小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

求人広告から透けて見えるもの:

2020年01月24日 | 社会戯評

求人広告から透けて見えるもの:

 

眼が衰えてきたせいか、新聞の広告なども、昔は、マーケティングの為に、結構詳細に、読んだものであるが、この歳では、もうそんな必要ないから、目もくれなくなってしまった。たまたま、新聞を読もうかと思い、開いたところ、中から<地域限定の求人広告>、<しごと情報のチラシ>が、まとまってパラリと出てきた。今更、<人生100年、定年70歳>まで、働こうというわけでもあるまいが、何気なしに、内容をチラ見していたら、見事に、その内容に吸い込まれるように、隅から隅までじっくりと読み進んでしまった。

なかなか、紙面構成もよく出来ていて、QRコードまで、印刷されていて、直接、携帯電話からもアクセス出来るし、雇用形態別(正社員・アルバイト・パート・契約社員・嘱託社員・派遣社員・職業紹介・職員・業務委託・その他)、待遇条件別アイコン(交通費支給・日払い可・週払い可・未経験者歓迎・社会保険有り・長期雇用・短期雇用・土日祝休み・週一日・制服貸与・高校生可・扶養控除内考慮・食事付き・深夜勤務・寮完備・車通勤可)、そして、仕事内容、給与、勤務場所、実働勤務期間、休暇、待遇、資格、イメージ写真、こんな内容で、検索も容易である。

仮に、自分の希望ではなく、客観的に、<年齢と資格と職歴と肉体的条件>を考慮しながら、読み進んでゆくと、確かに、仕事も限定され、結局、パソコン事務、データ入力作業、社員寮やマンションの管理人か、学校の用務員勤務くらいしかないわけで、炎天下で長時間屋外で立ち続けながら、トイレも我慢し続けることも無理であるし、スーパーやレストランでのホール接客や店内スタッフも、無愛想な年寄りが今更口角を上げて笑顔を取り繕うことも難しそうである。足や腰を曲げたり、かがみ込みながらのトイレやビルのオフィス清掃作業も、もはや、早朝・深夜勤務も含めて、如何なものであろうか?保育士の資格や栄養管理士・調理師や薬剤師の資格もなく、普通免許でも出来るデイ・ケア・センターでの送迎の運転手か、結構ハードな配送補助要員か、今更ウーバー・イーツのような外食宅配デリバリーや薬の配送配達員でもあるまいし、どんなに、マシュマロみたいな先輩指導員(そのような表現がしてある)が、丁寧にマニュアルを教えてくれようが、<専門知識も経験なくても>、<性別・年齢不問>、<お友達同士応募歓迎>、<未経験者大歓迎・><履歴書不要>、<意欲次第・積極採用>という言葉の裏には、<人手不足>というキーワードが、見え隠れする。

それにしても、どうやら、AIがどんなに発達しようが、最終的に運搬する作業や清掃する作業やもちろん、無人化店舗の実験とかドローンでの配達やロボット接客の実験が進行中であるものの、当分は、まだまだ、<AIに取って代わられることはない>であろうし、自動作業ではなくて、飽くまでも作業支援や補助的な立場が、<人間には未だ保証されている>ように思われる。それでも、実質賃金が伸びることなく、果てしなく、労働形態が細分化され、待遇・雇用形態も、一見、個々人の労働ニーズの多様性に応じているかの如く、きらびやかにみられるが、果たして、本当に、それは<働き手の立場に立ったものであるかどうか>は疑わしいものがある。今日、ありとあらゆる場面に、民営化による<下請け業務委託方式>が、蔓延しており、機械化に加えて、<人材派遣業務>自体が、区役所でも、会社のデータ入力でも、受付でも、家庭内でも、様々な形で細分化された上に、成立しているように思われる。時給@1000円で、8時間毎日働き、月20日勤務しても、月16万円でしかなく、25日でも、月20万円であり、果たして手取り実質賃金は、いくらくらいになり、残業手当がなくて、幸福な生活満足度が得られるのであろうか?

現在、26種の通訳などの特定業種に限定されている派遣社員契約期間も、今後は、女性登用拡大の名の下に、無期限に、如何なる職業へも拡大、適用される恐れがでてきつつある。黒字決算の上場企業の中ですら、40-50歳代の中間管理職への合理化レイ・オフ、人件費の削減、人員削減を実施しつつあり、何が何でも、固定費の削減の方向へと向かってゆく中で、65歳、或いは、70歳定年制の方向性とは別に、ハッキリとした安い労働力の確保を、全く、実質賃金の上昇を行うことなく、徐々に、組織のロイヤリティーも萎え果てた上に、将来への不安だけが、進行してゆくのであろうか?

