小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

一寸、気になるCM:

2014年01月31日 | 社会戯評
一寸、気になるCM:
何気なしに、テレビを観ていたら、福山雅治が、何処かのタイヤの会社のCMで、山頭火の俳句を詠っていたのに、気が付いた。「ほととぎす、明日はあの山こえてゆこう」
成る程、そうか、車のタイヤなのか!今日、私達は、簡単に、遙かかなたに見える山ですら、車で、あっという間に、越えて云ってしまうが、その昔は、徒歩で、ゆっくり、ゆっくりと、歩いて行ったものである。そして、その歩みの中に、或いは、その目指す方角に、どんな未来が待ち受けているのかを歩きながら、心の中で、ドキドキしながら、想像していたのかも知れない。それが、あるときは、希望に満ちた旅であり、又、あるときは、苦渋に満ちた、逃げるように立ち去る辛い旅だったのかも知れない。それを、旅の道連れに、ほととぎすに託して、見事に、詠っている山頭火のこの句は、実に、切なく、奥深い。トレッキングの山歩きでもない。メタボ対策のための健康歩行ではない。生活のためでもなければ、ましてや、そんなタイヤのドライブでも、ましてやない。ただ、ひたすら、歩くことで、求道者の「道」を求めていたのであろうか?せいぜいが、今日、「街道を行く」ときも、関所があるわけでもなく、自由往来が、当たり前の時代である。国境を超えるのにも、ビザがいらなくなりつつある。それでも、「歩く」と云うことは、何か、皮肉にも、タイヤのCMとは、異なるものが、その背景には隠されているのではなかろうか?このCM制作者は、もし、そうした矛盾に気が付きながら、福山に、この句を呟かせたとなると、なかなか、興味深いものがある。その隠された意図する所は、タイヤの軽快な走りとは実は、真逆の所にある山頭火の心を理解していたとしたら、スポンサーの会社は、どうコメントしたのであろうか?俳句のCMというジャンル、シリーズも、宜しいではないだろうか、、、ともおもう。実に皮肉なCMである。残念乍ら、そんなことを考えていたら、メーカーのブランド名が覚えていなかった。申し訳ない!




白内障の初期症状を呈する(?):

2014年01月30日 | 健康 医療
白内障の初期症状を呈する(?):
身体の具合は、悪くなってみないと、分からないものである。問題ないときは、全く、感じないものである。昔から、身体の臓器の場所が、ここら辺にあると自覚されたときは、その場所に、障害がある証拠だと思え!と云われたことがあるが、その通りだと思う。これまで、友人達の加齢性黄斑点網膜症などの症状を聴くに付け、大変だなぁ!と感じてはいたが、自分の場合には、これまで、老眼の進行速度も比較的遅く、それ程ひどくはなかったが、年明け頃から、どうも、全体的に、風呂場に入った時のような薄いもやのような「違和感」が目に自覚され始めた。流石に、これは、所謂、老人性の「白内障」の初期症状かなと思い始めたわけである。そう言えば、18才と4ヶ月で亡くなった愛犬は、幼犬の頃、本当に美しいエメラルド・グリーンの水晶体を持っていて、今でも当時の写真には、その目がエメラルド・グリーンの輝きが、映し出されている。そして、アイ・コンタクトを欠かさず、ジィ~とこちらの目を見つめていたものである。その眩しいくらいの眼の輝きも、やがて、老齢化の進行と共に、濁り始めて、遂には、灰色から、白く濁って、ほとんど、眼が見えなくなってしまったことを想い出す。可哀想に、不自由だったことであろうと察する。唯一、鼻の嗅覚が頼りであったが、さぞかし、不自由で、哀しく、苦しかったことであろう。主人に言葉で、体調の悪化を訴えることも出来ずにと思うと可哀想になる。検眼をして、更に、眼底検査、眼球のCTスキャンも行った結果、やはり、初期の老人性白内障と診断され、進行を遅らせる眼薬と、ついでに、PC向けの点眼薬も、処方して貰い、経過を1ヶ月後に、みることにした。早速、点眼してみると、多少は、改善されたように感じられる。それにしても、これから、どのようにしたら、進行を遅らせてゆくことが出来るのであろうか?いよいよ、これから、遂に、「老いとの闘い」が始まりそうである。それにしても、眼がよく見えないと云うことは、大変なことであることを実感しました。何処か悪くても、困ってしまうが、、、、、。



アクリフーヅ事件に思う:

2014年01月29日 | 社会戯評
アクリフーヅ事件に思う:
人間の記憶などと云うものは、いい加減なものである。あの忌まわしい中国の毒入り餃子事件も、いつ頃のことだったか、さっぱり想い出せない。先日、ニュースで、中国人の被告が、無期懲役刑を言い渡されたと聴いて初めて、7年前の出来事だったのかと思いだした。考えてみれば、あの頃は、未だ現役で、しかも、海外の食品工場の運営の仕事だったから、生産現場でのこのニュースの驚きは、今でも忘れない。現地の責任者と共に、従業員の入り口から、どういう歩行導線で、歩くかということまで、一緒になって、歩き回って調査し、その予防措置とか、対策を従業員と一緒になって、立てたことを想い起こす。ポケットの廃止や、私物持ち込み厳禁、絆創膏まで、社内指定のもののみ使用とか、できうる限りのことを知恵を出して、対策を立てたものであった。兎に角、HACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point NASAの危険危惧分析)と言う手法をアメリカで、初めて聞いてから、もう30年以上も経過するし、この手法で、対日向けの生産ラインも、これを基礎に、20年くらい前に、いち早く、導入して海外の生産ラインに応用したものである。その時は、むしろ、中国の従業員の愚かさを笑うと共に、日本人従業員のモラルの高さを、誇らしげに、或いは、我々の従業員対策を語ったものである。しかしながら、もうそんなことは云っていられないほど、事態は深刻である。真面目に、我慢強く、仕事に励んでいた非正規雇用の従業員の人達は、これで、会社に不満を言っていた人達は、間違いなく、雇用契約の延長はされないであろう。何とも、信頼関係が、失われてしまった事自体が、大変残念なことである。ハード面やシステム面で、どんなに、内側から、ロックされて、逆流歩行できないように、物理的に、特殊なドアノブをつけたとしても、悪意を持って、犯行に及ぼうとする人間を、どのように、監視カメラが、阻止できうるのであろうか?監視カメラの会社ばかりが、得をするような世の中には、困ったものである。それにしても、雪印乳業の偽装問題、塩の問題、抗生物質の問題、狂牛病のBSE問題、鳥インフルエンザの流行、そして、中国薬物混入餃子事件、、、、、、、、とこれまでは、低マージンであっても、比較的安定していた商売と目されていた食品業界も、今や、ハイリスク・ローリターンの業種と成り下がってしまった。昔は、リコールの損害賠償を保証する輸入品へのシップ・バック(船積み戻し)条項というものを、保険会社も認めていたが、鳥インフルエンザの大損害により、結局、以後、補填することを拒否することになり、輸入業者や海外の輸出業者は、ハイリスクに晒され、その結果、日本向けの輸出戦略を嫌って、他国への輸出を最優先するようになってしまった。それにしても、海外ではなくて、国内工場で、皮肉にも、起きてしまったとは、、、、、、、、。犯行動機の解明もさることながら、再発防止策は、容易なことではないであろう。一体、物作りは何処へゆくのであろうか?私達は、消費者であると同時に、ものつくりに励む人達のことを考えなければならない。この犯人は、トレーサビリティーによるライン毎の生産時間管理システムを知らなかったのであろうか?それは、作る人達ばかりでなく、私達は、それを運び・保管・流通させている人々、販売する人達の待遇・給料・労働条件なども、食べながら、考えることをしなければならない。通年、2割引から、今や、3割引が、常態化している現状では、簡単には、冷凍食品も、そういう訳にはゆかないのであろうか?色々な思いが、頭をよぎる。



再訪を終えて、親日と嫌日:ベトナム再訪 その10

2014年01月28日 | 社会戯評
再訪を終えて、親日と嫌日:ベトナム再訪 その10
短い期間であったが、仕事ではないので、気落ちは、楽かと思っていたが、タダ程、高いモノはないことを、帰国後知ることになる。それは、又、仕事を是非、手助けして貰いたいと言う要請である。いやはや、困ったことである。今度は、日本からの魚の輸出である。やるからには、責任と言う二文字が、頭をよぎる。今回、旧い友人達を含めて、下は、7才の子供達から、上は、同世代まで、幅広く、色々な人達の考え方を知り得たことは、おおいに、勉強になりました。又、興味を持っていた、ベトナムの人々の歴史認識、親日感の理由とか、何故、反日をとらないのかなど、ベトナム戦争の回想も含めて、草の根の貴重な意見を聴くことが出来ました。とりわけ、ベトナム戦争時での世界各国の市民・学生による反戦運動のベトナム支援を高く評価し、その政府の誤った行動と反戦運動支援者とを「峻別」していること、(本音のところは、そう簡単には行かないが、建前としては、)即ち、国民と戦争を主導した政府とを、はっきりと、分けて考えること。これにより、あの憎むべき鬼畜アメリカをも、政府と国民を峻別して考え、これを国の外交国是として、掲げていること、従って、その延長線上には、エージェント・オレンジの被害の損害賠償の件でも、カンボジア進攻を理由とするアメリカによる損害賠償問題不履行をも、最優先特恵国待遇と云うことで、対米通商交渉の中で、前向きにしたたかに妥結して、民間レベルでの損害賠償支援という形で、合意を見つけ出す知恵を出したこと、又、日本に対しても、戦時中の抗仏活動をむしろ、支援した点を、南仏インドシナ進攻よりも、むしろ、自分にとって有利に解釈して、反日を前面に出さず、むしろ、対中国との軍事戦略的関係性の上から、敢えて戦略的に、反日政策は採らず、むしろ、親日政策を今日までも、採用するに至ったようである。何とも、私には、このベトナムという国は、自分の国の身の丈をしっかりと考えているように思えてならない。どうも、小国であると云う事をしっかりと、又、自覚しているようにも思えてならない。この国の人は、ひょっとしたら、中国の大国主義を笑い、日本の明治維新と戦後復興とに学びながら、自国の矛盾を自覚しながらも、どうやら、positiveに前進してゆくことを選択しているように思える。もちろん、そこには、数百万人という犠牲者の霊を決して忘れているわけではないが、、、、、、、。それを恨み辛みを持ち出して、何処かの国のように、子々孫々、千年も先の世でも、反日を或いは嫌日政策を、国是や、民族のアイデンティティーを喧伝する手段とする教育方針のような戦略とは、多分に、異なる柔軟な、且つ、したたかな、竹のようにしなやかな発想ではないかと、思われるくらいである。それは、タイ王室の誇りとも異なるし、インドネシアやマレーシアのイスラム現代化・近代化、更には、西洋化を目指すシンガポールとも、異なる独自の歩み、独自の考え方なのかも知れない。それが、南宋の時代に、逃げ延びてきて、国を興し、長い間、他国の植民地になり、民族解放闘争を戦い抜いてきた民族の究極の選択肢だったのかも知れない。丁度、日本と韓国・台湾のような関係の如く、ベトナムとカンボジア・ラオスとの関係は、将来、似たような関係に、経済的に、発展してゆくことは間違いなさそうである。どうやら、そういう時代になりつつあるような気がしてならない。ASEAN諸国には、今日、ビザ無しで、自由に往き来でき、多いに、その便利さを享受しているのも現実である。ヒト・モノ・カネ・情報が、今や、国境を超えて、自由に移動しつつある新しい時代であることが、実感される。15年も前には、シクロが横行していたのに、今や、市中の中心街だけに限られ、しかも、観光用のみとなり、時代の移り変わりには、目を見張るものがある。この国の人々は、矛盾を感じつつも、亡くなった人達の分まで、幸せになる権利が、十分あるように、思えてならない。すぐに、日本人は、とりわけ、大新聞やマス・メディアは、矛盾をあげつらって、取り扱いがちであるが、それは、勿論、間違っているモノではない事実ではあるものの、それらを知ってか知らずか、メコンの大河の流れの如く、悠々と現在進行形で、アジアの隆盛という大きな変革の流れの中で、ゴミもろとも、押し流しつつあるように思われる。しかしながら、その押し流されたゴミという矛盾の行き着く先には、将来、大きなゴミの溜まり場が出来ることは間違い事実であろう。しかしながら、それを知りつつも、この国の人達は、現在という瞬間を、前向きに、未来を信じて、生き抜く術を知っているように、思えるし、又、きっと、知恵を出すことであろう。それに比べて、日本の非正規雇用従業員や精神を病んでいる若者は、一度、灼熱の太陽の下で、働いてみることを勧めてみたいものである。この現実を目の辺りにするだけでも、「刮目される」ことは間違いなさそうである。そうすれば、日本人にも、何か、「別の光明」が見えてくるような気もするが、如何なものであろうか?そんな感慨と共に、10日間に及ぶ3年ぶりの久しぶりの束の間のベトナム旅行を無事終えることが出来ました。それは、15年以上も前のベトナムとは、異なっていたし、あれ程、毎月出張していた時代のベトナムとも、携帯電話もなく、タクシーも少なかった時代のベトナムとは、全く別世界でした。帰り際に、何でも、お金を入れておくとそれが、将来、何百倍にも膨らむと言い伝えのあるベトナム帆船の模型をお土産に戴き、壊さぬように、持ち帰りました。又、テト旧正月用のカード、手で丁寧に鋏を使って、カットした開きカードも、戴きました。(これは、安くて、飾り物に、宜しいですね。)テト旧正月の飾り付けと、イルミネーションが、一時の矛盾をすべて、隠してしまうかの如く、豪華絢爛に、建物を、街路樹を、広場を飾っていました。何でも、年に1回の休みに、お手伝いさんは、北部の故郷の田舎に、1ヶ月の間、帰省するそうです。いよいよ、民族大移動が始まるそうです。そんな町を後に、又、寒い日本へ戻ることになりました。さぁ、又、今度は、日本から、魚の輸出のボランティアお手伝いである。それにしても、暖かい温泉で、疲れを癒やしたいところですね。



