小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

企業年金の高まるリスク

2012年02月29日 | 社会戯評
「AIJ投資顧問」に対する行政処分を受け、金融庁が同業者に対する一斉調査に乗り出す背景には、企業の年金資産の運用リスクが高まっている実情があるといわれている。企業年金には、企業側が運用利回りを約束し、あらかじめ給付額が決まっている「確定給付型」と、加入者がリスクを負って給付額が変わる「確定拠出型」がある。前者の「確定給付型」の場合、株式相場などの低迷で資産の積み立て不足が発生すると、企業側は不足分を穴埋めする必要があり、それは、とりもなおさず、企業の財務を圧迫することを意味する。もっとも、後者の「確定拠出型」でも、株価の低迷や、運用利益が、減少する今日では、明らかに、「自己責任」という大義名分の前に、実質的に、元本が、保証されず、むしろ、目減りすることは、必至であるし、現に、その傾向が避けがたい。世代間格差などと言って、団塊の世代は、あたかも、制度の恩恵を享受しているかのように、喧伝されているが、頼りにしていたサラリーマンの3階部分の企業年金も、或る日、突然、一通の手紙の通知だけで、貰えなくなる日が、突然、来るやも知れぬ、そんな悪夢が、訪れないとは限らない。それにしても、ヘッジファンドや不動産投資信託(REIT)やデリバティブ等のハイリスクで、商品内容が、複雑・難解で、金融工学の粋をちりばめて、リスクを隠蔽したような商品が、実際、こうした分野で、運用拡大されているのは、事実である。しかも、又、ケイマン諸島経由であるとは、、、。検査も調査も、されずに、、、、。何とも、おかしな時代である。説明が、口頭で、書面で、更には、クーリング・オフ期間が設定され、契約もキチンとされていれば、どんなに、無作為の(?)本来意図せざる損を、顧客にさせようが、決して、その償いに、命までは、取られないというのが、民事法上の判断であるのであろうか。一体、これらの金は、どこへ、どのように、廻っているのかと眼を疑ってしまう。モラル・ハザードとでも言おうか、ビジネス倫理観のかけらも、見られないような結果、詐欺紛いの行為が、結局、素人の犠牲の上に、知らぬ間に、進行中であるという現実を知らせている。わずかななけなしの頼りとする老後の資産すら、開けてみたら、もぬけの殻では、済まされないし、冗談すらも言えなくなる。一時、日経で謂われた「ストックから、フローへ」等も、無責任以外の何物でもない。それにしても、予定利率の引き下げも、はたまた、基金の解散もできない中小の顧客は、どうしたらよいのか?年金資産が消失した場合は、母体企業が穴埋めするのが原則だが、多くの企業は経営体力に乏しく、預託した基金側の「自己責任」と言う言葉だけで、検査も十分してこなかった金融庁や、証券取引等監視委員会、厚生労働省、投資顧問会社人気ランク等で、取り扱ったマス・メディアの責任は、問われないのか?又しても、損害を被るのは、カヤの外にいた善意のサラリーマンである。



絵本を読み聞かせることの意味とは?

2012年02月28日 | 社会戯評
たまたま、風呂に入って、ラジオを聴いていたら、絵本の読み聞かせについて、番組中に、語られていた。私は、まだ、孫はいないが、昔は、よく、子供達に、小さいときに、絵本を読み聞かせていたから、絵本には、興味を持ち、最近になって、図書館で借りてきては、愉しんでいる。自分で、黙読して、眼で読むことと、声を出して、音読することと、そして、更に、子供に、読み聞かせることは、それぞれ、別々の意味があるという事実を、改めて、考えさせられる。読み聞かせることで、子供との「時間と空間」を「共有」でき、更には、「絵」だけでも、或いは、「何も書かれていない絵だけのページ」も、そのページをめくる瞬間に、想像を可能にするような時間的な「間」を、子供と一緒に、享受できるわけである。成る程、確かに、こうした「間」や「想像力」を育む力が、どうやら、絵本には、内在しているようで、子供だけではなくて、むしろ、成人しても、大人になれないオトナや、キレやすいオトナにも、現代では、必要かも知れない。どうやら、うまく読んだりすることは、問題ではなくて、むしろ、子供とのスキンシップを通じて、母親が、或いは、父親が、お祖母ちゃんが、お祖父ちゃんが、語りながら、膝の上で、一緒に、「時間と空間を共有」することが、より重要で、より、想像力を高めることになるのではないだろうか?若いパパやママは、一緒に、読むと言うことが、大切かもしれない。今から、練習で、孫替わりに、我が老犬にでも、一緒に、読み聞かせてあげようかとも思う次第である。




