小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

山口音楽教育センター(貞祥寺 長野教室)主催 第47回サマーコンサートを聴く

2019年08月13日 | イベント 祭 催し

山口音楽教育センター(貞祥寺 長野教室)主催 第47回サマーコンサートを聴く:

 

佐久の別荘に住んでいる知人から案内を受けて、上記の無料コンサートを聴きに行きましたが、素晴らしい演奏で、耳濯ぐようで、有り難うございました。障害者教育にも力を注いでいるようで、大変、喜ばしいことだと思いました。全く楽器の出来ない自分には、全く、羨ましい限りです。又、ハープに似たコロンビアの民族楽器を初めて、その音色に、接しましたが、素晴らしい音色で、バイオリンとの共演も、見事でした。兎に角、年に一度でも、こうしたコンサートを山の日に、開催持続することは、大変、エネルギーが必要で、大変なことだと思われます。又、曹洞宗の貞祥寺による支援も含めて、社会貢献という面でも大変、素晴らしいことであると思います。

小諸の青雲館では、アート・イン・レジデンスという形や、小諸善光寺(大輪寺)での座禅プログラムなどを里山暮らし体験の一環として、提供していますが、何らかの形で、糠地メセナホールでのコラボも行いたいモノであると思いました。

ここでは、私は、門外漢でありますから、個別の演奏者には、触れませんが、若手のピアニスト、バイオリニストから、ベテランの歌手まで、素晴らしい演奏会であったと思います。

これからも、コンサートのコンセプトを守りながら、社会貢献の一環として、市民共々、生演奏を聴く機会が提供されることを願ってやみません。

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第55回小諸春の芸能祭りを愉しむ

2019年04月26日 | イベント 祭 催し

=第55回小諸春の芸能祭りを愉しむ:

 

アートインレジデンス運動で、いつもコラボして戴いているジャズダンス・スクールや日本舞踊の家元のグルーなどが、参加するというので、恩返しではないが、応援にゆくと同時に、パーフォーマンスを愉しむことにした。伝統的な日本舞踊も、謡曲なども、面白いが、やはり、演歌歌謡曲や聞き慣れたヒット曲に、併せた新舞踊やダンス・パーフォーマンスも、なかなか、魅力的であると感じられる。とりわけ、誰が振り付けしているのか、分からないが、知的所有権と言えるのかどうか、素人考えでは、何とも言えないが、振り付けで、全く、その曲のイメージが異なるから、興味深い。確かに、作詞に合わせた振り付けというモノ、例えば、これだけでも、十分、<振り付け大会>という一つのジャンルが、成立しそうである。逆に、作詞の意味が理解出来ない、外国人に、曲のイメージだけで、振り付けを創作して貰うことも、とても、面白いのではないだろうか?曲と作詞のマッチングで、表現する歌手とは異なり、言葉を理解できない分、曲のイメージを膨らませて、一方的に、勝手に、イメージを破壊する手法というモノも、なかなか、興味深いものがある。パーフォーマンスとは、1 or 2 FCL of Precision (8), we will have to charge the special price of JPY575 per 40L bag作詞言葉の意味合いが、理解出来なくても、曲のイメージを感性や個性をを通じて、表現するのも、如何なものであろうか?そんなパーフォーマーが、袴をはいたり、和服を着て、踊るのも、そのギャップを、別の意味で愉しめるのではないだろうかと、ふと、勝手に、想像したりもする。髪型や衣装や小道具なども、含めたトータルなパーフォーマンスというモノは、必ずしも、古典的な伝統芸能の神髄を、守り抜くということも大切なことではあるものの、破壊し、全く新しいモノに、変身させてしまう一種の化身的なムーブメントのような動きが、内在発露しても良さそうである。どう逆立ちしても、今や、踊ったりすることは、無理ある以上、観るだけでも、愉しみたいモノである。例えば、別々の曲ではなくて、逆に、同じ京であっても、全く異なるダンス・パーフォーマンスが、あっても良いのではないだろうか?何はともあれ、そんな理屈とは、別に、耳から、音と音楽を愉しみ、眼で、その光と表現の動きを追ってみると、カラオケとは又、別の愉しみが、生まれてくるモノである。あっという間の3時間である。アートインレジデンスの運動にも、何か、良い影響を及ぼしそうなそんなヒントがありそうな気がしてならない。昨年滞在したドイツ人パーフォーマーが、これから、約一ヶ月滞在するが、一度、議論してみたいと思います。又、障害のあるお子さんも参加しているのですが、もう一人、今回は、参加してくれて、一生懸命、その子達は、自分なりに、ダンス・パーフォーマンスをグループの一員として、演じていたことは、もはや、この運動は、単なる発表の機会提供ではなくして、もっと大きな意義を有する運動であるのかもしれません。お母さんが、その子の成長をとても喜んでいるのが、印象的でした。身体で、パーフォーマンスを演じると言うことは、単に、身体の一部のパーツを動かすだけではなくて、その子の気持ちの表現も含めた心の成長を身体が不自由であっても、十分、出来ると言うことを物語っているのかもしれません。アート・イン・レジデンスで、今回は、小諸に来れなかった車椅子ダンサーにも、こうした機会に、ジョイントして貰っても良いかもしれません。

千ヶ滝小唄ー正調版 軽井沢の名曲を繋ぐ会:Sengataki Kouta:

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エンディング DIAMOND 小諸芸能協会:Ending No.1

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エンディング 学園天国 こもろ芸能協会:Ending No.2

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For 2019 SEIUNKAN Art-In-Residence (SAIR) , will collaborate with Takemoto Toryu, TSUCHIYA Jazz Dance School Members, Suzuki Kazui Dance School Members to support their activities.

