小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

イサム・ノグチ・ルーム他、三田キャンパスでの美術鑑賞会:

2016年03月31日 | 社会戯評

イサム・ノグチ・ルーム他、三田キャンパスでの美術鑑賞会:

杉並三田会の分科会である『美術鑑賞会』の定例会参加で、これまで、気が付かなかった学内の貴重な美術収蔵品を、解説付きで、観賞することが出来たのは、有難いことである。何でも、今回は、三田キャンパスに保存されている、著名な彫刻家イサム・ノグチの「ノグチ・ルーム」を特別に公開していただき、調度品も含めて、新校舎内に移築保存されている部屋を鑑賞するとともに、解説を、慶應義塾大学の渡部葉子アート・センター教授にお願いして行って戴くということであった。その前に、まず、最初に、渡部先生に解説レクチャーを受け、その後、大学構内を歩いて「ノグチ・ルーム」を特別見学、併せてキャンパス内のイサム・ノグチ、猪熊弦一郎等の彫刻も鑑賞出来るというものであった。全く、学生時代には、そんな貴重な美術所蔵品が たくさん、構内にあるとは、つゆ知らずに、過ごしたものである。知らないということは、恐ろしいことで、別に、知らなくても、生きていけることに違いはないのであろうが、折角、そこに学んでいる学生や卒業生には、やはり、その歴史的な経緯を知って貰っても、決して、損はないであろう。うすうす、ノグチ。ルームなるものの、存在は、知っていたが、それが、何処になり、又、有名な、『無』の石像の意味も、或いは、戦後の空襲から復興する過程での建築物や構内に置かれたブロンズ像、新旧図書館にさりげなく飾られているステンドグラスも、絵画にも、更には、萬来舎に置かれた美術品なども、確かに、謂われなければ、明治期と江戸期の文化・芸術の融合が見られるも、説明を聞かなければ知らないことばかりであった。自らの血筋と、父親との葛藤と、日米間の政治的な戦争と歴史の狭間に、親指と人差し指を丸く、円環に、交差させた中には、『禅の思想』が、密かに、その底流には、込められていることなど、成る程、知らなければ、それで済んでしまうことも、知れば知るほど、奥深いものである。螺旋階段の微妙な傾斜も、何でもCADで計算するのではなくて、人の手で、設計することで、微妙な趣がそこには、現れてくるそうであり、フォルムとか、使い勝手とかいうものは、微妙に、今日の一律的な機能中心の無機質のオフィス・ビルに似たものになってしまうのかも知れない。その意味で、空襲を奇跡的に免れた三田演説館の建物の脇にひっそりと置き去りにされた感じがあるノグチの旧ルーム跡地のフォルムも、こうして、眺めてみると、なかなか、趣があるようである。現役の学生、卒業生も、或いは、一般の人も含めて、観賞に充分堪えうる所蔵美術品、建築学的にも、大変興味深いものである。美術品のみならず、建築様式というものも、詳しく解説されてみると、吹き抜けや、階段にも、様々な趣向が凝らされていることを、設計者の往事の思いが、感じられて、大変、感動してしまうものである。高松の庭園美術館も、訪問してみたいものである。それにしても、藤田嗣治ではないが、イサム・ノグチにしても、日本という国は、世界的な才能を、戦争という特殊な状況を差し引いたとしても、どういう訳か、受け容れがたい風土が、あるのであろうか?桜の花も開花して、旧図書館の写真を思わず、撮影してしまった。


Snow Money Park で考える:

2016年03月30日 | 社会戯評

Snow Money Park で考える:

何でも、外国人観光客に、長野県でも人気が一番である『地獄谷野猿公苑』を見たいというAirbnbで宿泊している外国人がいるので、ご相伴ではないが、こんな機会でもないと、Snow Monkeyを見ることはないであろうと、その人気を自分の眼で確かめに、一緒に、車で、行くことにした。高速道路でいえば、長野の先の信州中野ICを降りて、渋温泉経由で、ショートカットしようかと思えば、冬季期間は、通行止めで、結局、上林温泉経由で、駐車場に、車を止めて、そこから、杉の木の生い茂る1.6キロばかりの遊歩道を、結局、30分以上徒歩で、ぬかるんだ泥道を登ることになった。最後の硫黄の臭いがかすかに感じる渓谷の上流には、急峻な石の階段があり、ここを登り切ると、切符売り場で、その先に、野生の猿が入ると謂われている湯治場(?)が、見られるという。成る程、実際に来てみると、とんでもないところである。こんな硫黄の臭いの立ちこめる急峻な渓谷に、野生の猿が食べるような食料はなく、こえでは、かつて、里に下りてきて、害獣になってしまうのが、関の山であろうか?これを見事に、逆手にとって、住民が餌をやりながら、猿の集団を囲い込みに成功する、ここまでは、考えられないことではない。しかしながら、そこから、どのように、観光資源としたのであろうか?アクセツ用の遊歩道と、webカメラによる生中継とか、ICTを駆使した情報の発信やSNSを活用したことなど、ハードとソフトの両面から、プロモーションを施したことが、一挙に、世界を相手に、観光資源として、こんな山の中を、一大世界的な観光地に仕立て上げたのであろうか?日本人でも、恐らく、地元の人などは、多分、ほとんど、対象にはならず、というのも、80%以上が、外国人観光客で、せいぜいが、20%程度で、それも、長野県以外からの所謂県外のナンバーが多いように見受けられた。駐車場の傍には、ちゃっかりと、外国人観光客をターゲットにした、寿司ロールとラーメンを販売するカフェが、オープンしている。しかも、外のメニュー案内は、写真入りの英語で、書かれていた。もうこうなると、ブーメラン効果ではないが、ガイジンに弱い日本人には、ガイジンがよいというのだから、きっと、面白いのはないだろうかと、思って、訪問することになるのかも知れない。まさに、私の場合は、このパターンに該当しようか?パンフレットも、英語語・中国語・タイ語とバラエティーに富んでいて、面白いものである。ここには、まさに、歴史旧跡とは全く異なる、人工的な観光地の海外への売り込みの仕方のノウハウが、隠されているようでいて、実に面白いが、果たして、本当に、これで、カネが、巡り廻って、雇用創出にも、役立っているのであろうか?後、10年もすれば、きっと、泥道も、アスファルト化されて、バリア・フリーに改善されるのであろうか?

 


ザッカーバーグに、中国での勝算は、あるのか?:

2016年03月27日 | 社会戯評

ザッカーバーグに、中国での勝算は、あるのか?:

自分自身の個人資産から、中国系の妻とのあいだで、長女が生まれたというので、世界一の寄付金を社会還元に、実施することにしたというニュースを聞いたときには、成る程、この若者は、大したものであると米国内のネチズンのみならず、世界中のフェースブック利用者のほとんどが、その時には、賛同したようである。しかしながら、中国当局のネット規制の網をくぐるかのように、あのPM2.5の濃いいスモッグの中で、紫禁城前を、公然と、ジョギングする写真が、アップされるとは、そして、当局と後日、公然と握手するさまには、その落差に、米国系ネチズンのみならず、一体、この若者は、どんな思惑で、そんな行為を行ったのであろうかと、批判されるのも、理解出来ないわけではない。確かに、天安門事件以降、フランスや欧州へ、逃れた一部の活動家やその支援者達には、まさに、これ以上の裏切りとしか、その目には、見えてこないのかも知れない。香港での出版社の越境拘束や、新聞記者や民主家・弁護士への厳しい拘束や取り調べなど、一連の習金平体制への批判封じの流れが、今、まさに、現在進行形であるにも拘わらず、何故、この若者は、こんな諸行に、突然、打って出たのであろうか?所詮、何処かで、近い将来、その大きなツケが、回されてくることは、間違いないであろう。それを差し引いても、一体、どのような思惑が、あるのであろうか?日本では、既に、若者の中で、フェースブック疲れという一種の社会現象が、見られ始めているのに対して、中年や老人達が、むしろ、増加しつつあると謂われている。今回のザッカーバーグの行動に対して、FBIの情報提供要請に対するアップルのiPhoneのロック解除を断固、拒否するという会社方針は、実に、対照的である。何も、アップルが解除拒否したところで、どうせ、イスラエル辺りのハイテクIT企業が、密かに、ロック解除の技術的な協力を行うことは、実に、見え見えで、初めから、アップルと当局との出来レースであるに違いないことは、明らかである。アップルは、秘守義務を守り、当局は、テロ対策への情報提供という理解を、双方とも、しっかりと、獲得できるわけである。それに対して、ザッカーバーグによる、まるで、ゲッベルスと握手するようなさまは、一体、どのような双方の思惑が、相互利害一致を見たのであろうか?それとも、実は、同床異夢の大いなる闘いの始まりなのであろうか?ここは、感情的にならず、冷静になって、事態の成り行きを見守る必要があるのかも知れない。もっとも、膨大なFBの情報までもが、中国当局の手に入らないという保証は何処にもないが、、、、、。サイバー空間での闘いに、過日、一敗地にまみれた習金平は、オバマにしてやったりというところなのであろうか?それとも、何か、ザッカーバーグには、全く、別の思惑と大いなる次の野望が、あるのであろうか?オバマと事前の打ち合わせは、果たして、なかったのであろうか?依然として、マス・メディアは、紋切り型の分析と報道しか聞こえてこないが、、、、、、、、。