現地WiFiに考える:ベトナム再訪 その9

2014年01月27日 | 社会戯評
現地WiFiに考える:ベトナム再訪 その9
それにしても、この国は、いつでも、どこでも、誰もが、WiFi環境で、スマホやら、i-padを駆使して、更には、私の古い友人達に至っては、夕食を食べながら、話をしながらも、2台のスマホを使って、仕事をする始末である。ほとんどの珈琲店は、WiFiで、多くの若者で溢れ、賑わいの中で、お喋りをしながら、タブロイド端末やスマホを操作している。私の古い友人の家では、面白いことに、会社では、WiFiなのに、自宅では、何と、カード式の使い切りの自分だけがPCで使用限定可能なカードを使用していると。その理由を尋ねると、何と驚くべき答えが返ってきた。即ち、「お手伝いさんが、自分の留守の時に、LINEやオンライン・ゲームに嵌まって仕事をしないことを警戒・阻止するためだから、、、、、」という理由からだそうである。何とも、皮肉な結果ではなかろうか?実に面白いではないか?誰でも、何処でも、いつでもネットにアクセスできる環境が、実は、その反面で、不都合を生み出しているとは、、、、、、全く、皮肉なことである。そんな訳で、ホテルの時は、便利でしたが、私のネットへのアクセスは、結局、外出時に、珈琲ショップで、パスワードを店員さんから貰って、時々、アクセスすることになりました。日本でも、最近では、やっと、WiFi環境が整い始めて、彼らが我が家へ昨年夏、やって来たときにも、真っ先に、無線LANのパスワードを尋ねてくる訳で、もはや、観光客には、Wi-Fi環境は、最も欠かせない必要不可欠な条件なのかも知れません。何にせよ、この国の人達は、海外とのやり取りも、Skypeのビデオ・チャットや、LINEの無料通話とか、ITの先取りで、デジカメの代わりに、今やスマホで、その場で撮影し、その場で、スマホでメールに添付送付して、今さっき撮影した写真が手許に届くという即時性から、もう逃れることは出来ないし、デジカメも今や要なしである。腕時計も、デジカメも要らないし、メモも、分厚いスケジュール手帳も、今や、要らなくなってしまった。おまけに、メールも簡単にチェック出来るし、返事もその場で、出来るわけであれば、、、、、、、。一寸、ビジネスの現場から、離れている間に、時代は、私を置き去りにして、ドンドン知らないところで、進化(?)していっているようである。私は、何処に彷徨い、行き、何処に、置き去りにされるのであろうか?それとも、永遠に、ついて行かなければならないのであろうか?現役の人達の苦労を少しばかり、垣間見た気がしてならない。そして、今や、現役のビジネスの世界は、こうした中で、現在進行中で、ますます、そのスピードを加速させているのであることを、日本ではなくて、このベトナム現地にいて、改めて、皮肉にも実感しました。いよいよ、束の間の旅も終わりに近づいてきました。



国営企業と特権:ベトナム再訪 その8

2014年01月26日 | 社会戯評
国営企業と特権:ベトナム再訪 その8
旧い友人達の旦那さん達は、皆、ゴルフ好きである。昨年、日本へ来たときにも、マイ・バッグ・マイクラブ持参であった。これには驚きましたが、何故なのかが、今回こちらにやってきて初めて、その理由が分かりました。彼らは、HCMCで仕事をしているのではなくて、二人ともブンタオでロシアとの石油関連の合弁国営企業に勤務していて、だからこそ、二人とも、ロシアに大学時代留学していた経験を有する先輩後輩だったわけで、謂わば、夫婦共働きではあるものの、運転手付き車で週末に帰ってくるプチ別居生活家族である。ゴルフ未亡人という言葉を教えてあげました。従って、旦那さん達は、大体、週末には、ゴルフが多くて、しかも、外人の客が来ると、必ずと行って良いほど、途中のロンタン・ゴルフ場で、プレイするそうである。又、終わったら、ドライビング・レンジで、予習・復習をするそうです。しかしながら、その費用は、プレーフィー等、全額、会社負担の接待交際費で、落とせるそうで、自腹を切ることはないそうである。皮肉っぽく、奥方である旧い友人達は、揶揄していました。一大リゾート地に変貌したブンタオで、その関連会社のホテルに泊めてもらいましたが、何とも、ばかでかいホテルで、設備は、豪華なのですが、サービスとか、客が少なく、ソフトウェアーが、その割には、貧弱であると自覚しています。何でも、年に、何回も国際会議を外国のお客さんを招いて開催するので、全員その時は、このホテルに宿泊して貰い、更に、宴会も食事も、すべて、完結して、外部にカネを落とさせないようにしているそうであるとか、だから、何とか、持ちこたえているとかで、それがなければ、とうの昔に、普通の民間企業だったら、倒産しているだろうと笑いながら云っていました。それにしても、この国の国営企業は、すさまじいほど、お金持ちです。民営化や、改革・開放が、大変なわけであることが、容易に、想像がつきます。同じ年代の旧い友人達は、既に、引退して年金暮らしですが、普通のサラリーマンでは、民間会社では、そうは行かないそうです。この辺にも、官民の二重構造と格差が、福利厚生、引退後の待遇にも、微妙にあるそうです。結局、汚職もこうしたことが一因なのではないかと、思われます。見て見ぬ振りをするわけではないが、どうやら、なかなか、改善されないらしい。社用車や運転手付き、或いは、接待費、福利厚生とか、とにかく、実質的に、眼に見えない形で、お金が廻っているのでしょうか?それにしても、これは、少々耳の痛い話で、話の横で、私の奥方が、肘をつついてきました。自分で話をしながら、若い頃の自分を想い出し、何とも複雑な気持ちになりました。



インフラの整備にみる日の丸:ベトナム再訪 その7

2014年01月23日 | 社会戯評
インフラの整備にみる日の丸:ベトナム再訪 その7
インフラの整備は、このベトナムという国では、これから、数十年単位という時間で、必要なのではないかと、目を疑うほど、すさまじい勢いがある。もっとも、現地の古い友人の説明では、入札で、やたらと、小さな中国系企業が、建築・建設関係を落札して、悪かろう・安かろうが、今日、問題になっていると。それに比べて、Show the Flag ではないが、たまたま、ブンタオの海岸リゾートに、泊まりがけで、行く途中で、これまででは、高速船に乗って、1時間半程度の船旅であったが、今度は、高速道路での移動であったものの、この時みた情景には、なかなか、興味深いものがあった。それは、まず、大きな看板に、日の丸の国旗とベトナムの国旗が掲げられ、ベトナム語で、おそらく、この道路は、日本のODA援助で、作られているという説明があり、何と、ブルドーザーには、小さな日の丸の国旗が立てられている。まさに、「Show the Flag」である。それにしても、日本であれば、全線開通してから、サービス開始なのに、インターチェンジが、完成していないから、一度、降りてから、又、ぐるっと方向転換して、又、高速道路へと舞い戻る誠に、合理的なものである。しかも、インフレのせいなのか、料金が、一部の期間で、突然、2倍になっていたとか、ブツブツ言っていた、、、、、面白いものである。更に、驚いたことには、道路の標識には、ETCの標識が、掲げられているのには、驚いた。インフラの整備の仕事が、これだけあるのだから、さぞや建設・土木関係の仕事は、儲かって仕方ないのではないかと、問えば、答はそうではないと、何故ならば、汚職が蔓延して、このために、会社が、儲かる構造になっていないと、、、、、、、。道路の周辺に、ポつんと建つ高層マンションも、支払いが滞っていて、完成しても、建築・不動産会社は倒産してしまったそうである。中国と同じように、この国でも、シャドー・バンキングと同じような構造が、垣間見られるようである。高速道路の先には、南シナ海に面した海沿いのリゾート地に変貌したブンタオがそこにはあった。昔、工場の幹部連中と一緒に、束の間の夏休みの週末に、バスで出掛けた時には、海鮮レストランが1軒くらいしかなくて、困った記憶があったが、今では、ホテルも次々に建設されて、併設のレストランも出来て、もはや、海上での石油掘削事業だけではなく、海辺の一大リゾート地へと変貌していた。それでも、こうした成長の陰で、生活排水による海水汚染とか、ゴミの問題とか、光と陰が、そこここにみられるのは間違いない。それすらも、押し流してしまうように、リゾート地としての成長と繁栄が、より強いのが現状であろうか?
友人の旦那さんが務める石油会社の関連会社が運営するホテルでは、現地駐在員のロシア人家族達の歓声が、奇妙に、数少ない客しか観ることの出来ないプール・サイドに響いていた。ここにも、繁栄と矛盾の光と陰が見える。そんな光景のなか、仰ぎ見る日の丸の旗は、何とも皮肉である。



