小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

病と聞いて=命の洗濯、別の視点

2011年11月30日 | 社会戯評
長い間のビジネス上での知り合いが、心臓弁膜症で、手術が必要だと本人から伺った。リタイアーしてから、これからだというにも関わらず、病に倒れて、亡くなられたり、或いは、それ以前に、仕事上の激務やストレスからなのだろうか、何人もの人達が、既に、鬼籍に入られていることが想い出される。或る人は、ゴルフ場で、心筋梗塞で、又、或る人は、大腸ガンや肝臓ガンの末にと、お酒が好きだった人も、たばこを吸わなかった人もと、その顔が想い出される。加齢とともに、60歳を過ぎると、何処かしこが、傷んでくるものである。所謂、「積年の金属疲労」が、顕在化してくるものである。未だ、後期高齢者でもないのに、今や、自分も軽度の歩行弱者の仲間に、早々、足を踏み入れてしまった。精神的な統合失調症やら、加齢による眼球の圧迫が原因の黄斑点網膜症やら、総合的であれ、体の個別パーツであれ、何処かしこに、肉体的にも、精神的にも、違和感が出てくるものである。医療技術が進歩したから、現状維持や、日帰り完治手術も、可能になってきたが、病を得て後、改めて見えてくる眺望・視点を、しばし、愉しむのも、又、意義深いものがあろう。とにかく、馬車馬のように、競争社会の中で、最前線をまっしぐらに、駆け抜けてきた人達には、一時の安らぎと、「塞翁が馬」ではないが、立ち止まって、禍を福となす準備が、気持ちの上だけでも、欲しいものである。「命の洗濯」とゆきたいものである。それにしても、いつの時代にも増して、世の中の動きが、異常に早過ぎると感じるのは、私だけであろうか?。実は、腰の痛みの原因は、脳のストレスだという説があるとか、最新の研究では、分かってきたと謂うが、本当であろうか?



会社で学ばせてもらったこと

2011年11月29日 | 社会戯評
懐かしい顔ぶれである。独立する前の会社の上司・同僚・部下達との年に一度の再会である。思えば、既に、入社から、40年余り前のことである。皆、平等に、歳を重ねてきていることが、その風貌に、感じられる。むろん、自分も、例外ではないが、、、、、。今年も又、何人かが鬼籍に入ってしまったのは,残念である。独立する前まで、21年間、実に様々な事柄を、大きな会社という組織から学ばせて貰った。貿易実務、英語会話、海外との交渉術、お金に対する心構え、人付き合い、文章の書き方、接待の仕方、会議の進め方、果ては、タクシー、エレベーターの乗り方、忘年会や社内旅行の幹事役までも、数え上げれば、キリがない程である。何も知らない新入社員に、今から思えば、随分とお金と時間を掛けてくれたものである。未だ、当時は、社会に、余裕やゆとりがあったのであろうか?学校教育、家庭教育等とは、異なるより実践的な処世術とでも謂おうか、生活する糧に必要な術を、学ばせて貰った。マニュアル本がある訳ではなかったから、ほとんど、OJTによる実地訓練、現場実践を伴ったマン・ツー・マン方式である。もっとも、商権らしい商権は、与えられず、専ら、狩猟民族同様、新しい商権を、狩りに出て、探してこなければならなかったが、、、、、。逆説的に謂えば、そのことが、若い自分には、良かったのかも知れないし、後に、独立するときにも、変な不安感がなかったことは、今にして思えば、幸いだったかもしれない。組織というものの在りよう、リーダーシップ、その腐り方、その隆盛と衰退、世の中の経済的変遷、輸出・輸入という産業構造の変化の中で、或いは、急激な円高相場、金融的な激変の中で、どう、自分は生きるべきか、どう、組織は、生き残るべきか、撤退すべきか、何を創造するべきか、等、一緒に、考えさせられ、成長してきたものである。今でも、最初の給料を貰った時に感じた、「こんなに、教えて貰って、しかも、お金まで貰っていいのだろうか」という感慨は、忘れることができない。今の若い人達は、当時の自分より、もっと、レベルが、高いかも知れないが、教わることに、又、学ぶことが出来たことに、改めて、感謝したいものである。そして、一人の力ではなく、様々な人達の影響の中で、自分という人間が、ビジネスマンとしてだけではなくて、一個人として、作られたことに、改めて、有り難いと思う。今度は、教え、育てる番が、廻ってきたが、いつまでも、学びの精神を持ち続けたいものである。


