小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

落ち葉の季節が近づいてきた!

2021年10月16日 | 自然・植物・昆虫

落ち葉の季節が近づいてきた!

 

春は、毎年、花々が咲き誇る順番があるが、秋も又、木々の木の葉が、色づき始める順番が決まっていて、今年も又、東京のハナミズキが、赤く、茶色に色づき初めて、ぽろぽろとアスファルトに、駐車場の屋根に舞い落ち始めた。地面の上ならば、そのまま、竹箒で、かき集めた落葉をさささっと、掃くだけですむのだが、都会のアスファルトでは、なかなか、そうはゆかず、箒で、落葉を入れるポリ袋を拡げながら、押し込んでゆく。微かに、落葉の臭いが辺りに漂ってきて、季節の移ろいを感じざるをえない。10月だというのに、真夏日の暑さで、半袖で、落葉掃きとは、何とも困った状況である。その昔には、サツマイモでも焼き芋にして、煙も愉しみながら、落葉掃きを愉しんだものだが、今日では、火気の取扱が厳しくなり、そんな愉しみもなくなってしまったことは、残念な事である。こんな真夏日が、続いた後は、後の雨で、きっと、急に、秋が深まり、晩秋の面影が濃くなってくるのは、想像に難くない。もう山は、そんな都会の心配をよそに、容赦なく、絨毯の織り色が、変化してきつつある今日この頃です。そろそろ、冬の準備をする季節ですね!

 


フェイクさぼてんも悪くない!?

2018年12月23日 | 自然・植物・昆虫

=フェイクさぼてんも悪くない!?

 最近では、フェイク・ニュースや、詐欺メールにも注意しなければならないので、大変な毎日である。愛犬が5年前に亡くなってしまったので、腰を悪くしてからは、一緒によく散歩した川沿いの散歩道も、一人では何とも虚しく、そうかといって、昔のように、女房殿の買い物に、マーケット・リサーチと称して、濡れ落ち葉の如く、ついて行くわけにもゆかず、スーパーや本屋の中で、ウロウロ、歩数を気にしながら、軽い歩行運動をすることになる。ある日、最近、話題になっている著名な高級家具店に対抗するカタカナ3文字の量販家具チェーンを散歩していたら、果肉植物が、なかなか、シックな形の花瓶の中に、植えられていたのを発見して、値札を観たら、ワン・コインだったので、これは、お値打ちで、安いと思い、衝動的に、購入して、それ以来、霧吹きで、さぼてんに水やりをしたり、息子夫婦に、これは、優れものだと、購入を勧めたり、時々、陽に当てたりと、結構気に入っていたものである。それでも、日がたつにつれ、そんなさぼてんのことも忘れてしまい、たまたま、駅のショッピングセンター内のおしゃれな洋風雑貨屋で、クリスマス用品の近くに、似たようなさぼてんが、似たようなガラス瓶の中に、植えられているのが、眼に入ってきた。何気なしに、いくら位するのかと手に取ってみて、眺めていたら、ふと、ラベルの表示に、眼が止まった。白内障気味の目を凝らしてみると、そこには、フェイクさぼてんとの表示があった。そして、容器の素材は、ガラスではなくて、割れにくいプラスチックであると、記載されていた。恐る恐る、さぼてんと土と思われる素材に、手で触ってみると、成る程、よく出来ているモノである!ということは、我が家にある似た代物も、ひょっとして、フェイクさぼてん、フェイク土で出来た、プラスチックのガラス瓶とおぼしき容器も、そういうことなのであろうかと、帰宅後、確認してみたら、結局、フェイクさぼてんという結果であった。そういえば、霧吹きをかけても、なかなか、成長もしなければ、枯れもしないし、土の色も、乾かないし、いやはや、恐れ入りました。多分、購入時に、ラベル表示をよく見ないで、はさみで切って捨ててしまったようである。

それにしても、よく出来ているモノである。知的財産権を侵害する違法偽高級ブランド・バッグや腕時計ならいざ知らず、フェイクさぼてん、観葉植物でよかった。ワン・コインで、こんな楽しみと癒やしの感覚を味わえれば、元は取れたかな?和紙の切り花もなかなかの出来映えだが、このフェイクさぼてんは、たいしたものである。お薦めですね!


