小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

第88回東京電力株主総会に思う

2012年06月28日 | 株主総会
第88回東京電力株主総会に思う
去年同様、基本的に、資本の論理が、最優先され、声なき声の一般個人株主による諸提案は、悉く、否決されることとなった。もっとも、筆頭株主の東京都や、その他自治体、生命保険会社、主要取引銀行で、そのカジョリティーを有しているわけであるから、それらの委任状により、自動的に、議長選任も、議事進行も、会社ペースで、進められても仕方の無いことであることは、重々、分かっていることであるが、、、、、、、。もっとも、今回の実質的な1兆円にも及ぶ資本注入の実質国有化で、株の価値が、希釈されて、更に、一株当たりの価値が、これまでのピーク時の10分の1から、更なる減少へと向かうことになる。東京副知事の猪瀬氏からの経営理念の定款への追加提案、経営の透明性の確保や、スマート・メーターへの国際競争原理の導入、民間事業者を活用した火力発電設備のリプレース促進や、東電病院の資産売却提案とか、他の株主からの配送電の分離、最大限の賠償を誠意をもって、行うとか、地域自治体からの安全協定の承認等、電力の選択権、提案が行われたが、飽くまでも、第5号から、14号まで、「業務執行に関する事項について取締役会に委ねることを基本とする」をもって、全て、いずれの諸案に取締役会は、反対する立場であった。なかなか、どうして、会長の勝俣恒久氏は、やはり、折れないカミソリ実力者と謂われるだけ、議決権行使比率でも、したたかなところがある。隠然たる影響力を有する名誉職(?)の社友に止まり、既得権擁護・最大の抵抗勢力を代表する大きな壁になるであろうことは、間違いなさそうである。新潟や岩手や福島の株主の質疑応答もあったが、確かに、株主も、一種の被害者であるが、それ以上に、原発事故での被災者に対して、これまでも、利益を享受してきたとか、原発を推し進めたとかというヨイショ発言も現れたことには驚く。資本の論理の中での茶番劇に、変わりは無いであろうが、会場を埋め尽くした大多数の個人株主の声なき声は、決して、無視されて良いモノではない。原稿の棒読みばかりで、誠実な答弁が、一向に、伝わってこないという苦言も呈される始末で、「5つのお約束」、「お客様からのニーズに即した新しいサービスをご提供する必要がある」、「危機感と責任感」、「ご迷惑とご心配をおかけしておりますことを、心からお詫び申し上げます」、「真正面から、取り組んで」、等…、綺麗な響きの良い言葉が、報告書には、空虚に、踊っていたが、、、、、、。折角の意思改革、構造改革の良い機会にも関わらず、依然として、方向性が、はっきりと、未だ、見えてこないのは、極めて、残念である。東京電力は、日本のエネルギー政策は、一体、何処へ、漂っていくのであろうか?漂流する政治と共に、又、来年も又、不毛な議論がされるのであろうか?それとも、変われるのであろうか?「事故賠償・廃炉措置・安定供給」の同時達成というお題目のもと、結局、組織の温存と継続が、最優先されてしまうのか?



「東電」株主総会に、参加してみる

2011年06月28日 | 株主総会
株式投資は、自己責任である。と言われてしまえば、それまでであるが、その責任とは、東電にとっての責任とは、何であろうか?9282名もの株主が、5会場に、分散して、株主総会に、出席したと冒頭に、報告があった。例年の3倍とのことで、会場外に、あふれた株主から、中へ入れろと、怒号が渦巻いていた。1時間余りに、入場したが、既に、6割程度の着席率で、むろん、前列のブロックは、社内株主親衛隊と御用総会屋であることは、後からの拍手で、分かった。会社側の発言には、ほとんど、前のグループが、拍手し、後ろの席からは、ほとんど、反対意見への株主の拍手であった。議長選任からして、大銀行と生命保険会社であろう2大大株主の議決権が、圧倒的な力を有して、結局、議長不信任、議案への賛否の賛成・反対も、全く、挙手の数を数えることなく、基本的には、圧倒的な委任状の信任と大株主の信任を前提とした、開かれざる株主総会の様相を呈した。冒頭から、勝俣代表会長による原子力賠償法の第3条、第16条の解釈の仕方では、(史上稀にみる巨大な地震や津波の)影響によるもので、(免責)をも、視野に入れた、或いは、(電力の安定供給の社会的義務)と(それを満たすための事業・会社の継続)を前提とした国への金融支援により、被災者への賠償や、今後の再生エネルギーの検討などを、経過報告した。むろん、御用地震学者土木学者・政界・財界・地方自治体への補助金、等による(法令に遵守、適合)という錦の御旗という鎧には、役員報酬の過去へ遡った返上論・個人資産の返納や、或いは、情報の公開、都合の悪いデータの改竄への非難・追求は、余裕を持って、跳ね返されてしまった。責任と言う言葉は、(経営責任)、(賠償責任)、(社会的責任)、(道義的責任)、等々は、(法治国家)の厚い壁に、と言うよりも、(自分に、都合の良いように法律を解釈する)最終的な裁判所や、第三者事故原因調査委員会や、検証委員会によって、恐らく、唯一のチャンスを、逃すことになろう。福島や、新潟からも、被災者であり、株主でもある少数株主が、多く、来ていたようであるが、(将来の希望)も、結局、事故の賠償、債務超過の前では、今後の(開かれた株主総会)とは、かけ離れたものになってしまった。果たして、責任を取らないという(東電的な体質)の改善は、この嬲ぬ思想界の手法を見る限り、目途は着かないのではないのかと、今日の日本の現状の姿を、そこに見たような気がした。