「iPad」中国商標権問題と「面白い恋人」の違い

2012年02月27日 | 社会戯評
中国での商標権を主張している「唯冠科技」という会社は、実質的に、破綻しているにも関わらず、アップル社の販売差し止めを請求し、これを、広東省が、認めたと言うが、何とも、ゼニゲバも、ここまでくると、中国という国家自体が、法治国家なり、国際的なルールを無視した不可思議な国であることを、世界の人々に、周知徹底させてしまった嫌いが否めない。これまでも、ドラえもんや、ディズニーのキャラクターや、ガンダムの「パクリ」を、厚顔無恥にも、正々堂々と、やらかしても、一向に、海外のコピーライト権などを、守ろうとする気配はない。それどころか、付け焼き刃的に、違法海賊版の取り締まりやらを、マス・メディアの前で、公然として、宣伝する一方で、相も変わらぬ違法コピー天国である。それに対して、今度は、国内法を盾にして、A からZまでのアルファベットを、全て、iPhone や、iPadに、なぞらえて、色々な中国企業が、商標権登録という金ヅルビジネスに、ハイエナのように、群がり始めているらしい。何とも、呆れ果てた国民性とビジネス倫理観の無さである。一方、日本国内でも、北海道の石屋製菓が、これまで、限られたルートで、限定販売でしか、手に入らない販売手段で、賞味期限の改竄問題があったにも関わらず、何とか、今日まで、「白い恋人」ブランドを、死守してきたのに対して、大阪の吉本興業が、パロディー訴訟を起こされ、裁判沙汰にまで、現在では、発展している。大阪独特の「茶化し」と、「おもろい精神」は、分からないではないが、それだったら、事前に、相手に、一言なり、仁義でも、切っておいて然るべきなのに、、、、とも、思わないではない。この辺も、大阪人一流の気質なのであろうか?吉本劇場での限定販売なら、まだしも、流石に、菓子販売という厳粛なビジネス社会では、そんな類似商標は、パロディーでも、許されるはずがないと思われる。何とも、本家・本元の「虎の尾を踏んだ」からには、日本でも、中国でも、問題の性格は、異なるものの、徹底的な白黒を、つけて貰いたいところである。中国に対する知的所有権の問題は、改めて、米国だけではなくて、欧州も、日本も、褌を締め直して、対応することになるであろうが、それにしても、中国という隣国は、得体の知れぬ不可思議な国である。



犬の声帯除去の記事に考える

2012年02月26日 | 動物・ペット
朝日新聞の社会面のニュース圏外という記事の中に、テレビの番組に出演している犬が、無駄吠えを防止するために、プロダクションが、声帯を除去して、出演させていて、放送局が、それを承知能重で、出演させていたかどうかを、報じられ、物議を醸しているそうである。それにしても、人間で言うところの「人権」、否、犬の権利である「犬権」を守るべき保護者である飼い主が、只単に、無駄吠えを防止するために、声帯を除去する手術を、避妊手術同様に、簡単に、実施してしまったという事実に、改めて、驚かされる。本来、犬が、吠えるのには、それなりの理由があるわけで、無駄吠えとは、人間様の勝手な理由付け以外の何物でもない。ましてや、「犬権」を守るべき保護者である飼い主の人間が、進んで、自ら、「犬権」を蹂躙してしまうとは、全く、情けない限りである。犬畜生に、劣ると言われても仕方あるまい。人間として、恥ずかしい限りである。吠える行為には、本能的な威嚇も含まれているらしく、声が出ない吠えるという行為自体が、ストレスにならないのではないかと、言われているらしいが、、、、ストレスになるとか、ならないとかいう議論以前の問題であり、こうした本能すらも、否定しかねない人間様の傲慢な態度が、問題である。ソフト・バンクの宣伝に出演中の白土家のお父さん犬は、きっと、犬と人間の双方の立場が、分かるから、どう考えているのだろうか?CMの中ででも、「犬権」を守る立場から、是非とも、応えてもらいたいものである。我が老犬は、目と耳が、不自由であるが、ご飯が欲しい時や、お庭を一周して、家の中に入りたい時には、必ず、自ら、大きな声で、自己主張して、「ご飯の時間だよ!まだかいな?」とか、吠えて、合図し、訴えるが、、、、、、。コミュニケーションの、或いは、意思表示する上での不可欠な手段であるはずである。声帯をあえなく除去されてしまった犬には、申し訳ないが、何とか、不自由と感じても、それでも、生き抜いてもらいたいものである。そう願わずにはいられない、何とも痛ましい記事である。


