小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ピケティーに考える:

2015年01月30日 | 書評・絵本
ピケティーに考える:
目の具合が、衰えてきたから、随分と読書量が減少してしまい、700頁もあるような今話題の大著を読むのは諦めて、( http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2015-01-16#more 友人のブログ 海神日和1月16日付け、一寸長いが参考にしてみて下さい)に掲載されていた内容やダイジェスト版で、済ませることにしてみたが、今日的な課題としては、なかなか、「格差」というキーワードでは、興味深い、面白い内容である。但し、純粋な新しい経済理論として読み解くと、未だ、問題がありそうである。経済学、或いは、人文科学、社会科学でも、その学問の目的とは、本来、「社会を豊かにして、貧困をなくすこと」というのが、大命題だとすれば、それは、これまでの歴史的な過去の進化を「後付け」という形で、理論付けすることではあっても、その普遍的な理論で、必ずしも、未来を俯瞰出来得ているモノでないことは、経済学のみならず、同じ自己矛盾とその相克は、政治学でも哲学でも、歴史学でも社会学・心理学の分野でも、(地震予知額ですら)同様に、云えるのかも知れない。確かに、歴史を振り返ってみるときにも、大河ドラマを見るときにも、何も、その歴史的な事実を確認するためではなくて、常に、例えば、吉田松陰という、その人物の生身の過ごした歴史を通じて、「自分がどのように生きるべきか」を考えることに、主眼が置かれ、未来をどう生きるかを考えることである訳で、単なる現状分析や検証ではないはずである。それでは、経済理論・経済学という分野でも、そうなのであろうか?その意味で、著者が、提起している税務データによる実証的な分析手法に基づくやり方も、これまでのミクロ経済学・マクロ経済学・計量経済学、実証経済学(無作為比較対照手法の実験経済学や経済心理を研究する行動経済学)という分野で、或いは、今日的な労働価値学説や限界労働力説や利潤定義(絶対・相対・追加余剰利潤)のなかで、どのように、位置づけられるのであろうか?
その意味では、三段論法である、著者の主張する、(1).経済低成長gと高貯蓄率sで資本/所得比βが、増加する (2).資本収益率rは、さほど下がらず、資本所得のシェアーαが増加する (3).資本収益率rが、今後維持されると、資本/所得比βが増加して、資本所得のシェアーαが、上昇し、富の格差が広がる、所謂、資本収益率r>経済成長gというパラメーターである。この不等式は、「常に」、そうなのか、それとも、常にではないのか?
言葉の定義を、初めから、理解していないと、どうやら、迷宮に入り込みそうになる。
「富」とは、「資産」なのであろうか?そうであれば、資産とは、「所得+非相続財産+動産+不動産+負債+その他」というモノなのであろうか?更に云えば、個人の資産と国家の資産、それ以上に、その境すら、今日、曖昧になり、明確な線引きが難しくなりつつある。個人の有する資産は、膨大であっても、その国の政府は、巨額な債務に陥り、中国のように、シャドウー・バンキングではないが、どれ程の含み損が、眼に見えない形での不良資産が存在しているのかも、分からないのが現実で、その一方で、そうした富裕層の使用する買い物のお金が国際的に、廻ることで、他国が潤うようなこうした矛盾した構図など、リーマン・ショックでも起こらなければ、結局誰かが、ババ抜きではないが、見えない形での不良債権というジョーカーが、次から次へと回り続けることになる。それは、先進国だけのことではなくて、むしろ、発展途上国でも顕著に、生じている事象でもあろうが、、、、、。話を戻そう、では、「所得」とは、何か?労働者の場合には、といっても、今日では、労働者であっても、必ずしも、労働所得だけからなる訳でもないが、これを労働者と云わなくて、資本家というわけにも行かぬが、、、、、、、。まぁ、株などの金融資産や相続によって、継承した不動産を持っているサラリーマンや、ワンルーム・マンションを所有している者も含めるかどうかは、別にしても、(混合)「所得」とは、「労働所得+金融所得(貯金・債券・株式)+非相続財産+動産+不動産+負債+その他(△減価償却・各種社会保険・税額控除他)」とでもなるのであろうか?むろん収入ではないことは、もちろんである。誤解を怖れずに、云ってしまうと生まれたときから死ぬまで、一生、労働所得だけでは、(もっとも、公務員は別なのかもしれないが)労働分配率が、向上しない限り、或いは、経済成長率が、増加しない限り、明らかに、一生、増加することはないことが分かろう。しかも、経済成長率の低減と人口減少・労働人口の高齢化・減少化により、労働所得は増加することなく、資産が増加しているという現実があると。だから、資本収益率r>経済成長率gにより、格差が拡大すると、、、、、、。しかも、「資本収益率rが、その分配率を決定する」から、所得が、どのように、資本と労働に分配されるかというと、必ず、成長や総枠のパイが拡大しない限り、労働所得が増加することはないと云うことになる。成る程、確かに、カルロス・ゴーンのような超高給経営者の過剰なまでの報酬は、お手盛りの成功報酬を大きく超えたところのなせるもので、決して、賃金格差が教育や技術レベルや専門性から生ずるモノではないことが、納得されようか。又、純粋な意味での個人独自の起業成功者という例では、我々は、残念乍ら、騙されているようである。その率たるや、僅かなものであることに驚く。こうなると、もはや、今日、年功序列が崩れてしまった以上、黙って、加齢による賃金上昇や富の蓄積は、合理的な説明は出来ないのであろう。今や、一億、総ミセス・ワタナベ化するか、不労所得社会へ、個人事業主や小さな会社経営者へ移行する以外に、生き残る途はないのであろうか?或いは、資産家の家に生まれるか、アゲマンにでもなるしか手はないのであろうか?
「格差」の広がるメカニズムは、こうした原因であるのか?
そもそも、3つの格差(所得格差、所有格差から生まれる格差、そして、労働所得+資産格差の合計から生まれるところの総合所得という格差)の中身とは何なのか?果たして、富とは何であり、富と所得の格差は、経済メカニズムの中で、ある一定程度、生じるものであるもの、何らかの「民主主義的な政策的な調整」で、ミニマイズ可能なのであろうか?さすれば、政治的に、或いは、民主主義による政策による制御可能という理屈も成り立つであろうが、どっこい、合衆国の成立という歴史的な史実からも、そうはいかないことは分かろう。政治的にどんなに、理念としての「自由・平等」を掲げたとしても、実態経済の基礎は、奴隷制と先住民からの土地・労働力の収奪という現実がある以上、、、、、、、。その意味では、マルクスの「労働価値学説」に対抗するような根本的な、今日的にも普遍的な理論的な仮説を期待したくもなるが、「21世紀の資本論」(資本ではなくて)とも云われて然る出来である割には、残念乍ら、今日、複雑化してきている「富」・「資本」の内容の分析や、グローバルな「金融資産」や、眼に見えない「負債」、含み資産・含み損なども含めて、より、理論的な分析が欲しいところである。
経済成長の基本的な要因とは?そもそも、金融資本とか、眼に見えない形で、数式が組み込まれたデリバティブのような、或いは、米国住宅サブ・プライム・ローンのような巧妙な金融工学による数式という罠が隠された金融消費などは、一体、どのように位置づけられているのか?さりながら、格差拡大への処方箋としての「グローバル資本課税」「国境を超えた形での税務内容の把握や国際的な協調機関での連携」とか、或いは、「累進課税の強化」、「相続税や生前贈与」に対する国際的な考察と分析は、おおいに、評価されて然るべきであろう。19世紀以降の産業革命から、主たる資本であった農地が、やがて、技術革新と分業などにより、生産規模や生産性が拡大するにつれて、自由市場・市場経済圏が拡大し、資本蓄積がなされるに従い、産業資本から、金融資産へと或いは、不動産資本・不動産資産へと変貌していく資本の内実、それも、これまでの海外植民地資産とか云う形ではなくて、簡単に、国境を超えてしまったグローバルな拡がりと、その裏にある国際的な通貨・為替政策・金融政策・国際的な関税撤廃による通商貿易枠組みなどが複雑に、グローバルの中で、各国家利害とも対立と協調を孕みながら、変貌を遂げてきているわけである。実物資本の収益の低下とは必ずしも無関係とは言い切れないながらも、金融商品を含めた複雑化してしまった「非実物資本への金融的なアプローチと分析」は、もう少し、あって然るべきであったかもしれないが、今後に、期待するところであろうか?ケインズ以降、確かに、不況の際には、経済政策としての社会資本の拡充や金融緩和政策、公共インフラ投資政策とか、2回の世界大戦を挟んで、累進課税強化や公共財産の民営化も含めて、富の分散や再配分が行われたのであろうが、資本主義が、富の不公正を生み出し、本質的にその内包する金融危機が、やがて、世界恐慌、革命へと繋がるという理論も、(況んや、社会主義社会でも、富の平等な再分配は、全く、非現実であることが分かってしまった以上、)何らかの自由主義一辺倒ではなくて、「ある程度の規制と是正政策」が、一定程度の経済における民主主義制度というものが、やはり、必要であると云うコンセンサスは、今日、世界中から、そういう声が上がっていることは確かであろう。同時に、格差というものと「貧困」、「再分配方法論」に関しても、社会政策論の観点から、詳しく、分析・論じられるべきものなのかも知れない。