小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

干し柿作りにトライする:

2019年11月21日 | 男の手料理・食

=干し柿作りにトライする:

 もう随分前になってしまうが、渋柿を自己流に、網のネットに入れて、軒下に吊しておき、乾燥させていたところ、存外、うまく出来たものの、一部は、青カビが生えていたので、部分的に、カットして、食したことがあった。もっとも、写真は残っているものの、いつのことやら、とんと、想い出せない。全く困ったことである。

小諸での生活をしていると、間違いなく、渋柿と思われる柿の木は、どうも、放置されていて、誰もそれをとろうとはしない。せいぜいが、熟柿が鳥の餌にでもなるのが、関の山なのであろうか?それにしても、昔の人は、食料飢饉に備えて、栗の木や、杏や胡桃、それこそ、柿の木までも、冬場の保存食として、活用できるように、植えることを奨励されていたようである。今では、それこそ、飽食の時代で、渋柿などは、そっぽを向かれる典型的なものなのかもしれない。

何とも、今の時代は、便利になったモノである。料理を作るのも、レシピーを検索して、作り方を学べば、それなりの、プロの腕前ではないかもしれぬが、一応、自分や家族で食する分には、合格点の出来映えは、保証されていよう。そんなわけで、以前は、製造工程も、全く、勉強せずに、自己流でやってしまったので、カビを生やしてしまったが、今回は。YouTubeで検索して、色々な作り方を参照した上で、いざ、トライすることにした。

そして、日帰り温泉施設に、いつまでも、残っていた渋柿を横目に、いつでも手に入るなと、思い込んでいたところ、いざ、買おうとしたところ、何と、売り切れしまった。そこで、やむなく、知り合いに頼んで、畑にある渋柿をとって戴き、いよいよ、加工生産する事にした。柿の木からへた付きでとったものを、若干、はさみで、トリミングして、がくを綺麗に、丸く形を整えて、皮をむき、ひもに吊す場所に、等間隔で、マークして、目印として、一個一個をしっかりと結びつけてゆく。そして、前回の轍を踏まないように、熱湯につけた後で、消毒用に、アルコールを散布して、剥いた皮も、バイプロダクトとして、乾燥完成後には、ミルで粉にして、カレーの隠し味にするそうで、併せて、吊し柿とは別に、切り干し柿も試してみることにした。これをネットに入れて、吊すことにした。

それにしても、存外、夜なべ仕事で、囲炉裏のそばで、昔の人は、こんなことをやっていたのかもしれない。たかが、48個+程度だから、8個づつ、6本も吊せば、作業終了だが、確かに、干し柿とか、あんぽ柿とか、手間がかかるわけで、歩留まりも考えれば、手間暇時間もかかり、確かに、売値も高くなるモノである。自然の資源を有効活用して、しかも、頭の体操になることは、うれしい限りである。これに味をしめて、この次は、子どもの頃こたつで暖めておやつに食べた干し芋作りにも、或いはワイン葡萄の枝付き干しぶどうに「挑戦してみるとしようかな、どうなることやら。又、今日用事が出来た!(教養・教育につながる)

参考にしたYouTube:  https://www.youtube.com/watch?v=QfUPPxqQynQ 


うえだ城下町映画祭で、<万引き家族>を観る:

2019年11月19日 | 映画・テレビ批評

=うえだ城下町映画祭で、<万引き家族>を観る:

 たまたま、見損ねた映画を、上映するというので、コンビニでチケットを購入することにした。是枝裕和監督によるカンヌ映画祭の最高賞、バルム・ドール賞を受賞した作品である。<そして、父となる>でも、テーマとなった<家族の在り方>、とりわけ、血縁とは別の家族の関係性とは何かを、今日に於ける社会問題化している諸問題でもある、貧困格差、虐待、家庭内DVD、老人問題、貧困、子どもの保護、肉親の死体遺棄、年金不正受給、JK風俗アルバイト問題、等を、<万引き>という切り口から、犯罪に手を染めることでしか、生きられない<虚構の擬似家族?>を通して、曲者俳優と子役の素晴らしい演技で、描き出している。父役のリリー・フランキー、母役の安藤サクラ、姉役の松岡苿優、祖母役の樹木希林、駄菓子屋の親父役の柄本明、映画の前半では、この(擬似)家族の過去の関係性は、大凡では、理解しつつも、どのような<心の傷と闇>を持っていたのかという事が、推測は出来ても、確信には至らない。幾つかの台詞の中で、象徴的な言葉が、聞かれる。家庭内での幼女への虐待を疑われたことから、やむなく引き取ることを余儀なくされたことと失踪事件として報道されたことが、逆に仇となり、パート先からのレイ・オフの対象となり、やむなく、脅しにも似た状況中で、<しゃべったら、殺してやる!>と、吐き捨てる場面などは、成る程、後から、この意味合いが、理解出来ることになる。そして、この夫婦の過去の関係性というものも、後半になり、樹木希林の祖母役が突然、死亡してから、そして、駄菓子屋の親父から、<妹に、万引をやらせては、駄目だぞ!>と駄菓子をもらったことで、幼い妹を守ろうとする少年にも、実は、暗い出生の過去があったことも、パチンコ屋のシーンも、車上荒らしのシーンも、後から初めて理解される。この少年が演じる健気な勉学への意欲と未来への希望、本当の父母でもない(実際は犯罪者)である人間への<ある種の信頼感>とでも言えるような感情は、血のつながりがなくても、歳の差も関係ない<人間同士の信頼感>が、芽生えているようである。そして、それは、生めば母になってしまうという、世間の常識では、決して図りしれない非常識こそが、実は、真実なのかもしれないという事が、逆に、意味を持つことになるのかもしれない。それは、仮面夫婦でも、擬似家族であれ、現代社会に潜む、どこにでも陥りそうな<身近な罠>なのかもしれない。

この映画の役どころの人物像の名前も、実際、偽名で、どこからが本名で、どこまでが、偽名で、源氏名なのか?そして、<その理由と由来>とは?そこを考えるときに、この映画の<微妙に隠された社会的な背景>があるようにも思われる。それを語り始めるとある種のネタばらしにもなってしまうので、ここでは、詳細に触れることを敢えて、避けますが、この<本名と偽名の間>には、<監督の密かに仕込んだ日本社会の問題点>が垣間見られるようです。

 果たして、エンディングでのそれぞれの置かれた立場での登場人物は、一体、どうなってしまったのであろうか?象徴的に、長髪から短髪へと髪を切った少年は、心の決断を表しているように思えるし、捨てられるという家族からの裏切りにも、既に自覚と理解を有しており、しっかりと、未来に向かって、勉学にも励み、逆境にも打ち勝ちつつ、成長してゆくのではないかと確信する。しかし、未だ物心のつかない妹は、恐らく、元の家族の下に戻されて、どのような境遇に置かれるか、心配であるが、年齢差によるその時の環境への順応は、姉や兄の場合とは異なり、対応が出来ないであろうことは、十分、映画からも、想像に難くなく、制度的な救済がなければならないとも思われるし、実際、現実にも、そういうことは、あり得るであろう。そんな<エンディングでの示唆>だったのかもしれない。

ある時点から、少年は、ある種の<やましさ>に覚醒しつつ、祖母の死をきっかけに、脚を洗う機会を探していたのかもしれない、それが、妹の万引を庇おうとして、自らが逃走を試みるも、捕まり、これを契機にして、一挙に、<全てのこの家族の謎解き>が、始まるわけである。そのことは、ひょっとして、少年が、感動的に父や妹に話す、<スィミーの逸話>にも、通じるのであろうか?映画が進行推移するに従って、やがて、この少年の拾われてきた経緯が、徐々に解き明かされてくるのであるが、それが、皮肉にも、母との拘置所内での面会室のガラス越しで、本当の両親を探したいのであればとの母心から、車種やパチンコ屋の場所などの情報が初めて知らされることになるのも、何とも、切ないモノである。実際、パチンコ屋の駐車場の車内から、幼児が熱射病で死亡したとかというニュースを聞くと、本当に、車上荒らしの車の中で、幼児が拾われたであろうことすらも、逆に、犯罪的な幼児略取として、現行法では扱われることにも、結果的に、小さな命が救われたこと事実にも、疑問が出てくるのかもしれない。それは、同じように、高良健吾肯んじる男性刑事や池脇千鶴演じる女性警察官の発言に、如実に現れているようにも思われる。残念ながら、現実の世の中というものは、こういうものなのであろうことも、事実で有り、否定し得ない現実なのかもしれない。