重森三玲「北斗七星の庭展」を覗く

2012年02月25日 | 伝統工芸・展示会
日本人は、庭が、好きである。とりわけ、枯山水は、白砂・白石と岩や、自然石を、生かして、宇宙を表現し、そこに、自らの禅の無の世界観や自然に対する哲学や、人生をも投影する。今では、小さな庭も、駐車スペースとしての車庫となり、掛け軸が掛かっていた床の間も、いつの間にか、増改築の中で、襖や天袋とともに、消滅してしまった。庭園も、服飾も、絵画も、書道も、音楽や舞踏ですら、すべて、美的なデザイン性に裏打ちされた表現の一種であると実感される。そこには、哲学的な思想と、深遠な構想とが、自然とともに、或いは、静かな沈黙とともに、一緒に、時間を共有しているように思えてならない。静かに、映像や写真を観ているだけでも、それが、身近に、感じられるのが、不思議である。実際に、これが、その場所に立って、岩肌や、水の流れや、苔を、そこにある空気と音と光と陰を間近に、感じ取れたら、どんなに、素晴らしい、感動的なことかと想像だにすることが、可能である。「石が、立っているのではなくて、作者が立っているのである。作者である場合は、その石を通して、何かを主張するのである。時には、沈黙の主張をしている場合もある。」と、、、、、。京都「東福寺の方丈庭園」の「北斗七星の庭」(禅寺で、東司と呼ばれるトイレに使用される礎石を北斗七星に見立てて表現した庭)や、「小市松の庭」(襖のデザインから、ヒントを得て作られた四角い石と苔の庭)などが、ミニチュアで、展示、再現されているが、十分、想像力を駆り立てられるに値する何物かがある。松尾大社「蓬莱の庭」、漢陽寺庭園、東福寺光明院の「波心の庭」:「雲無生嶺上 月有波心落」(雲なく月は嶺の上にあり、波の上に月が映り、とても心が落ち着く)ということを意味する、或いは、岸和田城の「八陣の庭」:諸葛孔明の八つの陣(地・鳥・風・虎・竜・天・蛇・雲)を自然石になぞらえて、天守閣から、眺望できるような庭など、岡山県の豪溪の水墨山水画の原風景を彷彿とさせるような庭作りの数々、、、、彫刻家のイサム・ノグチとの交友、勅使河原蒼風等との前衛生け花運動、茶室、茶道、陶器、書道、庭作りとは、誠に、総合的な芸術作品であることが、改めて、頷ける。神宮外苑前駅の近くのワタリウム美術館で開催中の造園家、庭園史研究家であり、又、前衛生け花運動も手掛けた重森三玲(シゲモリ ミレー:画家のミレーに因んで、自ら、後に、改名した)の庭園展は、素人の私でも、猫の額ほどのわずかな庭でも、改めて、宇宙観を表現してみたくなるそんな思いを興させる感動が、そこにはある。バック・グラウンド音楽は、細野晴臣が、担当していて、耳心地よい。但し、年寄りには、4階の椅子席で、映像を観ながら、しばし、一休みしてから、ゆっくりと、3階・2階へと、降りてきた方が、腰への負担は少ないので、ご注意を!

ワタリウム美術館HP:
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

  

世界ラン展日本大賞2012を覗く

2012年02月24日 | 自然・植物・昆虫
もう、30年以上もの長い付き合いになる海外のサプライヤーの関係上、毎年、東京ドームで開催される世界ラン展は、なるべく、時間があれば、駆け足でも、見ることにしている。流石に、今年は、歩行弱者になってしまったので、本当の駆け足という訳にはいかなかったが、、、、、。それでも、毎年、気に入った蘭の花や生け花の写真を撮っては愉しんでいる。今年のテーマは、「自然とあゆむ=希望ある未来へ」で、著名なデザイナーである假屋崎省吾によるデモンストレーション等も、予定されている。それにしても、見事なまでに、各作品は、丹精込めて、手塩にかけて、育成・栽培されたものである。何とも、その色鮮やかなこと、気品に満ちた優美さ、種類が豊富なこと、そして、何よりも驚くのは、その花の数の多さである。秋の菊花の展覧会とも、又、違う。洋服のデザインも、面白いとは思うが、あまり、ファッション・ショー等は、どうも、見に行ったことがない。それに較べると、園芸、とりわけ、蘭の花は、自宅でも、見よう見まねで、花が終わったら、又、花芽を愉しめるように、手入れをすれば、根が強いだけあって、再び、「花を愛でる」ことが出来る。南国のタイやベトナム等では、棚から吊しておいても、暖かいから、年中、綺麗な原色系統の花を愉しめるが、我が拙宅では、白い蘭が、中心である。植え替えや、株分けが、うまく行かないこともあるが、存外、再び、花芽を出して、花を愉しむことが可能である。やはり、年中、花を愛でること、狭い庭でも、花木の花を季節に応じて、「季節を愛でる」ことは、「月を愛でる」ことと同様に、日本人の心を、いや、全世界の愛好家に、共通する心持ちではないだろうか?「盆栽」が、国際的にも、人気があるのも、確かに、頷ける。又、「日本食」が受けるのも、やはり、同じモノを分かち合えば、その気持ちが、理解出来るようになるのと同様、同じ共通の趣味を持てば、心と心とが、どこかしら、通い合えるものであろう。