本当に、そんな「国際的な規模での金融と経済の透明性」というものが、成し遂げられるのであろうかとも思われるが、、、、シャンパン・グラスに上から、順番に、シャンパンを注いでゆく方法が正しいのか?黒い猫も、ネズミを捕獲すれば、それで良いのか?最初に、豊かになれるものは、先に、豊になってからで、果たして良いのかなど、「別の価値観」がでてこよう。さすれば、経済学に、「分配論」という「価値観」を入れて論じることに普遍的な経済学理論の確立が可能なのであろうか?確かに、生産活動の成果である生産物が、「所得」という形を経由して、労働・資本・土地などにどのように分配されるかを明かにすることは経済学の主要な課題の一つである「分配理論」では、そうかも知れないが、政治的なスタンスとして、判断・利用されかねないのでないだろうか、そんな危険性はないのであろうか?だからこそ、今日、「格差」というキーワードに飛びつくように、純粋経済理論として論じられるよりも、中道左派の経済政策として、脚光を浴びてしまうことになりはしないのか?もう一度、スミスの労働価値説や、リカードの投下労働価値説や、マルクスの余剰労働価値説や、限界効用理論などを、再考・再構築し直さないと、今日、複雑化してゆく世界を読み解こうとしたら、資本や労働を改めて見直してみないと分からないのかも知れない。「格差」という一点から見る限りには、確かに、面白い、興味深いことではあろうが、純粋経済理論から見た時には、それは、本当に経済理論から読み解かれた結論であり、且つ、正しい分析であると云えるのであろうか?そこには、何か、分配論という「価値判断」が働いてはいないのであろうか?
では、成長の要因と阻害要因とは何なのであろうか?
産業革命が果たした役割の中で、技術開発、労働人口の増加と拡大、労働生産性の向上と購買力の向上、植民地経済、自由市場経済の創出など、但し、これは、19世紀から、20世紀初頭にかけては、その構図も納得が行くが、2回に亘る大戦を経て、今日、如何に、大きな戦争が出来得ないほど、互いの国家間でのグローバルな経済関係が緊密化してしまい、軍事的な紛争はあっても、大きな戦争にまでは、至らない、或いは、させないような制御システムが、(東ウクライナやISILやボコハラムをどう見るかは別にしても)一定程度、機能している以上、又、インフレによる公的な負債の低減と、緊縮財政政策やデフレ状況からの脱出を目指すところの中央銀行機能の強化と総量規制の緩和策、或いは、国際的な通商政策や通貨・為替施策の必要性が、不可欠な要因となろうが、必ずしも、決して、どれをとっても、安定的なものばかりとは云えないのが現実である。財政の健全化議論も労働人口減も移民議論も福祉国家構想も、子育て政策も成長戦略も日本では、どのように、位置づけられるのか?
格差の拡大阻止に向けての処方箋で、興味深いことは、グローバルな租税回避、タックス・ヘブンへの国際的な監視強化と累進課税政策や、相続資産課税強化や世代に関する生前贈与に関する考察であろうか。所得の中に占める金融所得や資本所得の大半は、実は、相続による者が大半であると云う仮説の衝撃である。遺産の相続と教育・住宅に対する生前贈与が、キーだそうである。圧倒的に、今日、こんなゼロ金利に近い状況の中で、貯蓄による増加は期待できず、それよりも、富は、相続によって、平均余命が延長されても、高齢者の心理マインドは、変わらず、むしろ、世代を飛び越えた形で、相続や贈与という形で、富の継承が行われる可能性があるというものである。アベノミクスでも、こうした文脈の流れで、眺めてみると、相続税の3000万円への引き下げや贈与の住宅や教育への非課税枠の増加も、理解されなくはない。こうしてみてくると、これまでのストックたる資産とフローである所得という図式も、どのように、考えたら良いのであろうか?
最後に、技術移転という課題であるが、産業革命に果たした新たな技術革新と云うものは、一定程度の説得力はあるものの、必ずしも、その技術移転が富の公正な分散と拡散を、先進国から、発展途上国へ行われたかといえば、その産業分野毎で、必ずしも、そうとも云えないのが現状である。むろん、その為の教育の整備・機会均等とか、インフラの整備援助などは、必要不可欠ではあるが、それにも増して、r>gの図式の中で、機械化との競合・競争がより、r>gを高く維持するのか?言い換えれば、資本が労働をどんどん代替・弾力化してゆき、終いには、自動車産業や半導体製造業などにみられるようなIT化やロボットによる完全無人化生産などにより、労働への分配は、ますます、低減していってしまいかねないのか?とすれば、産業や仕事自体も、これからの労働者は、考えて選択しないととんでもないことになるのであろうか?完全ロボット化を可能にする機会のソフトの設計とか、限りなく、付加価値をつけられるような仕事なのか、それとも、限りなく人に接する末端の仕事か、それとも、そういう人を管理する仕事(といえば、体裁が宜しいが)、職業に貴賤はないという理念は、理念としては、正しいのであろうが、実際、r>gの現実の図式の中で、考えたときには、果たして、その通りなのであろうか?しかも、限りなく、それは、使われる身だけでは、一生、富の再分配という恩恵を決して受けることのない身を引き受けるという選択になるのであろうか?一億総非正規労働者か、将又、一億総個人事業主になるか、ミセス・ワタナベにでもならない限り、時代に取り除かれてしまうことになるのか?それとも、幸福の価値観が違うという世界を選択するのか?どちらかになってしまうのであろうか?
どうも、ひとつ、読み解くうちに、納得のゆかないことがある。それは、「実証経済データ」という奴である。例えば、今日、これだけ、グローバル化が進行してしまうと、あらゆる輸出統計も輸入統計も、単純な一国主義だけのデータだけでは解明できない「ある種の数字」が、そこには、隠されているのではないかと、私などは、疑ってしまう。それ程、今日、この問題は、単純ではなさそうである。例えば、純粋に、日本からの輸出が少ないと云っても、大森辺りの町工場で、純粋に、すべて、国産の原料で、国産加工で、国内から単純に、どれ程の製品が輸出されているのであろうか?原材料自身が、コスト・ブレイクダウンしてみたら、エネルギー・コストから、輸送費・人件費・梱包費・原材料費など、どんな基準で、しかも、それが、円で仮に換算されても、その時の為替通貨で、大きく、ドル・ベースでは、異なるであろうし、その変数は、外国通貨に、換算したときには、もっと大きな相当な差異が、生じることは、大企業の利益が、為替レートが一円違えば、数十億円の違いにもなることからも、理解出来よう。ましてや、三国間貿易どころか、今日では、急激な円高対策として、国外工場を建設して、そこから、部品を輸入して、加工したり、第三国で、アッセンブルしたりして、再び、再輸出したり、輸入したりと、ますまず、複雑化していて、それが、自社内の海外子会社間で行われても、決して、日本国内の数字にはならずに、関税・貿易統計上は、他国の数字となっている以上、一体、何処までが、日本独自の数字で、何処から先が、海外の数字になるのか?この中には、当然、土地代金・エネルギーコスト・労働工賃・輸送費・もっと広く云えば、現地インフラ費用も含めて、どのように、資本・労働という形で、ブレイクダウンできるのであろうか?ましてや、国際通貨の為替レートも含めたら、一体全体、どのように、実証データですら、分析可能なのであろうか?所謂、含み利益とか、含み損も、そうであろうし、目に見えない負債、Invisible Debts やサブプライムローンに隠された巧妙な負債の数式化によって組み込まれた金融商品など、一体、統計的に、どのように、分析されているのであろうか?今日、本当に経済学では、そんなことも含めて、所謂、実証データという形で、解析されているのであろうか?ましてや、貿易収支だけではなくて、資本・金融収支やら配当やらに至ると、それも、これも、為替次第で、大幅に、数字が異なってしまうのではないかとも思われるが、そういう国毎の数字データに潜んでいる数字のマジックは、どのように反映されているのであろうか?
更に、通商交渉や多国間貿易交渉による相互関税の撤廃とか、法人税の減税や、関税収入などの税収の減少の中で、発展途上国の国営企業の財務や負債の透明化など、まるで、世界的な規模でのグローバル・ババ抜きゲームの様相を呈している以上、(個人的な体験では、東南アジアの箪笥預金や海外送金の額たるや、中途半端な数字ではなく、実際、世界銀行などの統計数字などは、全く当てにならず、本来は、実体経済に、こうした地下経済に潜む資本が、突然、経済の自由化と同時に、浮上してきたのも事実である。こういう数字は、一体全体、統計実証データの中に何処に位置しているのであろうか?)一体、ピケティーの「21世紀の資本」を読み解く世界観の中で、個々人は、如何にして、生き抜き、どのようにしたら、少なくとも、多少の「富の再分配」に預かることが可能なのであろうか?それとも、それは、幸福度の価値判断が異なるという別次元・別世界の選択肢しか、単純に労働所得しか稼げない者には、残っていないのであろうか?何とも、考えさせられてしまう。何事も、後付けの解説理論付けなのであろうか?まるで、地震学者の近未来の大地震発生予測学問というよりも、たちが悪かろう、40年も経過しても、為替相場の予測理論も、株式相場の理論も、況んや経済理論をやであろうか?こちらには、そんなに、時間が残されていないから、守りでも宜しいが、前途有望な若い人は、多いに、真剣に考えなければならないであろう。純粋経済理論とは、一体、何のために役立てられるのであろうか?ババを引き抜かないためなのであろうか?

