小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

命の不等価性:

2015年02月28日 | 社会戯評
命の不等価性:
新聞の「論壇時評」に寄稿した高橋源一郎と「明日を探る」に寄稿した中東研究者の千葉大学の酒井啓子教授のコメントが、なかなか、興味深い。「命の値段が異なる理不尽さ」、「命の不等価性」が、今日、これ程、問われているときは、ないのではなかろうか?それとも、我々は、それを十分知っていても、どうすることもできないのであろうか?それとも、日本人の命だけを、或いは、外国人だけの命を守ることを優先させて、紛争地のまさにそこに住んでいる中近東の現地の人を命を守ることを忘れても良いとでも言うのであろうか?或いは、湯川氏の死を軽率な自己責任論と切り捨て、後藤氏の死を、逆に、志の高い無念の死に様と果断するのが妥当なのであろうか?白人の警官による窒息死は、正当な職務であり、又、パリの風刺画によるテロは、表現の自由に対する挑戦であり、不公正に対する怒りへの理解が、ないがしろにされて良いのか?ISという怪物を創り出したのは、果たして、何処の誰だったのか?イスラム教徒の暴力は、すべて、テロ扱いされ、十字軍による暴力は、正当視されるというものでも決してない。増加するISに参加する若者を阻止しようとする反面、基督教徒民兵組織へ参加する西洋諸国の若者も増加していると謂われている。一体全体、いつから、そんな都合の良いご都合主義の世界標準的な基準に、いつのまにか、陥ってしまったのであろうか?ブレジネフによるアフガン侵攻に遡れば、起因するのであろうか?それとも、9.11以降の「テロとの闘い」という新たな戦争戦略が編み出されて以降なのか?考えてみれば、過去にも、人質殺害事件というものが、幾度となく、現存するが、今日ほど、日本人が、ISの宣伝戦術に影響されて、マスコミを含めて沸騰したことはなかろう。テレビや雑誌に、名を連ねた中東研究者で、これまで、イスラム世界をどれ程の人が、日本に、その宗教や文化や歴史を紹介してきたのであろうか?どれ程の理解があったのであろうか?個人的には、子供の時に映画で観た「アラビアのローレンス」の歴史知識と大学時代に、必須科目で受講した「イスラム・中近東近代史」程度であったであろうか?それも、みんな西欧というフィルターがかかった、一種、「被透過」情報だったのかも知れないと、今にして、思わざるを得ない。ISに関して、「反知性主義」という考え方がある。明らかに、ISのメディア戦術は、充分な知識と知性を有した一部の人間が建てている巧妙な素朴な「祖国愛」や「民族主義」は、まだしも、何故、そこから、レイシズムや、排外主義、民族浄化、差別と偏見などが、一種媒介項として、転移してゆくのであろうか?思えば、暗黒の中世でも、絶対的な宗教的権威に名を借りた勢力によるいわれなき「魔女狩り」も、日常茶飯事に、行われたことも忘れてはならないであろう。異質な文化や多様性に富む考え方を「学ぶ」ことの重要性を忘れ去り、ひたすら、ファナティックな動きに、身を任せてしまうこと、或いは、毎日の溢れるマスメディアの洪水に身をさらされながら、暮らしてゆくことは、一度、立ち止まって、考え直してみなければならないと、両人のコメントを読んでいて、感じられる。

眼鏡使用条件がなくなる:

2015年02月27日 | 健康
眼鏡使用条件がなくなる:
白内障の初期症状を呈し始めてから、約半年程経過したであろうか?白内障の特徴である水晶体の濁りを、少しでも後ろに、遅らせるという眼薬を日に3回点眼することで、併せて、ドライ・アイ予防の眼薬も併用しながら、眼の乾きも防ぐという処方措置であるが、検査結果では、進行が進んでいないことが写真撮影の結果などから、判明したことは喜ばしいことである。それにしても、最近でこそ、減少したが、これまで、現役の頃には、随分と眼を酷使してきたものである。PC画面を覗くだけでなくて、電車の中で、細かな字を読書したりと、眼が良かったから、随分と、酷使もしたものである。最近でこそ、ブルー光線透過防止フィルムなどや専用メガネを掛けるように心掛けているものの、昔は、そんな便利なものは、なかったことを考えると、空恐ろしくなる。それにしても、これまで、免許更新の度に、眼鏡使用条件を強いられてきたのが、嘘のようである。昨年の誕生日月更新では、試しに、ダメ元でメガネなしで、トライしてみたところ、一発で、問題なく、パスしてしまった。確かに、裸眼で、右:1.2 左:1.0で、これなら、文句がないであろう。以前、作った中・近両用のメガネも中距離や遠距離は、むしろ、眼鏡を使用する必要性もないとの眼医者からのお墨付きである。流石に、手許の文字は、読書時やPC作業の場合には、遠視のメガネが必要であるものの、運転時の眼鏡着用義務は、免れたことは大きな成果であろう。もう、最近では、身体のパーツ・パーツを、手前手間で、メインテナンスしてゆく必要を感じざるを得ない。悪化させない、事前の予防策こそが、成る程、必要なのかも知れない。現役の時は、あまり、気にもしていなかったが、部分的に、悪化する前に、手前手間で、歯も眼も耳も、膝も、予防措置を講じることが重要であり、是非、データのアプデートと更新をお薦めしたい。衰えてゆくスピードを少しでも遅らせるのも、一つの考え方ではなかろうか?