Takemoto Toryu:
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Tsuchiya Yoshimi Jazz Dance School:
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Suzuki Kazui Dance School: & Dance Tips:
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『天空の芸術祭2016』を観る:

2016年10月09日 | イベント 祭 催し

『天空の芸術祭2016』を観る:

御牧ヶ原の台地は、何とも謂えないような北海道のような景観に似ていて、天気の良い日に、散歩などをしていると、その空の青さと流れゆく白い雲との調和が、大地の土の色とハーモニーを奏でて、とても気持ちがよいモノである。何せ、45年以上もの長い間、ビジネスの世界に埋没していたせいだろうか、すっかり、右脳は、化石化、機能不全寸前で、アートや音楽や、伝統芸能の観賞などでも、残念乍ら、なかなか、右脳再生が果たされないのが、実情である。北側フロムさんや、田島征三さん等による十日町の大地の芸術祭や、トリアンナーレなどで、或いは、瀬戸内芸術祭などを通じて、少しづつでも、芸術を通じた地域の活性化が、住民との交流を介して、前進して行ければ、それはそれで、結構な話である。東御市の、旧北御牧が原台地と八重原台地に跨がる、自然豊かな地域で、『天空の芸術祭2016』というアートフェスティバルが開催されているということを知ったので、出掛けてみることにした。芸大のアーティスト達が、作品を屋外や、溜め池にも、地下室にも、室内にも、展示されていて、とても、興味深いものである。アート作品の鑑賞というものは、なかなか、制作者の芸術的な思いを理解するのが、難しいものの、それ自体を、あれこれ、こちら側が、勝手に想像しながら、鑑賞する事でも、何か、こちら側にも、小さな何らかの心的な変化が生じるであろうことは、どうやら、間違いないであろう。地元の住民も、訳の分からぬオブジェが、眼の前に、忽然と姿を現すことだけでも、何か、インパクトがあっても宜しいし、又、それが、風景を、ソーラー・パネルで自然景観を破壊したり、一変させるような代物でない限り、芸術作品の野外展示というものも、何か、効果があることであろう。そう考えると、何はともあれ、作品の制作に関わりながら、お手伝いすることも良いだろうし、それらの展示を見て回ることも宜しいし、兎に角、自分の出来る範囲で、お手伝いし、積極的に、或いは、消極的にでも、裏方でも、参加・関わることが、大切であるのかも知れない。その意味で、この第一回の開催は、これから先の10年、20年先、どのように発展するかは、判らぬが、大変貴重な第一歩であることは、間違いないであろう。官による訳の分からぬ補助金目当てや、爆買いの伝統や文化・歴史などのコンセプトも理解しないようなインバウンドを頼みとしないような地道な地域住民とのコラボによるこうした運動の点から、点へ、そして、線へ、更には、面へと、地域同士が結びついて行くような将来への展望を希望したいし、何らかの形で、無償奉仕と言う形で、関わって行きたいものである。作品を観ながら、そんなことを感じました。

 

https://www.facebook.com/museum.in.the.sky2016/

 

 


天体観測会へ参加してみた:記事のタイトルを入力してください(必須)

2016年05月22日 | イベント 祭 催し

天体観測会へ参加してみた:

もう、30年も前のことであろうか?子供達が小さかった頃に、小さな天体観測用の望遠鏡を購入して、月のクレーターを家族で。眺めては感動したことを想い出す。もう、5月末だというのに、夜になると、長袖でも少々寒いくらいで、ダウンを羽織っている人もいたくらい、少々寒い観測会である。アマチュアとは云うものの、先生が、レーザー・ビームでの、あれが、火星、こちらが、土星、ベガ星、等などとブルーの光線が、まるで、室内のプラネタリウムで、説明を受けているかのような錯覚に陥るが、ここは、室内ではない、明らかに、屋外なのである。この日は、満月間近の月だったので、空が、明るすぎて、星の観測には、不向きな明るい夜で、多少残念であったが、それにしても、参加者全員、感動の連続であった。静けさとか、光がないこととか、真っ暗闇というモノは、実は、最大の天体観測には、強みなのであることが再認識される。それと、自然の条件とりわけ、空気が澄んでいること、春や秋の澄み切った空が、好条件だそうで、必ずしも、夏とか、冬とかに限らない、その時に巡り会うことも、必須条件であると説明があった。成る程、自然相手ということは、幸運にも、恵まれなければ云えないようである。この次は、空気が澄んで、新月の晴れた夜が、狙い目なのか?楽しみである。次回も、参加してみたい。

 

 

 


三遊亭円丈、『グリコ少年』を聴く:

2016年02月18日 | イベント 祭 催し

三遊亭円丈、『グリコ少年』を聴く:

浅草の六区にある、浅草演芸ホールなどというところは、その昔、母に連れられて、浅草寺にお参りに行くとき、仲店通りを歩いているときに、何やら、お化け屋敷やら、いかがわしい見世物小屋があるから、しっかり、手を握って放さないようにと、言われたことを、どういう訳か、幼い子供心に、残っていたことを想い出す。それにしても、すっかり、通りも、近代的に生まれ変わってしまったものである。外人観光客も、これならば、浅草の仲店通りから、下町情緒を愉しむために、人力車による散策も可能なことであろう。落語は、古典落語も宜しいが、手品や紙切りや曲芸、漫才、漫談も含めた、演芸ものを、ただ、所在なげに、愉しむことも、なかなか、贅沢な半日の過ごし方ではないだろうか?これが、毎日だと、ある意味で、大変なことであろうが、たまには、そんな贅沢な時間の過ごし方があっても良さそうである。今日は、女房殿も伴って、半日、お昼の部を、浅草演芸ホールで、落語鑑賞会の会で、更に、終了後は、久しぶりでの駒形、どぜう鍋をつつくという趣向である。申年生まれの年男だから、この噺家も、72歳になるそうである。同じ昼の部で、出演していた川柳川柳とは、圓生の許で、兄弟弟子の関係で、本人も謂っていたが、前座時代には、意味不明なぬう生という名前であったらしい。それにしても、師匠・弟子という関係の中では、他の出演者もそうであるように、師匠による圧倒的な命名権の専権事項であるが故に、天どんとか、小田原丈などという命名をされた事例があることに、改めて、驚いてしまう。

古典落語とは、ことなり、実験落語家、創作落語というものは、開口一番で、よく使用される、『寿限無』なども、よくよく、古典的な噺を、まさに、その演じる側の口八丁、手八丁で、バイオ・テクノロジーや、スタップ細胞事件や、様々なアップ・デートな話題を絡めることで、全く、新しいバージョン・アップした異次元の新たな落語へと、リメイクされるということは、落語という話芸は、本当に、奥深いし、そこには、一定の先人の著作権を尊重されながらも、自由に、脚色したり、或いは、されることを決して、しかつめらしく、著作権を侵害するななどという野暮ったい台詞を吐くことなく、何か、すべてを『笑いの文化』というオブラートの中で、包み込んでしまうようなそんな大きな『創造的な自由闊達さ』が、あるように、思われるのは、何故なのであろうか?試しに、古典的な『寿限無』も、噺家が、変われば、各人各様の十人十色の噺が、聴かれるのかも知れない。その意味からすれば、まさに、これこそ、『噺』とは、口で、新しく噺を創造し、演じるもので、噺家というものは、それを創造するプロデューサーや演者なのかもしれない。

私は、圓丈よりも、少しばかり、若い世代であるものの、『グリコ少年』に登場する、様々な噺の素材、とりわけ、コーラ、コーヒー、ピザ、砂糖、人工甘味料、給食の脱脂粉乳ミルク、おまけ付きグリコ・キャラメル、森永キャラメル、甘辛・ピリ辛、カバヤ製菓、フルヤ、不二家もペコちゃん、ミルキー、アーモンド・チョコレート、渡辺の粉末ジュースの素、駄菓子屋、サクマのドロップ、サイコロ・キャラメル、等…、どれも、懐かしい食文化の歴史の一コマで有り、又、実は、それは、食文化のみならず、当時の世相や心持ちを表している人生の一場面での宝石にも匹敵するかのようなキーワードのようでもあり、自分たちの『人生そのもの』なのかもしれない。逆説的に謂えば、これらのキーワードを知らない世代には、将来、笑われることのないようなのかも知れない。偉大なキャッチ・コピーとして、大正末期に、使用された、『一粒で300m走れる』というものも、『ミルキーは、お母さんの味』なども、記憶の片隅で、否、実験落語という範疇の中で、まるで、化石のように、時間と共に、永遠に、語り継がれるのであろうか?それとも、古典落語のように、進化しつつ、受け継がれてゆくのであろうか?それにしても、平日の浅草演芸ホールは、団体客とは云え、満席の熱気の中で、程よい距離感の中で、最後には、恒例の節分の豆まきよろしく、グリコ製品を播き散らかして、福のお裾分けとは、実に、嬉しい限りである。終了後に、駒形でのどぜう鍋、どぜう尽くしという定番のコースは、何か、病みつきになりそうである。子供や若い人も、こういう一時を、是非、愉しむことをお薦めしたいものである。固有名詞が忘れがちであると謂うのも、ご愛敬で、健康に留意して貰って、末永く、演じ続けてもらいたいモノである。ドッカン、ドッカン、楽屋裏でも、受けていたことを他の参加者達も、実感されたことであろう。又、機会を改めて、聴きたいものである。少しは、右脳が、果たして、これで、再生されたであろうか?

