小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、<田中 泯、 名付けようのないダンス>に想う:Innommable Dance

2022年02月20日 | 映画・テレビ批評

映画、<田中 泯、 名付けようのないダンス>に想う:

 

60年以上前の野球小僧は、その昔、長嶋茂雄の華麗なステップをイメージして、三遊間のゴロを、さっと左手のグローブを差し出すと、スッと、白球が入ったもので、その後の送球後の一寸した、右手首を曲げる仕草も、今や、<頭の中での空想>であって、間違いなく、華麗なステップを踏むどころか、両脚で立っているだけでも、脚もとがもつれ、フラフラ、バランスを崩すほどの身体的な衰えを自覚すると、もはや、この映画の観賞の仕方も、随分と変わってくるモノであると思われます。

昔の元若者は、60年代の後半に、何やら、白い粉を体中に塗りたくり、頭も剃髪して、ペニスも包帯でグルグル巻いたり、真っ裸同然で、まるで、脳性麻痺か、肢体不自由児のような動きを、前衛舞踏家と称されたり、アングラ演劇だとか、果ては、Street Performance とか称して、公道を何か大声で叫びながら素っ裸で疾駆したり、流石の10代後半の元若者であった私も、その記憶を辿ると、<何じゃ、こりゃぁ!>と驚きあきれ果て、単なる、<舞踊>のセオリーも知らない、素人集団の狂気であるとしか、感じられなかったと言う記憶が残っています。それから暫くして、どうやら、そうした流れは、#大野一雄、#土方巽(暗黒舞踏:肉体の反乱、1968年)、#麿赤児(大駱駝艦)、天児牛大(山海塾)、と言う形で、後年、寺山修司(天井桟敷)、唐十郎(状況劇場)、他の演劇論、或いは、文学界、評論、芸能史、民俗学史、などの分野を巻き込み、澁澤龍彦、三島由起夫(禁色)、(今日で言えば、ジェンダーの問題や女装などの今日的な課題をも取り上げていたようである)、他にも、互いに、影響を及ぼしながら、まるで、明治初期のフェノロサや岡倉天心らによる、日本美術への再評価の如く、欧米での(フランス・米国、他)一種の驚きを以てなされた海外公演の評価と賛辞(賛否両論も含めて)に伴い、<Butoh>(舞踏)という言葉と共に、凱旋帰国を果たし、今日、まさか、田中 泯にまで、連綿として、受け継がれてくるとは、流石の素人である、私のような、たまたま、同時代を共にした元若者も、もっと、当時から、この方面の勉強をして、右脳を磨いておけば良かったと、自分の肉体的な機能の低下と共に、気がつき始めた次第です。

  更に、今から、約7年程前に、<Artist-In-Residency>の運動の中で、化石化した右脳の再生に、海外の来日アーティスト達の支援活動の中で、各国のDance Performer や、Musician, 画家や、彫刻家などと、或いは、地元の関係者との交流を通じて、<表現の媒体>としての、身体(肉体)、楽器、絵画、踊り(コンテンポラリー・ダンスやクラシック・バレーやら、ジャズ・ダンス、タンゴ、インド舞踊、日本民謡、盆踊り、新日舞、など)を通じて、<自己表現>とか、<内発的な湧きい出る原動力(踊りたくなる気持ち)>とは、何か?とか、<作風の変化とは、何が原因となっているのか?>などを、話し合ったモノである。しかしながら、この映画を通じて、自分の右脳の再生も、やや、違った方向ではなかったのかとも、思い始めた次第です。海外出張などで、その土地土地の土着的な音楽や踊り、文化・歴史に触れることをモットーとして、タイやベトナム、韓国、台湾、中国、ビルマ、ネシア、ポリネシアやNZ、メキシコ、チリなども含めて、(アルゼンチン・タンゴとスペインのフラメンコは、現地には仕事の関係では、出張できなかったのは、残念ではあるものの、)休日には、美術館と土産物屋も含めて、愉しませて貰いましたが、、、、、。

  皮肉なことに、土方巽は、1928.03.09生まれで、昭和天皇の即位の日に、生まれ、田中泯は、1945.03.10という終戦の年の東京大空襲の真っ赤な炎に地上が燃えさかる中で、生まれてきたという<奇妙な共通な符号>を有しています。しかも、<一子口伝>ではないが、今風のマニュアルや、ノウハウ・ノート、日舞の流派や流儀とも、或いは、舞踊家とも、一線を画した、集団を作ることの決してない、或いは、勝手に、舞踏家などと分類化されることを断固として、拒否するような、<一つとして常に同じ踊りは存在しない>という、秘儀を内在したところの<伝授>の仕方で、従って、どうやら、正統派のお師匠さんからのお墨付きをえたお弟子さんも、とらない、何か、念仏踊りにも似たような、一遍上人ばりのOdoriとでも言えべきモノなのであろうか、<Innommable Dance>と、この映画では、表現されているが、、、、。日本語訳では、<名付けようのない踊り>のようである。

  2002年の映画、たそがれ清兵衛の映画初出演でも、<演技ではなく、ただ、踊ってみただけだ>とも、その演技を表している。一体、<演じる>と<踊る>とは、どう違うのであろうか?自分が、感じていた、役者の演技とは、飽くまでも、自分と言う肉体(器)を通じて、その役の人物を演じるのであり、そこには、ひたすら、その人物と、役の上で、一体化するある種の何物かであっても、そこには、ある種の役者としての、自己表現が、加味されるわけ(?)であり、だからこそ、同じ役柄でも、異なる俳優が、同じ役柄を演じても、微妙に、演技という音色は、違った響きがするのであろうか、、、、、、、と、 他方、踊りというモノは、とりわけ、田中泯のこの映画の中では、<一つとして常に同じ踊りは存在しない>という信念と<踊りは、個人に所属することは決してない>、或いは、<身体気象:Body Weather>と言う概念、<頭上の森林>と言う概念、頭の上へ、上へと、その頭上の空間に、無数の気のような何物かが、身体のありとあらゆる穴から、まるでタネが発芽するように、そしてぐんぐん育つように、樹が生えて森林を形成するようになるというもので、自然と身体を通じてコミュニケーションが出来るような状態、土方巽の肉体の反乱になぞらえると、<ありとあらゆる形象・形態の言語化により、動植物ら自身の肉体の部位すら、その動きを誘導する>とか、<千本の枝を知覚する>、<歩こうとして身体の中にカチャッと鍵が掛かった部屋がある。>やら、<左耳筋に這うナメクジ>など、<器としての身体:Body as a Vessel>へのアプローチを通じて、時間と空間の無限と極小の体感と表現、に至り、ゆっくりと見えることを理解出来ると、、、、、。もはや、この領域になると、哲学的なサトリに近い境地なのでしょうか?

  舞踏の土着的なもの、とりわけ、<東北に根ざしている所のモノは、イギリスにもある>と言う言葉を聞く限りでは、謂わば、暗黒舞踏の系譜のタネは、決して、日本では、異端やキワモノと半世紀前には、評価されなかったモノも、その後、海外、とりわけ、フランスや欧州各国での評価やNYでの賛辞により、足の長い、指先の細くてすらっとした形状のバレーや、(冬のオリンピックのフィギュアスケートの美意識が典型・主流とは言わないけれど、、、、)、寸胴・短足・がに股・のっぺり顔などの土着的な劣等感的な欠点は、場違いな治外法権的な海外からの評価で、一転してしまったのであろうか、それは、長髪とラッパズボンのビートルズが、あたかも、極東の果ての果てから、近代の超克とも言えべき欧米では考えられないような、常識を覆すような概念の紹介と具体的なデモンストレーションだったのかも知れない。<舞踊(Buyoh)は立ったところから始まるが、舞踏(Butoh)は、立てない状態から始まる>と、、、、、。<一生に一度でも良いから立ち上がりたいと思う気持ち、>と<座れるような立ち姿>、更には、<石の上>と<土の上>との違いで、踊りの思いが異なると言うことの気付き、まるで、工業と農業、狩猟と農耕の対比のようであろうか?

  田中泯は、詩人、吉田一穂の桃花村の概念に基づく、山梨での農作業実戦運動や、敬愛するロジャ・カイユワ(戦争論を著す)のお墓の前で、踊ってみて、改めて、<これからも、ずっと、名付けようのないダンスそのものを、ずっと踊り続けたい>と確信する。そして、唯一の弟子と認める、石原淋に、一子口伝のレッスンをつけるところで、115分に亘る、<自分の中の内なる子ども>との対話を通じて、これから先の自分の踊りを、どうするつもりなのかを暗示しながら、エンド・ロールとなる。

それにしても、3度目のワクチン接種を終えたであろう昔の元若者が、100席の狭い映画館には、今の若者と一緒に、70-80%を占めていたことに、驚いてしまいました。

  最期に、慶応大学のアートアーカイブに、興味深いワークショップをYouTubeで見つけたので、URLを付け加えておきます。併せて、<#土方巽>、<#肉体の反乱>、<#山海塾>も検索してみて下さい。初めて、この種の動画をみるというヒトは、事前に、右脳をしっかりと覚醒させた上で、ご覧戴くことをお薦め致します。さもなくば、当時、リアルタイムで観劇した女子大生は、一斉に、退席したとか、、、、多分、理由は、すぐに理解出来るかと思いますよ。

Dance リーグの素早い、集団の揃った振り付けのやり方にも、驚いてしまうし、又、ストリートダンス対決のような頭で、くるくる回転させたり、まるで機械体操の床運動さながらの回転を伴った攻撃的なヒップホップ張りのダンス・対決も、大変興味深いモノです。しかしながら、改めて、当時の動画を観てみると、過ぎし来し方と行く末の両方にも、人生観での新たな発見が見つけ出されそうです。

映画の予告編

https://happinet-phantom.com/unnameable-dance/

 

YouTube 慶応義塾大学アートセンター Keio University Art Center

没後26年 土方巽を語ることⅡ

https://www.youtube.com/watch?v=p_UGwSwMM6s

YouTube 土方巽 肉体の反乱(1968年) 

https://www.youtube.com/watch?v=dANmcbepNdY

YouTube Kazuo Ohno My Mother:

https://www.youtube.com/watch?v=hzmkYu0d8rM


ビデオ<新聞記者>を 観る:

2021年11月13日 | 映画・テレビ批評

ビデオ<新聞記者>を 観る:

 

GAFAと言う存在を快く思わないにもかかわらず、日常生活の中では、アマゾン・プライムの無料配達や無料ビデオで映画を観たり、本を読んだり、急いでもいないのに、無料翌日配送で、ネット注文した商品が届けられてしまうなどと、全く困ったモノで、<21 Lessons for the 21st Century>(by Yuval N. Harari)という英文の著作を読みながら、改めて、これからの自分自身の矛盾に満ちあふれた生き方も、含めて、じっくり、この映画のように、巨大権力と眼に見えないAIとSNS・メディア他との関係性の中での自身のこれからの残された短いであろう生き方を見つめ直す機会としましょうか?

それにしても、コロナ禍で、何本かの映画を見逃してしまったが、そのうちの1本である。

この映画の中で、取り上げられている<新設の大学>とか、<生物兵器研究所>(感染症研究も含めて)とか、或いは、<ジャーナリストによるレイプ事件>、<国家公務員の自死>とか、何とも、東京新聞や文春砲などによる、既存マスメディアとは一線を画したまるで独立愚連隊的な、或いは、個別ゲリラ的な<権力に忖度しない、真実に迫ろうとする取材と情報の公開>という姿勢は、ある種、獲物を追いかけ、臭いを嗅ぎ廻る、そして、獲物(真実と呼べるべきモノ?)を追い詰めてゆく飽くなき猟犬の性(さが)のような感じがしないわけではない。むろんそれが、ある範囲の倫理的なガイド・ラインや行動コードに抵触しそうなギリギリのきわどい、或いは、超えてしまうモノであったとしてもである、、、、、。そんなものは、検察審査会なるもので、再調査が行われまいが、不起訴判断(いつもの茶番劇だから、決して、驚くべき事ではないが)だろうが、そんなことは、どうでも良いほど、限りなく、噂であったとしても、証拠が見つからなくても、真実に近いモノを、人々は、どこかで、嗅ぎつけるモノであろう。確かに、この映画の中で登場するような事件というモノは、<あぁ、あれは、あの事件だったのかなぁ、>とか、<こっちの方だったのかなぁ>等と、勘ぐってしまうモノである。暗い部屋の中でモニター画面だけを凝視しながら、まるで、ロシアや北朝鮮のITハッカーのように、人々のSNS上の発言や、フェイク・ニュースやヘイト・スピーチも含めて、左から右も含めて、ありとあらゆる情報監視・操作を、<権力の犬たち>は、<嘗ての国体の護持や国家の安寧という大義・名分のため>に、日夜、この霞ヶ関のビル群の中のどこかで、或いは、オフ・サイトで、ネット・ワークに繋がれながら、<権力の走狗>として、(内閣府情報調査室?)で、この映画の中の多田役の田中哲司(NHK大河ドラマで、荒木村重役で、すっかり、私は、ファンになってしまったが、仲間由紀恵の旦那にもなってしまった事を知ったときには、一寸、驚きだったが、、、、それはさておき、)の指示・命令系統のもと、行なっているのであろうか?