町並み景観を考える=杉並たてもの応援団の講演を聞いて

2011年11月28日 | 社会戯評
小諸から2時間半かけて、車で、杉並に戻れば、今まであった大きな住宅が、相続のためであろうか、切り売り、分割され、町並みの景観が、一挙に、変わってしまうことを、多々、経験する。実際、自宅のお向かいの家も、10年余りのうちに、樹木が切り倒されて、何と4軒に、切り売りされてしまった。旧い民家・商家や、歴史的な建造物を、その一部のパーツ・レプリカの復元という形でも、登録文化財として、移築・保存、継承されることは、大変望ましいことである。確かに、相続の問題からか、懐かしい景観が、「合法的に」、味も素っ気もないコンクリートの塊や、ブロック塀に覆われたけばけばしい原色の建物に、変貌することは、何とも、情けないものである。3年程前にマスコミでも話題になった漫画家の楳図一雄氏の「まことちゃんハウス」の裁判で明らかになった「景観利益」という概念は、住民取り決めや、法的条例規制などと相俟って、今後の町並みの景観保護運動の重要な動機付け、法的根拠になり得るものである。デカルト的グリッド状都市創りと非デカルト的な歴史・現状重視の都市創りは、今後、後者による優位性が、取り入れられていくようであるが、太田黒公園景観規制条例のような住民創意のコンセプトと一体になった行政・地域住民運動、更には、ゼネコン・デベロッパー・不動産屋、等を巻き込んだ総合的な運動が、不可欠であろう。大都市に住む住民のみならず、地方でも、こうした景観のみならず、地域住民による地道な市民活動が、着実に、拡がることを願ってやみません。東京都内からは、今や、富士山を眺望出来る地点が、激減しているのは、何か、寂しいものがある。

杉並たてもの応援団:
http://suginamitatemono.sakura.ne.jp/index.html


Time for Outrage ! By Stephane Hesselを読む

2011年11月27日 | 書評・絵本
フランス語が、分からないので、英語版の30ページ程の小冊子をアマゾンで、購読した。著者は、1917年生まれの元フランスのナチに対するレジスタンス運動の闘士で、ゲシュタポに、2度に亘り、拘束された後、逃走し、戦後は、外交官として、国連を舞台に、人権活動を支援した経歴で、この著作を93歳で、著している。アウトレージというから、Takeshi Kitanoのバイオレンス・ヤクザ映画ではない。もっとも、そのバイオレンスに対する考え方には、停留では、決して、似て非なるものでも決してない。昨年の暮れに、フランスで、発表されて以来、60万部を突破したというから、その影響力は、特に、若者を中心に、この老闘士の遺言とも言える著作は、侮れない。とりわけ、9.11 以降のテロリズムや、イスラエルによるガザ地区の占領、パレスチナによる抵抗運動への論評は、その年齢に関係無く、考えさせられるものがある。必ずしも、テロリズムによる暴力を許容するものではないし、むしろ、非暴力主義による「希望」を行動の主軸に、置いていることは、著者の究極の理想であった男女平等・反貧困・自由・平等・友愛・人権擁護の立場からすれば、当然の主張であろう。むしろ、否定はしつつも、余りにも巨大な暴力(ナチズムであれ、何であれ)を前にした抵抗運動、「憤り」には、理解が出来るとするところは、多様な文化を許容しようとするフランスのこれまでの移民に対する政策を、垣間見ることが出来る。この辺は、テロリズムに対するアメリカ的な考え方とは、異なり、やはり、アルジェリアの独立運動や対独レジスタンス運動などを、経験したフランスならではの考え方であろうか。又、サルトルの引用では、私達が、60年代の後半に、影響を受けた、「抑圧と非寛容」等のレヴィ・ストロースとの「弁証法的理性批判」、実存主義と構造主義との論争を、想起させるものがある。いずれにせよ、私達の子供の頃、幼い子供心に影響を受けた、当時実在したインドのマハトマ・ガンジーや、ネルーの高い洗練された理想と哲学を有した「非暴力主義的抵抗」を、再び、想い起こさせる。NYでの反貧困・反差別デモ、中東での民主化デモ、を見るにつけても、日本の若者だけではなく、全世代を超えて、この老人の「若く、力強い精神パワー」を、ひとかけらでも、分けて貰いたいものである。To Create is to Resist, To Resist is to Create という最後の章での言葉は、何とも、重いし、又、マス・メディアに対する不信の念と新しいメディア媒体の興隆に対する期待は、興味深い。「連帯を求めて、孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが,力を尽くさずして挫けることを拒否する。」という言葉が、心の底のどこからか、ふと、溶け出してきた。レジスタンスのきっかけとなる動機とは、Outrageであると。 今や、現代は、まさに、Time for Outrage ! なのであると。「造反有理」である。中国では、一体、どう読まれるのであろうか?フランス映画の「影の軍隊」を、又、見たくなった。
ブクログ:
http://booklog.jp/users/nkmrimc