カバー曲を歌うと云うこと:

2015年01月29日 | 映画・テレビ批評
カバー曲を歌うと云うこと:
徳永英明が、これまで、歌ったカバー曲の中から、リスナーがHPで投票したベストテンをSONGSの中で、歌うというものだそうである。シンガー・ソング・ライターである徳永にとって、カバー曲を、とりわけ、女性シンガーのヒット曲を歌うと云うことは何を意味するものなのであろうか?又、これをひとつの契機として、一旦、打ち止めにするという本当の意図は、何処になるのであろうか?番組の中では、本人の口からは、聞かれなかったのは、時間の関係もあったのであろうが、少々残念なことであろう。彼の声は、一寸、ハスキーで、高い音程の裏返った苦しそうに出すところが、女性シンガーのヒット曲には、ひょっとしたら当てはまっているからなのであろうか?中島美嘉によるところの「雪の華」は、ベスト1にランキングされていたところをみても、そうなのであろうか?或いは、音程の高い、一青窈の「ハナミズキ」も、同じような特徴を持っているのであろうか?それにしても、ヒット曲というものは、その歌手が歌った世界観とイメージが、当然、くっついてくるから、それをまずは、粉々に分解して、次に、独自の自分なりの世界観でもって、再構築して、自分独自の世界に、歌い変えてしまう作業は、並大抵の努力では出来ないはずである。従って、音程や音域が似ているだけでは、単なるコピーであって、まぁ、それは又それで、なかなか、難しいことであるには違いないのであるが、それを差し引いても、世界観のリストラクチャーは、まるで、スクラップ&ビルドのようなものなのであろうか?それとも、原曲を程々に生かしながら、つまり、6割方は残しながら、残りの4割を再構築するものなのであろうか?カバー曲を歌うと云うことは、本来、難しい作業であることが、想像されるが、確かに、素人が、カラオケ・ルームで、歌うのとは、本来訳が違うものであろう。それで、お金を稼ぐということになれば、そう容易いことではなかろう。確かに、音質の異なる、竹内マリアの「駅」などは、中森明菜のカバー曲の方が、個人的には、徳永英明よりもずっと、中森明菜の世界観が、独自に、確立されているように感じられてならない。さすれば、カバー曲というものも、単に、ヒットした曲の力を借りるというよりもむしろ、プラスの力よりも、マイナスの要素を超える独自の付加価値を加えないと新たな世界観、独自の歌の世界は、再構築されないのではないだろうか?その意味では、シンガー・ソング・ライターである自分の特性、世界観とは、カバー曲を歌うということとは、若干、その地平が異なるモノではないかと感じられるし、本人も、そうではないかと、うすうす、気づき始めていたであろうし、イージーに、歌い続けることで、平均点以上は、稼げるのであろうが、アーティストしては、決して潔しとしないのではないかとも、考え始めたのではないだろうか?素人考えであるから、分からぬが、カバー曲でも、自分と音程や音域が異なる歌手のカバー曲への挑戦も、又、多いに、リスクがあるのかも知れないが、如何なものだろうか?SONGSのカバー曲ベスト10を聴きながら、そんなことを感じたが、、、、、、。

先物勧誘、規制緩和に考える:

2015年01月28日 | 社会戯評
先物勧誘、規制緩和に考える:
亡くなった父が、未だ、私が若い頃に、「先物取引にだけは、手を出してはいけない!」と云っていたことを想い起こす。高齢者の懐や資産を狙った未公開株や架空な株式の投資とか、特殊詐欺とか、何やら、とにかく、こちらが毅然とした態度を取らないと、様々な形での電話勧誘や手の込んだ劇場型のカタログ詐欺やら、全く、落ち着いて、おちおちしていられない。昔は、先物相場も、小豆などの穀物相場を中心にしていたものが、最近では、石油とか、ダイヤモンドや、金なども含めて、続々と新手の商品が出てきているようである。いくら何でも、眠っているそういう高齢者の資産を、あたかも、詐欺とは云わぬが、様々な形で、消費者保護の観点も、不十分にして、業者の側から、一度、規制された勧誘の規制から、再び、緩和するという考え方が分からないし、理解出来ない。恐らく、詐欺紛いの限りなく、合法的に近い法律ギリギリのところで、制約に繋げて、結局は、消費者側に、多大な損害が生ずるような結果になりはしないか?しかも、契約の中に、小さな文字で、自己責任とか、元金保証はないという内容が記載されていて、法的に、争っても、負けることは必至であろう。どんなに、一定の年齢や年収の制限を設けたとしても、そもそも、人に儲けさすよりも前に、てめぇの利益を最優先させる側にとっては、そんな保護や法律的な規制は、とっくに承知の上での詐欺紛いの商売であるから、明らかに、又ぞろ、自己責任に帰されるに違いないであろう。誠に、消費者保護の観点からは、まるで、むき出しの弱肉強食の無法な富の奪い合いの如きであろう。FX取引といい、どこまで、ハイリスク・ハイリターンが認識されているのであろうか?これも又、自己責任論で、語られて、すべて、お終いということになるのであろうか?亡くなった父からの言葉を想い出した。

しごと情報のビラをふと覗いてみた:

2015年01月27日 | 社会戯評
しごと情報のビラをふと覗いてみた:
昔、独立するときに、公認会計士から、職安に通って、適当に、高収入を希望して、一年間、失業保険でも貰ってみたら宜しいのではないかというアドバイスを貰ったが、その当時は、そんなことは、プライドが許さないと云って、一蹴したが、今にして思えば、良い経験だったから、試しに、やっておけばとも思う次第である。当時は、連続的に、独立後に仕事を継承させるべく、頑張っていたから、それどころの話ではなかったのが、真相である。それにしても、職を探すのは、成る程、この広告のビラをみていても、流石に、大変であることが分かる。昔の3Kではないが、どれをとっても、仕事の質と給料と労働時間や労働条件も含めれば、そのバランスは、大変難しいことが改めて、実感される。国家資格や免許があっても、必ずしも、良い待遇で、良い給料に恵まれる訳ではないことが了解される。一体全体、資格などは、今日、どれ程役立つのであろうか?ある程度の年齢で、一度、解雇でもされようものならば、引き続き、同じ生活レベルや給与水準を維持することは、どうやら、良いではないことが頷ける。労働の流動性というものが、極めて、閉鎖的であることが分かる。それにしても、正規社員ではなくて、すべて、パートタイマー募集であるから、職種も、結構単純労働が多い。時給も確かに、1000円前後である。保育士や介護士やドライバーといった職種でも、なかなか、厳しいものがある。これが、一億総非正規社員時代という構図なのであろうか?何でも、話によれば、優秀な人材は、採用してから後で、仕事の内容を変更して、仕事に当たらせるのも、今や、常識であると云う事も聞いたことがある。こんな状況では、即戦力ばかりの人材で、企業による人の育成などは、もはや、夢の又夢なのかも知れない。自分にできる仕事は、そんなことがあるのかと思いながら、広告のビラを眺めてみるとなかなか、世の中が透けて通るようで、実に、面白いが、職を必死になって捜している人にとっては、大変なことであろう。仕事とは何か、自分にとって、仕事は何だったのかを見つめ直す機会であった。今時の若い人は、大変である。自分は、それに比べたら、脳天気だったかも知れないし、恵まれていたのかも知れない。そんなことを云ったら、若い人に、怒られてしまいそうである。

多様性という美しい言葉と分裂の危惧:

2015年01月26日 | 社会戯評
多様性という美しい言葉と分裂の危惧:
民主党という党は、いつもながら、美しい言葉が好きである。またぞろ、「共生」、「多様性」、等という言葉が、きらびやかに、代表選挙の中でも、一人だけ、楽しそうに、躍っている。いつになったら、この党は、現実的なレベルでの政策の対峙を提出できるのであろうか?実質賃金論争でも、どうみても、政府側の資料と対比すれば、どちらに分があるのかは、一目瞭然であるにも拘わらず、大衆的な受けと支持が今ひとつである。せいぜいが、冷ややかな対応しか、一般からは、受け容れられていない。どうせ、大企業中心での賃上げと、政労交渉での、シャンシャン手打ちで、時間は、かかるであろうというところが、精一杯の好意的な反応であろうか?今秋の春闘は、どうなるのであろうか?支援する連合にしても、そんなに、現状、力があるのであろうか?党内の意見集約ですら、イザとなっては、バラバラになる危機を抱えているにも拘わらず、敢えて、「多様性」を出すところなどは、何とも、お目出度い話である。何も、「多様性」、「共生」というテーゼが、間違っていたり、おかしいというのではない。政権側のアンチ・テーゼとして、そうした旗を掲げることは、決して、間違っていないし、むしろ、必要ではあろう。しかしながら、野党再編とか、党内対立による分裂の餌食になって、与党を利すること、或いは、一強多弱、自民党以外の各党並に、分裂して、縮小再編された方が、よいとでも思っているのであろうか?党の綱領でも、分裂するときは、所詮、イデオロギーではなくて、人間関係の好悪次第というものが、歴史の示しているところではないだろうか?代表選挙期間中に、いきなり飛び出した岡田・細野間での暴露合戦は、戦術上と謂うよりも、この党の有する統一性というよりも、分裂の危うさを浮き彫りにしてしまったような感じさえ、否めない。美しい言葉に酔いしれている内に、又ぞろ、後ろから、いきなり、ラリアートを食らう危険性はないのだろうか?むしろ、強力な「覚悟あるリーダーシップ」が、欠けていたから、政権与党から、簡単に、瓦解してしまったようにも、思えてならないが、、、、、、。果たして、党の再生は、今後、どのように、具体的に、どんな旗の下で、なされるのであろうか?あんなに、人財がいたと云われていたのにも拘わらず、皆、試験管の中の無菌培養栽培だったのだろうか?

アマゾン・プライムの年会費を取り戻す:

2015年01月25日 | 社会戯評
アマゾン・プライムの年会費を取り戻す:
全く、アマゾンというネット通販は、便利な反面、とんでもない会社である。所謂、お急ぎ便というプライム・サービスの無料体験をクリックすると、自動的に、一ヶ月以内に、解約しないと、年会費が、自動的に、課金されると、しかも、この会社は、サイトの一番右下にサポートの連絡が、小さく、隠されていて、電話番号ですら、なかなか、見つからない。オペレーターの説明では、何でも、おまけに、同居の家族が申し込んでいると、ご丁寧に、キャンセル・返金手続きをしていても、継続になる恐れが生ずるという説明である。何とも、可笑しなシステムである。しかも、全く、抗議しなければ、そのまま、自動更新が毎年、継続されるということらしい。ネットで、本件を検索して見れば、随分と多数の人達が、同じような嫌な思いをしている様子がうかがえる。結局、ネットでのクレームを止めて、電話でキャンセルと返金手続きを行ったが、何とも、黙っていれば、消費者の意見が反映されない組織である。余りに、便利なサービスである故なのか、それとも、アメリカを拠点にしているからの奢りなのか、よく分からぬが、窓口のオペレーターは、全く、気の毒と云うほかない。HPでも、消費者保護の観点から、必ず、ページの右上に、電話連絡とメールによるカスタマー・サービスのコンタクト先を明示すべきというような法律改定が必要であろう。そうでもしないと、年寄りには、なかなか、面倒な手続きで、やむなく泣き寝入りを強いられるかも知れない。
もし皆さんの中で、突然、カード決済欄に、アマゾン・プライム年会費と記載されていたら、フリー・ダイヤル0120.899.280 のアマゾン・カスタマー・サービス(プライム)へ、直接電話して、解約・返金手続きが出来ますので、お試し下さい。それにしても、本当に、ウカウカしていられない。カード明細書は、しっかりと、チェックしておかなければなりませんね。消費税も払っていないのに、全く、セコいことをする会社である。そう言いながらも、便利なサービスだから、又、懲りずに、利用してしまうのであるが、、、、困ったものである。

