小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

インド映画を2作続けて、愉しむ!

2018年08月18日 | 映画・テレビ批評

インド映画を2作続けて、愉しむ!

子どもの頃に、同時代をガンジーやネールといった、インドの偉人達と共有したという刷り込みは、とても、大きい。インディラという戦後、何もなかった動物園に、寄贈されたインド象も、子どもの頃には、何度となく、遠足で観に行ったモノである。インド映画というものに、始めて触れたのは、もう何十年も前の海外出張中に、ホテルで、日本語放送が、移らないかと、チャンネルをむやみやたらに、回していたら、歌と踊りの何とも、華々しい、まるで、キンキラキンの宝塚歌劇団のように、これでもか、これでもかのように、主役格の男女とともに、大勢の踊り子・歌い手達が、次から次へと、出てきて、これが、終わりまで、続いていたことに、驚きを禁じ得なかったことを何でも、想い出す。

 それにしても、最近では、絶叫型映画上映とか、視聴者参加型コスチューム付きの上映とか、様々な形態の上映が、行われているようであるが、再来年に100年を迎える上田映劇では、流石に、そんな類いの観客が、観られなかったのは、当然と言えば、当然であるが、内心、残念だったといえば、嘘になろうか?

 何はともあれ、連日展開する、朝ドラの脚本家による、一方的な15分間での見せ場作りに為のあらゆる仕組みと、独裁者並みのストーリーの劇的な展開とは異なり、或いは、難解なミステリー・ドラマのような、気の抜けないようなワン・シーンを見落とすまいとするあの緊張感とは別に、実に、このバーフバリ <伝説誕生>と<王の凱旋>という連作は、単純明快、難しいことを考えない、すべて、これまでのそんな複雑な脚本家の意図を、ほったらかしにしておいて良い程、すっきりとしている。三世代に亘る壮大な叙事詩のごとき筋書きの展開とSFXを駆使した画面、歌あり、踊りあり、ファンタジーあり、余りに壮大なスケールに、ロード・オブ・ザ・リングの大作を思い起こさせるような戦闘シーンやら、更には、現代的な、セクハラや、大国による小国への威圧とか、考えようによっては、現代的な問題がちりばめられていて、不条理とか、カースト身分制度・奴隷制とか、差別とか、貧富の格差とかも、一挙に、氷解させてしまわんばかりの、王の強さ、正しいものは正しいという単純明快さ、ヒーロー性、陰謀は、必ず、失敗に帰する、悪は、成敗されるという帰結、裏切りや謀略により、死しても、その後も、再び、血縁とともに、正義は、復活するという、まるで、今の世の中の現実とは、全く、真逆な明快な主張である。

 この映画を見終わると、一体、今の世の中は、どうなっているのであろうかと、とりわけ、今の日本は、繰り返される、公文書の彩残、国家公務員による政権への忖度と不作為、嘘の上塗りでも、説明責任を果たさない為政者、言論の弾圧と人権の蹂躙を、強国の大義名分のもとで、継続し続ける、大国など、考えさせられる。尤も、ここから、安易な単純なヒーローの出現期待などを危惧する必要性も毛頭ないであろう、そんな難しい話は、忘れて、一時を、思い切り、主人公とともに、愉しむ方が宜しかもしれない、昔は、フランス映画や、イタリア映画なども、面白かったが、これからは、ハリウッド大作ではなくて、インドやイラン映画・台湾映画なども、ひとつのジャンルとして、上映して貰いたいモノである。次回作も楽しみである。難しいことは、忘れることにした!

 


難民になる可能性を考える:

2018年08月17日 | 社会戯評

=難民になる可能性を考える:

上田高等学校有志の方々を支援する活動の中で、改めて、<難民になる>とは、どういうことであり、又、その可能性は、どのくらいのものなのかを、考えることにしてみた。一般的には、政治的な難民が、一番、考えられることになるが、どうやら、必ずしも、そうとは限らない現実があるようである。確かに、戦争・紛争という究極の人権抑圧の手段を強いられる状況は、現在の様々な地域紛争、非正規軍戦争型の具体例を観ていても、十分理解されうるが、それに至らずとも、様々な難民になる形態の可能性が十分に、ありそうである。そのひとつが、東日本大震災のみならず、地震、火事、水害、などの各種災害によるものは、何も、基本的な人権の抑圧などでもなくて、簡単に、<幸せな日常生活も安寧が破壊されてしまう>ものなのであろう。そう考えてみると、難民とは、必ずしも、政治的な、遠いどこかの国の出来事でもなくて、広義の意味からすれば、<日常生活の突然の破壊:日常性から、非日常へと強いられる環境の変化>というクライテリアからすれば、いつ何時、自分の身にも、及ばないとは限らないリスクを孕んでいることにもなるのかもしれない、それは、不条理な事故によるものも含めれば、ありとあらゆる場所と機会に、難民と同じ境遇になる可能性が、日常生活にも、潜んでいるものなのかもしれない。更には、突然の会社の倒産による失職・レイオフ、自身の、或いは、連れ合い、家族、子どもなどの病気・健康のリスク、最近では更に、結婚しない兄弟姉妹リスク、考えてみれば、ありとあらゆるところに、<難民に等しい環境下に置かれうるリスク>が、確かに、潜んでいるように想われてならない。

命ある限り、戦争下であろうとなかろうと、食べること、排泄すること、眠ること、生きることは、どんな状況下でも、同じことがいえる訳で、破壊されてしまったコンクリートのがれきの中でも、死臭漂う廃墟の中でも、自分の幸せだった頃のリビング・ルームの無残にも破壊し尽くされてしまったむき出しのソファーにも、そこには、厳然として、<今の生活。生きなければならないという現実>が、存在する。或いは、故郷や祖国を捨てざるを得ない状況もあるのは確かである。一体どれほどの、自分では、気がつかない、難民になるというリスクが、日常生活に、潜んでいるのであろうか?一連の上田映劇での上映を観ながら、<ラッカは静かに虐殺されている>や、<ラジオ・コバニ>、或いは、<原田 要。平和への祈り>を、観終わった後から、問い直し、想う日々である。


映画、<ラジオ・コバニ>を観る」

2018年08月17日 | 映画・テレビ批評

=映画、<ラジオ・コバニ>を観る」

 自分の描いていた未来への理想図が、突然のISによる侵攻により、一転したとき、女子学生の彼女は、<ラジオ・コバニ>というミニコミ・メディアを駆使して、情報発信を試みた。そして、その問いかける口調は、<未来の自分の子供達>に、真実を伝えたい、残したいという思いだったのであろうか?親しかった幼なじみの友人のむごたらしい処刑への思い、或いは、クルド女性部隊の軍人達の戦い、そして、何よりも、捕虜として、インタビューを受けることになった、IS戦士の、<家族に会いたい、自分の安全を知らせて貰いたい!>と懇願する、或いは、無知と貧困から、ISに協力せざるを得なかった言う後悔ともつかぬ、告白など、更には、ブルドーザーによる、空爆で死亡したと想われる、敵味方の区別もつかぬような苦悶に満ち満ちた詩風が漂う、ブルドーザーによる死体処理現場、臀部と想われる太ももの一部や頭部と想われる一部や苦悶に満ちた骸骨顔の表情や、戦争の残酷さが、真正面から、画像の中に、描き出される。それにしても、平和というものは、あっけなく、いとも簡単に、日常生活が壊され、破壊し尽くされてしまうモノである。復興を遂げようとする過程や、最期には、主人公が、結婚式に向かうシーンで、人々の祝福を受けながら、<新しい未来に向かって出かける>シーンで、終わっているが、日常生活とは、かように、食べて、恋愛談義をして、日々過ごしながら、IS戦士も、恐らく同様に、敵味方を隔てることなく、時間が過ぎ去っていったのであろうことを、改めて見せつけている。この主人公は、その後、一体、どのような暮らしを、日常生活を取り戻していったのであろうか?そして、捕虜となったIS戦士は、更には、あのクルド女性部隊の指揮官達は、、、、、、、。日常の平和と安寧に、感謝するとともに、その脆さ・はかなさ・不確かさにも、常に、同時に、気配りしていないと、容易に、気づかぬうちに、破壊されてしまい、非日常へと落とし込められてしまうものである。