旧い友人達とその子供達:ベトナム再訪 その6

2014年01月22日 | 社会戯評
旧い友人達とその子供達:ベトナム再訪 その6
自分ばかりでなく、旧いベトナム友人達にも、時間というものは、容赦なく、平等に、歳を重ねる。もう、20年以上の付き合いの勘定である。考えてみれば、彼らの多くが、当時は、結婚するか、しないか、或いは、既婚で、子供が小さかった頃のことだから、その子供が、もう、運転免許を取る年齢に達してもおかしくはない。共通の言語は、英語である。あるものは、当時は、通訳を通じたり、或いは、それ程、うまくなかったが、今日では、もう一人前に不自由なく会話している。私の旧い友人達は、世代的に云って、私と同じ世代の60代、私より一廻り若い50代の世代、或いは、2廻り若いアラフォー世代、こちらは、当時、大学を卒業して、2-3年経過したか、卒業間もない新入社員の頃の人間である。そして、それらが、今日、子供達の世代に、バトン・タッチされようとしている。彼らの大半は、そのほとんどが、大学出で有り、大きな国営企業に就職していたり、ロシアに、留学していた経験を有する人達である。従って、やっと、ドイモイの政策が浸透し始めた頃に、英語を使って、貿易を、とりわけ、輸出奨励策の波に乗って、必要とされる人材育成がなされた世代でもある。それは、丁度、ソ連や東欧への留学から、西欧への留学に切り替わる過渡期での出来事だったのかも知れない。その意味では、みんな、ある種のエリートだったのかも知れない。あるものは、会社の指示で、英語を学び、あるものは、自らが私費で、英語を学んだりと、様々である。しかしながら、共通するのは、いずれも、英語という外国語が共通語である。当時は、日本での作業工程詳細をビデオに録画して、これを持ち込み、細かい作業指示書を、まずは、私が、日本語から、英語に翻訳して、これをベトナム語に、翻訳すると同時に、ビデオを見せながら、実地に、技術的なノウハウを教えるという作業が必要であった。(もっとも、今も、そうかも知れないが)従って、我々は、互いに、その作業を実地に、頭だけではなくて、身体で、まず、理解しなければならなかったわけで、お互いに、そのコミュニケーションが密でなければならなかったし、その為に、互いの性格や考え方が、合致していなければならなかった訳である。謂わば、仕事も大切だったが、それ以上に、ビジネスマン以前の同じ一人間としての人格の尊重が、基礎になければそんなにも長い間、続かなかったのかも知れない。それが、今度は、子供の世代に、いよいよ、バトン・タッチである。彼らの子供達は、ほとんどが、高校や大学は、海外、とりわけ、日本だったり、米国や豪州やシンガポールで、勉強している。去年、小諸に来た子供達も、皆、英語が話せたので、会話に苦労することはなかったのである。しかも、最近では、FBや、ツイッターで、LINEやSKYPEで、いつでも何処でも、会話できるわけだから、全く、笑ってしまいます。今回も、SKYPEのビデオ・チャットで、アメリカに留学している娘さんと、日本語を勉強しているので、英語と日本語のチャンポンで、両親共々、再会・挨拶することが出来ました。古い友人達は、一様に、ベトナムの教育システムに懐疑的・否定的で、かれらの子供達を海外留学に、意図的に出している。むろん奨学金を申し込んでの話であるが、金持ちは、全額自分持ちで、その必要がないものの、なかなか、そういう訳にもゆかないとは云っていた。昔、台湾の人が、子供をアメリカに留学させて、その後、日本の語学学校に、留学させて、英語と日本語の両方を勉強させ、更に、日本で、日本食の調理師の養成学校に、通わせて、料理までも、勉強させ、自分の経営する食品工場へ、この後に、就職することにさせたそうであるが、なかなか、面白い計画的な人生「教育方針」である。これからの日本人は、誠に大変である!こうした人達と世界で、競争して行かなければならないのであるから、、、、、、、、。金持ちと貧乏人の格差のために、ベトナムでも、「教育の格差」が生まれ始めているそうである。そして、家庭教師をつけて、学校が終わると、ピアノ、英会話、お稽古事など、子供も、ストレスを抱えていると云っていた。もう、5-6才の頃から、外人と英語で話し、日本食を食べて、大きくなっていったら、どういう人間に育ってゆくのであろうか?逆に、ベトナム語を教えて貰いながら、遊びましたが、昔覚えた、「私は、、、、、です、何才ですか? これは何ですか? 私はこれが好きです、」等、ベトナム語・基礎会話から、なかなか、抜け出せませんでした。やはり、体系的に、そこに住んで、言語は勉強しなければ駄目なのでしょう。未来に向かって、矛盾を感じていても、希望を持って、この国の人達は、何事にも、とても、POSITIVE である。未来に向かって、ベトナムの子供達は、大きくなったら、どんな大人に育ってゆくのであろうか?結婚式には、呼んでもらう約束をしましたが、その時まで、こちらが、長生きしているであろうか、心配である。それにしても、この国の人は、マイナス要素すら、前向きに、未来に向かって、POSITIVEに考える人々である。何か、暗い冬の時代に、どんよりとした曇り空で、気持まで滅入ってしまう日本人とは異なり、南国特有の真っ赤な大きな太陽をみながら、おおらかに、且つ、元気に未来に向かって、生きようとする姿をみて、考えさせられてしまう。



クチ・トンネルで思う:ベトナム再訪 その4

2014年01月21日 | 社会戯評
クチ・トンネルで思う:ベトナム再訪 その4
HCMCから、昔は、随分と時間が掛かった記憶が残っていたものの、道幅が、当時の3倍程になったせいか、市街地を抜けると車のスピードが大幅に早くなる。それでも、小一時間ほど以上は要しただろうか、もう終園間近だったこともあり、観光客は、我々と数名ほどしか、残っていない。土産物屋も、飲み物売り場も、午後5時目前なのに、何故か、店じまいの準備である。ガイドの係員も、今頃、遅くに来やがってと言うような感じで、説明に廻った。英語の看板で、ルールの説明を確認して、出発である。アメリカ軍の投下した大きな爆弾のクレーターは、直径10メートルもあろうか、こんな爆弾を空の上から、無数に落とされたら、逃げるどころの話ではなかろう。おまけに、ナパーム弾みたいに、周囲の空気までを一挙に、火焔地獄に陥れるようなものであれば、尚更、一層、逃げる暇など有りはしないだろう。それにしても、よく、こんなモグラの穴のようなトンネルを、無数に、地下3階ほどの深さまで、よく構築したものである。中には、川底へ、繋がるように掘ったものも、展示されている。しかも、アメリカ兵では、体格が大きすぎて、小さな細いトンネルには、つかえてしまい、入り込めないそうである。今日では、観光用に、やや大きめの入り口が、掘られているものの、説明によれば、本来のトンネルは、細くて、小さいものだそうである。それが、落ち葉でカモフラージュされていたり、狙撃手用のシロアリの巣のような形をした、地上から、一寸だけ、顔を出したトーチカから、打たれたり、或いは、ジャングルの道なき道に、仕掛けられた無数の落とし穴やトラップでは、前にも、後ろにも、進めないではないか。そんなものが、そこここに有り、知らないうちに、敵の陣地に踏み込んで、ぐるりと周りを囲まれたりしたら、たまったモノではない!トンネルの中には、将校の作戦室や、負傷兵を介護する施設や、兵隊が寝泊まりしたり休憩したりしたハンモックや、炊事室、或いは、米軍のパラシュートを活用したカモフラージュ用カッパや、戦利品の水筒やら、例のホーチミン・サンダルとか、女性兵士の人形やら、当時の戦闘下での生活が、分かりやすく、説明されている。それにしても、炊事場などの煙は、説明によれば、3段や4段構えで、フィルターを嚼ましながら、徐々に、煙を薄くして行き、或いは、四方へ分散散らすことで、まるで、朝のもやっとした霧のようにジャングルの中に漂わせ、ヘリコプターの上空からみても、分からないように、工夫したそうである。
私は、このトンネルをみていて、実に、日本人として、ベトナム人を羨ましく思わざるを得なかった。何故ならば、我々、日本人も、それ程遠くない時代に、同じような戦術で、アメリカ軍を苦しめた事例があることである。しかしながら、残念なことに、そこには、極めて、大きな違いが見られることも又、事実であろう。それは、沖縄での闘いや、その前のIOUJIMA(硫黄島)の闘いである。換言すれば、ベトナムでの闘いが、そのトンネル作戦が、ディエンビエンフーの時もそうであったように、又、ベトナム戦争の時も、又、ボー・グエンザッップ参謀による抗仏戦争勝利、ベトナム戦争勝利という輝かしい民族独立戦勝のシンボルだからであり、逆に、日本では、それが、悲惨な、無謀な専守防御による単なる人命損失と抗戦持続の時間稼ぎたけであり、失われた命の代償は、今日までも、正当に、評価されていないという全く相反する構図であることであろう。硫黄島の守備隊が、戦略的・戦術的に、軍事的に、劣っていたわけはないが、余りにも、戦況の違いは、明々白々であろう。残念乍ら、日本人は、今日、沖縄の洞窟や、硫黄島を決して、観光施設として、考えられないし、どうしても、一種の慰霊の施設としてしか、考えられない。それは、真珠湾で、撃沈された軍艦を慰霊施設、戦意高揚のシンボルとして、記念館にしたアメリカと、似ていないこともないが、それでも、戦勝国と敗戦国という大きな違いは、免れないことは事実であろう。その意味で、私は、このトンネルの中で、民族徳利を勝ち得た誇りを強い調子で語る係の人間を、日本人として、実に、羨ましく思った次第である。翻って考えるときに、日本人がそうであったように、一体、ドイツ人は、どのように、民族の誇りを復興させ、維持し、ナチスの亡霊から、新しい戦後ドイツを、或いは、東西ドイツを統一するに至ったのであろうか?戦争博物館でも、クチのベトコンのトンネルでも、誇らしく、民族の独立と解放を果たした人々の素直な喜びに対して、一体、日本人は、どのような施設が、あるのであろうか?少なくとも、社会党も今日の民主党も、或いは、公明党も、自民党も、すべて、靖国神社に対する新たな戦死者を祀る施設、同じような想いで、祖国の防衛に準じて逝った人々の気持ちを、同じ日本人として、共有出来るような新しい価値観を有した論理と、そして、国際的にも、アジア諸国からも、成る程、流石に、日本であると云う施設、記念碑が、一日も早く、実現されることを願いたいものである。資金も、装備も劣っていたベトコンは、一生懸命に、知恵を出し合って、ジャングルの中で、罠を作り、落とし穴を掘り、トンネルを掘りながら、「知恵」を出したのではないだろうか?日本人は、もはや、こんなアリのようなトンネルで、戦えるとも思えないが、「知恵」を出すと謂うことは、恐らく、可能なのではないだろうか?昔、この施設の近くには、大きな山のようなコンクリートに、戦死者や戦争犠牲者の顔写真を石板に写したものが、所狭しと無数に飾られていたが、今や、そこには、綺麗な立派な屋根付きの慰霊施設と五重塔が、多くの蝋燭と線香と一緒に、飾られ、建てられていた。この国では、誠に、戦没者が、敬われ、尊崇の念で、祀られていることを羨ましく思う。私の戦死した両叔父達は、一体、どこで、慰霊されているのであろうか?残念乍ら、私は、自分の心の中でしか、追悼する場所がないのが現実である。
明日は、ちょっと、仕事のアドバイスである。