素人の目で楽しんで観る全豪オープン・テニス中継:

2015年01月23日 | スポーツ
素人の目で楽しんで観る全豪オープン・テニス中継:
スポーツは、少しでもやったことのあるものであれば、理解も早く、解説者のコメントも理解出来るが、プロの中でも、世界的なレベルに達してくると、恐らく、生で見るのと茶の間でテレビ観戦するのとでは、大違いだろうであろうと云うことくらいは、単純に、分かろう。生の音やその場の雰囲気というものは、なかなか、画素が発達し、画面がクリアに、大型化しても、なかなか、実感が伝わってこないであろう。テニスは、個人的には、所謂、ソーシャル・プレイヤーであり、相手の嫌がるところに、球を打ち返すのではなくて、如何に、ラリーが長く続けられるかを楽しむのが精一杯である。従って、プロの試合のように、如何に、相手の嫌がる球を戦略的に、或いは、戦術的に、打つかと謂うことは、まさに、私にとっては、論外の又、外なのである。そもそも、第一サーブのスピードが、200キロ以上にも達するようでは、もはや、バッティング・センターで、速球を打ち返すどころの話ではない。昔、一寸、上級者とテニスをやったところ、余りに、打球に回転が強く付いていて、手前で打とうとしたら、急に、自分側に、曲がってきて、ラケットをはじき返されたことを想い起こすが、試合の解説を聞いていると、なかなか、面白い。データの分析等というものは、所詮、結果ではあるのであろうが、大変興味深い。必ずしも、世界ランキングの上位だからといって、下位の選手に勝つとは保証がないのも面白いスポーツである。サーブ権があるときの第一サーブでの勝率とか、第二サーブの成功確率とか、勝率とか、単純ミスの確率、或いは、コンピュータによるボールの打った場所の分類など、なかなか、その分析が面白いではないか?興味深い科学的なデータ分析である。試合途中でも、教えて貰いたい物である。そうすれば、テニスの愉しみ方も変わってくるかも知れない。前後・左右・ライン線上、おまけに、最近では、判定に、選手がアピールして、センサー判定を三度、再確認出来るなど、なかなか、面白い。又、ネット・インしたりしたときには、紳士・淑女のスポーツであるから、相手に、失礼というような仕草を行うことも、ある種のプレイヤーとしてのマナーとして、行われるとか、如何にも、ゴルフもそうであるが、歴史的な貴族文化を反映したスポーツのような気がしてならない。それにしても、どんなスポーツも、ここ一番という、試合の勝敗が決する潮目の変わり目という瞬間があるもので、そこで、ミスを犯した方が、必ず、敗れてしまうものであることが、テニスの競技を観ていても分かろう。ブレイクをとれるかどうか、ジュースに、或いは、タイ・ブレイクになったときに、どれ程、踏ん張れるか、或いは、その瞬間に、ギアを意図的に入れることが出来るのかどうかということであろうか。言葉で言うのは容易いことであるが、実際、現場で、その瞬間に実行しようとすれば、大変なことであろう。それこそが、世界ランキングベスト10に入る者かどうかが、分かれるところなのであろう。それにしても、2時間も3時間も、一人で、孤独に、作戦を練りながら、サーブやストロークの打ち方を適宜変えて打ち分けるのは、大変であろうし、そういう戦いかたをするスポーツもこれ又、大変なスポーツである。相手に打ちやすいボールを如何に打ち返すかに主眼を置くソーシャル・テニス・プレイヤーであって、良かった。打ちやすい球を打つことと、打ちにくい球を打つことの大いなる違いを思わずにはいられなかったが、考えてみれば、プロは、打ちやすい球を打つことも当然、容易なのであろうが、、、、、、、。

フリー・ジャーナリストという危ういツール:

2015年01月22日 | 社会戯評
フリー・ジャーナリストという危ういツール:
「蛮行」、「卑劣」等という文字が、踊れば踊るほど、日本人の有する思考は、どこか、危機意識が呆けてしまっているのであろうか?映画、「アルジェの闘い」ではないが、弱者が、圧倒的な強者と戦う術は、何でもありと謂うことは、歴史が物語ってもいるであろうが、唯一、異なる点と謂えば、「ジハード」と言う「絶対不可侵な」言葉で、如何にも、矮小な行為を、十把一絡げに、覆い隠してしまっていることであろうか?そこには、残念乍ら、イスラムの大義も、哲学のかけらも、見いだせないのが、残念である。それは、同じように、中東の難民人道支援に拠出される資金が、あたかも、軍事転用されてしまったかのごとく、相手の目に、写ってしまっていることと鏡の表裏と同じなのかも知れない。それにしても、古くは、フィリピンでの三井物産支店長の誘拐事件から、ペルーの日本大使館人質事件とか、或いは、ジャーナリスト、NPO,現地プロジェクト関係者などのテロによる犠牲を考えた時、どれ程のこちら側の体制の進歩と充実がなされてきたのであろうか?所詮、大企業のマスコミのデスクで、その手先として、使い捨てられるであろうフリー・ジャーナリストや戦場カメラマンに、その海外情報収集は、頼り切っていると言わざるを得ないのであろうか?トマス・エドワード・ローレンスではないが、中東に於ける情報将校という、今で謂うところの駐在武官などの情報収集活動というものは、日本は、どの程度の世界的レベルなのであろうか?報道する側も、大手・下請けというようなお寒い情報収集体制の下、どれ程までの的確なインテリジェンス情報収集と予測と現状分析が、なされているのであろうか?又ぞろ、縦割りの外務省・海外駐在武官・商社網・マスメディア等の各分野を横断的に跨いだ統合的な連携と知恵と知識を結集できるような組織と、現地活動支援が、望まれようが、、、、、、、。考えてみれば、行方不明になった時点から、こういう日が、来るであろう事は、容易に、想像は出来たであろうし、既に、秘密裏に、対応はしていたのであろうあが、、、、、、、、国境を跨いだ砂漠の混乱する戦火の中で、それでは、一体、誰が、どのように具体的に、どれ程、やれるのか?モサドにでも、アドバイスを仰いでみた方が早いのであろうか?軍事衛星を打ち上げれば、それで済むという代物ではない現地の地上の情報は、所詮、命を的にしたリスク覚悟の使い捨ての駒のような大手下請けフリー・ジャーナリストにしか、今日、依存せざるを得ないのであろうか?ジブチの海外拠点も、今後、どのように、こうした観点から、位置づけられるのであろうか?9.11も、パリ銃撃戦も、所詮、他人事であると思っていたところが、どっこい、そうではないことに、改めて、気付かされる。

ミセス・ワタナベの最近の憂鬱:

2015年01月21日 | 社会戯評
ミセス・ワタナベの最近の憂鬱:
スイス・フランが急激に買われることで、FX取引を行っている個人投資家や取扱業者に大きな損害が出ていると報じられている。あんなに、蔓延していた日本人個人投資家であるミセス・ワタナベも、恐らく、損害を出しているのであろうか?急激な円高から一挙に反転して、半分以上、円安へぶれてしまった今日、何も、日本の業者のみならず、その急激な変化についてゆけないのは、日本人だけではない。むしろ、海外の輸出業者でも、円建てで、日本向けに契約している会社は、ご多分に漏れず、為替予約が出来ずに、損害が膨らみ続けているのが、実態である。何でもNZの友人によれば、これまでは、円高の恩恵で、それなりの円契約でも、メリットを甘受してきたのに、あまりの急激な反転攻勢に、敢えなく、損失が一挙に、吹き上げた恰好で、誠に、泣きっ面に蜂という状況だそうである。これまでも、私は、個人的にも、銀行取引の中での、とりわけ、LC信用上決済に伴う、銀行借り入れ契約とリンクされた長期為替デリバティブ契約の問題をこれまでも、その不当性を論じてきたが、全く、同じように、今度は、為替取引FXも、同じような状況であり、悉く、自己責任と言う形でしか、安全な拠出金の範囲でのリスクという幻想が、一方的な急激な為替動向ひとつで、損出の噴出という形で、個人を襲ってくる事に変わりはない。それにしても、凄まじい勢いでの一方的な負けと損失であろう。いつ何時、今度は、同じように、金利の低い円という通貨が、国際的に狙われないとは、限らない。何処かで、多国籍なグローバルに操作する為替マフィアが、ほくそ笑んでいるのかも知れないとも、考えてしまいがちにもなろう。それにしても、余りに、国際通貨の中で、最近のルーブルではないが、様々な理由があるにせよ、余りに急激な激変が、その思惑を大きく、超えてしまうのは、如何なものなのだろうか?だからこそ、変動相場なのだと一言で断罪してしまえばそれで済むという訳ではなさそうである。一般家庭のミセス・ワタナベまでを巻き込んだ形で、FXの損害やデリバティブの損失の先に、一体、何が待っているのだろうかと思うと、ゾッとしてくる。自己責任とか、投機とかという言葉だけは、済まされないような気がしてならないが、、、、、、、それでも、どこかで、誰かが、ほくそ笑んでいるのであろうか?昔の固定相場制が、懐かしい夢物語のような世界に感じられてならない。何かある度毎に、地政学上のリスクなどという理由付けまでもがでてくると、一体全体、為替相場というものは、何が原因で、こんなに、乱高下するのであろうか、何故、安定しないのであろうかとも、考えてしまうが、、、、、、当分、ミセス・ワタナベの憂鬱は、続くことは間違いなさそうである。

見直そうシニア・ペットの食事だそうである:

2015年01月20日 | 健康
見直そうシニア・ペットの食事だそうである:
我が愛犬は、18才と4ヶ月で、(人間で言えば、92才相当だった)2年前に、残念乍ら、逝ってしまったが、生きていたら、今年は、20才、犬の年齢を人間の年齢に換算すれば、100才になっていたことであろう。自然に任せて、天命を全うしたのかも知れない。雑種だったから、様々な病気にも、抵抗力が強かったのかも知れない。もっとも、殺処分される寸前の犬だったから、免疫抵抗力が劣っていて、我が家に引き取られた三ヶ月の幼犬の頃には、一度だけ、死にそうになったことを懐かしく、想い起こす。それにしても、長生きで、散歩が大好きだったから、亡くなったときにも、毛並みは、流石に、若い頃のつやつやした脂ぎった毛並みとは云えないが、それでも、ほとんど、色落ちすることもなく、年寄り犬には、見られなかった。もっとも、流石に、顔の方は、真っ白に、なってしまったが、それでも、元気に、朝晩2回の或いは3回の日課の散歩は、欠かさずに、出掛けたものである。7-10才を過ぎる頃から、いよいよ、シニア使用のドッグフードに切り替えて、与えたが、缶詰ともミックスで併用することで、きっと、うまく、高品質のタンパク質を消化・吸収できたのかも知れない。そのせいなのかどうかは、わからぬが、お陰様で、長生きできたのかもしれない。人間様にも、こんな消化・吸収のよい食品ではないが、そういう代物が提供されれば、きっと、もっと、長生きできるのかもしれないと思ったくらいである。それ程、シニア犬のドッグ・フードは、質が高いものになっていたと思われる。もう、新聞広告やホームセンターのビラで、ドッグフーズに目をやることはなくなってしまったし、売り場にも、行くことがなくなってしまった。時折、横を通るときに、あぁ、そう言えば、よく買ったっけなぁ!と思う。もう、犬を飼うこともないだろうが、ふと、広告に目が入ると、亡き愛犬とともに、過ごした様々な想い出が、脳裏に蘇ってくる。何とも、いつも、居るべきところにいた愛犬が、今は、いないかと思うと、淋しいものである。

箸を何故、きちんと持てないのか?:

2015年01月19日 | 社会戯評
箸を何故、きちんと持てないのか?:
小さな記事であるが、実に、耳に痛いものがある。というのも、個人的には、私も、この例に漏れない。というのも、社会に出てから、来日する外人のバイヤーやサプライヤーとの付き合いの中で、ふとしたをきっかけに、箸の使い方を一緒に、マスターして、何とこれは、便利なことかと再認識した次第であるからです。何故、最近、こうした傾向が甚だしいかというその理由のひとつとして、様々な要因が挙げられるらしい。ひとつには、戦中・戦後間もない頃、混乱の中で、乳幼児に、充分な躾としての箸使いを教えられなかったとか、幼児期のスプーン文化が、長引き始めたこと、或いは、給食時の先割れスプーンの使用が長引いてしまったことでとか、様々な理由が挙げられるも、どうも、これだという理由付けが見当たらないらしい。しかしながら、1940年以降生まれには、とりわけ、こうした傾向が強いことが謂われているらしい。それにしても、仕事に追われ、時間に追われ、食事のマナーすらも、追い込まれるようになっては、一体、箸の文化というもの、或いは、文化そのものが、その行く末を問われかねないのではないだろうか?私は、幸いにして、箸の正しい持ち方を、外国人と共に、偶然、学べたからよかったが、、、、、、、今にして思えば、笑い話だが、何とも、心寒しいものがある。

労働時間規制解除と解雇緩和:

2015年01月18日 | 社会戯評
労働時間規制解除と解雇緩和:
一連の岩盤規制改革の中でも、真っ先に、ターゲットにされているのが、所謂、労働規制と謂われている、労働生産性を先進国並の国際競争力に、向上させるためという大義名分なのであるが、実際には、世論や労働界の反応を見ながら、なかなか、狡猾に、しかも、まるで、大阪城の外堀を埋めてゆくように、着実に、政府・経済界・経営者側の攻勢は、巧妙なシナリオである。まずは、倒産寸前の会社に多い解雇権の自由化が、難しいとなると、派遣労働者法の改正やら、裁量労働時間の規制緩和や、僅か3%程度にしか、相当しないであろうと思われる年収1075万円以上の特殊な職種の専門職労働者(?)を対象にした労働時間の緩和策、むろん、遊休休暇制度や、働き過ぎを防止する対策を含んでいるものの、それでも、一般の残業代支払いゼロという悪魔の手のような誘惑は、否定しきれないし、恐らく、ただ働きという蟹工船時代の恐怖は、それでも、払拭されることはないであろう。個人的な経験から謂わせて貰えば、自分は、正規雇用社員から、敢えて、業務委託方式という謂わば、フリーランスでの労働契約に、移行したいと大きな組織の中で、訴えたが、当時は、未だ、同一資本系の子会社やベンチャーなどが、今日ほど、認知されていなかったから、むしろ、高齢者の定年・雇用対策的な程度にしか、位置づけられていなかったから、労働組合員としての確固たる地位とも、抵触することから、結果的に、早期退職・選択定年制を選んで、早期退職し、フリーランスで、個人会社を基礎にして、独立するしかなかった。しかも、充分な資本がなかったから、結局、海外に活路を見いだすしか手はなかったのが事実である。考えてみれば、正規であれ、非正規であれ、ある程度の職歴の中で、ある種のノウ・ハウと、独立・創業してみようとする幾分かの野心とある種の思い切りがあれば、そのリスクを考えてみれば、若い時には、それ程の冒険ではないことが、今にして、思えば、そう思われる。むろん、もう、約30年前の話であるが、それでも、その後の経済状況を見てみれば、いくら、ベストな条件が整うのを待っていても、そんな条件が整うという保証は全くないことは、明らかであろう。だからといって、すべての労働者に対して、みんな、フリーランスで、独立してみたら如何かというわけではないが、今日の状況を眺めるにつけても、あまりに、労働側の守勢が、免れないであろう。ましてや、個々の分断されてしまった非正規労働者も、裁量労働時間規制緩和の後には、間違いなく、解雇権の規制緩和が、待ち受けていることは、間違いないであろう。労働者の権利擁護は、云うまでもないことであるが、小さい頃の国鉄による自動改札機械導入反対闘争や、郵便局の〒番号自動仕分け機会の導入反対闘争を想い起こしても、一体、労働組合というものは、これまで、どれ程、真剣に、労働生産性の向上と労働者の幸福と働きやすい環境を作るために、戦ってきたのであろうか?私には、何故、今日、こうした声が、働く者の中から、草の根のように、盛り上がってこないのか?或いは、野党にしても、そういう声を大衆運動として、纏め上げるリーダーシップがないのであろうかと、実に、不思議な感覚で、受け止めざるを得ない。官製春闘ではないが、賃上げも、今や、勝ち取るモノではなくて、政労協議会で、上から、トップダウンで、決められるものなのであろうか?何とも、一連の流れは、心寒くなる思いがするのは、私一人だけであろうか?確実に、働く環境は、曲がり角に差し掛かっているような気がするが、働く側はどれ程、そのことを自覚しているのであろうか?

ふと、不動産広告ビラに目をやる:

2015年01月17日 | 社会戯評
ふと、不動産広告ビラに目をやる:
若い時に、家を建てると謂うことは、人生でも、一代イベントであろう。何せ、巨額の資金を銀行から、長期間に亘って、借金しなければならないし、それを滞りなく完済しなければならないので、その間の経済情勢の変化やら、自分自身や家族の健康状態も、おおいに心配になるというリスクも抱えているわけである。それでも今にして思えば、二世帯住宅など、大きな家は、家族もこじんまりとなってしまうと、或いは、ライフ・スタイルが、大きく、変わってしまうと、これはこれで、持て余してしまうことにもなりかねない。いつも、パチンコの広告と不動産のビラは、爪切りで切った爪の後始末に、専ら、使用されるという運命が待ち構えているわけであるが、週末でもあるから、ゆっくり、広告のビラにも、たまには、目をやるかと謂うことで、暇に任せて、みることにしたところ、何とも、驚き入ることばかりである。まず、眼に飛び込んできた金額に、驚かされる。1物件が、2億円、或いは、3億円から、坪当たりでも、300万円とか、250万円から、そんなに、広い豪邸が、果たして、必要な人がいるのであろうかと、、、、、、。流石に、驚かれてしまったので、次々と見てゆくと、確かに、中古物件や、駅から若干、遠い物件や多少狭い、30坪程度の物件では、成る程、坪単価も、100万円程度に、落ちてくる。それにしても、3000万、5000万円という数字が、紙面には、躍っていることに、驚かされる。本当に、親の援助もなくて、自力で、サラリーマンでもやりながら、或いは、自営業者で、商売を営みながら、然るべき連帯責任保証人をたてて、借り入れが可能なのであろうかと、他人事ではあるが、心配もしてしまう。又、仮に、今、住んでいる家を売却して、その資金で、新規のローンを組もうとしても、デフレで、売れなかったりと、もっとも、下取り保証制度というものも、考案されてはいるものの、希望通りの予算に応じた金額が、確保されるのであろうかとも、余計な心配もしてしまう。それにしても、欧州並のリーズナブルな価格で、旧くても機能性に富む賃貸住宅市場が、何故、日本では、構築できないのであろうか?地震災害がネックなのであろうか?空き家が増える一方で、これに高額な税金を課して、更地化を促進して、大規模な宅地開発が出来れば、それなりに、理屈も付こうが、どうも、持ち家優遇促進という住宅政策では、今に、またぞろ、今様の億ションも、20-30年後には、団塊の世代がこの世からおさらばする頃には、スラム化してしまう危険性がないことはないであろう。それにしても、大企業が、ついこの間、遊休資産を売却して、ポッカリと空いた空間に、巨大なマンションや、豪邸が、○○の森とか、パーク・シティー○○と謳って、出現するのが、近未来の住宅政策、景気刺激策の具現化なのであろうか?長男・長女の時代に、少子化が避けられない今日、こうした新たな宅地開発策で、出来上がるものを一体、どのような人達が、購入するのであろうか?よく、中国などの都市部の地価が、高騰して、その結果として、年収の何十倍・何百倍にもなっているというニュースを耳にするが、平均年収が、300-400万円にも、満たない年収層の人が、一体、この不動産広告のビラの中で、手にできる物件は、どれ程、あるのであろうか?空き家対策とともに、中古住宅・新築住宅も、賃貸住宅も、政策として、どういう方向性を執るべきなのであろうか?何とも、複雑な気持で、不動産広告のビラを眺めました。


サントリー美術館、「仁阿弥道八」展を覗く:

2015年01月16日 | 伝統工芸・展示会
サントリー美術館、「仁阿弥道八」展を覗く:
古田織部展に続き、一寸、陶器の展覧会が、続く、別に、陶器の製作が趣味でもなければ、特に、お茶を嗜むわけではない、ただ、何となく、耳濯ぐではないが、耳の代わりに、たまには、味わいのある旧い陶器を目で楽しみたいと思って、たまたま、展示会が、続いたまでに過ぎないものである。それにしても、茶釜の蓋ではないが、なかなか、趣向が凝っていて、面白いものである。「高橋道八」のとりわけ、第三代が、特に有名で、「仁阿弥道八」(にんなみ どうはち)と呼ばれるようになったらしいが、江戸時代から明治期に掛けての京の焼き物でも、独自の創作とは別に、所謂、流行の或いは、お気に入りのコピーものも、極めて、技量の高い焼き物を残していると、今風に謂えば、OEMも手掛けていたのであろうか?それにしても、茶碗、水指、文鉢、文皿、煎茶道具としての急須、酒を飲むだけでなくて、お茶も楽しんだ猪口、そう言えば、中国でお土産に買ってきた茶器のセットも、(今では、飾り棚で眠っているが)確かに、小さな猪口が、セットに入っていた事を想い起こす。久しぶりに、茶器で、美味しいお茶を飲んでみることにでもしてみようか?或いは、一寸大きめの好みの茶碗で、抹茶でも点てて飲んでみることにしようか?本当は、毎日、習慣づけたいところである。草花や景色の絵柄も宜しいし、漢詩がぎっしりと小さな文字で描かれた茶碗や猪口も、興味深いものがある。ドイツワインを連想するかの如き徳利も、面白いし、狸などの彫塑作品、猿や猫の置物、山羊他の手焙り、炉蓋、香炉、生活の中で、やはり、今日、忙しすぎてしまうのだろうか?それとも、そんなことに、気を遣わない現代人の方が、どこか、おかしいのか?やはり、人は、様々な器や焼き物との付き合いの中で、美意識を再確認する作業が、子供の頃から、箸置きひとつをとっても、振出のような薬味入れでも、香合でも、何でも、食器や花器、茶碗も、皆、ある種の生活の中に美意識を確認すると謂うことが、食文化も、広く、文化というもの、引いては、歴史や意識・所作振る舞いという形で、継承されてゆくのかも知れないと謂うことが、様々な陶器を眺めながら、感じる。コンピューター画面ばかり見つめている疲れた目を、たまには、濯ぐことも必要なのかも知れない。余りにも、現代ビジネス社会では、日常、そんな暇もないのかも知れない。だからこそ、たまには、暇を見つけて、やってみたら宜しいのではないだろうか?ミッドタウンの窓の向こう側には、スケート・リンクが遠望され、まるで、冬のNYを想い起こすような景色でもあった。3月1日まで、六本木ミッドタウンのサントリー美術館で開催中です。次回は、若冲と蕪村の絵画かな、、、、、、。

