小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

HALスーツの世界安全認証を取得のニュースに注目する:

2013年02月28日 | 健康 医療
HALスーツの世界安全認証を取得のニュースに注目する:
HAL(Hybrid Assistive Limb) 所謂、パワード・スーツと呼ばれる筑波大学を拠点として、開発された生体電子信号を読み取りながら動作する装着型ロボットで、本来は、身体障害者や高齢者の運動能力の補助を目指しているらしいが、広く、将来は、労働用のロボットにも、応用が利くようになるとも謂われている。もっとも、ガンダムではないが、軍事用に、まるで、漫画の世界のように、兵士の能力を拡張することも、既に、実用研究されているとも謂われている。そんな中、世界に先駆けて、世界的安全認証を取得したことは、画期的なことではないだろうか?IPS細胞もさることながら、日本のロボット開発が、将来の介護補助や、身体障害者の機能補助におおいに役立ち、更には、3Kと言われた辛い肉体労働の補助にも、このHALスーツを装着すれば、5倍程の重いものも、難なく、担げたり、運んだり出来るようになれば、それは、生産性向上だけでなく、安い賃金に、頼らざるを得なかった農業の収穫作業や土木作業などへの汎用性が、おおきく、道が拓けるのではないだろうか?実際、農業の高齢化に伴い、重い・大きい・かさばることは、嫌われ、軽い・小さい・コンパクトへと、農作物自体が、変化しつつある。又、こうした技術開発が、新たな産業のニーズを掘り起こし、介護や福祉分野での肉体的な負担の軽減に、具体的に、繋がって行けば、それはそれで、一つの成長産業としても、注目されて然るべきものではないだろうか?或いは、これを、民生用市場の中で、輸出したり、ITソフトウェアーも含めて、日本が得意とするところのきめ細かなサービス用途の開拓が出来れば、輸出も多いに、競争力が出てくるのではないかとも思われるが、、、、、、。リースやら、それこそ、地方政府や国の補助金でも、具体的に、使って貰い、改良に改良を重ねてゆけば、面白い。もっとも、近い将来、官民一体となって、普及を促す体制を、今から、整えて行かなければ、又ぞろ、IC産業や携帯電話、太陽電池の二の舞を演じることになろうが、それも心配である。日本の得意分野である小型モーター、電池、半導体、ソフトウェアー、或いは、小型化、きめ細かいニーズの掘り起こし等、今後に成長が期待でき、且つ、注目に価する明るいニュースではないだろうか?
関連HP:
http://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_100179.html




街の変容に気付かされる:

2013年02月27日 | 社会戯評
街の変容に気付かされる:
東京の家に、住んで既に、60余年も、経過した。小諸の家でも、既に、四半世紀が経過したものである。都会も田舎の里山も、均しく、時間というものは、容赦なく、街を変容させて行く。都会では、既に、少子高齢化の波が、ヒシヒシと浸た寄せてくるのが、実感されてならない。もう、お隣も、斜め向かいも、一戸建ての家が、知らぬ間に、売りに出されている。もっとも、高すぎて、このご時世では、売れないのであろうか?我が老犬の散歩をしながら、周辺の散歩道を歩いていても、既に、人の住んでいない空き家や、売り家が、目立ち始めている。今から、約15年程前であったであろうか?お向かいの大きなお屋敷が、老夫婦が、亡くなられてから、あっという間に、その敷地が、4分割されて、建て売り住宅が、建ってしまった。このお向かいさんは、私の両親が移り住み始め以前から、いらっしゃったお家で、ご近所でも、古い家で、我が老犬は、若い頃、お向かいの勝手口まで、頼まれもしないのに、門番を買って出て、番犬さながらに、活躍してくれたものである。とにかく、一旦、家が売りに出されると、不動産業者が、小さく、切り売りし、販売しやすい価格帯に下げて、売り始めるので、ますます、敷地が、細分化され、樹木は、根こそぎ、無くなってしまう。マンションにでもなろうものならば、途端に、日陰になり、急に、ビル風が、突風のごとく、荒れ狂うことになる。そして、時間と共に、例外なく、年寄りの住む街となり、独居老人の街になろう。既に、その兆候は、周辺の家々を見回して、例外ではない。この地域は、景観条例の恩恵(?)で、3階建ては、近隣の許可条件になっているので、マンションも高層化できにくいが、その分、空き家と独居老人の家が、増加することになる。長男長女の時代だから、家には、困らないのであろうが、一体、今後の街作りは、どうなるのであろうかと、放火騒ぎの記事などを見るたびに、不安にもなろう。以前、小諸の里山で、朝、散歩していると、必ず、決まった時間に、一台の車に出会うことがあったが、何と、デイ・ケア・センターの名前が、大きく、出ており、それ自体には、驚くことはなかったが、その下に名前が、○○託児所・託老所と二つ併記されていたことには、改めて、少子高齢化の時代であることを実感させられたものである。もう、既に、そういう時代なのかも知れない。こちらも、そろそろ、お仲間入りの準備でもすることにしようか?それとも、未だ、早いかな?どんなものであろうか?




BS歴史館、「2.26事件」を中国人民解放軍と考える:

2013年02月26日 | 映画・テレビ批評
BS歴史館、「2.26事件」を中国人民解放軍と考える:
学生時代には、随分と、色々、軍国主義に陥る発端となったこの事件に関する北一輝の関連書物や、松本健一等の著作を、読んだものであるが、裁判記録の内容を精査する最新の研究などによると、青年将校側には、必ずしも、一枚岩ではなかったこと、又、満州へ、派遣される前に、蹶起する必要が一部の青年将校の中には、そういう事情があった事実、或いは、テロから、合法主義への転換点などの事実、なかなか、興味深いものがある。「改造主義者」と「天皇主義者」、(耽美主義者といってしまうと、三島由紀夫には、叱られてしまいそうであるが、、、、、)そういう皇道派青年将校内部でのイデオロギー(?)対立というか、もっとも、天皇主義派は、どちらかというと、陽明学ではないが、その思い立った抑えることの出来ない心の赴くままに即行動するという心情こそが、より大事であるから、蹶起後のグランド・デザイン的図面は、どうでも良かったのであろうか、そうなると、イデオロギーとはいうものの、どちらかというと文学青年肌の心情的青年将校達と改造主義派との混成部隊であったとも云えなくもない。この番組の中で、中でも、大変興味深かったのは、結果として、明治期・大正期の経験を積んだ老獪な老軍人達が、これをきっかけに、老害という形で、「合法的」に、(引退・退官と言う形で)駆逐され始め、実務官僚、法的にも、経理的にも、数字に、実務にも精通した「中堅実務官僚」が、実権を掌握して行く過程であろう。それは、昭和天皇による明治帝国憲法への「民主的(?)な尊重」という皮肉な足枷により、(朕の大切な股肱の重臣を殺害せし者達への怒りという皮肉な断罪結果の反省から)一人一殺や組織的なテロによるのではなく、飽くまでも、合法的な総合的な方策、即ち、軍部のみならず、財政、外交、内務、各省を横断的に、影響協力を有する「現場の中堅実務革新官僚達」が、とりわけ、後の石原莞爾らの所謂、満州国建国に関わる「革新官僚の登場」へ、道を拓きつつ、その延長線上で、皮肉にも、必ずしもイデオロギー上、意にそぐわない統制派、東条英機等の登場へと繋がると、どうも、ファシズム研究では、これまで、日本浪漫派では無いが、イデオロギーというよりは、文化的な系譜の延長線上で、論じられることが多くて、(橋川文三等)、或いは、橘孝三郎らの農本主義との結合や、家の光運動とも結合して、下から、支えていたような分析があるものの、(それはそれで、むろん、歴史的な分析で、価値あるとは信じるが)中堅実務官僚、革新官僚の研究は、今日、どんなものなのであろうか?2.26事件が、仮に、青年将校らが、成功していたらと云う仮定よりも、むしろ、逆に、もし、起きていなかったら、どうなっていただろうかと言う方が、何とも、より興味が沸くではないか。それとも、やはり、強固な官僚組織の中から、テクノクラート中心の軍・官・産・学協同体組織が、歴史的必然として、結局、生まれてきたのであろうか?同じ官僚でありながらも、戦後の吉田茂と広田剛毅との処遇の違いは、単に、前者が、軍部に、睨まれてしまって、左遷されたことが、彼を戦後、宰相の座に押し上げ、逆に、後者が、占領軍から、死刑宣告された一因にもなったのだろうか。いずれにせよ、「実務官僚組織としての日本軍」の内部の分析、とりわけ、「革新実務中堅官僚の研究」という視点も、大変興味あるし、今日的に見ても、それは、例えば、中国でも、「太子党」や「共青同出身らのグループ」と各地域グループなどの派閥や、「官僚組織としての人民解放軍の研究」は、誰か、日本人の学者の中で、専門に行なっている人物がいるのであろうか?それとも、アメリカの学者の方が、詳しいのであろうか?2.26事件から、敷衍して、そんなことも考えてしまった。同じことは、北朝鮮にも、云えるのであろうか?現に、一大官僚組織としての軍の存在は、党組織としての中核である党や共靑同とは別に、国の中で、どのような内実的な役割を担っているのか、中国も北朝鮮も、実際には、どうなのであろうかと、この番組を観ながら、ふと、思い立った。そういう軍内部のイデオロギー分析のような研究は、一体、日本の学者の中で、或いは、防衛省の内部で、専門に、行われているのであろうか?奇しくも、2.26事件は、1936年の今日、この日である。



書とアートについて考える:

2013年02月25日 | 社会戯評
書とアートについて考える:
所謂、書聖、王羲之の書展を見に行こうと思ったが、広い会場を、じっくり書を愉しみながら、歩き回るのは、どうもまだ、自信が持てないので、結局、テレビでの番組を通して視ることにした。「字は、体を表す」とは良く言ったもので、自分の書く字は、何とも、ミミズが這ったような文字で、所謂、悪筆である。従って、ワープロなるものが、発明された時には、心の中で、快哉と叫んだものである。むろん、「字を書く」と云うことと「書を眺めて愉しむ」ことは、必ずしも、自分の中で、一致したモノでは決してない、むしろ、別ものの観がある。「書を眺めて愉しむ」ことは、謂わば、「アートの立場」とも云えなくはないが、自分のイメージの中では、やや、「絵画を鑑賞する」のに、近いものがある。そこには、「書の書き手との対話」と云おうか、心の中での闘いと云おうか、白い紙の上に書かれた墨汁の黒い字との創造の格闘の有様をそこに、見いだすようなものである。「臨書」というのは、その手本となる名筆の書を、ひたすら、書き写しながら、学ぶと云われている。とりわけ、筆の運び、勢い、緩急、字の形、描き始め、途中の筆使い、跳ね方、終わりの〆の仕方、そして、字と字の間の時間的な「間の取り方」も含めて、墨汁の滲み方や、等…、何やら、ここまで来ると、「伊藤若冲」のような絵画的芸術の「技法の極み」に、近づきそうである。そんな作者の「息遣い」までも、感じられるようになるそうである。どうも、鉛筆舐め舐めして、字を書いていた私などには、写経も含めて、こうした深遠な哲学的な境地になると、なかなか、未だに、満足に、観賞することが出来ないものである。それにしても、最近の音楽に合わせて、書道をパフォーマンスとして、行ったり、ダンスに合わせて、書き上げたりと、「書道をアートやパフォーマンスの観点」から、愉しむことも、決して、悪いことではなさそうである。王羲之は、現代のこの流れを、一体どう思うであろうか?以前、何かの展覧会で、「アラビア文字」を、右から左に、書いた書体を、むろん、その文字の意味は、分からなかったが、その字の跳ね上がり方、流れ方、止め方、等、まるで、「漢字」と同じような「美しさ」が、そこにはあったことを想い出す。最近では、ダンスをする踊り手のことをダンサーとは、呼ばずに、「パフォーマー」と呼ぶそうで、何を演じ、何を成し遂げようとするのであろうか?そして、書道でも、華道でも、茶道でも、或いは、書壇、家元、何でも、ある種、「道」・「壇」・「元」という字がつくようになってしまうと、一体、それは、どう違ってしまったのであろうか、それとも、矛盾することがないのか?そんな折りに、NHK大河ドラマの題字、「風林火山」を書した書家、柿沼康二氏が、面白いことを言っている。「臨書であっても、同じものを書くことは不可能である。実は、毎回、創造していて、突き詰めて行くと、最終的に、個性になる。、、、、(略)、、、、呼吸でいうと、吸う行為にあたり、きちんと吸わないと、制作という形で、吐き出すことは出来ない。」と、文字の形を超えて、アートとしての書に挑もうとしていると、今後、どんな書を世に、送り出しくれるのであろうか?とりわけ、「一」という字には、興味をそそられる。書聖、王羲之の描いた「一」と何処が、違うのであろうか?残念乍ら、私は、この文章も、パソコン・フォントである。確かに、「一」と言う文字を、よくよく、眺めると、成る程、何とも、素っ気のない、味気ない、文字である。最後に、同氏によれば、「空書」というものがあって、指で、ひたすら、空中に字を書くものであるそうである。何やら、エアー・ギターみたいなもので、これなら、心の中で、創造力を駆使して、あたかも、書聖にでもなったかの如く、おおいなる錯覚をもって、やり直しの効かない一回性の書でも、何度でも、想像上で、描けそうである。頭の中のキャンバスで、寝っ転がって、一度、真似してみることにするか?新しい趣味が出来そうである。