Japan Information というカテゴリーで英文ブログを創る:

2016年03月26日 | 旅行

Japan Information というカテゴリーで英文ブログを創る:

酒と食事をとりながら、若干、世代の異なる近所の住人達による話の中で、海外からやってくるInboundの人達に、日本のよいところを、ガイド・ブック風ではなくて、文化や歴史、生活、地域社会紹介も含めたそんな英文のブログがあれば、私達でも、コメントを英文で、載せやすいというそんな、無茶ぶりが、酒の程よい酔いに紛れてか、或いは、どさくさに紛れて、出てきたものだから、一同、うち揃って、ペン・ネームまでも、含めて、何人も、候補名があがり、終いには、とある名前に、全会一致(?)で、盛り上がった末に、知らぬ間に、結着してしまった。そんなこんなで、それでは、ボランティアの活動の一端として、人肌脱がざるをえないということで、これまでに、書きためておいた、文化や、外国人観光客に、口頭で、説明してきたような事柄を、記憶を頼りに、簡単な英語で、(難しい表現は、出来ませんので)、したためてみようということにしました。

 

Komoro Diary By Andre というタイトルです。

 

http://nkmrimc.wix.com/komoro-diary-andre

 

Legend of Nunobiki Kanno

SANADA Samurai Battle Field Festival: March 22, 2016

Sushi & Tempura as Original FAST Foods ?! : March 21, 2016

How to enjoy ONSEN, Hot Spa, in Japan ?: March 20, 2016

Enjoy local amateur Kabuki Performance: March 19, 2016

Thinking of Japanese ZOUKIN: March 16, 2016

 

布引伝説、真田祭りでの火縄銃、寿司・天ぷらの歴史、温泉の効用、愉しみ方、祢津の田舎歌舞伎、日本の雑巾、等…、思いつくままに、、、、、。未だ、完成とは言い難いので、ボチボチ、やっていこうかと考えています。これからは、一人に限定するのではなくて、有志が集まって、藤子不二雄A.B ではありませんんが、複数のアンドレなる人物が、寄稿する方式も宜しいのではないかとも考えています。はてさて、どうなることやるお楽しみです。

御笑覧のうえ、奇特な方には、リンクやシェアーをお願い致します。

爆買いの旅行者は、対象外とさせて戴いておりますので、ご容赦下さい。

 

 


老人よ!惜しみなく、その『無形資産』を若者に与えよ!!:

2016年03月25日 | 社会戯評

老人よ!惜しみなく、その『無形資産』を若者に与えよ!!:

先日、武石村の信州せいしゅん村のある会議に、後輩が、フィールド・ワーク実証調査の場が、なかなか、見つからないので、そのきっかけになるようにと、紹介し、一緒に、参加させて戴いた。考えてみれば、若い時には、政治的にも、社会的にも、随分、我々若者は、よい意味でも、悪い意味でも、(もっとも、ちっとも、悪い意味などとは、その時には、全く、考えても、感じてもいなかったというのが、真実であるが、)親も含めて、ご迷惑をお掛けした以上、歳をとってからは、如何ほどのその経験とノウハウと人脈ネットワークなどを、謂わば、『無形資産』という形で、惜しみなく、社会的な還元で、社会的な貢献とは、云いたくはないが、とりわけ、若い人達には、もっと、手を差し伸べる、そういう場が、SNSでも、現実空間でも、必要なのではないかと、最近、ひしひしと、自分の体力の衰えを感じると共に、その感慨が日増しに、強くなってくる。とりわけ、老人体操教室に参加していると、とても、健康的で、気力体力が充実していて、実に、これらの『老人パワー』は、人口構成からしても、(もっとも、いずれは、フェード・アウトしてしまうけれども、)それまでは、女性の活用なども必要であるが、年寄りに、もっと、お金を使って貰い、個人の有する『無形資産』を、惜しみなく、若い人達に、活躍する場を、機会を、創り出して、そこで、一緒に、『歳をとっても、役に立つという悦び』を感じて貰うことが、まさに、地方の創生の根幹であり、人が集い、カネが循環して、新たなノウハウのICTを活用したハイブリッド・進化形が、生まれ出てくるのではないかと、そんな予感がしてならない。都会での若年貧困対策支援の炊き出しも結構であるが、所詮、一過性の対症療法で、根本的に、何か、新しい起業が生まれるわけではなくて、せいぜいが、『貧困ビジネス』程度ではなかろうか?もっとも、そこには、補助金や税金が、うまく、循環しているわけであるから、なかなか、頭のよい起業家がいるものである。ヤクザに、コンサルタントが雇われていたら、まさに、お薦めなのかも知れない。それはさておき、地域に、カネが落とされ、循環して、若い人達が、或いは、外国人が、やってきて、文化を、芸術を、当たり前の、当たり前な生活を、暗闇を愉しみ、樹木を改めて根元から、てっぺんまで、見渡して、その根の張りかを想像してみることも、そういた都会では、公園にゆかなければ、味わえない様な普通の体験に、実は、『無限の価値』が在ることに、私達は、気が付いていないのかも知れない。爆買いなどという一過性の経済効果ではなくて、持続可能性を有する、無限の循環型の、広く、カネも循環し、深く、精神的にも、その地方に棲む人達が、或いは、やってくる人達が、相互に、インターアクティブに、『日常性に潜む何気ない価値』に気が付けるような、『そんな工夫』が、そこには、求められているのではないかと、最近、つとに、思いを強くする。『それは何か』は、これからも、若い人達とともに、一緒に、創り出してゆきたいものである。その意味からも、老人よ、無形資産を、惜しみなく、与よ!と声を大にして、云うだけでなく、ボランティアの行動・奉仕という形で、汗をかきたいものである。(冷や汗では、決して、ありませんよ。) 下流老人などと謂う概念には、こうした『無形資産』が、見逃されていて、残念でなりませんね。そんなに有形資産とフローばかりが、尺度ではないと思います。そうかといって、精神的すぎる、メザシや『清貧』でも、カネは生まれないし、勿論、廻らないし、そんなところには、人は来ませんね。無形資産を、(よい意味で、提供して貰う) 盗み出すには、どんなオレオレ詐欺が、必要なのかを、考えてみる必要性はありそうである。詐欺師に、一度、質問してみるのも、必要かも知れません。