 ネタばらしになってしまうから、あらすじは、割愛させていただくモノの、キャリア組の上級国家公務員の中でも、各省庁から選抜や出向されてきた人物達とそれを束ねる室長(多田)との葛藤や暗闘、或いは、仕事と情報の機密性・公益性のバランス、或いは、誰が、誰のために、何故、そうしなければならないのか、自らの愛する家族を置き去りにして、投身自殺せざるを得ないまで、<守らなければならない価値とは、一体、何なのか?> 自死と言う行為により、残された者達、とりわけ、その家族の中でも、子供という弱い、一番守られなければならない者にとっては、この映画の中での投身自殺してしまう元上司の神崎の娘や妻、ヒロインの新聞記者の吉岡(シム・ウンギョン)も、彼女自身の父の無念を晴らそうとする行動や、その自死を迫られた理由、あんなに強かった父が、何故、自死に至ったのかという理由の追求を通じての<真実を追い求める姿勢>と、皮肉にも、杉原役夫婦(松坂桃李・本田翼)が、激務の中で、破水から、赤ん坊が早産で命の危険の瀬戸際に陥る(私は、てっきり、死んでしまったと早とちりしたものだが、命が助かって 本当に安堵したものだ!)場面、そして、初めて、後日、対面するときに、3人で小さな指に触れあうところなど、黒塗りの記録といい、財務省の本省からの無言の圧力などを考えると、映画のストーリーにも、出てくる実在する記者達(本映画の原案の望月衣塑子、元文部科学省事務次官の前川喜平、日本在住のアメリカ人ジャーナリスト、マーティン・ファクラーの対談が現実のTVニュースで放映・挿入されるという形で映し出されるのも印象的で)、それは、別の意味で、象徴的に、現実の姿が、如何んなく、<現実の冷酷さと冷徹さ>という形て、まざまざと見せつけられる事になります。

 そして、最期には、この映画のもっとも、象徴的な、シーンとして、多田から吉岡への電話:「よく書けている。お父さんにそっくりだ。あなたのお父さんの記事は誤報じゃなかった。でも死んでしまった。残念ですね!」と、そして、一方で、多田は、杉原へも、恫喝にも近い慇懃無礼な今後の身の振り方に関するオファー(こちらも、そう言えば、海外への転属をどこかの国の女性内閣広報官も、似たような事例で、異動させられたことをチラッと、脳裏をかすめましたが、、、、)と、そして、<最期の最期に一言発した捨て台詞>が、私には、気になって仕方ありません。

「これ、お前じゃないよな、お前なわけがないよな、」、「外務省に戻りたいか? しばらく外国に駐在しろ。そのうち、世間は忘れる。そのかわり、今持っている情報はすべて忘れろ!」、更には、「杉原、撤回することは恥ずかしいことじゃないぞ。この国の民主主義は形だけでいいのだ!」と、この言葉を聞いた瞬間の杉原(松坂桃李)には、妻の顔が、或いは、赤ん坊の顔、或いは、元上司の神崎の顔が、或いは、その妻や娘さんの顔が、浮かんだのでしょうか?それとも、父の自死の理由と真実を追究してやまなかった吉岡の顔が、浮かんだのでしょうか?映画のシーンでは、暗くて、その形相と心の底は、垣間見られませんでしたが、想像に余りあるモノがあることは事実でしょう。残念な事に、先日、<孤狼の血、Level 2>の中での鈴木亮平と松坂桃李との競演をみたかったのですが、生憎、映画館に、日程を問い合わせたら、既に、終演になってしまっていて、観れなかったのは、誠に、残念な事でありました。それにしても、昔の社会派映画が、今日、権力への忖度か何かは分からないが、製作自体が少なくなってしまったことは、誠に、残念な事です。マスコミ、政界、汚職事件、警察・犯罪事件内幕、ヤクザや宗教の世界、医療業界・医療行政の内幕、金融・企業の内幕他、ネタには尽きないと思われるが、、、、、。昔のような第二の山本薩夫監督や大島渚は、出てこないのであろうか?一体何処で、何をしているのであろうか?AIとの戦いが、今や不可避と言われている中で、これから先、どのように、真実とフェイクを見極めるツールを私達は、持っているのであろうか、それとも、見つけることが果たして、出来るのであろうか?又、もし可能であれば、どのように、見つけることが出来るのであろうか?まさに、現在進行形であり、喫緊の課題であろう!<答えのない答えを探す旅>を、いつまでも、続けざるを得ないのであろうか?

ポスター画像

 


映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

2021年11月08日 | 映画・テレビ批評

=映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

 1988年の頃だったか、ワシントンDC に赴任した後輩の自宅を、ロス・アンゼルスから、はるばる、大陸を空路で横断して、家族とともに、尋ねた帰途に、東海岸への旅行も兼ねて、NY観光を愉しんだが、その時に、訪問した世界貿易センタービルのツィン・タワーのキップが、たまたま、ラミネート・フィルムの中に記念に残っている。あれから、12年後に、まさか、あのビルが、9.11テロ現場として、グラウンド・ゼロになるとは、全く想像だにすらしていなかったものである。

コロナ禍が、やや、収まりつつあるせいだろうか、それとも、良い映画というモノは、時代を超えて、人々が、待ち望むせいなのだろうか、映画評論家ではないから、その辺は、不明だが、確かに、ほぼ、満席の状態であったことには、少々驚いてしまった。

それにしても、ジュディー・フォスター他、<タクシー・ドライバー>の14歳での娼婦役以来、<羊たちの沈黙>のFBI捜査官役といい、<告発の行方>、或いは、自身が監督として携わった、映画、<ジョーカー>に出てくるまさに、同じようなシーンを、取り上げた、<マネー・モンスター>など、社会派のテーマについて、圧倒的な存在価値を見せつける演技力で、この映画の中でも、両極端の弁護士として、人権弁護士役を演じている。

先般、観た映画、<ミナマタ、水俣>でのジョニー・デップといい、俳優というモノは、一方で、成功を収めて、一定の金額的な裕福さとは別に、やはり、俳優としての社会的性(さが)のようなモノを捨てきれないものなのだろうか、60歳近い年齢になっても、その演技の中には、<大義と正義のような凜とした生き方としての演技>が、自然と、一本貫かれているのだろうか?

米国という国は、世界の警察官を自負しつつ、一方で、戦争を引き起こしておきながら、或いは、Justiceという正義・大義と真実を、自らの手で、忖度することなく、片一方で、公然と否定しきれるような、そんな懐の深い、国柄なのであろうか?それとも、キリスト教的なクリスチャニティーが、どこかに、バックボーンとして、個人のアイデンティティーの中に、確固として、生き残っているのであろうか?それは、この映画の主人公の相対極に位置する一人の人権弁護士である、ナンシー・ホランダーという女性人権派弁護士と訴追する側の謂わば、米海軍側の検察官(弁護士)である元海兵隊出身で、9.11で殺害された操縦士の友人をもつ、スチュアート・カウチ中佐と言う構図の中で、キューバにある米軍のグアンタナモ収容所には当時、700人以上を裁判なしで不当に拘禁・拘留されている一人として、政府・軍組織による至上命令である、起訴の上での死刑の執行という絶対的な組織的な命令の下、モーリタニア人(=モーリタニアン)の青年モハメドゥ・オールド・サラヒ容疑者に対する、裁判の実話に基づく、社会派映画である。

警察を決して信じることのなかった青年が、奨学金を貰うことで、一族の期待を担って、初めて、警察を信じることが出来る国、ドイツに留学することになるものの、ビン・ラディン一族からの電話を受けたことや、一夜の宿として宿泊させた人物が後の9.11の実行犯だったことから、無実のいわれのなき、全く不条理な嫌疑を掛かられ、同時多発テロの容疑者達と深く関与する首謀者の1人として告発されながらも起訴も裁判もされないまま長期間身柄を拘束され、結局裁判での勝訴後も、通算すると、14年にも及ぶ長期の身柄拘束と、拷問・虐待を受ける結果になる。長いときには1日20時間も、精神的。肉体的な苦痛を味わわされ、或いは、足枷で中腰の苦痛な姿勢を強いたり、光の明滅による刺激を与えたり、ヘビメタの大音量を聞かせたり、更には、水責めをしたり、女性尋問官からの強制的な性的陵辱を受けたり、暴力を受けたり、一方的な人間性の破壊行為を強いられることになる。それでもスラヒは英語を学ながら、耐えぬくものの、姑息にも、尋問官は新たな自白用作戦として、母親を盾に取った脅しの言葉に屈して、自白・供述書へのサインを強要されます。(浅間山荘事件の時も、そうだったことを思い起こすが、、、、、、)それにもかかわらず、手記の製作を継続させ、オンライン裁判へと漕ぎつけることになる。

それにしても、ソ連によるアフガン侵攻以来、サウジや米国によるビン・ラディンへの支援は、公然の秘密であり、後年、これは、アルカイダやISにもつながってゆくことになるが、大国の思惑や方針の転換によって、全く一個人の人生が、踏みにじられることは、いつの時代でも、理不尽であるものの、そういうことが、決して、一個人、自分の身に降りかかってこないとも、誰しもが、言い切れるとは限りません。北朝鮮のキム・ジョンナムの暗殺や、旧KGBによるスパイに対するウラン暗殺やイスラエルのモサドによるアラブ人テロリストや岡本公三への拷問手法、或いは、韓国軍政下での一昔前のKCIAによる拷問や、戦前の特高警察・中野学校による自白強要手法など、現代ですら、中国で問題になっている少数民族への漢民族による民族浄化対策ほか、イラクの捕虜収容所の薬物投与による自白の強要他、アウシュビッツ収容所の問題だけでなく、いつの時代にも、組織的な真実隠しは、MFR (Memorandum for Record)として、我が国でも、暗黒の2.26事件・軍法会議記録や、財務省・厚生省での桜の会・森かけ問題などでも、他人ごとでは決してない。人権保護の在り方、司法の在り方、裁判の在り方、弁護の在り方、証拠・自白の手法、ビデオ公開、訴追の在り方、個人がよって立つべき宗教的・規範や信条・理念とその属する地域・組織・友人・社会的な背景との関係性の在り方、結果的に、友人を失う結果になることのリスクと、その結果への覚悟の問題、一見、イスラム教とキリスト教が、相対立するような印象をあたえるものの、最終的には、釈放されたスラヒ本人が、ボブ・ディランの曲を聞いて一緒に歌いながら、笑いながら、「拷問を受けたけれども、アッラーの神様から与えられた試練、それを私は許す」と、一種、この本人からの楽天的なコメントには、何か、<ある種の救済>を感じざるを得ません。この一言がなければ、或いは、Prosecutor からの<誰でも良いというわけにはゆかない。それが、彼であったとしも、、、、、>という言葉にも、どこか、まだ、大義とか、正義とか、Justice とかいうものが、米国には、あるのかな?と思う反面、我が国には、果たして、そんな人物や、仮に自分自身が、そんな当事者や、容疑者になったら、そこまで、不条理・理不尽さに抵抗出来るだろうかと、考えさせられてしまいます。それにしても、<組織のシステム>ではなくて、結果的には、何か、<情緒的なエモーショナルな人間関係性:友人関係>の中で、<「グアンタナモ収容所 記録用覚書」というファイル、MFR (Memorandum for the Record : 32番のボックスを開けたか?!>と言う情報を、友人であるニールから、スチュアート中佐は聴くことになり、これを、<軍からの組織的な裏切り者呼ばわり>されながらも、相手側のナンシー弁護士と情報共有することになる。

 エンドロールでは、結局、未だに、この基地収容所は廃止されることもなく、CIAも、軍当局も、政府関係機関も、関係者からの組織的な謝罪も、弁明も、改善策もないそうで、ましてや、再発防止策や、第三者委員会による検証などは、どうやら、今日、20年後に至るも、ビン・ラディンの抹殺後も、なされてはいないし、恐らくなされることはないだろう、、、(広島を訪問したオババも、結局、釈放や廃止には至らなかった事実がある。)、、、、。かつて、<日本の黒い霧>とは、良く言ったものだが、今日、こうした<黒塗りの記録は、闇の、又、闇>というような状況で、再び、同じ過ちが、繰り返されない、自分の身には、降りかかってこないと言う保証は、全くなさそうである。心して、このことを肝に銘じて、これからの時代を生き抜いてゆかなければならないような気がする。

