小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、<山中静夫氏の尊厳死>を観る:

2019年09月22日 | 映画・テレビ批評

映画、<山中静夫氏の尊厳死>を観る:

原作が作家・医師でもある、南木佳士(なぎ・けいじ)による同名の原作(文春文庫)で、過去に、<阿弥陀堂だより>という原作に基づいた映画があることを思い起こす。そういえば、その映画のロケ地の飯山の里山の阿弥陀堂を、観に行ったことを想い出した。それにしても、地方の映画館で映画を観るときには、ほとんど、観客が平日であれば、数人か、せいぜいが、10人以下であるのに、この映画は前売りであること、しかも、初日の主演男優監督他の舞台挨拶もあると謂うことで、全館満席であること自体に、驚きを禁じ得ない。

よい映画というモノは、その映画のテーマ次第では、まだまだ、映画も捨てたモノではなさそうである。原作・俳優・演技・テーマ・監督・脚本・情景、など、それぞれ相互にかみ合えば、興業も、成功するモノであろう。それにしても、<人生の最期を自分の意思で生き抜くことの意味>とは、安楽死でもなく、尊厳死とは、ホスピスでもなく、中村梅雀演じる元郵便配達員の婿養子の末期肺がん患者(山中静夫:中島静夫)の最期を看取るとは、そして、津田寛治演じる呼吸器科の担当医師自身も、<その余りに、職業的な立場から故の真摯な数多くの患者の死との向き合いから、自らうつ病を発症してしまう>という状況のなか、家族の葛藤も含めて、信州の浅間山を望む佐久市の病院を舞台に、<人間が死んでゆくことの意味>とは、何であり、<最期まで生き抜く>という意味は、<楽にして下さい>とは、必ずしも、安楽死ではなく、個人の尊厳を、どのように尊重しながら、未来への希望とともに、<死を迎え、受け入れるのか>ということを考えさせられる。<楽に死ねるような気がして、ふるさとの山をみゆ>という辞世の句の中に、山頭火のような句の似たような心境を見いだし、<わたしには、やっておきたいことがある>という患者の自分のお墓を創るという最期の望を叶えさせてあげたり、医師という存在は、単に、看取るだけではなくて、それなりの医療技術と共に、患者との或いは、その家族との心の信頼関係も含めて、患者だけでなく、同じように、<担当医師自身にも、様々な身体的・精神的なダメージが蓄積されていく>ことが、うつ病の発症に至ることからもわかる。

そういえば、亡くなった母が、入院していた介護施設付属の病院の医師が、死亡通知書を受け取りに言った際に、<自分の仕事は、患者を再起させても、せいぜいが、介護施設に戻せるか、看取るか、どちらかで、この葛藤の中で、医師として、勤務しなければならないことを理解してもらいたい>と言っていたことを思い起こす。石丸謙二郎演じる病院の事務方による浅間山が眺望できる患者の病室の移転要請を断る場面も、他の患者の手術実施を延期する希望を受け入れ、後日、病状の悪化により緊急入院する事になることも、患者ファーストで有り、自分のことは、セカンドであること、又、受験期の子どもとの会話も、こどもの自主性を尊重した対応にも、もっとも、夫婦間の会話は、やや、最期の場面以外には、やや、気掛かりなものがあるように描かれているが、、、、、、。中村梅雀は、役作りのために、6キロの減量をしたとかで、もっとも、津田寛治の方は、それをもっと上回る減量を実施したと、舞台挨拶の中で、言っていた。幼なじみ役の浅田美代子も、患者の妻役の高畑淳子も、脇役の中で、それなりの存在感を発揮していたし、医師の妻役の田中美里も、いかにも、息子を心配する典型的な医師の妻役を演じていて、抑え気味で脇を固めている。

舞台挨拶で、梅雀は、患者の呼吸の仕方を相当演技の上でも、工夫したそうで、腹水が、溜まって抜くシーンでも、色々と演技に細かく生かされている。先日、NHKのファミリー・ヒストリーで、大河ドラマの花神の大村益次郎役の父、中村梅之助の懐かしい場面がでていたが、役者としては、父にだんだん、似てきたという言葉が、好きではないらしい。確かに、役者というモノは、<自分は、自分でありたいモノであろう>ことは、確かであろう。今回の映画でも、末期がん患者の生き様というか、死に様を、思う存分、演じたような気がしてならない。むしろ、私は、患者が、ずっと、気を遣って生きてきたように、同じように、津田寛治演じる医師こそが、病院で、日々、気を遣いすぎて、鬱症状を発症してしまう課程での演技は、動作、顔色や、ボサボサの髪型だけではなくて、減量だけではなくて、しっかりと、台詞にも、演技にも、反映されているように感じられた。