保護犬の第二の犬生

2012年02月23日 | 動物・ペット
我が老犬は、満で、丁度、推定17歳である。1995年5月に、約3ヶ月のメスの子犬で、城南島の動物愛護センターで、2日間に亘る講習の末に、もらい受けてきたもので、4匹の姉妹犬のうちの1匹である。申し込みをする前から、既に、口笛を吹いて、こちらにやってくる犬を貰うことにして、名前も、自分で、未来を切り開いたのだから、ラッキーと命名することに、初めから決めていた。案の定、口笛を吹くと、チョコチョコと柵の中から、歩み寄り、こちらをジッとみつめている。偶然もあるかも知れないと、もう一度、呼ぶと、再び、小さな脚で、しっかりと歩み寄ってきた。この犬だけ、耳が、ピンと立っていた。驚くべきことに、後年、近所の公園で、散歩していたら、同じ柄の同じ顔の犬が、向こうから、来るではないか!尋ねてみると、同じ頃、同じ場所で、しかも、かかりつけの動物病院まで、同じで、あの姉妹犬の一匹だったということが、分かった。そのプーちゃんも、4年ばかり前に、亡くなったそうで、我が老犬も、一緒に、遊び、散歩していた我が家の子供達の成人を見届け、私の父母を送り、近所のお友達の犬たちも、亡くなり、今では、寄る年波で、眼と耳が、不自由になり、トボトボと、うたた寝と食事と散歩だけが、生きがいである。若いときは、思い切り、小諸の里山で、松林の間を走り周り、藪の中に、消え去り、谷底へ、鹿の臭いを嗅ぎつけて、降りていって、帰ってこなかったりもしたが、、、、。夏の暑い日には、ベランダで、寝そべって、昼寝をしたり、冬には、雪の中でも、狂ったように、跳び回ったりもしたが、しつけで習ったお座りも、待ても、お手も、おかわりも、伏せも、つけも、みんな、もう祝卒業で良いだろう!自由気儘に、好きなだけ、遊んで、食べて、寝て、長生きしてくれれば、それだけでよい。うちの分だけでなく、お向かいの家の番犬までも買って出て、ご褒美を戴いたりしたが、そんな役目も、もうしなくてよいだろう。只、ひたすら、余生を愉しみ、病気になったら、なったで、手術もせずに、自然体に任せつつで、これが、我が家の犬を飼うときの「初めからの約束」だった。腰を抜かして歩けなくなっても、心配は要らない。安心して、気儘に、天命を全うして貰いたいものである。ただ、それだけを願う日々である。そんなことは知らずに、相変わらず、尻尾を鼻に当てて、丸くなって、自分のベッドで、暖かそうに、食後の居眠り中である。ただ一つ、絵本の「百万回生きたねこ」ではないが、結婚し、愛し合い、子供を作る機会を許さなかったのは、人間のエゴかと悔やまれる。そして、君は、本当に、ご主人様が、好きだったのか、嫌いだったのかと、、、、、尋ねてみたいものである。「本当の犬の気持ち」を、、、、、。「幸せだったのか」と、、、、。最期の瞬間には、、、、、。






English Menuで、もてなす

2012年02月22日 | 男の手料理・食
一寸、ここのところ、男の料理が、開店休業続きだったので、丁度、世界ラン展に出展しているNZのクライアントで、もう、かれこれ、30年以上、お付き合いしている人物を、自宅で、私の手料理で、もてなすことにして、急遽、英語のメニューを、遊び半分で、記念にとおもい、作ってみた。料理の内容は、仰々しいものではない。いつもの定番の親子丼とポトフのスープである。まあ、そこは、自宅での料理だから、簡単に、しかも、家庭料理である。高級レストランという訳にはいかないが、ホストが、自ら料理するというところが、ミソである。要するに、「味より、おもてなしの気持ち」が、大事というところだろうか?いささか、時間的なタイミングもあり、サラダがごまドレッシングをかけてしまった為に、本来、シャキッとするところが、萎えてしまい、女房殿に、不興を買ってしまったが、仕方ない、これも、素人シェフだから、ご愛敬で、、、、。日本的な黒の四角いお盆と朱色の丼に、綺麗な装飾を施した塗り箸で、料理の内容よりも、伝統的な和食器のディスプレーで、誤魔化すところは、抜け目がない。やはり、和食は、プレゼンテーションも肝心である。「舌で食べる前に、眼で愉しむ」のが、極意である。そんなことを説明しながら、圧力鍋で、スープ・ベースを作り、我が老犬には、その地鶏の骨を除けた皮を、少し、お裾分けに、取っておいてあげた。うっかり、とっておきのケベック産のアイス・アップル・サイダーと、ビールを飲んでしまったので、帰りの最寄り駅までの見送りの運転は、女房殿にお願いすることにした。娘が、前日に作っておいたマンゴーの寒天ゼリーも、好評で、結局、お土産に、レシピー付きで、後日、離日前には届けることにした。仰々しいおもてなしではないが、自宅に招いて、一緒に、家庭料理を外国で、食べるのは、レストランで、食べるのとは、又、別の趣があって、これも、一興である。その国の色文化を、一緒に食べることを通じて、その気持ちを理解し合うことは、農耕文化の歴史の一つの特徴でもある。記念に、メニューを持って帰り、奥さんに、報告するそうである。