 

 


第32回三遊亭鳳楽、武蔵野独演会を聴く:

2015年12月02日 | イベント 祭 催し

第32回三遊亭鳳楽、武蔵野独演会を聴く:

大学の地域(杉並区)の同窓会会員の集まりの分科会で、「落語を楽しむ会」というのがあり、これに、初めて参加することにした。何せ、45年余りに亘って、右脳は、化石寸前にまで、麻痺しているから、右脳を再生しなければならない。只今、鋭意、右脳再生中です!そんな訳で、懇親会の2日後に、開催される三遊亭鳳楽師匠の独演会を聴くことにして、更には、打ち上げ後の懇親会の宴席にも参加することにした。いやはや、生の落語を間近に、こんな近い距離で、聴くなんぞは、新入社員の時代に、新宿末廣亭かどこかに、歓迎会で、寄席を聴きに行って以来だろうか?ほとんど、ド素人だから、失礼に当たらぬようにと、事前に、しっかり、最低限の知識くらいは、持ち合わせていないと、落語家に対して、礼を欠き、申し訳ないと云う事で、ネットで略歴や演題を、検索したり、U-tubeにアップされている録画を聴いて、最低限度の知識を持って、望んでみた。それにしても、落語家のエネルギーたるや、凄まじいものがあることに、改めて、感じ入る。私より、一つ年上だから、サラリーマンで言えば、もう、優に、45年以上は、現役で、芸道に励んで、圓生の最後の孫弟子として、又、先代の円楽の弟子としても、勤め上げた古典落語の実力落語家で、玄人の評価も高いし、圓生の名跡を継ぐかも知れないとも、噂されている由である。「紙入れ間男」という艶笑噺と、「文七元結(もっとい)」という人情噺という異なるジャンルの落語を、1時間余も、高座を張るという知的並びに、体力的なエネルギーとは、一体、何処から、培われてくるのであろうか?サラリーマンであれば、とうの昔に、引退して、役職をおりているところであるが、芸術家というものは、画家でも、音楽家でも、落語家でも、何とも、驚くべき内なる情念というか、溢れんばかりのエネルギーは、その仕草、口調にも、口の開き方や目配せの仕方にも、一瞬たりとも、見逃せないものがある。しかも、それをこんなに、長い時間に亘って、集中力を、独特の軽妙な話術と笑いの中で、見事に、調和させて、維持すること、聴き手を飽きさせないことは、並大抵の事では出来ないであろう。おチャラか系のテレビ映りの良い芸人とは、全く、古典落語家というものは、一線を画すものがあり、芸の極みという言葉が、素直に、感じられよう。打ち上げ後の酒席では、何でも、落語家として、着る衣装にも、拘りと誇りを持っていて、登場人物が、殿様であれば、殿様なりのなりをして、自らが、演じることに、拘っているそうである。従って、それなりの衣装や色街の伝統文化への勉強に費やす出費も、並大抵なモノではないそうである。そう考えると、演目を細かに覚えるだけではなくて、その背後に潜む見えない努力も含めて、相当な努力が、芸に対する厳しさとして、日常生活の中から、結実してゆかないと、名人の域には、到底、到達しえないことが、自ずと、理解出来ようか?開口一番を努めたその弟子の鳳月も、「寿限無」を、軽妙に、演じていたが、こちらも、吉本から、落語会へ移ってきて、未だ、時間が間もないものの、将来性があるように、会員の間では、語られていた。天性の素質だけでも、落語家は、成り難く、又、練習だけでも、同じく、成り難く、やはり、天性の素質と、その後の不断の努力と勉強とのバランスなのであろうか?それにしても、新潟の蔵元での講演から、静岡での講演を経て、その日の開演前、午後六時に、到着してから、2題を噺して、更に、打ち上げの酒席にも、参加するとなると、おおいに、健康管理にも、心配が生ずるが、はてさて、どんな精神的・肉体的なケアーをしているのであろうか?気になるところでもある。又、引き続き、次回も、古典落語を聞きたくなってしまった。それにしても、人情話というものは、笑いだけではなくて、よく、内容が、練られたものである。最後になって、なある程、あの伏線は、こう云う事だったのかと、納得されるものである。それをそれとなく、軽妙に、分からないように、演じるところが、絶妙な芸なのであろうか?今後の活躍を祈って止まない。

 


再び観る、戦争画、藤田嗣治展:

2015年11月27日 | イベント 祭 催し

再び観る、戦争画、藤田嗣治展:

画家は、戦争中に、何をなし得たのであろうか?上田の戦没画学生を鎮魂するために、作品群を展示している「無言館」とは異なり、この戦争画の展示は、一見、対照的でもあろうか?何故ならば、戦没画学生は、志し半ばにして、未来を奪われた画家の卵が、その未来を奪われてしまった作品群であるのに対して、こちらのそれは、既に、パリで、乳白色の肌色の魔術師として、世界的にも、名声を博して、画壇の重鎮として、その名誉も地位も確立していたにも拘わらず、辺見庸の「1937」ではないが、何故、それ以降、終戦後に、大日本画壇の戦争責任を一身に受け容れ、一言もエクスキュースをすることなく、故国を去り、GHQのビザの支援を受けて、NY経由で、最終、パリへ戻り、レオナールFOUJITA として、1968年チューリッヒで亡くなるまでの所謂、出発点にも当たる年な訳である。過去に観たコレクションとは異なり、今回の14点のMOMATコレクションの大作には、所謂、前半期と後半期とでも呼ばれ得る違いが、厳然として、存在していることが、観賞をしていて、理解される。それは、まるで、以後のレオナールFOUJITAと称するに足る理由がそこには、暗号符のように密かに仕込まれたメッセージが、隠されている。美術評論家ではないから、彼の絵の描き方が、全面に、微細に拡大するが如きの迫力溢れる描写と、後方に描かれた遠い遠近法を活用した風景の対比は、ここでは、問題ではない。どうやら、1942-43年頃を境にして、明らかに、それ以前の明るい色調の戦勝と戦意高揚を目的(?)とした感じから、戦況の悪化とともに、変化している。もっとも、その画風は、必ずしも、表向きの戦意の高揚を狙って描かれたかどうかは、おおいに疑問である。それでも、このコレクションには、入っていない、実は、もう一枚の絵が、あったそうである。それは、ノモンハン事件を題材にした(ハルル河畔之戦闘:1941年)、ある陸軍中将から戦死した兵士達の鎮魂のために、依頼されたもので、展示されているものは、大きな碧い空を背景にして、戦車の前を匍匐前進する兵士を明るい色調で、描いているものの、これとは、別に、死屍累々とした凄惨な場面のもう一枚が、あったそうで、残念乍ら、それは、何処かへ、消失されてしまったらしいと説明にはある。恐らく、戦争画の後半に観られるであろう暗い殉教・宗教画とおぼしき同じタッチで、描かれたのであろう事は、容易に、想像がつくものの、当時の開戦直後の戦意高揚という目的には、誠に、国辱的な戦意喪失の絵であることは、間違いないであろう。その意味では、画家は、必ずしも、戦意高揚のために、画壇を代表して、進んで、協力したものであるとは、必ずしも、云われる筋合いはないであろうし、後に、発表される「アッツ島玉砕」(1943年)、或いは、同年の「ソロモン海域に於ける米兵の末路」、更には、「血戦ガダルカナル」(1944年)、そして、最期になる「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)にいたる訳である。私には、この絵の題材を誰がつけたのか、疑問に残る。本当に、画家が、自分自身の絵に、こんな題材を命名したのであろうか?明らかに、そこには、絵の依頼者足る軍部と、軍医であった父の死を境にして、断り切れなかった画家の心の底の葛藤をみるようである。本当に描きたい絵を描いているのでなくて、しかしながら、描いている内に、死者が乗り移り、或いは、兵士への直接的な取材を通じて感じ取った画家としての、更には、既に、芽生え始めていた後年のカソリック教徒としてのレオナールFOUJITAへの想いが、何らかの形で、この戦争画の中に、神髄を見せつけているのではなかろうか、もっとも、それは、直截な表現ではなくて、微妙に、検閲をかいくぐるかのような装いを纏った、眼をしっかりと開けて、観ないと分からないような小さな暗号のような符号で、キャンバスに、塗り込められているのかも知れない。ひょっとしたら、検挙をも辞さない覚悟があったのかも知れないが、分からない。「アッツ島玉砕」の中下部分に、小さく描かれた「紫色の花」達、もっとも、実物では、残念乍ら、余程、眼を懲らして、腰を屈めて、近づいて、凝視しないと、既に、紫色は、色褪せて、確認ができないのは、おおいに、残念である。本の印刷物でしか、やっと確認出来る程度のものである。この作品が展示された当時は、遺族とおぼしき老婆が、手を合わせている所をみて、画家は、後年、「画家として、快哉と叫びたくなった」とまで、云っているのであるから、恐らく、未だ、はっきりと、紫色の小さな花々達は、みられたのであろうし、「密かな暗号符」は、観る側の受手には、しっかりと、画家という発信者の側から、伝わったのではないだろうか?上述した「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)にしても、米兵とおぼしき兵士達の乗るボートの左上奥には、鮫と鮫の背びれが、描かれていて、末路を暗示している、既に、暗い画風であるものの、観る側にとっては、それは、米兵だけでなくて、戦闘に参加した日本兵でも同じ局面が、ありえるし、戦闘に参加したすべての兵士に、共通することは、容易に、想像されよう。そうして観ると、何とも、「末路」なる言葉は、皮肉にも、この2年後に、自分達に、跳ね返ってくることを、この時点では、わからないものの、何故か、暗示めいたものを、画家は、その鋭い感性を通じて、感じていたのかも知れない。だからこそ、受け手側でも、画家のホンネとタテマエとが、理解出来たのかも知れない。最期の戦争画となった、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)」の公開された4月は、既に、その年3月10日には、東京大空襲が行われ、沖縄では、既に米軍が上陸して、一億総玉砕に向けての闘いが進行中、敗色濃厚の時期である。様々な美術評論家達が、アリ・シェフェールの「スリオート族の女たち」や、ドラクロアの「民衆を導く女神」や、グロの「レフカス島のサッフォーのサッフォー」の崖から身を投げる画になぞらえたり、色々と、解釈・論評しているが、やはり、観る側には、その描き手の想いを想像しながら、観賞することが、何よりだろう。どれも、大きな大作で、じっくりと、その絵の前に、腰を下ろして、眺めることがお薦めであるが、展示された当時のことを思うと、一体、どんな気持ちで、眺めたのであろうか?一億総玉砕を覚悟したのであろうか、それとも、殉教画、或いは、宗教画としての死へと誘うような「救済」を、そこに感じ取ったのであろうか?平和な時代に、見直してみても、同世代のピカソの「ゲルニカ」が、フランコへの反戦の象徴として、世界的に評価されているのに対して、実に、対照的な皮肉な評価である。従軍画家という役割は、戦勝国の米英でも、或いは、敗戦国の日独でも、同じように、戦場を描き出しているものの、そのプロパガンダやイデオロギーの違いで、全く、立場と評価が、異なるのも致し方ないのかも知れない。それでも、私は、今日、これらの一連の大作を前にして、息をするのも忘れてしまうような衝撃を、この画家から、受取り、感じ取ってしまうのは、一体、何故なのであろうか?中国から南方戦線へと転戦し続けた戦争時代を青春時代として、過ごした亡き父は、多くを語らず、又、その兄(私の伯父)は、ギルバート諸島のタラワ島で、玉砕しているが、もしも、これらの絵を観たならば、どんな感想を述べたであろうか?ふと、そんな想いを巡らしてしまった。絵画というものは、実に、面白いモノであり、例えば、若冲や宗達にしても、その時代に、描かれた技法のみならず、描き手といつまでも、永遠に、観る側は、時代や場所や時を超えて、間近に、インターアクティブに、対面でき、自問自答することが出来るし、それは、音楽であれ、絵画であれ、何であれ、芸術の素晴らしいところであるようにも、思われる。残念なことに、「戦争画制作の要点」という本に掲載された藤田嗣治の文章は、文字が細かすぎて、読み取れませんでした。大きく拡大して、パネルにしてもらえれば読めたものを残念です。1935年に藤田が監督をして撮影した対外的な「現代日本 子供篇」という映画も、貧しくて国辱的だと批判されてオクラ入りしてしまったそうであるが、こちらのフィルムも、なかなか、面白いですね。とりわけ、子供の頃から、チャンバラごっこの末に、互いに、差し違えて、或いは、割腹自決するところなどは、子供の頃から、遊びの中で、既に、負けて虜囚の辱めは受けないという刷り込みが、身についていたのでしょうか?12月13日まで、竹橋の東京国立近代美術館で、開催予定ですから、地方からも見に来るに充分、値しますね。尚、シニアは、無料であるとは、誠に、申し訳ないことです。