 


官製春闘も腰折れか?:

2016年03月24日 | 社会戯評

官製春闘も腰折れか?:

どうやら、潮目が変わってきたのであろうか?何でも、トヨタではないが、為替のレートが、1円でも円高になろうものならば、400億円もの利益が、一日で、吹っ飛んでしまうと云うではないか、流石に、官製春闘の音頭取りも、今年は、原油安と中国市場の先行き不透明さや、マイナス金利の影響なのか、ここへ来て、腰折れの様相を呈し始めてきた。実質賃金の上昇も、これでは、あまり、期待できずに、ズルズルと、消費者心理も冷えてきて、トルクダウンも、全く、一番下のシャンパン・グラスには、こぼれ落ちてこず、一体、シャンパンは、何処に行ってしまったのであろうか?消費マインドも、この先、V字回復ることもなさそうな状況になりつつある。ここへ来て、再度の消費税の延期の議論も、海外の著名な学者先生の意見を聞くという形を演出することで、衆参同時選挙選挙を想定した政治日程へと、すこしづつ、舵取りが、微妙に変わってきたモノである。もうすっかり、ここへ来て、成長戦略とか、三本の矢とかという言葉も、聞かれなくなり、政治的なスキャンダルや、軽率な発言が、目立ち始めてきて、政治も、経済も、潮目が変わりつつあるのであろうか?一強多弱の中で、一体、どのタイミングで、伝家の宝刀は、抜かれるのであろうか?そして、その時の争点とは、はっきりとシメされるのであろうか?それとも、争点隠しやぼかしを図られるのであろうか?

 


ネコノミクスという奴:

2016年03月22日 | 動物・ペット

ネコノミクスという奴:

別に、自分は、18年余も犬を飼っていたから、イヌ派とか、否、ネコ派だとか、という論争に、荷担するわけではないが、何でも、今や、ペットを飼う時に、猫の飼育頭数の方が、犬を上廻る勢いで、その出版物やペット用品などの関連グッズなどを、含めると、今や、2.3兆円を超える程の経済的な効果をもたらすという試算が、喧伝されている。どのように、数字を計算されているかは、定かではないが、消費者マインドが冷え込んでいて、消費購買動機が、低迷化しているというのに、どうしたわけであろうか?まだまだ、売る側には、消費者のマインド分析なるものが、実は、不足がちであるということの反面的な証左にもなりうるのであろうか?それにしても、イヌとの比較では、トイレの躾が、それ程、必要なく、散歩や運動も、少なくて済むし、ペットフード代や、医療費も、イヌに、較べると、相対的に、安上がりらしいし、『ツンデレ』と謂われるが故に、人間関係(?)も、それ程、べったりせずに、勝手、気儘に、自由奔放に、時に、ツンとしていて、時に、デレっと、すり寄ってくる、そういう関係性が、何とも、ネコ好きの人達には、堪らない、魅力だそうである。何とも、人間社会を、そのまま、投影したような姿で、面白いと言えば、ペットに、『癒やしを求める』という一面も、毎日の現実のストレス社会を、垣間見る思いである。それにしても、いつの時代も、人間さまの都合のよいように、何事も、商品化されてしまい、我が輩は猫である、とばかりに、ほざいたとしても、結局は、人間商品社会という枠内の中でしか、猫も犬も、生けて行けぬ存在なのであろうか?もっとも、それを創り出した人間自身が、そのことに、一番、気が付いていても、素知らぬ顔をしているのかも知れないが、、、、、、、。突然、病気になったり、歳をとって、呆けの介護が始まると、仮想の癒やしの世界から、『命』という尊い現実の世界に引き戻されてしまう。