濡れ落ち葉・考

2011年11月26日 | 自然・植物・昆虫
濡れ落ち葉と謂っても、「女房に、ベタッと貼り付いて離れない退職後の旦那」の比喩のことではない。それは、又、別途、論じることとして、今回は、純粋に、「雨上がりの後の濡れた落ち葉」の掃き方について、考察するものである。都会では、今や、落ち葉掃除が面倒であるという理由だけで、マンションに、住む人や、あまり、樹木を植えない人が多いが、小諸では、レーキーで、50メートルも、路面を引きずれば、松葉が、イヤと言うほど、しかも、良質の腐葉土の材料が、手に入るし、又、土の上であれば、放っておいても、自然と、天然の腐葉土が、何層にも積み重なって出来上がる仕組みである。しかし、アスファルトで、固められた都会の自分の家や、お隣さんの家の前では、そういう訳にはゆかない。とりわけ、雨上がりの後では、ベタッとくっついて、なかなか、離れない。更には、車のタイヤに、踏みつぶされれば、剥がすことも難儀である。まだ、ハナミズキのような大きな枯れ葉は、多少、でこぼこがあり、箒も入れやすいが、花桃の葉は、平べったく、しかも、細長いので、なかなか、箒の目が、入ってくれない。やむなく、縦ではなくて、直角方向から、入れたり、わずかに確認できる葉の根元に、やっと入れて、チリトリに、「濡れ落ち葉」を掃き入れることになる。乾くのを待てば、それで良いのであるが、舗道の美観の観点から、考えると、毎年、その目を楽しませてくれる初春の綺麗な花桃の花とは、異なり、晩秋の濡れ落ち葉には、毎年、手を焼いている。落ち葉自体には、風情があるのであるが、、、、、落ち葉には、責任は当然無い。何事にも、(規格・製造工程・HACCP・検品方法)が、つきものであるが、濡れ落ち葉を掃きながら、こんな事を、考えさせられた。我が老犬は、お腹がすいたのか、待ちくたびれたのか、朝飯を早くくれとばかりに、フェーンと情けない唸り声とも、催促ともつかない声をあげている。家の前を掃除するだけで、45分も掛かってしまった。待たされた我が老犬が、文句を言うのも、分からないこともない。




