小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

愛犬の七五三と動物霊園に思う:

2013年10月31日 | 動物・ペット
愛犬の七五三と動物霊園に思う:
何でも、最近では、神社での七五三詣でが、少子化の影響からなのか、激減する代わりに、愛犬の七五三のお参りが急増しているそうである。本当なのかと、まず、耳を疑ってしまう!神妙な顔つきをして、飼い主様は、我が愛犬とともに、お祓いと祈祷を受けるのであろうか?それとも、御犬様は、これ又、神妙な顔つきで、チョコンと横に鎮座ましまして、3歳、5歳、7歳、それぞれ、歳に応じて、着飾って、神社にお参りにゆくのであろうか?何とも、神社にとっては、有難い話であり、邪険に出来ることではない。むしろ、切実、且つ、死活問題であるのかも知れない。家族であると云う感情は、自分の経験からいっても、決して、分からぬものでもない。しかしながら、既に、余りに擬人化されてしまい、まるで、幼子のように、思われる感情には、一寸、何か違いませんかねという思いがつきまとう。我が老犬を18歳と4ヶ月で看取った経験からすれば、愛犬の死というモノは、必ずしも、全く、人間の死とは、異なるモノではないこと、人間の孤独死や、葬式費用も出せないために、その死体すらも遺棄してしまう今日、火葬や埋葬等、これまでのゴミ扱い的な死骸の処理では、確かに、飼い主の感情が納まらず、ペット霊園的な墓地が、必要とされるのも、頷けないことではない。しかしながら、人間様の墓地ですら、今日、墓地の管理料が、滞納されたり、高齢化に伴う相続人の廃嫡・断絶などにより、管理自身が、立ちゆかなくなりつつあるのも、これ又、現実であろう。してみると、一時的な飼い主である人間様の勝手な(?)都合で、誰が、次代の墓守をするのであろうか?本当に、御犬様は、果たして、草葉の陰から、喜んでいるのであろうか?初七日、49日、1周忌、3回忌、等、信仰心の厚い飼い主様は、その都度、お布施と管理料と供物・読経代金を、お支払いし続けるのであろうか?何とも、飼い主の我が儘とは言わぬまでも、若干、こうした傾向には、行き過ぎた動物愛護の精神を感じないこともない。何が、家族同然だった犬にとっての幸せなのか、私は、まもなく5ヶ月近く経過するが、未だに、自問自答することがある。喜びも悲しみも、家族の記憶の中に、写真とともに、いつもあり、すやすやと、気持ちよさそうに、寝ている写真が、こちらに、何かを問いかけているように、思えてならない。自分の人生が終わるその時まで、ずっと、忘れないからねと、、、、、、。そして、家族の愛犬として、一緒に過ごした時間は、ラッキーには、幸せだったのだろうか?と、、、、、、、。



官製春闘とは?:

2013年10月30日 | 社会戯評
官製春闘とは?:
昔、まだ、初任給が、8万円以下だった新入社員の時代、毎年、春には、春闘と称して、国鉄が、遵法闘争ののろのろ運転で、念のために、1時間以上も前に自宅を出て、ギュウギュウ詰めの通勤(痛勤)電車に揺られて、会社に通ったものである。当時、サラリーマンは、自分の上司と給料は、自分で決めることは出来ないとまで、言われていたものであるが、(今も、それは、変わりはないのであろうが)それでも、労働組合運動は、ベアのアップを官公労を中核にして、何とか、形ばかりではあったが、今に較べると、頑張っていたような気がする。それにしても、今や、賃上げも、政府主導で、産・官一体となりながら、アベノミックスの底上げの一環として、連合を置き去りにしつつ、進行中である。確かに、「官製春闘」と呼ばれても、致し方ないであろうか?それにしても、連合は、声高に協力すれば、政府の努力に、称賛を送ることにもなり、やらなければやらないで、その労働運動自体の存在意義が問われかねない。非正規雇用労働者の給料改善や年収200万円以下の労働者の問題など、労働運動の内部ですら、既に、二重構造の体たらくである。労働分配率と内部留保の問題を避けながら、果たして、労働運動は、その組織率の低迷と乏しい成果の中で、一体、官製春闘というoffensiveに対して、どのような対応を行うのであろうか?英語では、Labor Offensiveだった覚えがあるが、今や、Labor Defensive なのだろうか?又、労働者による「声なき声」は、何故、一向に、吸い上げられないのであろうか?そのうち、何でも、お上からの「官製民主主義」も、改めて、提起されてくるのではないだろうか?やっぱり、反原発運動も、小泉頼みでないと、立ち行かないのであろうか?何とも、官製春闘といい、寂しい限りである。そう思うのは、昔を知る年寄りだけであろうか?若い人達は、どう思っているのであろうか?おおいに、知りたいところである。



一本の不審な電話:

2013年10月29日 | 社会戯評
一本の不審な電話:
最近では、電話を受けること自体が、危ない事件に巻き込まれかねないきっかけになるものであろう。そう言えば、亡くなった母が、未だ、元気だった頃、良く、セールスの電話が架かってくると、いつも、お上品に、ご丁寧な話しっぷりで、会話していて、私は、横から、電話をひったくって、ぶっきらぼうに、応答して、断ったものであることを想い出す。あれから、詐欺紛いの犯罪は、どんどん、進化してきて、被害者が、再度、別の被害に遭うことも、被害者リストが、公然と出回っている結果、それが現実である。オレオレ詐欺だけでなく、特殊詐欺やら、未公開株や、水利権の売買、買え買え詐欺とか、とにかく、あの手この手で、アプローチしてくること、限りがない。電話番号を公開していなくても、今晩のように、突然、「エコバンク」を名乗るセールスの女性が、慇懃無礼な声で、「奥様はいらっしゃいませんか?」と、電話を掛けてきた。すかさず、「電話番号は、どうして、知ったのか」と問いただすと、マニュアルなのか、どうか知らぬが、地域の局番から、下4桁を片っ端から、無作為で選び、電話していると、それではとばかりに、すかさず、「代表者の名前と登記上の住所・電話番号は、何処か?」と、尋ねると、いきなり、無言で、電話を切られた。(大体が不審な電話というモノは、この手法で、まず、相手から電話を切るものである。)ネットで、キーワードを検索(エコバンク 評判)してみると、成る程、同じ手口の電話セールスが、簡単に、引っかかってきた。昔は、ワン切りとか、着信詐欺とか、様々な手口が、警鐘を鳴らされてきたが、ネット・バンキングですら、使い捨てのパスワードで、現金が消えてしまうような時代だから、余程、キチンと普段から身構えていないと、うかうか出来ないものである。それにしても、個人情報が、何らかの形で、抜けてしまうのが、今日の現実であるから、電話をスクリーニングしたり、録音しておくことも、必要なのかも知れない。自己防衛のためには、何をすべきなのだろうか?どういう心構えが必要なのであろうか?それにしても、一人暮らしの年寄りだったら、優しい言葉で、心配そうに親しげに話されたら、コロッといってしまうのかも知れないのが、人間でもあるし、それが、相手の思う壺でもあるのは、当然の理であろう。くれぐれも、用心用心、注意をしないと!



読み聞かせ絵本の朗読CDについて:

2013年10月28日 | 社会戯評
読み聞かせ絵本の朗読CDについて:
若い時に、統合失調症を罹ってしまった後輩が、絵本、「だから、わたしは“ラッキー”なの!?」を、自らの手で、ジャケットを印刷し、BG音楽を作曲して、朗読を読み聞かせで、録音して、目の不自由な子供達にも提供出来ないかというメールを、過日、戴いた。自分でも、ICレコーダーに、録音することを勧められたが、何とも、自分の声は、あまり、魅力的なナレーションには、向かないので、二の足を踏んでいたが、まぁ、試しに、やってみようかとも思い、録音ファイルのMP3で、ラッキーの写真とともに、CDにコピーして、送り返しました。早速、これを編集して、何回かの試行錯誤の後に、CDが、完成したので、障害者教育の経験を有する知り合いに、配布をお願いすることにしました。なかなか、どうして、ナレーションというものは、難しいもので、間合いというか、絵の描かれた空間を、如何に、聴く側に、想像して貰うのか、どのような情景を、瞼の裏に、描いて貰えるのか?その声の強弱、抑揚、文章の切り方、一呼吸の間合いの置き方など、文章を推敲するのとは、全く、異なることが、やってみて始めて学習できた次第である。読み聞かせのボランティアというのが、あることは、知っていたが、これは大変な作業であることが再確認されます。イラストの絵を、どのように、その情景を説明するのか?どのように、頭に描いて想像して貰ったらよいのであろうか?音楽も、間合いを置きながら、如何に、繋がりを持たせながら、ナレーションにマッチさせて、どのように、流して行くのか?素人ながら、改めて、自分の声でのナレーションと音楽を聴いてみると、確かに、一筋縄ではいかない作業である。果たして、どんなふうに、受け止められるのであろうか?ボランティアで、目の不自由な人達に、読み聞かせのテープを提供している方は、それはそれで、大変なご苦労をなさっているのではないだろうかと推察するものである。新聞のデジタル化も進んでいるものの、障害者への新聞の読み聞かせとかは、どうなのであろうかと思う次第である。そういう助成金等のサービスは福祉のほうで、あるのであろうか?ふと、そんな感慨を抱いたものである。



世界最優秀ソムリエが信州ワイナリーを訪問:

2013年10月27日 | イベント 祭 催し
世界最優秀ソムリエが信州ワイナリーを訪問:
今年の3月に東京で開催されたソムリエ・コンクールで、優勝したスイス人のソムリエが、スイス在住の日本人と長野県観光部信州ブランド推進室の仲介で、小諸・東御のワイナリーを訪問し、「高い評価」を与えたそうです。日本人は、自国の評価よりも、海外からの評価を、最優先するのは、フェノロサの幕末から明治期にかけての日本美術の再評価ではないが、元々、外国の飲み物であったワインだから、しかたのないことなのであろうか?いずれにせよ、善光寺(龍眼)などの30種類ほどの地場の品種を、その眼で確認して、改めて、赤白のワインを試飲したうえでの評価後のコメントであったらしい。とりわけ、白ワインは、優秀で、この地域が、白ワインの醸造に、適しているらしい。東御ワイン倶楽部のヴィラデストワイナリーや祢津のはすみワイナリー、リュードヴァンや、小諸のマンズ・ワイナリーを実地に、訪問して、「ブルゴーニュにも匹敵する」と絶賛したそうである。実に有難いことであり、千曲ワインバレー構想を後押しすることにもなり、又、東御市の耕作放棄地のワイナリーへの転用とか、更には、地元でのチーズや、レストランなどの観光をも含めた、ワインを中心にした地域振興や、地域経済の活性化も、十分視野に入ることではないだろうか?一時的なマスコミが、取り上げるだけでなく、地道な地域、各関係経済部や農政課などの横の観光課などとの連携も、もはや、待ったなしではなかろうか?東御ワインフェスティバルだけでなく、小諸や丸子も巻き込むような活動の拡がりを期待したいところである。これらの関係産業としてのラベルやパッケージのデザインとか、瓶のデザインも含めて、もっと、もっと、知恵を出し合って、盛り上げて行くことになれば面白いかと思うが、、、、、、。信州ワイン列車でもジビエ料理とともに、愉しめ、温泉地でも、味わえるようなそんな企画は、出てこないのであろうか?そんなことを思っていたら、小諸マンズ・ワインの収穫祭があったので、早速、試飲も兼ねて、出掛けてみた。もっとも、車では飲めないので、わざわざ、電車とシャトル・バスである。それにしても、荒天に恵まれて、すごい人の数である。芝生広場は、もう、腰掛ける席すらない盛況で、シートとテーブルを持ち込んで、家族で、ワインとチーズや焼き鳥を食べながら、小さな子供達を遊ばせている3代の家族連れもいて、ステージのフラダンスやフォークロウの音楽を愉しんでいる。成る程、ある種の場所と空間を提供すれば、明らかに、数多くの人達が、ゆっくりと、そこに、腰掛けたり、座ったりしながら、(もっとも、天気次第ではあろうが、、、、、)ゆっくり、花見ではないが、愉しめるモノなのであろうか?日本庭園脇にある旧いワイン・セラーの公開もなされていて、こちらは、有料での試飲、もっとも、グラスの3分の1以下という割には、一杯500円の試飲であったが、、、、、ワインセラーでの試飲ともあって、マニアには、ショップでの試飲とは異なる溜まらない一時であろう。それにしても、これだけの人々が、他県からも、団体バスで、訪れるのであれば、シャトル・バスも、近場の懐古園とか、温泉施設にも、無料で、回遊してくれれば、もっと、お金が地元に、落ちるのではないかとも思われるが、そうはゆかぬものなのであろうか?東御市のワイン・フェスタ、ぶどう祭りにも、参加してみたが、どうも、点と点だけのような気がして、もっと、面にも拡がりが出来ないものなのであろうか?一方で、小諸市の懐古園、もみじ祭も開催されているのであれば、もっと、広域的な行政協働の展開が、あっても良さそうなものであるが、、、、、如何なものであろうか?ついでにといっては何であるが、帰りに、駅前のドーナツやさんで、りんごのクチイナ種を使用したドーナッツを買おうと立ち寄ったところ、既に、売り切れていて、残念でした。そこで、電車の待ち時間を利用して、「なつまち」の聖地と称されている喫茶店で、「あのサンド」を戴くことにしました。年寄りに出来ることと言えば、唯々、時間を有効活用しながら、「お金を落とすこと」であろうから、すっかり寂れてしまった駅前商店街を観ながら、少々、寂しい思いを抱いていたら、通りがかりの高校生達が、すっかり、しょぼくなってしまったね、と口走って、足早に、駅に向かっていきました。何とも、残念ですね。しなの鉄道の列車も、たまに、乗ってみると、なかなか、ローカル列車の短い旅(?)も、面白いですね。帰りには、田中の駅前駐車場に止めたので、アルコール分を抜くべく、一風呂浴びて、汗を流して、暖まって、車で、帰ってきましたが、考えてみれば、どのようなルートで、人々が集い、時間を過ごすかということをもっと、調査・研究する必要が、観光業者や行政には、有るのではないでしょうか?ふと、そんなことを思いました。地ビールや信州ワインのファンが、増えることは、多いに、楽しみですね!



インターネット授業、「15分で誰でも出来る初めての電子書籍」講座を受講する:

2013年10月26日 | 社会戯評
インターネット授業、「15分で誰でも出来る初めての電子書籍」講座を受講する:
いやはや、大変な時代になったものである。何でも、自分で、電子書籍が、ブログを作るような感覚で、簡単に作成できるという触れ込みである。所定のURLにアクセスして、授業の開始時間前に、着席した旨のボタンをクリックし、事前に、関連資料に目を通しておくのである。そして、授業開始のチャイムと同時に、受講者が、次々と、着席済みである旨のチャットが、閲覧できる。いよいよ、授業の開始である。USTREAMによるライブ画像であるから、多少の途切れがあるのは仕方ないわけであるものの、順調に開始される。途中で、ライブが、途切れてしまったが、この辺は、ご愛敬であろうか?何せ、無料講座であるわけであるから、そんな文句は、どうでも宜しいか?それにしても、双方向性が売りであるから、講師側からの質問に、チャットで、応答すると、受講者の反応が、リアル・タイムで、反映されて、それらが、表示されるし、講師側から、適当なコメントに関して、即時的に、回答がなされる。この辺は、ネットの双方向性の特徴が、十分、行かされているようである。基本的に、出版などと言うものは、素人が、なかなか、手を出せないモノで、その昔には、詩を創作していた友人などは、自分で、ガリ版印刷で、謄写版に印刷して、自費出版ではないが、自家版を配っていたものであるが、随分と、時代も変わってきたようである。こんなに、簡単に、事前に、原稿さえ、(画像も含めて)準備出来ていれば、e-pubなどに自動的に、転換してくれるとは、全く驚きである。ソフトウェアーの発展も、ここまで、来たものかと驚いてしまう。もともと、「ブクログ」で、本のレビューなどを行っている会社が、オン・ディマンド出版や電子書籍などを手掛けようとして、Pubooで、Schooというネット授業の形で、様々な授業を提供しているが、むろん、ビジネスであるから、その延長線上で、営利事業に繋げるという前提ではあるものの、こうした動きが、じわじわと、浸透していくことは、世の中の趨勢なのかも知れない。どんどん、知らぬ間に、風穴が、空いてゆくのであろうか?授業を逃しても、後日、過去の録画の授業を検索して、フィードバック出来るのも、なかなか、面白い。電子書籍は、権利関係が、複雑で、色々、難しい問題はあろうが、そんなこととは関係無しに、どんどん、世の中は、進んでいってしまうのであろうか?出版の自由がない国などは、一体、どうするのであろうか?資本がなくとも、コンテンツさえ、しっかりしていれば、もはや、小さくとも、才能さえあれば、世の中に、デビューできる可能性のある若者には、漫画家でも小説家や詩や俳句・短歌の詠み人も、様々な分野で、出てきてもらいたいモノある。実際、やってみると、確かに、簡単であることに、驚かざるを得ない。
興味のある方は、お試し下さい。
参考までに:
http://schoo.jp/class/259
ログイン登録後、右の本を作るをクリックして:
http://p.booklog.jp/about/print
ココデ出版:オンディマンド出版
http://www.opsco.jp/eshop/


追悼、天野祐吉:

2013年10月25日 | 社会戯評
 =追悼、天野祐吉:
何とも、残念なことである。もう、軽妙洒脱な批評を読めないとは、残念極まりない。折に触れて、CM天気図のコラムを愉しんできたのに、、、、、、、。広告を一つの批評として、世相を大胆に斬りながら、読み解くという手法を確立したことは、成る程、面白いものであろう。郷里の松山の子規記念博物館の名誉館長を務められていたことは、よく知らなかったが、確かに、絵本やら、俳句や文学など、幅広い知識と蘊蓄の中では、当然なライフワーク活動の一環だったのかも知れない。コラムや広告批評から、醸し出されるところの「まったり」とした雰囲気は、その風貌とも相俟って、誠に、穏やかながら、キリッとした切り口をオブラートに包んでいるようである。談志やタケシの毒を含んだ一種独特のアクのある毒舌長の批評ではない。むしろ、同じような鋭い切り口を有していても、それが、真っ正面から、ストレートには、表に出てこないそんな感じであろうか?CMというものは、確かに、コマーシャル・メッセージであるから、送り手の考えていることと、受け手である視聴者側での受け取り方というものを考えたときに、そこには、ある種、こう理解して貰いたい、こうして貰いたい物であるという願望とは言わぬが、こうあって貰いたいという強い、或いは、今日では、それすらも、隠したような、意図的に、露骨に出さないような手法も、取り入れられているのではなかろうか?モノを売ると言うのではなくて、TPOによるシーンを売るような、或いは、その雰囲気を理解して貰った上に、購買に至るという、更には、モノが売れなくても、その企業イメージが、視聴者に、何らかの形で、伝わって貰いたいと願いつつ、CMが作られ、伝播されるのであろうか?その意味からすれば、子供の頃から、或いは、生まれてから、ずっと、CMの中で育ってきたような人間達は、一体、どのような影響下にいることになるのであろうか?小学校の授業などでも、宿題に、今日は、何々のCMを見たうえで、その感想を述べて下さい式の作文を、書いて貰った方が、そして、お父さん、お母さんと一緒に、無料携帯オンラインゲームのCMを考えるという方が、面白いのではないかと思うが、如何なものでしょうか?どうやら、軽妙洒脱というモノは、一朝一夕には、完成されないモノで、やはり、色々な分野を勉強して、体験して、専門性も極めながら、その専門性に、埋没することなく、鋭い切り口を、まるで、懐に隠し持った匕首のように、オブラートに包みながら、品格を醸し出しながら、培って行くものなのでしょうか?ブログの中で、「一寸気になるCM」と言う文章を、今後も、続けていきたいものです。



小皇帝と拝金主義と儒教と国家:

2013年10月24日 | 社会戯評
小皇帝と拝金主義と儒教と国家:
文化大革命の時代には、旧弊、封建主義の権化の如く、否定し尽くされた「儒教」が、再び、今日、中国では、国家による行き過ぎた拝金主義によって、蝕まれたその他人への思いやりやら、両親への尊敬の念とか、謂わば、道徳的な精神の求心力の復活を期して、国を挙げて、国際的な華僑団体をも巻き込んで、国内外で、共産党主導による道徳精神・復古主義のキャンペーンが、繰り広げられているようである。確かに、旧ロシアでも、ソ連邦崩壊の時に、ロシア正教の宗教の復活を、精神的なよりどころとして、政治的に、大ロシア民族統合の象徴として、利用しようとしたことを想い出さずにはいられない。改革開放の成功者ですら、今日的な「拝金主義」と、行き過ぎた「成果主義」による精神の荒廃には、燃え尽き症候群ではないが、さすがの物質的な富の成功者でも、その精神的な喪失感は、大きいものがあると言われている。それにしても、一人っ子政策の鬼っ子であるところの「小皇帝」と、改革開放政策の行き着く先の猛烈な競争・成果主義と拝金主義の影響は、一方で、官製儒教の教育への取り込みが、他方で、その成功例に乗ることが出来なかった多数の底辺の都市労働者や農民工労働者の非合法な「地下教会や家庭教会」へと、流入しているのが、これ又、今日の現実であろう。中国政府による報道関係の記者の免許を更新するための再教育といい、国家による宗教や道徳への主導的な影響力の行使といい、どのような揺り戻しが、今後、その反動として、起きてくるのであろうか、目が離せない。謂わば、「諸刃の刃」であることだけは、間違いないであろう。但し、それが、どのような形で、自分自らに、向かってくるのであろうか?反日・愛国無罪とか、富める者から富めば宜しい、とか、格差是正とか、公正・平等、それらが、今日、この先、どれ程の時代としての「説得力」を有するのかは、もはや、誰しもが、疑問に思っていることだけは間違いなさそうであろう。鬱の起源が、本当に、成果物(富)の「公平・平等」という分配というものに根ざしていたという仮説に従えば、もう、今日の社会は、「総うつ状態」に陥ってしまったのであろうか?貧しくても、皆、それなりに、平等だったという思いは、もう、昔の田園風景とともに、遠い想い出と化しつつあるのであろうか?番組を視ていて、複雑な思いに駆られてしまうのは、何故だろう。



うつの起源:

2013年10月23日 | 健康 医療
うつの起源:
成る程、5億2千万年前の魚の脳の中の小さな「扁桃体」にまで、その起源は、遡るのか?本来、天敵から身を守る為に、素早く筋肉の活性化を促すストレス・ホルモンが、独自に、暴走する結果、今日の「うつ病」を惹起することになろうとは、、、、、。それは、進化の過程で、高度な集団生活と社会性との狭間の中で生じうる特殊な環境や「不安・恐怖」から、「孤独」にも作用し始め、本来時間の経過とともに、忘れ去られるべき海馬の中の「記憶」にすら、そして、それが、更には、声を発するようになってから、その「言語」コミュニケーションを通じて、不安や恐怖自体が、蓄積されるようになろうとは、、、、、。本来、「平等」であった「獲物の分配」を前提とした「狩猟」という集団行動から、やがて、それは、「農業耕作」へと発展してゆき、備蓄という形での「富の蓄積」と権力・支配者、被支配者、「貧富の誕生」という皮肉な結果に、至って行くことになる。そして、本来、公正・公平・平等であった日常生活が、不平等・富の配分の偏り・職業の分化など、人類に「心理的なストレス」を与える、明日への不安感・絶望感など、心的ストレスが、どんどん、暴走を繰り返して行くことになり、それが、やがては、魚でも、チンパンジーでも、ヒトでも、共通した症状である、「うつ状態」へと導くことになるらしい。こうしたストレス・ホルモンの異常な高い数値により、脳はやがて、神経系統に栄養が行き渡らなくなり、萎縮して終うそうである。もっとも、この理屈からいけば、余程の「原始共産主義社会」か、何やら怪しい宗教による文明を否定する「原始共同体」社会でない限り、救済されることも、治癒することもなさそうであるが、そうでもないらしい。脳の扁桃体への電磁波によるショック療法は、別にしても、薬物療法だけでは、どうみても、治癒は不可能であろう。むしろ、日常生活での「規則正しい生活と適度な運動」、生活改善の試みとか、分かち合いやお裾分けの文化等も、他人への日常の挨拶や話しかけなども、有効なのだそうである。暗くなったら、床につき、夜更かしせずに、眠る、陽が射してきたら、朝日と一緒に、起床するとか、冷や汗ばかりかいていないで、たっぷり、お陽様を浴びて、心地よい汗をかいて、肉体的に疲れたら、昼寝でもして、適当に、美味しいお酒を飲んで、多いに、他愛ないお喋りをして、農作業をして、、、、、と、この仮説的な理屈が、当たっているかどうかは分からぬが、今や、マルクス経済学者も、「平等・公平」と言う観点から、理論の再構築を図る必要があるのではなかろうか?中国やロシアに於ける国家的な宗教の再利用(ロシア正教や儒教の復古)とか、再検討の動きには、こうした仮説・観点からの分析も必要なのではなかろうか?それにしても、自分の判断で、仕事の出来るヒトは、上司の命令で、仕事を強いられるヒトに較べて、うつになる率は、少ないそうである。職業の違いも、影響することになるそうであるが、そう言えば、最近では、フーテンの寅さん的なヒトは、もう、絶滅してしまったのであろうか?やはり、勝手気ままに、我が儘放題の社長業が、一番、ストレスがないのであろうか?それとも、脳天気に、大海に漂う葦の草の如く、身を任せているのが、一番なのであろうか?(考える葦に怒られてしまうが、、、、)或いは、貧乏でも、明るく、暮らせる術があるのであろうか?それにしても、多くの人達が、今日、苦しんでいるものであることに、驚かざるを得ない。それでは、これから、一風呂、日帰り温泉で、汗とともに、ストレスも流しにでも行くとしようか?