銀杏の薄皮を剥きながら考える:

2013年02月24日 | 社会戯評
銀杏の薄皮を剥きながら考える:
殻付きの銀杏を戴いた。しかも、皆、大粒である。いつもなら、物臭さだから、例によって、使い古しの紙封筒の中に食べる分だけ、殻毎入れて、電子レンジで、チンと加熱して、殻毎、ポンと爆破させて、実を食するのであるが、今回は、一昨年に、購入した胡桃割り器を使用して、一個づつ、割ってみた。中から出てきた実は、しっかりと薄皮で蔽われていて、なかなか、黄緑色の実は、顔を出さないではないか!これでは、折角のおでんに入れようと思っても、4個を爪楊枝に、刺すことも出来ない。ましてや、薄皮毎そのまま、串に刺すのも、「美的センス」が疑われてしまう。もう、ここまで来ると、いよいよ、「年寄りのお仕事」の類である。軽く、ボイルして、この薄皮を竹串の尖った先端を器用に(?)使って、指先で剥くことにした。よく見ると薄皮も、実の上半分と下半分とでは、色が異なり、薄い茶色と濃い茶色、しかも、濃い色の薄皮は、どうやら、2層にもなっているようである。丁寧に、実を傷つけないように、一粒一粒、黄緑色の粒が顔を出すように、剥いてゆく。徐々に、手先の感覚とproductivityの一番良い薄皮の剥き方を習熟しながら、剥着続けること、1時間余。音楽を聴きながら、MIZUKIの拡大鏡を掛けて、指先に集中しながら、まるで、半身麻痺した脳梗塞患者が、指先のリハビリの為に、大豆の粒を箸でつまむが如く、或いは、密教行者が厳しい山岳修行でもするが如き心持ちで(?)精神修養しながら、一粒一粒、最終目標である全粒完全制覇に近づいて行く。全く、食べるのは、ほんの一瞬なのに、料理の下準備や仕込みというものは、大変、手間が掛かるものであることを、或いは、昔の年寄りは、きっと、こんな作業を、「年寄りなりの仕事」として、「鰹節削り」同様に、協働・分業の一環で、やっていたのかなぁとも、何か、やり終えてみると、深い感慨に、ふけってしまう。考えようによっては、今から、脳梗塞のリハビリの模擬体験のようなことをやっておけば、少しは、そんな有事の時の役にでも立つのかなとも、思ってしまう。銀座の料亭で、銀杏をつまみやすく、且つ、同時に、食べやすく、包丁で、軽く潰して出されたことがあったが、成る程、流石に、日本料理というものは、奧が深いものであるとも思った。それにしても、「作るのは、地獄の修行、食べるのは、極楽、天国以外の何ものでもない」ということを、改めて痛感したが、たまには、こういう労働集約的な単純作業も、何かの修行と考えて、そろそろ衰え始めた脳細胞と指先の刺激には、きっと、役に立つのではないだろうか?とりわけ、知的な仕事で、お忙しいサラリーマンには、向いているかも知れない。年寄りには、「年寄りなりの仕事」が、まだまだ、世の中には、ありそうである。それを捜す日常生活での旅も、又、面白いかも知れない。ベトナムの工場での海老の殻剥き作業を想いだしてしまった。



一寸気になるCMに思う:

2013年02月23日 | 映画・テレビ批評
一寸気になるCMに思う:
最近のCMの中で、俳優の佐藤浩市が、父親役として、その娘に、トヨタ・マークX車を運転しながら、「もっといい男を見つけろよ」と云うと、泣いている娘が、「パパみたいな男だって云うんでしょ!」、「悪いか?」と父が応えるCMが、何故か、一寸気になるのである。子供が、まだ小さな頃、我が家の躾の方針は、父親として、「反面教師」役になるというものであった。そもそも、学校などと云うところは、逆説的に云えば、成績さえ宜しければ、むろん、文武両道に長けて、品行方正は、むろんのことであろうが、ある種、「平等」が、保証されていること、もっとも、最近では、随分と、このような考え方も、あながち、当たっているとも思えない現象が、頻繁に、起きているが、、、、、。一歩、家を出て、或いは、学校という枠を卒業すれば、そこには、厳然として、社会には、コネやら、病気やら、馬鹿息子でも、大金持ちの跡継ぎの御曹司だったり、或いは、不条理な、不当な「差別」と「不平等」が存在していることを、子供達に、まず知らしめなければならないと考えたからである。「不当な差別」と表現したが、不当かどうかは、結局、それを行なう側か、行なわれる側かによって、決まるものであるかもしれない。むろん、差別をしろとか、する立場に立ていう教育ではなくて、そういう差別と闘うにしても、厳然として、そうした「事実」、「現実」に目を背けてはいけないという意味である。社会に出る前に、充分な精神的、肉体的な「虐め」や不当な(?)「不平等」への「免疫抵抗力」を、家庭内で、ワクチン注射のように、やや薄めて、打っておかないといけないのではないかと、疑似体験でもしておかなければならないと、、、。それ故、男と女の違いとか、腕力の違い、肉体的な痛みの体験、(別に体罰を意味するのではない、得意のプロレスの技ですが、)わざと汚い言葉の暴力、差別用語ですら、聞かされないと分からないものである、そうしたあらゆるとは謂わないが、なるべく色々な分野で、酒に酔って帰宅すれば、酔っ払いが、どんな状態になるのか、等も含めて、小さい頃から、免疫不全に陥らないように、免疫抵抗力を高めるべく、「反面教師役の父親」を演じたものである。もっとも、何やら、それは違うだろう、素で、地のママに振る舞っただけであると云う何処か、外野席からの声が、聞こえてこない気もしないではない。だから、このCMを見た時には、本来は、「パパみたいな男は、絶対、駄目だぞ!」とたしなめなければいけません。