The Reason I jump を読んでみる:

2015年01月15日 | 書評・絵本
The Reason I jump を読んでみる:
幸か不幸かは、分からぬが、自分の家族や親族の中で、所謂、強度の「自閉症」を患ったものはいないが、何でも、アマゾンで、強度の自閉症を患うNaoki Higashide著による日本語の本を、同じ、自閉症の子供を持つDavid Mitchellが、英語に飜訳した結果、自閉症児を有する親だけでなく、各国の関係者に、大きな反響を与えた書物らしい。そこで、英語に飜訳されたものを、読んでみることにした。それ程、分厚い本ではないので、是非、日本語でも宜しいし、英語でも、一読することをお薦めしたい。従って、ここでは、その内容よりも、むしろ、私が、感じたところのこの本からの印象を中心にして、述べてみたいと思います。
歳とともに、肉体的な機能が衰えてくると、私の場合には、脊柱管狭窄症という腰の障害から、歩行が思うようにゆかず、その後、目が見えづらくなり、初期白内障の様相を呈し始め、読書が、はかばかしくなってしまったこと。こうなると、白内障の進行を遅らせる眼薬を点眼しても、なかなか、集中力が持続されなくなり、自ずと、読書量も、落ちてくるものである。若い人向けに、年寄りの行動が、如何に遅いのかを、アイ・マスクやプロテクターをつけて、人工的に、行動を制御することで、理解しようという体験運動が、行われているのをみたことがあるが、肉体的な「障害」を持つようになって始めて、人間というものは、「異常・アブノーマル」というモノを実感するのであろうか?それでは、精神的な障害を有して、この世に生を受けてしまった人々を我々は、如何にして、理解しようとし、許容しようとするのであろうか? それとも、拒絶と非寛容、或いは、差別・隔離という形でしか、対抗できないのであろうか?ある種、根本的に、脳に、障害がある場合には、薬などによる障害の軽減も考えられようが、それでも尚、自閉種の症状との付き合い方は、なかなか、難しいこと、とりわけ、親ですら、関係する、接する側の問題が、いかに大きいかが本書の指摘からも、理解される。まるで、それは、未知との遭遇のようなものなのかも知れない。小さい時から、大人も含めた、社会の側、接する側の病気に対する理解と啓発が必要であることは言を俟たないようである。
本書の中で、指摘される課題は、成る程、すべてに亘って、自閉症を抱える側に問題があるのではなくて、むしろ、ひとつひとつが、接する我々の側に、問いかけているようである。文章を書くという意味、同じ事を何度も尋ねること、鸚鵡返しに、質問者に対して、尋ねること、何度注意されても、同じ事を繰り返すこと、奇妙なしゃべり方をすること、年齢を問うこと、会話をするという難しさ、コミュニケーションとは?人を見つめて喋らないこと、手を握らないこと、無視すること、顔の表情が乏しいこと、記憶するメカニズムとは?、ミスをしでかすこと、何故、できないのか?させようとすると、嫌がるのか?ノーマルとは、一体何を意味するものなのか?何故、ジャンプするのか?空中で、字を何故書くのか?騒音とは?手足をバタバタさせること、sensitiveであるとは?食べることにうるさいこと、服装に無頓着であること、蝉ぼ譬えと時間の経過という概念について、睡眠、寝るという行為、きちんと、並べること、CMの繰り返し、ダンスを踊り続けること、何かをし続けること、学ぶことを学ぶという気持、成長したいという願望、徒競走をしない理由、自由な時間とは?したいこととは?感動にむせび泣くこと、彷徨する理由とは、道に対する概念、同じ動作の繰り返し、静かにすることの難しさ、パニックに陥るとは、子供っぽい行動とは、泣き叫ぶこと、傍で見守ることの意味、人間性とは、等…、どれをとっても、接する側にとっては、その関係性の中で、おおいに、反省させられるものが含まれている。強迫観念は、どこから来て、どのように、普通は、解消されるのであろうか?アブノーマルとノーマルと称される境界線とは、何なのか?黙ってやさしく、見守ること、その関係性を如何にしたら、うまく構築できるのであろうか?一人でダンスを踊り続ける少女に、やさしく、手を差し伸べて、「私と踊りませんか?」といった途端に、その少女は、踊りを止めたということは、何を意味するのか?この本は、一種の英語の翻訳書というものではなくて、実は、接する者、他者と称する者に対する一種の手話通訳のようなものか、本来、成り立つはずのないコミュニケーションを回復するツールのようなものではないだろうか?それは、ノーマルと考えられがちな我々の側におおいに、反省と再考を促しているようなものなのかも知れない。とりわけ、コミュニケーション・ツールが、今日、何なのかも、分かりづらいものになりつつある以上、愛犬とはうまく、コミュニケーションが出来るのに、自閉症患者やある種の人間とは、うまく行かないという極端な例までもみられるような世の中で、我々は、我々自身を、どのように、見直したら良いというのであろうか?そういう根本的なコミュニケーション論、言語論の範疇にまで、拡げて考え直さなければ、本来の本書の意味は、単なる狭い意味での自閉症患者との接し方の一助や、理解になるというハウ・ツーものという位置にしか、なれないかも知れません。それでも、自閉症に対する理解が進めば宜しいのかも知れませんが、依然として、アブノーマルをアブノーマルとしか考えられない人間との関係性においては、一向に、改善がみられないように思えてならない。もう、肉体的に、脊柱管狭窄症のために、ジャンプですら、出来なくなりつつ私には、改めて、ノーマルとは何か、当たり前とは何か、普通にやれるとは何かを、改めて、考え直させられる良いきっかけになりました。キーボードでも何でも良いから、少しでも、コミュニケーションが可能になるのであれば、そういうトライをもっと、試してみるべきでしょうね。眼に見えない格差や差別も、問題ではありますが、明らかに、同一でないことを隠すことの出来ない人と、どのように、接するかは、おおいに、議論すべき事であろうし、又、多様性とか、異質なものへの理解という社会の雰囲気は、何らかの形で、社会制度システムの中でも、眼に見える形でも、見えない形でも、必要であることが再認識されましょう。