日系メガ・ショッピングモールに思う:ベトナム再訪その5

2014年01月20日 | 社会戯評
日系メガ・ショッピングモールに思う:ベトナム再訪その5
ドイモイの改革開放経済政策が、浸透するにつれて、昔は、ほとんど、チョーと呼ばれる市場で、ほとんどの日用食材を購入していたものが、やがて、現地の資本によるCOOP マートのような大型スーパー・マーケットが、出始め、これの発展系であるところの韓国系LOTTEショッピン・モールとか、台湾のデベロッパーによる市街地でのショッピングモールが、次々と姿を現すことになる。丁度、私が、現役の頃は、まだ、その走りで、やっと、スーパーらしき店が、チラホラ出始めた頃であったが、今日のイオンのメガ・ショッピング・マートは、もはや、船橋のららぽーとか、幕張に今度オープンしたイオンの旗艦店に、勝とも劣らないような巨大な規模である。私のような脚の不自由な人間は、そのすべてをくまなく見学することは、ほとんど、不可能である。ワン・ストップ・ショッピングだけではなくて、エンターテイメントも、又、外食レストランも備えられた一大ニュー・ライフ・スタイルの提案空間のようである。そこには、日系だから、日本関係の商品も販売されていて、しかも、中島水産のような水産業者が、日本から1月11日のグランド・オープニングに合わせて、日本人のスタッフなどを投入して、まるで、その鮨の販売コーナーは、すさまじい戦場のような長い行列で、次から、次へと、日本人の私がみても、ちょっと、高そうな鮨のパックを2個・3個・4個とキャッシャーへ運んで行く。ベトナムの友人によれば、鮨レストランで、食べるのに較べて、割安感があるそうである。恐るべし日本食パワーである。そのほとんどが、食に、保守的と云われてきた主婦層や、新しモノ好きの若者層である。もうこの日本食の傾向は、恐らく、止まるところを知らないのではなかろうか?底辺がどんどんと、拡がって行く。まだ、大都市部の一部であるものの、これが、全国的に、地方都市にも、近い将来、波及して行くことは間違いなさそうである。それにしても、ここ、ベトナムには、嫌日とか、反日とかという言葉が見当たらないのは、どうしたことなのであろうか?古い友人達は、異口同音に、中国の南沙諸島でのベトナムとの軋轢を非難する。そして、中国による改革開放政策の矛盾を一生懸命に、学ぼうとしている。私は、これまで、現役の頃、郊外の工場へ毎日通っていたので、郊外は、その頃は、本当に何もなかったものである。都心の中心街ですら、せいぜい、一軒の飲食店が出来た程度で、今や、そんな場所は、ひっきりなしに、車が、バイクが、引きも切らないくらいに、流れていて、昔の面影などは、一切みられない。ここが、ガランとしていたなどと云おうものならば、そんなはずはないと否定されてしまうほどである。旧いベトナム人の友人が、日本食中心の素材販売店をオープンしたというので、案内されて、アドバイスを求められた。成る程、これからは、家庭でも、鮨や日本料理を奥様方は、健康食の一つと捉え、油分が少ないとか、素材の味を生かした料理として、評判であるから、おおいに、潜在需要はあり、可能性は大かも知れない。何でも、簡単な弁当を将来販売したいとかで、手巻き鮨や、丼物を教えて欲しいという依頼である。今は、インターネットのCOOKPADやレシピー集も、簡単に入手出来るので、素材さえ手に入れれば、簡単なものであれば、家庭でも日本食が愉しむことが出来るであろう。お友達の主婦仲間の女医さんの家で、総勢10名ほどのお友達に、うどん・蕎麦・親子丼・焼きうどん・牛丼・太巻き鮨・お握り・だし巻き卵・鶏肉炊き込みご飯などを、現地の食材を使用して、試食も兼ねて、現地風の好みの味に作りながら、夕食会となった。もちろん、総監督は、女房殿である。流石にドクターは、細かくメモをとりながら、何を何グラム、何分とか、質問する始末である。どうやら、お手伝い達も、自分が作らなければいけないものだから、必死に、味見したり、作り方に見入っていた。フォー等の麺を好む民族だから、焼きうどんは、ニンニクをたっぷりきかせると、醤油味は、現地の魚醤の味とさして変わらぬ味のようで好評であった。概して、全体的に、好評で、とりわけ、冷たいざる蕎麦やうどんは、好評であった。これまで、そばつゆをどのくらい、濃く作るのかが、分からなかったようである。又、これまでは、料理酒やみりんの使い勝手が、よく分からなかったようである。昔は、よく、韓国製のうどんやそうめんを使って、現地で、自炊していた頃を想い起こす。それにしても、もう、この流れは、止められないでしょう。これが、子供達や、旦那達にも、家庭で、サーブされるようになると、「食文化」は、重要な外交政策の一要素になるのかも知れません。ハンバーグが、アメリカの食文化の代表とするならば、鮨は、日本食の最たるものかも知れません。そして、和食のユネスコ無形文化遺産登録は、そういう時代の背景がもたらしたものなのかも知れません。ものを売ることは、単なる貿易だけでなく、実は、文化を伝播・頒布していたことを改めて知ることになろう。そんな郊外のメガ・ショッピング・モールも、これから、どういう役割を果たしてゆくのであろうか?興味深いところである。


新築記念式典参加:ベトナム再訪 その3

2014年01月18日 | 社会戯評
新築記念式典参加:ベトナム再訪 その3
昔、今から、15年程前に、一緒に仕事をしていた当時、まだ、水産大学を卒業し立ての彼女が、新任の工場長をしていた頃のことである。あれから、彼女は、工場長を首になり、韓国の会社を含めて、現地の何社を渡り歩いた末に、自分で、水産物の輸出入会社を立ち上げ、アラブや韓国・ロシアやアメリカを股に掛けて飛び歩いている女性経営者の一人である。それにしても、日本の会社の工場のお披露目式典以外は、大体、結婚式の披露宴なども、時間通りに出掛けると、誰もいなくて、日時を間違ったのかとも思ってしまうほど、誠に、時間におおらかである。敵もさることながら、招待する方も、又、される方も、互いに、阿吽の呼吸で、時間には、ルーズである。落成式典だからと背広とネクタイなどを着けているのは、私と、招待する側のお父さんくらいで、エジプトから来たという客などは、Tシャツにジーンズには、参ってしまう。結局、時間がたっぷりあったので、部屋を隅々に、案内されて、それでも、時間があったので、フット・マーサージへ、韓国の客と一緒に、時間を潰す羽目になった。それにしても、久しぶりに韓国語を片言・三言、話したものである。結構、想い出すものである。ブロークンでも、外国で、自国の言葉を外人に受け答えして貰えれば、少しは、気が紛れるモノではないだろうか?いやはや、それにしても、白亜の豪邸、5階建ての、お城のように、青や赤のサーチライトで、玄関入り口の守衛室の階段の所から、浮かび上がっていた。それでも、未だ、突貫工事で、一部、間に合わなかった箇所を工事しているのには、参ってしまう。急な階段だから、こちらは、勘弁願って、エレベーターで、最上階まで、案内して貰った。最上階は、見晴らしが良く、夜景を見ながら、広い屋根付きの屋外ジャクジに浸かりながら、ビールが飲めるように、広いカラオケ・ルームには、チャンと、ミニ・バーが併設されていた。勿論、部屋の真ん中には、シャンデリアが設えられていた。その5階から、1階まで、併設されている事務所も含めて、2-3階は、事務所用に、外階段で、直接、出入室できるように、職住近接に設計されている。とにかく、落成式当日でも、どういう訳か、トイレットペーパーもなくて、こういうことを予想して、トイレットペーパーを何枚か、女性は、持ち歩かなければ駄目であろう。それにしても、招待されていながら、申し訳ないが、少々戴けない金権趣味である。これ程までに、そんなに、金ぴかなものが好みなのか?そえは、後に、夕飯に呼ばれたペインドクターの女医さんの私邸を訪問したときに、こちらは、随分とシックなアンティークな家具を趣味としていたお宅だったから、そういう風に、感じられたのかも知れない。人間の私邸の雰囲気というものは、どうやら、その人間の趣味や考え方を多分に、反映したものから知れない。急激な、しかも、一挙に吹き出た繁栄の結果が、この見上げるような白亜の建物を、作り上げたのであろうか?これを見上げる嘗ての同僚も、近所の人達も、どのような感慨で、見上げていたのであろうか?自分も、こんな風に成功したいと思うのか、それとも、ここまですることはないだろうと思うのか?なかなか、古い友人達の意見は、別れるところであった。もっとも、共通し意見は、ここまですることはないであろうに、、、、と言うところであった。同じ成功者仲間でも、意見の分かれるところであった。羨望とねたみ、昔は、同じ立場だったのに、、、、、、という感慨は、15年という時間を、どのように考えたら良いのであろうか?確かに、この国でも、依然として、富めるものと富めないものとの格差は、実際にあることも事実であるし、ますます、その差は、拡がるばかりなのかも知れない。個人の努力を既に、超えてしまったところにまで、来てしまったのだろうか?英語が話せたから、あんなに、下手くそだったのに、今では、私とも、物怖じせずに、英語で、会話しているし、バイヤーともやり合っている。貿易に関わっていたから?或いは、生産現場で、勉強できたから、、、、、、、???何が、この成功へ、導いたのであろうか?本人のたゆまぬ努力の賜物なのか?落成式には、真っ先に、恩人の一人として、日本人を代表して、過分なお言葉を戴き、紹介までされ、おまけに、テープ・カットのセレモニーにまで、加えて貰いました。過分な光栄です。どうも、若い時に、失敗したら、個性が少々強すぎた方が、後に、成功する確率が高いような気がしてなりません。性格の良い人の方が、それなりにしか、ならないのかも知れません。何故か、そんな気がしてなりません。この国をみていて、海外と何らかの接点があること、外国語を話したり、これを通じて、何かを学んだり出来る環境にあること、そして、勉強家であることと、少々、我が儘な性格で、どちらかというと頑固なタイプ、そして、若い時に、外国人で、影響を与える関係者がいること、家庭での理解者がいること、どうも、この国の旧い友人達をみていると、そんな要素が、共通にあげられます。それは、丁度、幕末から、明治期に掛けて、大きな変革を乗り切ってきたような人達にも、どこか、共通するものがあるのかも知れません。しかしながら、この国でも又、戦争で命を失った数多くの有為の人達がいたことは事実で、可能性というものは、結局、亡くなってしまえば、可能性が永遠に奪われてしまうわけで、考えてみれば、成功にも、失敗にも、そもそも、その土俵自体に上がれなくなってしまう非情なものなのでしょう。成功と繁栄と落差、一方で、インフラは、すごい勢いで、一般道路が、高速道路が、昔、2車線だったのが、6車線になっていたり、道幅が、立ち退きで、一挙に、倍に拡がったりと、繁栄の裏では、汚職が拡がり、病巣が、拡がりつつあるのが現実であると古い友人達は、口々に、云うものの、政府の反汚職キャンペーンや罰則強化政策だけでは、解決し得ないことも十分知っているようである。しかしながら、そうした矛盾が、今でも、認知されているにも拘わらず、繁栄と成功の方が、その秤の重さを、繁栄を採る方を選ばざるを得ないのが現状であるし、そちらを選ばざる得ないことに、多少、矛盾を感じていても、違和感を打ち消して余りある成功と繁栄をもたらしている何かがあるのかも知れない。日本人が考えている繁栄と成功の矛盾よりも、かれらは、現実的に、矛盾はさておいて、後で考えることを選択せざるを得なかったのかも知れません。それが、何十年という民族独立戦争を繰り返してきた民族が選んだ道なのかも知れないし、軽々しく、日本人は、それを否定していては、全く、理解出来ないのかも知れないでしょう。様々な話題の中で、頭の良い人達は、頭では、矛盾を理解していても、現実の繁栄が、すべての矛盾を、まるで、茶褐色によどんだメコンの大河がすべてのゴミをゆっくりと押し流して行くようにも、感じられてなりません。それが、道路の半分の片面を、更には、両隣2件づつのお隣さんの玄関先まで、1テーブル10名の席のあるテーブルが、30テーブル余りも、並べられた落成式の宴会で、成功のお裾分けという名目で、ご近所さまにも、分け与えることになっているのであろうか?そして、受け取る側も、礼を言わずに、有り難うと受け取っているのでありましょうか?プロの歌手やダンサーの踊りも、招待客によるお祝いの歌や踊りも、すべて、矛盾と共に、かき消され、壇上を見上げる子供のあどけない驚きと羨望の眼差しが、何故か、私には、席から眺めながら、目に焼き付いていました。三々五々、十分酒と料理を堪能した人々は、お礼を告げては、皆、別れてゆきました。このあどけない子供が大きくなる頃には、ベトナムは、どのように変容して行くのでしょうか?そして、この白亜のお城のような家は、20年後、30年後には、どうなっているのでしょうか?私は、恐らく観ることは出来ないでしょうが、子供達に、その行く末を託したいと思います。
明日は、ベトコンで有名なクチのトンネルへ、、、、、、。




