小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

米澤穂信著、「黒牢城」を読み較べる

2021年09月19日 | 書評・絵本

米澤穂信著、「黒牢城」を読み較べる:(7年前の遠藤周作著、「反逆」上・下巻と)

 

今から、もう50年くらいの前の元怒れる若者(イカレタ若者)は、司馬遼太郎の「播磨灘物語」から、黒田官兵衛という戦国武将のイメージを歴史小説の中から、膨らませてきたのが、始まりだろうか、コロナ禍の中で、NHK大河ドラマも、ご多分に漏れず、途切れ途切れのまるで、オムニバス映画のような形で、2020年の「麒麟が来る」も、光秀の生い立ちから、本能寺の変に至るまでの様々な人間関係、とりわけ、未だ、古文書には、発見されていない歴史的な史実とは異なる、所謂、風評も含めた、立証されていない事や、恐らく、そういう人間関係もあったことは、あり得べかりし可能性があるような人間関係も、含まれていて、確かに、2014年に放映された同じ大河ドラマの「黒田官兵衛」で、描かれていた人物像に、興味を抱き、先ず、7年前に、下記するような遠藤周作の「反逆」上・下巻を読んでみた事を想い出した。(もうそんなに時間が経過したことにも驚く)

更に、昨年、途切れ途切れに放映された上述の「麒麟が来る」も、伏線になっていることも、事実であろうが、何よりも、古文書を通じた実証主義的な見立ても確かに、正統的、教科書的ではあるものの、やはり、作家の独自の創造ととりわけ、ミステリー作家による推理というか、古文書の解釈をする上で、独特のユニークなミステリアスな解釈を著すことは、誠に、作家冥利に尽きるものがあろうかと思われる。とりわけ、1年もの長きに亘って、暗い湿った土牢の中で、一体、どんな会話、密談が、交わされたのか、それとも、されなかったのか、ということよりも、読者としては、やはり、そこには、何らかの古文書や史書には残されることがない、限りなく、フィクションには違いないが、事実ではないとは言い切れない何かが、描かれても構わないのではないだろうかと、その真偽の程は、ひとえに、その読者の判断と評価に、委ねられて然るべきではないだろうか?

社会に出た頃、上司が、「両親と上司は、自分には選ぶことが出来ないものだから、諦めるほかないね!」と言われたが、後年、自分が部下を持つ身になったときに、「自分よりも優れた部下が来たときには、どのように、育てるべきなのか?」、確かに、木村村重は、官兵衛を、或いは、光秀を、或いは、秀吉を、信長すらも、自らの器量とを較べるときに、言い知れぬ未来への不安と、自らの過去の成り上がりとしての歴史を振り返るとき、実際、(主君の追放・乗っ取りという)下克上で逆転してしまった主君と家来の関係の中に、常に、裏切られるのではないかという疑心暗鬼と、益々募ってくるその蓋然性を、自らが、否定しきれなくなったのではないだろうか?だからこそ、家来も、一族郎党・女子供も含めた部下を残して、毛利への直接的な援軍の直談判を行うことを最優先させて、実行したのであろうか?それとも、嫡男の嫁は、光秀の娘であり、実家に、離縁され戻されたとは言うものの、ミステリー作家の推理としては、本願寺や長島の一向一揆勢や、雑賀衆鉄砲隊や、佐久間信盛 ・松永久秀・筒井順慶、宇喜多の離反、或いは、高山右近などのキリシタン大名・南蛮寺宗派との水面下での連携・呼応が画策されても決して、おかしくない状況ではなかろうか?更に、読み進めると、(本のあらすじにも関係するので、詳しくは書けぬが、、、、兜首の実地検分の仕方も、興味深いものがあり、討ち取られた首の形相にも、様々な吉凶があるものであることを知る。又、死化粧を施す女房達の役割、検分に関する透明性と正当性の判定)、そこには、寸分の隙があれば、それが禍根となって、分裂や反目から、派閥対立や、内ゲバ、離反へと繋がり兼ねないというそういうリスク、どれ一つをとっても、リーダーたるものは、枕を高くして寝ることは許されないのであることが分かる。今のサラリーマンにも、組織・運動体、或いは、政党の争いにも、共通するものであるのかもしれない。

黒田官兵衛は、後年、関ヶ原の戦い後も、ひたすら、九州の地で、領土拡張をしっかりと隠居の身を蓑傘のようにカモフラージュとして、家康から、詰問された際にも、平然と堂々と自説で応えたり、竹中半兵衛は、信長の命令に背いて、官兵衛の嫡男の松寿丸(後の黒田長政、有岡城の土牢に幽閉されていた間の人質を匿って、命を救ったが)、後年、長政が家康と会談したときに、「おぬしの左手は、その時、何をしていたのか?」(何故、脇差しで刺殺しなかったのか?と示唆したと言われているが、、、、)そういう一介の秀吉の軍師、小寺官兵衛から、後に、独立創業する形になる黒田家へと勇躍する事実を示唆しているような時期の話である。村重の謀反から1年で落城、その3年後の1582年には、本能寺の変が起き、村重自身も、1586年に、52歳で、没している。