夕暮れの情景も、小海線の電車も、千曲川を背景とした四季折々の浅間山の情景も、季節の流れを暗示させる木々の色も、その眺望が素晴らしい病室が、実は、佐久市の会議室内に創られたセットであることも、忘れてしまいそうである。

主題歌は、小椋佳、作詞・作曲の<老いの願い>で、村橋監督やプロデューサーによれば、年末までは、佐久市だけの上映に限定され、来年から、東京銀座で、順次、全国上映になるそうで、何度も、映画を観に、歌を聴きに来てもらいたいと、その先には、海外へも、上映を拡げてゆきたいと、、、、、、。舞台挨拶で、アッピールしていた。

両俳優、並びに製作チームの今後の活躍を祈りたいものである。

 

梅雀のひとりごと:ブログ参照下さい。ミュージシャンの側面も意外な一面である。

https://blog.goo.ne.jp/baijakujaco/e/689e00f7e601ce33c3d9f67bf3cfd6af

 


映画、<人間失格 太宰治と3人の女>を観る:

2019年09月18日 | 映画・テレビ批評

映画、<人間失格 太宰治と3人の女>を観る:

演出家の蜷川幸雄を父に持つ、蜷川実花監督による映画で、独特な映像手法と色彩感覚に溢れた中で、この重い主題をどのように表現しているのかということで、観ることにした。主演の太宰治に、小栗旬、妻の津島美知子役 宮沢えり、大田静子役 沢尻エリカ、山崎富栄役 二階堂ふみ、脇役陣を 坂口安吾役 藤原竜也、三島由起夫役 高良健吾、編集者役 成田凌、等が、固めて、お友達キャスティングに近い若い俳優陣達で、製作されている。

確かに、映像美としての数々のシーンは、初めの真っ赤な彼岸花が咲き誇る中で、子供達と歩く姿から、最初の入水自殺に失敗した、海岸での生還するシーンへと、等など、色彩感覚の表現は、確かに、写真家出身の才能が映像表現にでも各シーン、各シーンに、十二分に生かされているように思われる。

自明の史実に即しながら、重いテーマである、<堕ちるというコトとは、>或いは、<家族というものとは、>更には、志賀直哉、川端康成、井伏鱒二、等は、人物としては映画にでていないが、太宰の台詞として、表現されているものの、残念ながら、主題が、<太宰治と3人の女>ということである以上、三島由紀夫(高良健吾)や坂口安吾(藤原竜也)との議論は、なかなか、文学史的には、興味深いモノであって、残念ながら、史実通りかどうかは分からぬが、もう少し、深掘りを期待する観客には、一寸、物足りないものがあろうか?

どうも、小栗旬には、濡れ場が不得意そうに見えて仕方がない。これでは、沢尻エリカ様から、或いは、女性監督である蜷川実花監督からも、多少のクレームはつかなかったのであろうか?もう少し、ぐいぐいといっても良いのでなかろうかと、勝手に、観る側は、そんな風に受け止めてしまう。個人的に言えば、妻の役の宮沢りえの静の演技と、最期に入水自殺する山崎富栄役の二階堂ふみの情念の演技には、光るものがあり、評価されてしかるべきであろう。

太宰役の小栗旬が発する、<人間は恋と革命のために生まれてきた>他、これらの台詞の言葉も、どうも、流れの中で、重く受け止められないのは、どうしたモノであろうか?本という中で、同じ言葉を読者が、受け止めるインパクトと、映画の中で、俳優が発する台詞を介して、受け止めるものには、<どこか、違い>が生じるモノなのであろうか?

後年、大田静子の日記にもとづいた、その娘である大田治子による、<斜陽日記>の刊行をみても、この当時の小説を書くと言うことに対する苦悩と実生活で身重の妻と愛人の出産という同時進行は、いかばかりのモノがあったのであろうか?

 <人間は堕ちる、生きているから堕ちる>、<壊れてないと書けないんです、小説なんて>

<愛されない妻よりずっと恋される愛人でいたい>、<私赤ちゃんが欲しい>、

<人間は恋と革命のために生まれてきた>、<死ぬ気で恋、する?><おまえを、誰より、愛していました>

<本当の傑作を書きなさい>、<あなたは、もっと凄いものが書ける>、<壊しなさい、私たちを>

<死にたいんです一緒に>、<行き詰まったら、みんな死ねばいいんです>、<私と彼にしかできないことがある>、<戦闘、開始!>、<生きなくていいです>

<私ばかりが幸せでごめんなさい>、

<ぼくは太宰さん文学が嫌いです>、<たかが不倫じゃないですか>

 もし、太宰が、この映画を観たならば、どのようなコメントを寄せるであろうか?それにしても、自分が誕生した頃の時代・地理的な背景を考えると、成る程、そういう時代だったのかとも、想像される。もう一度、読み返してみるとしようか、、、、、、。