そもそも、血縁以外に、家族としての紐帯というか、絆を作るものは、一体何が必要なのかと、考えさせられてしまう。現代では、同性愛者でも、カップルとして、養子縁組みや、子育てもし、又、不妊治療を諦めた夫婦が、里親制度での養子縁組を採用したりと、<家族の在り方>も、大きく変貌しつつあるのが現実である。一体、日本を含めて、世界は、どこへ向かってゆくのであろうか?夫婦という形も、結婚という形すらも、事実婚や、夫婦別姓ではないが、パートナーシップ制度や、既存の民法の範囲を超えながら、進み始めているのが現実なのかもしれない。

 今年で、うえだ城下町映画祭も、23回目になるそうであるが、腰の悪い年寄りには、<翔んで埼玉>も、応援上映を観たかったが、やむなく、会場を後にしたのは、残念であった。

上田映劇や犀の角などで、好評を博した映画などを幅広く、今後、再上映してもらいたいモノである。関係者の皆様、ご苦労様でした。来年も楽しみです!

https://www.umic.jp/eigasai/

 


英語 民間試験延期に考える:

2019年11月09日 | 社会戯評

英語 民間試験延期に考える:

 

どこかの国の文部科学省大臣が、身の丈に応じた試験対応を受験生に御願いしたいとかという発言をきっかけにしたせいなのか、どうかは、解らぬが、可哀想なのは、これまで実施想定を前提に、準備してきた受験生や関係者はたまったものではない。それにしても、英語という教科は、これまで、書くことや文法中心で、sを三人称単数の時には、つけなさいとか、耳からの発音や会話や、英語によるディベートなどは、確かに後回しになっていて、中学校から、大学卒業まで、10年ほどの長い間、学校教育を受けたところで、まともな英語での会話などは、到底達成できなかったということも確かに、事実であろう。

 自分自身の経験からしても、特別に、一部の親しい友人のように、高校時代からESSや英語検定資格試験などを受けていない限り、頭では解っていても、なかなか、会話が進まない歯がゆさは、社会に出てから、イヤという程、蹉跌を踏む思いで、そのギャップをおもい知らされると同時に、必死になって、そのハンディキャップを取り戻そうとばかりに、再勉強をしたモノである。所詮、受験勉強という前提であって、決して、英語という言語を使って、世界観を表現したり、哲学論、日本の文化を外国人達と語り合おうなどと言う<崇高な志>などは、なかったように思われる。尤も、今の時代のように。TOEICとか、TOEFLなどによる点数の評価が、課せられていたら、きっと、<受験勉強の一環>として、必死こいて、勉強しただろうが、そんなことよりも、激動の時代に生まれ、青春時代を過ごしてしまったことから、別の社会勉強の方にばかり、うつつを抜かしてしまい、<英語で国際感覚>を養うなどと言うことは、せいぜいが、小田実の<何でも観てやろう>を読んで、あのベ平連を作った男が、後日、フルブライト留学生だったことに、気がつく頃には、もはや、手遅れでありました。そんなこんなで、何も解らず仕舞いで、社会に放り出された挙げ句の果てに、悠々自適な本社総務部・人事部への志望とは裏腹に、海外営業部なる部署に、まっこと、英語も貿易も解らずじまいで、いきなり、天と地が逆転するような環境下に放り出されたことを今にして思うと、あぁ、もっと勉強しておけば良かったと後悔しても、全く、くその役にも立ちませんでした。

