小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

小椋佳を聴く:

2015年09月30日 | 映画・テレビ批評

小椋佳を聴く:

まだ、井上陽水が、記憶が定かではないが、確か、アンドレカンドレとかいうふざけた名前(?)で、唄っていた頃に、何とも、不細工な顔つきの場違いなおっさんとおぼしきシンガー・ソングライターとか称する銀行マンの肩書きを有するという歌手が、確か、さらば青春、とか、潮騒の詩を、唄っていたのが、初めてその歌手を知るきっかけであった。歌手というものは、その後に、大成してゆく過程をみると、やはり、初期段階の頃の方が、何とも、松任谷由実ではなくて、やはり、荒井由実のほうが、個人的には、面白かったという具合に、小椋佳にも、そんなことが、云えなくもないかも知れない。まるで、それは、今時のアイドルを初期段階から、探し当てて、育て、見守るような一種のそんな感覚に近いような気もしないではないが、、、、、。小椋佳は、歌手と云うよりも、シンガー・ソングライターだから、作曲も悪くはないが、作詞家としての詩のほうが、編曲や、他の作曲家が作曲した彼の詞のほうが、より、生かされているようにも思える。更に云えば、自分以外の歌手に、唄って貰ったほうが、より、彼の曲の世界観というものが、拡がるようにも感じられる。それは、布施明でも、堀内孝雄でも、井上陽水でも、況んや、美空ひばりをやであるのかも知れない。彼の詩は、何か、子供の頃のぼやけた原風景、とりわけ、少女や少年、幼子や、友達の朧気ながら、ハッキリとは、視えてこないような何ものかが、そこには、存在するような気がしてならない。日常のありふれた生活の一コマを切り取り、その心情に潜む底の底を、形而上化してしまうような手法なのであろうか?、「真っ直ぐに張った糸が、あの日、僕は好きだった、」等、そして、言葉を徹底的に、選び、推敲し、楽譜が読めないからなのであろうか、自ら唄ったテープで、楽譜にして貰うという作業を通じて、彼は、その詩の感性を逆に研ぎ澄ましてきたのかも知れない。それにしても、多忙である厳しい労働環境である銀行に勤めながら、銀行マンとしても、又、シンガー・ソングライターとしても、成功する秘訣は、右脳・左脳、どんなバランスが必要だったのであろうか?そもそも、ビジネスマンとして、父として、夫として、更には、作曲・作詞家として、歌手として、ひとりで、何役もこなすという、エネルギーの源泉とは、一体、何処から、どのように、培われるのであろうか?しかも、それを何十年にも亘って継続・維持・持続し続ける秘訣とは、何なのであろうか?ミュージシャンや芸術家のエネルギーとは、何とも、凄まじいものがあるような気がしてならない。そういう観点から、初期作品と、中・後期作品とを聞き比べてみると、面白いかも知れない。それにしても、星勝や小野崎孝輔とのチーム・プレーは、90曲にも及ぶ歌の数々は、素晴らしいものがある。自分の曲を、船村徹ではないが、やはり、作った本人が一番良く理解しているのであるという自負心から、自ら、歌えると云うことは、これ程、素晴らしいモノはないのではないだろうか?今風の何を言っているのか、唄っているのか、判らない意味不明な歌に較べて、小椋佳の歌は、歌詞が耳から、入って来やすいものの、その意味を理解するのには、何度も聞くという作業を繰り返し行わなければならないのは、実に聴く側にとっては、詩を作った側とこちら側の聴き手との間で、まるで、格闘技のようで、実に、興味深いではないか!詩情溢れる、青春の光と影のような世界を、季節の移ろいの中で聴くと云うことは、年寄りにとっては、愉しいことである。

 


四国遍路は、一寸、延期かな?:

2015年09月29日 | 日記

四国遍路は、一寸、延期かな?:

人生には、時間ができて、カネが適当にあって、健康であると云う保証は、何処にもない。そういうことが判ったときは、既に、時遅しということなのであろうか?四国遍路も、この7月に1番から17番までを、自転車で、廻ったので、残りを、如何にして、攻略するかと思案していたところであるが、散々、7月には、雨にたたられたので、今度は、天気の良い10月か、11月頃を予定して、計画を練っていたところ、生憎、所要が重なったり、今度は、健康不安という課題が、急浮上してきた。それも、穏やかではない症状である。少々、これまでも、手先の痺れや、胸の辺りの痛みや、左肩甲骨の裏辺りに筋肉のハリを感じることはあっても、それが、深刻な事態を招来するまでのことはなかったのであるが、今回は、そのような楽観視もどうやら、出来そうにない様相である。突然、左手の握力が急激に低下してしまい、ボタンを掛けるのも、リンゴを包丁で剥くのも、左手が、どうも、自分の云うことを聞かないのである。おまけに、単なる筋肉痛や肩こりではなくて、どうやら、ここが、心臓という臓器があることが認識されるようにもなってきた。ということで、ホームドクターに相談したら、即、血液検査と大きな病院での脳と心臓のチェックをできる限り、速やかに、しなさいと言うことで、神経内科と循環器内科で、それぞれ、心臓のCT検査と脳のMRを紹介状を基にして、受診することに相成ってしまった。しかも、放射線科でのCT造影剤の注入に際して、アレルギー反応が翌朝にでてしまい、大きく、瞼が垂れ下がり、顔がむくれてしまい、散々な目に遭い、結局、皮膚科のアレルギー診察をも受診する羽目になってしまった。それにしても、これらの検査結果の末に、動脈硬化を伴った心臓冠動脈石灰化により、カテーテル・バルーン処置が、どうやら、必要になろうとの残念な結果になってしまった。脳の検査の方は、新たな脳梗塞は発見されなかったものの、昔の小さなラクナ・脳梗塞の痕跡が、2箇所発見されて、当分は、こちらは、要観察という診断結果で、これ又、自分の健康に対する自信が見事に、すっかり、打ち砕かれてしまった。健康寿命などと云う言葉を改めて、実感される結果に愕然とした。従って、今年の残り、3ヶ月程度は、これらの治療に専心しなければならず、命にも関わるので、単独行動は、当面、禁止の上、四国巡礼も延期せざるを得ない可能性が大となってしまった。まあ、来年の春にでも、実施することにしようかな!まずは、身体をメインテナンスしてから、それにしても、7月の旅先で、発症しなくて良かった。不幸中の幸いであった。折角覚えた般若心経を忘れないようにしないと、、、、、、。