新潮日本美術文庫 10 伊藤若冲 Ito Jakuchu

2012年02月21日 | 伝統工芸・展示会
新潮日本美術文庫 10 伊藤若冲 Ito Jakuchu
テレビのBS番組で、6時間に亘り、科学的に、解説されていたので、著名な絵画は、画面上で、拡大して、科学的に分析され、鑑賞することが叶ったが、その他の絵が、見たくて、図書館で、借りてみた。小林忠氏による解説である。
「濃彩による細密表現」:「動植綵絵」30幅のうち、「群鶏図」など
「水墨による略画表現=筋目描き」:「菊図」など
「枡目による色点表現=モザイク画法」:「鳥獣草花図屏風」
「石槢ふうの水墨表現=石槢絵」: 「石灯籠図屏風」
「木版画の新表現=拓版画及び着色版画」:「鸚鵡図」、「乗興舟」
こうしたユニークな奇技を駆使して、江戸時代に、享保の改革から、田沼意次の時代、天明の大飢饉を経て、1800年、85歳で没するまで、描き続けた。しかも、相国寺の禅僧、大典顕常の知己を得て、多数の作品を寄進したのも、元来青物問屋の主人でありながらも、敬虔な仏教徒とで、「草木国土悉皆成仏」のような一寸ユーモラスな「草木や植物、野菜も悉く、皆、成仏する」という釈迦涅槃図を、もじったような絵すら、深遠な「哲学的な思想性」を感じざるを得ない。それは、「写実・細密主義」という単純な枠組みにとどまらず、単に、鶏や鸚鵡や鷲や、魚や貝や、動物や糸瓜を描いただけではなくて、又、その技法が、如何に優れていたかだけではなく、その背後に存在する作者の普遍的な宇宙的な「描くこと」に対する「哲学」を感じざるを得ない。何とも、その問いかけには、すさまじいモノを、今日でも、その作品を通して感じざるを得ない。光と陰、陰と陽、黒と白、ネガとポジ、極彩色、見る人の陽の光や、陰や、部屋の陽の光の射し方にも、熟考に熟考を重ねて、描かれている手法、遠近法、絵の飾り方など、小さな紙の上の写真だけでは、その科学的な検証は、難しいであろう。ハイビジョン・カメラの番組の方が、確かに、今日、やっと評価が高まりつつある若冲の良さは、改めて、再認識されよう。言うまでもなく、有名な代表作である「動植綵絵」等も、良いが、一風趣を異にする晩年に描かれた7体の布袋を縦に並べて、描かれた「伏見人形図」は、何とも、ユーモラスであるが、なかなか、解釈の仕方が、難しいモノであり、同じく、最晩年に描かれた「岩頭猛鷲図」とは、全く、異なり、個人的には、大変興味深く感じられた。この本には、むろん、全ての作品が、表現出来る程のスペースも、大きさもないし、それを期待する方が無理ではあるが、テレビで取り上げられていた大典僧侶と淀川を下って、大坂に赴く拓版画の淀川両岸図巻、「乗興舟」の空の色を漆黒の墨で、顕した作品が、見れなかったのは、大変残念である。濃彩による細密表現や、ふぐの薄作りを思わせるような筋目画きの水墨画もさることながら、「版画」が、ネガ・フィルムのように、ことさらに、秀逸である。改めて、録画しおいたビデオを見直そうと思う。それにしても、戦後、数百万円で、幸か不幸か、プライス・コレクション等で、海外の目利きの美術愛好家らによって、散逸を免れ、生き残れたことは、日本人としては、口惜しいところであるが、何はともあれ、貴重な文化財が、どういう形であれ、今日までも、保存されてきたことは、喜ばしい限りである。



高齢ゲーマーは、ボディー・ビルダーになれるか?

2012年02月20日 | 社会戯評
何でも、最近の研究によれば、オンライン・ゲーム等を愉しむ者は、優秀なボディー・ビルダーになれる共通の要素を、有しているそうである。もし、この仮説が正しければ、年々増加する高齢者ゲーマーは、ひょっとすると、優秀なボディー・ビルダーになり、老人介護費も、診療報酬も、少しは、減少する可能性があるかも知れない。ゲーマーとボディー・ビルダーの共通する要素には、(有能だと感じたい欲求があること)、(自由や、自主性を感じたい欲求があること)、(将来を決められると確信したがること)、(外見まで選択でき、力がついたと感じたいと思うこと)、(心理的欲求を満たしてくれること)、(互いを信頼し合う社会的な要素が、そこにあること)、等々があるそうである。そんなゲーマーも、今や、ゲーム・センターには、高齢者老人用の特設コーナーではなくて、正々堂々と、威張って、平日には、マジョリティーを占めるようになりつつあるらしい。何ともはや、時代も変わったものである。まさに、少子高齢化社会の先取りである。この理屈からすれば、果たして、有能なボディー・ビルダーになれるのであろうか?もっとも、これまで、目標管理とか、数値目標とか、クィック・レスポンスだとか、努力目標を高めに設定し、常に、これをクリアすることに、慣れ親しんできたタイム・マネジメントにも長けた高齢者が、やはり、ゲーム・センターでも、同じ理屈で、はまってしまう危険性がなくはなさそうである。働く若い人が、体脂肪率が高く、高齢者が、低いなどと言う逆転現象が出ない保証は、今や、どこにも存在しない。何とも、奇妙な現象が出てくるやも知れない。そんなことを思いつつ、それでは、腹筋と背筋を、今日も又、鍛えるとしようか!



