小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

農家レストラン、里の食にお邪魔する:

2014年05月31日 | 社会戯評
農家レストラン、里の食にお邪魔する:
信州せいしゅん村を主宰している小林さんが、上田市武石沖の信号の横に、談笑こみゅにてぃー、交流の駅、農家レストラン、里の食を出店したというので、一寸、お邪魔することにした。古民家を再利用しながら、机も、昔の結婚式披露宴の長い机を思わせるような、誰もが、気楽に、知らない客同士も声を掛けられるような仕組みで、考えられている。(このきの机自体も、一見の価値はある。) しかも、襖や、壁には、様々な昔の絵画や旧い書体の襖が、そのまま、時間を超えて、出迎えてくれる。そして、床の間には、昔使われていたであろうと思われる様々な小道具が、所狭しと並べられ、食事を楽しむだけでなくて、待ち時間にも、全く、退屈することはないであろう。2階は、これ又、立派な農民工芸文化に裏打ちされた素晴らしい工芸品が、壁に、展示されていて、お客の中には、売っては貰えないのですかという質問も、出るほどのものだそうである。単なる食べるだけの、或いは、地域雇用を創造するだけの農民レストランではない。これは、世代を超えたしっかりした食育と地方伝統文化伝承と更には、地域の活性化を哲学として、バックボーンに有していると言うことがすぐに理解できる。何よりも、下を向きがちな住民に、明るさと希望と自信を蘇らせることが素晴らしいではないか?今後は、隣接する土地に、徐々に、Gファームという、元気な爺さん婆さんが、農業体験をしっかりと若い孫の世代にも、或いは、都会や地方都市の園芸愛好者へ、一緒になって、野菜つくり・土つくりの手ほどきを協働出来る場と機会をそこで、得られるようにも、考えているそうである。美ヶ原へ、或いは、白樺湖へも通じる三叉路の場所もさることながら、これまでの信州せいしゅん村という「人はふれ合って初めて成長する」という農村生活体験型の哲学、或いは、故郷を歩いて学ぶ「観郷ウォーク」、更には、学生や海外からの「ほっとステイ」という周辺地域での受け入れ体制など、ホテルや農家での受け容れも含めて、有機的に、地域の人間の意識改革や、本来は、強みであるべきポイントが、実は、いつの間にか、ウィーク・ポイントに転化してしまっている問題に、初めて自覚することになる。こうなると、もはや、長和、武石、青木村や真田や蓼科、茅野と言った各地域毎での「緩い連邦制・合衆国制度」も、今や、点から、線へ、そして面へ、更には、地域へと、拡大していきそうな雰囲気である。もうこうなると、一種の公的なビジネス・モデル、しかも、独占的な私的な独りよがりではなくて、ノウハウの公開と更なる進化、まるで、LINUX方式のようなモノではないだろうか?お互いに、良いところをどしどし取り入れて、何も、ライセンス料やロイヤリティーを貰わなくても良いではないか、、、、、、。単なるボランティアでも駄目であるし、又、そうかといって、一つの私企業体でもこれまた、駄目で、あるときは、NPOで、あるときは、共同出資企業として、色々な顔を持ちながら、運営されて然るべきで、様々な専門的な知識も、色々な人々から、異なる知恵を出して貰えば、素晴らしい方向へと進んでゆくのではないだろうか?どうも、長く、運動体として、運営をしてゆくのには、やはり、どこかで、人と人との繋がりが、必要になり、組織として、これを柔軟に、取り込み、昇華しなければうまく行かないのではないだろうか?そうした良い意味で貪欲なアメーバのような運動体として、進化して貰いたい物である。今後は、アートや、様々な催し物・イベント、文化発掘が、企画されよう。この次は、是非、寒晒し十割蕎麦を戴きたいものである。それにしても、6食田舎食(日替わり)に出てきた私の嫌いなミョウガが、何故、あんなにも、甘酸っぱく、蜂蜜でじっくり煮たような味で、難なく食べられたことに、自分でも驚かざるを得ない。一度ならず、何度も、行きたくなる農家レストランである。腰が悪いので、下足場には、靴を履き替えられる椅子があると嬉しいですね。是非、一度、行ってみる価値はありそうです。

談笑コミュニティー 交流の駅<たけし>農家レストラン 里の食
郵便番号 386-0503 上田市武石沖669-2  Tel: 0268.41.4141
場所は、国道152号の(武石沖)信号機傍になります。

http://www.kouryu.or.jp/information/gt/a51k290000007u29.html

本当に人手不足なのか?:

2014年05月30日 | 社会戯評
本当に人手不足なのか?:
少子化の流れなのか、それとも、アベノミックスによる景気浮揚策の結果なのか、どうも、よく分からないが、何でも、外食産業などのアルバイト時給が、今や、1200円にもなると、おまけに、人手不足によって、優秀なアルバイト店員が集まらずに、やむなく、店自体を閉店する事態に追い込まれるレストランや居酒屋チェーンも、出始めているそうである。考えてみれば、巨大チェーンとは、大きな組織を展開する上で、どうしても、安い労働力と、いつでも自由自在に、切り捨てたり、又は、補充できるに足る機動的な労働力をその発展の基礎に据えているものであろう。しかしながら、こうなると、そうした根幹に、大きな変容が迫られることになろうか?トラックの運転手にしても、これまでは、安い給料と過酷な労働条件の中で、飽くなき荷主からの法外な条件を強いられてきたものの、今後は、長時間運転の是正とか、ドライバーの人員確保と言った問題から、トラック運転手の需要も逼迫し、ひいては、日本の物流の根幹も、大きく揺るがされることになるやも知れない。既に、建築・建設労働者のなかで、職能工が、人材不足となり、東京オリンピックに向けて、ますます、不足気味のなることが予想されていて、外国人労働者の活用と養成が急がれる事態になってきていると、、、、、。確かに、人口ピラミッド構成を考えると、団塊の世代の引退とも相俟って、そうなるべくして、そうなったとしか、言いようがないが、明らかに、そこには、熟練工と需要とのミスマッチがあるように思われてならない。一体、非正規雇用の労働者は、何処へ行ってしまったのであろうか?明らかに、人手不足というものは、現象であって、原因と対策は、置き去りである。実のところ、本当は、「人材不足」なのではないのではないだろうか?それとも、員数合わせの単なる「人手不足」なのであろうか?それでも尚、今や、もはや、そんな員数合わせの絶対的な人の数すら、不足し始めたと言うことなのか?ホワイト・イグゼンプションと成果主義による新たな労働時間制度の創出という問題に関しては、又、別に論じてみたいと考えています。

なでしこアジア・カップ優勝に思う:

2014年05月29日 | 社会戯評
なでしこアジア・カップ優勝に思う:
スポーツ観戦というものは、いつも、期待が大きすぎるとガッカリさせられるものである。それは、大相撲でも、男子サッカーでも、これまで、そうであった。しかしながら、どうも、なでしこジャパンは、それなりにある程度は、その期待を満足させてくれるので、安心しながら、観戦できるのは、素人には、実に宜しいのではないだろうか?今回も、海外組が、6人も、参加できず、明らかに、若手の経験不足、ここ一番での勝負強さ不足などは、観ていても、いやはや、これが、誰それであったら、決めていたのになぁとか、パスを制御できたのになぁなどと、思ってもしまう。初戦のオーストラリア戦では、どう見ても、若手にせっかく出場機会が、与えられたのに、それが、十分、生かし切れず、或いは、佐々木監督の意図に対して、十分応えられず、やっと、ベテラン勢の急遽投入で、後半に追いつくという苦戦であった。又、準決勝の中国戦でも、敬愛する澤と一緒にピッチにたった中島は、不運にも、ハンドをとられて、それまで、よくやっているという評価も、まさに、天国から、地獄へと云った急降下の中、石清水の決勝ゴールで、120分に及ぶ死闘を制したときには、もうほとんど、顔をくしゃくしゃにして、泣き崩れていたのが、とても、印象的であった。それにしても、川村や吉良や山根にしても、石清水や宮間や川澄によって、まるで、On the Job Trainingの如く、実践の中で、試合をしながら、手本を示してもらいながら、試合を通じて、教育して貰っているようなシーンが、幾つもあったことは、なかなか、興味深い。それにしても、どうみても、体格に劣るこうしたベテラン勢が、それなりの結果を残しながら、目標をも有言実行することは、至難の業ではなかろうか?澤にしても、あんなに難しいコーナー・キックを、まるで、ワールド・カップの再現のように難なく、やってのけたのには、若い高瀬や深澤にも、もっと、結果をここ一番肝心なところで、出して貰いたいところである。そう言い放してしまうと一寸酷だろうか?これ以上の教材は、ないであろうと思われる。ベテランと若手の融合、そして、更なる個々人の競争による一段上を目指した高みに向けて、邁進してもらいたいものである。それにしても、14度目の挑戦とは、気が遠くなるような歳月である。もっとも、何故か、昨今の日本の世代交代に重ね合わせてしまったのは、考えすぎだろうか?