アップルでもウィルス感染か?:

2015年09月28日 | 社会戯評

アップルでもウィルス感染か?:

これまで、安全と思われていたアップルにも、非正規アプリを使用している場合には、何と、マルウェアーが、蔓延し、しかも、対策ソフトまでもが、改竄されてしまう恐れが生じると報じられているが、それは、中国発のことらしい。何とも、この国は、全く恥さらしの国である。自国の不正アプリも、摘発することなく、或いは、サイバー攻撃を仕掛ける元凶にもなっているのに、この調子では、自国のコンピューター・セキューリティーすらも、安全が脅かされることになることに、気が付かないのであろうか?何とも、困ったことである。米中首脳会談でも、サイバー攻撃の懸念を話し合われるということであるが、もはや、そうした話題とは別に、マルウェアーの現実的な脅威が、増しつつあることに、一段の警戒と認識を有しておかなければないであろうことは、間違いない。それにしても、非正規アプリや海賊版の摘発や取り締まりを強化しなければ、根本的な問題解決には、至らないのが、現実なのであろうか?それにしても、今日、これ程までに、安全神話が問われかねない事態に、陥ろうとは、誰が想像出来得たであろうか?個人も、法人も、国家自体も、考えてみれば、ありとあらゆる生活の場所で、発電所も、鉄道も、通信も、信号機すらも、今日、コンピューターの恩恵なくしては、成立し得ないと云っても過言ではなかろう。そんな中で、アンドロイドの脆弱性に加えて、限定的とはいえ、アップルまでということになると、事は、重大であろう。

 


VWの不正ソフトとは!?:

2015年09月25日 | 社会戯評

VWの不正ソフトとは!?:

何でも、米国で、ディーゼル・エンジンの排ガス規制値を制御するソフトを不正に装着させていたとか、一体、VWの誰が、認可して、装着させていたのであろうか?単に、会長の辞任とかで、済まされる問題ではなさそうである。それにしても、ブランドのイメージというものは、一夜にして、最近では、凋落する事例が余りに、多すぎはしないだろうか?一体、組織とは、どうなっているのであろうか?社内組織の法令遵守とか、コンプライアイスとか、企業内弁護士とか、法務部門とか、一体、どうして、これらが、機能不全を興してしまうのであろうか?VWには、そもそも、そんな企業内風土が存在していたのであろうか?一不正ソフトの装着という問題ではなくて、株主の集団訴訟とか、今後、株価の低下とか、赤字転落とか、どんな事態が待ち受けるのであろうか?米国だけではなくて、欧州でも、他の国でも、同じ局面がでてくるのであろうか?或いは、BMWでも、同じような事が生じているのであろうか?仮に、そうであるとしたら、問題は、もっと、もっと、深刻なことになるであろうし、底なしの様相を呈するかも知れない。タカタのエアー・バッグの類ではないことは、確かである。しかも、それは、悪意を持った意図的な偽装であるとしたら、、、、、どうなるのであろうか?そして、その影響は、想像ができる規模のものではないのかも知れない。

 


見知らぬ人と会話をすると謂うこと:

2015年09月24日 | 社会戯評

見知らぬ人と会話をすると謂うこと:

軽井沢のプリンス通りの馬越ゴルフコースの丁度角に、小さな赤いレンガ作りのル・テロワール軽井沢(Tel: 0267.41.0949  軽井沢町発地1408-27)という軽井沢には、極めて珍しい古道具カフェ(私が、勝手にカテゴリー分類したので、オーナーには、実に、迷惑、失礼かとも思われるが)が、まだ、不定期営業ではあるが、オープンしている。だいたい、年寄りは、教養・教育がなくても、「きょうよう」(今日、用事がある)と「きょういく」(今日行くところがある)を有することが、とても、大切で、何でも、一日に、最低でも、5人くらいの人と会話しなければ駄目だということを、老人体操教室、筋力トレーニングの時に、風聞したことがある。確かに、ここを訪れると、見知らぬ誰かと、それも、ついさっきまで、全く見知らぬ他人同士が、勿論、無粋な名刺交換などは、御法度であるのはもちろんである。(まぁ、名刺交換しても、決して、構わないのであるが、、、、)面白いことに、オーナーの簡単な紹介で、瞬時にして、この異空間の中では、旧知の友のような間柄に、なれてしまうのは、実に、不思議である。それも、年齢、性別、職歴、学歴などは、一切、お構いなしにである。全く見知らぬ人との会話というものは、どんな作用を人に、与えるのであろうか?こちらは、脳科学者ではないから、定かではないが、きっと、想像するところでは、脳には、おおいに、刺激的なことではないであろうか?昔、米国で、見知らぬ人から、公園で、ハーイと挨拶を交わすことに、日本人としては、違和感を持っていたものの、このすれ違いざまに、ハーイという挨拶を交わすそういう感じでは決してない。古道具という時空を超えて、その使用したであろう人物に、想像しながら出逢えることや、想像する事自体を許される時間の自由さを満喫するのも、構わないし、オーナーとの短い会話や同席者との会話の中から、或いは、自分の好きな旧い聴いてない昔のレコードを持ち込んで、一緒に、そのメロディを聴いたり、当時の想い出話に花を咲かせたり、美味しいコーヒーや御牧ヶ原産のハーブ・ティーを堪能することも、一向に構わない。そう言えば、偶然、相席・同席するとかいうコンセプトで、若い男女が出会う居酒屋が東京にはあると云われているが、そういう不純な商業的な動機のモノでももちろんない。オーナーの蘊蓄は、客の側からみて、けっして、向こう側から、一方的に、説明がされるのではなく、客の側からの対話という「きっかけ」が、その古道具という小道具を媒介にして、初めて、それも、店内に飾られている古道具、それ自体の説明だけでもない、それは、その時代考証や歴史や、それに付随した文化・哲学・芸術・美術史にまでも、或いは、当時の生活の様子、更には、客の暮らした当時の思い出話、或いは、客の父親・母親、更には、祖父母の思い出までも引き出してしまうようなそんなマジックが、そこには、隠されているようである。決して、押しつけがましいモノではないのである。謂わば、オーナーは、見知らぬ人同士を同じ共通空間の中へと導くようなそんな役割、見知らぬ人同士をお互い、会話したくなるようなそんな雰囲気を演出する魔術師なのかも知れない。ル・テロワール軽井沢という古道具カフェには、そんな雰囲気が、漂っているのかも知れない。同席したご老人は、今度は、ナットキングコールのレコードを持参するそうであるから、是非、私も、昔の中学生時代を想い出して、聴いてみたいものである。すっかり、ファンになってしまいました。

ル・テロワール軽井沢(Tel: 0267.41.0949  軽井沢町発地1408-27)

 


榎本武揚の「蝦夷共和国」構想:

2015年09月23日 | 社会戯評

榎本武揚の「蝦夷共和国」構想:

どうやら、これまで、「幻」という言葉が上についていた「蝦夷共和国」構想というものは、幻の構想ではなくて、実際に、国際的にも、認知されていたようである。そのことは、米国の国立外交公文書館にも、幕末から明治に掛けての歴史公文書の中で、確認されているという。考えてみると、これまで、五稜郭での幕府側の抗戦・抵抗という消極的な視点からしか、観られていなかった歴史観から、大きく、変更を余儀なくされる発見でもあるのかもし得ない。抗戦か、恭順か、独立か、榎本武揚にとっては、大変悩ましい決断であったことであろう。奥州列藩同盟を信頼することなく、孤立無援の中で、列強による武力による植民地干渉の可能性も、決して、否定しきれない情況下で、仮に、一時的に、独立できたとしても、当時の薩長政府の(沖縄)琉球征伐などをみても、必ずしも、北の備えは、国を二分する可能性もあって、決して、許されることがなかったのかも知れない。それでも、国際法に、熟知した当時の数少ない政権の中枢にある人物にとって、新しい形での土地改良・農業入植・開拓政策や選挙による才能ある人物の登用という国作りの主導は、列強にも、そのコンセプトは、充分訴えうるものがあり、又、一部には、おおいに、共通の認識が可能なパートナー、或いは、同じ価値観を有する可能性のあるリーダーであるという認識を持たれたことであることは間違いないであろう。又、こうした、もしもを考えるときに、日本という国は、ヒョッとしたら、明治政府的な中央集権統治国家ではなくて、別の連邦国家、緩い合衆国国家体制にも、なり得たかも知れない幻の日本の姿が、そこには見えてくるかもしれない。助命嘆願を働き掛けた黒田清隆にしても、或いは、国際法の飜訳を頼まれた福澤諭吉にしても、高く、榎本武揚の才能と見識を見誤らずに、評価したことは、誠に、西郷隆盛という、そのカリスマ性故に、非業の死に至った片方の雄と比較したときに、何とも、皮肉なことであろう。国際法に基づく外交手段というソフト・パワーの活用という手法も、おおいに、今日でも、充分、通用しうる考え方であることは、間違いなかろう。歴史に、もしもは、あり得ないが、何とも、想像力を逞しくしうる、幻の「蝦夷共和国」構想であろう。現在の北海道や沖縄の姿を見るときに、おおいに、参考となる考え方であろう。決して、150年も前の幻とは、言い切れない現実的現代的な共通な価値と発見がそこにはあるのかも知れない。どうしたら、難しい局面の中で、そうした柔軟な考え方が、人は、できるのであろうか?本当に、五稜郭で、自刃してしまわなくてよかった。久坂玄瑞や土方歳三とは、又、一味も二味も違った人生観、武士道観を持っていてよかったと思われてならない。歴史には、もしもは、あり得ないが、あの時に、函館五稜郭の敗戦責任を以ってして、自刃していたら、どうなっていたのであろうか?久坂が逃げて、生き延び、土方が戦死することなく、生き延び、榎本が、逆に、自刃していたら、、、、、。金沢も宜しいが、来春、北海道新幹線が開通したら、碧血の碑(義に殉じて死んだものの流す血は、碧い)でも、又、見学に行きたいものである。

