小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

遅ればせながら、Kindle 電子書籍 デビューです!

2019年07月25日 | 社会戯評

遅ればせながら、Kindle 電子書籍 デビューです!:

 以前、友人から、海外旅行などへ出かけるときには、電子書籍を何冊か購入して、端末に入れて持って行けば、飛行機の中で、読書可能であると、薦められていたが、身勝手な解釈で、特定の限定された端末でなければダウンロードできないと、思い込んでいて、これまで、利用していなかった。ところが、Amazonで書籍を購入しようとしたら、送付時期が、結構先の予定が表示されていて、諦めかけていたところ、そのすぐそばに、Kindle版であれば、50円安価で、しかも、即ダウンロード可能、おまけに、見本もメールで確認員可能であると、表記されているので、よくよく読んでみると、携帯端末やi-Padでも、ダウンロードが可能であることが判明したので、早速試してみることにした。

成る程、決済も、之まで通りの登録通りで、特別に、問題があるわけでもない。今まででは、地方の書店にも、なるべくおカネを落としてやりたいと、取り寄せを依頼していたモノであるが、毎回、2週間程のリード・タイムを要して、気短な年寄りは、瞬間湯沸かし器の如く、諦めてしまっていたものである。残念ながら、GAFAに、又してもおカネが落ちてしまったが、出不精の年寄りには、何より、知的好奇心をすぐさま、満足させて貰える訳で、有り難いものである。尤も、その反面、又、地方小都市の書店が将来、廃業に追い込まれる可能性が大きくなることは、大変心苦しいものがあるが、、、、、、、、。

取り継ぎ書店業務や、個別配送業務、物流業務を、一挙に解消してしまうITの威力は、如何ほどのものなのであろうか?まざまざと、その威力を改めて、見せつけられたようで、恐ろしくなるが、これも時代の流れなのであろうか?それにしても、何人の人間が、これらの業務に関わり、如何ほどのコストが、1冊50円の差で、本当に、解決されるのであろうか?何とも、労働の価値とは、GAFAにとっては、そんなモノなのであろうか?何とも、複雑な気分になってしまう。確かに、どこへでも持ち歩けるし、文字の拡大や背景のコントラストも自由に調整可能だし、終了時点での再開も、設定次第で出来るし、年寄りにとっては、有り難い話であるものの、、、、、。やや、ビミョーな感覚である。

 


芸能帝国における個人と組織

2019年07月23日 | 映画・テレビ批評

芸能帝国における個人と組織:

 ジャニー喜多川というカリスマの死の以前から、時間を逆回しにしてみると、色々なことが、成る程であるなという事象が垣間見られるのは、興味深い。偉業は、偉業として、それなりに、評価すべきであるとしても、<ある種の忖度>による、或いは、それに近い、眼に見えない形での<圧力や、パワハラ>としか謂いようのないもので、動かしていたという事実は、重く受け止めるべきものがあろう。<カリスマが創った組織とその作品としての個人という構図>、もう既に、何らかの形で、ほころびが生じているのかも入れない。その意味で、自分が、自分を育ててくれた<組織と、個人の能力との葛藤、対立>とは、今日のサラリーマン世界にも、共通する何かがあるような気がしてならない。必ずしも、ミュージシャンとお笑い芸人や落語家とをごちゃ混ぜに論じるつもりはないが、確かに、近代資本主義の進展と共に、所謂、芸能界という<旧来の人買い家業>から、少しでも、合理的なだと一見できるような、(本質的には、何も変わっていないが)疑似契約に、衣替えしても、その内実は、全く変わっていない事になるのかもしれない。<企業30年説>に従えば、吉本興業もジャニーズ事務所にしても、新しい方向性への模索が、水面下で、胎動しているのかもしれない。どんなに、否定しようが、法律的に、問題がなくても、企業体としての道義的、倫理的ガイドラインからは、如何なものであろうかと謂うことになりかねない。<歌舞伎モノ>とさげすまされても、伝統と歴史と時間を経ることで、歌舞伎も落語にしても、伝統芸能と認知されて、権威付けされて、今日に至るものの、エンターテイメント界では、どんなに、頑張っても、お笑いの世界は、<の延長線上>でしかないのだろうか?<個人倫理のコンプライアンス観と組織の在り方との葛藤>は、結局、記者会見強行による、ある種の暴露合戦に終始することになるのであろうか?<謝罪会見>というものも、見かけ上での<お涙ちょうだい式>の如何にも、日本的なやり方で、難を乗り越える式の<儀式のようなもの>になってしまうのであろうか?