ハリウッドと言う伏魔殿は、おかしなモノで、このBBCフィルム製作の映画を、平気で、商業主義第一優先の中で、上映公開してしまうことも、凄いことである。一方、日本の映画界の中で、こんな社会派映画を作れる監督、演じることの出来る俳優が、果たしているのだろうかと考えると、スポンサーも含めて、そんな硬派が、いるのだろうか、それとも、現れる可能性があるのかと、日本映画界で、第二の大島渚は、出現するのかとかとも考えると、暗然としてしまうが、、、、、、、。

是非、若い人にも、観て貰いたい。


映画 MINAMATA ミナマタ・水俣を観る:

2021年10月08日 | 映画・テレビ批評

=映画 MINAMATA ミナマタ・水俣を観る:

 

この2年間、コロナ禍で、映画館で前回、どんな映画を愉しんだのか、想い出せないし、そもそも、電車や地下鉄に乗った記憶が、想い出せないほど、遠い昔のような気がする。全く久しぶりに、電車に乗ると、社内の中刷り広告や電子広告ですら、何か新鮮な感じがしてならない。すっかり、アマゾン・プライムのビデオによる映画鑑賞というパターンが、年寄りの行動様式の一部に定着してしまった。

 それにしても、もう、50年も前の記憶が、ジョニ-・デップのメイク・アップによる顔つきそのものが、の時代のユージン・スミスのイメージと重なってくるから、映画という奴は、人間の記憶というものは、面白いものである。それは、50年の時を経て、忘れかけていた記憶が、蘇ってきた。

 ジョニーデップという俳優については、私は、せいぜいが、昔観た、PLATOONやシザーズハンド、エルム街の悪夢や、テレビで観たチャーリーとチョコレート工場、或いは、パイレーツ・オブ・カリビアンの海賊シリーズや、ローンレンジャーのインディアン役、等が、想い出されれるものの、一寸、駄目親父的な何か、仕事に没頭しすぎて、妻や子供・家族を忘却した挙げ句に、相手にされなくなる仕事最優先の高みを極めるアル中寸前の人物像が、プライベートな生活とも相俟って、二重写しに、ユージンスミスとダブって浮き出てくるのは、決して、間違った解釈とも思えない。だからこそ、製作・主演を自ら、やってのけたのにも、何か、内面的な理由が隠されいるように思えてならない。

 60年代から70年代にかけての高度経済成長期での<4大公害>(KOUGAIという恥ずべき日本語自体が、英語でも世界中に、通用することになったことは、誠に、皮肉なことであるが、、、、)とは、熊本県の水俣湾で発生したメチル水銀汚染による「水俣病」、同じくメチル水銀汚染による新潟県の阿賀野川流域での「新潟水俣病」、三重県四日市市で発生した主に硫黄酸化物による大気汚染が原因の「四日市ぜん息」、富山県神通川流域で発生したカドミウム汚染による「イタイイタイ病」も、何か、今日では、人々の記憶の中に、スゥーと想い出されることもなくなりつつあるのが現実で、水・海・地下水・空気・土質・環境汚染が、食物連鎖と相俟って、未だに、50年も60年も経た今日でも、インドの殺虫剤工場、ネシアの火力発電、ダム工事、チェルノブイリ原発事故、福島原発放射能汚染事故、エンドロールに記載されている世界的な規模での環境汚染・山火事や豪雨による気候変動やマイクロ・プラスティックによる海洋汚染も含めれば、脱炭素社会を目指すと言いながらも、この半世紀・1世紀の間では、何ら、問題解決のきっかけすらも、見つかっていないのが現状なのであろうか?

 映画の中で、真田広之演じる住民運動のリーダーの名前が、なかなか、想い出せない、訴訟派に対して、飽くまでも、住民運動を組織して自主交渉派として、22年間の長きに亘って、市議を3期務め、成田闘争で検挙された、川本輝夫を好演していたり、國村肇演じるチッソの社長役、江頭豊と言う名前も、なかなか想い出せない。71年という年は、社会へ出る1年前で、この年の年末には、想像だにしていなかった友人との突然の永遠の別れを経験することになる。そんな個人的な事情もある時代背景を伴って、感慨深く、映画を見つめていた。

 写真というものは、今日、オート・フォーカスで、デジカメにしても、スマホにしても、ある程度の水準で、失敗のない写真が撮影できるが、アメリカ先住民であるインディアンによれば、写真を撮影される被写体になることは、<魂そのものを奪われる>と言われてきたが、同じ先住民の血を引く、ユージン・スミスは、逆に、撮影する立場であるフォトグラファーとして、<写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない>ともいっているし、又、フォト・ジャーナリズムについても、<これは(写真集は)客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる> 更に、こうも言っている、<ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている>(英語版序文から)

 言葉によるジャーナリズムと異なり、<フォト・ジャーナリズムとは、LIFEの如く、写真を通して、リアリズムを追求したのであろうか、それとも、(ユージン・スミスが、主張するように、)徹底的に、リアリズム(写実主義)を排除するところから、成立しているのであろうか?>ファインダーからのぞいた風景とスマホの四角い画面から撮影する構成画面は、同じ風景なのか、それとも、異なる風景なのであろうか? ジャーナリズムの神髄は、人嫌がるところをあぶり出すところにあるとまで、映画の中で、言っているが、この時代には、まだ、文春砲も、パパラッチもいなかった時代だが、、、、、。ユージン・スミスは、1918年生まれだから、サイパン(1944年)、硫黄島・沖縄戦(1945年)に、戦場カメラマンとして、従軍していることも、写真を撮る側と撮られる側の立場の違いは、自ずと若い頃から、ありのままの生と死の違いを見つめざるをえなかったのではないだろうか?

 ジャズや音楽は、私にとっては、門外漢であるから、(サントラなどやエンドロールの音楽については、よく分からないが、坂本龍一が、どのように関わっているのかなどは、わからないので、)割愛するが、確かに、<水の音>という共通キーワードは、映画の全編を通じて、観客の耳の奥に、残っているのは確かである。

 この時代には、やはり、都市工学と言う言葉自身を当時、物珍しく聞いた記憶があり、且つ、公害言論という大学の公開自主講座を開催した万年助手の宇井純や、石牟礼道子の苦海浄土(白い巡礼着と網傘)についても、最後に触れておきたいものである。当時の記憶が、映画を見終わってから、沸々と、記憶が蘇ってきた。

 尚、映画『MINAMATA-ミナマタ-』では「封印」された「入浴する智子と母」が使用されており、アイリーンは映画を見た後で「この写真を大切にするなら今何をするべきかと考えた時、『本物の写真を見せることだ』という結論」に達したと述べ、再刊する写真集で「入浴する智子と母」を含めた、上村智子の写った写真を掲載する意向を示したと言われているが、、、、、。

 

(フォト)・ジャーナリズムとは、何か?表現するとは、どういうことなのか? 写真を撮影する立場と撮影される被写体との違いは、何か? 住民運動とは何か? 資本主義のモラルとは何か? 企業家の倫理観とは? 利潤追求とは、? 労働者として、生活者として、一人の人間・一個人として、どのように、こういう環境破壊と環境汚染と対峙してゆくべきなのか? 半世紀後も、問題解決はなされているのか? 真実を追求する行為とは、公開することは、いかなる意味があるのか? 後世に記録として、残すには、何をなすべきか?

 

日本人による作品がならなかったのは、至極残念だと言う意見もあるが、私は、そんなことは、国籍・人種を問わずに、良いものは、誰が作っても宜しいではないだろうか?そんな時代に、日本のジャーナリズムが力がなかっただけで、半世紀後の今日の現実も、変わっていないのも事実であろう。むしろこちらの方が、より深刻な問題であろう。この当時、同じ頃には、戦場カメラマン、沢田教一は、ロバート・キャパ賞を受賞しているが、、、、、、、。

 

それにしても、良い映画は、平日の朝からでも結構、コロナ禍でも熱気に溢れ、混雑しているものだ!

 

#ミナマタ #水俣病 #ジョニーデップ #ユージンスミス #フォトジャーナリズム #公害 #映画 


女芸人、吉住:異種格闘技のお笑い

2021年01月14日 | 映画・テレビ批評

=女芸人、吉住:異種格闘技のお笑い

 

R1とか、M1とか、お笑い芸人達は、人生を懸けた過酷な戦いを、今年も展開する訳だが、考えてみれば、国際バレーコンクールや、何やらかがしの著名な国際的なピアノコンクールのように、そこで、入賞したり、優勝したりすることで、プリマになれたり、いきなりコンサートに箔がついて、それで、これからの生活が保障されて、スプリング・ボードになれるというものとは、異なり、お笑い芸人のそれは、何とも、不安定そのものである。尤も、その賞金で、これまでの下隅生活での借金を返済したり、アルバイトを辞めて、ある程度保障された演芸場や寄席やテレビのバラエティー番組のひな壇へと並ぶことを許される、きっかけを手に入れることになるのかもしれないが、決して、お偉いさん達のエスタブリシュメントから、勲位を授けられるものでないことは確かである。その意味では、優勝したからと言っても、否、逆に、準優勝や、優勝できなくても、敗者復活戦で最終決戦に生き残りを懸けて、戦いに挑んだものの、惜しくも撃沈した者の方が、逆に、視聴者からの応援や評価が、著名な大御所と評される審査員達よりも、ずっと高くて、結果として、その舞台で優勝をしなかったことの方が、その後の飛躍のきっかけになると言うことも、決して、過言ではなさそうであるのが、このお笑いという世界の一種の面白い掟でもあるのかもしれない。又、お笑いのカテゴリーというものも、昨今は、多様化してきて、典型的な上方の漫才や、3人構成でのコントや、一人話芸とか、これまでの古典的なやり方や、話芸という範疇だけでは、語り尽くせない、ある種のルールを超えた<一種の異種格闘技>のような様相を呈し始めているような気がしてならない。更に言えば、そのお笑いのジャンルが、異なることからくる、ある種の感動のようなものが、或いは、大受けした後の観客の反応のどよめきのような、津波のような波動が、果たして、コロナ禍での無観客試合という、観客による笑いの渦が生じる予知のない状況下で、まるで、一切のお笑いの応援がない中で、果たして、どれほどの+アルファを引き起こしうるのであろうか?更に言えば、くじ引きでの出演する順番でも、確かに、反応は異なり、無観客とは言え、その場の雰囲気が、妙に荒れた後から、出てきて、演じるのと、その場が、ある種の静謐な感じのなかで、やるのとでは、確かに、その場の雰囲気が大きく異なり、そうした条件も、本来、点数には、加味されなければ、<公平ではないのではないか>とも、感じられる。そんな採点方式は、人間では無理であり、AIでなければ、公平には評価は出来ないであろう。だからこそ、そういう<不平等な、或いは、予想もつかぬような、不測の事態>を織り込んだ、謂わば、<不平等も運のうち>という条件を、幸運にも、味方につけた者のみが、優勝や、準優勝、或いは、優勝できなくても、大きな爪痕を残して、その後の飛躍へと繋がるチャンスを掴むのかも知れない。

  翻って考えてみれば、古典的な、或いは、典型的な上方漫才の<話芸中心のカテゴリー>は、既に、ある程度の戦前での予想の中では、前評判が高くて、逆に、それは、必ずしも、プラス要因になるものでは、決してなかろう。謂わば、覇者の王道を極めるような当たり前のやり方なのかも知れない。それは決して、必ずしも、優勝や栄冠を得るという手法ではなかったのかも知れない。それは、<一種のビジネス・モデルのようなもの>で、これまでの延長線上での<話芸中心か、話芸本位での上方スタンダード>だったのかもしれない。それは、微妙に、大御所審査員の出身構成からも見て取れない訳でもない。その意味で、闘う前から、事前の評価は高くても、必ずしも、<視聴者や時代が求めるような斬新な、且つ、新しい殻を破るような、新しきを渇望するニーズ>には、合致しなかったのかも知れない。

  ユリアンによる明らかな一種の挑戦的というよりも、挑発的・意図的な斬新な試みにより、大きく、その場の雰囲気が、まるで、時空の壁が破壊された如き大きな波動が治まらないなかで、ほぼ、無名に近い、但し、YouTubeや人力舎の地道な手作りライブでコツコツと一部のマニアックなファンを獲得していた<吉住>が、見事に、<一人芝居コント>で、<女審判>を通じて、独自の世界観を表現したことは、おおいに、評価されて然るべきであろう。一歩間違えれば、大津波の爪痕が残るその場の雰囲気に、呑み込まれてもおかしくないところを、奇抜な設定と、ストリー性でまとめ上げたうえに、一人芝居という演技力で、お笑いとある種のペーソスとを織り交ぜて、観客の共感を得たことは、明らかに、<自分の陣地で独自の世界観>を演出し、<自身のグラウンドで異種格闘技に持ち込んだ>勝利ではないだろうか?