○○障害という言葉の響き:

2013年02月22日 | 社会戯評
○○障害という言葉の響き:
どうやら、又、精神障害の範疇で、新しい言葉が、生まれてきたようである。何でも、社会生活の中で、最近では、人前での発言がうまく出来なくなったり、他人から、上司や、同僚から、どう見られているのかとか、眼に見えないプレッシャーを極度に恐れ、不安になり精神的に、落ち込んで、社会生活に支障をきたす「病気」(?)を称して、「社交障害」と精神科医は、そう呼ぶそうである。フェロトニンという物質が、欠乏するのが原因(?)(それとも、結果?)であると、まことしやかに、説明していたが、本当に、それが、原因なのであろうか?或いは、パワー・ポイントによるプレゼンの機会が、多くなったので、、、、、とか、それでは、ついこの間までは、人前で、発表する機会や、意見表明する場が、なかったのであろうか?最近では、何でもかんでも、○○が不足しているので、とか、(ビタミン程度なら良いが、妻への愛情とか、思いやりとか、云われると、頭を悩ましてしまうが)確かに、それが、先天的な遺伝子の欠損とかによるものであれば、そうなのかも知れないが、すべて、これ式に、云われてしまうと、本当にそうなのかとも、疑問を呈してしまう。昔は、「五月病」では無いが、結構、頻繁に、「病気」と言う言葉が、使われていたような気がするが、今日では、科学的に、或いは、差別のないように配慮する、耳障りの良い言葉に、○○ブルーとか、○○症候群とか、○○障害とか、その本質が隠されてしまい、分かりにくくなるような言葉の使い方が、多いような気がしてならない。大体、この年頃になって初めて、成る程、自分も、○○障害だったのかなぁと、思われる節が、無きにしも非ずではなかろうか?そんな錯覚にも陥りかねない程の状況ではないだろうか?こうなると、まともな人間も、どこか障害や不具合が潜んでいるのではないか、むしろ、「そうならない方こそが、どこかに問題があるのではないか?」と発想が逆転してしまいそうである。なぜなら、「こうならないようには、こうしたら良いですよ」ということが、決して、語られることはないですからです。答を知りたい人は、続きは、「○○で検索!」とか、なってしまうのでしょうか?元気に、野原を飛び回っている子供を見たら、あの子は、どこか、おかしいと、思ってしまう時代の方が、どこか、おかしいし、そういう時代にはしたくないですね!。


庭の水仙の花が咲きました!:

2013年02月21日 | 自然・植物・昆虫
庭の水仙の花が咲きました!:
ここのところ、陽が長くなり始めて、夕方、我が老犬との散歩にも、今や、車に轢かれないように危険防止用のLEDの点滅フラッシュ・ライトを点けて、出掛けていたが、どうやら、それも、つけなくて済む程度の明るさになってきた。又、午前中でも、書斎には、太陽の陽の光が、長く、差し込み始め、何気なしに、春の訪れが、間近な様子が感じられる。玄関脇の小さな花壇、(その昔には、小さな池を埋め込んで、金魚などを泳がせていたが、落ち葉や水の管理などで、結局、屋上行きとなり、今では、鉢植えの水遣り供給源になってしまったが、、、、、)そんな花壇にも、地植えしっぱなしの水仙の球根が、毎年、少しだけ、自然に、芽を出し、花を咲かせる。玄関の出入り口だから、春の訪れを告げるのには、最適である。鼻を近づけると、何やら、水仙の甘い香りがして、春を告げる梅の香とも、一寸、違った趣きである。その横では、鉢植えにされた沈丁花の蕾が、膨らみ始めている。こちらは、挿し木で、簡単に、増やしたもので、一つは、白色の花、もう一つは、深紅の花と、2種類が、鉢に植えられている。暖かさを増してきた朝の陽の光を燦々と浴びて、後2週間もすれば、3月初め頃には、甘酸っぱい香りを、辺りに漂わせながら、咲き始めよう。寒いとは云え、日一日と、暖かさを増すに連れて、これから、春の花々が、次々に、咲き乱れ始めるのが愉しみである。次は、沈丁花か、雪柳だろうか、そして、花桃へ、小手毬、、、、、、、へと。小諸の里山は、未だ、雪と氷に、蔽われているかも知れないが、一足お先に、春の訪れを愉しめます。そして、もう一度、小諸の里山の春を満喫出来ることを愉しみにしています。童謡に歌われた「春よ、来い!早く、来い!」という気持ちが、歳を重ねる度毎に、分かるような気がしてなりません。



End This Depression Now ! by Paul Krugman を読む:

2013年02月20日 | 書評・絵本
End This Depression Now ! by Paul Krugman を読む:
本稿の目的は、「さっさと、不況を終わらせろ!」(山形浩生訳:早川書房)なる著作の内容を追いながら、その論点を整理するモノではなくて、(読んで貰えれば、それ程、長くないので、わかりやすい)、飽くまでも、私が、読後、色々と抱いた感慨を述べる極めて私的な内容でしかありません。従い、ことの成否を確認なされたい方は、まずは、本を読まれることをお勧め致します。
著名な経済学者は、どちらかと言えば、経済理論のみならず、ある種わかりにくさの中に、哲学的思考というか、倫理学的な観点からも、卓越した何かを内面に有しているように思えてならない。それは、アダム・スミスやマルクスやエンゲルスも、ケインズですらも、そのような系譜が感じられるのは何故なのであろうか?クルーグマンは、それに比べると、単純明快、バッタ、バッタと、論敵を快刀乱麻の如くに、なで切りにして、その意味では、ある種の明快さの裏に潜む誤解されるという「負の要素」も無きにしも非ずであることは、否めないであろう。それにも関わらず、アメリカの共和党・民主党、双方に対しても、歯に衣着せぬ物言いを展開するのは、実に小気味よいではないか。何か、モノに憑かれたような「闘う宣教師」のような形相すら文脈や行間には、感じられる。もっとも、写真で見る限り、その面構えも、タフな容貌ではないと、誰が言えようか?アメリカの学者であるから、むろん、アメリカの経済分析を主体に論じられているにも関わらず、その日本経済に対する関心度・洞察度、とりわけ、失われた20年にも及ぶデフレ、超低金利、株安、為替・超円高との闘い、決められない政治に起因する金融・財政政策のガダルカナル式出し惜しみ、漸次的対応の試行錯誤、等、自らの議論を展開する上からも、魁としての日本の課題を、十分、反面教師的に研究考察しつつ、その打開策を、端的に分かりやすく、問題点とともに説いている。その意味では、日本の経済学者、或いは、エコノミスト称する輩とは異なり、まずもって、タフなアメリカ社会の中で、それなりの地歩を築いてきただけのことはあって、その筋金は、柔そうではない。
人間は、「茹で蛙」の譬えの如く、確かに、長い間、徐々に熱くなるお湯の中にいると、その熱さが分からなくなり、終いには、熱せられて、茹でられてしまうことになる。同様に、マイナス成長、超低金利、株安、超円高、デフレ、賃下げ、空洞化の中で、長い間いると、それが、あたかも、ひどく、複合的な魑魅魍魎の成せる技のような錯覚に陥ってしまいがちである。しかし、そうではないと、はっきり、バッサリ、クルーグマンは、車の「マグネトーの不具合」を引用して、切り捨ててしまう。そして、更に、具体的な方策も、明示する。政府による公共投資への拡大策、大規模な新しい財政刺激策、経済活性化の為の政府支出プログラム、インフレ・ターゲットの設定、需要の創出、成長戦略など、(流石に、地元、毛利の3本の矢の譬えは、出てこないが、、、、)何処かで、最近聞いたことのある政策が、紙面には踊る。何よりも、「知的な明晰さ」と「政治的な意思の欠如」が、必要と、彼が、アメリカよりも、自分の経済理論を、直ちに、実行に移して貰いたいのは、本当は、オババによる米国ではなくて、実は、日本にこそ、期待するところ大なのではないかとも思われるほどである。読みようによっては、そんな気がしてならない。もっとも、それは、私が、日本人の観点から、読んでいるせいなのであろうが、、、、、、、。その意味では、この著作は、今日の日本中、否、世界中に蔓延している心理的な焦燥感と絶望感、或いは、拡張的緊縮政策やセンセーショナルに語られるところの終末論的破局説への対極的な政策提言である。天安門事件の時に、あたかも、人民解放軍が、二局分裂化して、内戦に突入するかの如き分析を行った軍事評論家と称する者や、さっぱり、具体性に乏しい現状分析だけで、解決策を提示出来ないでいるTV経済評論家に較べると、(較べる事自体が、恐れ多いのも事実であるが、、、)流石に、ノーベル経済学賞受賞の学者は違うのだろうか。自分の理論に、責任を持っていそうである。もっとも、著作の端々には、その期待する所の政策の実行者に対して、「優柔不断」や「断固たる決意の欠如」を、嘆いている節が、結構、見られなくもない。
今から、思えば、「金融ビッグバン」なるものは、一体、何だったのであろうかと、考えさせられる。決して、私達は、日経やその他の経済誌が、未来は、太陽系のビッグバンによる誕生に喩えて、素晴らしいバラ色であるかのような幻想を抱かせたことを、、、、忘れてはならない。預金銀行・証券会社・信託銀行・投資銀行の垣根という障害は、「誰」の為の「障害」だったのであろうか?結果としてのシャドー・バンキング・システムの肥大化に伴う「モラル・ハザード」を惹起させてしまったのは、金融の規制緩和が、元凶だったのであろうか?むしろ、規制の「緩和」よりも、規制の「更新」の方にこそ、本来、適宜、必要だったのではないかと、政策の失敗だったのであれば、それは、又、ある種、「人災によるもの」であろうが、、、、、。「今にして思えば」と言う言葉は、何とも、可笑しなものであるが、実際、度重なる法案の提出や規制緩和の施策が、今にして思えば、「とんでもない結果」をもたらそうとは、その時、どれ程の人間が、思い描いていたであろうか?「バーナンキFRB議長は、自らが大学教授であったこともあるかつてのバーナンキ教授の助言に、自ら、従うことが出来なかった」、という言葉は、実に、当を得て、しかも、妙である。何とも、学者の時と政策当事者になると、立場が多いに異なり、自説を実行できなくなるのであろう?人間とは、所詮、立場が、変われば、そんなものなのかも知れない。
この本の中には、当然、上杉鷹山や、清貧の思想という記述は勿論ない。ただ、私が、面白いと思ったのは、「負債というものの考え方」についてであり、又、緊縮策と心理的な道徳概念・美徳の概念や倹約の奨励などに対する合理的な考え方である。とかく、日本では、時流に媚びへつらうのか、どうか分からぬが、倹約というと徳川幕府の三大改革が、いつも、教科書通りの鑑として、もてはやされて、果ては、「上杉鷹山」や「清貧の思想」なる何とも精神主義的な形而上学的な心構えを説いたり、倫理的・道徳の範疇の延長戦上での「精神論」へと、進みがちである。(上杉鷹山自身は、そうではないと思われるが、)経済的苦境=倹約・節約・貯蓄=出を制して、入を図る=道徳的倫理的精神論へと、完結して行く。その観点から見る限り、財政赤字削減と緊縮論者への痛烈な言葉は、「負債というものの考え方」に端的に、表されていよう。即ち、曰く、「負債というのは、自分たちが自分たちから借りているお金で、、、、、(略)、、、、、世界全体でみると、全体としての負債水準は総純資産価値には、全く影響しないことがわかる、誰かの負債は誰かの資産だからだ。」と、観点を変えれば、目からまさに、鱗である。純資産価値の水準が問題になるのは、純価値の配分が問題になるときだけであると、そう考えると、貧困と格差、賃金・失業、セイフティー・ネット、等の問題点も、景気循環や経済成長・停滞ともおおいに、関連づけられて議論されても良さそうであるが、もう少々、この辺の課題については、別の著作ででも、論じてもらいたいものである。やや消化不良である。
EUの危機とは構造的に異なり、米国では、資産担保証券(ABS) 債務担保証券(CDO) クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)等の或いは、デリバティブ・通貨スワップとか、「金融工学」と称する合法的なイカサマ賭博のような手法が、住宅ローンや、各種金融取引に、リスクが分散、ちりばめられ見えにくくする形で、取り入れられ、更に、S&P等の格付け会社による意図的な信用ランクの優良高位付けとも相俟って、より厳しい規制・監視ではなく、逆に、より無制限な緩和へと、人為的、政策的にも、大失敗をもたらしてしまったのは、周知の事実である。もっとも、それらは、政治的な圧力にもよるところが、大である以上、反ウォール街デモ参加者の気持ちが分からないでもない。しかし、一方で、米国住宅ローンの不良債権化の問題に対して、「大規模な借り換えプログラム」の実施を強く要求するも、政治的な立場から、債権者最優先の道徳的な考え方、即ち、債務者(債権者・金持ちからすれば泥棒になる者)への追加的な優遇策=借り換えプログラムの実施は、まさに、泥棒に追銭という理屈から、政府は、倫理的な政治的圧力に屈してしまったと、逆に、もっと、大胆に、個人債務者を救済し、このプログラムを大胆に実施すべきであったと。
「負債圧縮・倹約のパラドックス」と言う言葉は、なかなか、心理的に、面白い言葉である。心理的と云えば、「恐怖心と安心感」、「安心感の妖精信仰」、という言葉も、心理的な要因を考える上で、興味深いものである。確かに、センセーショナルに、デフォルト、デフォルト、とばかりに、喧伝し、金融システムの崩壊、信用緊縮、銀行の取り付け騒ぎ、国の崩壊と、まるで、ワイマール共和国末期のナチスが、台頭してきた時期を連想させるような議論は、一寸、一歩、立ち止まって、冷静に、考える必要があるかも知れない。インフレも、我々が、体験してきたのは、せいぜい、特殊な戦後の一時的なハイパ-・インフレや、成長期でのインフレ、或いは、経済不況下でのスタッグ・フレーションで、そうした心理的な「インフレへの恐怖」の概念や、やがて来るかも知れない漠然とした「経済的破局・恐慌への恐怖」というものが、心の片隅にあることも否定しきれないのも事実ではあるが、、、。エネルギー・コストや食品の数値を取り除いた所謂、「コア・インフレ指数」というのも、消費者物価指数・卸売物価指数・鉱工業生産指数等の統計数値の中で、正確に、再考されなければ、今日の統計数値というマジックに、又しても、何処かで、騙されてしまいそうである。
ヨーロッパに、目を転じると、所謂ユーロ危機は、そもそも、通貨体制をしっかりと、構築することもなくて、只単に、政治的な大欧州という政治統合の幻想が、先走る結果となり、単一独自通貨を有さない国々と共通通貨?ユーロとの齟齬と矛盾とが、主たる原因で、これに加えて、「労働委移住性」が、異なる言語や多様な文化によって、阻まれることにより、低下し、偏ってしまったことも、確かに、一因であろう。その意味では、この著作の中では、詳しくは、触れられていないが、TPP交渉や多国間貿易ルール・通貨制度・移民政策等は、別の機会に、是非、論じて貰いたい課題である。
最後に、日本人読者の観点からは、まさに、今、20年にも及ぶ失われた時間を、取り戻さなければならない時であり、しかも、世界で、初めて、超低金利、超円高レート、株安、デフレの負のスパイラルの中から、抜け出すモデルを構築できる最後のチャンスであろうし、震災復興も、橋やトンネルや高速道路のインフラの整備・修理・保全などは、まさに、千載一遇の公共投資のチャンスであり、過去の土建屋や既存既得権益団体へのばらまきとは、もはや、今日では、異なる状況である以上、どうやったら、官民挙げて、雇用と需要の創出を図ってゆけるのか、或いは、環境規制、例えば、自然再生可能エネルギー、温暖化対策、排気ガスの総量・特定物質規制など、様々な実験が、おおいに、試みられるチャンスである。更には、通貨制度、少なくとも、リーマン・ショック以前の1ドル=100円程度迄への回復とか、株価の回復や賃金・セイフティー・ネットの再回復も含めて、批判はどうであれ、与野党共に、足の引っ張り合いをすることなく、一日も早く、この長引く不況を脱しなければならないであろう。「陽は又、昇る」日が、近いことを祈りつつ、、、、、。「ミンスキーの瞬間」、「流動性の罠」、「拡張的緊縮論」、、、、、等、他にも、興味深いキーワードがあるので、読まれてみては、如何でしょうか?