新緑が、眩しく、美しい!:

2014年05月28日 | 自然・植物・昆虫
新緑が、眩しく、美しい!:
冬は、辺りの景色自体が、茶色の落葉樹におおわれてしまうせいか、山並みも、どういう訳か、茶色一色になってしまい、心模様すらも、何とはなしに、暗くなってしまうものである。せいぜいが、雪でも降って、それが、一面、真っ白な銀世界に、変貌する程度であろうか?それに比べると、春先は、日に日に、まず草が、萌えだして、その後、草花が、咲き誇り出す。そうすると、今度は、徐々に、木々も芽吹き始め、やがて、一面が、柔らかい緑色に、包まれることになる。碓井峠も、この時期は、いつものバイパスではなくて、山道をくねくねとゆっくり登ってゆくと、その間の新緑を愉しむことが出来、幸いに恵まれようものならば、山桜や八重桜の花も、愉しめることがあろうか。秋の紅葉は、実に、鮮やかで、綺麗である。しかしながら、緑色をしたこの季節の柔らかな緑の葉も、又、とても、綺麗で宜しいではないか?何とはなしに、モミジに、人生を重ね合わせてしまいそうである。萌え出ずるような新緑の緑色と晩秋の紅葉に彩られる真っ赤な、或いは、まだら模様のその葉の彩りに、まるで、自分自身の人生を重ね合わせてしまうようである。昔の人は、どう思ったのであろうか?同じ、樹を見て、同じ葉っぱを眺めては、どんなことを、どんな思いを抱いたのであろうか?子規はその闘病生活のとこの中から、狭い庭から文学の世界を俯瞰できたように、人は、いつでも、その景色の中から、何かを見いだすものなのであろうか?ふと、モミジの柔らかなこの時期特有の新緑を眺め愉しみながら、そんなことを思う。晩秋の紅葉とは全く異なる、又、真夏のモミジの葉とも、異なる何とも言えぬ「柔らかな緑の色合い」を、暫くは、愉しみたいものである。

今年初めてのプレーを一緒に愉しむの巻:

2014年05月27日 | 社会戯評
今年初めてのプレーを一緒に愉しむの巻:
天気の悪い日には、とりわけ、雨模様の日には、ゴルフの予約は取らないことにしている。又、寒いときにも、身体、とりわけ、心臓と筋肉には悪いので、プレーはしない。程よい、汗のかき具合と大自然の景色を愉しみながらのプレーが、夫婦ゴルフのミニマム条件である。久しぶりの雨上がりであるものの、流石に、軽井沢の三井の森ゴルフ場は、まだ、寒いものの、天候に恵まれて、気温は、程々に、上がってきたのでよかった。何せ、ゴルフ練習場にも行かず、パッティングの練習も行わずに、いきなりの第一打である。前日、近くのスポーツ専門店のオープン記念に、ユーティリティーが、5000円以下で、特売目玉商品になっていたので、早速、これを購入して、夫婦共用することにした。又、ボールも、手袋も、今や、非公認ものである。何でも、跳びが違う故に、非公認、滑り止めが強いので、非公認、もっとも、もはや、身内だけのゴルフだから、公式協議に出るわけではない以上、今後は、ドライバーも、飛びすぎる非公式ドライバーでも、使用することにしてみようかとも考える次第である。そこそこ、コースも戦略性に富み、素人なりに、スコア・メイクが可能で、プレーを楽しめれば、もう、ゴルフは、それで、宜しいのではないでしょうか?相変わらずのいきなりのダブル・ボギーと、ボギーの繰り返しで、やっと、7番ホールから、3連続のボギーで、手堅く、前半を48で纏め、後半は、一寸、疲れが出始めて、(実際には、一寸、気を抜いたせいだろうか?)49と崩れてしまい、何とか、97で、もっとも、腰の手術後は、ホワイトでは無くて、今や、シルバー・ティー専門で、シーズン初戦を、きわどく、無事に纏められました。女房殿は、ショート・ホールで、パーとバーディーを一つづつ取り、108と、いつもの55ペースを何とか、下回り、上々のシーズン・スタートでした。それにしても、ツー・サムだと、平日は、前後の組を気にせずに、ゆったりとプレーでき、グリーン周りのアプローチの練習も、エクストラで、やっても、同じ料金で済むので、まるで、練習ラウンドのようなものですね。(マナーに反して、これは失礼!)又、天気の良い、少し暖かくなる日に、プレーすることにして、シーズン初戦を無事楽しく、終えることが出来ました。