 


ラグビー・ワールドカップ、24年ぶりの勝利という快挙?:

2015年09月22日 | スポーツ

ラグビー・ワールドカップ、24年ぶりの勝利という快挙?: 別に、ラグビー・ファンではない。従って、よく、快挙なのかどうかが、実感されない。スポーツの実況中継というものも、悪くはないが、勝ったと云うことが判っている録画を観ることは、実に、楽しく、嬉しいものである。それは、スポーツ・ニュースを何度も観て、確認、再確認するかの如きものであろうか?それにしても、ラグビーのルールには、全くの門外漢である以上、これまで、花園ラグビー場での中継なども、とりわけ、観たことがあるわけではない。只、この外国人お雇い教師のようなエディー・ジョーンズなるヘッド・コーチの指導に、興味があり、おおいに、注目していたから、それだけのことであろうか?試合中の解説でも、英語の用語は、判っても、それが、試合の最中に、どういう意味を有するのかは、なかなか、理解出来ないのが、実情である。とりわけ、ペナルティーなるものは、余程、詳しく、解説してくれないと、何故、ジャッジが、そういう判定を下したのかも、全く、理解出来ない。(ジャッジではなくて、レフリーだそうで、元々、選手同士で、古くは、判定を決めるという何とも、紳士的なスポーツであるそうである。ここら辺も、ゴルフ同様、面白い歴史的なものがろうか?そんなことも知らずに、観ているド素人である) まぁ、それでも、トライとか、相手陣営に、スクラムで、押し込んだりして、点を取るくらいは、理解出来ようか?(何点が入るかも、見ているうちに理解出来よう) 伯父が若いときに、会社で、ラグビーをやっていたから、かすかに、幼い頃に、何処かのラグビー場で、観戦したような記憶が、頭の片隅にある。それにしても、生身の身体を張った格闘技紛いのスポーツである。頸椎の捻挫や、足首の骨折など、擦り傷などは、日常茶飯事のことであろう。ラグビーの面白いところは、何か、明治期のお雇い外国人教師による日本人への教育の様な感じが色濃く出ていて、面白い。しかも、日本代表選手にも、南アフリカで生まれ育って、それでいて、日本で、活躍して、代表に選出された選手がいたりして、別に、大相撲のように、純潔主義に拘るところがないのが、いかにも、英国仕込みの輸入スポーツのようでいて、面白い。(どうやら、それには、外国人選手枠とそれ自体が、緩い規定があるようであるが、)それにしても、お雇い外国人教師ならぬコーチの活躍は、最近、ラグビーや、フェンシング、卓球、バドミントン等、目覚ましいものがある。体格のハンディがある日本人には、やはり、それに見合った対応策が、外人コーチには、求められるのかも知れない。7人制のラグビーとか、今後、次回、2019年東京大会に向けて、ラグビー人気が、高まる可能性が出てきたのかもしれない。かつての新日鉄釜石や神戸製鋼などの製鉄会社の地位の低下とは関係無く、人気が盛り上がると門外漢としても、嬉しいものである。それにしても、五郎丸選手が、キックする前に、精神統一するあのルーティンの仕草は、まるで、忍者がブツブツ呪文を唱えるときの指の仕草に似ていて、何とも、面白い、外国の子供達にも、きっと、人気が出ることであろう。日本にも、私のような俄ラグビー・ファンが増えるやも知れない。おおいに、宜しいことではないだろうか?


サイバー空間の現実:

2015年09月20日 | 社会戯評
サイバー空間の現実:
元自衛官で、現在は、内閣府のサイバー対策などのアドバイスをしている人物が、その危機感から故なのか、敢えて、顔を露出するリスクを負ってまで、日本に於ける現在ますます深刻化しつつあるサイバー戦争の脅威を、まざまざと、語る様は、誠に深刻である。しかも、年々、ますます、マルウェアーなどの標的型ウィルスが、進化を遂げて、長期間の潜伏や、必要な情報を入手するまでの待機までを行うとは、全く、ウカウカしてはいられないものである。それにしても、中国発のサイバー攻撃は、今や、米国のオバマをしても、いよいよ、予定されている米中首脳会談の際に、反撃や対抗措置を執る旨の意思表示を直接、行うまで、米国の国益を直接、間接を問うまでもなく、害するところまで、来ていることを示している。年金機構の情報漏洩漏洩というよりも、これは、明らかに、サイバー攻撃を某国から、それは、恐らく、中国からなのであろう事は、この経緯からは、証拠が何処かにあることは間違いないのであろうが、その事実を敢えて、公表することなく、何処かで、相手の攻撃パターンを分析し、対策を練っているようである。そえでも、マイナンバーの施行を控えて、止まるところを知らない情報漏洩のリスク、サイバー空間での攻撃を受けるリスクというものに、思いを巡らせなければならない。どうやら、既に、サイバー空間では、あらゆる手段を駆使して、サイバー戦争が、眼に見えない形で、現在進行形で進行中であることに改めて、気づかされる。