  映画監督が、脚本家とともに、或いは、著名な、或いは無名な俳優を使って、その世界観を映画という作品の中で、表現するのと同じように、一人芝居コントで、脚本・演出・監督・俳優という何役も、自らこなし、更には、他のお笑い芸人にまで、作品を提供することは、もはや、一人の女芸人の域を超えているとも思われる。何も、これからの時代は、テレビのバラエティー番組や寄席や演芸場で売れることが、必ずしも、主流では無くして、YouTubeやコロナ禍での主流になるかも知れないオンライン・ライブとか、動画配信サービス、更には、TVerやNHK+のようなリアルタイムの放映を気にすることなく、後でゆっくり時間を無駄にせず、自分の空き時間に愉しめるツールが、主流になってくるのかも知れないし、又、その裏はなしを改めて、ネット動画で、ネタばらし同然に、愉しむ時代に突入してゆくことになるのかもしれない。そういう事前・事後の楽しみが期待できそうである。優勝者の吉住のみならず、惜しくも優勝できなかったお笑い芸人達も、今後、何かのきっかけ、大ブレイクし、何十年か先には大御所として、審査員になっていることを愉しみにしたいものである。既に、戦いの前から、優勝賞金を狙っていた先輩芸人もいたらしい裏話も、YouTubeに、明らかにされているので、そちらも視聴してみて下さい。参加者の今後の活躍に期待したいモノである。


古関裕而と作曲

2020年06月29日 | 映画・テレビ批評

=古関裕而と作曲

NHKの朝ドラは、それ程、興味もなく、又、その題材によって、これまでも、連続して、観たり観なかったりするが、別に、主演女優や主演男優や脇役陣や、注目の売り出し中の若手俳優にも、それ程、興味が湧く歳でもないものである。新型コロナ禍の中、家籠もりの中で、たまたま、作曲家としてコロンビア・レコード特約契約したにもかかわらず、一曲もヒット曲も、レコーディングも出来ずに、その才能に苦悩し、自分を推薦してくれた山田耕筰に出向くシーンが、目にとまり、というよりも、新型コロナで急逝した志村けんが山田耕筰を演じていたからなのかも知れないが、その後、何故、生涯を通じて、5000曲以上の作曲を手がけた偉大な作曲家として名声を得るに至ったのかを、何故か、知りたくなり、観ることになった。

1909年、福島県出身で、後に、作詞家としての野村俊夫、歌手の佐藤久男(四三男)とともに、福島のコロンビア三羽がらすと謳われることになる。それにしても、作曲のジャンルが、広範で、歌謡曲、戦時歌謡曲(軍歌と総称されるのであろうか)、映画音楽、ラジオ主題歌、ミュージカル、スポーツ行進曲、マーチ行進曲、社歌、校歌、地域都市の歌、県民歌、等、とりわけ、私が、興味を抱くのは、生まれた時代が悪かったのか、どうか分からぬが、西条八十らと共に、戦線慰問と共に、国策である軍歌によるプロパガンダに組み入れられるという時期と作曲創作時期が不幸にも一致してしまったということだろうか?その歌詞の言霊を作曲するメロディーに乗せて、あるときは、鼓舞し、あるときは、反戦の思いを隠し、暁に祈るや若鷲の歌(予科練の歌)や所謂、数々の戦時歌謡曲と称する所謂、軍歌には、複雑な思いが反映されていて、これにより、戦場に送られて戦死した数多くの人々に思いをはせるときに、忸怩たる思いを抱きながら、やがて、それは、戦後の長崎の鐘(サトー・ハチロー作詞)という形で、鎮魂歌として、結実してゆくことになる。それは又、イヨマンテ(佐藤久男による歌唱)や怪獣映画、モスラの中で、ザ・ピーナッツが、インドネシア語で歌ったモスラの歌の中にも、平和記念とアジア民族への井鎮魂が含まれているのかも知れない。そんなことを知らない私たち子供達は、映画の中で、モスラよ、モスラ、、、、、、、訳も分からず、お題目のように、呪文のように唱えて真似したものである。今や早稲田の第一応援歌となった、紺碧の空、慶応の我ぞ覇者、そして、高校野球の栄冠は君に輝く、恐らく、古関は高等学校野球大会や六大学野球だけでなく、戦時下の神宮外苑での学徒出陣式にも、複雑な思いを抱いたことであろう、さもなくば、戦時下の検閲の厳しい中で或いは数多くの制約と政治的な圧力の中であれ程の軍歌を、今日に至るも歌い継がれているような数々の軍歌を作れなかったのではないかと思われる。未だ、JRが、省線という茶色の電車だった頃、私の子供時代には、傷病傷痍軍人が駅頭や車内で、松葉杖とアコーディオンで、白い軍帽と軍服を着て、旨の前には、賽銭箱ならぬ募金箱を掛けて、ジッと座っていたり、或いは、車両を廻って募金を迫ってくる記憶が頭の底に残っている。とりわけ、耳の底には、暁に祈るや若鷲の歌などが、どういうわけか、そのメロディー・ラインが、駆け回る。戦後のマーチや行進曲、六甲おろしや巨人軍の歌とか、スポーツを古関はやらなったせいなのかは、知らぬが、スポーツショー的なメロディーは、子供時代に、とりわけ稲尾全盛の三原西鉄黄金時代の日本シリーズのテレビ中継に際しては、胸躍らせながら、テレビの前で、今か今かと待っていたことを想い出す。それらの作曲を手がけたのが、欣ちゃんの家族揃って歌合戦で、ニコニコしながら審査員席に座っていた人だとは、、、、、、、後に知ることになる。舞台でも、菊田一夫と共に、演劇音楽でもタッグを組んだことは、記憶に新しいが、それにしても、島倉千代子の東京だよおっかさん(野村俊夫作詞)などのメロディーは、どういう訳か、耳の奥底に、残っていて、闇市の混雑と一種の臭いと共に、記憶の片隅にメロディーラインが蘇ってくるものである。トンガリ帽子の赤い屋根というラジオ放送の主題曲も、或いは、高原列車はゆくや、君の名は、のメロディーや有名なナレーションは、恐らく、亡き母の世代が夢中になって聞いていた時代のことだが、未だ幼児期の私たちにも、知らぬ間に、記憶の片隅に焼き付いているようである。早慶戦での肩組み合って、謳った応援歌も、今年は、新型コロナで、新入生達は味わえないし、栄冠は君に輝くも、難しそうである。

シンガーソングライターは、自分の好きな歌だけを作詞・作曲し、謳うだけなのであろうか?それは謂わば、自分の世界観だけを貫くだけで、生活のために作るという謂わば、時勢に媚ながら、媚びなくても、多少曲げたり、妥協したりしないと生きてゆけないのであろうか?或いは、そうこうしている間に、才能が枯渇してしまうのであろうか?一曲でもヒットさせることが大変な世界で、50年も或いは、5000曲も、数多くのメガヒットを飛ばせるコツとは何なのであろうか?


家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:

2020年03月30日 | 映画・テレビ批評

家籠もりの中で、往時の任侠ビデオを観る:

 

GAFAに肩入れするつもりは毛頭ないものの、時代の流れなのか、Amazonのプライム会員であることをすっかり忘れていたら、何かの拍子に、ビデオや電子書籍が読み放題だと気づき、慌てて駆け込みで、このご時世であるから、山籠もりと称して、眼の衰えをカバーすべく、ラップ・トップPCを大きなモニターに接続して、たっぷり、往時の任侠映画を、ビデオで愉しむことにした。藤純子の緋牡丹博徒シリーズ、高倉健の昭和残侠伝シリーズ、池辺良や鶴田浩二の出演する任侠シリーズで、銀座の並木座で、3本立て等で、学校の授業の帰りに、友達と連れだって、60年代の後半に、よく観たものである。当時は、見終わり、映画館を出るときには、どういうわけか、鶴田浩二の影響かどうかは、分からぬが、無意識に、両手の拳を握りしめて、これは、後年、海外出張し、異国の地を歩くときにも、どういうわけか、そのスタイルが身につき、殺気をみなぎらせながら、闊歩したモノである。又、ある友人は、必ず、中指をピンと伸ばして、歩く癖をつけてしまった。50年時間が経過した今でも、その名残は、どこかに、癖として残っているのは、どうしたものだろうか?

それにしても、凜とした藤純子は、結婚して、名前が変わっても、或いは、娘の女優が有名になろうとも、藤純子は、藤純子であり、銀幕の中の緋牡丹お竜さんは、お竜さんのままである。又、武骨で、無口な高倉健は、後年の主演男優賞や助演男優賞などとは、全く無縁な、寡黙な煮えたぎるような殺気を押し殺した一匹狼的なアウトローの雰囲気である。それでも、何本か往時の作品を見終わった後の<違和感>は、一体、どこから、来るのであろうか?あの50年以上も前に抱いた<感動>とは、明らかに、異なるところの、ある種の<虚しさ>、懐かしいという感情は、余り、<沸いてこない>のは、何故なのであろうか?

どうやら、歌とか、映画とか言うものは、<その時点での時間的な、或いは、空間的な時代背景や歴史的な環境・雰囲気>、或いは、<私的な空間の概念と、何らかの感動、或いは驚きが、不可分に結びついていて>、決して、AIで再生・合成された美空ひばりには、微妙な違和感を抱き、我々がそうして感じるのと同じような、或いは、似通った感情を持つものなのかもしれない。明らかに、それは、50有余年という<時間的経過と肉体的変化・経過>や、或いは、<往時の精神状態と現在との差異>から来るところの違和感なのかもしれない。銀幕に映し出された緋牡丹お竜も、高倉健も、ポッポ屋や黄色いハンカチーフの健さんでは決してない。<賞味期限>とはよく言ったもので、時間的な経過とベストの賞味期間とは、人間の肉体・精神でも、同じことが言えようか?それは、眼も衰え、脚が萎えてくるように、それは、亡くなった両親や愛犬の介護でも、十分、認識してはいるものの、、、、、、、。いざ、自分が、そういう段階に近づきつつあるときには、<本能的に、違和感を感じる>ことになるのであろう。よく、人生最期に食べる一品とか、観たい映画はとか、無人島に持って行く本は、何だとか、謂われるが、恐らく、もう、これからは、往時の任侠映画を、何度も、<観ることはない>であろうし、あまり、<観たいとも思わない>かもしれない。絵描きの画風が若いときと、熟年期、晩年期とでは異なるように、自分の中でも、本を読み返したり、映画を見直したりすることは、なかなか、興味深いものがありそうである。本であれば、往時の棒線や付箋などで、記憶に残った部分が、探し出せるが、映像では、なかなか、難しいものである。<カミューのペスト>も、こういう状況だから、異邦人同様、読み返してみることにしようかな!新型コロナ・ウィルスの一番の特徴は、<どうしようもないくらいの倦怠感>らしいが、肉体的な倦怠感ではなくて、<長年に亘る人生の倦怠感とか、夫婦間での倦怠感>は、どうしたらよいのであろうか?女房殿からズバッと指摘されそうである。(笑)でおさまれば、宜しいが、、、、、、。


映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

2020年03月28日 | 映画・テレビ批評

映画、<三島由起夫と東大全共闘、50年目の真実>を観る:

それにしても、50年も前の若者は、古稀を過ぎてから、眼が衰え、レンズを交換して、すっかり、読書量が激減し、最近では、新型コロナウィル禍の為もあり、映画鑑賞の代わりに、ビデオの視聴が多くなってきたのはどうしたモノだろうか、尤も、友人に勧められて以降、KINDLEをダウンロードしてからは、i-padにダウンロードしたE-bookを読む回数が増えてきた。

新型コロナウィルス禍により、山ごもり状態であるが、今日(3月20日)から上映開始されるというので、山から下りて、映画館のネット・チケットをスマホで予約して、席もなるべく2席ほどの距離を開けて、とったにも関わらず、後から来た客は、何と私の隣の席に座ったので、やむなく上映開始と共に、一寸離れた席に移動して、マスクをしっかり装着して、再びじっくり見ることにした。それにしても、濃厚接触を回避する為に、ネット上では空席が明記されているのに、このおばさん夫婦は、何を考えているのであろうか?