映画の観賞の仕方も変わりつつあるのか?:

2014年05月26日 | 社会戯評
映画の観賞の仕方も変わりつつあるのか?:
何でも、今ヒット中のディズニー映画の主題歌、「Let it go」(レリゴだそうである!)を劇場で、映画を観ながら、観客が一緒に、大声で、唄を歌って愉しむという手法が、どうやら、受けているようである。成る程、映画鑑賞は私語や音を立てずに、涙ですら、隠しながら、映画を鑑賞するのが、これまでのやり方であったのは事実であろう。これに触発されたのかどうかは、分からぬが、何でも、印度映画を鑑賞しながら、一緒に、歌い踊るという鑑賞方法も、どうやら、新手の映画需要を掘り起こしているそうである。もっとも、これまで、確かに、印度映画は、スクリーン狭しと、迫力ある踊りや歌が、評判であるが、観客も、一緒になって、イケメンと一緒に、踊りを踊り、歌いまくるというのは、なかなか、宜しいではないだろうか?何でも、受け手であるばっかりでは、面白くない。確かに、カネを払っているのであるから、思う存分、その投資額を回収する資格は、観客にはあろう。創る側と見せる側と観る側との三位一体感は、これに勝るものはないだろう。オカルト映画なども、思いっきり、スクリーミングが、許されるような趣向も、考えられて然るべきものかも知れない。何も、ジェット・コースターだけに、許された特権でもなかろうに、、、、、、、、。色々な映画観賞の楽しみ方が、あっても宜しいのではないだろうか?「恋チュン」の振り付けの動画が、ヒットしたのも、こうした自分自身も一緒に、共に、愉しみたいという衝動が何処か、心の根底に潜んでいるのかも知れないが、それを解放するマーケティングの手法も、多いに、楽しみである。今度は、どんな新手の愉しみ方が、編み出されるのであろうか?「観る側も一緒に参加する」という愉しみ方は、今後も、進化し続けるのであろうか?もう、こうなるとカラオケやコンサートも、負けてはいられない。ますます、競争しながら、新手の手法を編み出してもらいたいものである。知恵を出せば、まだまだ、生き残りというよりも新たな成長の可能性が、そこには見えるような気がしてならない。因みに、印度の映画の踊りは、事前に、踊り方のリハーサルが、ご丁寧にも、きちんと、上映前に、指導されると云った念の入りようである。これも、ちゃんと映画代金に含まれているのであろうか?こうなると、すっかり廃れてしまったディスコにも、出番は、未だ残っているような気もするが、、、、、、、。どうなることであろうか?

和久井ガーデンの非日常性を愉しむ:

2014年05月25日 | 自然・植物・昆虫
和久井ガーデンの非日常性を愉しむ:
庭というものは、観て愉しむ分には、なかなか、面白いが、自分でそれをマネージしようとするとなると大変なものである。従って、自分の家では、身体がやや不自由になってきたせいもあって、なかなか、捗らない。そんな中、糠地の和久井ガーデンで、新たに、庭を一望できるデッキを新しく、構築し、週末の金・土・日に、珈琲と奥様による手作りクッキーでオープン・カフェを催しているというので、その糠地からの景色と新緑に映える庭園と畑を眺めるために、否、この一寸した「非日常的な空間」を味わうために、出掛けることにした。とにかく、天気が良くて、遙かかなたには、富士山までもが、遠望できるという檜のデッキで、その庭園を眺めること、又、入り口の右奥には、ハンモックが、空中で愉しめるように、或いは、一時の午睡を愉しめるように、一寸したデッキに、ござを敷いて、日よけには、簾とつる性植物を匍わせることで、夏の熱い日差しを遮るように、そして、風がスゥーと吹き抜けるように、三角形の屋根のように、シェードが、形作られている。デッキの隙間にも、工夫が凝らされていて、鉄線の格子に、香りの強いバラが、蔓を伸ばして、花が咲くように、工夫されている。しかも、デッキの支柱越しに、一寸したテーブルが、備え付けられていて、外の景色を珈琲を飲みながら、見下ろすことも可能である。何とも、目で楽しめ、来年には、バラの花の気品高い香りも鼻から、愉しめるかも知れない。これまでは、傾斜面だけだったのが、その空間に、デッキを作ることで、空間に、身を乗り出すようにして、景色が見られるようになり、更に、樹の枝が、まさに、身近に迫ってくることにより、より、木の肌を身近に感じられるようになっている。もう、これは、ほとんど、ツリー・ハウスに近いような感覚であると言っても過言ではないだろう。新緑と云っても、どうやら、木々の種類によって、その日差しを遮る程度も異なり、従って、陽の光の射し具合も、微妙に、その影ですら、違うとのことである。成る程、桜の樹と辛夷の葉では、微妙に、違うことを実感する。中空に張り出したデッキの一番良いところは、自分自身が、空中に身を乗り出したような錯覚に陥り、更に、空間という非日常を緑の葉や木肌を直に感じることで、まるで、「樹海の中に、浮遊」しているようなそんな「非日常性」を愉しめることが、実に、宜しいではないか。屋内に、展開される小道具や、キッチン家具も、すべて、この為に、あるような感じがする。テーブルクロスも、さることながら、それを敷き置く天然の石も又、風情がある。そのテーブルは、睡蓮の鉢を丸ごと利用していて、これも又、宜しいではないか?まるで、空間というものが、壁も、机の上も、椅子や手作りの座布団ですら、すべて、このためにあるように思われる。屋外のガーデンというものも、その小径も、すべて、蜜蜂の巣箱も、木に備え付けられた鳥の巣箱も、すべて、こうした空間の中で、皆一様に、自然の風景の中に、溶け込んでいるような気がしてならない。空を眺めること、遠い景色を眺めること、木々の木の葉を愉しむこと、風を感じること、光を浴びること、陽の光を遮って木漏れ日を愉しむこと、しかも、それを空中に身を乗り出すような感じで、愉しめることは、本当に、もはや、都会の生活では、非日常的なものなのかも知れないが、ここ、和久井ガーデンでは、実は、そうではないのであること、日常生活の中で、取り戻せることを、改めて、考えされられるし、そうした空間こそが、人間には、本来、日常生活の中で必要なのであることを自然に、気付かされよう。是非、週末は、糠地の見晴らし館の近くの和久井ガーデンを訪れることをお勧めします。「日常の中にある非日常」を体感してもらいたいものである。糠地の天池の近くで、標識も分かりやすくて、標高850m程の景色も併せて堪能出来ますよ!

稀勢の里となでしこ・ジャパンの若手の共通性とは?:

2014年05月24日 | 社会戯評
稀勢の里となでしこ・ジャパンの若手の共通性とは?:
稀勢の里は、そんなに急いで横綱にならなくても宜しいと思っていたが、白鵬との一番を観ていて、この調子だと、横綱には、ひょっとして、みんなの期待を裏切り通しで、横綱には成れないのではないかと思い始めた。同様に、なでしこ・ジャパンの期待される若手のFWやMFにも、同様のことが云えて、肝心なときに、実力が発揮されずに、結局気合い外れに終わり、結果を残せない。従って、それが、又、トラウマになってしまい、次へと繋がらないのであろうか?一体、どうしたことなのか?やはり、アスリートとは、所詮、個の、個人の有する心・技・体の一体性のなか、とりわけ、心の問題なのであろうか?メンタルなのであろうか?メンタルが弱いから、瞬発的な判断が出来ないで、結局、良い結果に結びつけられないのであろうか?どうも、澤や大儀見や宮間をみていると、単なる場数の問題でもなさそうである。サッカーなどは、科学的な心理療法や、メンタル・トレーニングが、研究されているが、一体、相撲の指導など云うものは、どうなっているのであろうか?ボクシング等に較べて、どうも、日本の相撲は、非科学的である。もっとも、神への祭事だから、非科学的でも、仕方ないのだろうか?近代相撲であれば、もっと、メンタル・トレーニングに注力しても良いとは思われるが、、、、、、、。今一、テレビで同時実況されて観戦していても、ピンとこないのは、どうしてだろうか?こんな調子だと、出番がいつまでたっても来ないかも知れないことを心配したくなってしまう。そう思うのは、私1人だけであろうか?