そもそも、パワハラというモノは、明らかに、権力を有するものとそうでないものという圧倒的なパワーの違いを前提にしている訳で、やっている方(加害者意識)などは、被害者ほどのものではないものであろう。その意味では、この力の差を補うモノとして、弁護士の個人的な依頼と謂うことも、十分ありうるモノである。内部告発にしても、その得るべきモノと失うモノとは、明らかに、異なる。良心の呵責とか、過ちの悔悟とか、更生への、自己弁明への機会を与える事は、必要であろうし、SNSも今日発展している以上、メディアの報道の仕方にも、配慮が欠けているだけでなくて、SNSでの情報発信も必要であろう。今日、それは、もはや、抑えきれないであろう状況である。

企業組織の危機管理とか、法務部門担当(インハウス・ロイヤー)とか、組織からの圧力とか、従業員教育の在り方、雇用契約の問題、感情論的な誠意の存在問題という様々な課題があるようにも思える。それにしても、テープ録音の問題も、Q&Aの内容確認問題も、政権へのすり寄りによる公共的な営業利権の獲得とか、根本的な給料の低さを棚上げして、一方的に自分の報酬を半額にカットするという提案など、悉く、わかりにくい、一見して、世間を敵に回さない戦略の選択の裏には、一体どのような意図が垣間見られるのであろうか?野党の国会論戦さながら、実に質の低いマスメディアからの質問には、少々、ウンザリさせられてしまうのは、残念なところである。相変わらず、<日本的なお涙ちょうだい式の痛み分け>というところで、問題の本質が、見えてこないし、解決手順すら、見えてこないのは、極めて残念な事である。尤も、この会見に関わらず、所謂、芸能帝国という疑似近代的な組織は、ほころびから、分裂・離散・崩壊へと向かい、実力のある、才能のあるモノのみが、独立、生き残り、或いは、逆に、組織に残留する道を選択しつつ、過去の島田伸助の問題を抱えながら、反社会勢力との付き合いを依然として、踏み絵のように、コンプライアンスという呪縛の下で、強いられてゆくのであろう。家庭内反面教師で有り、ハンシャ的家庭内存在であるお父さんには、あまり、潔さを感じられず、そうかと言って、問題の本質を剔抉させるほどの迫力ある記者会見には映らなかったことは、遺憾である。野党共闘も不発に終わり、まるで、ナチス張りに間隙を縫うように現れた、或いは、消化不良の野党共闘が吸い上げられなかったエネルギーをかっさらっていった山本太郎ほどの、パーフォーマンスもなく、<経営者としての矜持>も、微塵も感じられないのは、残念な事である。社長ではなく、やはり、御簾の奥に鎮座する会長とか、松本人志やさんまが、或いは、<芸人は猿回し論>のたけしを、社外重役くらいにでもして、オブザーバーで、この次は、公開生放送で、言いたい放題の現任当事者と会社側と第三者辛口オブザーバーのバトルロイヤルを期待したいモノである。視聴率は、グッとあがるのではないだろうか?それにしても、大阪万博や税金を投入するプロジェクトもさることながら、雇用契約やギャラの問題、利益分配比率の配分問題、更には、事務所の移籍や、株主としてのテレビ局との関係、芸能界という業界を含めて、改革の先頭に立つ、6000人もの芸人を束ねる経営者としては、元敏腕マネージャーであったとしても、如何なものだろうか?日本企業のこれまでの<企業という擬制家族論>に依存してきた、<曖昧さ>が、今日、あぶり出されてきつつある。もっとも、<今の日本の本質>を参院選挙結果と同様に、様々な課題が、垣間見られたようで、興味津々である。大衆の欲求不満を根本的に、吸収するような動きは、果たして、でてくるのであろうか?それとも、その前に、帝国の崩壊は、静かに現在進行形なのでろうか?