アケビを食す:

2016年09月18日 | 自然・植物・昆虫

アケビを食す:

何とも、珍しいものが、眼に入ってきたので、思わず、土産に購入してしまった。土色とでもいうのか、やや、紫色に変色したアケビのさやが横に、口を開きながら、中から、白井透明なつぶつぶの果肉が、美味しそうに、鮭のいくらの卵のように、固まって、覗かせている。もうそろそろ、完熟の食べ頃であろうか?なかなか、普通のお店では、お目に掛かれない代物である。そもそも、こんな果物(?)を食した経験のある人は、相当の年配の人でないと、いないのではなかろうか?食べ物とは、食べた経験がないと、なかなか、手を出しにくいものである。そういう観点からすると、このアケビなどは、桑の実などと共に、危険危惧種、化石的な果物に、今や、なりつつあるのかも知れない。そんなことを考えながら、黒い小さな粒を出しながら、食すると、結構、実に、美味である。こういうものは」たくさん食べる必要は全く無いであろう。ただ、季節の旬に、一口、一味だけ、食すれば宜しいのかも知れない。その意味では、松茸などとも、同じ感覚かも知れない。ある種、贅沢な果物なのかも知れない。それにしても、地方でのこういったある種の稀少な食べ物を食することができるという事は、誠に、恵まれているという他ないかも知れない。毎年、すこしづつでもよいから、こういう商品を、産直売り場には、並べてもらいたいものである。宿泊施設で、提供したら、どんな反応をお客さまは、示すことであろうか?きっと、すぐに写真撮影して、SNSに投稿でもすることであろう。運がよければ、アケビが食べられる宿!というキャッチ・コピーも、悪くはなさそうである。

 


フクロウの声を聴く:

2016年09月17日 | 自然・植物・昆虫

フクロウの声を聴く:

随分と昔のような気がする。今は、亡き愛犬と一緒に、近くのいつもの冬の里山の散歩コースを一緒に散歩していたら、頭上をかすめて滑空する大きな鳥の影に、思わず、首をすぼめたことを想い起こす。何と、白い羽毛の大きな鳥が、翼を拡げて、滑空してきたのである。そう言えば、裏の森の奥には、30年も前から、フクロウが棲みついていて、その図太い、低いよく響き渡る声で、ホッ・ホッ・ホーと、夏の夜空に、どのくらいの範囲で聞こえるのかは、判らぬが、一晩中、鳴いていたことも、併せて、想い起こした。今年の夏は、結構短く、寒かったので、窓を閉め切って寝ていたせいか、どうかは判らぬが、フクロウの声が聞こえなかったような気がする。それでも、きっと、夜になると、太い声で鳴いていたことであろう。思わず、その声を聴いた途端に、何やら、懐かしい、安堵感が出てきたものである。やはり、里山の森の守り神なのであろうか?NHKのダーウィングが来たによれば、夏の間には、虫の声や様々な音が発せられるので、それが、一種の雑音のように共鳴して、フクロウの耳には、捕食するねずみの音が、うまくキャッチできずに従って、狩り自身が、難しい時期だそうである。しかし、雪の降る寒い冬になると、今度は、事態は一転して、好条件になるそうである。そう言えば、昔、ベランダの野鳥の餌台の隅に、小さな白い二十日鼠が、隠れていて、ビックリしたことがあったことを想い起こす。むこうも、さぞかし、ビックリしたことであろう。それにしても、久しぶりに、フクロウの声を聴けて、おおいに、安心しました。最近では、鹿の駆除に、電気柵が設けられて、すっかり、獣道も、蹄の後も、観られなくなってしまいました。それは、それで、畑や果樹園を守る為には、やむを得ない措置なのであろうが、何とも、共生という観点からは、何か、物寂しいものを感じざるを得ませんね。フクロウもカラスとの闘いに、何とか、頑張って、この森の中で、生き続けているようであります。一安心です!