Memorial Service Trip to Tarawa Atoll= タラワ巡礼慰霊団の英文サイト

2011年11月25日 | 社会戯評
Memorial Service Trip to Tarawa Atoll= タラワ巡礼慰霊団の英文サイト
長文の日本語による記録でしたが、何とか、そのサイト運営者の意図に沿うべく、英文翻訳を試み、下記のような英文サイトの公開に踏み切れました。海外リーダーで、ご興味のあるか方は、一度、是非、お立ち寄り下さい。サイト運営者の本来の希望により、今後、遺品の返還活動などが、前進することを期待してやみません。私の叔父や、亡くなられたサイト運営者のお祖父様も、それを望まれていると信じてやみません。

Although original web site was built in Japanese, I tried to translate as closer as possible to the original concept of web builder into English, and finally we came ot publish English site hereby. If there are overseas page-viewer who are interested in this English site, you feel free to visit to read its details. I am looking forward to proceeding this movement for the return of personal belongings of the war bereaved. I do believe my own uncle as well as grandfather of this web builder hope so.

Site in English:
http://www7.ocn.ne.jp/~yagiko/englishindex.html

日本語サイト:
http://www7.ocn.ne.jp/~yagiko/index.html

日本経済新聞を読まないという選択肢=情報呪縛から逃れて

2011年11月24日 | 社会戯評
もう、かれこれ、40年以上になるであろうか?毎朝の朝刊は、日本経済新聞を含めて、全国紙は最低2紙を購読し、更に、日経流通経済新聞を、定期購読して、会社では、業界専門紙を熟読していたものである。スクラップをしたり、当時流行だったASHFORDのシステム手帳に、縮小コピーで、貼り付けて、為替の変動記録や、注目すべき記事を、アナログ・データベースとして、持ち歩いたものである。中でも、そうしたデータ・バンクを、加工して、取引先で、説明に使ったり、自己教育・専門ノウハウの蓄積に当てたりしたものである。又、日経ビジネスにも、通勤途中の電車の中で、注目特集を、一字一句、逃さずに、読んでみたりもしたものである。もっとも、ある日、その日経のCompany of the Yearを受賞した会社が、何年か後の不況で、敢えなく、倒産したとき、日経ビジネスの記事の中に、「敗軍の将、兵を語らず」をもじった「敗軍の将、兵を語る」というタイトルで、自分の見通しの失敗までもが、二次加工されることに、突如として、違和感を覚え、それ以来、距離を置くことにしたものである。あれから、思えば40年余、今では、日経新聞を読まないという選択肢を、選ぶことに決したが、それも、一つの選択肢の一つではないだろうか?情報戦争の渦中で、人は、どのように、溢れる情報を、選択し、判断して行けば良いのであろうか?悩ましいことであるに、変わりはない。こうした呪縛から、逃れることも、良いのではないだろうか?女房殿が、購読中止を伝えたら、取次新聞店主が、血相変えて、「何か、不都合がありましたか?」と、言ってきたそうである。そう言えば、最近、株価欄も、トンと、見る気にもならないが、、、、、、。もっとも、それも又、困ったことではあるが、、、、、、。