 有り難いことに、当時、会社では、社内英語試験にパスすると、A級が、月額5千円給与に加算されるという制度が、インセンティブで創設されていて、<ニンジンほしさ>に、高尚な志とは違って、<おカネ欲しさ>という極めて不純な動機のみで、一生懸命、ワンレッスン@5千円の外国人会話レッスン教室で、あっという間に、消えることになりました。今から考えると、オンライン・チャット会話とか、IT活用の英会話レッスンに比べると、随分、プリミティブな方策であったと愕然と致します。日々、<恥の掻き捨て>と<OJT>で、もともと、ツラの皮が厚かったのが幸いしてか、どうかは、解りませんが、課長に連れられ連れられしながら、様々な場面を踏みつつ、接待の酒で酩酊しながらも、帰宅後に、様々な<後付け復習>の成果でしょうか、入社後、5年もたてば、いっぱしの海外貿易マン風には、なり、30前後には、<食うための英語>というユダヤ人張りの人生訓を身につけるに至りました。まさか、後年、これらの延長線上で、独立事業を興し、海外貿易に、40年余携わり、<英語を武器に>生業になるとは、全く想像だにしていませんでした。

 引退後に、様々なボランティアに、携わる中で、外国人旅行者に接する度に、彼らが、<アニメや漫画、カラオケ、映画>等で、繰り返し、繰り返し、毎日、日本語の会話を学び、基礎的な知識を学んだ後で、文法などをきちんと、勉強し直して、徐々に、そのスキルを向上させてゆく課程を知るにつけ、一体、日本の英語教育は、どうなっているのかと、考え始めました。又、自分の会社で雇用した<帰国子女>の英語がうまい社員は、接待の時に、<寿司や醤油の歴史>をすしや天ぷらを食べているときに、説明してあげて下さいというと、それは出来ませんと、答えられ、唖然としましたが、その理由は、彼らは、そもそも、寿司や天ぷら、醤油の文化的な歴史を日本語で知らないという事で、英語で説明できないと言うことが、判明しました。

 何も、全員が、同時通訳者を目指すわけではない以上、中学生程度のボキャブラリーでも、十分、日常会話は愉しめるわけですし、何も、哲学論を闘わすわけではない以上、外国語教育というものは、何も、こうすれば、王道だというものはないのではなかろうかと、私は、感じます。とりわけ、仕事で、ベトナム語やタイ語や、スペイン語を現地で話さなければならないときに、私は、まず、わがままに、<私は○○したい>或いは、<○○下さい>という言葉を、真っ先に覚えることにしています。それは、<生きるために必要だから>です。そして、<ありがとう、感謝といりません!拒絶>です。この自分で作成した会話帳は、大いに役立ち、レストラン、タクシー、買い物で、大変役に立っています。

 文化論・歴史観・イデオロギー論などを論じる時には、やはり、しっかりとした<自国言語での確固たる論理>をしっかりと、有していないと、議論には、ならないでしょうね。これは、痛感しますし、それなりの英語スキルがある程度なければ、表現できませんね。これからの時代には、<読み・書き・聞く・述べる>これらを英語で、同時に、しかも、リアルタイムで、フェースタイムやビデオ・チャットで、相手の顔色を窺いながら、やっていかなければならない時代で、老い先短い私らと違い、これからの若い受験生達は、大変な時代であろうかと想像されます。小泉進次郎が、Sexy発言で、温室ガス削減をHowと外国記者から尋ねられて、言葉に詰まった如く、原稿を書いて、考察する時間的な猶予がない場面が、これからは、多くなり、真の実力が、或いは、当意即妙な柔軟な双方向での対応が、不可欠になる時代かもしれません。何も、<記述式の課題>は、英語だけでなく、国語や数学その他にも、波及していきそうであるし、そもそも、民間への丸投げの利権談合や<教育の機会均等問題>というものにも、飛び火しそうですが、、、、、。ここでは、問題が多すぎるので、後日取り上げましょう


映画、<楽園>の人間心理:

2019年11月04日 | 映画・テレビ批評
映画、<楽園>の人間心理:
 