止まるところを知らぬIT端末の進化

2012年02月19日 | 社会戯評
まだ、子供の頃、国鉄の改札口で、駅員が、切符1枚、1枚に、鋏を入れて、入場したり、或いは、差し出された切符を受け取ったり、検札したりして、キセルを防止したり、出場をしたものである。当時、オムロンの自動改札装置導入に対して、労働組合は、労働者の仕事を奪うモノであると、強く反対し、郵便局でも、いつ頃だったか、忘れたが、〒番号装置の導入を巡って、人手による宛先の仕分けに、同じく、組合は、同様の趣旨で、反対したモノである。今では、そんな不毛な議論を良くしていたものだと、驚かざるを得ない。それ程、今日では、IT端末が、普及して、便利さと生産性の向上に、大きく、貢献していることは、万人の認めざるを得ないところである。製造業の危機が、改めて、叫ばれているが、果たして、製造業の雇用が、本当に、経済の発展とともに、サービス産業に、吸収されているのであろうか?米国では、月額100ドル程度で、レストランに、PRESTO(音楽で使われるアレグロよりも、一段、早いという意味)というIT端末が、導入され始め、注文・出来上がりまでの時間・会計なども、自動的に、端末が、ウェイトレスやウェイターに替わって、仕事をこなしてしまうそうである。確かに、今や、回転寿司に行けば、注文も、IT端末で、しかも、出来上がって、ベルト・コンベアーの上に乗せられて、席に近づいてくると、自動的に、知らせてくれたりもする。ファミレスでも、注文は、今や、無線端末による厨房への即時注文である。「クリエイティブな仕事」とか、「より豊かな人間らしい仕事」を、とか、「より付加価値の伴う仕事」を、その代わり、我々はしてゆかなければならない、と言われてきたが、本当に、そうした方向へ、向かっているのであろうか?単純作業の労働形態が、人間性を貶め、機械的な作業化が、人間性を奪うという図式は、今日、又、別の意味合いで、問われ始めているように感じられてならない。科学技術とは、そういう、無駄や無理は、冷徹な科学的な競争原理の中で排除され、無駄のないフォルム、無理のない合理的な動きを目指す、まるで、能楽の動きのように、完璧な合理性を、寸分の狂いもなく、目指すモノなのであろうことは、理解出来るが、、、、、。「無用の用」とかは、今や、「ムダ取り」の前では、為す術もなく、一文の役にも立たない代物になり果ててしまったのだろうか。便利さとともに、何かを失わなければならないというのも、皮肉なことである。



映画 「はやぶさ 遙かなる帰還」を観る

2012年02月18日 | 映画・テレビ批評
私の小学校低学年の頃は、イタリア映画「青い大陸」や、世界的に名高い海洋学者のフランスのクストー博士による「沈黙の世界」等を、課外授業の時に、映画館に行っては、自然の神秘や科学の奥深さに、子供ながらに、その美しい映像に感動したものである。そんなきっかけが、科学への或いは、深海への夢を、勉強を動機づけたものである。既に、川口教授の著作や、展示会で、技術的な課題は、ある程度、知識がありつつ、この映画を観ると、日本人とは、何と、ロボットや、ロケット、惑星探査機すらも、「擬人化」し、終いには、「人生の縮図」か、「人生ドラマ」か、「分身」のように、扱ってしまう。資源のない国が、零戦を創り出したように、又、戦後は、その車輪のノウ・ハウが、国鉄の新幹線の軌道・車輪に応用されて、技術が、人を介して、受け継がれたように、宇宙工学のイオン・ロケットエンジンや、姿勢制御技術、様々な広範囲に亘る技術が、今後、若いエンジニア達によって、受け継がれて行くであろうことは、間違いない。そんな中でも、山崎努演じる街工場長の世界に誇る最先端技術は、どっこい、生き残ってゆくのであろうか?それにしても、「天国と地獄」、「成功と失敗」、「エレベーターの急上昇と急下降」、まるで、人生ゲームのように、目まぐるしく展開する最中に、改めて、「ぼろ切れを纏ったマリリンモンロー」とNASAに揶揄された日本独特の「人間主義・能力主義」、資源のない国が、如何に生き残るかという課題をそこに見る。「発想のユニークさ」というものは、金ではなく、(実際には、そうは言いたくはないが、、、、)やはり、人間、一人、一人が有する固有の個人の能力に、依存することは、間違いないらしい。それが、夢や、希望へと、やがて、つながり、「絶対に諦めないで」、ひたすら、「現場力・人間力・技術力」を磨き、個々人のフィールドを守り抜くことで、失敗から、成功へと、繋がることを、この映画は、人間ドラマとして、描いているように思える。もっとも、臼田の技術者が、長島一茂演じるところは、若干、違和感があったが、、、、それは、さておき、、、、。NECの技術者を演じた吉岡秀隆、主演の渡辺謙、江口洋介、石橋蓮司、ピエール瀧、竜竜也、夏川結衣、山崎努、それぞれ、個性的な役をこなしていた。音楽担当の辻井伸行も、知らぬ間に、耳に、入ってくる音で、あっという間に、終わってしまった。是非、学校でも、未来の小さな技術者に、プロジェクト・リーダーに鑑賞してもらいたいものである。技術論もさることながら、ノンフィクション作家の山根一真が、描きたかったのは、そこだったのかも知れない。写真に写し出された若い技術者が、今度は、これらの教訓を生かして、どんな展開をみせてくれるのか、大いに、期待したいところである。まだまだ、技術立国、日本は、どっこい、沈んではいられないだろう。