喪中葉書におもう=ある友人の娘さんの死

2011年11月23日 | 社会戯評
毎年、11月下旬から12月初旬に掛けては、友人から、喪中葉書を何通も戴くが、最近では、ご両親が、皆高齢になり、やや、減少してきた感がなきにしも非ずではある。中には、白寿で、天寿を全うされたという喪中葉書や、伴侶を病気で亡くしたというものも戴いたりするが、ある友人からは、3番目の末の娘さんが、ごく最近、享年20歳で、他界された旨のことが,短く、父親の名前の下で、送られてきた。どういう原因で、亡くなられたのか、分からないが、何とも、哀しい、痛々しい知らせである。毎年、年明け頃に、食事をしながら、近況報告をしあう間柄ではあるが、電話で、お悔やみを伝えるのにも、未だ、憚られる。理由はともあれ、自分の体験からは、似たような例を2度程、経験している。一度目は、今から、約40年も前の学生時代、友人の自死の時のお父様・お母様の悲嘆を目の前にしたこと。二度目は、同い年のニュージーランド人のクライアントの娘さんが、医師の勤務中に、持病の喘息の発作に、耐えきれずに、同じく、自死してしまった時、同い年の娘がいた私には、その哀しみが、他人事ではない気がしてならなかった。子供がなければ、ないで、心配になり、授かれば、授かったで、受験は、いじめに遭わないか、ぐれたりはしないか、交通事故に遭わないか、等の心配をし、結婚しなければ、しないで、どうなってしまうのかと、いずれにしても、一喜一憂、心配する。煩悩は、果てしなく、「諸行無常」とは、よく、言い得たものである。死亡の理由は、ともあれ、順番を覆して、先に、子供が、或いは、長年連れ添った伴侶が、自分を置いて、先に逝ってしまうことは、何とも、哀れで、切ないものがある。やはり、結婚祝いの通知や、赤ん坊が、出来た知らせの写真が、晴れがましくて、元気が出て宜しいと思う。どう、お悔やみを伝えたらよいのか、誠に、悩ましい次第である。私としては、今は、ご冥福を祈るほかない。時間を少し、おいてから、お目にかかりたいものである。同じ父親として、、、、、、。その心境は、察して、余りあるものがある。



こもなみ倶楽部のこと=小諸~杉並ミートアンドマッチングプロジェクト

2011年11月22日 | 自然・植物・昆虫
東京に在住する小諸市出身者や彼の地に縁のある人々が、参集する第49回「東京小諸会」の紹介で、杉並区にある小諸での耕作放棄地を再生しようとする有志による任意団体、こもなみ倶楽部(トヨタ自動車からも賞(あしたのまち・くらしつくり活動賞:振興奨励賞)を受賞したり、助成金を授与されている)の活動を知ることになった。確かに、耕作放棄地の拡大は、日本の農業の喫緊の課題である。偶然、相続で、入手した小諸のアパートを拠点として、耕作放棄地を、開墾再生し、復活させることは、都会に住む住人のみならず、彼の地の人々にも、おおいに、意義深いと思われる。蕎麦畑に変身した耕作放棄地を、根っこから、開墾し、畑を耕し、野菜の種を播き、苗を植えて、生育させて、その収穫を愉しみ、更には、その製品である「蕎麦打ち」までも、子供達共々、体験できることは、「食育」教育上からも、とても、興味深いことであると感じられる。しかも、彼の地の行政同士の交流や、協働作業、これまでの箱物行政だけでなく、農作業を通じた住民同士の交流も含めた幅広い活動は、やがて、その小さな芽から、枝葉が出て、将来、大きな太い幹になる可能性を秘めていると思われる。上田市の棚田の再生活動や、生物多様性・蛍の保護活動など、各地区のこうした活動の拡がりには、「都市の再生」、「地方の再生」の手法で、新幹線や、箱物や、補助金に頼りきったこれまでの行政の在り方へのアンチ・テーゼになるものが秘められているようにも思う。都市環境整備、都市町並み景観も含めた、総合的な都市計画、道路整備、災害対策、商店街の復活・再生など、関連する周辺活動は、限りない。団塊世代が、今や、こうした活動に、再結集出来れば、再度、社会の底辺から、地殻変動を起こせるようなそんな予感がしてならない。そんな活動の拡がりを少しでも、担えれば、「社会貢献」とは、謂わないまでも、微力ながら、少しの足しにはなるのではないだろうか?

こもなみ倶楽部:
https://sites.google.com/site/komonamiclub/
東京小諸会:
http://home.catv-yokohama.ne.jp/88/nm-kita/komorokai/index.htm