Action東京防災・読本を読む:

2015年09月19日 | 社会戯評
Action東京防災・読本を読む:
黄色いコンパクトな防災マニュアルが配布されてきた。確かに、風水害・雪害、火災、地震震災、津波、火山噴火災害、テロ、最近の異常気象を経験するにつけて、3.11の頃に、準備していたあの頃の気持ちは、何処へ行ってしまったのであろうかと、全く、考えさせられる。確かに、確率から云って、間違いなく、再び、大災害が、襲ってくることは、間違いことであろう。それは、想定外ではなくて、いつ来るかは、判らないけれども、必ず、来るという前提で、生きて行かなければならないことも事実であろう。確実に、将来、間違いなく起きるであろう命の危機以外の何ものでもないことが、改めて、再認識される。それにしても、災害、テロでも、事故にしても、自分が、いつ、何処にいるかで、おおいに、対処方法が異なることが、このマニュアルからも容易に、判る。自宅か、勤務先か、通勤途中か、交通機関は、地下鉄の中か、車の中か、高速道路上か、橋の上か、地下街か、ありとあらゆる想定される場面が、盛られている。避難先にしても、地震災害と、水害や、大規模火災災害では、避難先も、異なるであろうし、一概に、所定の学校や公園などの避難所も、必ずしも、安全であるとは、誰しもが保証はできないのが、最近の事象からも、了解される。更には、昼間なら、まだしも、真夜中や、未明、或いは、連続する熱帯夜や、或いは、3.11ではないが、寒い冬の最中だったら、、、、、どんなパターンのシミュレーションを考えておいたら良いのであろうか?新聞紙やペット・ボトル、ポリ袋などの再利用方法を参考にしていると、むやみやたらに、資源ゴミや分別ゴミで、パッパと、捨ててしまうのも問題である。やはり、断・捨・離も、ウカウカ、乗れないぞ!日頃から、缶詰や、乾麺・ラーメンも、レトルト食品も、多少多目に、備蓄しておかなければ駄目かも知れないと実感する。とりわけ、水の確保が、一番、肝要であろう。水だけ飲んでいれば、最低でも、3日くらいは、生存出来ようが、水がなければ、生存確率は、低下してしまう。赤ん坊や児童を抱えていたら、病気や高齢の家族がいたらと考えると、全く、絶望的になってしまう。情報収集のツールも、スマホの充電池とか、ツィッターの災害情報アクセス登録とか、これまでのものに加えて、来たるべき災害との闘いに、デジタル対策を施しておかなければならない。災害伝言ダイヤルとか、SNSとか、地方の友人との緊急安全連絡ネットワーク構築とか、何でもできうることは、今から、明日あるかも知れない危機に備えて、準備しておかなければならない。まずは、ひと任せにするのではなく、自分の頭で、考えて、準備し、自分の命は自分で守るという気概を、常に、有していざという時に、的確な判断ができ、冷静な行動を起こせるように、準備しておかなければいけないことが、この読本から、一読語、改めて、感じ取られる。

人の下に人は生まれ落ちるのか?:

2015年09月18日 | 社会戯評
人の下に人は生まれ落ちるのか?:
別に、芸能レポート・ニュースが気になるわけではないが、この類の面白、可笑しい話題には、全く、事欠かないものがある。週刊誌の中吊り広告や芸能関係のウェッブ・ニュースを何気なしに、観ていると、何とも、考えさせられる記事もあるものである。そのひとつに、里田まいのセレブ1000万円出産という記事があった。別に、金持ちが、いくら出産に、金を掛けようが、結婚式に、カネを掛けまいが、ヤンキースの契約内容であろうと、宜しいようではあるが、何とも、先日、ケニアのキベラ・スラムの難民の貧困を眼にしたものには、おおいに、考えさせられる。「天は、人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福澤諭吉の言葉は、今日、一体全体、どうなってしまっているのであろうか、とも思われてしまう。そもそも、生まれる瞬間から、人は、贅を尽くした立派な施設のもとで、人の上に、人を作り、おおいに祝福されて、そもそも、生まれ落ちてくるのであろうか?それとも、逆に、望まれない妊娠と恵まれない境遇の元で、人は、人の下に、生まれ落ちてくるのであろうか?何とも、ケニアの難民の子供達の境遇を知らされると、現実というものは、世界の現実は、そういうものであることが、改めて、再認識されてしまう。又、亡くなったマイケル・ジャクソンの子供達は、父の遺してくれた莫大な財産と、死せる後も、父が、著作権料などで、稼いでくれるお陰(?)で、常人の想像すらできないような莫大な有り余る贅沢なお金の使いっぷりであるそうである。こんな強運に恵まれるのは、一体、生まれてくる赤ん坊のどのくらいの確率になるのであろうか?その本人達は、本人達で、金持ちの悩みも有するのではあろうが、それでも、人間の金銭感覚なるものは、小さな頃からの育った環境や後天的な家庭内の教育というものに、裏打ちされているのであろうか?お金の有り難み等というものは、どんなときに、彼らは、感じるのであろうか?セレブとか、お嬢様とか、お坊ちゃまとか、二世、三世、とか言う言葉が、氾濫しているが、もはや、創業者の質実剛健などというコンセプトは、何処かに、失せてしまったようで、人の上に、人ができ、人の下に、人が生まれるような、人が人を踏み台にしつつ、そんな類の人間が生まれて来つつあるような、そんな時代になりつつあるのであろうか?今や、子孫に、「美田を遺さず」などという考えは、そもそも、今日の時代には、合わないのかも知れない。ケイマンにホールディング・カンパニーを移して、自分は、海外の税金の安い相続税の一番安い海外に住んで、合法的な節税を行い、子孫に、試算の継承を図るという構図が、定着しつつある。福澤が、今日、こんな風潮を見たら、何と言うであろうか?

