、日常生活上での子供の安全とか、女性の一人歩きとか、生活弱者とか、逆に、様々な昨今の事件を考えると、心肌寒くなる。それにしても、外国の友人達は、異口同音に、日本社会は、夜遅くても、女性が1人で、歩いていても安全であるとか、云うので、最近では、私は、「決して、そんなことは無くて、殺人事件や誘拐も多くて、油断召されるな」式に応えることにしている。それにしても、毎回、子供の誘拐未遂や変質者による事件の度毎に、子供の安全とか、地域社会・ご近所の見守りとか、集団登下校の必要性とか、街中への監視カメラの増設とか、地域・共同社会による声かけ運動とか、様々な問題点・対策が指摘され、その都度、議論されるものの、根本的な決め手が見つからず、再び、痛ましい事件が繰り返されるのが、この社会の現実であろうか?監視カメラというと、すぐさま、個人のプライバシーとか、特高警察による監視という雰囲気からなのか、プライバシーの侵害など、反対論が巻き起こってしまう。しかしながら、もはや、今日、イギリスでの幼児による幼児殺害事件の犯人逮捕をみても、一定の犯人捜査には、人間の目よりも、今日の画像処理のような科学技術が優れていることは間違いなく、それで、子供達の命や安全が少しでも守られるのであれば、そうした措置を講じるべきではないかとも思われるが、、、、、。考えてみれば、宮崎某による猟奇的な連続幼女誘拐事件ではないが、そもそも、この社会から、こうした犯罪を根絶する事自体が、難しい以上、少なくとも、社会的な弱者を保護できうる最善の策を、講じるべきで、それこそが、大人の社会的な使命であると思っても不思議ではない。もう、声を掛けるだけでも、逆に、「変なおじさん」と誤解されるかも知れず、それこそ、犬でも連れ歩いていないと、誤解されてしまう、そういう時代なのかも知れない。何とも、情けない時代になってしまったものである。新聞などは、今日、何故こういう事件が生じたのかという背景は、一方的に、週刊誌に任せっきりで、事件報道という事実関係だけを伝えるだけで、根源に迫る報道は、一向に見られない。時と共に、事件は風化し、忘れ去られ、同じ哀しみが将来、再び、繰り返されるのでは、たまったモノではない。やはり、時々は、後ろを振り向きながら、歩く必要があろうか?困った社会になってしまったものである。これといった決め手がないのが、厄介であり、問題解決に至らないのが、現実である。

高齢者共働き世帯の増加という怪:

2014年09月24日 | 社会戯評
高齢者共働き世帯の増加という怪:
何でも、65才以上の老人世帯で、約72%程度が、共働きであると云う調査があるそうであるが、その理由が、生活への将来的な不安であるらしく、生活の生きがいの為というのは、わずか20数%であるとのことである。一体全体これは、どのように理解したら良いのであろうか?公的年金を受給していても、それだけでは不十分で、今日、定年の延長や老齢女性の活用とか、一般的には、体の良い理由だけが、如何にも、人手不足を補うためとか、老齢者による消費の下支えであるとか、美味しい理由が、取って付けたように、解説されているものの、本当に、そんな理由が当たっているのであろうか?如何にも、もっともらしいが、誠に、怪しく、心寒くなる次第である。本来であれば、老後の生活を安心して暮らせるような社会保障制度が充実し、老人でも生きがいを求めて、老人ボランティアなどの積極的な社会との関わりを求めるような生きがい目的が、理想であるが、それが、将来への生活不安等という理由が大勢を占めるようになると、これから先の若い人達の世代には、一体全体、どんな社会になるのであろうかと考えると、全く、心寂しくなってしまうのは、私1人だけであろうか?そんな精神的にも、物質的にも余裕のない生活を引退後も、いや、死ぬまでしなければならないそんな社会は、御免被りたいものである。そんなことまでして、消費の下支えとは、たまらないものである。

スコットランドの自治権投票の思う:

2014年09月23日 | 社会戯評
スコットランドの自治権投票の思う:
結局、NOが、多数を制したわけであるが、様々な問題が、例えば、通貨・安全保障・年金問題などが、明確に、討議されないにも拘わらず、情緒的な独立か否かという、二者択一の選択を迫る自治投票に、何故、なってしまったのだろうか?それにしても、ユニオンジャックの国旗の由来を改めて、確認出来たことは、皮肉である。何でも、年齢の若い人ほど、独立に賛成で、年金を貰っている年寄りは、とりわけ65才以上は、将来への不安からか、独立反対、現状維持を選択するという皮肉な結果に終わった。若者は、未来に向かって、挑戦し、年寄りは、現状維持の保守的な考え方なのであろうか?いくら、就業率の低さや、待遇の不満が原因とは云え、若い人達が、独立票の方が上廻ったと云うことは、今後、遠くない将来のいつかに、再び、自治権の拡大要求運動という形で、運動が再燃することは間違いなさそうである。それにしても、スペインのカタロニア独立運動とか、中国のウィグル自治区とか、いずれにしても、何らかの形で、直接、間接的に、影響を及ぼしそうであることは、言を俟たないであろう。それは、単に、国内問題だけではなくて、世界的にも、様々な問題を提起してこよう。翻って、我が国に目をやると、琉球国独立運動というものは、日本には、今日、果たして、存在するのであろうか?或いは、アイヌ民族独立運動とか、自治権拡大とかの運動は、存在しうるのであろうか?それとも、そんなものは、日本には、指示されず、結局、存在し得ないのであろうか?薩摩征伐とか、琉球王国とか、北海道開拓史とか、改めて、日本の歴史も、郷土史も、身近に、考え直してみる必要があろう。

急激な円安をどうするのか?:

2014年09月22日 | 社会戯評
急激な円安をどうするのか?:
実質賃金が、一向に上向かない間に、金融政策だけで、急激な円安の進行を許し、しかも、一日で、一円も円安にぶれるとは、一体、どこまで、円安が進行するのだろうか?市場関係者によれば、110円台にまで、進行する可能性を否定しないアナリストまで、出てくる始末である。一体全体、どうなっているのであろう、円安に伴う企業の株価が大きく上向くわりには、会社の内部留保は、ますます、厚くなるにも拘わらず、一向に、労働者の懐のほうは、置き去りにされているのは如何なものであろうか?政府による官製春闘の音頭取りも、もはや、大した賃上げの成果もなく、実質的な賃金の上昇は、急激な円安に伴う輸入燃料のコスト・アップにより、或いは、輸入品の原価の上昇により、一見、デフレを解消したかの如く見られるも、健全な形での消費性向の向上は、一向に見られず、結局、究極のデフレ克服・成長戦略の実施など、どうも、見通しが怪しくなりつつある。投資家は、まだしも、株取引を行っていない一般人には、どうやら、縁遠い事態に陥りつつある。円安に伴う輸出の伸びも、机上の思惑とは異なり、既に、日本経済の構造は、第三国への生産拠点の移転や、三国間貿易による海外利益を配当という形で、利潤を循環させる形や、現地での再生産投資という形で、実施されているのが実態であり、必ずしも、日本本国からの直接的な競争力が、通貨のみで、単純に、優位を保つという形では決してないのが、実情であろう。さすれば、誰が一体全体、この豊かさを享受しつつあるとでも云うのであろうか?個々人なのか、一部の資産家なのか、それとも、一部の世界規模の企業なのか?答は、やがて、自ずから、明らかとなろう。

我が亡き愛犬に酷似したワンちゃんに出遭う:

2014年09月21日 | 動物・ペット
我が亡き愛犬に酷似したワンちゃんに出遭う:
我が愛犬との散歩を、これまで、日課としていたにも拘わらず、亡くなってしまうと、良く通った散歩道も、何気なしに、寂しく感じられてしまうものである。そんなことで、いつしか、散歩の脚が遠のくことになってしまった。そうなると、徐々に、糖尿予備軍から、退役していたはずであるのに、知らぬ間に、再び、予備軍再編入の危険性が高まるという皮肉な血液検査の厳粛な結果が通知されて、やむなく、再び、日課の散歩を、ノルディック・ポールを活用して、歩くことにした。そんな中で、偶然、我が亡き愛犬に、そっくりなワンちゃんに出遭ってしまった。体つき、模様、体格もほぼ、類似していて、思わず、買い主に声を掛けて、挨拶させて貰った。それにしても、良く酷似したワンちゃんがいたものである。その昔、我が愛犬の別れた姉妹犬と偶然、公園で出遭った事があったが、それ以来の驚きである。今度は、我が女房殿と一緒に、このワンちゃんを借り受けて、散歩に一緒にゆきたいものである。ひとつ、楽しみが出てきた。

「伊藤若冲と京の美術」展を覗く:細見コレクションの精華

2014年09月20日 | 社会戯評
「伊藤若冲と京の美術」展を覗く:細見コレクションの精華
美術品の収集家というものは、庭作りと一緒で、なかなか、一代では成し遂げられないものである。最低でも三代という時間が必要なのであろうか?余程、混乱の最中、例えば、廃仏毀釈運動などで、二束三文の仏教美術品などが、幸か不幸か、海外に、持ち出されて、逆に、後世、評価が高まるなどは、例外なのかも知れない。或いは、逆に、存外、そんなものなのかも知れぬが、、、、、。中東の戦乱の最中、イスラムの古代美術品などは、一体全体誰が、保護しているのであろうか?イスラム原理主義には、そんなことは、関心事では全くないのであろうか?まぁ、それはさておき、今日、過去の歴史の中で、人々は、どんな暮らしをしていたのかということは、ある種、美術品である屏風図や実際に使用された道具を観て初めて、ある程度の想像が可能になろうというものである。その意味で、屏風図や、絵画・墨跡や道具というものは、やはり、歴史的に大きな意味合いを有すると云っても過言ではない。
原画というものは、今日、繊細なまでの筆のタッチをコピーやプリンターで、再現できうるのであろうか? 答は、否である。だからこそ、美術館で、実物に目を懲らして、眺めるに足るだけのことはあると思われる。まるで、時空を超越して、タイムスリップでもするかの如く、作者と現代の観る側の我々が、真剣勝負で、見つめあっているようなものなのであるのかも知れぬと思うと、何故か、ワクワクしてきてしまう。そんな心躍る瞬間が、こういう本物の美術展示品には宿っているような気がしてならない。これが、コピーであれば、そうはゆかないであろう。出来れば、どんな筆を使い、どんな紙に、描き、どんな出で立ちで、筆をあんなに一気呵成に、迷わずに、書き上げることが可能なのであろうか?どんな修行を積めば、そんな作品が出来上がるのであろうか?製作現場に、動画でもあれば、取っておいて貰いたいものであるが、江戸時代では、そうはゆかぬか?「千年、慧眼の徒を俟つことを厭わず」、とは、まさに、若冲が、言い放った言葉が、今日でも、突き刺さってくるのは、何故だろうか?或いは、「細かなることに神宿る」、成る程、そういうことなのであろうと、鶏のとさかや足先を表現する絵を観ていて、初めて実感する。そういうことを考えながら、美術品を鑑賞するとは、とりわけ、作者と観る側の心理的な真剣勝負を伴った優しい対話、或る時は、厳しい闘い、又、或る作品では、技法を挑戦的に、アピールするような斬新な問いかけ、本物とは、長い年月・時間を経過しても、限りなく、燦然と輝く何かを有するものなのであるのかも知れない。屏風図の中に描かれた風景も人物も、皆、それぞれに、まるで、今もそこで生きているような感覚に陥るのは何故であろうか?