War Museum で考える:ベトナム訪問記その2

2014年01月15日 | 社会戯評
War Museum で考える:ベトナム訪問記その2
もう15年程、昔になるであろうか?当時は、まだ、ドイモイが始まったばかりで、タクシーも、ニャチャンの空港には無い時代、シクロの兄ちゃんが、片言の英語で、話しかけてきて、色々な所に、通訳兼ガイドとして、役立てていた時代の頃である。記憶も定かでないが、ホーチーミンと名前が変わったこのサイゴンの中心部に位置する建物は、何とはなしに、薄汚れた暗い雰囲気が漂い、訪れる外国人も少なかったような気がする。そして、何よりにも増して、想い出されるのが、枯れ葉剤で、体内で、奇形児として生まれてきた赤ん坊の標本が、無造作に、理科の実験室さながらに、ホルマリン漬けされた丸いガラスに納められて、ポツンと、置かれていたことである。毎月のように、タイ・ベトナムへ出張していたにも拘わらず、仕事だから仕方ないのであったのだけれども、改めて、15年ぶりに、訪れた戦争博物館は、随分と、昔のイメージと大きく、異なっているかのようである。むろん、屋外に展示されている戦闘機や、上陸用舟艇などは、相変わらず、かわらないものの、その訪れる外国人観光客の多さには、目を見張るものがある。とりわけ、アメリカ人、フランス人、等の欧米からの観光客、ブラジル国旗を掲げながら、スペイン語通訳を一生懸命に、聞き入る団体客、日本人を含めたアジアからの観光客、スカーフを巻いたモスリム圏からの観光客など、どの人も、どの団体も、声を潜めながら、重苦しい雰囲気の中で、展示されている資料に見入っている。それにしても、1階から3階まで、余すところなく、これでもか、これでもかと並べられた写真や現物の資料は、それでも尚、スペースが足りないといっているかの如くである。入り口の展示されている日本語でのベトナム反戦運動の資料は、何故か、私を、遠い昔ではなくて、若かった頃のまだ、とげとげしい青春時代の自分に、タイム・スリップさせてしまうかのようである。アメリカの大学生の反戦運動デモの写真には、地上に伏せって微動だにしない友人の横で、泣け叫び、抗議する女子学生の写真が、大きく展示されている。恐らく、タイムか何かに、掲載されている写真だったようにも、想い起こされるが、、、、、、。それらに見入るアメリカ人と思われる観光客は、まるで、必死に、米国国籍という今までは、自国にいるときには、誇りとしていたアイデンティティーを、必死に、覆い隠そうとするかの如く、振る舞っているようにさえ見える。それは、既に、2階から始まるこれからの戦争犯罪というものを、どのように、考えるかということを、観る側に鋭く問題提起し、自己の行動と責任に対して、容赦なく、問いかける序章に、過ぎないものだったのかも知れない。展示は、フランスに対するディエンビエンフーの抗仏戦争の闘いの写真から、反植民地、民族自決・反帝国主義・独立戦争から始まる。皮肉なことに、日本軍による南仏領インドシナへの写真は、何故か、写真の展示を省かれている(?)のは何故であろうか?それとも、私が、見逃してしまったのであろうか?それとも、ある種の政治的な意図を持ってして、ベトナム政府が、日本に対して、好意的に、第二次世界大戦時の民族解放運動での日本軍の役割を評価している証しなのであろうか?それは、少々、好意的すぎはしないかとも思われるが、後程、ベトナムの友人達に、尋ねてみることにしましょう。後述するように、全体的な構成が、反戦運動を高く評価していて、独自の軍事的な勝利とは別に、世界的な規模での、とりわけ、先進国でのベトナム反戦運動のうねり、ベトナム連帯と支援を高く評価している内容になっている。それは、全世界から、やってくる観光客にも、こうした有形・無形の支援と連帯を、まるで、感謝するようにも思えてならない。開高健や小田実らによるベ平連なども、思えば、ベトナムに平和と連帯を、、、、、という幅広い、党派を超えた緩い運動体から、生まれたものであったことを想い出す。我々の世代は、1967年の京大の山崎君の死を契機に、その前後から、一気に、反戦運動が、燃え広がったように感じられてならない。それは、60年安保の樺美智子さんの死を伴ったことにも、共通しているのかも知れない。後年、三島由紀夫との東大全共闘との討論会で、いみじくも露呈することになった、「行動と言葉」の狭間に、まだ、その頃は、戦後民主主義の中で育った当時の若い僕たちは、一途な正義感だけで、気が付いていなかったのかも知れない。(最期の最期まで、闘うぞ!というシュプレヒコールは、何だったのか?ゲバルトとは、名だったのか?)私は、どうしても、我々の世代を、日本だけでなく、もっと広く、アジア諸国、例えば、中国では、毛沢東・紅衛兵世代、(中国で生まれていたら、きっと、紅衛兵世代で、農村に下放されていたであろうし)ベトナムでは、ベトナム戦争世代、既に、兵役で、参加していた人、或いは、その頃に、生まれた世代、或いは、南ベトナム政府軍で闘い、その後、アメリカに、渡ったボート・ピープル世代、まさに、私の運転手の一人は、そうであるが、、、、或いは、北ベトナムから、統一後に、渡ってきた人とか、更には、韓国での同世代、ベトナム派遣軍に参加した当時の同世代、そして、フランスのカルチェ・ラタンでの学生による反戦運動、最期に、当時のアメリカで、反戦運動をしていた同世代、又、恵まれない環境下で、結局、派兵されていった一兵卒のアメリカ兵の同世代、こうしたグローバリズム下での運動として、重層的に、考えない限り、この歴史的な運動のうねりは、理解出来ないのではないだろうか、そんな気がしてなりません。
ちょっと、横道にそれてしまったので、こうした運動の分析は、別の機会に論じてみることにしつつ、2階から、3階へと、歩を進めてみましょう。
ビエンディエンフーの闘いの後は、あの忌まわしいベトナム戦争の犯罪の歴史を、これでもか、これでもかと云うほど、詳細に、写真と、そして、その破壊のビフォー・アフターを比較するパネルが、ずっと続きます。そして、更に歩を進めると、枯れ葉剤、所謂、エイジェント・オレンジの被害の凄まじさと悲惨さを見せつけるシャム双生児や、各種様々な奇形児の写真を見せつけられます。昔は、こんなに、多数の写真を公然と見せてはいなかったような気がするが、私の記憶違いだったのでしょうか?経済発展で、予算に余裕が出来たのでしょうか?その一角に、一寸、目を懲らさなければ分からぬように、下の方に、ホルマリン漬けの奇形児の標本が、何体か、隠れるように置かれています。何故、人目を憚るかのように、置かれていたのかは、分かりませんが、明らかに、それは、隠されるかの如くに、地上フロアー近くの目立たない高さに、隠されるように、展示されていました。流石に、アメリカ人観光客とおぼしき一団のとりわけ、若いアメリカ人達は、あたかも、自分たちが、アメリカ人であることを悟られないように、押し黙った、ジッと、目を懲らして、標本や写真に見入っていました。私は、南京虐殺戦争博物館を訪問したことはありませんが、このアメリカ人を通して、その日本人としての姿を容易に、想像出来ます。それ程、当時のモンサントなど、産軍複合体による化学兵器・毒ガス・枯れ葉剤などによる自然だけに止まらず、敵ばかりでなく、見方である若き海兵隊の除隊後での奇形児の発生などをみても明らかなように、甚大な影響を及ぼしたことは、明らかな歴史的な事実で、これらの求償の問題は、後で、ベトナムの友人から、聞いた話ですが、戦後賠償金の中で、一度は合意されたにも拘わらず、ベトナムのカンボジアへの進駐の制裁名目で、後に、履行されなかったことは、今日でも、米・越相互貿易協定の中で、いち早く、政治的な決断から、国交回復・復帰の交渉時に、特恵関税供与国として、真っ先に、認定されたことは、決して、無縁なことではないでしょう。それにしても、今日でも、この被害の影響は、余りに広範すぎて、そして、余りに、人の心に、傷を負わせるもので、只単に、化学兵器という類や範疇の問題ではなさそうです。通常兵器の展示の中でも、とりわけ、ナパーム弾による被害の展示は、恐らく、一瞬にして、周りの空気もろともに、硝煙地獄と化してしまうほど、まるで、ヒロシマの原爆資料館の焼け焦げた死体を思い起こさせるほど、ひどい、被害者のケロイドです。こんものを空から、何十発となく落とされて、逃げゆく道を一瞬にして焼かれたら、たまったものではありません。3.10の東京大空襲の時の焼夷弾にも勝るとも劣らない威力は、容易に、想像がつきます。更に歩を進めると同時に、いよいよ、忌まわしいソンミ村虐殺のコーナーになります。それらのコーナーの周辺には、日本人カメラマンの沢村氏や石川氏の撮影した写真や、遺品のカメラなどが、展示されており、装甲車の後ろに、まるで、戦利品でも持ち帰るように、殺害されたベトコン兵の遺体を引きずる写真や、戦死者の髑髏を頭に掲げた兵隊の写真、或いは、タイムやライフで、有名になった当時の何枚もの写真が、(街頭で、ベトコンの容疑者の頭を打ち抜く国家警察署長の写真等)展示されています。当時の現場から移設されたと思われる、遺体を投げ込んだ井戸の丸いコンクリートも、そこには、展示されていますし、虐殺された人々の名前や年齢・写真も遺品と同時に、飾られています。流石に、ここら辺まで来ると、アメリカ人観光客達も、押し黙るどころか、中には、ハンカチを目や鼻に押し当てている若い女性もいますし、白髪交じりの同世代の退役軍人と思われる連中も、非常に、複雑な思いで、押し黙ったまま、じっと、パネルに見入っています。戦争が、或いは、極限の恐怖が、若い兵士を駆り立てて、狂気のプラトーンの映画の世界に連れて行ってしまったかの如くに、しかしながら、それは、歴史上の紛れもない事実だったのかも知れません。被害者の側、そして、ここら辺りから、加害者の戦死者の写真も数多く展示されています。若い海兵隊員が、銃弾に倒れたとおぼしき同僚を必死に、蘇生しようとしている姿、人工呼吸を施すシーン、或いは、同僚に、もう、諦めろとばかりに、制止されている姿など、、、、、加害者が、いつの間にか、知らず知らずのうちに、被害者にも、変容して行く皮肉な姿、そして、それこそが、どちらの側にも、死ぬ者の側にとっては、勝利をもたらさない結果になること。一体、この「ベトナム戦争」というものは、何だったのか?民族自決、反帝・反米、民族解放闘争、自由主義対共産主義、中国・ロシアからの支援がなければ、経済的にも、ベトナムは、勝利し得なかったことも事実であろうし、又、アメリカにとっても、経済的な疲弊がその後の政治的・経済的な威信の低下を招いたことも事実だろうし、ベトナムにとっても、その第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争の戦死者の被害者数・費やされた戦費・投下された爆弾の量の比較表のパネルをみても分かるとおり、尋常な数値ではないことも事実であろう。明らかに、それは、勝ち得たものに対する代価は、人的にも物的にも、大きすぎるものがあったのではないだろうか?しかし、何を勝ち得、何を失ったのであろうか?友人が謂うところの「テト攻勢」も、一種の外交攻勢を有利に進め為のもので、政治的には、最終的に、ジョンソンを辞任させる決意に追い込んだことで、決死隊の命は、軍事的に、果たして、報われたのであろうか?父親が、今年88才になる父親で、ベトコンの元情報将校だったという友人の言は、皮肉にも、今、米国に移民した私の元運転手の言とは、まるで、幕末の長州・薩摩藩の人間と会津藩の人間との人生の明暗と同じようなものに感じられてならない。ベトナム戦争後、或いは、その後の統一戦争後に、旧南ベトナム政府軍関係者の居留地を、その命の代償として、或いは、戦功の証しとして、接収して、只同然で、分配され、今日、馬鹿高いインフレ下の地価の恩恵に恵まれている人々と、米国へ、移民せざるを得なかったボート・ピープルも含めて、そういう人々が、実際に、今日でもいるという現実、それは、もう、日本人には、いつのまにか、忘れ去られてしまった昔の話なのかも知れないし、戦争後の家の繁栄と没落を経験してきた日本人も、今や、戦後の長きに亘って、とうの昔に、忘れて終ったことなのかも知れない。むしろ、日本人は、そういう事実を一生懸命に、戦後の復興の中で、忘れ去ろうとしていたのかも知れない。何か、今日のベトナムをみていると、そういう矛盾とか、対立を、実は、分かってはいても、敢えて、問題にせずに、歴史のダイナニズムの中で、昇華させてしまおうと自分を納得させているかのようである。植民地主義からの解放とは、それ程までに、大きな価値なのかも知れない。なにもかも、その前では、大きな矛盾すら、呑み込まれてしまう者なのかも知れない。まるで、それは、反日・愛国・無罪にも連なる超法規的な価値観なのであるかも知れない。恐らく、幕末から明治期に抱えての日本人という者も、或いは、私達の両親の世代も、又、戦争を生き抜き、家族の柱を失ったなかで、必死に、復興に向けて、一日でも早く、過去の遅れを取り戻そうとして、必死に、生きてきたのではないだろうか?戦争博物館は、フランス人やアメリカ人が、自国のアイデンティティーを押し隠そうとするくらい、その問いかけを鋭く、迫るものがあるものの、ベトナム戦争加担者であった当時の日本人には、或いは、韓国の人間には、一体、どのように、感じられるのであろうか?わずか、数時間の滞在時間であったが、私を含めて、皆、観光客は、一様に、疲れたような表情で、重苦しい表情で、出口へと進んでいたように思えてならない。一緒に入ったベトナム人の友人は、丁度その当時に生まれた世代だから、鳥肌が立ったようで、嫌悪感が増したとも謂っていた。子供心に、当時のフラッシュ・バックでも起きたのであろうか?私達、日本人は、第二次世界大戦を、果たして、客観的に、戦争の惨禍を検証しうるそんな施設があるのであろうか?靖国神社の問題は、単なる歴史認識だけの問題ではないだろう。それにしても、ベトナム人の誇りにも似たような輝かしい素直な(?)民族自決を達成した喜びに比して、今日の日本人は、アジアの人達に対して、或いは、世界の人に向かって、どんな価値観を抱けるのであろうか?或いは、提示しうるのであろうか?重い足取りで、私は、杖をつきながら、戦争博物館を後にすることになる。次は、いよいよ、新築祝いの記念式典参加である。