草ヒバリの鳴き声を愉しむ:

2015年09月17日 | 自然・植物・昆虫
草ヒバリの鳴き声を愉しむ:
都会には、せいぜいが、コオロギくらいしか、小さな庭には、秋の夜長を愉しませてくれる虫がいなくなってしまった。もう、何年くらい前になったか、忘れてしまったが、5年ほど前のことだろうか、風呂に浸かっていたら、あるとき、リ、リ、リ、リィーという美しい音色を奏でる虫の声が、花桃の樹の中から、聞こえてきた。何とはなしに、風呂のぬるい湯にゆったりと浸かりながら、夏の終わりというか、初秋の夜長に、聴き入っていると、実に、風情のあるものである。その音色の持ち主が、誰なのかを色々と調べた挙げ句に、樹の葉や草の上で、鳴くという小さな「草ヒバリ」という虫であることが、その鳴き声から、やっと、判明した。もっとも、その姿をハッキリと確認出来たわけではないが、どうも、樹の葉や草の上に、留まって、夜通し鳴き続けるようである。昔の人は、虫にも、なかなか、風情のある名前を付けたものである。確かに、ヒバリが大空高く舞い上がりながら、鳴く様に、似ているかのような音色である。実に、綺麗な鳴き声で、しかも、よく響き渡る。それも、毎年、必ず、この時期になると鳴き始めるのである。短い命を、どのようにして、毎年、繋げてゆくのであろうか?もう程なく、聴かれなくなってしまうだろうが、来年も、果たして、聴くことできるであろうか?春の桜、花桃の花見といい、夏から初秋に掛けての草ヒバリの鳴き声、晩秋のモミジの紅葉、毎年、季節季節毎の自然のイベントを愉しみたいものである。草ヒバリの声を聴いたことのない人は、是非、検索して、一度は、聴いて貰いたいものである。都会では、疲れて帰宅するときに、草ヒバリが鳴いていても、酔っ払っていたり、消耗しすぎていて、ヒョッとして、こんな美しい鳴き声を聞き逃しているかも知れない。今夜も、鳴いてくれるかな?聴けるといいなぁ!

ちあきなおみ 歌謡ポップスを唄うを聴く:

2015年09月16日 | 社会戯評
ちあきなおみ 歌謡ポップスを唄うを聴く:
例によって、たまたま、スーパーの台車に置かれたCDでポイントを稼ごうという不純な動機による購入である。カバー曲というものは、だいたい、その歌手の有する歌唱力と独自の世界観がない限り、元の曲を凌駕することはなく、逆説的に言えば、その歌手同士の互いの力と力とが、ぶつかり合う「格闘技」のような真剣勝負そのもので、聴く側にとっては、カバー曲を唄う歌手の側が、仮に、優っているような場合には、何か、その歌手の新しい世界観が開けて見えたかのような悦びがそこには感じられる。もっとも、ガッカリさせられる場合も、多いけれども、、、、。ちあきなおみには、愛する夫を失った事をきっかけにして、若くして、完全に引退してしまったという一種の「滅びの美学」、「未完の美学」のようなものが、いつもついて回る。それは、丁度、若くして夭逝してしまった若い画家が、まるで、その遺された作品を通じて、あるべきであったであろう未完の作品を我々が、勝手に想像させられるようなものでもあろうか?「喝采」とか、「四つのお願い」とかくらいしか、曲名は、よく知らないが、ちあきなおみという歌手には、そんな曰く因縁と一種の美学がまとわりついているように思われてならない。だからこそ、その決して唄われることがないであろう、その歌唱力を、カバー曲というかりそめの形で、勝手に、想像してしまうのである。歌謡曲というものは、もう一つ、歌手だけではなくて、私の場合には、どちらかというと、作詞家、作曲家、編曲者の類で、歌手のカバー曲も評価してしまうものである。このCDにも、中村泰士、橋本淳、筒美京平、森岡賢一郎、なかにし礼、川口真、鈴木邦彦、安井かずみ、阿久悠、戸倉俊一、などの曲目が、盛られている。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」「あなたならどうする」、もよろしいが、低い声の調べも多いに宜しいではないか!、弘田枝美子の「人形の家」は、落着いて、丁寧に歌いあげて抜群である。黛ジュンの「雲にのりたい」も、その世界観が滲み出ていて、別の曲の様である。布施明の「積み木の部屋」も、高音も宜しいが、低音で歌われるのも又、よし、「わたしだけのもの」、高橋真梨子の「五番街のマリー」、小山明子の「あなた」、奥村チヨの「恋の奴隷」、辺見マリの「経験」等も、ちあきなおみという歌手の世界観がそのカバー曲いずれにもおおいに溢れ出ているようである。結局、すべての曲が宜しいではないか?年寄りには、やはり、ゆったりとした落ちついた曲が、心にしみ込むようである。噛めば噛むほど味が出てくるスルメのように、聞けば聞くほど、味わいが深まるようなそんなCDである。不純な購買動機の割には、まるで、お買い得をしたような感じである。生で、もう聴かれないのは、残念な限りである。