ブータンに学ぶ・考=

2011年11月21日 | 社会戯評
これまで、どれ程の数の日本人が、ブータンという国に、関心を持っていただろうか?何処にあり、どのような国なのか、どんな歴史的な考え方の人達なのか?地理の時間でも、教えられた覚えがあまりない。今回のワンチュク国王夫妻の来日に際して、多くの人々が、その動向に、初めて、目を向けたと謂っても、過言ではない。そう言えば、昭和天皇の崩御の際には、国を挙げて、喪に服したというニュースを、かすかな記憶の中に、止めているくらいだろうか。翻訳者である友人のブログの中で、「国民の天皇」という著書を上梓しているアメリカ人学者のケネス・ルオフ氏のブータンに関するコメントが、載っていたので、大変、興味深く、読ませて貰った。日本は、改めて、象徴天皇制の下であることが、再認識させられる。確かに、戦後直後の昭和天皇による全国行幸とブータンでの同じような行幸は、その類似点で、大変、象徴的である。環境政策の推進や富の格差との闘いは、GNH(国民総幸福感)という一つの新しい指標を設けて、彼の地では、現在進行中である。不安定な東南アジアの中で、地理的にも、中国とインドという大国の狭間に、存在し続けなければならないその国は、チベット仏教を基に、立憲君主制で、イギリスで、教育を受けた聡明な国王夫妻に、国の近代化と伝統・独立の維持を、委ねることになった。国旗に、掲げられている「龍」は、内なる心の経験を糧にして、人々の心の中で、大きく強く育ててゆくということを意味するとの国王の言葉が、語るように、小さな国が、如何に、グロール化の渦中で、その近代化と固有の政治的、経済的な独立を達成していったらよいのかを、我々にも、示唆しているようである。若い頃のタイのフミポン国王のように、どのように、国を導いて行くのか、日本は、その中で、JICAによる農業分野での西岡京治氏等の技術専門家派遣協力の実績ではないが、どのような支援・協力が、望まれているのか?今後の具体的な各論の実施が、期待されるところである。

海神日和:
http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/


南の島を想う=ギルバート諸島、タラワ環礁島嶼 1943年11月20日のこと

2011年11月20日 | 社会戯評
1943年(昭和18年)11月20日は、父方の叔父(父の長兄)のギルバート諸島タラワ環礁島嶼(現、キリバチ共和国)での玉砕日である。その父も、その事実を知ったのは、父が、ラバウルから、名古屋港に、復員してきた昭和19年5月の事であったことが、1981年(昭和56年)8月に、夫婦揃って、第8回現地慰霊団に参加した時の追想録に、記載されている。(父は、駆逐艦、夕霧に乗船していた兄から、軍事郵便で、送られた同じ年の昭和18年の暑中見舞いの葉書を、奇しくも、手許に、1枚だけ、残っていたと)、静岡県掛塚の墓には、むろん、遺骨もないし、タラワ環礁島嶼の何処で、いつ、戦死したのかも、正確な月日さえ、未だに以て、皆目分かっていない。飽くまでも、傍証である。せいぜい、太平洋戦争の史話や、米軍の公開されている公式資料を、インターネットで、調べるくらいが関の山である。ましてや、どのような状況下で、戦死したのか、等は、「玉砕」の一言で、戦史的に、簡単に、片付けられてしまっている。祖母は、死ぬまで、その息子からの手紙を大切に、アルバムの中に、保管していた。(今では、デジタル化されて、CD-Rに保管されているが、、、、)直系の遺族が、高齢化する中で、甥である自分は、厚生労働省の公式慰霊団の参加資格を満たしていないのは、極めて、遺憾な事である。ひょんなことから、ネット検索で、この慰霊団に参加されたご遺族の孫に当たる方のHPを英文に、翻訳することになり、アメリカ側に、遺品の返還の依頼活動を試みることになり、NYで、NPO法人のPacific Wrecks Inc.を立ち上げているJustin Taylan氏とコンタクトし、現在、この活動の協力を要請中である。いつの日にか、ギルバート諸島のタラワ環礁島嶼へ、日米の関係者ともに、相互の慰霊の旅に、行きたいものである。何故、そんな遠い南太平洋の最前線で、玉砕しなければならなかったのかを、自分のこの目で、確かめてみたいと思っている。尖閣列島やTPP 、ASEAN+3, ASEAN+6を耳にするにつけ、約70年前に亡くなった叔父達の若き死は、果たして、どのような意味があったのかを想わざるを得ない。

http://www7.ocn.ne.jp/~yagiko/index.html
http://www.pacificwrecks.com/people/authors/taylan/index.html