  綾野剛演じる少女失踪事件の容疑者として、次第に追い詰められてゆく、過去の生い立ちに様々な事情を抱える孤独な、徐々に精神を病んでゆく青年、そして、不幸な惨劇を自らが犯してしまうことになる青年、杉咲花演じる、子どもの時に起きた失踪事件のその直前まで親友と一緒にいて、Y字路で別れ、そして事件後、<一人だけ生き残って>幸せになるということで心に傷を抱える少女、そして、再び、12年後に未解決のまま、同様な事件が起きる。自然に恵まれた環境の中、<限界集落>に於ける、村おこしを巡って村八分にされる何の罪もない中年の男役を演じる佐藤浩市、そして、その果ての謂われのなき惨劇といい、これらの主人公達を巡って、その周辺に関わる地域社会の人間達とその地域で暮らしてゆかざるを得ないそうした<人々の群衆心理>と誰でも良いから良いからという<魔女狩り>志向、そして、各個人のとってしまう行為とは、、、、、。<犯罪被害者とその家族の心持ち>、<あいつが、犯人だと言ってくれ!>と迫る、犯罪被害者家族である祖父役の柄本明、そして、加害者とおぼしき人物、加害者となるべくしてなってしまったその人物達の<心理的な葛藤と平然差の落差>と、徐々に、追い込まれてゆくその過程の様相とは、小さな地域、狭い共同体の中で、その一員として果たしていた人間が、いわれなき理由から、或いは、ふとした些細なきっかけから、疑心暗鬼となり、相互不信へと、徐々に、日常生活の中で、<分断、孤立化して行き、壊れてゆく過程>には、一体どこに、救いがあるのであろうか?助けは、どこにもないのであろうか?<共同体としての一員>としての<個という存在>と<地域共同体が体現する、有する無言の目に見えぬ圧力と強制的支配力>との狭間に揺れる姿、<自助努力と共助の両立>は、果たして、本当に可能なのであろうか?地域社会にその一員として、溶け込みながら、如何にして、<自己の個としての存在を共立>しうるのか?
  それにしても、現実の世界では、この映画に出てきそうな話が、いくつも、思い起こされるが、その度に、どうしたら、防げたのであろうかと、、、、、。ここ何本か、立て続けに、様々な映画を偶然、鑑賞したが、そのどれにも、共通するものは、<社会的な弱者へのセーフティ・ネットを担保するもの>は、最終的には、<家族が最期の砦>なのであろうか、それとも、<地域社会による共助>なのだろうか、それとも、<自己責任をベースとした自助努力>をよりどころにした、カネがものをいうものだろうか?聞くところでは、今や中国には、一人っ子政策による弊害として、唯一の子どもに、先立たれた両親が、今日、老齢を迎えるに当たって、誰が、互いの家族の生活や介護を担ってくれるのかという問題が、大きな社会問題になりつつあると謂われているが、日本でも、少子化や結婚年齢の高齢化問題やお一人様問題、孤独死、等を含めると、どういう方向性に向かってゆくのであろうか?考えさせられてしまう。
役者というものは、綾野剛にしても、風貌も含めて、難しいこうした役柄、中国難民認定親子の言葉の問題と地域社会へ溶け込めない事から生じる精神的な葛藤と精神を病んでゆく過程の表現、とりわけ、ライターで火をつけるに至る形相など、これは、映画、閉鎖病棟:それぞれの朝でも彼が演じて見せた役者の技量には、おおいに、今後を期待しても宜しいのではないかと感じてしまう。併せて、杉咲花も、難しい役柄を、若い女性へと変貌してゆく過程を演じきっていて、これからが愉しみになる。又、犯罪被害者家族の心情と本音をストレートな形で、表現した柄本明も、十分存在感があったと思う。佐藤浩市の演技は、私には、もっと、惨劇に至るまでの心理的な課程、過去からの時間的・心理的な葛藤、私には、個人的に、愛犬を家族同然に飼っていた経験からも、色々な意味からも、解らぬ事はなく、逆に、最期の惨劇を決断する状況の表現が、もう少し欲しかったかなぁとも思う。
  映画のシーンというのは、その場その場で、観ていると、<サラッと流してしまう>が、冒頭の二人でクローバーの花飾りを作る(象徴的な)シーンでも、<あの場面がどういう意味を有するものなのか>と言うことは、最期の方で、理解されることになる。又、シェパードの存在も、成る程、そういうことだったのかと言うことも、改めて、後から、納得される。映画というものは、小説もそうかもしれないが、各シーン・各カットを個々に分解して、その中で、<ある種のパズルの謎解き>のように、再構成してゆく手法は、映画を観る観客と創る側との<知的心理的な戦い>なのかもしれない。その意味で、年寄りには、知的、刺激的で、やみつきになりそうで、だから、映画鑑賞は面白いし、なかなか、やめられないモノである。