映画、「悼む人」を観る:

2015年02月26日 | 映画・テレビ批評
映画、「悼む人」を観る:
歳とともに、眼が衰えてくると、昔のように、原作である本を読んでから、映画を、再び、愉しむということも、今や、億劫になり、順序が、逆になってしまった。文章言葉での表現と、映像によるビジュアルな表現とでは、そこには、何らかの違いがあるわけで、それが、どのように、又、監督や脚本家や役者によって、解釈されて、表現されるのかを愉しむのも、一理あろうか?原作、直木賞受賞作である天童荒太によるもので、死者を「悼む」ということは、一体、どういうことなのであろうか?その意思に反して、死んでゆくことは、病死であれ、不慮の事故死であれ、云われなき理不尽な不条理な殺され方でも、何であれ、どんな形の死でも、どのように、「悼み」、「悼まれる」のであろうか?その理由も、何故、死んだのか、或いは、殺されたのかは、関係無く、死者の生きた証、如何に愛されたかが、誰かを愛し、誰かに、愛されたのか、を問うものである。等しく、そこには、「悪人尚もて、往生す」ではないが、やや、精神を病んだ主人公の青年が、全国を放浪しながら、「死者との対話」を通じて、或いは、その放浪旅行の中で、再び、自分自身を見つめ直してゆく過程を描いているのだろうか?最終的には、自身の母が、癌に冒されて、亡くなることと、(貫地谷しほり演じる)妹が恋人との間に出来た赤ん坊をシングルマザーとして、産むという決断をすることで、新たな命と引き替えに、ひとつの命が、終わってゆく様を象徴的に、描いているのか?その旅行の過程で、夫が、自ら自殺できないが故に、その妻を使って、刺殺してしまう石田ゆり子が演じる女の存在は、主人公の神聖さから、一挙に、イメージが、覆ってしまうようで、原作に、そういう表現がされているのであろうか?果たして、原作を読んでいないので、良く理解出来ないのも事実である。主人公の青年は、死者との対話の中で、むしろ、自分自身との内省的な対話をするという形に、変容してゆき、結局、この石田が演じる女との関係性の中で、自分を取り戻し、今まさに、死の床にある(大竹しのぶ演じる)母の待つ家に帰ることを決意する訳である。8月6日の原爆投下の当日、今治で、空襲により亡くなった兄を忘れられずに、コミュニケーション能力に、支障をきたしてしまった父の役を演じた平田満も、なかなか、良い演技であろう。女医役の戸田恵子も、面白い、又、一寸、危ない、雑誌記者を演じた椎名桔平も、アウトレージでみせた顔とは又、別の顔で、その母や、父との関係性を、上手に、想像させていて、宜しいではないか?それにしても、石田ゆり子は、それ程までに、濡れ場を演じなければならなかったのか、堤幸彦監督(映画、明日の記憶など)に尋ねてみなければよく、分からない。高良健吾という俳優は、若い乍ら、数少ない動的でない演技が出来る役者であることが、これからも、理解されよう。様々な愛の形としての命というものが、ここには、ちりばめられている。「愛する人を殺した女」、「母を棄てた父を憎む男」、「愛が歪んだ形となってしまった男」、「新しい愛の結晶としての命を拒否された女」、「静かに、死の床で息子を見守る母」、「どんなことをして、人々に感謝されてきたのか?」、「どんな風に、愛され、又、愛してきたのか?」、この映画を観ていると、普通であること、当たり前なことの方が、何か、異常な事ではないかとも、考えさせられてしまう。人間が関係する祥月命日は、随分とあるものであるが、その故人を「悼む」方法も、よくよく、考えなければならないかも知れない。なかなか、重い映画である。逆に、原作を読んでみることにするか?それにしても、毎日、毎日、事故死やリンチ殺人や虐めによる死亡とか、これでもかこれでもかと、全く、考えさせられる。

老犬ホームなるもの:

2015年02月25日 | 動物・ペット
老犬ホームなるもの:
人間は、自分が歳衰えて、老人ホームに行かなければならなくなる時には、愛犬をどうするのであろうか?最近では、人間専門ではなくて、犬専用の老犬ホームが提供され始めていると報じられている。人間の寿命と犬の寿命の速度が、同じであれば、単純に、足し算をすればそれで、済むのであろうが、実際には、そうはゆかない。犬のスピードの方が、はるかに、6倍もの差が生じるのが、現実である。10才までが、X6で、それ以降は、+4倍だそうである。我が愛犬も、これに習うと、随分と長生きをしたものである。人間年齢になぞらえれば、92才を超えて、大往生かどうかはわからぬが、最期を看取って上げられたことは、本人は、どう思っていたのかは分からぬが、こちら側は、悔いなく、面倒をみられたという満足感はあろうか、それにしても、流石に、13歳頃までは、足腰も目も問題なく、頑張っていたのに、最期の2年ほどは、白内障で、目も見えず、お漏らしもするようになったので、外で、飼うことを諦めて、家の中に、入れて、オムツをあてて飼うことにした。本人は、心なしか、家族と一緒に住めることがとても嬉しかったのであろうか、自由、気儘に、家の中を歩き回り、テーブルの下の絨毯の上で、午睡をすることが大好きであった。老人病院も、老犬ホームも、同じように、一度入ったら、死ぬまで、出られないという点では、何とも、切ないような気がしてならない。我が愛犬は、外で飼っていたから、それが、当たり前だと思っていたが、晩年、家の中で飼ってみて、本当は、家族と一緒に、暮らしてみたかったのかなぁとも、思う。生き物を飼うとは、結局、一緒に、その生き物とともに、「人生を歩む」と云うことであって、ただ、餌を与えて、飼育するだけではない。将来は、或いは、既にそうなっているかも知れないが、遺言で、愛犬に、終身扶養保険を与える人も、出てきそうであるが、必ずしも、人間をないがしろにして、犬や猫にと、一概に、非難されるものでもなさそうである。もし、災害や何らかの理由で、最愛の動物を手放したり、先に、自分が逝く場合には、こういうホームも必要になってくるのかも知れないが、必ずしも、人間様が優先であるとも、言い切れぬものがあろう。自分の場合には、そうならなくて、見送れたから、良かったのかも知れない。もう、これからは、自分で、愛犬の面倒をみることもないであろうと思うと、少々、淋しくなるが、、、、、、、、。子供達でも、飼ってくれるようであれば、別であろうか?その時は、間違いなく、こちらが先に、見送られることになろう。

今年も、白梅が咲き始めた:

2015年02月24日 | 自然・植物・昆虫
今年も、白梅が咲き始めた:
ご近所の紅梅は、もう、すっかり、満開一歩手前にまでなってしまったが、我が家の白梅は、やっと、枝先の陽当たりの良い先端が、空に向かって、開花し始めたばかりである。これから、一雨一雨毎に、蕾が膨らんで、開花することであろう。もう、冬もやや、峠を越え始めていることが、この植物たちの動きを眺めていると、そんな季節の変化に、気付かされる。以前植栽した小さなジュリアンも、目一杯に、その花々を狭いプランターの中で、押し合いへし合いしながら、今や、咲き誇っている。こちらは、春が近づくにつれて、衰えてゆくのが、通例であるが、白梅の方は、暖かさが増すにつれて、ますます、元気になってゆく。当分は、こうしたせめぎ合いの中で、今度は、白い雪柳と白木蓮の花が、次の主役として、控えている。白木蓮の固い蕾も、徐々に、膨らんできているような気がしてならない。いつ頃になったら、固い茶色の固い殻を脱ぎ去るのであろうか?知らぬ間に、庭の小さな雪柳の蕾も、心なしか、膨らんできたような気がしてならない。春も、もう少ししたら、やってきそうである。

イー・タックス申告完了:

2015年02月23日 | 社会戯評
イー・タックス申告完了:
毎月、青色申告会のブルー・リターンAで、PCに蓄積しておいたデータをチェックして貰い、且つ、確認しているので、実に、申告も還付も、以前に較べると簡単になったものである。今年も、早々と、年明け、1月末には、ほぼ、昨年度の帳簿が、インプット完了し、一部、カード払いでの個人分と経費分の割り振りが、キャリー・オーバーされる時点で、誤差が出るのは致し方ないが、それも、次年度の頭で、補正が可能なのであるので、全く、数字的には、問題ない。なかなか、このシステムは、優れもので、何故、多くの人が利用しないのであろうかと不思議に思うのは、私一人だけであろうか?しかも、保険料の証明書や源泉徴収票も、今や、オンラインになっているので、数字を打ち込めば、自動的に、税務当局に蓄積されているデータ・ベースで簡単に検索・追跡出来るので、領収証を保管しているだけで、分厚い資料を紙の申告書に、煩わしく、添付することもない。一度、この手続きで、イー・タックス申告すると、これまでの煩わしさは何だったのかとも思わざるを得ない。資産の減価償却なども、自動的に、来期に、PCが、自動計算してくれて、繰り越しでき、又、再び、1月1日から、改めて、新たな会計年度が、始まるわけである。しかも、還付の場合にも、前年と同じ口座であれば、自動的に、これも又、処理してくれて、全く、有難い話である。後は、還付という果報は寝て待てではないが、今年も、葉書による還付の通知を待つばかりである。

インターネットの速度:

2015年02月22日 | 社会戯評
インターネットの速度:
昔に較べて、随分とネットの速度も速くなったものである。初めの頃は、ピーヒョロロ・クァン・クァンと接続していた時代から、ADSLへ、そして、光回線へと、速度も、画像などの送受信が進行するにつれて、改善してきたものである。しかしながら、無線ルーターの制約や機器の陳腐化によっては、まだまだ、そのスピードも、理論値通りにはゆかず、速いスピードに慣れ始めると、徐々に、その感激も、マヒしてきて、やがては、いつの間にか、「あれれ、遅くなったのではないか?」と感じる始末である。勿論、上りと下りで、自ずから、速度が違うのは致し方ないとしても、速度を改めて、チェックしてみると、なかなか、微妙なものである。原因は、どうやら、ネット回線自体が高速化しても、家庭内の無線ルーターなどが、旧くなっていたり、使用するPCやソフト自体が、適合していなくて、アップ・デートをしていなかったりと、様々な理由が考えられるようである。ハードも更新しなければならないし、ソフトも、アップデートしなければならないとか、結構、厄介な面倒なことである。どうやら、無線ルーターが、我が家の場合には、買った当時は、最新であったものの、やはり、5年も経過してくると、内蔵されているソフト自体にも、問題が生じているようで、PC側での更新とアップデートが、どうやら、不可欠であるみたいであることが、色々と検索して見ると、分かった。それにしても、回線のインフラだけでなく、機器のハードや、内蔵ソフトのアップデートとか、なかなか、環境に適応してゆくのも、大変なことである。PC機器も、人間の適応能力と同じ事なのであろうか?そう考えると、考えものである。これで、暫く、少しは、数値も改善されて、気持ち、早くなったような気がしないでもないが、、、、、どうであろうか?賞味期限が多少は、先送りされたであろう。

映画、「緋牡丹博徒」と「死んで貰います」に思う:

2015年02月21日 | 映画・テレビ批評
映画、「緋牡丹博徒」と「死んで貰います」に思う:
「単騎、千里を走る」の健さんは、もう、若い頃の怒りに満ちあふれたぎらぎらした目つきではなかったが、この任侠路線華々しい頃の作品では、ありったけ、「危ない目つき」である。これに対して、緋牡丹お竜こと、藤純子は、この頃、これ程、キリッとした線の細いながら、鋼のようなしなやかさを有した凜々しい役柄を演じていて、実に、面白い。「死んで貰います」では、一転して、芸者役で、出演していて、そのギャップと云ったら、これも又、奥ゆかしくて、一途な秘めた心を有した女らしいのが、実に宜しいではないか?我々の世代は、既に、池辺良の若い頃の文芸作品や好青年役ものは、残念乍ら、時代が違ったから、観たことはない。映画というものは、所詮、同時代性というものが、結構、前提に、評価し合うものなのかも知れない。言い換えれば、時代を遡ったり、下ったりして、観ても、なかなか、その映画が出来た頃の「時代性」を理解出来ないものかも知れない。啖呵を切る場面での監督の撮影手法も、今や、芸術的な価値があるように、同じリメイクで、同じ手法で、仮に、今、作られたとしても、「同時代性」は、もはや、感じられることはないであろう。俳優というものも、その映画のその瞬間、瞬間で、輝いていて、その輝きは、その目つき、その仕草、その演技、どれひとつをとっても、「その時の一回性」なのかも知れない。そこに、観られるのは、いつも、永遠に変わらぬ俳優が、存在するだけで、その時の、自分は、決して、その中に存在しているわけではない。せいぜいが、その時に観た当時の「過去の自分の存在」であって、同時性の中で、残念乍ら、その存在を感じられる訳ではない。改めて、自分の顔を鏡で見ると、そこには、目の垂れてしまった、今の自分しかなく、相手の俳優は、永遠に、眼光鋭く、凜々しく、鋼のようにしなやかな立ち居振る舞いする姿が、銀幕の向こうに対峙しているわけである。俳優というものは、永遠に、その中で、輝いているかも知れないが、観るこちら側は、残念乍ら、一人だけ、時間の経過をいやという程、教えられることになるのかも知れない。だからこそ、俳優は、死しても尚、銀幕の彼方で、永遠の命を保ち続けて、燦然と輝き続けるのかもしれない。確かに、藤純子は、改名しようが、結婚しようが、歳をとろうが、緋牡丹お竜で、高倉健も、池辺良も、変わらないのかも知れない。そんな感慨を持ちながら、映画を観てしまった。それにしても、今云われるところの大御所達が、端役で出演しているのを観るのも、実に、面白いことである。又、10年後に、見た時には、どんな感慨を抱くであろうか?1960年代後半も、1970年代初めも、その時には、随分と、遠い昔の映画になっていることであろう。それにしても、藤純子の引退後に、そのイメージを継承させようとして、せいぜいが、梶芽衣子くらいしか、世に送り出せなかったことは、余りにも有名なことである。そして、又、高倉健も池辺良も、そういうことなのかも知れない。更には、当時の女優陣は、佐久間良子も三田佳子も、生まれた時代が、悪かったのであろうか?