PS) お手伝いさんが、何でもWiFiだと、ラインなどに、のめり込むので、家では、WiFiにしていないそうで、なかなか、面白い現実を目の辺りにする。



War Museum で考える:ベトナム訪問記その2

2014年01月15日 | 社会戯評
War Museum で考える:ベトナム訪問記その2
もう15年程、昔になるであろうか?当時は、まだ、ドイモイが始まったばかりで、タクシーも、ニャチャンの空港には無い時代、シクロの兄ちゃんが、片言の英語で、話しかけてきて、色々な所に、通訳兼ガイドとして、役立てていた時代の頃である。記憶も定かでないが、ホーチーミンと名前が変わったこのサイゴンの中心部に位置する建物は、何とはなしに、薄汚れた暗い雰囲気が漂い、訪れる外国人も少なかったような気がする。そして、何よりにも増して、想い出されるのが、枯れ葉剤で、体内で、奇形児として生まれてきた赤ん坊の標本が、無造作に、理科の実験室さながらに、ホルマリン漬けされた丸いガラスに納められて、ポツンと、置かれていたことである。毎月のように、タイ・ベトナムへ出張していたにも拘わらず、仕事だから仕方ないのであったのだけれども、改めて、15年ぶりに、訪れた戦争博物館は、随分と、昔のイメージと大きく、異なっているかのようである。むろん、屋外に展示されている戦闘機や、上陸用舟艇などは、相変わらず、かわらないものの、その訪れる外国人観光客の多さには、目を見張るものがある。とりわけ、アメリカ人、フランス人、等の欧米からの観光客、ブラジル国旗を掲げながら、スペイン語通訳を一生懸命に、聞き入る団体客、日本人を含めたアジアからの観光客、スカーフを巻いたモスリム圏からの観光客など、どの人も、どの団体も、声を潜めながら、重苦しい雰囲気の中で、展示されている資料に見入っている。それにしても、1階から3階まで、余すところなく、これでもか、これでもかと並べられた写真や現物の資料は、それでも尚、スペースが足りないといっているかの如くである。入り口の展示されている日本語でのベトナム反戦運動の資料は、何故か、私を、遠い昔ではなくて、若かった頃のまだ、とげとげしい青春時代の自分に、タイム・スリップさせてしまうかのようである。アメリカの大学生の反戦運動デモの写真には、地上に伏せって微動だにしない友人の横で、泣け叫び、抗議する女子学生の写真が、大きく展示されている。恐らく、タイムか何かに、掲載されている写真だったようにも、想い起こされるが、、、、、、。それらに見入るアメリカ人と思われる観光客は、まるで、必死に、米国国籍という今までは、自国にいるときには、誇りとしていたアイデンティティーを、必死に、覆い隠そうとするかの如く、振る舞っているようにさえ見える。それは、既に、2階から始まるこれからの戦争犯罪というものを、どのように、考えるかということを、観る側に鋭く問題提起し、自己の行動と責任に対して、容赦なく、問いかける序章に、過ぎないものだったのかも知れない。展示は、フランスに対するディエンビエンフーの抗仏戦争の闘いの写真から、反植民地、民族自決・反帝国主義・独立戦争から始まる。皮肉なことに、日本軍による南仏領インドシナへの写真は、何故か、写真の展示を省かれている(?)のは何故であろうか?それとも、私が、見逃してしまったのであろうか?それとも、ある種の政治的な意図を持ってして、ベトナム政府が、日本に対して、好意的に、第二次世界大戦時の民族解放運動での日本軍の役割を評価している証しなのであろうか?それは、少々、好意的すぎはしないかとも思われるが、後程、ベトナムの友人達に、尋ねてみることにしましょう。後述するように、全体的な構成が、反戦運動を高く評価していて、独自の軍事的な勝利とは別に、世界的な規模での、とりわけ、先進国でのベトナム反戦運動のうねり、ベトナム連帯と支援を高く評価している内容になっている。それは、全世界から、やってくる観光客にも、こうした有形・無形の支援と連帯を、まるで、感謝するようにも思えてならない。開高健や小田実らによるベ平連なども、思えば、ベトナムに平和と連帯を、、、、、という幅広い、党派を超えた緩い運動体から、生まれたものであったことを想い出す。我々の世代は、1967年の京大の山崎君の死を契機に、その前後から、一気に、反戦運動が、燃え広がったように感じられてならない。それは、60年安保の樺美智子さんの死を伴ったことにも、共通しているのかも知れない。後年、三島由紀夫との東大全共闘との討論会で、いみじくも露呈することになった、「行動と言葉」の狭間に、まだ、その頃は、戦後民主主義の中で育った当時の若い僕たちは、一途な正義感だけで、気が付いていなかったのかも知れない。(最期の最期まで、闘うぞ!というシュプレヒコールは、何だったのか?ゲバルトとは、名だったのか?)私は、どうしても、我々の世代を、日本だけでなく、もっと広く、アジア諸国、例えば、中国では、毛沢東・紅衛兵世代、(中国で生まれていたら、きっと、紅衛兵世代で、農村に下放されていたであろうし)ベトナムでは、ベトナム戦争世代、既に、兵役で、参加していた人、或いは、その頃に、生まれた世代、或いは、南ベトナム政府軍で闘い、その後、アメリカに、渡ったボート・ピープル世代、まさに、私の運転手の一人は、そうであるが、、、、或いは、北ベトナムから、統一後に、渡ってきた人とか、更には、韓国での同世代、ベトナム派遣軍に参加した当時の同世代、そして、フランスのカルチェ・ラタンでの学生による反戦運動、最期に、当時のアメリカで、反戦運動をしていた同世代、又、恵まれない環境下で、結局、派兵されていった一兵卒のアメリカ兵の同世代、こうしたグローバリズム下での運動として、重層的に、考えない限り、この歴史的な運動のうねりは、理解出来ないのではないだろうか、そんな気がしてなりません。
ちょっと、横道にそれてしまったので、こうした運動の分析は、別の機会に論じてみることにしつつ、2階から、3階へと、歩を進めてみましょう。
ビエンディエンフーの闘いの後は、あの忌まわしいベトナム戦争の犯罪の歴史を、これでもか、これでもかと云うほど、詳細に、写真と、そして、その破壊のビフォー・アフターを比較するパネルが、ずっと続きます。そして、更に歩を進めると、枯れ葉剤、所謂、エイジェント・オレンジの被害の凄まじさと悲惨さを見せつけるシャム双生児や、各種様々な奇形児の写真を見せつけられます。昔は、こんなに、多数の写真を公然と見せてはいなかったような気がするが、私の記憶違いだったのでしょうか?経済発展で、予算に余裕が出来たのでしょうか?その一角に、一寸、目を懲らさなければ分からぬように、下の方に、ホルマリン漬けの奇形児の標本が、何体か、隠れるように置かれています。何故、人目を憚るかのように、置かれていたのかは、分かりませんが、明らかに、それは、隠されるかの如くに、地上フロアー近くの目立たない高さに、隠されるように、展示されていました。流石に、アメリカ人観光客とおぼしき一団のとりわけ、若いアメリカ人達は、あたかも、自分たちが、アメリカ人であることを悟られないように、押し黙った、ジッと、目を懲らして、標本や写真に見入っていました。私は、南京虐殺戦争博物館を訪問したことはありませんが、このアメリカ人を通して、その日本人としての姿を容易に、想像出来ます。それ程、当時のモンサントなど、産軍複合体による化学兵器・毒ガス・枯れ葉剤などによる自然だけに止まらず、敵ばかりでなく、見方である若き海兵隊の除隊後での奇形児の発生などをみても明らかなように、甚大な影響を及ぼしたことは、明らかな歴史的な事実で、これらの求償の問題は、後で、ベトナムの友人から、聞いた話ですが、戦後賠償金の中で、一度は合意されたにも拘わらず、ベトナムのカンボジアへの進駐の制裁名目で、後に、履行されなかったことは、今日でも、米・越相互貿易協定の中で、いち早く、政治的な決断から、国交回復・復帰の交渉時に、特恵関税供与国として、真っ先に、認定されたことは、決して、無縁なことではないでしょう。それにしても、今日でも、この被害の影響は、余りに広範すぎて、そして、余りに、人の心に、傷を負わせるもので、只単に、化学兵器という類や範疇の問題ではなさそうです。通常兵器の展示の中でも、とりわけ、ナパーム弾による被害の展示は、恐らく、一瞬にして、周りの空気もろともに、硝煙地獄と化してしまうほど、まるで、ヒロシマの原爆資料館の焼け焦げた死体を思い起こさせるほど、ひどい、被害者のケロイドです。こんものを空から、何十発となく落とされて、逃げゆく道を一瞬にして焼かれたら、たまったものではありません。3.10の東京大空襲の時の焼夷弾にも勝るとも劣らない威力は、容易に、想像がつきます。更に歩を進めると同時に、いよいよ、忌まわしいソンミ村虐殺のコーナーになります。それらのコーナーの周辺には、日本人カメラマンの沢村氏や石川氏の撮影した写真や、遺品のカメラなどが、展示されており、装甲車の後ろに、まるで、戦利品でも持ち帰るように、殺害されたベトコン兵の遺体を引きずる写真や、戦死者の髑髏を頭に掲げた兵隊の写真、或いは、タイムやライフで、有名になった当時の何枚もの写真が、(街頭で、ベトコンの容疑者の頭を打ち抜く国家警察署長の写真等)展示されています。当時の現場から移設されたと思われる、遺体を投げ込んだ井戸の丸いコンクリートも、そこには、展示されていますし、虐殺された人々の名前や年齢・写真も遺品と同時に、飾られています。流石に、ここら辺まで来ると、アメリカ人観光客達も、押し黙るどころか、中には、ハンカチを目や鼻に押し当てている若い女性もいますし、白髪交じりの同世代の退役軍人と思われる連中も、非常に、複雑な思いで、押し黙ったまま、じっと、パネルに見入っています。戦争が、或いは、極限の恐怖が、若い兵士を駆り立てて、狂気のプラトーンの映画の世界に連れて行ってしまったかの如くに、しかしながら、それは、歴史上の紛れもない事実だったのかも知れません。被害者の側、そして、ここら辺りから、加害者の戦死者の写真も数多く展示されています。若い海兵隊員が、銃弾に倒れたとおぼしき同僚を必死に、蘇生しようとしている姿、人工呼吸を施すシーン、或いは、同僚に、もう、諦めろとばかりに、制止されている姿など、、、、、加害者が、いつの間にか、知らず知らずのうちに、被害者にも、変容して行く皮肉な姿、そして、それこそが、どちらの側にも、死ぬ者の側にとっては、勝利をもたらさない結果になること。一体、この「ベトナム戦争」というものは、何だったのか?民族自決、反帝・反米、民族解放闘争、自由主義対共産主義、中国・ロシアからの支援がなければ、経済的にも、ベトナムは、勝利し得なかったことも事実であろうし、又、アメリカにとっても、経済的な疲弊がその後の政治的・経済的な威信の低下を招いたことも事実だろうし、ベトナムにとっても、その第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争の戦死者の被害者数・費やされた戦費・投下された爆弾の量の比較表のパネルをみても分かるとおり、尋常な数値ではないことも事実であろう。明らかに、それは、勝ち得たものに対する代価は、人的にも物的にも、大きすぎるものがあったのではないだろうか?しかし、何を勝ち得、何を失ったのであろうか?友人が謂うところの「テト攻勢」も、一種の外交攻勢を有利に進め為のもので、政治的には、最終的に、ジョンソンを辞任させる決意に追い込んだことで、決死隊の命は、軍事的に、果たして、報われたのであろうか?父親が、今年88才になる父親で、ベトコンの元情報将校だったという友人の言は、皮肉にも、今、米国に移民した私の元運転手の言とは、まるで、幕末の長州・薩摩藩の人間と会津藩の人間との人生の明暗と同じようなものに感じられてならない。ベトナム戦争後、或いは、その後の統一戦争後に、旧南ベトナム政府軍関係者の居留地を、その命の代償として、或いは、戦功の証しとして、接収して、只同然で、分配され、今日、馬鹿高いインフレ下の地価の恩恵に恵まれている人々と、米国へ、移民せざるを得なかったボート・ピープルも含めて、そういう人々が、実際に、今日でもいるという現実、それは、もう、日本人には、いつのまにか、忘れ去られてしまった昔の話なのかも知れないし、戦争後の家の繁栄と没落を経験してきた日本人も、今や、戦後の長きに亘って、とうの昔に、忘れて終ったことなのかも知れない。むしろ、日本人は、そういう事実を一生懸命に、戦後の復興の中で、忘れ去ろうとしていたのかも知れない。何か、今日のベトナムをみていると、そういう矛盾とか、対立を、実は、分かってはいても、敢えて、問題にせずに、歴史のダイナニズムの中で、昇華させてしまおうと自分を納得させているかのようである。植民地主義からの解放とは、それ程までに、大きな価値なのかも知れない。なにもかも、その前では、大きな矛盾すら、呑み込まれてしまう者なのかも知れない。まるで、それは、反日・愛国・無罪にも連なる超法規的な価値観なのであるかも知れない。恐らく、幕末から明治期に抱えての日本人という者も、或いは、私達の両親の世代も、又、戦争を生き抜き、家族の柱を失ったなかで、必死に、復興に向けて、一日でも早く、過去の遅れを取り戻そうとして、必死に、生きてきたのではないだろうか?戦争博物館は、フランス人やアメリカ人が、自国のアイデンティティーを押し隠そうとするくらい、その問いかけを鋭く、迫るものがあるものの、ベトナム戦争加担者であった当時の日本人には、或いは、韓国の人間には、一体、どのように、感じられるのであろうか?わずか、数時間の滞在時間であったが、私を含めて、皆、観光客は、一様に、疲れたような表情で、重苦しい表情で、出口へと進んでいたように思えてならない。一緒に入ったベトナム人の友人は、丁度その当時に生まれた世代だから、鳥肌が立ったようで、嫌悪感が増したとも謂っていた。子供心に、当時のフラッシュ・バックでも起きたのであろうか?私達、日本人は、第二次世界大戦を、果たして、客観的に、戦争の惨禍を検証しうるそんな施設があるのであろうか?靖国神社の問題は、単なる歴史認識だけの問題ではないだろう。それにしても、ベトナム人の誇りにも似たような輝かしい素直な(?)民族自決を達成した喜びに比して、今日の日本人は、アジアの人達に対して、或いは、世界の人に向かって、どんな価値観を抱けるのであろうか?或いは、提示しうるのであろうか?重い足取りで、私は、杖をつきながら、戦争博物館を後にすることになる。次は、いよいよ、新築祝いの記念式典参加である。