映画、<閉鎖病棟―それぞれの朝>:

2019年11月02日 | 映画・テレビ批評

ここのところ、やけに映画評論が続いているが、年寄りには、頭の体操でもあり、ぼけ防止、監督や役者との知恵比べと謂ったところだろうか?この映画の印象を述べる前に、<楽園>の中で、主演の一人を好演した綾野剛の演技が、なかなか、興味深かったので、この作品の中でも、ある種共通する彼の演技力に、これからの作品でも、期待したモノである。現代的な問題として、<自殺>、<精神疾患>、<薬物中毒>、<性犯罪>、<性的DV・虐待>、<老々介護>、<死刑制度>、そして、<家族>、この映画の3人の主人公達が、抱える問題は、全て、こうした現代的な、今日的な問題が、独立行政法人国立病院機構が運営する精神科の専門医療施設・小諸高原病院の協力の下に、しっかりと描かれている。元サラリーマンで幻聴に悩まされ、妹夫婦から阻害され精神病院へ隔離されてしまう役の綾野剛、妻の不倫現場を目撃してとっさに、相手もろとも殺戮し、更に、残される老母を切なく思いつつ、手にかけてしまう死刑囚で、奇跡的に、執行時に、生還して、脊椎損傷により、精神病院をたらい回しにされる元死刑囚の役の笑福亭鶴瓶、そして、母の再婚相手から性的DVを受けて自殺を図る、女子高校生役の小松菜奈、更に、この精神病棟の様々な患者の様々なそれぞれの人生模様とその病歴、孤独死、そして、そんな中でも必死に生きようとする患者の生活の中で、日常を一変させてしまうある事件をきっかけに、新たな殺人事件が、不幸にも、起こるべくして、起きてしまう。そして、法廷での展開へと移ってゆく。(ネタバレしない程度にして、是非映画を観て下さい。)
 それにつけても、人は、一度、不幸に堕ち始めると、とことん、蟻地獄の穴にはまってしまったかのように、奈落の底へ、堕ちてゆくモノである。健康な精神は、健康な身体に宿ると謂われているが、本当に、一度、歯車が狂うと、万事がうまく行かなくなるモノである。
家族の中ですら、その<自分の居場所>、社会の中でも、むろん<自分の居場所>、それが、身体的苦痛や病気や、何かのきっかけで、バランスを崩してしまうと、いとも簡単に、<社会的な弱者へと転落>してゆくものなであろうか?社会的な弱者を救済するのは、果たして、<家族のみ>なのであろうか?他には、この社会には、そうした<社会的なセイフティー・ネット制度>みたいな、そんなものはないのであろうか?<JOKER>の中にも出てくるソーシャル・ワーカーの虚しさも解らなくはないが、それでも、最期のシーンで、退院することになった綾野剛に、<ゆっくりゆっくりでいいよ!それでも駄目だったら、戻ってくればいいよ!>という小林聡美演じる看護婦長の言葉で、やっと初めて<唯一救済され>そうである。誰が、<再び立ち上がる>のを助けてくれるのだろうか?刑務所の運動場で、車椅子から、必死の思いで、自分の脚で、一生懸命、<立ち上がろう>とするシーンは、<再び、残りの人生を生きてゆこうとする証し>であり、新たな決断と意思なのであろう。きっと、この3人の主人公は、しっかりと、それぞれの場所で、それぞれの居場所を見つけて、それぞれの朝を迎えて、きっと生きてゆくことを選んだのであろう。 原作は、精神科医の箒木蓬生による同名の著作である。
それにしても、<楽園>での綾野剛が演じた精神を病んだ人間の演技と、この映画での役柄といい、なかなか、若手ながら、良い演技ではないだろうか、又、小松菜名も、やや、エキセントリックな役柄にもかかわらず、思い切った役への挑戦という意味では、将来が楽しみでもあり、又、<楽園>での杉咲花も、楽しみである。見終わってから、上田城映画祭で、今年前半に見損なってしまった<万引き家族>が上映されることを知ったので、今度は、こちらも愉しみである。それにしても、80台とおぼしき老夫婦が、連れだって、次は、何を観るベと、相談している姿は、なかなか、都会では、見られない光景で、この人達には、パチンコ屋は、きっと、不必要であろうし、居場所が見つからないようには、到底思えない。羨ましい限りである。