理不尽としか言い様もないものと付き合う(闘う?):

2019年07月21日 | 社会戯評

理不尽としか言い様もないものと付き合う(闘う?):

 

子どもの頃、大映映画だっただろうか?<大魔神>という時代劇映画があり、余りに不正義が、横行していると、それを見かねて、或いは、人身御供に応じる形で、阿修羅と化した大魔神が、不正義を一網打尽に退治して、虚空の彼方に消え去るというような荒唐無稽な筋書きに、拍手喝采を送ったことを思い起こす。この場合、不正義とは、あるときには、悪徳商人と結託した地元領主の地方小役人であったり、純粋無垢な娘役や父の敵を探して旅する兄妹の設定など、様々である。それにしても、現代では、運転免許を返納しようと考えていた高齢者ドライバーによる暴走事故による幼い愛児や愛する妻を、突然、失ったり、或いは、何の落ち度もない、何の接点も、恨みを買うような関係性のない、全く、赤の他人により、幼い、命が、理由もなく、絶たれたり、未来への希望を期待されていた人たちが、引きこもりなのか、精神疾患なのか、不安、孤独と絶望と欲求不満か、何か、全く、その動機と行為を引き起こした理由が不明な、<理不尽としか言い様もない事件>、<道理にそぐわない事件>が、又、繰り返し惹起された。

一体全体、どう考えたら良いのであろうか?理不尽としか言い様もないものは、常に、自分の隣に、いつでも、お待ちかねなのであろうか?宗教界、キリスト教でも、既成仏教界、新興宗教界からも、一向に、どのように、解釈すべきかと言うことに関するコメントが、高僧からも、また、年末に、漢字一字で、世相を表すつもりなのであろうか、コメントが、一切、聞こえてこない。これらは、所謂、<自然災害や、天変地異とも異なる>。どんなに、清廉潔白でも、前世に良いことや功徳を積んでいても、況んやお布施すらも、含めて、、、、、何の担保にもならず、せいぜいが、精神分析医師からのコメントを貰うくらいの、後付け解説コメントだけなのか?<義に準じた人の血は、碧い>と謂われているが、血に色があるかどうかは、分からぬが、<これらの人々の死に意義があるのか>?それとも、意義があるかどうかは、分からぬが、価値があるのか?無価値なのか?それとも、<価値のあるなしという議論自体>が、ナンセンスなのか?<不条理であること>、<理不尽であること>、<身勝手であること>、<道理にそぐわないこと>とは、一体、何ぞや?何やら、禅問答のようなものになってきた。

それにしても、勧善懲悪的な明快なハッピー・エンドが断固、保証されているというわけには、どうやら、世の中、そうはゆかないことだけは、確かなようである。どのように理解したら良いのであろうか?眠れない悩ましい夜が続きそうである。

 


アンダークラスへの転落不安

2019年07月19日 | 社会戯評

=アンダークラスへの転落不安:

学者というモノは、過去の緻密な分析を行えても、その過去から、未来を予測するような洞察を、提示できる人間に、巡り会えず、これまでも、何人かのメデアで、華々しく持ち上げられたものの、いつの間にやら、消えていったことを、思い起こす。それにしても、就職氷河期以来の第一次フリーター達が、まもなく、60歳を迎える時期になる今日、これまでの<中間層という概念>が、確かに、年金2000万円問題等により、改めて、階級社会という懐かしい概念やアンダークラスという概念に、眼を向け始めるきっかけが訪れつつあるという現実には、驚かされる。そうした不安にも関わらず、何故、若者は、安定志向に向かい、怒れる元若者の年寄りが、デモに参加するのであろうか?そして、政治、とりわけ、野党というモノは、与党のリベラルも含めて、こうした流れに抗する<アンチテーゼを打ちだせないのであろうか>?昔ならといったら、笑われてしまうが、振り子が、どちらかに揺れると、所謂、保守層からでも、リベラルという、或いは、新保守主義という改革の芽が、伸びてきて、バランスが、保たれるにも関わらず、トランプやミニ・トランプではないが、一向に、そうした、傾向が、日本のみならず、全世界的な傾向で、進行中である。雇用・移民・失業・社会保障・貧困格差・テロ・健康不安・GAFA一極支配、等、どれをとっても、明日への不安、未来への確信が、持てない、<依然として不確実性の時代>なのであろう。非正規雇用という形態や、竹中や小泉が推し進めたグローバル化に乗り遅れる式な国際競争力維持への恫喝も、今になってしまえば、ある種の懐かしさも感じられるのは、皮肉なことである。決められない政治の図式から、一強多弱の<何でも決められてしまう安定志向への恫喝の図式>と、どこが、一体全体、違うのであろうか?個人の自助努力による能力のアップやアンダークラスへの転落不安や可能性を、<全面的な自己責任論>に、果たして、委ねることは、正しいことなのであろうか?最低限度のミニマム・セイフティー・ネットの構築や、社会保障政策、弱者救済、利益再分配の仕組み作りがなければ、いつまでたっても、相変わらず、絶望感や諦め意識の解消には、いたらないであろうし、秋葉原での過去の無差別殺傷事件ではないが、紙一重で、同じ環境にも関わらず、自制して、踏みとどまったという、似たような環境にいた元同僚のコメントではないが、そういう個人倫理や意識のありようで、問題解決して宜しいモノなのであろうか?アントレプレナーは、GAFAではないが、恒に、先進的なビジネス・モデルを構築して、リブレではないが、暗号技術などの最先端技術革新の先を行き、ヒトは、後追いを強いられ、学者は、或いは、政治家は、未来への処方を提示できずに、置き去りを強いられているのが、現状である。社会の分断とか、中間層の没落、とりわけ、健康不安・役職定年制による年収減収不安などによる、誰でもが、<陥りやすい平等なリスクの社会>には、民主主義とは、資本主義とは、一体、何なのか?或いは、<人間の平等>とは、何なのかを、改めて、金持ちも、貧乏人も、階級を超えて、考えざるを得ない状況が、すぐそばまで、来ていることは、間違いなさそうである。それとも、こうした現代社会の兆候を、何らかの形で、排外主義や、一国優先主義や、愛国主義などという、<疑似的な自己正当化手段>で、乗り切ろうとしてゆくのであろうか?或いは、荒っぽい、<自己責任論で一刀両断>して良いものなのであろうか?学者も、況んや、政治家も、与党も、含めて、とりわけ、野党も、宗教界も含めて、未来への処方箋を出し得ていないようである。

さて、一時、雨も止んだようだから、期日前投票へでも、散歩がてら、足を運ぶことにするかな!?


若者は、本当に7割も政権支持しているのか?何故?

2019年07月10日 | 社会戯評

=若者は、本当に7割も政権支持しているのか?何故?:

50年前の怒れる元若者には、どうしたモノか、なかなか、理解出来ない。尤も、怒れる後期高齢者は、今も、怒っているが、、、、、、。もともと、怒れる若者と政権を支える高齢者という旧来の図式は、今や、通用しなくなりつつあるのだろうか?幸福度とか、非正規社員、実質賃金の低下、グローバル化とデジタル化、などと、微妙に、関連している結果なのであるか?今や、若者の7割が、そして、高齢者の約半分が政権を支持していることは、最近の香港や、アメリカの傾向とは、極だった対比を見せているのは、何故なのであろうか?