PS) お手伝いさんが、何でもWiFiだと、ラインなどに、のめり込むので、家では、WiFiにしていないそうで、なかなか、面白い現実を目の辺りにする。



運び屋の任務完了す:ベトナム再訪その1

2014年01月12日 | 社会戯評
運び屋の任務完了す:ベトナム再訪その1
正月休みが過ぎているにも拘わらず、全席満席での成田からベトナム、HCMCへのフライトである。おまけに、成田空港の免税店でしか購入できないという生チョコを大量に、購入して持参してくれと言う謂わば、運び屋の役目も負わされた旅である。それにしても、ロイスの生チョコ、しかも、緑茶の限定版である。これを50箱とは、、、、、とにかく、現地で、入手困難なものは、お金の問題ではないと云うことであろう。代金は、現地で、精算するから、とにかく、買って持ってきてくれと、複数の友人に依頼されているとのことである。去年、来日したときも、帰国に際して、買って帰ったのであるから、おいしさは、保証付のものなのであろう。それにしても、化粧品とか、食品とか、お菓子とか、これらも含めて、海外の旅行者には、免税の特典と与えてあげなければ、観光立国が泣くというものである。何でも、店員の説明では、100箱も一人で、買っていた人もあるとかで、@650円・箱としても、大変な買い物である。日本人ばかりでなく、結構、ベトナム人が、飛行機に乗っているものである。10年以上も前には、考えられないくらいである。テト、旧正月を故国で、過ごそうという人が多いのだろうか?とにかく、日本のことを気に入ってしまって、今年も又、日本にやってきたいと云っているそうである。実に有難いことである。観光とは、一種の「草の根外交」でもあると信じるが、、、、、、、、。家族全体が、或いは、友人全体が、丸ごと、日本贔屓となり、それが、雪だるま式に膨れてくれれば、これ程、有難い強い味方はないであろう。逆を考えると恐ろしくもなるが、、、、、、、。そんなこんなで、空港到着後、とにかく、依頼されたすべての土産を早速、空港で、手渡し、まずは、ひと仕事完了である。当日は、市内の高層ビルの51階にあるレストランで、ホステスである旧い友人による当方夫婦との会食に招待される。それにしても、昔の市内の面影は、古い建物や、懐かしいホテルなど以外は、再開発で、瀟洒な高層ビルが、林立し、しかも、ライトアップで、きらびやかに、飾られ、サイゴン・リバー川岸も、全く、上から眺める限り、随分と、変わったものである。昔は、海底トンネルも建設途中で、そこここで、交通渋滞がひどかったし、その喧騒と埃には、随分と悩まされたものであるが、それが、今や、車とバイクのヘッド・ライトの流れが、静かに、51階のガラス越しに、整然と流れてゆく。ベトナム戦争当時は、この地上の交差点で、テト攻勢の時に、凄惨な市街戦が繰り返されたとは、信じがたいものがある。昔通った関係した会社の建物は、見事に、テナント・ビルに変容して、ネオンライトの光線を大空に向かって、幾筋も、放している。それすら、この高層ビルから見下ろしていると、今や、低層のビルになりはてているではないか、、、、、、。こんなに、十数年もの短い間に、急いで、どうするんだという思いがするものの、それは、日本人の独りよがりなのであろうか?富める者から、先に、富めばよいということに、違和感を感じないのは、それ程までに、過去、何十年と戦争に翻弄された民族にしか、分からない感慨なのかも知れない。何故、そんなに、急がなければならないのか?何故、そんに、急激な劇的な変容を急がなければならないのか?これが、私の抱いている最初の彼らに対する思いである。日本人の私ですら、そういう違和感がある。ましてや、私と同世代のベトナム戦争時に、若かった世代の人は、どのように感じているのであろうか?これは、又、別の同世代の友人にでも、尋ねてみようかとも思っているが、若い世代は、別に、違和感は多少は持つものの、むろん、富める者とそうでない者、或いは、格差に違和感を抱きつつも、それ以上に、自らの成功と能力と今、手にしている富の結果に、自信と満足感というものを抱いているようである。それ程、生まれたときが、ベトナム戦争下であったりした今のベトナムのアラフォー世代、或いは、ドイモイ開放政策後に、生まれてきた世代には、やはり、世代間格差が、すでに、そのスピード感という点では、あるように思えてならない。むろん、彼らは、政治的な開放度や、選挙・デモの制限、汚職や腐敗に対しては、疑問と反感を持っているものの、未だ、発展途上では、それらを打ち消してしまうほどの力のほうが、大きいのが現実のようである。矛盾を自覚しつつも、まだ、どうしたらよいかが分からないような状態であろうか?インターネットのWi-Fi度合いに、反比例するかのように、思えてならない。どこでも、誰もが、スマホやタブロイドで、忙しそうに、ご飯を食べているときも、仕事の連絡・指示を出している。現状では、未だに、発展途上では、矛盾を内包しつつも、それらの負のマイナスを補って余りある正のプラス面の方が優っているのではなかろうか、それ程、これまでのマイナスが、繁栄から取り残されてきた負の側面が大きすぎたことにもよるのかも知れない。そんなに、急いでどうするのかという私の疑念は、どうやら、日本人の恵まれたこれまでの事情か、或いは、戦争を経験した両親の世代に似ていて、私達のような第二次大戦後生まれの私達の世代の感慨とは、やや趣を異にするのかも知れない。繁栄を戦争のために、手にし得なかった親や祖父母の世代の分まで、自分たちが、何か、取り戻したい、急いで、できる限り、多くを手にしたいという感慨なのかも知れない。そして、それを、今度は、子供達への教育という投資に、廻し始めているようである。それは、台湾の人もそうであったが、まずは、日本で、日本語を勉強させ、技術を身につけさせ、その後、アメリカで、英語と商売を、最期に、台湾に、戻って、親の商売を継がせる長期的な構想の下で、海外留学させるというのと同じである。もう二カ国語を話せるなどと云うのは、これから、当たり前で、3カ国語を繰れなければ、駄目かも知れない。これからの日本の若い人達は、大変である。こうした人達と競争してゆかなければならないのであるから、、、、、、。日本人は、どうしたよいのであろうか?全く、考え込んでしまいますね!すごい勢いで、富んで行く人達と、その中で、取り残されて行く人達、そして、そのバランスが、その矛盾が、徐々に、顕在化して行くとみに、その先に、何が、待ち受けているのであろうか?彼らに、貴方たちが、この調子で、10年後に、なったときに、どのようになるのかと尋ねてみるものの、笑っているだけである。日本という国は、面白い国である。バブルも知っているし、バブルの破裂も、両方とも経験している世界でも希有の国であろう。その意味で、右肩上がりだけしか、知らないこの国の人達は、未だに、給料も、前年比、7%~10%アップの傾向であるらしいが、確かに、所得倍増ではないが、10年後には、どうなるのであろうか?又、カンボジアやラオスに進出して行くのであろうか?それが、資本主義の宿命であろうが、、、、、、、、。その時、ベトナムは、何処へ辿り着くのであろうか?そして、その時には、日本は、どうなっているのであろうか?そんな会話を交わしながら、眺める高層ビルからの眺めは、地上の現実的な矛盾とは、別次元での眺めであった。そして、明日は、そんな思いを抱きつつ、戦争博物館の10数年ぶりの再訪である。



映画「ハンナ・アーレント」に考える:

2014年01月08日 | 映画・テレビ批評
映画「ハンナ・アーレント」に考える:
洋画は、だいたい、イタリア映画とか、フランス映画を観たことがあるものの、あまり、ドイツ映画を観た記憶がない。ニュー・ジャーマン・シネマの女流監督であるマーガレット・フォン・トロッタ監督による、「ローザルクセンブルグ」以来の2012年東京国際映画祭でも、好評を博した映画である。もともと、友人のブログで、この映画の内容は、大変興味深思っていたものの、地方では観れる機会がほとんどないので、諦めていたところ、たまたま、年末年始の新聞を、東京で、読み返していたところ、新宿駅東南口の映画館で、上映していることを見つけて、早速行ってみることにした。何せ、いつも、シニア料金で、座席指定といっても、がら空きだからとたかをくくって午前の第一回上映時間間際に到着したところ、既に、満席寸前、6席しかありませんと、窓口で告げられ、最前列で、結局、満席の中、観る羽目になりました。流石東京ですね!全く、驚きました。しかも、公演後には、係の人が、大きな声で、700円の映画パンフレットは完売で、当分、品切れ状態で、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんと、、、、、景気が、この映画館では、上向いているのかな?!! (作品さえ宜しければ、多くの映画ファンが見に来ることは間違いないらしい。)想い起こせば、私が、子供の頃、確かに、強制収容所の元所長だったアイヒマンが、アルゼンチンで、拉致されて、イスラエルに送られて、裁判に掛けられる様子が、とりわけ、ガラス越しに、東京裁判の東条英機ならぬ大きなイヤホンを耳に当て、怯えたような小心者の中年の男が、被告席に座らされている新聞記事が想い出されました。(映画の中では、巧みに、当時の生中継の白黒フィルムを重ね合わせて製作されている)当時は、そんな論争が、NYを舞台にして、あったことなど知るよしもありませんでしたが、この女流監督が描いた、「ローザルクセンブルグ」(未だ、観てはいないが)は、その著作などで、既に、学生時代、その思想的な考察、或いは、ハイデッカー、「存在と時間」や、フッサールやヤスパースやマンハイムなどの著作には、何らかの形で、触れていたこと、又、ハンナ・アーレントの著作、「暴力について」等も、読んでいたことを思いだしました。それにしても、これらの哲学者とある種、同じ時代の空気を吸っていたことにも、改めて、驚かされます。皮肉なことに、アーレントは、奇しくも、アイヒマンと同じ1906年生まれであるとは、、、、、、。この映画の内容に関しては、既に、友人のブログや他の映画批評家にも、詳しく、書かれているので、割愛させて戴くことにして、ここでは、今日的な意味合いから、少し論じてみたいと思います。全体主義の起源の中で、論じられた人種主義と官僚主義の関係性は、この時代では、確かに、ナチズムやスターリニズムの解明という点では、確かに、大きな成果かも知れませんが、アーレントが、ひもといたものは、今日でも尚、コソボに於ける忌まわしい「民族浄化紛争」や、アフリカに於ける度重なる部族間での際限なき報復の繰り返しだったり、600万人にものぼる犠牲者を出しても未だ、「加害者と被害者」という単純な言葉では、語り尽くせぬような新しい進化形で、「戦争と革命は、暴力という公分母になっているという」彼女の言説も、残念乍ら、現在進行形であることも又、事実でありましょう。「責任と判断」、「悪の凡庸さ」、「思考の停止」は、思慮と想像力を欠く所に、思考停止と正義も不正義もないところに、悪が宿り、全体主義を受け容れるところの素地があるという説明は、戦後の今日でも、未だに、様々な矛盾として、そこここに地下マグマのように、噴出を待っているし、既に、一部は、吹き始めつつあるのが現状でありましょう。日本に於けるファシズムの研究では、これまで、様々な学者により、研究がなされてきているが、ナチズムとは、若干異なり、民衆レベルでの農本主義や、各地域での「光の家」運動など、土着の農本主義が、神道や天皇制・官僚制などとの中で、都市型のそれをある種凌駕するような形で、進行・増殖しつつ、これが、軍隊という一種の官僚主義の中で、全体主義化と底流で、結びついていったと言う説に、ある種、私は、同意するものである。その意味からすると、ミルグラム効果なる一種のアイヒマン実験に於ける、閉鎖的な極限状況や環境下で、絶対的な権威や権限に従う人間の心理的状況は、決して、特殊な戦争状況下だけではなく、つい最近でも、尼崎集団監禁致死事件や、それらに類する犯罪事件などでも、今日、既に、もっと、進化した形で、日常生活の中で、ハイブリッド化しているのではないだろうか?「未必の故意」、とか、「不作為」等という言葉にも、我々は、今日、もっともっと、敏感にならなければならないでしょう。アーレントは、政治哲学者としては、この裁判を通じて、ある種の「ユダヤ民族」という地平から、「人類共通の視点」へとその昇華に成功したかも知れないけれども、残念乍ら、同じシオニストというユダヤ民族同胞、或いは、その被害者を家族に持つ同胞からは、逆に、名声と思想的な足跡とは反比例して、許容されなかったのかも知れない。私には、それは、丁度、今日的なアジア諸国、とりわけ、韓国・中国からの「歴史認識」を迫られている今日の日本という国、或いは、日本人に、重ね合わされてならないように感じられる。当時のアイヒマン裁判が、奇しくも、露呈した如く、単純な加害と被害という構図ではなくて、植民地支配者が、被支配者に対して、狡猾に、その被支配者を手足の如く、組織化し、(ある時は、アメで、又、ある時には、暴力的に、恐怖と拘束とにより)合理的に管理された「ユダヤ評議会」のような組織で、(日本の植民地統治でも、同様な組織は、みられるが、)つまりは、被支配者側に、更なる二重構造を強いるというか、自主性を活用するというか、真摯に、自主的な己の判断をすることなく、職務に励む公務員の姿のようなものだろうか?それは、丁度、日本国内で抑圧された日本の軍隊の一兵卒が、戦場で、更なる抑圧者へと転化していったことにも通じよう。韓国・中国では、逆説的に、反日を鼓舞すればするほど、その自国内での協力者の存在が、浮かび上がり、その親族末代までも、責任追及をするのであろうか?そんなことをしていたら、朴大領の親爺さんなどは、どうなるのでしょうか?それとも、単純な被害者、それも、民族的な被害者=戦争の一方的な被害者という立場で、歴史を論じるのであろうか?中国にしても、ウィグル・チベット問題、汚職・太子党・裸官・環境問題など、どれをとっても、それどころの問題ではないであろうが、、、、、、、。私は、これらの動きに対して、ベトナムによる歴史認識の対応を、極めて、興味深く、注意深く、眺めている者であります。彼らは、あれ程の長きに亘って、フランス軍、(戦時中の日本軍も入るのであろうか?)、米軍による民族解放闘争を勝ち抜いてきたにも関わらず、政治的には、非植民地被害者意識を、改めて、表沙汰に、敢えてしない国策を、只単に、ベトナム人の政治的経済的なプラグマティズムとのみ、断定するのは、如何なものかと密かに、思っています。そこには、もっと、ファン・ボイ・チャウから、ホー・チー・ミンへと流れる何か、海外留学を経験した人間の思想的な背景が、あるのではないかとも想像しますが、そんな想いで、この映画を観た後で、明日から、暫く、旧い友人からの有難いベトナム招待旅行を愉しんできたいと考えています。日本人にとって、第二次世界大戦が、どのような立ち位置になっているのかというように、彼らにとっては、ベトナム戦争が、どのようなものであったのかを、酒でも飲みながら、じっくりと、聴いてみたいと思います。それは、又、後ほどのお楽しみとして、是非、この映画を観られることをお勧め致します。それにしても、銀幕越しに、漂ってくるたばこの煙には、むせてしまいそうで、マスクが必要ですよ。

新宿セテラ館HPとブログ、「海神日和」HP:
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2013-12-04