戦国武将の倣いに背いて、部下を捨て、妻子を捨て置いて、出奔したことからなのか、初めは、「道糞」(道端に転がっているくそったれの糞)という名前から、茶人として、秀吉の「御伽衆」への参画後には、「道薫」と改称した所以までは、明かされていないが、、、、、、。その改名理由も、興味深いところである。松永久秀の自害と共に、打ち壊されたと言われている、茶器の平蜘蛛に対して、村重は、一方、高麗茶器を、光秀への支援・和睦のための道具として、有効活用しようとしたことは、後の茶人としての意地を感じられないこともないが、、、、、。その対照的な選択の違いは、一体、どこから来るのであろうか?

 昔、若い頃、ある友人が、物事から、徹底的に、逃げることを繰り返して、結局、逃げ切れたら、そのことは、結局、大したことは無いのだと思うことにすると言っていたが、借金でも難でも逃げ切れるのならば、それも良いかも知れないが、松陰ではないが、今、死すべき時と判断したら、直ちに死すべきだが、そうすべきでないと思えば、逃げることを厭わないことであると、まるで、逃げの小五郎と久坂玄瑞の生き方と死に方を示唆したような、或いは、榎本武揚と土方歳三との対比をも思い起こさせるものがある。しかしながら、籠城や、或いは、ガダルカナルや沖縄の洞窟で、火炎放射器の攻撃を受けざるを得ないときには、自分は、どんな選択を行うであろうか?莫大な債務を背負ったときに、1円でも、毎月支払いますと言った途端に、自分も、家族も、一族郎党共に、磔になることは、ないだろう。それにしても、碓氷峠の横川の駅の河原には、磔川原という名前がついていて、夜通過する度に、ハンドルを握りながら、往時を偲ぶと、心寒いものがあったことを想い出す。

 

 

 

(7年程前の)2014.07.01 ブログより

 

=遠藤周作著、「反逆」上・下巻を読む:

大河ドラマに出演している田中哲司(後に、仲間由紀恵の旦那になるが、その時は、私にとっては、未だ名も知らぬ存在であった)という俳優が、荒木村重役をなかなか、うまく演じていたので、改めて、荒木村重を考察する過程でこの作品を知ったので、読むことにした。戦国大名というものは、全く、主君を選ぶことも命懸けであること、又、その一族郎党ともども、ひとつ間違えば、謂われのない、或いは理不尽な理由で、磔にもなってしまう。まるで、今日のサラリーマンの人事抗争さながら、もっとも、自己破産しようが、今日では、少なくとも、磔にはならずに済むから、まだましなことであろうか?
小説というものは、ある種、作られたものであるとはいえ、当時の勝者の歴史、敗者の歴史をどれ程、反映しているかは、著者の歴史観にも関わって、おおいに、異なるところである。又、歴史上の古文書やら、後世に作成された伝聞書も、想像力と読み方次第では、不名誉な部分は、余り触れられず、おおいに面目を施した部分のみが、今日、歴史学上は、語られることが、おおいものである。それらの歴史学上の課題を見据えても、尚、今日的にも、なかなか、このタイトルの有する「反逆」なる言葉は、歴史上の人間関係の相関図を改めて、眺めても、面白いものがある。