滅多にじっくり見ない求人広告の紙面の裏側では、きっと、様々な表舞台には出てこない様々な事象が、まさに、現在進行中なのであろうことは、容易に、想像がつく。Gig Economyのような形のネットを通じた似而非個人事業主のような形態の非正規雇用型の労働形態が出始めて、働き方改革などと喧伝されされ始めると、様々な落とし穴が出てきて危うい限りである。ある日、突然、天災や交通事故や、或いは、健康を害して病気になり、寝たきりの状態にでもなれば、貯蓄を崩しながら、或いは、自己資産を切り売りしながら、生計を立ててゆかなければ、あっという間に、<下流老人の仲間入り>をすることになるのであろうか?求人広告を改めて読み直して、色々な問題が垣間見られる。その求人広告紙にも、派遣社員の募集広告が掲載されていた。


映画、パラサイト~半地下の生活を観て:

2020年01月17日 | 映画・テレビ批評

平日の昼間だというのに、なかなかの入りである。カンヌ映画祭、パルムドール受賞作品であるせいなのだろうか、それとも、今後、日本でも、予想される格差社会招来に対する密かな関心と微妙な最近の日韓関係を危惧している中年韓流マダム達のグループが後押ししているせいだろうか、よく事情は、飲み込めぬが、なかなか、興味深いものがある。

それにしても、多少はブラックコメディー風な筋書きであるものの、映画を観る立場の側の観客からすれば、心の奥底では、ひょっとしたら、上流富裕階層に寄生するパラサイト生活がヒョッとしたら、うまくゆき、ハッピーエンドに終わるのではないかと、淡い期待を抱かせてしまうものであるが、映画の脚本とは、そもそも、そんなに甘いものではないのが、この映画を見終わって初めて知ることになる。ネタバレは決してしないで貰いたいというポン・ジュノ監督の気持ちも分からなくはない。

日本では、半地下なる方向へ向かうのではなくて、寧ろ、上へ上へと高層化を果たしたのに対して、1960年代の北朝鮮と対峙してきたという政治的・軍事的な状況から、どうしても、地下壕や地下室避難は、不可欠な建築様式でもあり、成る程、有事の避難場所であることを推奨されたことも、納得されるものがある。(この映画の中では、ヤミ金融業者からの取り立てから逃れるための一種のパニック・ルームのような位置づけであることは興味深いことである。)そのことは、映画の中でも、奇しくも同じような境遇であることを共通項に持つ二つの家族の地下生活家族同士の会話の中にも、金正恩のおなじみの演説の応酬にも垣間見られて面白い。

それにしても、半地下式の<窓>を通じて、<社会の窓>を<下から上へ><高低差>として眺めることは、如何にも、現実社会の<階級格差の上下階層>を象徴しているようであるし、様々な場面で展開される、<階段や石段>も、そして、そこから<躓いたり、転げ落ちる>行為なるものも、又、<中産階級からの転落・没落を暗示>しているとも考えられる。それは考えすぎだろうか?それとも、<まだ、没落を実感していない人間の上から目線的余裕>なのであろうか?

 人生は、自分の意図した計画通りに、進むものでもないし、むしろ、予期せぬ方向へと現実は自分を推し進めてゆくものであることを、改めて父と息子は洪水被害に遭って命からがら逃げてきた避難所でしみじみと、友人の祖父から譲り受けた<山水景石>を金運の象徴の如く、持ち出すのも、何か、自分の中で、<譲れないもの>、一種の誇りのようなもののようにも、目に映ってしまう。それにしても、父にしても様々な事業に失敗し、母にしても、スポーツ競技の中で、大成できず、主人公も、大学受験に何度も失敗し、妹にしても、まんまと絵画心療療法なるものを使って、優れたコンピューター・スキルがあるにも関わらず、気軽な感じで、いとも簡単に、まるで、タマネギ男と揶揄されたどこかの国の前法相の妻同様に、いとも簡単に、美術大学の在学証明省を私文書偽造してしまうことは、一度、失敗して、階段を踏み外してしまうと、<敗者復活制度>がなく、又、<セイフティー・ネット>という網からも、外れてしまうことになるのかもしれない。否、そんなものすら存在することのない、<非情な競争社会制度>であり、だからこそ、芸能人の韓流歌手でも、自殺率外乗に高い社会背景があるのかもしれない。