 


藤子・F・不二雄展を訪ねる:

2015年10月03日 | イベント 祭 催し

藤子・F・不二雄展を訪ねる:

川崎市にある藤子・F・不二雄ミュージアムには、一度行ってみたいと思っているが、小さな子供もいないので、まだ、行けていないのは、残念である。そこで、上田市にあるサントミューゼ 上田市立美術館で11月9日まで、開催されている生誕80周年記念、藤子・F・不二雄展を訪ねることにしてみた。僕らの世代は、トキワ荘時代の著名な漫画家、手塚治や、二人の藤子不二雄や赤塚不二夫、石ノ森章太郎らが、世に出て行くきっかけになった少年サンデーなどの漫画週刊誌が、発刊された頃に、初期の作品に触れて育った世代である。従って、後の長編大作などは、逆に、リアルタイムで、読んだ記憶があまりない。美術館の一階には、沢山のドラえもんが、様々な魔法の道具をもって、出迎えてくれている。例えば、これを被ると人の眼には見えない、「透明マント」とか、ひとつひとつ、説明を読みながら、思わず、クスッと、笑ってしまう。何とも、童心に戻ってしまう奇妙な感覚である。確かに、お腹のポケットから、次々とこんなものがでてきたら、さぞかし、子供達は、喜んでしまうであろうし、何でも難問を解答してしまうというコンピューターのペンなどに至っては、今日の人工知能を彷彿とさせるようなアイディアであって、実に愉しいものである。SFとは、サイエンス・フィクションではなくて、「少し不思議」なのだそうである。それでも、しっかり、藤本の執筆に使用し、そこで、最期を迎えた机のおいてある書斎には、ニュートンなどの科学雑誌や、膨大な科学的根拠を丹念に調査した本や資料が、書庫に積み上げられていることが判る。手塚の影響力は、大きくて、トキワ荘時代のみならず、そもそも、漫画家として、世に出るきっかけの手紙などが、送られることがなかったならば、ひょっとして、藤本と我孫子(藤子不二雄A)とは、世に出ていなかったかと思うと、不異議な出逢いと縁なのかもしれない。それにしても、子供の頃の虐めの影響が、ドラえもんのキャラクターにも、反映されていたり、しずかちゃんや他の少女のキャラクターにも、或いは、動物達のキャラクターにも、彼の人生哲学・世界観が反映されていて、改めて、そのひとつひとつの原画を眺めると、実に、面白い。漫画を目指す若い人ばかりか、イラストレーター志望者にも、とても、勉強になるのではないかと、門外漢の私にも、そのように感じられてならない。それにしても、少年時代の手造り作品である「少太陽」などは、少年の頃の有り余る創作意欲が、これでもか、これでもかと、旧い紙面のその一字一字に、或いは、一枚一枚のページに溢れんばかりである。藤本や我孫子の原点とは、まさに、ここから、始まっていたのであろう。長編、「のび太の恐竜」等には、アダムソンの「野生のエルザ」の本が、色濃く、その作品の哲学には、反映されていたと云うことも改めて知らされる。そう言えば、「野生のエルザ」を読んだのは、私が、まだ、中学1年の夏頃だったから、そのライオンを野生に戻すという実話を、恐竜の卵の化石をその時代に、戻すという発想であったのであろうか?そう考えるとなかなか、読み方も、変わってくるモノである。最期に、我孫子のブラックユーモアもそうであるが、藤本のSF短編作に、触れておかなければならない。「みどりの守り神」とか、「ミノタウロスの皿」ほか、様々な作品が、モノクロの表紙で、壁一面に貼られている。ひとつひとつの作品に、込められた藤本の「青年は荒野を目指す」を揶揄したものとか、とにかく、退屈することはない。ここにも、各種の代表作とは別な独自の世界観・作者の哲学観が垣間見られて、大人には、実に、興味深い。一連のSF短編作品ももっと、評価されて然るべきかも知れない。それにしても、昔の不二家提供によるテレビ番組ビデオ上映(おばけのQ太朗とパーマン)は、今日でも、懐かしく感じられるし、又、面白いものである。その声優達の声も、実に、懐かしいものである。入口でのプロジェクション・マッピングも、子供達には、ワクワクさせるものがあるであろうし、「なりきりキャラ広場」での写真撮影も親子連れには、きっと、楽しい記念になるはずである。係の人から、写真を撮りましょうかと云われたが、爺さんが、机の引き出しの中から、顔を出した写真も、今更、必要ないので、やはり、小さな子供達の写真がお似合いであると思われるが、是非、家族連れで、ゆくことをお薦めしたし、或いは、漫画家やイラストを学ぶ若い諸君がじっくり、観ることもお薦めしたいものである。次は、川崎市のミュージアムを訪れたいものである。入口に飾られた藤本愛用のパイプと桃山のきざみ煙草の缶、ベレー帽を被った写真には、何やら、63歳で、逝ってしまった子の天才漫画に、もし、今日、存命していたら、どんな新しい漫画の構想をしたであろうかと、想像させる。それにしても、我孫子には、藤本の分までも、長生きして貰いたいものである。