それにしても、景観や建物だけではなくて、人物のしかも、遊女歌舞伎や見世物小屋の様子や狂言・人形浄瑠璃やら、相撲風景などの情景、等も含めて、まるで当時の祭りやエンタテイメントを目の辺りにするかの如きである。「ちょうしょう踊り図屏風」に描かれている踊り子達は、一寸、ユーモラスであるが、今にも、絵の中から、飛び出て踊り出しそうな感じである。一体、どんなリズムで、どんなお囃子に合わせて、踊っていたのであろうかと想像までしまう。今風のよさこいソーラン踊りにも繋がるものがあるのかも知れない。そう思うと、この絵を眺めていても、当時の民衆の農業に対する豊穣の祈念を、踊りという形で、表しているのには、感心してしまう。墨蹟というものも、又、不思議なものである。私のような悪筆の人間には、現代のPCでのタイプ書きが、一番ふさわしく、あんなに、綺麗な字で、一字一句、乱れることなく、書きあげられるとは、、、、、、と感心しきりである。千年も前に、これを書き上げた鎌倉時代の禅僧の蘭渓道隆や桃山時代の千利休の墨画などは、それを眺めるだけで、何か、作者と対峙しているような錯覚を催してくるのは、実に楽しいではないか?又、荒木村重の幼子として、乳母の手で、辛うじて命を免れて、後に絵師となった江戸前期の岩佐又兵衛の「歌仙絵色紙」などは、書かれた歌文字を通じて、その人柄や人生模様までもが、想像されてしまう。そうすると、書かれた文字自体よりも、作者の生い立ちや人生が、おおいに気に掛かってくるから不思議である。茶の湯に使用された鉄の茶釜、香合、水差し、花入れ、筆筒、茶碗、硯箱、蒔絵、茶器、貝合わせ、等、どれをとっても、前から後ろから、斜めから、上からと、舐めるように眺め回しても、飽きないものである。それを使用したヒトのことを考えるのも、なかなか、面白いというものである。どういう人が、どういう気持で、使用し、どういう理由で、これを作らせたのか、或いは、購入したのか、等…、本阿弥光悦や俵屋宗達、尾形乾山、円山応挙の作品については、一寸、ここでは、省略して、先を急ぐことにしよう。伊藤若冲と弟子達である。今回の展示品の中で、個人的な好みから云えば、墨画の中では、まずは、「群鶏図」、一体どのようにしたら、あんなに、一気呵成に、尾っぽを描くことが出来るのであろうか?どんな筆を使用して描かれているのであろうか?何種類の筆を使い分けているのであろう?済みの濃淡は?等…。次に、「虻に双鶏図」に見られる、構図と虻に注がれる鶏の視線の妙、或いは、胸毛の描き方、どうしたら、そんな当たり前の情景を、あんな風に、描くことが出来るのであろうか?弟子達の中でも、伊年や成乙と呼ばれる四季草花図や秋草図団扇などは、なかなか、興味深いものがある。若冲は、墨画も、趣きがあろうが、やはり、著色の「糸瓜群虫図」が、今回は、出色ではないだろうか?微細に丁寧に描かれた虫に食われたような枯れかけた葉の葉脈まで、マイマイも、キリギリス、カマキリ、蜻蛉、雨蛙も、或いは、右下の糸瓜の腐りかけたような傷の描き方、虫の腹部の描き方、まさに、全体の構図と個々のパーツ・細部、「細かきところに、神宿る」という若冲の精神の神髄が垣間見られる。これは、なかなか、写真では、余程、何倍にも拡大しない限り、肉眼でしか、分からないのではないだろうか?本物にしか、分からない、すごさであろう。もう一つは、「雪中雄鶏図」の雄鶏の羽毛の描き方、赤いとさか、目つき、脚の指一本一本、皮膚の紋様、爪先の爪まで、どんな絵筆とどんな絵の具と、どんな手法で、筋目書きという手法も、どんな筆使いで、製作現場を見てみたいものである。まるで、今にも、絵の中から、勢いそのままに、歩いて飛び出てきそうなそんな感じまでする。
それにしても、当時の作者と作品を通じて、仮想の中で、時空を超えて、対話が出来るという至福の時間が持てることは、実に、美術品鑑賞とは、楽しいことであることは間違いない。
館内は、次のようなテーマに基づいて、展示品が分かれている。(に遊ぶ:名所遊楽と祭礼の世界:屏風図を中心に)、(の美意識Ⅰ:王朝の雅、Ⅱ:茶の湯の心)(若冲との絵師:華開く個性):新潟県立万代島美術館にて、11月3日迄開催中だそうです。(月曜日休館)是非、ご覧になられることをお薦めします。それにしても、長野県から、新潟県に入るにつれて、家の建て方が、やはり、大雪を想定した三階立て作りに変化して行くのを眺めるのも、なかなか、興味深いものである。稲穂が、黄金色に、輝き始めていた。刈り入れ時なのであろう。そして、長い冬の準備に入るのであろうか?