軽減税率に透けて見える官僚の姑息な手口:

2015年09月15日 | 社会戯評
軽減税率に透けて見える官僚の姑息な手口:
麻生某という元日本国総理は、放言癖だけでなくて、流石にお金持ちのせいなのか、発言にも浮き世離れしていて、クレジット・カードとマイナンバー・カードが、ほとんど、ごちゃ混ぜになっているようである。それにしても、万人に、平等に、その場で、軽減されるのではなくて、還付手続きを行わないとできないような仕組みには、誠に、異論が起きるのも仕方の無いことである。誠に、官僚というものは、実に頭が良いモノである。まずは、広く、薄く、税金を納めさせておいて、如何にも、全額還元できるかの如く、幻想を抱かせた挙げ句に、マイナンバー・カード施行による徴税の強化と徹底を図ると共に、ついでに、買い物情報も一緒に、戴くという誠に巧妙な狡猾な罠であろう。日本人というものは、税金の還付などと云うものは、余程、しっかりと、税金に対して、敏感な人間以外には、サラリーマンではないが、自動的な天引感覚が強くて、ましてや、還付などと云う手続きを、生活にゆとりの無いものがやれるのであろうか?そんなことを実行する者は、むしろ、金持ちの方が、税金やカネに敏感で、ITに強い年寄りか、金持ちの方が、還付申告するに決まっていよう。仮に、4000円を上限にしても、所詮、それは、20万円の消費に対して、2%還元だから、実際には、そんな程度の額では、食品等でも、済まされないことは誰にでも判ろう。しかも、コンピューター・システムの更新や機器の追加投資に、中小の小売業者は、果たして、限られたタイム・フレームの中で、対応可能なのであろうか?還付作業をおこなえない弱者の存在は、どうなるのであろうか?麻生某は、やりたくなければ、やらないでもよいというスタンスである。そもそも、広く、薄く課税するという消費税の目的は、逆に、ここでは、今や、還付のためのマイナンバーが、嫌ならば、やれないだけであると云う不平等に、繋がるのであろう。戴くものは、できるだけ、平等に、税金として、戴き、還付は、やりたい人だけに、その一部だけをやるという多いに、不平等極まりない手口である。中国人が、自国の株価操作を、国家規模での博打による金の巻き上げだとか、云ったらしいが、この軽減税率の還付という手口も、決して、胸を張って、国民に説明出来る代物ではなさそうである。又、これまでの決められない政治から、何でも決められる、一強多弱の状態では、どうなるのであろうか?

堤防決壊に思う:

2015年09月14日 | 社会戯評
堤防決壊に思う:
何とも、人間というものは、3.11の際に学んだ、「てんでんこ」に逃げるという教訓を、又しても、忘れてしまったのであろうか?テレビの報道を観ていると、口々に、避難勧告が出なかったとか、自分の所だけは、大丈夫だと思ったとか、何とも、被害に遭われた方には、同情を禁じ得ないが、そんなに、住んでいる地域の行政や、よく聞こえない行政無線などの放送を信じていたのであろうか?随分、楽観的な人達が多いものであると驚いてしまう。情報というものは、出す方の問題もあるから、避難勧告を出さなかった方にも問題はあろうが、「線上降水帯」という言葉は、今回が初めてのことでもない、もっとも、もの凄い降雨が鬼怒川沿いに、不幸にして、猛烈に、襲ったのも、事実ではなるが、、、、、それにしても、情報を出す側だけでなく、受ける側は、常に、自分でも、自らの手で、様々な手段で、情報収集を怠ってはならない、災害弱者ならいざ知らず、写真や動画をとっている場合にでは無いであろう、ましてや、LINEでヤバいなどと、云っているどころの話ではない。まさに、自分の命の危険を、本能的にも、察知しなければならないということが、大切である。行政の西側へ、避難しろという指示をおかしいと感じて、逆に、東へ、避難したという人の判断は、素晴らしい咄嗟の状況判断である。情報とは、所詮、受け手の側での受取方にも、多いに、考えさせられるものがある。被害に遭われた人達には、お気の毒であるが、これが、荒川の決壊であったら、どういう被害に、なっていたであろうかと考えると、ゾッとするし、恐ろしい。間違いなく、各自が、独自に、自己防衛する必要があろう、それ程、間違いなく、今後は、北極海の氷が溶けることで、上空の寒気団が、蛇行することにより、台風も北側へ、ずれ込み、日本列島をスーパー台風が、襲うことは、将来、不可避であろう、むしろ、その可能性が高まることを指摘する学者もいるし、恐らく、感覚的に、そういう可能性があること、即ち、荒川等の河川も、最悪の堤防決壊などというハザード・マップの想定を大幅に上廻るような事態が生じかねない。マンホールの逆流とか、地下街の水没とか、そんなどころか、もっと、深刻な事態に陥る恐れが、大きい。その時、自分達は、どんな備えを今から、建てられるのであろうか?火山の噴火・風水害・地震、突然の異次元の自然災害は、全く、尽きることがないし、ハザードマップなど、参考にならないほどの大きな被害を想定しておかなければ、自分の命も、ましてや、家族の命も守れないのかも知れない。そして、社会的な弱者への配慮も、必要になろう。難しいし、考えさせられてしまう。

ケニアの貧困に触れる:

2015年09月12日 | イベント 祭 催し
ケニアの貧困に触れる:
台風が何とか過ぎ去った後の野外でのアフリカン・ドラム、音楽とケニアの貧困の話は、甚だ、寒い中だった。日本人の年寄りは、何でも、元ビジネスマンだから、時間には、いつもうるさい。もっとも、東南アジアやインドでの結婚式の開始時間も、熟知しているので、それでも、そういう場合には、適当に、対応するのであるが、何せ、ここは、日本であるのであるから、午後5時開始と云われれば、少なくとも、20分前くらいには、しっかりと、やってきてしまうものである。しかしながら、そこは、アフリカン・タイムだから、或いは、会場自体が、いつも、スローリーを売り物のオーナーだから、到着しても、受付もなく、仕方なく、ステージ設営とリハーサルをしっかりと、エンジョイさせてもらう機会に恵まれたのは、幸いであった。毎年、一度ほどは、西アフリカのアフリカン・ダンスのイベントを愉しむことになっているが、その激しい、ダンスのエネルギーと太古の台地の響きのようなアフリカン・ドラムと踊りと歌詞の判らぬ歌には、驚かされたり、或いは、エネルギーを貰ったりするものである。何でも、約30年にも亘って、ケニアのキベラ・スラムという百万人にも達しようかと云われる巨大なスラムの中で、MAGOSO スクール(馬糞ではない、マゴソだそうである)という戦争や内戦・貧困によって親を亡くした孤児や難民の子供達に対して、教育や給食を無償で提供している早川さんという女性が、日本各地の支援者との間を行ったり来たりしながら、現地の手縫いの作品やCDなどを販売しながら、資金を捻出して、こうした活動に、充てているそうである。それにしても、YouTubeか何かで、レゲーの曲で、アフリカの子供達を助けて下さいという歌を、大勢の子供達が、歌ったり、躍ったりするのを観たことがあるが、貧困のどん底の中で、このアフリカの子供達は、何故、こんなに、明るい表情で、暮らせるのであろうか?平安時代の日本のやエタや、或いは、江戸時代の女郎屋に身売りさせられた婦女子などでも、こんなに、どこか、DNAの底に、決して、明日の輝きを決して、諦めないような強い生命力に溢れた何ものかを有しているとは考えられないとも、思われてしまう。説明によれば、朝、目を覚ましたときに、今日も、生かしてもらっていることに、感謝し、今日一日それだけのために、一生懸命、食べるために、必至に、働くのであると、何とも、今の日本の貧困に、或いは、精神を病む若者に、聞かせてやりたいような説明であった。呪術者のもとで、学んだ奏者の説明では、アフリカン・ドラムには、精霊との交わりをする為の一種の扉・言葉のような物だそうで、まるで、四国遍路の時に学んだ、空海による密教という大宇宙・自然界と一体化する上での密教語を学ぶかのような共通項が感じられて実に、興味深いものである。太鼓のサウンドというものをそういう観点から、聴いてみると、面白い、子供、お母さん・お父さん・お爺さんとか、幾つかの高音から低音までのドラムを、両手の平で、実に、うまく、エネルギッシュに、叩くものである。何とはなしに、原始の太古の人間としての耳の奧底に残っているような創造力と赤ん坊の時に、何処かで聴いたことのあるような「奥深い記憶」の音を、聴いたような気がしてならない。スワヒリ語は、皆目分からないが、日本語で、おおよその訳と曲の歌詞の説明をして貰って聞くのも、実に、曲の理解ができて面白い。豆のカサカサという音を利用した楽器による精霊を呼び込み、一緒に、台地を踏みしめながら、踊り回る時に掛ける掛け声も、実に、人間性を解放するような雄叫びに近いもので、まだ息苦しい大都会で、仕事で、毎日、心を病むような若者には、よい薬になって宜しいのではなかろうかとも思われてしまう。流石に、杖をつく我が身には、参加が叶わなかったのは、実に、残念であったが、小さな子供の飛び入りの演奏も、何か、花ちゃんという小さな子供の心に、きっと、自発的にやりたくなるような内発的なムーチべーションが、生じたのであろうとおもう。それとも、精霊が舞い降りたのかな?それにしても、以前よりも、一層、スラムに流入してくる難民、とりわけ、子供達の数が、増加してきて、「貧困問題」が解決できないそうである。解決どころか、ますます、拡大の一途だそうである。一体、我々には、何ができうるのであろうか?学生時代ならば、山谷や釜ヶ崎のドヤ街で、肉体労働の体験や日雇い労働者支援活動などに、協力もできたが、今や、団塊の世代の我々には、何が、できようか?何もできない分、結局、カンパによる支援活動くらいしか、出来ないのであろうか?何とも、日本人というものは、情けないものである。子供の頃、「密林の聖者」と呼ばれたシュバイツァー博士などと同じ時代の空気を吸って大きくなったのに、、、、、、、、。アフリカン・ドラムというやつは、その音色からして、心の奥底に、潜めて封印していた若い頃の何ものかを呼び覚ます太古の音色なのかもしれない。そんな風に、感じてしまったのも、それは、まさに、精霊との交わりを、通じて、旧い記憶が呼び覚まされてしまったせいなのかもしれない。
下記サイトに立ち寄ってみて下さい。

YouTube: MAGOSO TV by Masaya Onishi:
https://www.youtube.com/watch?v=WHcHy2gj7h8