只今、右脳、再生中!?:

2013年10月22日 | 社会戯評
只今、右脳、再生中!?:
もう、40数余年、左脳だけが、活発に活動してきたためか(?)右脳の機能が、潜在的に、あまり、働くことがなかったようである。子供達が、幼少の頃は、一緒になって、お絵かきやら、童謡を歌ったり、踊ったり、絵本を読み聞かせたりと、存外、右脳の活動も、それなりに、しっかり、機能していたが、せいぜいが、接待のためのカラオケ・レパートリーの歌唱であって、文学や絵画や音楽の分野で、右脳が、活性化されることは、余りなかったのではないだろうか?ましてや、子供達が、大きくなるにつれて、こちらの仕事も忙しくなり、やがて、長じてしまえば、さっぱり、右脳は、忘れ去られ、潜在的な機能が、低下して、リタイヤーの時まで、知らず知らず、来てしまったものである。アートな暮らしなどは、徹底的な合理化の中では、なかなか、足を地に着けて、根付くモノではないが、(まるで、キャッチ・コピーの世界のようであったが、)時間が、自由に使える身分になると、何とはなしに、右脳の潜在的な役割に頑張って貰わなければいけないと思い始めるものである。決して、嫌いであったからではないわけで、むしろ、時間的にも、なかったからなのであろうか、恵まれた大自然の環境の中にいると、自然と、息遣いと同じように、さりげなく、自然と、アートな感覚が、身にしみ込んでくるものである。空気の変化、お陽様やお月様の光と陰や、雲の流れ、風のそよぎ方、木々の樹の葉の色や臭いや色の変化など、様々な自然の変化の中で、音楽や文学やアートを愉しんでみたいという内在的な衝動が、不思議と出てくるものなのである。従って、只今、右脳再生中!?です。腰の神経の方は、どうやら、手術で、すぐに、リセット、回復済みという訳にはゆかず、ボチボチ、リハビリ回復中であるものの、右脳のほうは、間違いなく、ゆっくり、機能回復、進行中であることは、喜ばしい限りです。お若い現役の方々は、是非とも、右脳が硬直し、機能低下し、死滅せぬように、心掛けて下さい。老婆心ながら、桜の葉が、黄色から、真っ赤に、染め変わってきました。モミジも葉先が、赤く色づき始めました。里山の日帰り温泉湯治客より、



どうらくオルガン・カーニバルとマルシェを覗く:

2013年10月21日 | イベント 祭 催し
どうらくオルガン・カーニバルとマルシェを覗く:
「茶房、読書の森」でのマルシェと、音楽会である。それにしても、随分と多数のユニークな出展者の皆様達である。アート作家、「100階建ての家」のいわいとしお&田中清代ら絵本作家による読み聞かせとウクレレ演奏と歌、お絵かき、お面づくり、版画家、イラストレーター、アート作家、海外料理シェフ、カフェ出店、有機栽培野菜、果物、工芸品、陶器、等々、あれもこれもと、一寸、欲しくなるような代物ばかりである。おまけに、山羊とロバとドングリ拾いに、雄大な浅間山を眺めつつと、、、、、、、。午後の3時過ぎからは、「ロバの音楽座、梅津和時、おおたか静流によるカーニバルと田島征三、コラボ朗読」である。それにしても、野外だから、雨が降らなくて良かった。曇りであるなら、万々歳であろう。別に小さな子供がいるから、特に、精通しているわけではない。むしろ、後付けである。松本雅隆によるカテリーナ古楽合奏団なるものの現代風な音色というものは、実に、何処かで、昔聞いたことのあるような錯覚に陥るような音色である。せいぜいが、バグパイプくらいしか、楽器の名前が分からぬが、古楽ではなく、むしろ、一番新しい音楽であるそうである。松本雅隆:クルムホルン、上野哲生:リュート、サントゥール、サズ、冨田りぐま:ポルタティーヴ、足踏みオルガン、大宮まふみ:リコーダー、フルート、長井和明:セルパン、ブンパカパッパ、名前の分からぬ楽器ばかりであるが、、、、、。子供も、大人も、一緒に楽しめるような中世欧州の音色を彷彿とさせるような楽曲である。詞もなかなか、宜しいではないか、もっとも、全て、日本語によるオリジなる楽曲なのであろうか、、、、、興味深いものである。前半の第二部は、おおたか静流とサックス奏者の梅津和時によるでんでらりゅうばや花、over the rainbowなどの曲目や子供達との踊りも含めて、これも又、乙姫様のような衣装で、一段と曇り空の下、冷え切ってきた夕方に掛けて、熱唱、熱演奏であった。後半は、田島征三、絵本作家によるスクリーンに、映し出された「どうらくじん様」の絵本に、ロバの音楽座による音響効果とおおたか静流、梅津和時による、贅沢なナレーションの競演であった。子供というものは、「音楽と踊りと絵本と想像力と」を、野外の空間でも、本の中でも、十分に、自分のものとして、昇華してしまうものであることが、改めて、納得できる。大人達も、そんな小さな子供達を見ていて、自分たちも嘗ては、きっと、あんな風であったことを想い起こすのであろうか?そして、心の片隅で、あんな風に、年齢を重ねても、自由奔放に、子供の心が分かるアーティスト達のように、成れれば、最高なのだがなぁと思うのであろうか?そして、あんな風に、自由な精神を、アートの心を持って、毎日を過ごすことが出来たら、自分も、やりたいなぁとも、思うのであろうか?非日常の空間を、短い時間でも体験して、ふっと、そんなことを感じる。自分たちの子供の頃には、或いは、親たちの時代にも、勿論、こんな体験をすることは、まず、なかったことに、改めて、残念だったと言う気持を禁じ得ない。これからの子供達は、どんな大人に、育ってゆくのであろうか?そして、今回参加のアーティスト達は、将来に向かって、どんな新たな音楽を、絵本を、アートを創り出して行くのであろうか?そして、何よりも、自分は、この体験をどのように、生活の中に、いかせてゆけるのかを問われているようにも思える、そんな空間と時間である。