工業デザインの生まれる土壌とは?:

2015年02月20日 | 社会戯評
工業デザインの生まれる土壌とは?:
音楽でも、著述業でも、何でもそうであるのかも知れないが、その途一筋で、何十年もの長い間、飯を喰うと云うことは大変なことであろうかと想像される。とりわけ、それが、工業デザインとなると、それはそれで、大変なことであろうかと、思われる。出来上がったものを我々は、観て、成る程、成る程、などと頷くことはあっても、それを、自分で、創作してみろと言われるとなると、いくら、お金を積まれても、なかなか、年賀状の版画を期日までに、自分で、刷り上げるのとは、訳が違う。そこには、血の滲むような努力とたゆまぬ創造力が乾いたタオルを、脳みそを、これでもかこれでもかと絞り上げるように、練り上げられた賜物ではないだろうかと想像される。キッコーマンの卓上ビンも、今にして思えば、注ぎ口が、垂れないように工夫されていたり、瓶自体を、小型化して使用するという発想自体が、斬新だったり、そのデザイン的な形状のみならず、発想自体が、問われているのかも知れない。そう考えると、工業デザインとは、ユニバーサル・デザインではないが、一寸した僅かの違いの中に、実は、もの凄く大きな差異があって、そこにこそ、本当の隠された価値を見いだし、デザイナーは、心血を注ぐものなのかも知れない。製品のデザインというものは、社内の専門的なデザイナーが、担当するだけではなくて、広く、このように社外の新しい息吹も必要不可欠なのかも知れない。バイクも、音響機器も、調理器具も家具類も、車両のデザインも、住宅の形状までも、あらゆる分野で、こうしたデザインナーが、活躍できうる可能性が秘められているものの、なかなか、日本では、北欧のようなこなれた新鮮なデザインが、最近では、生まれてこないが、栄久庵憲司氏の死に際して、そんな思いを抱く。どうしたら、ファッション・服飾デザイナーや建築デザインという分野ではなくて、工業デザインの分野で、どうしたら、そういう人が、生まれてこれるのであろうか?若い人に、期待したいと同時に、その自由な発想と創造性を生み出せる環境とは、どんなものなのであろうかと思ってしまう。創り出すのではなくて、どうしたら、自然に、生まれてくるのであろうか?どんな土壌と環境が必要なのであろうか?門外漢の私には、大変、興味深いことである。

映画、「単騎、千里を走る」について:

2015年02月19日 | 映画・テレビ批評
映画、「単騎、千里を走る」について:
チャン・イー・モー監督が、中国側、降旗康男監督が、日本側を担当して日中合作映画で、高倉健主演の雲南省の小さな僻地である石頭村を舞台にした父と子の葛藤を主題にした今から10年ほど昔の映画である。父と子との葛藤という主題を縦軸としたら、恐らく、横軸は、民族を超えたところにある「言葉の壁と涙」であろうか、それは、奇しくも、長年、妻の死後、何らかの理由で、寒村に、逃げていってしまった父と息子との疎遠の経緯は、詳しくは、描かれていない。しかしながら、その確執足るや、恐らく、根の深いものであったのであろう事は、高倉の演技からも、声の出演であった健一役の中井貴一の回想からも、容易に、想像はし得ようか?皮肉にも、息子である民俗学者である健一の末期を前にして、その望んでいた関羽の「単騎、千里を走る」という仮面劇を撮影するために、わざわざ、雲南省まで、やってくるものの、言葉の壁や、刑務所・司法制度の壁から、なかなか、今や囚人となってしまった俳優に、面会することが出来ない。それでも、ビデオ・メッセージを駆使して、担当当局を通じて、(ここにも、涙が観られる)面会したものの、今度は、その俳優が、逆に、自分の残してきた息子に会いたいと泣き出して、演技すら出来ず、結局、高倉が、その囚人の息子を故郷の僻地へ、迎えにゆくことになり、映画は、辺境の赤土だらけの急峻な厳しい自然の石頭村へと、辿り着く。そこでも、ビデオ・メッセージ同様、又、「涙」が、あらゆる誤解とすべてのわだかまりを溶かすような重要な表現手法であることは間違いないであろう。12億総拝金主義者と化してしまったかのような今日の中国に対して、モー監督は、村が大切に育てる共有財産としての子供・息子という概念や共同体挙げての歓迎のさりげないもてなしの宴席とか、随所に、厳しい自然環境の僻地の人々の生活も忘れずに、活写している。何の演技経験もないエキストラの住民が、終いには、涙を流し、鼻水が垂れる様子を見ていると、一体、演技とは、何なのであろうかと、考えさせられてしまう。後年、高倉は、その時に感じたことを、「自然な演技を自然に演じることほど、難しいことはない」と述べているが、成る程、プロの俳優としての意地と誇りが、この映画の「涙」を流すシーンでも、観られて面白い。一体、何回、健さんは、この映画の中で、泣いたのだろうか?それとも、泣くという演技をしたのであろうか?そして、そのシーンを演じるときに、どのように感じながら、涙が、溢れ出てきたのであろうか?亡くなってしまった自分の息子が、最後に、その嫁さん(寺島しのぶ)に言い残したことを電話越しで、父として、初めて聴いたときに、一体、どのような想いで、聴いたのであろうか?それにしても、民族の壁は、まずは、言葉の障害というものが付きものであるが、人間としての感情表現である「涙」は、それらの障害を、見事に、氷解し尽くして余りあることがこの映画からも分かろう。歴史認識の違いなるものも、異国の戦没霊園で、花輪を捧げながら、ひょっとして、思わず、安倍首相でも、「涙」を流すところを見せつけられたら、一挙に、氷解するかも知れない。いやいや、そうではなくて、もっと、政治家の場合には、逆に、偽の涙などと、複雑に、叩かれるかも知れない。難しい所である。映画の中国語題名を「千里走単騎」としたのも、なかなか、一計であろうか?この映画で、中国の高倉人気は、高まったと云われているが、成る程、細かい場面場面でも、実に、見応えはあるように思われてならない。今度は、又、別の機会に、じっくり、何度でも、鑑賞してみても悪くはなさそうである。それにしても、緋牡丹のお竜こと、藤純子の娘の寺島しのぶが、息子、健一の嫁役で出演しているのも、何かの縁であろうか?