まるで、大雨の豪雨は、何もかも流し去ってくれるし、あたかも、それは、万人に平等であるかのように、<罪も悪も>等しく、帳消しにしてくれることを暗示しているのであろうか?それでも、どんなに、分をわきまえつつも、一線を越えないという父親の運転手としての矜持も、所詮は、突然の雷鳴の轟きの如く、<貧しさの臭い>というものは、着衣に、染みついている<かび臭い、すえたような、下水や汚水が、丁度、マンホールの蓋から逆流して溢れてきたような臭い>が、子どもには、それとなく、分かってしまうものなのであろうか?臭いと謂えば、昔、50年ほども前、新入社員時代に、韓国の取引先の関係者と金浦空港に入国するときの臭いが、キムチ臭がすると私の上司が言ったところ、それなら、羽田空港は、どんな臭いがするだろうかと議論になり、味噌汁か、たくあん臭いねなどと冗談交じりに話したことを想い出す。もはや今日では、日本の公衆トイレも含めて、消臭付き設備で、あのおつりの来る独特な臭いのする和式便所から、快適な化粧室空間へと世界的にも評価が上がってきているのは、何ともおかしな風景である。あの当時の韓国の取引先の関係者達は、50年後の今日どうしていることだろうか?この映画を観ているだろうか?

尤も、我々の中に潜むところの<心理的な臭いによる差別感>というものは、それが、トリガーとなり、やがて、映画の中でみられた、父親の目付きのなかに、微妙に変化が現れていて、それが、<怒りへと転嫁・醸成>されていくようである。尤も、韓国での経営者に対するリスペクトという言葉は、余り、日本人には、理解出来ないものがあるかもしれないし、緑の芝生での息子のお誕生日会のパーティー設営の際のテーブルの並べ方にも、日本に対する歴史認識が、垣間見られて、なかなか、手が込んでいて面白い。

<父子の関係性>というものも、母子との関係性とは若干、別なものとして如何にも、男子中心の儒教の影響の濃い見方が、富裕層にも貧乏人の中でも<共通な心情>を描かれていることは、実に興味深い。主人公が、奇跡的に、回復し、父に手紙を出す中で、もう一度やり直して、未来に希望を見いだし、父とのいつの日にかの再会を果たそうとする意思表示(迎い入れようとする幻想的な希望?)には、何か、やるせない、もはや、この社会には<そう選択せざるを得ないような現実しかないのか!>と、父子のほのぼのとした関係を感じると共に、実に、やるせない忸怩たる思いを感じざるを得ないのは、<これが逃げられない現実社会なのか>と、複雑な思いで、エンディングを迎える。主題曲の訳詞にある、<爪の隙間に染みこむ垢が湿ってくる>という言葉は、映画の中でみられた<父の両脚裏の黒さ>とも重ね合わせると、思わず、自分の爪と脚裏を見つめ直してしまう。それにしても、映画を鑑賞していて、いつも、感じる事であるが、どうして、一部の観客は、最期のエンディング・ロールに流れる音楽と終了後の映画鑑賞後の余韻を、愉しむことなく、そそくさと、まだ暗い中で、出口へと向かうのであろうか?誠に、勿体ない、犯罪的な所業で、映画制作者への敬意もない、冒涜にしか他ならないのではないだろうか?実にこのマナーは、残念である。一連の映画でも、<ジョーカー>、<万引家族>、<パラサイト>と、米国・日本・韓国とそれぞれに共通する課題である<格差社会>をみてきたが、どれ一つとっても、映画の中の出来事であるとは思えないのは、<余りにも重い現実>で、<それぞれに登場する子供達>は、その後、一体、どうなっているのであろうかと思いを巡らせると、実に、<心苦しく、心痛い思い>がする。それは映画の上でのエンディングとは別に、観客が想像するしかないけれども、、、、、、。

映画館のパンフレットを見ていると、これからは、2月には、斎藤工初監督による、<コンプライアンス>、中学生の頃に読んだ<ジャック・ロンドンの野生の呼び声>の映画化作品、3月に、<三島由起夫と東大全共闘(50年目の真実)>、5月には、司馬遼太郎の<燃えよ剣>の映画化、他にも、問題作の<岬の兄妹>など、映画鑑賞も忙しそうである。

 

 


ゴーン会見から何を学ぶか?:

2020年01月11日 | 社会戯評

 

国法を犯してまで、国外逃亡、密航を果たした等というまるで、幕末時代の吉田松陰の密航を想い出させるような報道であるが、その志は、全く、<天と地の違い>で、レバノンでの自作自演のPR会社と綿密に打ち合わせた協同ショーの効果は、残念ながら、同じ時間帯に生じたトランプの対イランからの攻撃に対する声明に、引きずられる形で、相殺されてしまった感じが、なきにしもあらずである。