エスカレーターのスピードにおもう

2011年11月19日 | 社会戯評
エスカレーターのスピードにおもう=
久しぶりに、東京へ戻り、駅のターミナルで、少々戸惑った事と言えば、エスカレーターのスピードの早さである。今や、歩行弱者の仲間に、足を少しばかり、入れた自分には、その昔、東南アジアの国で、田舎から、出てきた人が、スカレーターになかなか、乗れなかった話を、面白おかしく話したが、まさか、当人が、その恐れを抱くとは、思ってもみなかった。上田の新しく出来たイトーヨーカ堂のショッピング・センターのアリオ上田では、上りも、下りが、非常に、エスカレーターのスピードが、遅く感じられたものである。お年寄りや、障害者の利用を想定している為であろうか?何とも、東京のターミナル駅のエスカレーターのスピードを考えられると、空恐ろしくなる。確かに、それまでは、気がつかなかったが、通勤の時も、ラッシュ・アワー時の群衆が、歩くスピードも、今にして思えば、あの凄まじい程の一糸乱れぬ秩序と言おうか、約束事があるようにしか思えてならないのである。その決まり事を、或いは、その秩序を乱すようなイレギュラーな緩慢な動きは、むしろ、「迷惑な」、危険な行為なのであろう。よく、海外から来た連中から、「日本人は、歩くスピードが、早過ぎるが、何をそんなに、急ぐのか?」と問われたものであるが、今や、自分でも、同じ質問をぶつけたくなる心境である。新幹線による点と点との移動旅より、途中下車のゆったりとした各駅停車の旅も、贅沢ではあるが、人生も、やや、廻り道で、スピードを落としてみても、見えるものや、感じるものが、又、別の見方が出来るかも知れない。早いスピードのエスカレーターに乗ってみて、そんな事を思った次第である。人生も同様か?



(続) カーネギー・ホールでの辻井伸行の涙:

2011年11月18日 | 社会戯評
時として、無用なジャンク・コメントが、不躾にも入るので、アクセス制限で、英文コメントを拒否すると、設定したところ、辻井伸行のファン・サイトを主宰している中国系アメリカ人のMs. LIUから、コメントを、メールで、貰ったので、原文とともに、翻訳掲載します。

11月16日付けのブログ、「カーネギー・ホールでの辻井伸行の涙」と私のウェッブ・サイトのご紹介を戴き、有り難う御座います。
NYCでのコンサートに於ける辻井さんは、とても、荘厳な感じがしました。彼の演奏するピアノは、カーネギー・ホールでの著名な音響効果の中で、揺らめき輝くスタインウェイ社のピアノの上で、これ以上に、活気に満ちた音を刻むことは決してありませんでした。彼の最初のアンコール演奏曲は、アメリカ人作曲家、ステファン・フォスターとアメリカ音楽への賛辞として、同氏の作曲である美しい演奏曲目の"Jeanie with the light brown hair"(薄茶色の髪のジェニー)でありました。最後のアンコール曲目は、あなたが、書いた通り、感動的な東日本大震災の被害者に宛てた「それでも、生きて行く」という演目でした。
このコンサートには、わざわざ、NYCにまで、世界の隅々から、色々な人々が、演奏を聴きに来ていました。その晩は、とても多くの日本人の観客もいました。自分は、日本人ではありませんが、その演奏者である辻井さんとその母国、日本への賞賛と感動に圧倒されてしまいました。
又、来年の5月に行われるロンドン公演を見たいと期待しています。この国で、金賞を受賞して以来、かなり、演奏に円熟味が増したように感じられました。:彼の才能にとっては、空すら、限りあるものかも知れません。
敬具 Mei-Ling Liu

https://sites.google.com/site/nobufans/

Tsujii-san was magnificent in New York City. His piano never sounded more vibrant than on that shimmering Steinway in the renowned acoustics of the Carnegie Hall. His first encore, a tribute to American composer Stephen Foster and American music, was a beautiful rendition of Foster's song "Jeanie with the light brown hair". The last encore, as you wrote, is a moving tribute to the victims of the Eastern Japan earthquake.