クラウド・ソーシングは、生き方までをも変えられるか?:

2015年02月18日 | 社会戯評
クラウド・ソーシングは、生き方までをも変えられるか?:
インターネットが、今日、これ程までに、発展するとは、若い時には、考えられなかった。就中、組織の中での労働の仕方も、自ずから、変更があって然るべきなのに、一向に、正規雇用と非正規雇用という形でしか、或いは、給与・待遇面での格差だけしか、目立たず、本当の意味での働き方の在り方の変化、労働の質の変化というものには、なかなか、移行してこないし、現状は程遠いものがある。逆に、高給取りを逆手にとった残業労働時間の規制撤廃という訳の分からぬ方向性へと向かってしまっていないだろうか?本当に、ICTをもっと活用した、通勤時間帯をずらしたり、自宅で、働きながら、打ち合わせに、オフィスに、何日間かを出勤するとか云うような働き方の仕組みが、何故、生まれないのか、普及しないのかと不思議に思う。個性的な中小企業などは、もっと、試験的に、様々な仕組みを試しても良さそうであろうにとも思われるが、むしろ、大企業や大きな組織よりも、逆に、忠誠心を煽るかの如きやり方で、出社を義務づけたり、業務報告書のようなもので、会社に縛り付けたりする傾向が強いのは、おおいに、残念である。今日、コーヒーを飲みながらでも業務報告書のようなものは、何も社内にいなくても提出可能であり、もっとも、だからこそ、何をやっているか分からぬから、出社せよとか、請求書を打ち込みに帰社・出社せよなどという理不尽な理屈が、或いは、経営者自体が、旧態依然たるICT 音痴だから、そうなるのであろうかとも、勘ぐってしまう。昔、アメリカで、働いていたときに、米国の田舎の中小企業では、一寸、郊外の緑豊かな環境の下で、昼食を芝生の上で、ワインを飲みながら、バーベキューを愉しんだり、仕事が終わると、近くのゴルフ場で、ハーフをやって帰宅するとか、まだ、当時は、インターネットもファックスすらない、テレックスの時代だったけれども、オフィスが、まるで、自宅の延長線上のような環境で、随分と違うものなのだなぁと云う感慨を抱いたものである。更に、シリコンバレーなどでは、働いている場所も、自宅のような有様で、中には、愛犬までも連れてきて仕事をしていたり、職住近接、その違いに、驚いたものである。いい加減に、単純なデータのインプットとか、自宅でできるものは、アウト・ソーシングで、しかも、自宅をオフィスにしながら、そのまま、働けるようなビジネス・モデル、或いは、自宅に居ながらにして、働きながら、給料が稼げるような環境のモデル・ケースが、地方自治体にも、出てこないのでしょうか?毎度、過ぎ去った過去の工業団地の税制優遇制度による誘致とかは、もはや、時代にそぐわないものになっているように思われてなりませんが、、、、、、。尤も、すぐに、最先端医療都市のようなものも、出来るとは思われませんが、何か、小さなものでも、地方移住でも、そういう成功的なモデル・ケースが、古民家改築や空きや対策や子育て支援の一環として、欲しいものです。そうすることで、働き方、引いては、労働者の労働概念、人間としての生き方も、初めて、クラウド・ソーシングで、変わってくるのではないかと思われますが、果たして、どうなるのでしょうか?又ぞろ、仕事斡旋や仲介業でのピンハネが、横行して、望まれるべき自宅でも然るべき報酬が稼げるようなモデル・ケースは、作られないのでしょうか?一度、松の樹を見ながら、LINEの無料アプリで、海外電話をしながら仕事をすれば、高層ビルで、同じ事をやるよりは、ずっと、人間らしいと感じることは必至であろうことは、容易に、理解されるでしょうが、なかなか、現実は、そうはゆかぬものでしょうか?しっかりと、カネを稼ぐことが出来なければ、やはり、働きかたを、更には、生き方までも変えることは難しいのでしょうか?おおいに、考えさせられてしまいます。

早稲田文学季刊で読む、「炸裂志」:

2015年02月17日 | 書評・絵本
早稲田文学季刊で読む、「炸裂志」:
カフカ賞受賞作家、閻連科(イエンリエンコー)による中国長編小説であるが、いつになったら、出版されるかは、恐らく、その内容からして、分からない。途中で、筆を折らざるを得ないような局面を迎えるやも知れないことは、想像だに易い。既に、著作の一部は、中国エイズ村奇談と称する「丁庄の夢」他は、発禁或いは重版が差し止められている。従って、飜訳連載されている間に、読むに越したことはなさそうである。「志」とは、日本で云うところの志しではなくて、一種の市史・編纂のようなもので、ここでは、中国の一地方都市、「炸裂」に於ける、所謂、「万元戸」、「億元戸」を生み出してゆく過程での内幕を、行政の逆手をとるかたちで、「神実主義」という手法を用いて、「存在しない、眼に見えない真実を探求するもの」だそうである。現代の中国が抱える問題と言うよりも、或いは、その国の成立に関わってきた歴史的な宿命とは別に、もっと、普遍的な世界に通じるような規模での課題を、その影が、光が強ければ強いほど、逆に、濃くなるように、その暗黒の中で、暗黒になればなる程、希望にもなるように、剔抉してみせるのではなかろうか?彼は、自分の作品を、こうも云っていっている。「あの暗黒のなかで、懐中電灯を点けている盲目の人が暗黒の中で歩くときにあの限られた光で暗黒を照らすのとおなじ、出来るだけ人々に暗闇と、避けるべき逃れるべき目標と目的をみせることなのです」と、又、こうも云っています。「私はいつでも混乱した暗黒に包囲され、ただ暗黒の中で世界の輝きと人間のか弱い存在と未来を感じることしか出来ない」とも、、、、、、、、、。更には、「生まれつき暗黒を体験している存在である人間は、彼の前方が明るいことを信じることが出来ます。この明るさによって、人々は、暗黒の存在を見ることが出来、更には、上手に暗黒と苦難を避けることが出来るのです」と、、、、、、、。
一地方都市の「炸裂」が、「万元戸」へと変貌してゆくときに、その鉄道貨物列車が、急峻な坂を登り詰めるとき、速度が落ちる故に、その国有財産であるコークスやら、あるときは、高級な布地であったり、様々な物資を盗んでおきながら、それを卸し(下す)と称して、住民がこぞって、発展の原資として、行なってゆく様の凄まじさは、人間の有する浅ましさを表している。しかも、それが、行政権力と、或いは、国家合法思想としての国家権力と相俟って、事故死した者までもが、革命烈士なるものへと転化してゆく様は、恐ろしい暗黒の現実である。春節で、爆買いに来日する中国人観光客にも、一度、この件を、尋ねてみたら良ろしかろうか?一体、いつまで、この連載は、継続可能なのであろうか? 末尾の(つづく)という小さな文字が、やけに、大きく、意味深長であると思うのは、私一人だけであろうか?

東京地方裁判所からの通知:

2015年02月16日 | 社会戯評
東京地方裁判所からの通知:
だいたい、裁判所からの大きな封筒で、通知を受け取るなどと云うことは余程のことがない限り、ろくでもないことである。税務署からの還付通知であれば、それはそれで、結構なことであるが、、、、、、、。何か、訴えられでもしたのかと、身構えてしまうでは無いか?こちらは、裁判に、訴えこそすれ、訴えられる筋合いは、ないでは無いかと、思いきや、、、、、、、。長い間、所有していたゴルフ場の会員権の破綻手続き、破綻といっても、呈の良い民事再生法手続き開始に伴う、会員権の預託金という形での債権金額の届け出の手続きを要請するものである。それにしても、償還手続きを10年間もの長きに亘って、しかも、それも、2回もこうしておきながらの民事再生法の突然の申請である。ここ、何年かは、利用もすることなく、年会費を自動引き落としされ、流石に、この支払いを中止していたものの、それでも、破綻となると、まともな金額が戻ってくることはあるまいと思う。米国のチャプター・エレブンに基づいて、日本でも適用されるケースが多くなった所謂、民事再生手続きというものは、全く、債権者にとっては、全く、理不尽なものである。刑事事件に該当するようなものでない民事であるから、真摯に、誠実に、お支払いしますといっている限りでは、決して、この法治国家では、命までもがとられることはない。もっとも、ヤクザは、別であろうが、、、、、、、。それにしても、銀行などは、別なのであろうが、担当者は、左遷と将来の出世は、もはや、望みがなかろうが、それでも、個人の責任に帰されることは決してないのも、この法律の厄介なところである。最終的には、債務者の債務が、相当減額されて、債権者が、一律、一定の比率で、回収されるべき金額の手取りが、減るだけのことであろうか。それにしても、サラリーマン時代もそうであったが、海外での債権回収と気の遠くなるような在庫処分を、それもしかも、自分の仕事の範囲ではなく、他人の尻ぬぐいを、たまたま、海外現地に勤務してからと云う理由だけで、そのストレスのために高血圧になってしまい、、、、、、、、、と、全く、良い経験を積ませて貰ったことを想い起こす。そんな海外での裁判所での経験もあってか、それからは、裁判とか、訴訟とかは、全く、怖れることはなくなったのは、皮肉なことである。そんな経験があったからこそ、後年、国内債権の回収の際にも、生かされたのかとも思う。それにしても、人間、出来れば、民事再生手続きに関わるような案件には、関わりたくないものである。一体全体、統計学上、こうした債権・債務は、どう処理されているのであろうか?数字的には、右左、同額にバランスがとれているのであろうが、どうなっているのであろうか?そこに、生きている人間の感情は、その数字の裏側で、どうなっているのであろうか?ゴルフ会員権というものも、実は、資産価値ではなくて、使用・利用価値でこそ、評価されるべきものであることが、このことからも、分かろうか?ゴルフ会員権をお持ちの方は、ご注意下さい。突然、このよう書類が、突然、舞い込むやも知れません。