世界ラン展2013を行く:

2013年02月19日 | 自然・植物・昆虫
世界ラン展2013を行く:
ここ、何年か、仕事の延長線上から、世界ラン展を見る機会に、幸運にも恵まれ、美しい作品を愉しむことが出来るようになった。世界的な景気の後退により、ランの栽培農家、その花の販売にも、随分と、大きな影響が出ているように思えてならない。それは、言い換えれば、栽培業者の減少やら、アジア各国での海外栽培農家の増加と云う形で、確かに、ここ数年は、出展者数の減少とともに、見られる現象のように思われてならない。今年は、ランの花を栽培、作ると云うよりは、むしろ、それを使った活け花やフラワー・アート、デザインや、それらの周辺分野にまで、シフトしつつあるようで、謂わば、日本の社会構造の変化と同じで、国内でのものづくりから、一歩進化(?)した形での加工や付加価値商品作りの分野や市場へと重点が移行しているように思える。ランの花を愛でる「花心」も、「栽培する心」に通じるところがあるのであろうが、しかし、芸術にまで、昇華してしまった「華道」やアートとしての「フラワー・アレンジメント」になると、もはや、アマチュアの土臭い臭いのする栽培家の思いとは、全く別の質に転化してきているようにも思える。アマチュアの心とプロの心との間で、微妙なバランスである。果ては、イベントで、故藤本敏夫・加藤登紀子夫妻の次女で、シンガー、Yaeさんによる土と共に生きる農的ライフのライブに至ると、やや、オジサンには、訳が分からなくなってしまう。假屋崎省吾にも、もう少し、前衛的な作品が展示されるかと期待したが、残念乍ら、今年は、少々、華麗な着物の柄との競演で、肩透かしを食らってしまった感が無きにしも非ずであった。花を愛でる心と栽培を愉しむ、或いは、綺麗な花を咲かせようとする心は、自分自身の中で、又、「小林秀雄の言葉」が、耳の底から、聞こえてきそうである。「美しい花がある。花の美しさというようなものはない。」、日本大賞を受賞した作品を大勢の人が、(私も含めて)写真に納めていたが、果たして、どういう気持ちで、眺めていたのであろうか?私は、全くのズブのど素人だから、大賞受賞作品を眺めても、他の花に較べて、何処が、素晴らしいのか、さっぱり、分からず、そんなものなのかなぁと呆れて見とれるばかりであった。(受賞者には、申し訳ないが、相当なご苦労があったとは、想像するが) 今月2月24日(日)まで、東京ドームで開催です。花を愛でる心を蘇らせるのも、たまには、宜しいですよ!特に、仕事で忙しい人には、、、、、、。