物語は、天正6年(1578年)の荒木村重の叛乱に始まり、本能寺の変(1582年)、山崎の戦いを経て、天正11年(1583年)までを大筋として、北の庄で、柴田勝家が秀吉により滅ぼされるところまでを、様々な人間関係の中で、その各人の心理状態を解きながら進められる。とりわけ、主君、織田信長を中心として、明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀・柴田勝家・佐久間信盛・松永久秀・滝川一益・細川藤高・徳川家康・荒木村重・中川清秀・高山右近・足利義昭・朝廷、そして、武田信玄・上杉謙信・一向宗徒・顕如・毛利輝元・長曾我部元親・安国寺恵瓊・千利休ら茶人人脈・紀州雑賀衆、等、これらのきら星の如く居並ぶ人物達の中を、その友人関係・縁故関係・政治関係を、細かく、心理描写することで、何故、「反逆」を起こさざるを得なかったのかを小説風に書くものである。
 荒木村重は、何故に、叛乱を起こしたのであろうか?何故に、一族を見殺しにして、自らを、(まるで、道端に転がる犬の糞のような存在であると揶揄し)「道糞」と称して、茶の湯の世界に、埋没し、再三の秀吉からの取りなしを拒否し、息子、村次に、譲り、後に、秀吉のお伽衆として、利休の弟子7人衆の1人としてはやされるようになって「道薫」と、称して、茶の湯の世界、一方で言えば、非政治的な世界という対局であるものの、逆説的には、実は、光と影のような同じ世界で生き抜いていたのであったかも知れない。密室で、二人きりで、茶を立て、密談を凝らすと言うこともまた、当時は、生臭い政治闘争の裏舞台では、当たり前のことだったのであろう。それにしても、崇高な、自分には成し遂げられないようなカリスマ性を有する主人へのコンプレックス、嫉妬、強い執着心、おののきとおびえ・恐れ・不安、そして、未来に対する確信の代わりに芽生える捨て去られるであろうひとつの単なる道具への恐怖、やれどもやれども、報われぬ感情と成功報酬への不安、何よりにも勝るところの政治戦略的な合理性、血も涙も許さない合理的な冷徹さ、闘いの果てにみた人間の心の弱み、悲哀、寂寞感、無常観、それは、この時代を生き抜いた家臣団には、古参であれ、外様であれ、多かれ少なかれ、似たような心理的な葛藤と苦渋が、見られたはずである。それは、息子、元康を切腹に処さねばならなかった家康にも、北陸の陣中で、勝家と口論の挙げ句、戦陣から許可無く帰還した秀吉も、叔母を殺された光秀も、松永久秀も、誰もが、一様に、程度の差こそあれ、同じような複雑な感情、理不尽な感情を有して、仕えながら、結局、或る者は、謀反という形で、反逆へと収斂していったわけである。
 遠藤周作は、同じキリスト者として、荒木村重との関係の中で、敢えて、片山右近を、その友人関係の中で、詳しく、その心理描写で取り上げている。このキリシタン大名として名高い人物は、心理的な葛藤の中で、如何にして、自分の行為を正当化してゆけたのであろうか?それとも、それが、秀吉によるキリシタン禁教以降、やはり、武士の身分を最終的に棄てて、最後には、国も棄てることで、自己完結したのであろうか?キリスト教による異教徒との闘いへの疑問、この場合には、本願寺一向宗門との闘いであるが、これ即ち、信長側に味方することになったわけであるが、、、、、、、、。その意味からしても、村重同様に、秀吉からも、誘いの手がその後まで、及び、結局、武士を棄てることを決断させたのは、ある種、村重の生き方にも共通するところがあろう。当時、一体、どれ程の武士が、身分を棄て、茶人や商人になったのであろうか?恐らく、主君を理不尽に失い、一所懸命に、守ってきた先祖伝来の土地を失い、やむなく、土地を離れたり、身分を変えた人々は、歴史書の中には、決して、表には、出てくることはなかろう。村重と関係で、妻のだし、さと、(村次に明智より嫁ぎ)、その明智の娘、たま(後の細川ガルシャ)など、当時は、親戚・一族、様々な形で、養子・縁組み・血縁関係による同盟関係が、当たり前だったことを考えると、何とも、歴史の選択、情勢判断、決断の行く末とは、恐ろしいものである。
それにしても、多かれ少なかれ、当時は、誰もが、ある種、少なからず、主君には、知られずに、ひたすら、忠義を尽くす一方で、心底、己が取って代わるという野望(下克上の正当性)を抱いていたのかも知れない。この物語の中で、主亡き後の時代に際して、実に、秀吉と言う男は、変わり身の早い行動をひたすら、主君家を立てながらも、役に立てられるものは、すべて、理にかなうのであれば、友人関係、ありとあらゆる関係を駆使して、(人垂らしの本領で)調略してゆく、この人垂らしの才能は、やはり、槍一本で名をなした武硬派の行く末と比較しても、余すところなく、示唆している。(後の柴田勝家・佐久間信盛・加藤清正・福島正則等)、とりわけ、後に、加賀100万石となる前田利家などは、勝家との関係性の中で、必ずしも、賤ヶ岳の戦いで、非難されども、その後の歴史の中では、うまく、秀吉・家康の世の流れの中を無事、乗り切り、北陸に、今日、金沢・加賀100万石という国を建てられたのも、単なる「処世術」とは言い切れぬ何ものかがあるのかも知れない。賤ヶ岳の戦いの中で、討ち死にした中川清秀にしても、生き延びていたら、ひょっとしたら、村重・清秀・秀吉・光秀、等と一緒に、時代の頂点に立てた可能性もあったかも知れないと想像すると、なかなか、歴史というものは、面白い。家康は、そんな秀吉の才能と天運を誰よりも、横目で、学習していたのかも知れない。