厚生年金基金の解散に思う:

2015年02月15日 | 社会戯評
厚生年金基金の解散に思う:
たまたま、年金ネットのPCでの通知がやってきたので、久しぶりに、マイ年金の確認をPCで、アクセスしてみた。成る程、年金の支給額が、減らされることが、その額を再確認してみても、改めて、新聞での報道などが、納得されよう。それにも増して、何でも厚生年金基金自体の解散が止まるところを知らないと云われている。その昔、紡績系の厚生年金基金が解散されるというニュースを見た時にも、やはり、産業業種によっては、はやり、廃りがあるのかと思わざるを得なかったのを覚えているが、もうあれから、「企業寿命30年説」ではないが、とうの昔に、そんな時間も過ぎ去ってしまい、今日、改めて、その業種を眺めてみると、この制度の破綻の広範な実態が改めて、再確認出来て、驚いてしまう。貨物運送業・アパレル・ハムソー業・ゴム・建設業・織物卸商・飲料サービス業、など、とりわけ、中小企業での厚生年金基金の解散が、目覚ましい。一度、解散に追い込まれると、自動的に、給付が、打ち切られてしまい、年額でも、相当な額の損失に、突然、組合員のみならず、実際、厚生年金を現に受け取っている高齢者は、その収入源を絶たれてしまうことになる。成る程、確定拠出年金とかに移行して、自己責任で、運用してくれなどという動きが、徐々にではあるが、強まっていたが、今にして思えば、成る程、そういうことなのかと今更ながら、思い返しても、手遅れであろう。とうの昔に、金持ちは、しっかりと、別の形での資産運用を考えて、金融資産の少ない労働者は、ピエティ先生、どうしたらよいのでしょうか?いやはや、多いに、考えさせられる状況ですね!

中森明菜で聞く「駅」:

2015年02月13日 | 映画・テレビ批評
中森明菜で聞く「駅」:
最近、すっかり、このカバー曲が、お気に入りになってしまった。カバー曲というのだから、元は、竹内まりやの曲であるが、こちらは、ほとんど聞いたことがない。どうも、原曲の方が、元気の良いオフィス・レディーの歌い方のようで、カバー曲の方が、ずっと、イメージが、膨らんでいるようで、世界観が合っているような気がしてならない、試しに、検索でもして、聞き比べてみて下さい。(徳永英明よりも、更に良しかな?)その意味がおわかりになるかと思われます。カバー曲というものは、所詮、原曲を超えることが出来ないと云われているものの、中には、原曲を圧倒的な世界観とイメージを塗り替えて、再構築の末に、自分の唄の世界観にしてしまうことがあるのではなかろうか?どうも、元気の良いというよりは、今にも、壊れてしまいそうなそんなか細い、か弱い繊細な歌い方である。人は、時として、偶然何処かで、何の気なしに、すれ違っていたり、ほんの数秒の瞬間の違いで、実は、出遭うことなく、すれ違っているのかも知れない。それでも、何かの悪戯で、この男女のように、2年の年月を経て、別れても、偶然、宵闇の迫る黄昏の駅で、小雨の降る中、駅の改札口に向かう人並みの中に、偶然、歩き去る一瞬の刹那に、彼女は、元彼に抱いた気持を、感慨深げに、こう、追想するのかも知れない。

見覚えのある レインコート、
黄昏の駅で 胸が震えた
速い足取り まぎれもなく
昔愛した あの人なのね
懐かしさの 一歩手前で
こみあげる 苦い想い出に
言葉が とても見つからないわ
あなたがいなくても こうして
元気で暮らしていることを
さりげなく 告げたかったのに

二年の時が 変えたものは、
彼の眼差しと 私のこの髪
それぞれに待つ人のもとへ
戻ってゆくのね 気づきもせずに、
ひとつ隣の車両に乗り
うつむく横顔 見ていたら
思わず涙 溢れてきそう
今になって貴方の気持ち
初めて分かるの 痛いほど
私だけ 愛していたことも

ラッシュの人並みにのまれて
消えてゆく 後ろ姿が
やけに哀しく 心に残る
改札口を出る頃には
雨もやみかけた この街に
ありふれた夜がやって来る
La La La……….

実に、詞も宜しいではないか?たまには、改札口をスーと通り過ぎないで、一度立ち止まってみて、追い越してゆく人並みを見ても良いのかも知れない。ひょっとして、ひょっとするかも知れない、、、、、、、、、。そんな想像を逞しくするような世界観である。そんな経験がなくても、想像することくらいは、決して、誰にも遠慮する必要は無いであろう。