 

 


日本人、中国研究学者の失踪、再び!:

2016年03月21日 | 社会戯評

日本人、中国研究学者の失踪、再び!:

朱 建栄なる人物の失踪も、既に、人々の記憶から、遠くなりつつあるが、2013年、この人物も、所謂、中国による対日本への宣伝工作員として、マスメディアにも、結構露出していたにも拘わらず、突然、二重スパイとしての嫌疑(?)をかけられて、中国出張中に、失踪し、帰国後は、それっきり、マスコミには、露出することがなくなった。一体、この事件の真相は、実際、どういうことだったのであろうか?一向に、マスコミからは、中国を意識しすぎてか、どうかは、分からぬが、闇の又、闇である。あれから、香港の出版業者やら、不正腐敗を暴く国内の出版業者や、民主・人権活動家、弁護士などを、次々に、越境検挙し、その習金平への批判封じを、徹底的に、推し進めたり、外国人に対する反スパイ法を強化したりと、人権・出版報道の自由への圧力を強めている矢先に、今度は、法政大学の趙 宏偉教授が、北京出張中に、失踪したそうである。明らかに、この背景には、一連の流れが、底流としてあることは、間違いのないところであり、日本は、断固として、自国民の海外での安全・保護という観点から、徹底的に、調査・抗議すべきであろう。その理由と現状報告を、明らかに、すべきであろうことは、当然であろう。本当に、こんなことをする国が、相互・互恵的な共通の価値観を有するに値する隣国なのであろうか?何故、こういう経緯に至ったのかを、はっきりと、公表されて然るべきであろうと思われる。北朝鮮による日本人拉致という過去の自国民に対する基本的人権を守りきれなかった日本という国は、一体、海外での日本人をどのように、平時でも、守り切れるのであろうか?その政治的な力量が問われかねない。何とも、不可解な失踪事件であろう。双方の政府から、何も、聞こえてこないのが、実に、気持ちの悪い話である。

 


偽名と芸名と源氏名とビジネス・ネームとゴースト・ライター:

2016年03月20日 | 社会戯評

偽名と芸名と源氏名とビジネス・ネームとゴースト・ライター:

こうなってくると、今や、何が何やら、さっぱり分からなくなってしまう。相手の名前を聞いたときに、本当に、その名前は、体を表しているのでしょうかと、思わず、聞きたくなってしまう。ショーン・マクアード・川上なる人物が、何でも、経歴詐称とかで、問題になっている。『詐称』自体が、問題であることは、誰しもが、認めることにしたら、それ以外には、一体、何が、本質的なところで、問題なのであろうか?考えてみれば、ペン・ネームというものも、決して、詐称ではなかろう、そのように考えてみれば、日本社会というものは、名前に関しては、なかなか、肝要であるとも云えなくはないだろうか?源氏名などというものは、その最たるものなのかもしれない。問題は、それを語るところの、詐称とは云わないまでも、語る主体の内容であろう。ショーン・Kたる人物が、そのものいいで、或いは、その著作で、講演などで、コメントする内容が、刮目すべきものであれば、決して、これ程までに、バッシングは、受けなかったのかも知れない。逆説的に謂えば、日本という社会は、ある種の権威主義とか、肩書きとかを、源氏名とは別に、重んじる社会なのかも知れない。その意味で、こうした、ある種の許容範囲での『二重性』が、様々な分野で、垣間見れて、実に、面白い。例の難聴の作曲家騒動も、既に、忘れがちであるものの、ペン・ネームも、海外逆輸入の俳優の名前も、ゴースト・作曲家も、今回のビジネス・ネームも、みんな、そんな『仮面の二重性』を、有している社会構造なのかも知れない。今や、サラリーマンも、大きな組織に属していながら、別の肩書きや、別名で、活躍出来る社会であっても、宜しいのではないだろうか?問題は、それを使用するところの主体の意図的な詐称かどうか、ではあろうが、、、、、、。仮に、凄い結果を残していたら、一体、世間は、許したのであろうか?もう一度、自分の名前を考え直すよい機会かも知れない、そして、自分とは、一体、何ものなのかとをも、、、、、、、。