それにしても、日本における<人質司法制度>や<取り締まり時点での弁護士の立ち会いがないこと>、或いは、<取り調べでの可視化>とか、<ミランダ警告・自己負罪拒否権>・<司法取引手法>とか、様々な問題が、日本の警察司法制度にはあるにせよ、莫大な金額の<金融商取引法違反や会社法違反による背任横領の容疑>で、保釈中での身柄であるにもかかわらず、カネにものをいわせて、密出国した事実は、どのように、自身の身の潔白を、司法の場以外の空間で、国際世論を味方につけようとしても、なかなか、日本では、或いは、世界的にも、理解されないであろうと思われる。尤も、そもそも、日本や、日本人をターゲット相手に想定しているとも思えない。逆に、日本人というものは、いつまで経っても、<内向きの密室仲間内議論>ばかりであって、決して、<外部へ、世界に向かって発信することを前提にはしていない>ことは、誠に、残念である。

嬉々として、これまでの鬱憤を払うかの如く、<多言語での情報発信者であるゴーン被告>は、まるで、新車発表会のプレゼンテーション張りの独演会であるのに対して、受け手であるメディアの方は、日本側の同時通訳者にしても、結局、英語・フランス語のみで、全く、アラビア語(レバノン)・ポルトガル語(ブラジル)に至っては、何を話しているのか、さっぱり、解らなかったのは、極めて、残念な事である。レバノンの国法である、イスラエル渡航を禁止しているにもかかわらず、そして、ルノー時代には、渡航していることが、問題視されているにも関わらず、イスラエルという言葉は聞き取れたものの、具体的に何を質疑応答しているのかは、解らなかったことは、極めて、残念な事である。それにしても、<選ばれし日本側の記者達>は、一体、どんな真実を追求し、質問できたのであろうか?政府関係者の名前も、エビデンスも公表すると謂っていたにも関わらず、全く、肩すかしであったし、密出国という罪を訴追されることを恐れたのか、或いは、レバノン政府との裏取引での国内外での協力者が、暴露されるのを恐れたのか、今後、小出しにしてくることが、考えられるものの、果たして、どれほどの<日本人が知らない真実>が、あるのであろうか?ドキュメンタリー・番組や、多国語言語で翻訳された暴露本でも作って、高く、メディア関係者に、商業主義さながらに、売りつけるのであろうか?そして、それで、果たして、日産と検察とのクーデター陰謀説で、自身の潔白が証明されるのであろうか?

それにしても、本人が、嬉々として、話せば話すほど、或いは、ジェスチャーたっぷりに、質問に答えれば答えるほど、本質論から、はぐらかされた挙げ句に、<議論のすり替え>で、まるで、<どこかの国の首相にそっくり似てくる>不毛な様相を呈し始めてくる。それにしても、原稿もなしに、1時間以上、4カ国語で、まくし立てられるだけのエネルギーは、流石、百戦錬磨の多国籍グローバル企業経営者で、その点では、たいしたものである。これに対して、深夜での日本の法務大臣の記者会見は、全く、難しい日本語の専用語の羅列で、一体、世界に対して、これで、情報発信やカウンター・メッセージを送っていることになるのであろうか?法務省にも、英語やフランス語・アラビア語・ポルトガル語が、堪能な人間はいるはずで、韓国のミサイル照射事件の時もそうであったが、<多国語言語での広報>の在り方は、全く、問題解決に至ってないこと奇しくも露呈してしまった。英語だけでも、情報発信すれば、日本語の一億人に対して、恐らく、一桁以上の数のオーディエンスに達するであろうが、極めて、残念な対応である。全く、グローバルな広報が当たり前な時代に、前時代的な、内向きな対応は、英語の入試延期問題にも共通するような問題である。

今更ICPOに妻の逮捕請求をしたところで、やらないよりはましかもしれぬが、何故、ファーウェイの副社長のカナダでのGPS機器装着の拘束などにみられるような対応が、裁判所内で、検討されなかったのであろうか?如何にも、お上の中でのガイジン・アレルギーが、はびこっていることを露呈するだけではなくて、旧来型の人間が、旧内務省的な人材から、今日でも、脱皮し切れていないことを、国内外に、奇しくも、露呈してしまったようである。一体、いつになったら、<多国語言語で、同時に、リアルタイムで、グローバルに、意思表示を行える>国に、日本はなれるのであろうか? 何とも、ライブ映像をネットでみていながら、心寒い思いがしたことは、残念至極である。もう、若い人達に期待する以外に手はないのであろうか?おおいに、考えさせられた。