映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

2019年11月01日 | 映画・テレビ批評

映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

 美術館での絵画の鑑賞には、私は、いつも解説のイヤホンを余程のことがない限り、借りることなく、ますは、自分の感性を信じて、自分なりの想像の中で、画家と対話することにしている。ここのところ、幾つかの映画を観ることになったが、映画の場合には、DVDでも、再度、シーンをじっくりと、見直すことも可能であるから、実に面白い。その意味では、この<JOKER - put on a happy face>という映画も、じっくりと、それぞれのシーンやカットに、込められた脚本家・監督・役者・カメラマン達の<挑戦的な問いかけ>が、解らずに、見逃してしまいそうである。風聞するところでは、主役のホアキン・フェニックスが、お気に入りのシーンですら、監督に、バサリと削除カットされてしまったとか、それならば、完全ノーカット版というのが、仮にあるとすれば、それはどんなモノなのか、一体何故、どうして、こうなったのか、、、、そして、この映画の続編は製作されるのであろうか?期待したい作品である。一体、<どこからどこまでが事実>であり、<どこから先が、妄想>なのか?今風に言えば、<FACTとは何で、FAKEはどこまで>?といったところであろうか、果たして、アーサーという主人公が、ジョーカーという人物なのであろうか?一般的には、ジョーカー誕生までのストーリーであり、それでは、富豪の両親を射殺されてしまうブルース・ウェインという子どもが、結局長じて、バットマンになるのか?別に、私は、バットマンの映画をシリーズで観ているわけではないから、細かな人物の設定まで、コミックスを読んでもいないから、知識はないが、ある程度は、推測可能なのかもしれない。唯、事は、そう簡単には、この映画の脚本家も監督も役者もカメラマンも、卸してくれそうもない。そもそも、様々なシーンに、どこかの映画で観たようなシーンや、雰囲気が、<謎めいたパズル>のように、意図的に、ちりばめられているように感じてならない。

例えば、<笑いとダンス>のシーンが、様々な場面で垣間見られる。元来、笑いというものは、人間だけが有するもので、類人猿でも、仲間内でも、敵意がないことを示す顔つきはしても、心からの笑いというものはなく、ましてや、文化としてのコメディーやコントや落語、などは、あり得ないわけで、もっとも、その根源には、対比としての<悲しみ・悲劇>があることも忘れてはならない。その意味では、アーサーが、奇しくも言うように、<人生の悲劇は喜劇>にもなることに繋がっているのかもしれない。そして、役者としてのホアキン・フェニックスの真骨頂は、その<笑いとダンス>のシーンに、数々の場面で、遺憾なく発揮されているように思われる。まるで、コンテンポラリー・パーフォーマーが、即興で踊るように、その高揚感と悲しみを、このダンスの場面で、<心の高揚感・充足度>として、まるで表現しているようで、その変化は、微妙に、アーサーというコメディアンを目指していたピエロが、徐々に、ジョーカーへと変貌してゆく過程でもあろう。年老いた母との二人でのダンス、地下鉄階段での様々なシーンでのダンス、トイレの鏡に映し出された自分の分身である姿を見ながらのダンス、他、明らかに、そこには、<ある種のメッセージ性>が隠されていると思われる。重い足取り、軽いステップ、歩き方にも、細かい心境の変化がちりばめられているように感じられてならない。明らかに、映画を観ている観客への挑戦であろう。