おおたか静流HP:
http://sizzle-ohtaka.com/category/liveinfo
ロバの音楽座HP:松本雅隆、森のオト
http://www.roba-house.com/morinooto.html



「ななつ星」という列車に思う:

2013年10月20日 | 社会戯評
「ななつ星」という列車に思う:
ななつ星であって、「七つ星」ではなさそうである。もっとも、設備のグレードだけは、「七つ星」なのであろうか?オリエント急行でもコンセプトとしては、或いは、ターゲット顧客層も、ゆったりと寝ながら、或いは、景色を楽しみながら、列車レストランで、食事をエンジョイしながら、旅を愉しむことの出来る大人の夫婦の客層を狙っているのであろうか?昔のフル・ムーンとは、どこが違うのであろうか?今日のLCC時代に、真っ向から対抗して、鉄道会社として、JR九州は、幼稚園児まで、日の丸を持たせて、総動員体制をとって、行く先々で、14組、28名の乗客を歓迎したそうである。コンセプトは、間違っていないのであろうが、果たして、そんな列車が、将来も、採算がとれて、存続可能なのであろうか?もう、今や、我々の世代くらいしか、商業ベースでの蒸気機関車に、乗った想い出を持つ人も少なくなりつつあるし、寝台列車に、あの狭い、所謂3段蚕棚の真ん中で、他人のいびきを聞きながら、朦朧としながら、途中駅で、接続や切り離しの衝撃で、目を覚ますという記憶を有する人達も、少なくなりつつあるのではなかろうか?更には、新幹線ですら、昔は、食堂車が完備されていて、指定席がとれないときには、ずっと、出張帰りの反省会をビールとお酒をつまみに、上司と飲み・討議し続けたことがあったことすら、今の現役の若い人達は、知らないのかもしれない。何故、先細りの年寄りのノスタルジアを覚まそうとするマーケティング手法で、何故、若い人達にも、大勢の人達にも、こうした経験を体験して貰うようなマーケティングではないのであろうか?よく分からない!アニメのラッピング列車も結構だが、第三セクターに移行してから、せいぜい、3時間程度の列車の旅であれば、まさに、景色を眺めながら、地産地消の地元農家レストラン列車を運行した方が、お酒も飲めるし、ドライブで、道路の渋滞を気にすることなく、往きも帰りも、列車で、美味しい料理やジビエ等と地酒やローカルのワインで、景色を堪能して、或いは、サイクリング車も乗せられるようにとかすれば、それはそれで、ローカル列車の旅も、面白いのではないかと思われるが、採算上、無理なのであろうか?企業誘致などよりも、ずっと、可能性が高いような気もするが、、、、、、、小海線で、ゆっくり、3時間ほどの往復の旅をこうして、過ごしてみたいと思うのは、ただ、私1人だけであろうか?薄れ行く記憶を止めるキンキラ金権設備の列車よりも、日の丸の旗を一生懸命に振る幼稚園児達が、未だ、知らないであろうあの楽しかった食堂列車の旅を、駅弁も含めて、味わえるような列車の旅のハード・ソフト両面の企画を、ローカル列車の旅に、期待するのは、無理なのであろうか?パーク&ライドの設備もそうなると必要であるが、、、、、、、。3泊4日で、30-50万円ではなくて、日帰り、バス旅行並の費用+程度のものが、可能ではないだろうか?どんなものだろうか?そういう事例の発想は、長野県観光には、ないのであろうか?新幹線の延伸を危惧するのであれば、そういう取り組みこそ、観光の一端を担うモノではないかとも思われるが、、、、、、、、。



米国デフォルトの危惧とティー・パーティー:

2013年10月19日 | 社会戯評
米国デフォルトの危惧とティー・パーティー:
一体、民主・共和、どちらの言い分が、正しくて、どの情報が楽観視し過ぎていて、或いは、どの情況分析が間違っているのか、最終期限を前にして、一向に、先が見えてこない。国民皆保険制度が、当たり前になっている今日の日本では、今更ながら、オバマ・ケアーの目指す方向性に、何故に、反対し、共和党の保守派を自認するティー・パーティーが主張する弱者の分までも、何故、自分が負担しなければならないのかという理屈は、なかなか、理解しがたいものがある。その延長線上で、連邦予算を人質にして、期限ギリギリまで、債務の上限の引き上げに、反対するという戦術は、何処かの国で、つい先頃まで、経験したような気がしないでもない。それにしても、民主主義というものは、複雑怪奇、厄介な代物である。報道によると、デフォルトの状態も、実際には、まだ、その段階でもなく、実質的には、まだ、これから、先になる可能性もあるとか、、、、、一体、全体、どの情報を信じれば宜しいのであろうか?既に、欧州系の格付け会社は、米国債を格下げしたにもかかわらず、肝心の米国系格付け会社各社は、さすがに、まだ、二の足を踏んでいるようである。これまで、散々、アイルランドやギリシャの財政危機を声高に、論じてきていた張本人達が、本家本元の自国のデフォトの危惧と可能性に関して、むやみに、格下げするわけにも行かないのであろうか?それにしても、政争の具と化してしまったかのような米国議会を見ていると、この先、米国という国は、どこへ向かって行くのであろうかと、その影響力の大きさに、心理的に、不安に陥るのが、マーケットの常であろう。今や、経済システムは、何処かの遠い国で、クシャミをしても、それが、巡り巡って、必ず、いずれは、或いは、即時、影響を及ぼすのが、現代のグローバルな国際的な経済・金融システムである。ここ一両日、どういう展開を見せるのか、週末を前にして、目が離せない。もっとも、どうやら、回避されたようであるが、次回の山場は、1月15日、2月7日と、次から次へと先送りで、頭が麻痺してきてしまいそうである。それにしても、日本は、一人、笑ってみていられる立場でもないが、、、、。マーケットは、そういうことも、又、織り込み済みなのであろうか?個人の価値観と国家観との狭間で、結局連邦政府職員と弱者は、板挟みに遭うという危惧が常に存在する「自由もある」と言うことが、民主主義なのであろうか?



CSファイナル・ステージとテレビ中継:

2013年10月18日 | スポーツ
CSファイナル・ステージとテレビ中継:
それにしても、楽天イーグルスの田中将大投手の24連勝・無敗記録というものも、すさまじいし、広島カープの地元でのテレビ視聴率が40%を超えたというのも、これまた、驚きである。それにしてもである。私は、一度も、田中投手の投げる姿をテレビで、見たことはないし、これ程、注目を浴びているのに、巨人の試合しか、中継放送されていないのは如何なものか?これでは、プロ野球というものも、確かに、人気が低迷してしまうのも、仕方ないことであろう。誰しもが、ファンならずとも、田中投手の投球を、クライマックス・シリーズで、一体、どんな投球をするのか、見てみたいと思うのが、本音ではなかろうか?スポーツ専門チャネルのようなチャンネル契約をしていなくても、どこかの局で、急遽、中継放映するというような企画もないのであろうか?実に野球ファンとしては、残念である。飛ぶボールの問題と言い、こうしたテレビ中継といい、何とも、プロ野球人気の行く末が、心配である元野球少年達は、多いのではなかろうか?仕方ない、田中投手が、日本シリーズにでも進出すれば、その時は、必ず、巨人(?)を相手に、どんな投球をするのかをテレビで見れるだろうかな?(広島カープファンには、怒られそうであるが、、、、、、。)むろん、巨人ではなくて、広島でもおおいに結構ではあるが、、、、。さすがに、ヤフーでは、ネット中継はしてくれないでしょうね!残念!そんな感慨を持ってしまった。



台風被害による停電に思う:

2013年10月17日 | 社会戯評
台風被害による停電に思う:
子供の頃は、台風の準備には、ろうそくとマッチは、停電に備えて、何とはなしに、ソワソワ、ワクワクしたしたものであるが、台風の強い風によって生じうる松食い虫の倒木による電線の切断、停電や、道を塞いでしまうのには、何とも、手の打ちようがない。今朝起き抜けに、テレビをつけてもうんともすんとも反応しない。さては、停電かとおもいきや、インターネットのルーターも、電気がともっておらず、ダウンしてしまっている。電力会社の事務所に、電話確認すると、広範囲で、停電の復旧に、鋭意努力中であるとの説明があった。何とも、こちらでは、対応のしようがない。前夜の風雨によって、そこかしこに、松の枝やドングリの葉っぱやら、散らばり放題である。結局6時間ほど経過してから、どうやら、復旧したらしい。大都会だったら、大変な騒動であろうと想像に難くない。その間、ネットも、使用できず、携帯電話の電源確保も、念の為に、自動車の電源から、充電することにしたが、、、、、、、。冷蔵庫も、切れてしまい、考えてみれば、全て、電気が支えている社会なのであることを痛切に、思い知らされる。金融機関やデータを扱う会社は、自動バックアップ電源があるのであろうか?電力会社も、倒木を処理し、枝を処分し、電線を補修し、配電盤を復旧させて、、、、、、と、なかなかの作業であろう。夕方には、車の窓から、山側に、綺麗な4半円の虹が架かっているのが見えた。明日は、玄関周りと道路の落ち葉掃きをしないと、駄目かな?りんごやブドウの被害は、大丈夫だったであろうか、おおいに、心配である。気温も、一挙に、下がってくるのであろうか?