There were those from different corners of the world that came to New York City for the recital. Very many Japanese were at the Carnegie Hall that night. Although I am not Japanese, I was overcome with emotion and admiration for Tsujii-san and his homeland.

I look forward to seeing Mr. Tsujii in concert again, next time in May in London. He has matured considerably since he won a gold medal in this country; the sky is the limit for him.

Respectfully,
Mei-Ling Liu


学童疎開の記録発見におもう

2011年11月17日 | 社会戯評
戦後生まれの自分には、学童疎開の経験がない。母方の叔父は、当時、阿佐ヶ谷の実家から、空襲を避けるべく、真田(今の長野県の上田市)へ、疎開していたと聞いている。母校の小学校の前身である桃井第二国民学校の教師が、保存していた詳細な当時の日誌や記録が、遺族の手により発見、公開されたと新聞記事に載っていた。驚くべき事に、当時、空襲を逃れて、せっかく、避難してきたのに、その疎開先で、何人かの生徒が、死亡している事実が、記録されていると、(死因までは、出ていなかったが、、、、、)又、充分とは言えない朝・昼・晩の食事の献立や、東京へ、逃亡しようとする生徒が、実際に、いたこと、更に、事前に、沿線の鉄道駅などへ、連絡がされて、あえなくと言おうか、無事にと言えばいいのか、保護されたことなど、当時の子供達の生活を知ることが出来る。食べることすら、困難な状況下で、毎日、茄子の献立ばかりで、ひもじい思いをしながら、家族と離れて、不安な中で、暮らすということ自体、大変な事ではなかったのではないだろうか?当時、23万超の学童が、疎開したと、その家族ですら、空襲で、失った生徒もいたと、、、、。教師の目を通しての資料ではなるが、当時の子供達の日記や、作文は、ないものであろうか?明治期の津波の時にも、子供達の目を通した作文が、多数残されているようであるが、今回の大震災でも、学童疎開ではないが、貴重な体験を、トラウマを乗り越えて、いつの日にか、綴り方教室とは言わないが、資料として、後世に、残して貰いたいものである。さもないと、避難途中で、遭難した多数の児童や、依然として行方不明の児童達は、浮かばれないし、少なくとも、生き残った大人達の義務ではなかろうか?学童疎開の記録同様、いつの間にか、又、歴史の闇の中に、消え去られことのないように、、、、、、と願いたいものである。


カーネギー・ホールでの辻井伸行の涙

2011年11月16日 | 社会戯評
ニューヨークのカーネギー・ホールでの辻井伸行によるコンサート・リサイタルで、その観客からのカーテンコール・アンコールに応えて、「それでも、生きて行く」という東日本大震災の復興を願って作曲された演目の演奏中に、彼が、大粒の涙を流しながら、必死に、演奏していたと報じられたが、一体、その涙は、何であったのであろうか?音楽の力、演奏の力、唄の力とは、何なのであろうか?子供の頃、記憶の片隅に、耳の奥の何処かに、かすかに記憶されているあの頃の焼け野原や、闇市の雰囲気、「りんごの唄」や、「青い山脈」ではないが、音楽や演奏や唄には、時空を超越して、直接的に、民族や皮膚の色をも乗り越えて、心に、訴えかける何かが、あるようである。言葉とも違い、目が見えなくとも、耳から、心に迫ってくる何物かが、あるようである。ブログを介して、知りたった中国系アメリカ人の熱心な辻井伸行ファンのサイトにも、カーネギー・ホールでの当日のリサイタルでの感動の模様が、ひしひしと、伝わってくるものがある。是非、一度、訪問してみて下さい。音楽には、実質的に、「開き盲」の自分などは、心して、「心の目」を見開いて、聴かなければならないかも知れません。
https://sites.google.com/site/nobufans/