目だけ、或いは、表面面の顔だけが笑っていても、心の底からは、決して、笑っていない、笑えない心境を、表現している演技なのだろう、脳の障害の為に予期せぬ時に、笑ってしまう病気なので、お許し下さい、というメッセージを準備して、バスの中で黒人の子どもの母親から、構わないで下さいと言われるシーンでも、第一の殺人を犯すきっかけとなる地下鉄車両の中でのピエロの衣装をまとったままでの突然の笑いも、様々なシーンでの笑いが、観られる。

この映画は、どこまでが、事実で、或いは、妄想であるか、解らないと評したが、それを判断するのは、観る側の想像力で大きく評価が分かれるところであるが、今日的な病巣である、厳然たるFACT(事実)であるところの<精神疾患>、<出自の秘密>、<幼少期でのネグレクト・DV・体罰>、<シングル・マザー>、<貧困格差>、<1%の富裕層>、<ソーシャル・ワーカー>、<暴動・暴力・殺人・治安>等の問題が、更には、<テレビのショー番組>という<エスタブリッシュメント>が、ゴッサムという都市の中で、描かれている。

出自・出生の秘密に絶望し、隣人女性に拒絶され、職場を解雇・失職され、自分の居場所を喪失してゆく、そして、福祉予算支援も削られ ソーシャル・ワーカーによる相談も廃止の憂き目に遭うこととなり、自分の尊厳と存在そのものも、喪失してゆく。そんな折に、偶然、ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンという人気司会者のショーに、出演するきっかけを掴むが、、、、、、。既に、そこに至る過程で、自身の人生は悲劇だ!これが、今や、喜劇と化す、一大ライブ・ショーを自らが、演じることになる。そして、それは、<我々はピエロだ!存在そのものも>、、、、、、というあたかも、<we are not 1%>或いは、ウォール・ストリートを占拠せよというムーブメントに呼応するかのように、<暴動・略奪・殺人>が、デモと共に、起こる。ここから先は、ネタばれにもなってしまうので、是非、映画を観てもらいたいものである。

私は、バットマンやジョーカーの俳優に関して、全くの門外漢であるが、(カッコーの巣の上で)のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーの役を、今回のホアキン・フェニックスは、十分、凌駕するにたる演技ではないだろうか、R+15という映画だから、ある程度の殺人場面は、やむを得ぬが、これらも、今日的な意味合いからすれば、FACTなのであろうから、やむを得ないのかもしれない。こびと症の同僚を、唯一、良くしてくれたのは、君だけだったからという理由から、解放したり、幾つかの<心理的な葛藤>が、その演技の中に、垣間見られる。

最期のラストシーンは、どのように、解釈したら良いのであろうか?

連行されるパトカーの中から、暴徒達に、助け出されて、カリスマ的な悪の犯罪リーダーとしてのジョーカーの誕生に、この当人が至ることになるのか、それとも、それは、単なる妄想の中で、アーカム州立病院の精神科の中に幽閉されてしまう精神病患者の連続殺人犯が現実なのか、一体、どちらなのか、どう解釈したら良いのであろうか?仮に、ジョーカーなる人物は、アーサーではなくて、<アーサーが作り出した仮面のジョーカーの哲学>に、共鳴した別の人物が、トーマス・ウェイン夫妻を殺害して、その子どもである、ブルース・ウェインが、後のバットマンに、なるのであろうか?そうなると、バットマンの執事は、誰なのであろうか?(それはどうでも良いかな)

 追伸):映画で、いつも楽しみなのは、音楽である。門外漢の私でも、チャップリンの映画、モダンタイムスの中で使われているスマイルの曲は、<どんな辛いときにも、スマイルすれば、乗り越えられる>、というメッセージは、母親から言われた、<どんなときも笑顔で、、、、、>も、まるで、皮肉にも受け取れてしまう。スローテンポの映画内の甘いメロディーは、まるで、<懐かしいよき時代のアメリカ>と大きな対比なのであろうか?字幕の歌詞も、意味深長なものである。想像力がかき立てられ、<現実のギャップ>として、浮き出てこよう。