50年前の怒れる元若者には、自己否定をしても、その結果、引きこもりや、ドロップアウトを目指したり、ヒッピー的な生活をしても、今で言えば、非正規社員でのアルバイトに明け暮れても、未来に、絶望することもなかったし、結婚も就職も、何とかなるさとばかり、書を捨てて街に出たモノであるが、、、、、、。今なら、スマホを捨てて、世界に出て行くモノであろうか?全く、脳天気だったのだろうか?考えてみれば、大きな組織から、ひとり、徒手空拳で独立しようと決断する時も、別に、未来への不安とか、老後の資金を2千万円貯蓄しようとかも、或いは、老後の不安すらも、何も考える事もなかったものである。社会補償制度のツケを回されるのであろう現代の若者が、成る程、真逆の発想をすることも、理解出来なくはない。確かに、実質賃金が上昇することもなく、ひたすら、企業利益が伸張する一方で、低下傾向にある法人税率と社会補償制度の相関関係を、ひもとけば、構造的であることも、容易に理解できよう、又、デジタル化への環境変化の中で、これまでのモノ生産から、所謂、有形資産から、国境を越えた情報やサービスによる収益構造、無形資産へのグローバルな移行ということも理解出来よう。弱者が限りなく弱者の道をたどり、勝者が、総取りするような、格差社会の現在進行中であることも、理解出来よう。それでも尚、一点理解が出来ない。格差があるから、仕方ないというこういう発想や、茹で蛙状態から、抜け出そうとしない、そういう発想と行動形式には、どうしても、理解出来ない。50年前の怒れる元若者は、今でも、現在進行形なのであろうか?


振付師 choreographerについて、考えてみた:小諸青雲館AIR(Artist-In-Residency)

2019年07月05日 | 社会戯評

振付師 choreographerについて、考えてみた:小諸青雲館AIR(Artist-In-Residency)

5月21日にこのブログで、<海外コンテンポラリー・パーフォーマーと議論する>という題名で、全くのズブズブの素人である、私が、議論を交わした内容をこのブログに、アップしたが、今月、スペイン人女性パーフォーマーであり振付師である、アンドレアが来日して、ジャズダンスや日舞のレッスンに参加する中で、彼女とも、この延長線上で、議論してみた。

尤も、議論と知っても、何も知識のない私では、議論にならないので、事前に、予備知識として、ネットで、調べてみることにした。何せ、50年も前の若者の私にとっては、パーフォームというよりも、頭の中は、舞踊という二文字の漢字表現で、様々なジャンルである、ブレイク・ダンスや、ヒップホップなど、更には、ファッション・ダンスという概念とは、無縁である。そんな門外漢の老いぼれには、唯一、尺度となるのは、お粗末な話であるが、海外での評価が高い、パーフォーマーとその振付師をまずは、検索するところから始めてみることにした。余りに多様なジャンルに関しては、後日、論じたみることにしたい。

それにしても、小学校でのカリキュラムに指定されるわけである。ヒップ・ホップが?!何故だ?何故、ヒップホップなのか?せいぜいが、サムが提唱するような、年寄り向けの老人体操としてのヒップホップか、ストリート・タイプくらいしか、知識がない私には、全くの青天の霹靂である。私の子どもの頃に、科目に取り入れられていたら、間違いなく、リズム音痴の私は、1の評価は、免れないことでしょう。

ローザンヌ国際バレー・コンテストや有名な国際的なピアノやヴァイオリン演奏コンクールでの日本人優勝者のニュースを聞いて初めて、納得する程度のレベルである。従って、その衝撃の大きさと驚きの程度は、筆舌に尽くせないほどのモノである。

成る程、世界的には、数多くの大会World of Dance, Dance Asia, etc)やテレビ番組などがあることに驚かされる。しかも、舞台演出というモノは、音楽という音だけではなくて、照明という光と、しかも、恐らくパソコンと連動していて、花火の打ち上げと同じように、今や、音と光に反応して、自動的に、それらが、無限に変化出来るように、1秒単位で、セットされているようである。化粧 メイクと衣装、顔の表情、身体の線、手足、指先の繊細な表現、とりわけ、まるで、密教の秘伝の印を結ぶかのような仕草とか、指先だけでまるでダンスを踊るかのような手法とか、これらに、加えて、日本人が最も得意とする集団的なシンクロナイズする動き、バブリーダンスくらいしか、YouTubeでみたことのない私には、振り付けの醍醐味が容易に、言葉を超えて理解出来る。成る程、Express yourselfというタイトルも頷けるものがある。インド映画で観られるような集団的な踊りと歌などは、どのような影響をしているのであろうか?興味深いところである。更には、踊りに合わせて、即興で、著名なチェロ演奏家のヨーヨーマーが、そのイメージを、音で表現するというコラボもあることにも、驚いてしまう。