 

それはさておき、TBSが所蔵していた4時間に亘る1969年5月13日の討論会のドキュメンタリー・フィルムを編集しながら、当時の関係者等のコメントをちりばめながら、この<言葉が未だ力のあった最後の時代>を、50年後の我々は、如何に、今日的に考えたら良いのであろうか?ここに登場する人物達の何名かは、主役を含めて、双方共に、既に今は亡く、もしも生きていたならば、どのように、再び、往時を総括するのであろうか?

当時は、全国的に燎原の火の如く拡がった、医局待遇改善や授業料値上げ反対闘争とも相俟って、世界的なベトナム反戦運動や、佐世保への原子力空母エンタープライズの寄港や王子野戦病院反対闘争や、ジェット燃料輸送阻止や、4・28沖縄奪還闘争や10・21国際反戦デー、新宿騒乱事件や東大安田講堂落城など、枚挙にいとまがないほどの政治闘争の真っ只中の中で、単身、敵対するであろう1000人もの意見を異にする若者を相手に、<正々堂々、真摯に敬意を払い>ながら、<言葉と言葉の激突する決闘の場に、臨んだその誠意>には、改めて、敬意を表すると共に、今日の官僚によるメモと原稿を棒読みをしたり、議事録・公文書を改竄したり、或いは、部下を自殺に追いやっても平然とその地位に甘んじている政治家や高級官僚などと比べるのも、誠に、おぞましく感じられる。

このドキュメンタリー映画を見終わって、そういえば、当時、この討論会の詳細な本を読んだ記憶を想い出し、改めて、本棚を探してみたら、文化防衛論や英霊の声の本の間に、副題:<美と共同体と東大闘争>新潮社版Yen250と記された177頁の本が出てきたので、ドキュメンタリー・フィルムと並行して、論じてみることにしよう。写真とかでは色々と現場の雰囲気を伝えるモノを見ているが、改めて、50年後にビジュアルで、観てみると、その<双方の圧倒的な熱量、熱い思い、濃いい情念>が、大画面から、三島の大きなギョロッとした眼から、上腕から、直接に、伝わってくる。それは、50年前に読んだ時に、本に記された自分の○や棒線・付箋から、感じられるある種のキーワード的なそれとは、異なる心を映像的に、揺さぶられるものではなかろうか。しかしながら、本に記載された内容を読み進むにつれて、改めて、<映像の時代と文字の時代>の違い、とりわけ、同じ<言葉を通じた表現の違い>はあるものの、未だ、確かに、当時は、言葉を媒介にした、立場を異なる者達同士が、<真摯に、言葉で互いをリスペクト>しながら、<言葉を武器として決闘の場に、正々堂々と自分の論理を展開したコト>には、50年後の現在には、絶対にあり得ないことであろう。<言霊が会場を飛び交い、そして、自決という言葉を残して>、三島は会場を後に去って行くことになる。<空っ風野郎>というヤクザ映画に出演したり、<人斬り>で切腹を演じてみたり、この討論会から、イヤな予感はあったものの、この1年半後に、市ヶ谷自衛隊総監部での割腹自決に至るとは、未だ、この時点では誰が想像し得たであろうか?確かに、12頁の中頃に、50年前の私は、<自決>という箇所に、○でこの文字を囲んでいる。

 

本の 目 次:

  • <われわれはキチガイではない>:

=暴力はいかんということはいったつもりはない、、、、、、、

=筋や論理はどうでもいいじゃないか、兎に角秩序が大切である、、、、、、

=行動を起こすときは結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。

=非合法で決闘の思想において、、、、、、、自決でも何でもして死にたいと思うのです。

=反知性主義と丸山真男について、、、、、、

  • <自我と肉体>:
  • <他者の存在とは>:

=サルトルの<存在と無>を引用しつつ、暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。、、、、、

=暴力という形じゃなくて、、、、、<対決の論理・決闘の論理>に立っているのだと思われる。大江健三郎も引用しつつ、、、、

  • <自然対人間>:
  • <階級闘争と自然に帰る闘い>:

=バリケードに供された教室の机の存在の考察を通じて、生産関係の根本に労働対象としての自然概念と暴力の根源的衝動について、、、、、、、、

  • <ゲーム或いは遊戯における時間と空間>:

=あなた方が作った歪んだ空間、その空間がそこに存在する時間はどういう風に持続しますか?

=解放区の問題を論じたいと思うのだが、、、、、時間の持続性という問題へ、、、、、

  • <持続と関係付けの論理>:

=三島からの二つの問題提起、名前というものがない世界と、、、、、目的論なしに活用出来るのか、、、匙を具体例にあげながら、、、、、

=ここで、三島をぶん殴りたいという全共闘Eが議論に加わる、、、、、

  • <天皇と民衆をつなぐメンタリティー>:

=安田講堂で諸君が立てこもった時に天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒に、、、、喜んで一緒にやったと思う。

=昭和初年における天皇親政というものと、現在謂われている直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。

=中間的な権力構造の媒介物を経ないで国家意思と直結するということを夢見ている、、、、、、、日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか。

=その難しさの中でだね、諸君は戦い、ぼくだって戦っているんだ。それは日本の民衆の底辺にあるものなんだよ。それを天皇とよんでいいかどうかわからない。たまたま、ぼくは天皇という名前をそこに与えるわけだ。

=一体民衆の底辺というのは何なんですか?

=民衆の底辺というのは、日本人の持続したメンタリティーということで、時間の問題をぼくはさっきからたびたび言っているわけだ。、、、、、、、空間を形成する日本人というものは、諸君のような新たらしい日本人だ。、、、、、、、、一定の時間の中にしか生きていない人間、その人間の中にあるものだね。私は、日本人のメンタリティーの一つの大きな要素と考えるのだ。そのメンタリティーをどうするのかというこの問題を言っているわけだね。

  • <過去・現在・未来の考え方>:
  • <観念と現実における美>:

=君は美は美として完結させるにはどういう方法があるのですか、、、、、それを教えて下さい、それをどうやって君は完結させる。

=美というものは、ただ観念の中にしかないものである、、、、それを一歩踏み出せば、現実に腐食されて、美は美でなくなっちゃう。、、、、、、、、そうすると、諸君にとって美というものは、何ら重大な問題じゃない。

=芸術と実際行動との間というものについて、、、、、あらゆる関係性、時間性、現存性を超越していく方向、、、、、、自己超越性―超時間性、、、、、芸術作品における意識性と無意識性、、、、、、、、

  • <天皇とフリー・セックスと神人分離の思想>:
  • <ものとことばと芸術の限界>::
  • <天皇・三島・全共闘という名前について>:
  • <われわれは敵対しなければならない>:

 

ここまで、<50年後の若者である私>は、一生懸命に、<50年前の当時若者であった私>が、付箋を付した箇所を、なぞりながら、引用してきたが、ここまでくると、もう、別の<書籍評論>として、検討したくなるほど、付箋が多くなって来ました。是非、50年後の若者も、今の若者も、再度、或いは、新たに、読まれることをお薦めします。又、最近では、<カミューのペスト>が、再読されているようで、こちらも、書棚から、再読してみたいとも考えています。一寸、根気がなくなり、消耗してきたので、最期の節は、若干、端折ることにさせて下さい。お許し下さい。

 

そして、討論を終えて

  • 砂漠の住民への論理的弔辞 (三島由起夫)

=(三島は)このパネル・ディスカッションのために用意した論理の幾つかを次に箇条書きにしてみようと、下記を纏めている。

  • 暴力否定が正しいかどうかと言うこと。(三島は、無原則。無前提の暴力否定に反対し、暴力を肯定すると言った。、、、、、、、、、毛沢東の人民戦争のみが正しい暴力であるという論理に対するアンチ・テーゼ、、、、、、、)
  • 時間は連続するものか、非連続のものかと言うことである。(解放区・自分の肉体、精神、、、、、空間と一種の時間主義、、、、、、、、連続性と非連続性、、、、、歴史・伝統、、、、、、、過去・現在・未来という時間的連続性、、、、、、、)
  • 三派全学連はいかなる紡機にかかっているのかと言うことである。(左翼小児病、、、、、人は敵を愛することは出来るが、背いた友を愛することはできぬ。、、、、、、、嗜好の自由を標榜しながらも、ある点へ来ると体制左翼から思考の型をかりているか。、、、、、、、、政治と文学、(三島の)文学と行動とに対する彼等の批判、、、、、)
  • 政治と文学の関係である。(文学を生の原理、無倫理の原理、無責任の原理と規定し、行動を死の原理、責任の原理、道徳の原理として規定している。芸術が生の原理であり、無責任の原理であり、無倫理の原理であるという点については、彼等と三島との芸術観については、相隔たるところはない。しかしながら、行動が死の原理であり、責任の原理であるという点について、まさにその点についてこそ、彼等とわれわれとの思想的対立があらわにされるのである。、、、、、、、、生の原理と死の原理、、、、、、この二つの原理がお互いに行動の根本動機になるのであるとすれば、われわれは同じ行動様式によって反対側の戦線で闘っていると言わなければならないのである。、、、、、、、、、、、。)
  • 天皇の問題である。(、、、、、、、、、、私は彼等の論理背を認めるとしても彼等の狙う権力というものがそれ程、論理的なものであるとは考えないのである。そして、彼等が敵対する権力の事態の非論理性こそ、実は私も亦闘うべき大きな対象であることは言うを俟たない。、、、、、、、。)

 

ここまで読み進めてきて、少々、消耗してきました。やや、限界ですね。

  • 三島由起夫と我々の立場 (東大全共闘)
  • あるデマゴゴスの敗北
  • 時間持続と空間創出

 

それにしても、50年後の若者は、50年前の若者、自分自身を振り返ったときに、何を感じるのであろうか?そして、今の若者が、50年前の若者を観たときに、何を思うのであろうか?ドキュメンタリー・フィルム全体に溢れる<圧倒的な熱気>は、本を再読するときとは、全く別の感慨を有する。今や、<事なかれ主義>という言葉も、<不作為>という言葉も、行動原理とか、主体にしても、今日の公文書改竄、カレイのような上目使いの行き過ぎた忖度にしても、言葉を重みを置かない言葉の遊びと責任を伴わない行動とか、今日、もはや枚挙にいとまがない。少なくとも、イデオロギーを異にする他者とも、正々堂々と、決闘の精神で臨んだ三島由起夫という存在は、その1年半後に、あの行為に、結実・実現されてゆくことになる。

50年後の元若者としては、是非、今の若い人達に、観て貰ったり、本を読んで貰いたいモノである。<体感せよ!50年前の真実を!>

髙橋和巳も、吉本隆明も、そして、<とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く>というコピーを打ち、<三島由起夫とは、なにものだったのか>を著した橋本治も、今は亡く、もし、彼等が、この映画を観ていたら、どのようなコメントをしたであろうか、興味深い。それにしても、<連帯を求めて、孤立を恐れず、こころ尽くして挫けることを恐れないが、こころ尽くさずして挫けることを拒否する!>と落書きした人物は、今、何を思うのであろうか? そして、吉田松陰は、いみじくも、こう言い放っている。<死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし、生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし>、戦後民主主義の教育の下で育った若者と、敗戦を体感した若者とのその後の生き方の選択は、全く異なる時間の経過を辿ることになってしまった。それでも、50年後の総括は、未完のまま、現在進行中である、、、、、。


映画、パラサイト~半地下の生活を観て:

2020年01月17日 | 映画・テレビ批評

平日の昼間だというのに、なかなかの入りである。カンヌ映画祭、パルムドール受賞作品であるせいなのだろうか、それとも、今後、日本でも、予想される格差社会招来に対する密かな関心と微妙な最近の日韓関係を危惧している中年韓流マダム達のグループが後押ししているせいだろうか、よく事情は、飲み込めぬが、なかなか、興味深いものがある。

それにしても、多少はブラックコメディー風な筋書きであるものの、映画を観る立場の側の観客からすれば、心の奥底では、ひょっとしたら、上流富裕階層に寄生するパラサイト生活がヒョッとしたら、うまくゆき、ハッピーエンドに終わるのではないかと、淡い期待を抱かせてしまうものであるが、映画の脚本とは、そもそも、そんなに甘いものではないのが、この映画を見終わって初めて知ることになる。ネタバレは決してしないで貰いたいというポン・ジュノ監督の気持ちも分からなくはない。

日本では、半地下なる方向へ向かうのではなくて、寧ろ、上へ上へと高層化を果たしたのに対して、1960年代の北朝鮮と対峙してきたという政治的・軍事的な状況から、どうしても、地下壕や地下室避難は、不可欠な建築様式でもあり、成る程、有事の避難場所であることを推奨されたことも、納得されるものがある。(この映画の中では、ヤミ金融業者からの取り立てから逃れるための一種のパニック・ルームのような位置づけであることは興味深いことである。)そのことは、映画の中でも、奇しくも同じような境遇であることを共通項に持つ二つの家族の地下生活家族同士の会話の中にも、金正恩のおなじみの演説の応酬にも垣間見られて面白い。

それにしても、半地下式の<窓>を通じて、<社会の窓>を<下から上へ><高低差>として眺めることは、如何にも、現実社会の<階級格差の上下階層>を象徴しているようであるし、様々な場面で展開される、<階段や石段>も、そして、そこから<躓いたり、転げ落ちる>行為なるものも、又、<中産階級からの転落・没落を暗示>しているとも考えられる。それは考えすぎだろうか?それとも、<まだ、没落を実感していない人間の上から目線的余裕>なのであろうか?