 


ケニアの貧困に触れる:

2015年09月12日 | イベント 祭 催し
ケニアの貧困に触れる:
台風が何とか過ぎ去った後の野外でのアフリカン・ドラム、音楽とケニアの貧困の話は、甚だ、寒い中だった。日本人の年寄りは、何でも、元ビジネスマンだから、時間には、いつもうるさい。もっとも、東南アジアやインドでの結婚式の開始時間も、熟知しているので、それでも、そういう場合には、適当に、対応するのであるが、何せ、ここは、日本であるのであるから、午後5時開始と云われれば、少なくとも、20分前くらいには、しっかりと、やってきてしまうものである。しかしながら、そこは、アフリカン・タイムだから、或いは、会場自体が、いつも、スローリーを売り物のオーナーだから、到着しても、受付もなく、仕方なく、ステージ設営とリハーサルをしっかりと、エンジョイさせてもらう機会に恵まれたのは、幸いであった。毎年、一度ほどは、西アフリカのアフリカン・ダンスのイベントを愉しむことになっているが、その激しい、ダンスのエネルギーと太古の台地の響きのようなアフリカン・ドラムと踊りと歌詞の判らぬ歌には、驚かされたり、或いは、エネルギーを貰ったりするものである。何でも、約30年にも亘って、ケニアのキベラ・スラムという百万人にも達しようかと云われる巨大なスラムの中で、MAGOSO スクール(馬糞ではない、マゴソだそうである)という戦争や内戦・貧困によって親を亡くした孤児や難民の子供達に対して、教育や給食を無償で提供している早川さんという女性が、日本各地の支援者との間を行ったり来たりしながら、現地の手縫いの作品やCDなどを販売しながら、資金を捻出して、こうした活動に、充てているそうである。それにしても、YouTubeか何かで、レゲーの曲で、アフリカの子供達を助けて下さいという歌を、大勢の子供達が、歌ったり、躍ったりするのを観たことがあるが、貧困のどん底の中で、このアフリカの子供達は、何故、こんなに、明るい表情で、暮らせるのであろうか?平安時代の日本のやエタや、或いは、江戸時代の女郎屋に身売りさせられた婦女子などでも、こんなに、どこか、DNAの底に、決して、明日の輝きを決して、諦めないような強い生命力に溢れた何ものかを有しているとは考えられないとも、思われてしまう。説明によれば、朝、目を覚ましたときに、今日も、生かしてもらっていることに、感謝し、今日一日それだけのために、一生懸命、食べるために、必至に、働くのであると、何とも、今の日本の貧困に、或いは、精神を病む若者に、聞かせてやりたいような説明であった。呪術者のもとで、学んだ奏者の説明では、アフリカン・ドラムには、精霊との交わりをする為の一種の扉・言葉のような物だそうで、まるで、四国遍路の時に学んだ、空海による密教という大宇宙・自然界と一体化する上での密教語を学ぶかのような共通項が感じられて実に、興味深いものである。太鼓のサウンドというものをそういう観点から、聴いてみると、面白い、子供、お母さん・お父さん・お爺さんとか、幾つかの高音から低音までのドラムを、両手の平で、実に、うまく、エネルギッシュに、叩くものである。何とはなしに、原始の太古の人間としての耳の奧底に残っているような創造力と赤ん坊の時に、何処かで聴いたことのあるような「奥深い記憶」の音を、聴いたような気がしてならない。スワヒリ語は、皆目分からないが、日本語で、おおよその訳と曲の歌詞の説明をして貰って聞くのも、実に、曲の理解ができて面白い。豆のカサカサという音を利用した楽器による精霊を呼び込み、一緒に、台地を踏みしめながら、踊り回る時に掛ける掛け声も、実に、人間性を解放するような雄叫びに近いもので、まだ息苦しい大都会で、仕事で、毎日、心を病むような若者には、よい薬になって宜しいのではなかろうかとも思われてしまう。流石に、杖をつく我が身には、参加が叶わなかったのは、実に、残念であったが、小さな子供の飛び入りの演奏も、何か、花ちゃんという小さな子供の心に、きっと、自発的にやりたくなるような内発的なムーチべーションが、生じたのであろうとおもう。それとも、精霊が舞い降りたのかな?それにしても、以前よりも、一層、スラムに流入してくる難民、とりわけ、子供達の数が、増加してきて、「貧困問題」が解決できないそうである。解決どころか、ますます、拡大の一途だそうである。一体、我々には、何ができうるのであろうか?学生時代ならば、山谷や釜ヶ崎のドヤ街で、肉体労働の体験や日雇い労働者支援活動などに、協力もできたが、今や、団塊の世代の我々には、何が、できようか?何もできない分、結局、カンパによる支援活動くらいしか、出来ないのであろうか?何とも、日本人というものは、情けないものである。子供の頃、「密林の聖者」と呼ばれたシュバイツァー博士などと同じ時代の空気を吸って大きくなったのに、、、、、、、、。アフリカン・ドラムというやつは、その音色からして、心の奥底に、潜めて封印していた若い頃の何ものかを呼び覚ます太古の音色なのかもしれない。そんな風に、感じてしまったのも、それは、まさに、精霊との交わりを、通じて、旧い記憶が呼び覚まされてしまったせいなのかもしれない。
下記サイトに立ち寄ってみて下さい。