 


偽アカシヤの巨木を切ろう:

2016年06月22日 | 自然・植物・昆虫

偽アカシヤの巨木を切ろう:

ドッグラン&ガーデンの開場間近ともなり、そのコンセプトの中で、&ガーデンを、わざわざ、関した一つの理由は、景観と美観の保全も入っている。出来れば、景観トラスト運動のような形で、景観の保全運動を展開したいところである。オープン・ガーデンを地域で、散歩コースやサイクリング・ロードやトレール・コーストして、或いは、フット・パスのようなモノとして、道すがら、馬頭観音像や道祖神の歴史や地域文化財を発掘して、美味しい、コーヒーやハーブティー等を一寸一休みで、休憩できるようなカフェのような場所も、作れれば、さらには、周囲の葡萄畑や、将来は、底で収穫された原料の葡萄を使ったワインの一杯でも、地元の小麦を使った焼きたてクッキーなどと一緒に、良い眺めを愉しみながら、談笑でも出来れば、これはもう、都会から、2時間半で以て、車でやって来れるだけの価値があろうというモノである。その意味では、ドッグラン&ガーデンからの眺めも、当然、外来寄生植物であるニセアカシアの巨木が邪魔をしていては、全く勿体ない話である。地権者と話をした結果、耕作放棄地の草刈りも含めて、伐採に関する合意と承認を戴いたので、程なく、開場と共に、伐採を実施することにしよう。景観トラスト運動は、もはや、単なるお題目ではなくて、花回廊構想と共に、或いは、オープン・ガーデン巡り構想とも相待って、今年の夏には、実現に漕ぎつけたいものである。のんびりと、アカシアの花房を天ぷらにして、美味しく、食している場合ではない。耕作放棄地と景観は、棚田の保全も含めて、大きな課題である。

 


擬宝珠の花が咲き始めた:

2016年06月21日 | 自然・植物・昆虫

擬宝珠の花が咲き始めた:

やっと、3年目の快挙である。待った甲斐があった。大きな株の立派な花をつけた擬宝珠が、たくさんの種をつけていたので、散歩の時に、一寸、花泥棒ならぬ、種泥棒で、戴いてきて、鉢に種付けをしたところ、そのうちの一つが、大きな葉を茂らして、昨年の冬には、その大きな葉が、見事に枯れ果てたにも関わらず、今年の春には、更に、大きな葉と茎を拡げ始めた。その勢いたるや、雨が降る度に、ますます、大きく成長し始めた。ひょっとすると、花が咲くかも知れないという期待がおおいに、膨らみ始めたところ、気が付くと、真ん中から、すっくと、突然、一本太い茎が天空を目指して、真っ直ぐに、直立し始めた。そして、どんどん、その太さを増すにつれて、ベランダの手摺りの高さを超す勢いになってきたとみるや、その中心に、花芽が硬く、蕾に、なってきた。更に、日々観察していると、いよいよ、小さな花を咲かせ始めた。これは、今までみてことのある擬宝珠の花とは、著しく、異なるようである。毎日、愉しみになってきた。梅雨の雨の中で、まるで、その恵みをひとり、享受しているかの如き成長である。暫くは、その花を愛でる心の余裕を愉しみたい。驚くほど、凄い花の存在感である。

 

 


鈴虫の音色を愉しむ:

2016年06月16日 | 自然・植物・昆虫

鈴虫の音色を愉しむ:

今年の夏は、寒いせいだろうか、何故か、春蝉の鳴き声が、梅雨の晴れ間にも、それ程、聞こえてこない。それとも、まだ、早いのであろうか?子供の頃には、季節の音色というモノがあったような気がするが、何かの錯覚だろうか?夏になれば、何処からか、金魚売りの掛け声が、きんぎょー、金魚は如何?と聞こえて来たりしたが、もうそんな声も、既に何十年も前に、絶滅してしまった。子供の頃には、虫の声も、何かの歌で、あれ鈴虫は、松虫は、などと、鳴き声を、歌で覚えたモノであるが、もっとも、実際にそんな虫の鳴き声を聞くような事は、まず、なかったが、、、、、、それでも、何処からか、鈴虫の鳴き声を聞けば、成る程、夏から、秋へと季節が移ろっていくのかなくらいは、忙しくても、ふと、心の何処かで、感じるものである。ホームセンターに、買い物に来たら、懐かしい鈴虫の声が聞こえてきた。本当は、虫かごの中ではなくて、庭の草むらにでも放してあげて、その鳴き声を自然に、聞くのが理想であるが、そうも言ってはいられない。何せ、庭の草むらには、蜥蜴や蛇もいるから、すぐに食べられてしまうであろう。実際、何年か前に、蜥蜴が、キリギリスの幼虫を食べているのを写真に撮ったことがあるが、なかなか、自然環境は、Survival is the fittestで、難しいですね。鈴虫の鳴き声に、色々と、世の中の雑念を、忘れて、聴き入っています。もう少ししたら、風鈴でしょうか?五感を刺激するには、お香も良いかも知れません。年寄りには、五感を刺激するのが一番ですし、現代社会の現役の若い人には、五感の刺激と云うよりも、精神の癒やし、或いは、副交感神経の回復になるかも知れませんネ。梅雨の晴れ間なのに、春蝉は鳴いていませんが、鈴虫は、昼間でも、すれた音色を奏でています。

 


野鳥の巣立ちでの明と暗:

2016年05月07日 | 自然・植物・昆虫

野鳥の巣立ちでの明と暗:

何でも、女房殿の説明では、東京の巣箱に元気でピーピーと啼いていたシジュウカラの雛たちが、先日の雨降りの次の朝には、パタッと、鳴き声が聞こえなくなり、どうやら、無事巣立って行ったようであると、一方、糠時の青雲館で、一生懸命、子育てに励んでいたツバメのつがいの方は、先日、写真を撮ろうとしたときに、オスが、警戒にあったっていて、メスが、卵を抱えていたが、家人の説明では、野良猫が、網戸を登ってきて、その詰めで、網戸が、ズタズタに引き裂かれてしまったようである。軒下まで、爪を立てて、勢いよく、登ってくるそうである。一つの酢の方は、雀の攻撃により、無惨にも、巣が破壊されてしまったそうである。一茶の俳句に出てくるイメージや、都会でのカラスに襲われる雀とは、随分、違っているものである。土地が廻れば、鳥たちの生き方も、異なるのであろうか?全く、驚きである。そして、隣家の空き屋の土蔵には、知らぬ間に、野良猫たちが、子猫を産んでしまい、それが、野生化してきて、その数が、増え続けているそうである。殺処分するのも、可哀想であるとかで、放っておいたところ、手がつけられないほどの数になってしまったらしい。どうやら、今、日本中を騒がせているキュートな猫ブームとは、様相を異にするらしく、野良猫も生きるためには、とうとう、燕の巣を狙って、網戸をよじ登って、燕の雛を食い殺してしまったそうである。庭先には、巣の残骸と、卵の殻が、落ちえていたそうである。何とも、非常な掟であり、仕方の無いことなのかも知れないが、都会と田舎では、随分と、同じ野鳥の子育ても、事情が、随分と違うことを改めて、知らされる。春ゼミが、ギーギーと喧しく、鳴き始め、林の遠くに、見え隠れしていた建物も、もはや、薄緑色の木々の木の葉の海に埋もれて、見えなくなってしまいました。ベランダから、見下ろしている低木の木々達も、一斉に、その芽と枝を伸ばし始めています。やがて、後一月もすれば、緑が、もっと、濃くなってきて、初夏を迎えることになりますが、もう、既に、半分が過ぎ去ろうとしています。

 

 


雲を眺める:

2016年04月23日 | 自然・植物・昆虫

雲を眺める:

久しぶりのことである。前回は、いつ頃だったのかも、おもし出せないが、恐らく、鱗雲が流れるさまを眺めた秋のことであろうか?そう考えると、もう、7ヶ月ほども前のことだろうか?それにしても、やっと、ベランダに、長いすを出してきて、屋外でも寒さを感じることもなく、日向ぼっこをしながら、ゆっくりと空を流れる雲を眺めることが出来るような陽気になってきたものである。山桜は、やっと、満開になり、最後の八重桜の開花を、今まさに、待ち焦がれているところである。相当、ピンク色の蕾も色濃くなり、大きくなってきたので、来週頃には、GWには、咲き誇ってくれるかも知れない。雲が流れるさまを愉しみながら、耳を凝らすと、谷の方角から、野鳥の甲高い鳴き声とピューと云うような、恐らく、鹿の鳴き声と思われる声を、谷風が、暖かい空気と一緒に、運んできてくれる。紅葉の葉達も、どんぐりのコナラの樹の芽に負けじとばかりに、その葉を精一杯、思い切り、拡げようとしているようである。このころになると、もはや、茶色一色の景色も、徐々に、明るさを増してきて、薄緑から、明るい濃い緑へと、その景色の色を変えて行く。この時期の樹々の芽吹きは、何とも、新しい命の芽吹きのようで、実に、気分も柔らぎ、冬の心の装いを、一挙に、かなぐり捨てさるようで、実に、心まで、気分的に、清々しくなるのは、不思議なものである。松食い虫にやられたのではないかと心配した赤松の大木も、無事、その枝に、緑の尖った葉先を忍ばせて、繁っている。昔は、愛犬と一緒に、春の日を一緒に、愉しんだことを、ふと、想い出す。今晩は、たらふく、春の自然の恵みである、たらの芽の天ぷらを戴くことにするか、それにしても、今日の夕方に眺めた夕焼けは、なかなか、素晴らしいものがある。北アルプスの山々が、真っ赤に、燃えているようであった。そして、夜のお月様も、綺麗である。

 


今年も又、シジュウカラが孵化したようだ:

2016年04月21日 | 自然・植物・昆虫

今年も又、シジュウカラが孵化したようだ:

先日、ツバメが、巣作りを始めたのを偶然、見る機会に接したが、東京の小さな庭の梅の樹に、かけられた巣箱の中から、か弱い声であるが、かすかに、ピーピーという鳴き声と共に、親鳥が、虫を加えては、花桃の樹と梅の樹を往き来しているのを、女房殿が、見つけ出したそうである。確かに、毎年、この頃には、シジュウカラが、毎年、2-3羽づつ、孵化して、巣立ってゆく。もう何年程前になるであろうか?随分と、長い年月が経過した様な気がしてならない。一昨年には、蛇が、梅の樹を登って、巣箱を攻撃しようとしたのも、女房殿は、見かけてもいる。毎年、綺麗に、巣立ちの後には、巣箱の内部を綺麗にお掃除しているから何であろうか?理由はよく分からないが、これまで合計すると、有に10数羽を超えているであろうか?今年も、数週間でもすれば、小鳥達が巣立ってくれると有難いが、、、、、、。小諸の里山にも、やっと、桜の花が、咲き始めてきた。そして、モミジの葉たちが、やっと芽吹き始めてきた。

 


花桃を活けてみる:

2016年04月02日 | 自然・植物・昆虫

=花桃を活けてみる:

春のお彼岸の中日に、静岡の天竜川沿いにあるご先祖さまのお墓参りに、行けなかったので、夫婦、二人で、春のドライブも兼ねて、出掛けることにした。例年、途中で、お花を現地調達することにしているが、今年は、余りに、我が家の庭先の花桃が、二階の窓ガラス越しに眺めると、見事に咲き誇っているので、それではとばかりに、高枝切り鋏を使って、空に向かって、真っ直ぐに伸びた枝を摘めるのも兼ねて、何本かをカットしてみた。通りを行き交う人にも、お裾分けで、既に、2本づつ、20束ばかりを玄関先に、無料で、お持ち下さいと書いておいたところ、あっという間に、なくなってしまった。きっと、お花好きな人達が、多いのであろう。大きな枝を鋏で、少しばかり、カットして、長さを調節してみたところ、それでも、まだ、小さな枝に、白やピンクの花が、ついているので、お墓へのお供え用とは、別に、テーブルに、載せられるような小さな花瓶に、活けてみることにした。部屋の中は、暖かいので、きっと、小さな蕾も、すぐに、開いてしまうかも知れないが、なかなか、綺麗なものである。既に、樹木自体は、二階をはるかに、超える背丈にもなってしまい、枝を摘めて切るのも、一大事である。しかしながら、余りに、一挙に、切り詰めてしまうと、今度は、花が、来年、うまく咲くかどうかが、おおいに、心配になってしまうものでもある。花が終わると、大きな桃の実がなり、それを播いておくと、種から、発芽して、苗になり、ご近所では、今年、花が咲くほどに、大きく育ったと、話されていた。毎年、我が家では、東京で、花桃の花見をしてから、小諸で、ゴールデンウィーク頃にかけて、山桜や八重桜の花見である。都会では、花の終わった後が、大変で、花びらや落ちた実の後始末が、悩ましい限りであるが、それでも、毎年、道行く人が、花見を喜んで貰えれば、これも又、一種の趣向ではなかろうか?今度は、白いハナミズキの蕾が、随分と、膨らみ始めて、次の出番を待ち構えている。花ズオウ、小手毬と、続き、紫陽花へと、やがて、バトン・タッチすることになる。この頃には、毎年、シジュウカラが、樹にかけた巣箱に、営巣、抱卵する時期になろうか、果たして、今年は、どうだろうか?外では、鳥の声が、日増しに、大きくなり、今日は、不如帰の啼き声も、初めて、聞かれた。