ネット旅行申し込みの違いと保険附保の陥穽:

2013年02月18日 | 社会戯評
ネット旅行申し込みの違いと保険附保の陥穽:
グアム襲撃事件で、被害に遭われた方々は、本当に、お気の毒としか、云いようがない。確かに、何分か、現場にいるのが、ずれていたら、助かっていたかも知れないのも事実であろうが、、、、、。奇しくも、今回の事件で、インターネット旅行申し込みの際に、旅行会社が扱う旅行には、大きく分けて、2つの種類があることを、新聞の記事を読んでいて、再認識された。ひとつは、顧客に代行して、業者がホテルや航空券だけを手配する「手配旅行」、もう一つは、日程や行き先、食事など、旅行全体を業者が決めて募集するものの「企画旅行」(所謂、パックツアー)であると、皮肉にも、今回の被害に遭われた被害者の日本人13人のうち、7人は、この手配旅行であったと、何でも、「企画旅行」というものは、資格を有する添乗員が同行するか、現地職員が対応するかどちらにしても、不測のトラブルに備える義務があり、死亡事故では、一律2500万円を支払われるという。それにしても、飛行機とホテル以外は、自由行動の「フリープラン」を謳う「企画旅行」等は、極めて、紛らわしくて、一体、法的に、何処までが、保険で附保・担保されるであろうか?これまで、嫌と云うほど、海外出張も含めて、出張や観光旅行にも、出掛けてきたが、都度、保険を附保したり、カードの自動的な保険附保を利用してきたものの、こういう「区分」が、ある事自体、知らなかったのは、迂闊であった。どれだけの人が、知っているのであろうか?それにしても、保険約款ではないが、きっと、どこかに、小さな字で、説明書きがしたためてあるに違いない。昔、飛行機の中で、眠れないときに、保険約款の小さな文字を読んでいたら、知らぬ間に、寝てしまったことを想い出す。今や、これだけ、ネットでの航空券の申し込みや、旅行自体の申し込みが、日常化、身近になりつつある今日、何とも、不可思議な話である。だいたい、統計データにしても、実際、どの程度、ネット経由で、募集がなされ、参加者が、どのくらいの割合なのか、正確な数字が、あるのであろうか?何でもかんでも、安くて、便利であるこの社会には、随分と、色々、トレード・オフによる陥穽が潜んでいることを改めて、知らされた恰好になった。アルジェで、亡くなられた派遣海外技術者の人達も、果たして、正当な命の代価が、支払われるのであろうか?企画旅行でも、手配旅行でも、同じ死でも、そこには、厳然とした、冷徹な資本の論理、或いは、法的な保険の論理が、横たわっているのであろうか?何とも、お悔やみだけでは済まされないような気がしてならない。フリー・プランとは、そんな冷徹な論理を宿していることも、我々は、忘れがちになる。自由の裏に潜む自己責任とある種の覚悟を伴わなければ、旅行も、気儘に、出来ないようであれば、それは、多いに、問題であろう。安ければ、良いってものではないし、逆に、金さえ、払えば良いってモノではないだろう。命の価値と値段を考えさせられる。



「ジビエ」に思う:

2013年02月17日 | 男の手料理・食
「ジビエ」に思う:
何でも、猟友会の会員が、全国的に見ても、高齢化してきて、野山を猟銃を持って、走ることができず、結果として、害鳥獣を駆除することが、遅れてしまい、被害が拡大する結果になりつつあると、それにしても、保護政策も行き着くところまで行くと、棲み分けや共存どころの話ではなくなってしまうのが、現状なのであろうか?学生の頃、京都の哲学の小径近くに下宿する友人の家に、転がり込んで、鞍馬山にある「牡丹鍋」を宿泊代の代わりに、わざわざ、一緒に、食べに出掛けたことがあった。何とも、猪のピンク色した鍋の味が、忘れられない。最近では、フランス料理から来た「ジビエ」が、都会でも、或いは、一寸した地方都市でも、人気があるようである。所謂、ゲテモノとは一味違った、マタギの生き方・生命倫理観とまでは、行かないまでも、野生の命に感謝するくらいの精神で、鳥獣の肉を食するのは、とりわけ、食害を与えるような鳥獣で、駆除対象になっている野生の鹿とか、猪くらいは、生態系のバランスの観点からしても、駆除したものを戴くのは、悪いことでもなさそうであろう。保健衛生上の解体施設や免許、それに、流通の課題、レストランでの販売とか、ネット通販とか、様々な可能性があるように思えてならない。米国やNZで、よく、鹿肉のステーキは、脂肪分が少なくて、よく、お客さんと一緒に、食べたものであるが、驚いたことに、NZの南島の一番南端に出掛けて、自宅で、ご馳走になった鴨料理は、裏庭で、ドーンと猟銃を放って、主人自らが、捌いてくれたロースト・ダックだったことを想い出す。そして、トラウトのムニエルは、裏庭にある近くの河から水を引いてきた池から、釣ってきた魚であった。ハーブ・ティーは、庭先のハーブ、パンにつけるプリザーブは、すべて、庭から収穫したベリー類から、手作りしたものだった。まぁ、そこまでは、無理としても、猪や鹿肉くらいは、地方の高速道路のSAとか、産直の売店で、ジャーキーやら、ステーキ肉くらいは、格安で、販売されても然るべきではなかろうか?行政も、街おこしや、商店街の活性化に、協力してもいいのではないかと思うが、女性のハンターも、増やす運動もあるらしいし、本来のコンセプトとともに、バランスのとれた「ビジエ」文化の浸透・発展がなされることを期待する。
信州ビジエHP:
http://www.pref.nagano.lg.jp/rinmu/shinrin/04chojyu/14_riyo/gibi.htm