林 忠彦写真展 「紫煙と文士たち」を覗く

2012年02月17日 | 映画・テレビ批評
アレルギー体質の為に、成人してからも、煙草は、原則的に、すわなかった。もっとも、学生時代には、一寸、粋がって、吸い方を忘れたいために、友達から、まだ、フィルターのついていないショート・ホープを、年に1本程度、もらって吸いもしたが、、、、。基本的には、禁煙家の類である。しかしながら、決して、愛煙家の気持ちが、分からなくはない。むしろ、年々、肩身の狭まる思いをしている愛煙家の気持ちに、同情したい位である。渋谷の「たばこと塩の博物館」で、開催されている写真展は、確かに、文士と紫煙が、これ程までに、切っても切れない間柄であることを、改めて、再認識させるものがある。「文士「と「たばこ」と「酒」と「和服」と「酒場」、それらの言葉だけでも、十分である。59人のどの物書きも、等しく、たばこをこよなく愛し、おいしそうに、吸いながら、全く、悪びれる様子もなく、肩身の狭い思いを感じることなく、肺がんのリスクを恐れずに、堂々と、満足げに、煙を燻らせながら、写真に、納まっている。銀座のバー、「ルパン」で、偶然から撮られた太宰治の写真や、書斎とも寝床ともつかぬ坂口安吾の執筆風景写真等、確かに、記憶の片隅で、忘れられることのないポートレートである。個々の文士の作品表現とは異なる彼らの別の個性が、たばこを通して、林 忠彦のカメラのレンズで、切り取られている。約80点程の作品の中には、「戦後の焼け跡の風景」、とりわけ、「犬を背負う子供達」(昭和21年)、「焼け跡の母子」(昭和22年)、「日劇屋上の踊り子」(昭和23年:1948)、「ゴミ捨て場のバー」(大森、昭和26年)、「銀座の露店」、「ハチ公前」等、戦後の世相を撮影した写真も、これ又、印象深かった。バーのコースターや、旧いたばこのパッケージ、マッチ箱のデザイン、往年のハイライトの宣伝ポスター(そこに、映る小林桂樹や久保菜穂子等)も面白い。新橋のカストリ横丁、鎌倉文士という言葉など、幼い記憶の彼方に、消え去らんとする時代が、それらの写真の中には確かに存在する。写真を勉強する人だけではなく、デザインを勉強したり、文学をこよなく愛する人には、文士の別の一面が垣間見られて、愉しいひとときであると思う。「いこい」のパッケージを見たとき、そう言えば、小学校4年生の時に、担任の教師が、愛煙していたこのたばこを、校門の傍のたばこ屋に、よく、買いに走らされたのを想い出した。その文房具屋兼たばこ屋も、今では、廃業し、老人介護センターになっている。

たばこと塩の博物館HP:
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2011/1201jan/index.html

白梅が、ほころび始めた!