李香蘭とテレサ・テンとマレーネ・ディートリッヒ:

2014年09月19日 | 社会戯評
李香蘭とテレサ・テンとマレーネ・ディートリッヒ:
山口淑子氏は、丁度、私の両親の世代に重なる。従って、同氏が、李香蘭であったことは知っていても、実際には、リアル・タイムではない。謂わば、母や父の青春時代のアイドルというフィルター、それも、昭和と言う時代の中でのとりわけ、戦争の最中の青春アイドルというフィルターを通してである。従って、私達の青春の中では、所詮、軍部に利用された可哀想な女優、日中戦争の狭間で、軍部の文化・宣伝活動に利用された人物で、とりわけ、参議院選挙へ出馬するのも、過去の人気を背景にした自民党の利用された集票マシーンという位置づけで、残念乍ら、その本人のその後の戦争を憎む思いは、私には、何か、通じてこなかったものである。そんな中で、彼女が中国語で謳った「何日君再来」と言う唄は、皮肉にも、テレサ・テンが、中国語と日本語で、美しく、情感込めて、歌いあげている。だから、私にとっての李香蘭と言う存在は、テレサ・テンという台湾人のフィルターを通じて、感じられることになるという一種の皮肉であろう。日本人が演じた李香蘭が歌いあげた歌を、中国人の歌手が、再び、日本語で歌いあげるという、、、、、。李香蘭とテレサ・テンは、皮肉にも、時代こそ違え、二つの異なる相反する国家と言う狭間の中で、揺れ動いた歌手なのかも知れない。一人は、満州と日本・中国、そして、テレサは、中国と台湾という二つの祖国の狭間である。或いは、片や、満州国の五族共和という理想・幻想で有り、片や、天安門事件での民主化幻想と言っても良いのかも知れない。ドイツのマレーネ・ディートリッヒも、或いは、ナチスとの構想の中で、アメリカに、自由の新天地を求めて、国を棄てた女優でもあったのかもしれない。いずれにしても、イデオロギーの対立や、戦争を契機として、女優・歌手人生が大きく変わってしまったのかもしれない。よくよく、考えてみれば、李香蘭の目指すところと、上海AKBの目指すところは、70年の時を経ても、同じ座標軸なのかも知れない。唄の心というものは、簡単に、国家イデオロギーや国境を超えてしまうのかも知れない。それにしても、又、一つの時代が、忘れ去られようとしているのか?父も生きていれば、確か、9月20日で、96才、母は、10月12日で、90才になる計算であることを想い起こした。両親達の青春時代も、これで、終了してしまったかの如くである。ご冥福を祈りたいものである。

一寸、気になるCM:

2014年09月18日 | 社会戯評
一寸、気になるCM:
昔は、何でも、銀行の合併などが行われる時に、社名を順番に、続けて表記することが流行ったが、余りに長すぎて、結局、別の名前になってしまったり、何が何だか分からなくなってしまうことがあった。損保ジャパン、日本興亜、損保ジャパン、日本興亜、と横長のプラカードを持ちながら、お互いが、左右から結合するかと思いきや、今度は、損保ジャパン、日本興亜、そして、ひまわり生命までもが、連続的に、横一線に結合する始末である。一体、この順番は、何を基準に考えられるのであろうか?買収なり、合併する側の会社なのか、対等合併なのか、比率次第なのか、それとも、何か、特別なクライテリアがあるのであろうか?そう言えば、過去にも、第一・勧業銀行、富士銀行、太陽・神戸銀行、三菱・東京・UFJ銀行、もう、名前が変更されると、以前の出身母体の会社は、どこであったのかも、簡単に、失念してしまうものである。もっとも、組織の統合の主体であるべきホールディング・カンパニーは、歴然と、その上に、君臨する傘のような存在であることは間違いないであろうが、それでは、そんな長ったらしい会社の名前を何故、すりこみの如く、CM化するのであろうか?その一方で、組織内では、出身母体の派閥の対立を回避するために、頭取を交代制にしたりしながら、組織内の融和を考え出してきているのが、片や、現実である。では、無限大に、増え続けることは可能なのであろうか、これはもはや、まるで、顧客をおちょくっているかのような感じであろう。資本主義の下では、企業とは、永遠・無限大に、果てしなく、膨張・拡大するアメーバーのようなものなのであろうか?次は、どんな会社を冠したCMが、継続して行くのであろう。お楽しみである。健康年齢の延びに応じて、企業寿命説も、企業の名称も、延びつつけるのであろうか?

海外向け放送の充実:

2014年09月17日 | 社会戯評
海外向け放送の充実:
海外広報活動、並びに、日本からの情報発信という意味では、我が国は、全く、話にならない。何でも、NHKの海外放送の五カ国語への翻訳・放映を検討していると云われているが、今頃になって、そんなことをする始末なのであろうか?困ったことである。誠に、内向きな国である。朝日新聞の従軍慰安婦の報道取り消しでも分かるように、今や、こうした問題は、確実に、国家としての情報戦略発信という観点から、然るべく、見直されるべきであろう。東南アジアに於ける海外放送のコンテンツの充実も然り、NHKの海外放送の五カ国語化も含めて、そうしたきめ細かな対応が、コンテンツの質も含めて必要であろう。もっとも、何処かのトップの質の問題もあろうが、そんなことを云っている余裕は、今更あるまい。世界は、そんな甘い情報戦の中で、置いてゆきこそすれ、日本が世界舞台に立つのを決して待ってはくれない。今や、オリンピックに向けて、民間のATMは、15ヶ国以上の言語に対応する準備をしているというのに、まだ、せいぜいが、5ヶ国程度なのか?外交・文化・観光・習慣・生活を総合的に、情報の受発信を出来るような一日も早い体制つくりとコンテンツ作りを待ち望む次第である。

IT金融業界の平等的な競争条件とは?:

2014年09月16日 | 社会戯評
IT金融業界の平等的な競争条件とは?:
金融業界に身を置いて仕事でもしていない限り、デイ・トレーダーですら、今日のIT全盛の金融市場で、どのように、個人の投資家は、その平等性を担保され、同じ土俵の上で、売買できるのであろうか?それも、国内だけではなくて、世界的な規模での海外からの金融等も含めてである。自動販売システムなるソフトを駆使して、注文が出てから、取り消される間のわずか0.3秒で、不平等な不正取引や相場を欺くような手段で、不当な取引が、罷り通っているのが現実であると云われている。昔みたいに、電話で、証券会社の担当者を呼び出して、株式の売買など、今や、夢の又夢である。そんな地球規模でのITを駆使した一部の不正取引に騙されて、損害を被るようでは、もはや、自由平等な競争環境とは言いがたい。考えてみれば、監視する側も、それなりの技術力を有して、不正の芽を自動検出できるシステムやら、監視体制を確立し得ない限り、同じ土俵とは云えないんではなかろうか。主要国の証券監督者国際機構(IOSCO)でも、金融庁同様、こうした不当な競争環境に対する監視の枠組みを構築する必要性が叫ばれているのがせいぜいであろう。それにしても、1秒間で、数千回の取引が行われる超高速取引が、実際の相場とは異なる、何かを歪めているような気がしてならないし、これを本気で、是正しなければ、自由平等な土俵はできないであろう。個人投資家で、そんな高速取引が可能なのであろうか?それでも、残念乍ら、これが、冷酷なIT全盛の金融市場取引の現実なのであろうか?いつも、子羊同然の個人素人投資家は、プロの狼の前では、為す術を持たないと云うことなのであろうか?