熟年離婚という現実を身近に感じる:

2014年05月23日 | 社会戯評
熟年離婚という現実を身近に感じる:
といっても、自分自身のことではない。昔の親しかった仕事仲間のことである。それも、既に、何人目かの現実である。確かに、周りを見回しても、何らかの形で、離婚に至った友人は、知っているだけでも、何人にもなるのは、これが、現実なのである。しかしながら、ある程度の年齢での所謂、熟年離婚となると、これまでは、それ程、多くはなかった。むしろ、パートナーのどちらかが、先に逝く形で、一人になってしまった事例は、毎年暮れの喪中葉書でも、了解されようが、なかなか、熟年となると、子供達も、既に、家庭を有していたりと、微妙な問題が残りそうである。それでも、何らかの事情で、やむを得ず、離婚に至った理由を聞くにつけ、複雑な思いがする。人生色々、男も色々なのだろうか?説明によれば、どうやら、年金も、半分は、相手に持って行かれるとのことである。金銭的なものもさることながら、精神的なダメージも、そんなに簡単に切り替えられるものなのであろうか?もっとも、説明によれば、本人側にその熟年離婚に至った理由があるのであるから、仕方が無いのであろうが、、、、、。ましてや、それが、海外での新しい(?)生活を今後、残りの人生の中で、送らなければならないということになれば、それはそれで、又、大変なことであろうことは、想像に難くない。おまけに、思いがけない病気も、不幸にも重なり、まさに、満身創痍である。本人曰くでは、厄年で、前厄・本厄・後厄と、大変だよと、皮肉っぽく自嘲気味に、揶揄していたが、、、、、、、。これも、一言、事故責任と言う言葉で、終わらせることが出来るのであろうか?なかなか、複雑な思いである。孫もいるこの友人の熟年離婚は、新聞では知っていたが、まさか、身近に起こるとは、思ってもいなかったが、、、、、これも、どうやら、現実であるのか?改めて、自分だったら、、、、、、と、考えてしまう。

軽いステップを踏むということを改めて考え直す:

2014年05月21日 | 社会戯評
軽いステップを踏むということを改めて考え直す:
イメージというものを手で描くということは、難しいものである。それは、同じように、ダンスでも、楽器でも同じ事が云えるのかも知れない。身体の機能が、徐々に衰えてくると、イメージを感情表現として、踊るという手法で、肉体的に表現しようとすると、それは、何処か、うまく、肉体を通して表現出来ないのである。脳が、どんなに、イメージを描き出して、踊りという行為を創り出そうとしても、うまくゆかないのである。手や脚に、脳から命令しても、それが、伝わらないのである。踊りというと何か、大げさなように聞こえるかも知れないが、軽いステップですら、今や、肉体的には、結構、至難の技なのである。ましてや、テレビで観ていても、簡単そうに見える、踊りながら場所を移動したり、歌を唄いながら、メンバーと立ち位置を変え、リズムに合わせて、振り付けをするなどと云うものは、もはや、これは異次元の別世界の話なのである。練習と研鑽を重ねながら、そうした単純な動き一つ一つを組み合わせてゆくことは、並大抵なことではないだろうか?竹踏み体操なども、決して、馬鹿にしてはならない。竹踏みを、その前後・左右・斜め「を、音楽を聴きながら、正しいリズムで、踏み越えたり、跨いだり、脳の命令が、脚に伝わらないのである。ましてや、一寸、体重移動を誤ると、軽いステップでも、今や、頭と手と脚がバラバラになり、大問題である。リズム感よく、軽いステップを音楽に合わせて、踏める人を羨ましく思える今日この頃である。

旅行不在告知の危うさ:

2014年05月20日 | 社会戯評
旅行不在告知の危うさ:
ある日突然、メールが受発信できなくなってしまった。仕方なしに、プロバイダーに、コンタクトすると、パスワードを引き抜こうとして、海外から、集中的に、ハッキング攻撃を受けているので、自動的に、一時的に、遮断したそうである。そうであれば、それなりに、連絡してくれても良さそうであるが、、、、、、、。困ったものである。そう言えば、ここのところ、どうも、IEの脆弱性問題絡みだろうか、何件かのウィルスの攻撃検出があったことを思いだした。何でも、不在通知や、旅行告知の一般公開は、最近では、空き巣のターゲットになるとかで、ブログでも、要注意だそうである。何とも、世知辛い世の中になったものである。地方新聞のおくやみ欄などは、どうなのだろうか?これこそ、まさに、葬式で、家が留守になることを一般公開している最たるモノではないだろうか?その昔、プロバイダーでも、出張や旅行等で、留守にするときには、メールの自動告知サービスというものがあって、コンピューターが、自動的に、只今、旅行中で、返事が一時的に出来ません式に、応答するサービスがあったものである。今でもあるのであろうか?時々、そう言えば、このサービスを利用している人がいるが、、、、、会社などでは、、、、もっとも、スマホが普及しているから、モバイルでの対応ができない人なのであろうかとも、勘ぐられてしまうかも知れないが、、、、、。時代も大きく変わってきたものである。メルアドから、今や個人情報が盗まれてしまう時代だから、頻繁に最新の注意を払わなければならないということなのであろう。それにしても、親切心が、逆に徒になる可能性が否定しきれないのが、現代なのかも知れない。SNSに対応する認証チェック・アンチ・ウィルスを入れていても、うかうかしていられない状況なのかも知れない。既に、何らかの個人情報は、何処かで漏洩していると思っていないと、それは、国家機関でも税務情報でも銀行情報でも、何らかの手段で、漏洩していると思っていないと現代は生きて行けない世の中なのかも知れない。何とも、危うい時代である。