言葉を超えた感性による自己表現とは、一体どのような方向性に、向かうのであろうか?言葉、言語とは何で有り、表現とは何で有り、言葉での表現に限界があるのであろうか?パーフォマンスという表現手段は、どのようなモノであり、何を突き破ろうとしているのか、昔の山海塾などの前衛舞踏くらいしか、知識のない私には、スペイン人若手女性パーフォーマー・コレオグラファーとの議論は、果てしなく、続く事になりました。

アンドレアに、送ったそれぞれリストアップしたURLのうち、私が、個人的に興味深いなと思ったり、公演を観に行きたいなと思ったグループを二つだけ、下記しておきますので、ご覧下さい。

先般のアルゼンチン・タンゴの生演奏を聴いた後で、又、更に、自己表現とは何かを考えさせられてしまいました。

 Fabulous Sisters: World of Dance 2018

https://www.youtube.com/watch?v=LGRoXI4No8M&list=RDMS5p9XaBl40&index=4

東京ゲゲゲイ:https://www.tokyogegegay.com/

 


香港逃亡条例撤廃デモに思う:

2019年07月04日 | 社会戯評

香港逃亡条例撤廃デモに思う:

 

もう、中国本土にも、香港にも、旅行やビジネスで脚を踏み入れることもないであろうし、北京ダックを食べるために、本場のレストランに、ゆくこともあるまい。いくらでの天安門やウィグル族の話題をブログやSNSに投稿しても、中国政府公認の検索に引っかかろうが、もはや、私には関係はなかろう。悲しいことに、テレビの映像を見ても、インタビューされている人々の表情は、マスクをしたり、顔を見られることを一様に恐れていて、明らかに、天安門事件30周年を過度に、意識していたとしても、異常な状況であろう。

明らかに、それは、一連の50年は保証されているとされた中国とイギリス政府間での<一国二制度>にしても、或いは、<書店経営者の本土への拉致>や、<近い将来予想される台湾統一>への予行演習であることは、間違い布石であろうことは、容易に、想像されよう。

天安門事件の時に、鄧小平が、2-300人の死が(実際には、死傷者の数は、10数倍であろうかとも言われているが、、、、)これから、20年の安定をもたらすであろうという、こういう歴史観が、今も、権力者の中には、とりわけ、習近平らの中に、DNAとして、継承されていることは、疑いのない事実であろう。それにしても、<雨傘運動>や、<民主派牧師の裁判運動>をみるにつけ、言論の自由へのすさまじい国家権力の締め付けである。とりわけ、<高校生や若者の危機感>には、SNS上で表現されているように、日本人の若者とのそれの差が、甚だしいモノがあろう。ものを自由に言えなくなる、表現する権利を不当に奪われると言うこと、その危険性を、肌身に浸みて、感じる事、それは、どういう感慨なのであろうか?一時期、<ゆで蛙状態>と表現された状態と、今の日本の状況は、どれほどなものなのであろうか?ささいなことで、言いがかりをつけられて、不当に拘束されたり、逮捕されたら、たまらないが、必ずしも、絶対に、観光旅行中にないとも、限らないのが、残念ながら、現実である。このままでは、必ず、先鋭化した一部の過激な分子が、必ず、議会の占拠とか、道路の封鎖という方向性へ向かうことは必至で、その先に待ち受けているのは、第二の天安門であり、多くの若者が、命を落とす事態になり得るであろう事は、容易に、想像されよう。一体、日本で、この元若者である老いぼれに何が出来るのであろうか?新聞広告に一面、出されたアピールを読んだ瞬間、或いは、女性リーダーのテレビに向かって発せられた切実は、ほとんどゆで蛙状態の日本人に、そして、一種の恫喝とも思える又、<決められない政治に戻るのですか?それとも、しっかりとした安定を!>という偽装にほとんど近い甘いささやきに日本の若者は、騙されてしまうのであろうか?