 


いよいよ、春到来!:

2016年04月01日 | 自然・植物・昆虫

東京では、既に、桜が、開花宣言である。天気が下り坂にならない前に、女房殿と一緒に、運動不足の解消と健康促進も兼ねて、例年の恒例のサイクリングも兼ねた花見と洒落込むんだ。既に、猫の額ほどの我が家の庭では、白木蓮が、散ってしまい、雲南黄梅が、咲き乱れていて、おまけに、白とピンクの花桃が、今を盛りに、咲き乱れている。毎年、決まって、この時期には、見事に咲いてくれるので、道行く人達が、眺め、愛でて通ってくれる。今年は、余りに、大きくなりすぎたので、枝を摘めるのも兼ねて、ご近所の方や、道行く人に、その枝ごと、新聞紙に、包んで、玄関の門扉の外に、バケツに水を少々入れて、『ご自由に、お持ち下さい!花桃です。』と、見事に、二日間続けたところ、完売の盛況でした。毎年、暖かさが増し始めると、桜や花々を愛でることは、春到来を告げるとともに、楽しみのひとつである。別に、酒を飲んだり、歌を唄ったりするわけではないが、只、桜を愛で、春の花々を愉しむことが出来ると云う事は、有難い話である。戦争中には、人々は、どうしていたのであろうか?どんな風に、春の到来を愉しんだのであろうか?車椅子や、体の不自由な人達も、杖を突いたり、助けを借りながら、そろそろと、川沿いをゆっくりと、歩いている。亡き父や母と一緒に、或いは、愛犬と一緒に、歩いた桜並木は、もう、古木になっていて、花も、チラホラと、上の方にしか、ついていない。桜の木にも、人間と同じく、寿命があるのであろう。荻外荘の近衛邸の垂れ桜も、昔は、大きな鯉が泳いでいた池の畔にあったのに、相続のために、今や、池もなくなり、半分が、公園になってしまい、何気なく、淋しそうな装いである。徳冨蘆花の名前を冠した、芦花公園には、今年、始めて、桜並木を観に行ったが、なかなか、色濃くて、鮮やかな色彩であった。見事に、花壇の赤いチューリップや黄色の菜の花を背景にして、色鮮やかに、咲き誇っている。後一月ほどで、今度は、小諸の里山で、山桜の花見と、2回、愉しめようか?ゆったりと、時間が、過ぎ去ってゆく感じであるが、もう、1年も、4分の1が、過ぎてしまったとは、、、、、、、。早いものである。

 


白梅を生ける:

2016年02月20日 | 自然・植物・昆虫

白梅を生ける:

何か、こう、描写すると、如何にも、高尚な趣味でも有していて、春先になると、庭の白梅を、生け花にでもして、観賞するのではないかと、錯覚を起こしてしまうから、面白いモノである。何と言うことはない。先月、女房殿の実家に、顔を出したときに、庭先の黄色いろうばいの花が、匂い立って、綺麗だったから、帰り際に、貰ってきて、玄関の花瓶に、挿しておいたところ、その香りが、何とも言えず、ほのかに、春先の香りを届けてくれたものの、やがて、その花達も、ひとつひとつと、落ちてしま、今では、そのかぐわしい臭いどころか、羞悪な枯れた花弁が、廊下に、落ちている始末である。書斎のシャッターも、冬場は、寒くて、暖房効率が悪いからと言う理由から、滅多に、開け放たれることもなかったが、先日、天気の良い日に、布団を干そうとベランダ越しに、二階から、階下に眼をやると、何と、知らぬ間に、白梅が、見事に咲いているではないか!特に、お礼の追肥をやるわけでもなく、何もしないでいるにも拘わらず、未だ寒い冬の2月には、毎年、決まって、蕾が大きくなり、やがて、これから、華々しく咲き乱れる春の花達の魁として、開花する。何と言うことはない、気まぐれに、シャッターを開け放てば、一瞬、その窓越しの風景が、パアッとその限られた空間だけが、一瞬にして、明るくなったのである。そこで、高枝切りを持ち出して、単に、徒長枝を、何本か、切ってきて、花瓶に、挿しただけの話である。その時に、恐らく、もう花時は、満開を少し、過ぎていたのであろうか、何片かの白い小さな花弁が、ひらひらと、廊下やフローリングの上に、落ちる。何とも、その花弁の落ち方が、堪らなく、宜しいではないか!まるで、それは、春の訪れを、自ら、その魁の役割を、終えたことを暗示するかの如きで、、、、、、、、。誠に、美しいと想う。花の美しさなどというものはないなどと、小林秀雄を想い起こすことも、必要ない。只、その一瞬の花弁の散り際だけを愉しめば宜しい。やがて、5輪の花弁が、開き尽くして、それは、散り始めることを暗示しているのかも知れない。無造作に、活けられたピンク色の桜草の花と一緒に、只、一枝、スックと伸びた短い枝振りに、密集した白梅は、まるで、『凜』とした孤高を、しばし、愉しんでいるかの如くである。敢えて、廊下やフローリングに、落ちた一枚の白い花弁は、きっと、間違いなく、誰かによって、『こんなところに、花びらが、落ちているわよ!誰も、気が付かないの?、誰も拾わないのかしら?』とばかり、綺麗さっぱりと、ゴミ箱に、消え去る運命にあることは、100%間違いないであろう。それまで、しばしのあいだ、そのゴミと間違われるまでの時間を、愉しもうではないか?この次、外国人に生け花の神髄を説明するときには、活けるまでの過程と、活けた後の散りゆくさまに関して、講釈を垂れてみたいとも考えてしまう。一輪挿しというものは、なかなか、面白いモノである。ホテルのロビーの大きな創作生け花も宜しいが、貧乏でも、金持ちでも、関係なしに、存在することのない花の美しさ(?)を愉しめるから、面白いのかも知れない。白梅の後には、雪柳、白木蓮、小手毬、沈丁花、ハナミズキの花達が、順番を争うかのように、蕾を大きくしながら、控えている。文学的には、やはり、白梅の一枝を手折ると言う表現のほうが、響きが宜しいであろうか?


年末恒例の高枝払い終了しました!:

2015年12月23日 | 自然・植物・昆虫

年末恒例の高枝払い終了しました!:

暖冬である。毎年、晩秋に、黄色に紅葉する栃の樹の葉を愉しんだ後に、枝を払うことを、結婚してから、天気に恵まれた日には、毎年の年末冬恒例の行事になっていたが、段々、年をとるに従って、遅れがちになってきたのは、如何なものであろうか?暖冬だけでは無くて、体力の衰えのせいだろうか?昔は、脚立を塀に引っ掛けて、ヒョイと塀に飛び乗って、ノコギリで、スイスイ、枝を払ったものが、今や、女房殿が、塀によじ登り、私は、下で、払い落とされた枝を、短く、挟みで、切っては、ポリ袋に詰める作業分担となっている。もっとも、立ち仕事なので、1時間も、腰を屈めたり、落ち葉を掃いたりしていると、少々、腰の辺りが、張ってきて、小休止と称して、一休みをしなければ、長続きしないのが、常である。全く、困ったものである。隣のお宅には、庭師が入っていて、手際よく、お昼前には、予定通りに、作業を終了して、箒で、枯れ葉や切り取った枝を掃きおわり、昼食へと、時間通りに、出掛けて行ってしまった。こちらは、依然として、袋詰め作業の真っ最中である。時折、強い風が吹いたりすると、落ち葉が、四方へ、散らばり、箒で、又、掻き集めなければならない。一応、曲がりなりにも、高枝は、すべて、払われ、こぶのような頭部を残して、すべて、切り払われて、すっきりとした姿になった。不思議なことに、これが、又、来春になると、おおよそ、4月頃になって、温かさが増してくると、徐々に、緑色の芽と葉が、出てくるから、大した生命力である。夏には、一面、カーポートの屋根を、若葉が覆い尽くして、日陰を作ってくれる。なかなか、黄色い紅葉も、乙なものである。いよいよ、来春には、課題である花桃の大きくなりすぎた樹を、花が終わった時点で、どうするか、流石に、2回の屋根をはるかに超えるようになってしまった枝を素人が、切れるわけにもゆかない。やはり、庭師に、頼まないと駄目であろうか?どのくらいまで、剪定するのかが、問題である。花も愉しんで観たいが、余り、大きくなりすぎても、都会では、どうしようもない。松食い虫による立ち枯れにも困ったものであるが、都会の樹木も、誠に、住みにくいもので、別の意味で、可哀想である。何せ、花は、綺麗だが、落ち葉と、枝の高さと拡がりとは、、、、、、、。それでも、もう、40年近く、やってきた恒例の行事は、いつまで、一緒に、続けられるであろうか?こちらも、問題である。

 


景観の変化に思う:

2015年11月05日 | 自然・植物・昆虫

景観の変化に思う:

何やかやと日常の些細な雑事に追われているうちに、モミジの紅葉も盛りを過ぎてしまい、気が付けば、遠く望む山並みも、その頂上付近から、麓へと続くなだらかなタベストリーの色合いも、随分と茶褐色が増してきたように思われる。標高の高いところでは、急激な寒さのせいだろうか、一挙に、落葉が始まり、流石の唐松の尖った葉先も、耐えきれずに、パラパラとばかりに、晩秋間近の冷ややかな空気の陽光の中で、空から、舞い落ちてくる。既に、道端には、茶色い堆積物のような形で、何層にも成って、良い肥料になることを待っているようでもある。モミジの真っ赤な、或いは、オレンジや黄色の紅葉した葉っぱ達は、それでも、何とか、枝にしがみついているように、残っていて、まだ、そのグラデーションが、辛うじて愉しめそうである。それにしても、今年の春先には、4本もの赤松が、松食い虫にやられ果てた末に、やむなく、切り倒したが、色が変わった紅葉の中で、改めて、玄関近くの樹齢40年を優に越える赤松の大木の枝先が、どうも、枯れ始めていることに、始めて気が付く。どうやら、一連の松食い虫の被害に、この大木も、逃れる術をもっていなかったのであろうか?それにしても、庭の景観とか、風景の景観を長い間、維持することは、全く、大変な事であることに、思いが至る。明らかに、一本の樹が失われることで、恐らく、陽の当たり方とか、風の向きとか、雨の降り方とかも、大きく変わり、生態系が変化することは、疑いのないことであろう。庭の景観などと云うものは、その点、何年にも亘って、同じ景観を維持することは、相当な人工的な努力がなければ覚束ないのであろう。それに比べたら、自然の景観というものは、人工の手が加えられにくく、維持が、困難である。ましてや、最近の外来植物とか、危険危惧種とかを考えると、ますます、考え込んでしまう。来春にでも、この赤松の大木が切り倒されたら、どのように、景観は、変化してしまうのであろうか?現在、下草と共に、生えているちいさなヒマラヤ杉が、一挙に、成長することになるのであろうか?それとも、隣りで、これまで、抑制されていた桜の樹が、枝先を大きく、拡げることになるのであろうか?これまでの景観の維持と、新たな景観の展開という微妙な狭間に、置かれることになろう。何やら、失われるものと、新たな展開への期待と、心の中で、複雑に交錯するようである。まるで、人生の一コマを見せつけられているような感じさえしてならない。