廃材でデッキをDIYする:

2014年05月19日 | DIY
廃材でデッキをDIYする:
もう、ベランダも、四半世紀を経過すると、どんなに、ペンキを毎年、塗っていても、或いは、冬場にブルー・シートを凍結防止のために掛けていても、流石に、ジョイントの部分から、腐れが進行してくる。しかも、冬場の積雪からか、屋根の雪がベランダへと落雪して、或いは、ベランダ上での雪が凍りついて、なかなか、溶けることがない。余程、気温が上がらない限り、一度凍ってしまった雪が、春先まで溶けることはない。流石に、今年の2月の大雪の時には、案の定、タダでさえ、弱っていたベランダは、流石に、持たなかった。結局、一部のベランダを残して、全面的に、新たに、分解して、作り替えることにしたが、未だ、よく見ると、一部の部材の腐っていないところを再利用しようとすれば、出来ないことはない。そこで、廃材の中~、使用できるものは、腐った部分を丸鋸で、切り取り、デッキと、敷地内のスロープに、階段を敷設することにした。それにしても、結構、床材というものは、固い材質のものである。丸鋸でも、ちょっと、節目の所に当たろうものならば、なかなか、切断出来ないものである。仕方なしに、ノコギリで、節目に、刃を入れながら、切り取る。そして、ドリルで、ビス穴をあけて、ビスを据え付けることにした。後は、ペンキを塗って仕上げとするか、玄関横の愛犬の盛り土の傍に置いて、愉しむことにしよう。残りは、スロープの階段にでも活用することにしよう。時間は、たっぷりあるから、ゆっくりと腰に負担をかけずにDIYすることにするか?!

再び、雄の雉とリスに出会った:

2014年05月18日 | 自然・植物・昆虫
再び、雄の雉とリスに出会った:
先月、近くの果樹園の前を車で通り過ぎようとしたときに、右側の溜め池のやぶの中から、ヒョコ、ヒョコと雄の雉が目の前を横切っていったが、今日も同じ場所で、偶然、又、出くわした。恐らく、同じ雉だろうか?個体識別には、自信は無いが、、、、、、。その後、自宅のベランダに据え付けられている野鳥の餌台に、何気なしに、目をやっていると、何やら、逆光線の中で、餌台にうごめく陰があるではないか、よく目を凝らしてみると、どうやら、野鳥にしては、動きが違う、気付かれぬように、慎重に、よく見える場所に、移動してみると、面と向かって、一瞬ガラス戸越しに目が合った。間違いなく、リスである。驚いたのか、素早く、松の木の枝の方へ、するするっと身軽に登ってゆく、そして、様子をじっと、再確認してから、再び、するするっと枝伝いに、餌台へと舞い戻ってきた。再び、餌台にある向日葵の種を器用に、前歯と小さな前脚で、殻を割りながら、美味しそうに食べている。前回出会ったときは、もう、3-4年程も前になるだろうか?カラス等の被害に遭わずに、生き延びてきたのであろうか?それにしても、まっ逆さまに器用に枝から枝へと下りたり、登ったり、飛び移ったりと大したものである。今度は、ベランダの上を飛び回って、餌の向日葵の種を探している。鎌倉では、リスの被害に手を焼いているそうであるが、この里山では、自由に、山の木の実を食して、結構である。写真と動画に撮ったが、逆光で、リスであることがよく分からないのは、実に、残念である。

画風は変えられるのか、変わるのか?:

2014年05月17日 | 社会戯評
画風は変えられるのか、変わるのか?:
絵を描くという行為は、よくよく、考えてみると、目で見て、頭の中に感じたイメージを、手に命令して、筆で、描く訳であって、決して、難しいことではない。しかしながら、これが、即興のゲーム感覚のお遊びだと、一概に、お遊びだと侮れないことに改めて、気づかされる。前回は、外国人を含めて、みんなが知っている人物を紙に、自分なりに、描くというもので、例えば、マイケル・ジャクソンというお題の下、全員で、せぇーのと一斉に書き始めるわけである。成る程、頭の中のイメージは、しっかりと頭で、認識していても、髪型は、どうだったかなぁ、鼻筋は、目つきは、、、、、、と思い出し始めると、急に、筆が止まってしまうものである。つまりは、頭の中の認識やイメージを、改めて、手を媒介にして、脳の命令に従って、自らの手で、描くという作業は、なかなか、これはこれで、難しいものである。しかも、消しゴムを使えないので、線による描写は、難しいものである。マイケル・ジャクソンも、オババ大統領も、知ってはいるが、絵に描くという行為は、全く別問題である。幾つものお題に基づいて、素描を重ねていると、あることに気付く。つまり、その画風が、別に書き手の名前を明示していなくても、不思議と自ずと判明してしまうことである。こうなると、一体、「固有の画風」というものは、どういうことなのであろうか?絵画の感傷をするときに、画家の年代的な作品をまるで、時間を遡って逆廻しにするように、若い時の画風は、こうだったが、晩年は、ああだったかとか、解説がされているが、一体、どのように、画風というものは、変化するのであろうか?又、如何にすれば、画風というものは、変わりうるモノなのであろうか?私には、大変興味深いものがある。線の太さとか、太さとか、思い切りの良さとか、どうみても、自分の線描の仕方は、優しい、繊細な線でしか、描くことが出来ない。太いザックリとした線では、思いっきり描けないのである。人生のある瞬間に、あるときにだけ、画風というものは、突然変異のごとく、画風や、色使いが大きく、変貌を遂げることがあるのであろうか?画風は、変わるのであろうか?それとも、画風が自ずと、変わるのであろうか?たわいのない即興的なゲームの中で、そんなことに気付いた。是非、家族でやってみたら、なかなか、面白いゲームである。鉛筆と紙と、みんなが知っている人物でも動物でも静物でも、何でもよろしい、頭に残っているイメージを右脳の活性化の為に、指を使って、描くだけである。

韓国海難事故に思う:

2014年05月16日 | 社会戯評
韓国海難事故に思う:
それにしても、事故とは、たとえ、それが、人災であろうが、天災であろうが、様々な要因が複雑に重なり合うものである。過積載・荷物がしっかりと止められていなかったこと・確認されていなかったこと・救助ボートが作動しなかったこと・安全教育の不徹底、職務怠慢・船長・船員の職業モラルの欠如・過積載という経済成長優先のつけ・人命軽視の風潮・検査機関や当局との構造的な癒着・船会社オーナーの資質・当局の事故対応能力の欠如と対応の遅さ、等々、数え上げれば切りがないが、失われた人命は、とりわけ、若い修学旅行中であった高校生達の命は、戻ってこない。家族達の思いは如何ばかりのことであろうか?過去の百貨店倒壊事故や橋梁崩壊事故の教訓などが、生かされてこなかったこと、しかも、地下鉄事故や交通機関の事故も、日本や外国などの調査団の方が、自国での安全に、むしろ、生かされる結果になったとか、それにしても、人間の危機意識とは、津波の時もそうであったが、全く、自分には、こうした沈没などと云う危険・危惧は、到底来るモノではないと考えがちな人間の意識というものは、恐ろしいものである。火災でも、同じなのかも知れない。部屋にそのまま、扉を閉めて、止まって下さい等と云われたら、黙って、従っているかも知れない。思えば、外国のホテルで、火災報知器が夜中に、何度も誤作動して、起こされたことがあったが、考えてみれば、これも、恐ろしい話である。又、水位の増した河を亘る渡し船なども、今から思えば、果たして、バランスを考えて、積み込まれていたのであろうか?車の中で、救命胴衣もつけずに、30分程、うたた寝をしていたものである。今にして思えば、全く、脳天気なことである。事故にならずに済んだことに感謝しなければならない。当分は、船旅も飛行機の旅も、回避しなければ駄目かも知れない。流石に、車は、無理であろうが、、、、、、。原因究明と今後の対策と検証が、待たれるが、失われた多くの若い命は、義死者等という称号だけでは、贖えないものがあろう。