広島の牡蠣をいただく:

2013年02月16日 | 社会戯評
広島の牡蠣をいただく:
広島に住む学生時代の友人から、今年も、「牡蠣を食べますか?」という有難いメールが、やってきた。早速、「有難く、頂戴致しますよ!」と返事を返した。何でも、奥様が、牡蠣が召し上がれなくて、牡蠣を贈るときには、必ず、相手の意思確認を事前に行ってからでないと、駄目ですよと、念を押されているとの由であった。最近では、何かと、合理的に、お互い、贈り物なども、「相殺勘定」で、贈ったり、贈られたりすることを、省くことが、多くなってきてしまった。お年玉なども、近しい親族の間では、もはや、この「相殺勘定」とやらが機能して、面倒な手作業や、世間相場に、悩まされずに済んでいるのも、事実であろう。若い時は、そんなことも、割り切ってしまいがちになり、合理的だから、それも良いだろうと、考えていたが、どうも、齢を重ねるにつれて、「あの人は、元気にしているだろうか?」とか、たまには、年賀状だけでなくて、季節毎の旬な品物でも、贈ってみようかとも思い立ち、気まぐれで、何の音沙汰もなく、突然、贈り物をしてみたくなるものである。お互い、贈り、贈られ合うのであるから、どちらが、得をしたとか、損をしたとかという筋合いのモノではない。只、単に、お互い、美味しいものでも、贈り合って、愉しもうではないかと、、、、、。まぁ、一寸、気の利いた年寄りの道楽的な時候の挨拶に、毛が生えたようなものであろうか、たまには、気紛れに、「相殺勘定」という現代合理主義的な考え方を忘れて、そんな気遣いのひとつもやってみるのは、粋な計らいかも知れないが、如何なものであろうか?お陰様で、生牡蠣、バター炒め、牡蠣フライ、牡蠣のシチューと、お腹も壊すことなく、美味しく、その味と旬の季節を満喫しながら戴きました。ご馳走様でした!



ラザニアに挑戦する:

2013年02月15日 | 男の手料理・食
ラザニアに挑戦する:
まあ、スパゲティー・ミート・ソースを、手造りで、作れるのであるから、ラザニアも、出来ないことはないだろうが、これまで、作ったことがなかった。丁度、週末から、連休になるので、最終日に、挑戦してみることにした。初日は、チキン・カレー、アップル・パイ、翌日は、周回遅れの恵方巻ならぬ、3種類の海鮮太巻き、ミルクレープ、最終日は、ミート・ソースを手作りにしてから、ラザニアを敷きながら、スライス・チーズを重ね合わせ、交互に、粉チーズを織り交ぜながら、各層を、耐熱ガラスの中に、積み上げてゆき、オーブンで、30分ほど、焼き状態を見ながら、焼き上げるだけであるが、何せ、パスタのように、茹でてないので、いくら、ソースの汁が、少々、多目にしても、上部の方は、しっとりと、ゆかない。やはり、事前に、水で濡らしておいた方が、良かったのかも知れない。ホワイトソースと交互に重ねる方法も良いでしょうし、(缶詰も可ですね)どうも、キッチン・ペーパーを一番下に、敷いてから、料理すると、出来上がったときに、皿に移すのに便利であると、後から、ネット情報で知った。(やはり、料理は、仕事と一緒で、事前の段取りが、肝要である。)次回は、改善、修正の要有りである。味は、結構、よろしいではないか?これなら、料理のレパートリーに加えても、良いかも知れない。今、イタリアン・トマトの乾燥したものを瓶で、オリーブ・オイル漬けにしたモノを作成中で、その他、ニンニクのオイル漬けと、唐辛子のオリーブ・オイル漬けも、同時進行中である。うまくゆけば、これらを使って、パスタも一手間、一寸、違った味が、演出できるかも知れない。おおいに、愉しみである。何も、高い既製品を求めることもないであろう。手作りでも、工夫を凝らせば、結構、時間が掛かっても、その出来映えを待つのも、愉しみの一つでもある。ペペロンチーニにでも、作ってみることにしようか?念のために、下調べを忘れずにしておくとしようか、思い立った時に、、、、、、。



絵本、「たいせつなこと」を読んでみた:

2013年02月14日 | 書評・絵本
絵本、「たいせつなこと」を読んでみた:
もう、十数年前のことになるであろうか、従業員募集に際しての面接の時に、見事な金髪の肩の下にも届こうかと思うほどの長い髪で、現れた青年がいた。当然、その話に至った時に、その応募者は、きっぱりと、「これが、私のアイデンティティーなのであるから、全く、髪を切るつもりも、染め変えるつもりもありません」と言い放ったことをどういう訳か、想い起こした。マーガレット・ワイズ・ブラウンは、身近な動物や植物で、わかりやすく、子供たちに、自然の大切さを説くのを得意としているが、この著作では、どちらかと言えば、静物を中心に据えて、最後に、「あなた、自身が、あなたであること、それが、一番、大切なことである」と説き聞かせている。ガラスのコップが、透けて見えること、スプーンは、掬うことで、ひな菊の花は、その白さで、雨は、飽くまでも、みずみずしくて、潤うことで、草は、その緑で、輝くほどの緑色で、雪は、白くて、りんごは、丸くて、赤く、風は、吹くことで、空は、そこにあることで、靴は足を包むことで、そして、最後に、「あなたが、あなたであること」が、一番たいせつなことを、忘れないようにと、あるがままに、その働きを、役割を、その置かれた、生かされた場所毎で、Identityを自覚し、その役割を果たすべきこと、The Important bookは、静かに、しかし、しっかりと、心の中に留め置かれるように、聞き手に、そして、読み手にも、訴えかけているように思えてならない。幼い子には、何が何だか、分からないかも知れないが、やや、高学年になれば、自分自身を確信する時が、必ず、或る日突然、やってくるものである。その時に、昔読んだこの絵本の意味が、再確認されることも、宜しいのではなかろうか、何も、すぐに、読んで理解出来るものばかりが、すべて、即効的に、効く薬だけでなく、ゆっくりと、時間を掛けて、理解すること、効き目が徐々に効いてくる遅効性の絵本も、それなりに、意義があろうかとも、思われるが、読まれてみて、如何であろうか?