 人生は、自分の意図した計画通りに、進むものでもないし、むしろ、予期せぬ方向へと現実は自分を推し進めてゆくものであることを、改めて父と息子は洪水被害に遭って命からがら逃げてきた避難所でしみじみと、友人の祖父から譲り受けた<山水景石>を金運の象徴の如く、持ち出すのも、何か、自分の中で、<譲れないもの>、一種の誇りのようなもののようにも、目に映ってしまう。それにしても、父にしても様々な事業に失敗し、母にしても、スポーツ競技の中で、大成できず、主人公も、大学受験に何度も失敗し、妹にしても、まんまと絵画心療療法なるものを使って、優れたコンピューター・スキルがあるにも関わらず、気軽な感じで、いとも簡単に、まるで、タマネギ男と揶揄されたどこかの国の前法相の妻同様に、いとも簡単に、美術大学の在学証明省を私文書偽造してしまうことは、一度、失敗して、階段を踏み外してしまうと、<敗者復活制度>がなく、又、<セイフティー・ネット>という網からも、外れてしまうことになるのかもしれない。否、そんなものすら存在することのない、<非情な競争社会制度>であり、だからこそ、芸能人の韓流歌手でも、自殺率外乗に高い社会背景があるのかもしれない。

まるで、大雨の豪雨は、何もかも流し去ってくれるし、あたかも、それは、万人に平等であるかのように、<罪も悪も>等しく、帳消しにしてくれることを暗示しているのであろうか?それでも、どんなに、分をわきまえつつも、一線を越えないという父親の運転手としての矜持も、所詮は、突然の雷鳴の轟きの如く、<貧しさの臭い>というものは、着衣に、染みついている<かび臭い、すえたような、下水や汚水が、丁度、マンホールの蓋から逆流して溢れてきたような臭い>が、子どもには、それとなく、分かってしまうものなのであろうか?臭いと謂えば、昔、50年ほども前、新入社員時代に、韓国の取引先の関係者と金浦空港に入国するときの臭いが、キムチ臭がすると私の上司が言ったところ、それなら、羽田空港は、どんな臭いがするだろうかと議論になり、味噌汁か、たくあん臭いねなどと冗談交じりに話したことを想い出す。もはや今日では、日本の公衆トイレも含めて、消臭付き設備で、あのおつりの来る独特な臭いのする和式便所から、快適な化粧室空間へと世界的にも評価が上がってきているのは、何ともおかしな風景である。あの当時の韓国の取引先の関係者達は、50年後の今日どうしていることだろうか?この映画を観ているだろうか?

尤も、我々の中に潜むところの<心理的な臭いによる差別感>というものは、それが、トリガーとなり、やがて、映画の中でみられた、父親の目付きのなかに、微妙に変化が現れていて、それが、<怒りへと転嫁・醸成>されていくようである。尤も、韓国での経営者に対するリスペクトという言葉は、余り、日本人には、理解出来ないものがあるかもしれないし、緑の芝生での息子のお誕生日会のパーティー設営の際のテーブルの並べ方にも、日本に対する歴史認識が、垣間見られて、なかなか、手が込んでいて面白い。

<父子の関係性>というものも、母子との関係性とは若干、別なものとして如何にも、男子中心の儒教の影響の濃い見方が、富裕層にも貧乏人の中でも<共通な心情>を描かれていることは、実に興味深い。主人公が、奇跡的に、回復し、父に手紙を出す中で、もう一度やり直して、未来に希望を見いだし、父とのいつの日にかの再会を果たそうとする意思表示(迎い入れようとする幻想的な希望?)には、何か、やるせない、もはや、この社会には<そう選択せざるを得ないような現実しかないのか!>と、父子のほのぼのとした関係を感じると共に、実に、やるせない忸怩たる思いを感じざるを得ないのは、<これが逃げられない現実社会なのか>と、複雑な思いで、エンディングを迎える。主題曲の訳詞にある、<爪の隙間に染みこむ垢が湿ってくる>という言葉は、映画の中でみられた<父の両脚裏の黒さ>とも重ね合わせると、思わず、自分の爪と脚裏を見つめ直してしまう。それにしても、映画を鑑賞していて、いつも、感じる事であるが、どうして、一部の観客は、最期のエンディング・ロールに流れる音楽と終了後の映画鑑賞後の余韻を、愉しむことなく、そそくさと、まだ暗い中で、出口へと向かうのであろうか?誠に、勿体ない、犯罪的な所業で、映画制作者への敬意もない、冒涜にしか他ならないのではないだろうか?実にこのマナーは、残念である。一連の映画でも、<ジョーカー>、<万引家族>、<パラサイト>と、米国・日本・韓国とそれぞれに共通する課題である<格差社会>をみてきたが、どれ一つとっても、映画の中の出来事であるとは思えないのは、<余りにも重い現実>で、<それぞれに登場する子供達>は、その後、一体、どうなっているのであろうかと思いを巡らせると、実に、<心苦しく、心痛い思い>がする。それは映画の上でのエンディングとは別に、観客が想像するしかないけれども、、、、、、。

映画館のパンフレットを見ていると、これからは、2月には、斎藤工初監督による、<コンプライアンス>、中学生の頃に読んだ<ジャック・ロンドンの野生の呼び声>の映画化作品、3月に、<三島由起夫と東大全共闘(50年目の真実)>、5月には、司馬遼太郎の<燃えよ剣>の映画化、他にも、問題作の<岬の兄妹>など、映画鑑賞も忙しそうである。

 

 


M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式  

2019年12月25日 | 映画・テレビ批評

=M1グランプリを観る:笑いの科学と方程式

 

何年かぶりかに、M1グランプリをたまたま、テレビで観る機会を得たが、同時に、その優勝者の決定後にネットのGYAOで、配信された<忖度なしの反省会>というものを併せて観た。成る程、テレビというものも、今や、ネットでの裏番組に、押されるわけで、一般的な上っ面だけでの評論とは、別の面白みが、ネット配信にはあることが、容易に理解されよう。つまり、<笑いの科学>というか、<笑いの方程式>というものが、わかりやすく解説されていて、興味深いものがある。漫才とか、コントなども、演者だけではなくて、原作者をもっと、明らかにして、歌手だけでなくて、作詞家・作曲家ではないが、放送作家やコント作家も名前を公表してみたら如何なものであろうか?むしろ、芥川賞などの作家のデビューを手助けするように、<若手のコント作家を広く公募>して、笑いの方程式や笑いの科学の新たな試みを試すような機会を創出するべきではないだろうか?実際、漫才師は、突っ込みやぼけのどちらかが、原作を作る傾向がある以上、笑い飯のネット上での解説には、一定の重みが感じられた。ボケとツッコミとの往復とか、観客との対話とか、或いは、昔のコント55号が初めて使った掟破りと謂われる画面の横へのはみ出し移動と、(身長差による)縦の伸縮などの手法とか、言葉だけでなくて、様々な視覚的なテクニックとか、言葉というツールを使いながら、笑いの方程式を、次々に、緻密に、論じてゆくものである。どうやら、唯単に、浮かれた感じのおちゃらけやブサイクやキモカワイイを売り物にするキャラクターだけでは、笑いの方程式は完成せず、観客の笑いは、とれないらしい。その意味で、優勝した関東では無名に近いミルクボーイよりも、既に実績のあるかまいたちの方が、<玄人受けする複雑な方程式を提示>していたような気がしてならない。尤も、既にキング・オブ・コントでの実績がある以上、業界的には、苦節10数年のテレビでは無名に近い実績の無い、ミルクボーイの方が、コーンフレークや最中というキー・ワードの中での展開の方を、テレビ的には、吉本興行的には、優先されていたのではないだろうか?業界的には、その方が、丸く各方面の関係筋には良かったことであろうし、優勝者も、次点も、3位も、全て美味しいものではないだろうか?尤も、気の毒なのは、敗者復活からのし上がってきた和牛こそが、冷や飯を食わされたようである。おまけに上沼恵美子から、余計なコメントまでもらった挙げ句に、決定戦を準備中に敗退してしまったことは、悔やまれようが、既に、ある程度の実績を残している以上、仕方ないことではなろうか、ここは、<煮え湯を飲むという選択肢>もやむを得ないのではないだろうか?優勝者を決定するというテレビ的な手法の前では、確かに、<くじ運による順番>も、この<笑いの科学>の前には、方程式通りとはゆかないわけで、<松本人志の特異のツッコミ役の持論>は別にして、インディアンズにしても、ナイツの土屋がコメントしていたように、斬新な歌による掛け合い漫才も、所詮は、トップ・バッターによるある種の基準点のような意味合いも有り、本来は、何らかの+加点でも与えてあげなければ、<審査員による好悪という壁>の前では、撃沈されてしまわざるを得ないのかもしれない。それも又、<ある種の不運>なのかもしれない。それにしても、優勝することで、一夜にして、その知名度が上がり、その瞬間から、その人生も一変するわけだから、厳しいといえば、厳しいものがある。尤も、それすらも、実力がなければ、その後の一年後の活動も、持たないわけであるから、余程、実力が無ければ、全く、話にならないことは、この世界では、当たり前なのかもしれない。それにしても、吉本の会社組織を挙げてのバック・アップ支援と漫才を試す機会を劇場ライブも含めて、総力を挙げて実現する手法は、古典的な寄席中心の落語の世界の営業とは異なり、立川志らく当たりには、羨ましい限りではないだろうか?大御所と謂われる居並ぶ審査員の力量も、<様々な眼に見えない思惑>が垣間見られて、面白いが、それもこれも、GYAOのネット配信でのパンクブーブーや麒麟、笑い飯、ナイツ、小薮による司会の<忖度なしの解説コメント>のお陰だったのかもしれない。ツイッターによる同時コメントを観ながら、ネット視聴するのも、テレビの副音声とは違った意味での新しい楽しみ方なのかもしれない。久しぶりに、なかなか、面白い<表と裏、建前と本音のM1グランプリ>であった。


BS 映画<キューポラのあるまち>を観る:

2019年12月02日 | 映画・テレビ批評

BS 映画<キューポラのあるまち>を観る:

1962年(昭和37年)の未だ白黒映画時代の吉永小百合・浜田光夫や、往年の今は亡き俳優達が多数出演している映画で、題名は知っているものの映画をしっかり観たという記憶が定かでなく、たまたま、テレビ欄で眼に飛び込んできたので、観ることにした。

それにしても、当時17歳だった吉永小百合が、ティンネージャーから、女性俳優へと脱皮してゆく時期の過渡期での作品であり、又今村昌平と後の夢千代日記などで有名になる浦山桐郎監督との共同作品で、五十有余年後の今日、改めて、観ても、その映画の中で、追求していこうとした数々の課題は、未だに、解決していないことを考えると、映画の問いかける時代の普遍性とは大変重いことを改めて、思わざるを得ない。

キューポラとは、ラテン語の樽を意味するそうで、そこから、転じて、溶鉱炉を意味するもので、当時の鋳物工場で有名であった川口という一地方都市の物語で、組合活動やオートメ化に伴う産業構造の変化や、労働者階級や職人階級という存在、在日朝鮮人差別と祖国帰還事業により家族が引き裂かれてゆく状況や、中学卒や定時制高校・夜間高校、貧富の格差、頑固親父との親子関係、担任教師との関係性や思春期の性の悩み、集団就職と職場での歌声運動、そして、今では懐かしい言葉となってしまった、<様々な放送禁止・差別用語>が、新聞配達や当時の町並みや風景の中や親子喧嘩の中で、垣間見られるのも、又、<そういう時代だった故>なのだろうか?それにしても、今でも、修学旅行のお小遣いや集金袋の回収など、気がつけば未だに、身近で、解決されていない問題にも、改めて気づかされてしまう。