 この時代は、後の江戸時代のような道義的な忠節はなかったのかも知れない。換言すれば、主君が、凡庸と思えば、別の主君に平気で仕え、主君も、主君で、役に立たないと思えば、部下を見限る「飴と鞭」の統治手法だったのかも知れないのである。そして、その中の最たる者が、信長だったのかも知れない。村重や光秀にしても、主君との関係は、征服者と外様家臣の関係ではなく、憎しみと恐れ、コンプレックスと嫉妬複雑な感情を抱かせる、そんな複雑な重層的な関係だったのかもしれない。そうした中でも、せめぎ合いの狭間に当たった地域の地侍、在郷の豪族達は、先祖伝来の土地と墓を守り抜く「一所懸命」と言う地侍の信念を有して、謂わば、「寄らば大樹」という地侍独特の考え方が主要で、武士道や士の忠節の考えは、ずっと、後の世の話である。
 秀吉の生き方というものは、誰よりも、率先して、主君、信長の良い道具になることこそ、何よりの奉公であると考えたのに対して、日本人特有の新参者を見下す古参家臣団による蔑視・嫉妬・悪口・辛酸に、ひたすら、当時は、耐えるという秀吉の性格は、インテリには、真似できないものがありそうである(今太閤と称された田中角栄を懐かしく想い出されるが、、、、、、)。生き抜く知恵が足りない、耐えることを知らない、又、人生を駆ける術を知らないと村重の謀反を聞いたときに、秀吉に作者が言わしめたものは、こういうことだったのであろう。人生での出来(しゅうたい)に失敗する人間、時の熟する迄を待たずに軽挙妄動してしまうそういう人間の性(さが)も、村重の中に描かれてしまう。
 光秀も又、朝廷・義昭陰謀説、怨恨説、老齢説、長宗我部元親陰謀説、等、現代でも、未だ、新しい資料が発見されても、実際の動機は、謎の又、謎であるが、少なくとも、秀吉とは異なり、教養が邪魔をしてしまったのか?歯の浮くような世辞が駄目で、お追従もできない。洒脱の振りも出来ない、猥談をすることで自分を売ったり、相手の自尊心を傷つけぬように細心の注意を払い、勘気を被ることを避けるようにした秀吉とは、何処かで、心理的な対応が、限界であったのかも知れない。カリスマの魔神力にとりつかれ、褒められれば、褒められるほどに、喜びが増すタイプ(そう振る舞っていたのかも知れないが、、、、)とは、別人格だったのかも知れない。神才信長・豪才勝家・奇才秀吉・秀才藤孝と、遠藤は、細川藤孝に言わしめる。
 人生というものは、とりわけ、生存権が権利として確立されている現代と、全く確立されていない当時の背景では、万事、一生、筋を通すということは出来ないのかも知れない。その意味で、物語の中で、村重を通じて、中川清秀や片山右近、松永久秀、そして、前田利家なども、その心の矛盾と葛藤の具体例として、茶道を通して、巧みに描こうとしている。右近の決断、とりわけ、天正6年の信長への恭順と屈服、そして、天正15年の最終決断の違い、棄教と遁世、そして、南坊という雅号を有する右近と利休のわび茶の共通意識という挿話、そして、秀吉とのよしみと親爺様と呼ぶ勝家との対立から、利家の困惑と躊躇、壮年という自分の年齢への焦り、家門と所領と家臣達の処遇との相克と決断、前田家の歴史書には、そんな葛藤、大勢に逆らうことは自殺行為、流石に、裏切りとは書いていないのは、もっともである。
 人間の有する心の弱さ、逃げの心、反逆は、怨念・野望にかられたモノではなく、人間の心がひとつではないこと、嫉み、屈辱、猜疑、怖れが複雑に絡み、絶望と希望の狭間で生じる葛藤、そんなものが、有るときに、窮鼠猫を噛むのかも知れない。京での馬そろえでの神の宣言、他よりも異なる存在であることを示唆するような示威行進の実施、等、この物語の中では、信長以外の人物は、すべて弱虫である。本能寺の変、高松城の水攻め、中国大返し、山崎の戦い、そして、賤ヶ岳の戦い、へと、、、、。
天正14年(1586年)52歳で、村重は、病没する。
 我々は、今日も、(一所懸命)ではないが、一生懸命に家族のために働き、幸せを求めて、ある種の決断を下し、明日も又、生きて行かなければならない。黒田官兵衛というキリシタン軍師のことも、今日、播磨灘物語以外にも、どんな想いで、村重や右近や光秀を見ていたのであろうか、興味深いところである。