 


ミニマリストに考える:

2016年03月19日 | 健康

ミニマリストに考える:

その昔、どこかのブランドに、シンプル・ライフなるものが、有ったことを記憶しているが、ミニマリストなる言葉が、最近、聞かれるので、偶然、想い出した。一体、シンプルという意味と、最低限という意味でのミニマムという意味は、どのように違うのであろうか?ものの整理が、日本でも、アメリカでも、心の中で、ときめいたものとときめかないものをひとつの基準として、判断材料として、設定して、捨てるか、捨てないかを、決めると云うが、その意味では、生き方としては、そんなに、シンプルとか、ミニマムとかという言葉で、語られるのであろうか?そう言えば、断・捨・離などというものを如何に処分するかは、可能であろうが、統一的なデザインのシンプルな家具とか、確かに、ものを揃えたり、処分したりは、可能であろうが、心の在り方とか、生き方を、どのように、こうしたコンセプトのもとで、語ろうとしているのであろうか?時代というものは、面白いモノで、バブル期には、間違いなく、こんなミニマリストなる言葉は、受け容れられなかったことであろう、やはり、24時間戦えるだけのエネルギッシュな、大きいものは良いものだ!的な心の有り様が、必要だったのかも知れないし、バブルがはじけると、途端に、清貧の心を、メザシを食べるとかということになるのであろうか?そうした意味合いからすれば、ものの整理も処分方法も、断・捨・離も、或いは、ミニマリストと言う言葉も、所詮は、そういう時代背景を反映したものなのであろうか?それにしても、余りにスッキリ、し過ぎていると、何か、落ち着かないのは、どうしたものだろうか?困ったものである。

 


電子版お薬手帳プラスを試す:

2016年03月18日 | 社会戯評

電子版お薬手帳プラスを試す:

30余年の長きに亘って、通っていたホーム・ドクターが、高齢のために、昨年の冬に、突然、亡くなってしまったので、改めて、新しいホーム・ドクターを捜して、月に一度、薬を処方して貰うことにしたが、処方箋薬局も、生き残りを懸けて、どうやら、顧客の囲い込みに、忙しい。何でも、固定客を増やせ増やすほど、医療報酬料にも、影響が及ぶとかで、こういうアプリを利用させることで、きっと、効果があるのであろう。薬を貰うまでの空き時間に、無料アプリとして、二次元バーコードの形で、お薬手帳の電子手帳版という広告があったので、早速、年寄りの新しもの好きで、試してみることにした。成る程、薬局を選択して、登録して、基本的な情報を、お薬手帳に、記載されている内容を含めて、アレルギー情報とか、薬の名前などを、登録すると、自動的に、処方された薬の内容が、電子的に、反映されるものである。更には、血液検査の明細とか、血圧、歩数などの記録を、データとして、記録できるし、自分だけではなくて、家族のデータまでもが、記録される。これまで、パソコンには、過去の健康診断のデータなどを入力しているものの、スマホのこのアプリに、同期できれば、なかなか、便利である。しかも、どんな薬を飲んでいるかとか、血圧のデータとか、様々なデータが、ICチップ同様、データ・ベース化可能である。しかも、処方箋を貰ったら、これを写真撮影して、メールで、登録した処方箋薬局に、送附すると、折り返し、準備ができ次第、10分ほどで、登録したメルアドに、準備出来上がりの連絡が来るから、薬局で、待っている必要も無い。実際に、これを試してみたところ、その通りに、待たずに薬を受け取ることが出来た。これで、実証試験も終了したことになる。無論、個人の健康情報が、薬局側へ、データ・ベース共有化されてしまうから、個人情報の漏洩リスクは免れない恐れは、否定できないこともないが、、、、、、。それでも、未だに、ICチップで、病歴の記録はされていないから、ある種、それまでの繋ぎには、なるのかも知れない。なかなか、便利な無料アプリである。レシートを撮影して、自動インプットできる家計簿のアプリよりは、ずっと、使い勝手が宜しいように思われる。処方された薬が、準備出来ていれば、翌日でも取りに行けるから、忙しいサラリーマンには、なかなか、便利であろう。地方などの遠隔診断などともに、もっと、活用されて然るべきソフトなのかも知れないが、使われなければ全く意味がないのも、事実であろうか。ご興味のおありの方は、試してみることをお薦めしたいものである。年寄りには、面白いおもちゃなのかも知れないが、、、、、、。

 


俳優の芸名に於ける匿名性:

2016年03月17日 | 映画・テレビ批評

俳優の芸名に於ける匿名性:

もう昔、若い頃に、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』という本を読んでいたとき、後に、この著者が、実は、山本七平なる日本人であることを知らされて、驚いたことがある。勝手に、こちら側は、著者が、ユダヤ人のイザヤ・ベンダサンであると、考えてしまったものである。考えれば、芸名などは、俳優を含めても、実際、最近では、名は体を表さずに、イメージが、先行していて、パリーパミュパミュなどは、本名の日本人の高校生の名前を云われても、さっぱり、その顔とコスチュームとが、一致しないものである。成る程、テレビで、人気が出たディーン・フジオカなる俳優も、実は、日本人で、福島出身であるそうであり、しかも、独身かと思っていたら、既に、奥さんも双子の赤ん坊がいるらしいとは、驚きである。もっとも、この驚きとは、本人には、別に驚きでも何でも無いのであろうが、勝手に、受け手の方は、想像を巡らして、人物のイメージを作ってしまいがちである。その意味からすれば、名は体を表さなければ、匿名性というものは、逆に、その神秘性を俳優にとっては、実力以上の何か貴重な高付加価値をつけるような物なのかも知れない。広東語や北京語や英語を、操って、東南アジアを、股に掛けて、活躍する日本人というものも、逆輸入俳優や横文字の名前に、極めて、弱い日本人には、ピッタリなのかも知れない。そう考えると、バンドや俳優も、何も、少子化が進み、縮みゆく日本市場だけを対象にすることなく、一度、外国で、売り込んで、逆輸入してくる逆戦略をとることも、マーケティングには、必要なのかも知れない。Dean Fujiokaも、初めから、藤岡竜雄という本名であったら、今日ほど、露出が少なく、評価されていなかったかも知れないと思うと、面白いではないだろうか?

 


日本の雑巾に思う:

2016年03月16日 | 社会戯評

日本の雑巾に思う:

何でも、『雑巾を縫いませんか!』というお誘いのメールを戴いた。実に、雑巾を縫うなどと云うことは、子供の頃、小学校の家庭科の授業以外には、とんと、雑巾などは、縫った試しは記憶にない。一体全体、日本の雑巾には、どんな意味があるのであろうか?そもそも、人生は、或いは、年寄りの生き方なるものは、雑巾に喩えられるように、ボロボロの人生とか、ボロ雑巾の様に、使い捨てられるというサラリーマンの悲哀のようなものを、そこには、感じざるをえないのは、実に、悲しいことである。もっとも、真新しい白いタオルも、何度も、何年も、使用されていく間に、変色もし、肌触りも、ざらざらになってしまい、或日、突然、ポイとゴミ箱に捨てられる運命にあるのであろうか?それを考えると、雑巾を縫うと云う事は、ある種のリボーン、再生なのかも知れない。そのように考えると、何とはなしに、気が軽くなるようにも思えてならない。日本人の有する雑巾に対する思いやりとは、そんな何ものなのかも知れない、ゴルフ場でのマナーのひとつに、洗面所に、何気なしに、おかれている雑巾は、次の人が、気持ちよく、使用できるように、自分が使用した後には、必ず、したたり落ちた水をそれでえ、ぬぐい取り、綺麗にしておくために、使用されるのが、ゴルファーのマナーであると云われているが、そうした、何気ない気配りや思いやりというモノが、実は、単なるすり切れたボロボロのタオルも、リボーンに結びつくことになるのかも知れない。そう考えると、日本の雑巾を縫うという行為も、何か、深い意味がそこには、有るのかもしれないと、考えると、面白いかも知れない。今回は、残念乍ら、参加できなかったが、日向ぼっこでもしながら、雑巾縫いという裁縫をするのも、面白いことかも知れない。そんな経験も、海外の旅行者には、パッチワークとは違った楽しみかも知れない。

 


オープン・データ作成の小椋佳型分業:

2016年03月13日 | 社会戯評

オープン・データ作成の小椋佳型分業:
名古屋大学の遠藤守准教授から、以前提唱した、ウィキペヂアでのオープンデータへの活用に関して、何でも、『ローカル・ウィキ』なるものがあるので、作ってみては如何かと、FB上で、知らせが届いた。成る程、こちらならば、素人には、ハードルは、低いかもしれない。それでも、自分の様な素人には、やはり、どうしても、小椋佳型の分業をやって貰いたいものである。つまり、小椋佳は、作詞家であり、作曲家でもあり、又、シンガーソンガーでもあるものの、作譜が、譜面に、メロディーを起こすことが出来なくて、テープに歌を吹き込んで、これを専門家が、作譜にしたり、編曲したり、演奏に耐えうるモノにしたらしい。まぁ、本人が言うのであるから、そうなのであろう。換言すれば、オープンデータかに関しても、私は、この分業論、役割分業論を採用したいと考えている。ニーズやシーズやウォンツを、誰かが、公開し、これを専門家が、オープンデータ化したり、別の専門家が、アプリに落とし込んでもよい。別に、著作権とか、知的所有権は、どうでも宜しい、むしろ、これにより、地域が活性化されたり、人々が、便利と思い、ユーザーが、無料で、使って貰えれば、地域に、お金が落ちて、雇用が生まれれれば、結構な話ではないだろうか?既に、様々な個々のデータが、地方公共団体や、地域には、点在しているものの、それを、指揮者のように、活用されているとは、現状、程遠いものである。既に、観光などのアプリで、歩き乍ら、GPSを活用して、写真を撮るベスト・ビュー・ポイントに近づくと、パキンと携帯が鳴って、昔、有名な画家が、描いた絵の地点を教えてくれたり、俳句の句の記念碑が説明と共に、出てきたりと、或いは、トレイルのルート案内とか、歴史的な古戦場や、武将のお墓とか、要するに、いくらでも、欲しい情報が、あるにも、関わらず、歩きながら、その地点で、ガイド本を開いて、確認出来るようなそんなサービスが、このオープン・データのなかで、試行錯誤してみたいものである。更には、これを英語に翻訳して、インバウンド向けに提供したり、AirbnbやYouTubeにリンクさせて、HP上に、掲載できれば、もっともっと、地方からの情報発信が可能ではないだろうか?早速、御牧ヶ原の植物や蝶の生態系保護も含めて、春夏秋冬に応じたオープンデータ化を、このローカル・ウィキを活用して、専門家と協力して、やってみることにしよう。特に、官に頼る必要性も全くない。

 


白タク反対の鉢巻きとウーバーに思う:

2016年03月11日 | 社会戯評

白タク反対の鉢巻きとウーバーに思う:

一体全体、タクシー業界の何人が、タクシー・ドライバーという職種自体が、近い将来、消え失せてしまうかも知れない可能性が高いと予想されていることを、どれ程、危機意識を有して、自覚しているのであろうか?昔、ゴルフ場で、やはり、キャディーさんがいないとゴルフにならないよねぇなどとのたまっていたのに、今や、電動カートや、自動GPS機能で、コントロールされたゴルフ・カートに、ピンまでの距離や高低差までも、更には、グリーンのアンジュレーションまでも、教えて貰いながらプーするのが、当たり前になってしまった昨今である。況んや、過疎地でのタクシーをやではなかろうか?何を今更、白タクであろうか?そもそも、そんな白ナンバーのタクシーという言葉すら、最近の若い人は、知らないのではないだろうか?乗客の安全性とか、事故の補償とかの問題が、解決されなければならないのは、至極当然のことながら、何を今更、『ライド・シェアー』に、白タク反対などという鉢巻きとスローガンで、反対して、何になるのであろうか?全く、頭の中で、農協に頼り切ってひたすら、米の自由化・輸入化、絶対反対などと、あの臭いタイ米の事件も、とうの昔に、忘れ去ってしまいながら、TPPにも、断固・絶対反対などと、声高に、ひたすら、反対と唱えている類いとちっとも、その精神構造が変わらないようである。バブルの頃には、タクシーを呼ぶコール・センターも、話し中ばかりで、結局、電話が繋がるまで、もう一軒、上司と梯子をする羽目になったことをなつかしく、想い起こされる。もうあんな時代錯誤の時代は、きっと、訪れることはなかろう。地方都市から、今や、公共交通の脚が、消え去ろうとしているときに、ディマンド・タクシーの前に、乗り合いタクシーのサービスを提供するとかいうので、登録にわざわざ、出向いていったら、何と、登録家族だけの利用で、友人や親戚の利用は出来ないという、何とも、可笑しな驚くべき制度である。間違いなく、Airbnb やUber ウーバー、Lyftリフト、などのこれまでの法制度の隙間を突いてくるような新しい業態が、どんどん台頭してくるであろうし、On demand 配車型やCost Share 型や、Rideshare型などの様々なシーンとニーズの形態に応じた新手のサービスが、間違いなく、台頭をしてくるであろう。タクシー経営者と運転手とが、珍しく、一緒になって、労使双方とも、反対するという相互の利害が一致するさまなのであろうか?もっとも、その場には、ちっとも、『利用者の顔』が見えないのが、摩訶不思議である。今日も、駅前の日帰り温泉施設の帰りには、15-30分に1本のローカル線の電車の客を待ち受けるタクシーが、数台、所在なげに、とまっているというこのエネルギー・人的ロスと時間の無駄はどうなるのであろうか?