 私たちが、未だ、幼かった昭和30年から35年頃には、等しく、みんな、貧しかったが故からか、貧乏人も、お手伝いさんのいるお坊ちゃまのお家で、三時のおやつに、ひとしきり、遊びほうけた後で、手も洗わずに、食い散らかしては、帰宅後に、母から、こっぴどく、叱られたことを、今でも、クラス会の時に、当時の仲間と共に、想い出しては、懐かしく語れるものの、賛否はあるものの、帰還事業で、北朝鮮へ、渡った在日朝鮮人達は、まさに、楽園と言われた彼の地で、ダブル・スタンダードの過酷な差別に苦しめられて、どうなっているのであろうか?その後の吉永小百合の信念にしても、影響があった、往年の映画には、それぞれの影響を及ぼしたであろう台詞が、そこここに、散見されている。それにしても、ただ、等しく、皆貧しかった時代には、何故、皆、これ、良しとしてしまうのであろうか?それは、皆、等しく、平等に、程度の差はあれ、皆、生活が豊かになり、物心両面でのほどほどの成功感と達成感という充足を味わえたからなのだろうか?さすれば、毛沢東時代の中国とキム三代の北朝鮮や韓国との比較の中で、相対的に、日本は、上記の幸福度は、達成感と充足度のバランスが、とれていると言うことなのであろうか?そして、何にもまして、当時の日本人の有する、考え方、<一生懸命働けば、明日は、今日よりも良い日が来る>という、一種の<勤勉精神と明日への向上期待信仰>への確信が、現として、存在していたのであろうか?もしそうであるとするなら、今日、何もかも、当時の面影は、無くなってしまった今日、鋳物工場も、海外工場へ移転され、人手不足から、在日外国人移民が増加して、ゴミ問題や言葉の障害による地域社会の対立があったり、労働組合は崩壊して、非正規雇用パート・タイマーで溢れ、既に、右肩上がりの経済モデルは、少子化と高齢化社会の中で、崩壊してしまい、家族関係も分断され、<親リッチ>とは無縁な、ショービニズムに犯された嫌韓、ネト右のはびこる、ギスギスした、<正義と本質の見えずらい社会>に、いつしか、なってしまった。猫の目のように、映画の中で輝いていた当時17歳の吉永小百合の瞳には、何が、一体、今日、見えているのであろうか?キューボラのない街は、今日、もう一度、映画を撮るとしたら、何をテーマに、撮影して、どんな俳優が演じるのであろうか?それにしても、東野英治郎、菅井きん、北村谷栄、殿山泰司、加藤武、小林昭二、小沢昭一、吉行和子、浜田光夫、懐かしい白黒映画時代の俳優たちである。


うえだ城下町映画祭で、<万引き家族>を観る:

2019年11月19日 | 映画・テレビ批評

=うえだ城下町映画祭で、<万引き家族>を観る:

 たまたま、見損ねた映画を、上映するというので、コンビニでチケットを購入することにした。是枝裕和監督によるカンヌ映画祭の最高賞、バルム・ドール賞を受賞した作品である。<そして、父となる>でも、テーマとなった<家族の在り方>、とりわけ、血縁とは別の家族の関係性とは何かを、今日に於ける社会問題化している諸問題でもある、貧困格差、虐待、家庭内DVD、老人問題、貧困、子どもの保護、肉親の死体遺棄、年金不正受給、JK風俗アルバイト問題、等を、<万引き>という切り口から、犯罪に手を染めることでしか、生きられない<虚構の擬似家族?>を通して、曲者俳優と子役の素晴らしい演技で、描き出している。父役のリリー・フランキー、母役の安藤サクラ、姉役の松岡苿優、祖母役の樹木希林、駄菓子屋の親父役の柄本明、映画の前半では、この(擬似)家族の過去の関係性は、大凡では、理解しつつも、どのような<心の傷と闇>を持っていたのかという事が、推測は出来ても、確信には至らない。幾つかの台詞の中で、象徴的な言葉が、聞かれる。家庭内での幼女への虐待を疑われたことから、やむなく引き取ることを余儀なくされたことと失踪事件として報道されたことが、逆に仇となり、パート先からのレイ・オフの対象となり、やむなく、脅しにも似た状況中で、<しゃべったら、殺してやる!>と、吐き捨てる場面などは、成る程、後から、この意味合いが、理解出来ることになる。そして、この夫婦の過去の関係性というものも、後半になり、樹木希林の祖母役が突然、死亡してから、そして、駄菓子屋の親父から、<妹に、万引をやらせては、駄目だぞ!>と駄菓子をもらったことで、幼い妹を守ろうとする少年にも、実は、暗い出生の過去があったことも、パチンコ屋のシーンも、車上荒らしのシーンも、後から初めて理解される。この少年が演じる健気な勉学への意欲と未来への希望、本当の父母でもない(実際は犯罪者)である人間への<ある種の信頼感>とでも言えるような感情は、血のつながりがなくても、歳の差も関係ない<人間同士の信頼感>が、芽生えているようである。そして、それは、生めば母になってしまうという、世間の常識では、決して図りしれない非常識こそが、実は、真実なのかもしれないという事が、逆に、意味を持つことになるのかもしれない。それは、仮面夫婦でも、擬似家族であれ、現代社会に潜む、どこにでも陥りそうな<身近な罠>なのかもしれない。

この映画の役どころの人物像の名前も、実際、偽名で、どこからが本名で、どこまでが、偽名で、源氏名なのか?そして、<その理由と由来>とは?そこを考えるときに、この映画の<微妙に隠された社会的な背景>があるようにも思われる。それを語り始めるとある種のネタばらしにもなってしまうので、ここでは、詳細に触れることを敢えて、避けますが、この<本名と偽名の間>には、<監督の密かに仕込んだ日本社会の問題点>が垣間見られるようです。

 果たして、エンディングでのそれぞれの置かれた立場での登場人物は、一体、どうなってしまったのであろうか?象徴的に、長髪から短髪へと髪を切った少年は、心の決断を表しているように思えるし、捨てられるという家族からの裏切りにも、既に自覚と理解を有しており、しっかりと、未来に向かって、勉学にも励み、逆境にも打ち勝ちつつ、成長してゆくのではないかと確信する。しかし、未だ物心のつかない妹は、恐らく、元の家族の下に戻されて、どのような境遇に置かれるか、心配であるが、年齢差によるその時の環境への順応は、姉や兄の場合とは異なり、対応が出来ないであろうことは、十分、映画からも、想像に難くなく、制度的な救済がなければならないとも思われるし、実際、現実にも、そういうことは、あり得るであろう。そんな<エンディングでの示唆>だったのかもしれない。

ある時点から、少年は、ある種の<やましさ>に覚醒しつつ、祖母の死をきっかけに、脚を洗う機会を探していたのかもしれない、それが、妹の万引を庇おうとして、自らが逃走を試みるも、捕まり、これを契機にして、一挙に、<全てのこの家族の謎解き>が、始まるわけである。そのことは、ひょっとして、少年が、感動的に父や妹に話す、<スィミーの逸話>にも、通じるのであろうか?映画が進行推移するに従って、やがて、この少年の拾われてきた経緯が、徐々に解き明かされてくるのであるが、それが、皮肉にも、母との拘置所内での面会室のガラス越しで、本当の両親を探したいのであればとの母心から、車種やパチンコ屋の場所などの情報が初めて知らされることになるのも、何とも、切ないモノである。実際、パチンコ屋の駐車場の車内から、幼児が熱射病で死亡したとかというニュースを聞くと、本当に、車上荒らしの車の中で、幼児が拾われたであろうことすらも、逆に、犯罪的な幼児略取として、現行法では扱われることにも、結果的に、小さな命が救われたこと事実にも、疑問が出てくるのかもしれない。それは、同じように、高良健吾肯んじる男性刑事や池脇千鶴演じる女性警察官の発言に、如実に現れているようにも思われる。残念ながら、現実の世の中というものは、こういうものなのであろうことも、事実で有り、否定し得ない現実なのかもしれない。

そもそも、血縁以外に、家族としての紐帯というか、絆を作るものは、一体何が必要なのかと、考えさせられてしまう。現代では、同性愛者でも、カップルとして、養子縁組みや、子育てもし、又、不妊治療を諦めた夫婦が、里親制度での養子縁組を採用したりと、<家族の在り方>も、大きく変貌しつつあるのが現実である。一体、日本を含めて、世界は、どこへ向かってゆくのであろうか?夫婦という形も、結婚という形すらも、事実婚や、夫婦別姓ではないが、パートナーシップ制度や、既存の民法の範囲を超えながら、進み始めているのが現実なのかもしれない。

 今年で、うえだ城下町映画祭も、23回目になるそうであるが、腰の悪い年寄りには、<翔んで埼玉>も、応援上映を観たかったが、やむなく、会場を後にしたのは、残念であった。

上田映劇や犀の角などで、好評を博した映画などを幅広く、今後、再上映してもらいたいモノである。関係者の皆様、ご苦労様でした。来年も楽しみです!

https://www.umic.jp/eigasai/

 


映画、<楽園>の人間心理:

2019年11月04日 | 映画・テレビ批評
映画、<楽園>の人間心理:
 
  綾野剛演じる少女失踪事件の容疑者として、次第に追い詰められてゆく、過去の生い立ちに様々な事情を抱える孤独な、徐々に精神を病んでゆく青年、そして、不幸な惨劇を自らが犯してしまうことになる青年、杉咲花演じる、子どもの時に起きた失踪事件のその直前まで親友と一緒にいて、Y字路で別れ、そして事件後、<一人だけ生き残って>幸せになるということで心に傷を抱える少女、そして、再び、12年後に未解決のまま、同様な事件が起きる。自然に恵まれた環境の中、<限界集落>に於ける、村おこしを巡って村八分にされる何の罪もない中年の男役を演じる佐藤浩市、そして、その果ての謂われのなき惨劇といい、これらの主人公達を巡って、その周辺に関わる地域社会の人間達とその地域で暮らしてゆかざるを得ないそうした<人々の群衆心理>と誰でも良いから良いからという<魔女狩り>志向、そして、各個人のとってしまう行為とは、、、、、。<犯罪被害者とその家族の心持ち>、<あいつが、犯人だと言ってくれ!>と迫る、犯罪被害者家族である祖父役の柄本明、そして、加害者とおぼしき人物、加害者となるべくしてなってしまったその人物達の<心理的な葛藤と平然差の落差>と、徐々に、追い込まれてゆくその過程の様相とは、小さな地域、狭い共同体の中で、その一員として果たしていた人間が、いわれなき理由から、或いは、ふとした些細なきっかけから、疑心暗鬼となり、相互不信へと、徐々に、日常生活の中で、<分断、孤立化して行き、壊れてゆく過程>には、一体どこに、救いがあるのであろうか?助けは、どこにもないのであろうか?<共同体としての一員>としての<個という存在>と<地域共同体が体現する、有する無言の目に見えぬ圧力と強制的支配力>との狭間に揺れる姿、<自助努力と共助の両立>は、果たして、本当に可能なのであろうか?地域社会にその一員として、溶け込みながら、如何にして、<自己の個としての存在を共立>しうるのか?
  それにしても、現実の世界では、この映画に出てきそうな話が、いくつも、思い起こされるが、その度に、どうしたら、防げたのであろうかと、、、、、。ここ何本か、立て続けに、様々な映画を偶然、鑑賞したが、そのどれにも、共通するものは、<社会的な弱者へのセーフティ・ネットを担保するもの>は、最終的には、<家族が最期の砦>なのであろうか、それとも、<地域社会による共助>なのだろうか、それとも、<自己責任をベースとした自助努力>をよりどころにした、カネがものをいうものだろうか?聞くところでは、今や中国には、一人っ子政策による弊害として、唯一の子どもに、先立たれた両親が、今日、老齢を迎えるに当たって、誰が、互いの家族の生活や介護を担ってくれるのかという問題が、大きな社会問題になりつつあると謂われているが、日本でも、少子化や結婚年齢の高齢化問題やお一人様問題、孤独死、等を含めると、どういう方向性に向かってゆくのであろうか?考えさせられてしまう。
役者というものは、綾野剛にしても、風貌も含めて、難しいこうした役柄、中国難民認定親子の言葉の問題と地域社会へ溶け込めない事から生じる精神的な葛藤と精神を病んでゆく過程の表現、とりわけ、ライターで火をつけるに至る形相など、これは、映画、閉鎖病棟:それぞれの朝でも彼が演じて見せた役者の技量には、おおいに、今後を期待しても宜しいのではないかと感じてしまう。併せて、杉咲花も、難しい役柄を、若い女性へと変貌してゆく過程を演じきっていて、これからが愉しみになる。又、犯罪被害者家族の心情と本音をストレートな形で、表現した柄本明も、十分存在感があったと思う。佐藤浩市の演技は、私には、もっと、惨劇に至るまでの心理的な課程、過去からの時間的・心理的な葛藤、私には、個人的に、愛犬を家族同然に飼っていた経験からも、色々な意味からも、解らぬ事はなく、逆に、最期の惨劇を決断する状況の表現が、もう少し欲しかったかなぁとも思う。
  映画のシーンというのは、その場その場で、観ていると、<サラッと流してしまう>が、冒頭の二人でクローバーの花飾りを作る(象徴的な)シーンでも、<あの場面がどういう意味を有するものなのか>と言うことは、最期の方で、理解されることになる。又、シェパードの存在も、成る程、そういうことだったのかと言うことも、改めて、後から、納得される。映画というものは、小説もそうかもしれないが、各シーン・各カットを個々に分解して、その中で、<ある種のパズルの謎解き>のように、再構成してゆく手法は、映画を観る観客と創る側との<知的心理的な戦い>なのかもしれない。その意味で、年寄りには、知的、刺激的で、やみつきになりそうで、だから、映画鑑賞は面白いし、なかなか、やめられないモノである。