2012年02月16日 | 自然・植物・昆虫
東京で、我が老犬と一緒に、朝、散歩する近所の川沿いの小路で、お庭の塀からはみ出した白梅の枝にも、ちらほら、蕾がほころび始め、小さな白い花を、いくつか、咲かせ始めた。そこには、何種類かの梅が植えられていて、毎年、大きな実が、花を愉しんだ後に、家人が、収穫する習わしがある。今年も、恐らく、豊作であろうことが、たくさんの蕾から、想像に難くない。これから、徐々に、梅の花が咲く時期が、少しずつ、違うので、何種類かのそれぞれの梅の花模様を愉しんだ上に、一斉に、咲きそろう頃には、毎年、きれいな花とともに、甘い香りも、その庭先から、一寸、背伸びをする程度で、十分、愉しめる。散歩をしていても、梅の花と香りを、一緒に愉しませてくれるとは、何とも、全く、贅沢なもので、有難い話である。我が家の庭にある小梅は、まだ、やっと、蕾が、小さく揃い始めたばかりで、咲く気配は、微塵もみせていない。後、2-3週間程度は、必要であろうか?白い山茶花や、薄い桃色や深紅の椿の花も、そろそろ、終わりに、近づきつつある。これからの季節は、黄色い朝鮮レンギョウの花、雪柳の小さな白い花を皮切りに、白とピンクの花桃、小手毬の花、ハナミズキ、ビョウ柳と、慌ただしく、しかも、アッという間に、春の花々が、次々と、咲き揃っては散ってゆく。そして、鶯が鳴き、餌台に、メジロがやってきては、シジュウカラが、今年も又、玄関先のハナミズキの樹に掛けてある手製の巣箱で、巣作りの準備を始めるのであろうか?やがて、本格的な桜の花の開花を迎えることになる。今年は、いつもの花見に加えて、どこか、新しいところに、行きたいとも思うが、まだ、寒い今日この頃である。一雨毎に、春が、近づく気配がすると良いのだが、、、、、、。今年は、三寒四温ではなくて、六寒一温だそうだが、、、、、、。北国は、まだ、雪に閉ざされているであろうが、一足早い春の気配を感じる。



東映1980年作「動乱」の出演俳優を中心に

2012年02月15日 | 映画・テレビ批評
朝日BSでのテレビ映像を観た感想であるが、粗筋は、五・一五事件から、二・二六事件へと繋がる軍部の腐敗と経済の疲弊に伴う貧困の時代背景を有した青年将校と、後にその妻となる女性との生き方を描いた映画であるが、その内容は、むしろ、映画で観るよりも、三島由紀夫の「憂国」を読んだ方が、ずっと、感動する思いがしてならない。それにしても、現東映の社長になった「岡田祐介」が、まだ、駆け出しのプロデューサーで、日活の「吉永小百合」と東映の「高倉健」が、初共演するという割には、映画の宣伝キャッチ・コピーは、どうも、今一、いただけない。三島に、大きなギョロ目で、「英霊に対して、不謹慎だ!」と、一喝されかねない代物である。映画ファンからは、映像に映る車が、時代考証にそぐわないミスであるとか、指摘されたり、内容は、どうも、納得しかねるが、(五味川純平の作品)今や、絶滅か、絶滅危惧種となってしまった俳優達が、夥しく、出演していることの方に、改めて、驚ろかされる。既に、鬼籍に、脚を踏み入れてしまった老優や、未だ若くして急逝してしまった俳優達の中で、私としては、次の俳優達を、とても、懐かしく、感じざるを得ない。黒沢組の「志村 喬」、主人公の高倉健の老父親役、渋い独特の語り口と声で、ナレーションも兼ねて出演した「佐藤 慶」、(俳優座の同期には、「宇津井健」、「佐藤充」、「仲代達矢」がいるが、、、、、)、そして、燻し銀の老獪な渋い役の「金田竜之介」、「田村高廣」(田村三兄弟の長兄)、刑事コロンボとして、名を馳せた声優「小池朝雄」、もはや、銀幕では、観ることが叶わないとは、残念で仕方ない。民芸出身で、「坂の上の雲」に、大山巌役で出演し、映画の中で、憲兵役で、主人公の毒殺を密かに助けたが、決起の日に、阻止するも、惨殺される役を演じた「米倉斉加年」も、もう、78歳にもなる。声優で、吉永小百合の老父を演じた「久米明」も、今や、88歳である。中堅どころでは、健さん組を自称し、いつも、若いときには、台詞がなかった名脇役の「小林稔侍」(70歳)や、「田中邦衛」(80歳)、「日色ともゑ」(71歳)、朝鮮人役の「左とん平」(75歳)、等、相変わらず無口、無骨の健さんを、脇から、支えている。若い俳優では、「永島敏行」、統一教会の問題で、結婚後引退してしまった三人娘のひとり、「桜田淳子」が、22歳の時に、出演しているが、亡くなった「田中好子」のことを思えば、ひょっとして、引退してなければ、結構、女優として、大成したかも知れないという錯覚を抱かせる。「空に太陽がある限り」の歌手「にしきのあきら」、それにしても、この時点で、35歳、初の娼婦役を演じた吉永小百合は、眼の表情が、ウルウルしていて、サユリストならずとも、たまらない魅力を感じられる。今年で、67歳になる。健さんは、もう、80歳である。もう、みんな、台詞を喋らなくても良いから、只、スクリーンに、映っているだけで結構であると、後ろ姿だけでも良いと、願わざるを得ない。今夏、公開される「あなたへ」が、待たれてならない。そう言えば、2月13日は、江利チエミの命日で、高倉健は、いつも、早朝に、お参りを欠かさないらしいと、、、。