映画、<閉鎖病棟―それぞれの朝>:

2019年11月02日 | 映画・テレビ批評

ここのところ、やけに映画評論が続いているが、年寄りには、頭の体操でもあり、ぼけ防止、監督や役者との知恵比べと謂ったところだろうか?この映画の印象を述べる前に、<楽園>の中で、主演の一人を好演した綾野剛の演技が、なかなか、興味深かったので、この作品の中でも、ある種共通する彼の演技力に、これからの作品でも、期待したモノである。現代的な問題として、<自殺>、<精神疾患>、<薬物中毒>、<性犯罪>、<性的DV・虐待>、<老々介護>、<死刑制度>、そして、<家族>、この映画の3人の主人公達が、抱える問題は、全て、こうした現代的な、今日的な問題が、独立行政法人国立病院機構が運営する精神科の専門医療施設・小諸高原病院の協力の下に、しっかりと描かれている。元サラリーマンで幻聴に悩まされ、妹夫婦から阻害され精神病院へ隔離されてしまう役の綾野剛、妻の不倫現場を目撃してとっさに、相手もろとも殺戮し、更に、残される老母を切なく思いつつ、手にかけてしまう死刑囚で、奇跡的に、執行時に、生還して、脊椎損傷により、精神病院をたらい回しにされる元死刑囚の役の笑福亭鶴瓶、そして、母の再婚相手から性的DVを受けて自殺を図る、女子高校生役の小松菜奈、更に、この精神病棟の様々な患者の様々なそれぞれの人生模様とその病歴、孤独死、そして、そんな中でも必死に生きようとする患者の生活の中で、日常を一変させてしまうある事件をきっかけに、新たな殺人事件が、不幸にも、起こるべくして、起きてしまう。そして、法廷での展開へと移ってゆく。(ネタバレしない程度にして、是非映画を観て下さい。)
 それにつけても、人は、一度、不幸に堕ち始めると、とことん、蟻地獄の穴にはまってしまったかのように、奈落の底へ、堕ちてゆくモノである。健康な精神は、健康な身体に宿ると謂われているが、本当に、一度、歯車が狂うと、万事がうまく行かなくなるモノである。
家族の中ですら、その<自分の居場所>、社会の中でも、むろん<自分の居場所>、それが、身体的苦痛や病気や、何かのきっかけで、バランスを崩してしまうと、いとも簡単に、<社会的な弱者へと転落>してゆくものなであろうか?社会的な弱者を救済するのは、果たして、<家族のみ>なのであろうか?他には、この社会には、そうした<社会的なセイフティー・ネット制度>みたいな、そんなものはないのであろうか?<JOKER>の中にも出てくるソーシャル・ワーカーの虚しさも解らなくはないが、それでも、最期のシーンで、退院することになった綾野剛に、<ゆっくりゆっくりでいいよ!それでも駄目だったら、戻ってくればいいよ!>という小林聡美演じる看護婦長の言葉で、やっと初めて<唯一救済され>そうである。誰が、<再び立ち上がる>のを助けてくれるのだろうか?刑務所の運動場で、車椅子から、必死の思いで、自分の脚で、一生懸命、<立ち上がろう>とするシーンは、<再び、残りの人生を生きてゆこうとする証し>であり、新たな決断と意思なのであろう。きっと、この3人の主人公は、しっかりと、それぞれの場所で、それぞれの居場所を見つけて、それぞれの朝を迎えて、きっと生きてゆくことを選んだのであろう。 原作は、精神科医の箒木蓬生による同名の著作である。
それにしても、<楽園>での綾野剛が演じた精神を病んだ人間の演技と、この映画での役柄といい、なかなか、若手ながら、良い演技ではないだろうか、又、小松菜名も、やや、エキセントリックな役柄にもかかわらず、思い切った役への挑戦という意味では、将来が楽しみでもあり、又、<楽園>での杉咲花も、楽しみである。見終わってから、上田城映画祭で、今年前半に見損なってしまった<万引き家族>が上映されることを知ったので、今度は、こちらも愉しみである。それにしても、80台とおぼしき老夫婦が、連れだって、次は、何を観るベと、相談している姿は、なかなか、都会では、見られない光景で、この人達には、パチンコ屋は、きっと、不必要であろうし、居場所が見つからないようには、到底思えない。羨ましい限りである。





映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

2019年11月01日 | 映画・テレビ批評

映画<JOKER>の<笑いと狂気>:

 美術館での絵画の鑑賞には、私は、いつも解説のイヤホンを余程のことがない限り、借りることなく、ますは、自分の感性を信じて、自分なりの想像の中で、画家と対話することにしている。ここのところ、幾つかの映画を観ることになったが、映画の場合には、DVDでも、再度、シーンをじっくりと、見直すことも可能であるから、実に面白い。その意味では、この<JOKER - put on a happy face>という映画も、じっくりと、それぞれのシーンやカットに、込められた脚本家・監督・役者・カメラマン達の<挑戦的な問いかけ>が、解らずに、見逃してしまいそうである。風聞するところでは、主役のホアキン・フェニックスが、お気に入りのシーンですら、監督に、バサリと削除カットされてしまったとか、それならば、完全ノーカット版というのが、仮にあるとすれば、それはどんなモノなのか、一体何故、どうして、こうなったのか、、、、そして、この映画の続編は製作されるのであろうか?期待したい作品である。一体、<どこからどこまでが事実>であり、<どこから先が、妄想>なのか?今風に言えば、<FACTとは何で、FAKEはどこまで>?といったところであろうか、果たして、アーサーという主人公が、ジョーカーという人物なのであろうか?一般的には、ジョーカー誕生までのストーリーであり、それでは、富豪の両親を射殺されてしまうブルース・ウェインという子どもが、結局長じて、バットマンになるのか?別に、私は、バットマンの映画をシリーズで観ているわけではないから、細かな人物の設定まで、コミックスを読んでもいないから、知識はないが、ある程度は、推測可能なのかもしれない。唯、事は、そう簡単には、この映画の脚本家も監督も役者もカメラマンも、卸してくれそうもない。そもそも、様々なシーンに、どこかの映画で観たようなシーンや、雰囲気が、<謎めいたパズル>のように、意図的に、ちりばめられているように感じてならない。

例えば、<笑いとダンス>のシーンが、様々な場面で垣間見られる。元来、笑いというものは、人間だけが有するもので、類人猿でも、仲間内でも、敵意がないことを示す顔つきはしても、心からの笑いというものはなく、ましてや、文化としてのコメディーやコントや落語、などは、あり得ないわけで、もっとも、その根源には、対比としての<悲しみ・悲劇>があることも忘れてはならない。その意味では、アーサーが、奇しくも言うように、<人生の悲劇は喜劇>にもなることに繋がっているのかもしれない。そして、役者としてのホアキン・フェニックスの真骨頂は、その<笑いとダンス>のシーンに、数々の場面で、遺憾なく発揮されているように思われる。まるで、コンテンポラリー・パーフォーマーが、即興で踊るように、その高揚感と悲しみを、このダンスの場面で、<心の高揚感・充足度>として、まるで表現しているようで、その変化は、微妙に、アーサーというコメディアンを目指していたピエロが、徐々に、ジョーカーへと変貌してゆく過程でもあろう。年老いた母との二人でのダンス、地下鉄階段での様々なシーンでのダンス、トイレの鏡に映し出された自分の分身である姿を見ながらのダンス、他、明らかに、そこには、<ある種のメッセージ性>が隠されていると思われる。重い足取り、軽いステップ、歩き方にも、細かい心境の変化がちりばめられているように感じられてならない。明らかに、映画を観ている観客への挑戦であろう。

目だけ、或いは、表面面の顔だけが笑っていても、心の底からは、決して、笑っていない、笑えない心境を、表現している演技なのだろう、脳の障害の為に予期せぬ時に、笑ってしまう病気なので、お許し下さい、というメッセージを準備して、バスの中で黒人の子どもの母親から、構わないで下さいと言われるシーンでも、第一の殺人を犯すきっかけとなる地下鉄車両の中でのピエロの衣装をまとったままでの突然の笑いも、様々なシーンでの笑いが、観られる。

この映画は、どこまでが、事実で、或いは、妄想であるか、解らないと評したが、それを判断するのは、観る側の想像力で大きく評価が分かれるところであるが、今日的な病巣である、厳然たるFACT(事実)であるところの<精神疾患>、<出自の秘密>、<幼少期でのネグレクト・DV・体罰>、<シングル・マザー>、<貧困格差>、<1%の富裕層>、<ソーシャル・ワーカー>、<暴動・暴力・殺人・治安>等の問題が、更には、<テレビのショー番組>という<エスタブリッシュメント>が、ゴッサムという都市の中で、描かれている。

出自・出生の秘密に絶望し、隣人女性に拒絶され、職場を解雇・失職され、自分の居場所を喪失してゆく、そして、福祉予算支援も削られ ソーシャル・ワーカーによる相談も廃止の憂き目に遭うこととなり、自分の尊厳と存在そのものも、喪失してゆく。そんな折に、偶然、ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンという人気司会者のショーに、出演するきっかけを掴むが、、、、、、。既に、そこに至る過程で、自身の人生は悲劇だ!これが、今や、喜劇と化す、一大ライブ・ショーを自らが、演じることになる。そして、それは、<我々はピエロだ!存在そのものも>、、、、、、というあたかも、<we are not 1%>或いは、ウォール・ストリートを占拠せよというムーブメントに呼応するかのように、<暴動・略奪・殺人>が、デモと共に、起こる。ここから先は、ネタばれにもなってしまうので、是非、映画を観てもらいたいものである。

私は、バットマンやジョーカーの俳優に関して、全くの門外漢であるが、(カッコーの巣の上で)のジャック・ニコルソンが演じたジョーカーの役を、今回のホアキン・フェニックスは、十分、凌駕するにたる演技ではないだろうか、R+15という映画だから、ある程度の殺人場面は、やむを得ぬが、これらも、今日的な意味合いからすれば、FACTなのであろうから、やむを得ないのかもしれない。こびと症の同僚を、唯一、良くしてくれたのは、君だけだったからという理由から、解放したり、幾つかの<心理的な葛藤>が、その演技の中に、垣間見られる。

最期のラストシーンは、どのように、解釈したら良いのであろうか?

連行されるパトカーの中から、暴徒達に、助け出されて、カリスマ的な悪の犯罪リーダーとしてのジョーカーの誕生に、この当人が至ることになるのか、それとも、それは、単なる妄想の中で、アーカム州立病院の精神科の中に幽閉されてしまう精神病患者の連続殺人犯が現実なのか、一体、どちらなのか、どう解釈したら良いのであろうか?仮に、ジョーカーなる人物は、アーサーではなくて、<アーサーが作り出した仮面のジョーカーの哲学>に、共鳴した別の人物が、トーマス・ウェイン夫妻を殺害して、その子どもである、ブルース・ウェインが、後のバットマンに、なるのであろうか?そうなると、バットマンの執事は、誰なのであろうか?(それはどうでも良いかな)

 追伸):映画で、いつも楽しみなのは、音楽である。門外漢の私でも、チャップリンの映画、モダンタイムスの中で使われているスマイルの曲は、<どんな辛いときにも、スマイルすれば、乗り越えられる>、というメッセージは、母親から言われた、<どんなときも笑顔で、、、、、>も、まるで、皮肉にも受け取れてしまう。スローテンポの映画内の甘いメロディーは、まるで、<懐かしいよき時代のアメリカ>と大きな対比なのであろうか?字幕の歌詞も、意味深長なものである。想像力がかき立てられ、<現実のギャップ>として、浮き出てこよう。