YouTube: MAGOSO TV by Masaya Onishi:
https://www.youtube.com/watch?v=WHcHy2gj7h8

耳、濯ぐ:ギャラリーれがろ、10周年記念チャリティー・コンサート

2015年05月18日 | イベント 祭 催し
耳、濯ぐ:ギャラリーれがろ、10周年記念チャリティー・コンサート
文化的な事業で、メシを喰うと云うことは、さぞかし大変なことであろう。しかも、画廊となれば、尚更のことであろう。長期間に亘る不況とデフレの波の中で、よく、開業以来、10年もの長きに亘って、経営してきたものである。しかも、別に、親の代からの家業を継いだモノでもなければ、それ専業の世界に、身を置いて、修行してきたわけではないのに、大変な苦労をしてきたことであろう。小諸懐古園でのさくらさくライブと生憎、重なってしまったが、幼なじみのこちらが、先約だったから、こちらを優先せざるを得なかった。それにしても、入場料のうち、ワンコイン分を、ワールド・ビジョン・ジャパンに寄附するというチャリティー・コンサートとはいうものの、その音楽性の内容としては、充分、観客を満足させるに足りうる内容である。とりわけ、これまで、CDなどでも、あまり、聴いたことのない所謂、オペラを、事前の丁寧なプロによる説明・解説を聴きながら、生で、味わうということは、なかなか、楽しいことである。ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バスによる男女混合や単独で歌いあげる様には、耳の鼓膜の奧底まで、その振動で、振るわされ、まるで、耳垢がその震えで、落ちてしまうかの如くである。「耳濯ぐ」ということは、きっと、こういうことを指しているのではないだろうかとも、実感してしまう。分かりやすい説明と解説が事前にあったせいだろうか、とんと理解出来ないイタリア語も、何とはなしに、あらすじが、理解出来たような気がして、おおいに、愉しめました。それにしても、各歌手のプロフィールをみてみると、成る程、芸術には、お金がかかるものであることが、改めて、理解出来る。ことほど左様に、芸術・文化というモノは、演じる側も、それを観る側も、どうやら、そうしたことをしっかりと、理解しうる共通項が、互いにないと、どこかで、デフレの安かろう悪かろうというスパイラルに、陥ってしまうのかも知れない。たまには、しっかりと、良いモノを観たり、聴いたりしないと、眼も耳も肥えないのかもしれないし、芸術を理解・支援するパトロンには、なり得ないのかも知れない。少しは、耳の垢も、一時、落ちたような気がするのは、大いなる錯覚であろうか?

変わらぬ画風で絵馬・ミニ達磨を描く:

2015年01月05日 | イベント 祭 催し
変わらぬ画風で絵馬・ミニ達磨を描く:
版画家、タジケン、こと、田嶋健氏主宰の茶房、読書の森での新年早々のワークショップである。何でも、一年の自分自身のお願いを今年の干支である羊に託して、絵馬を奉納する(?)ものであるそうで、起き上がりこぼしの小さな白い達磨に、これ又、自分の好きな色を塗り、オリジナルのミニ達磨を作るものである。それにしても、「画風」というものは、なかなか、変わらぬものである。今年こそは、もっとも、毎年、そう思うのであるが、革新したいと、願いこそすれ、これが、実に、大変難しいものであります。何せ、退化してしまった「右脳再生中」であるから、当然、願い事のひとつには、このスローガンを書き加えることにしました。参加者の方々は、ほとんどの人達が、イラストやデザイン、音楽や芸術に関係している人達であるから、謂わば、セミ・プロのような人達である。なかなか、こなれた筆のタッチで、構図や色使いが、それぞれ、ユニークなものである。作品が出来上がった後でのひとつひとつの講評が、なかなか、辛いところであるが、まぁ、右脳再生中であるから、そもそも、初めから、マヒしていると思えば、余興の域を出ず、宜しいのではないかとたかをくくることにしました。もっとも、いきなり、羊と云われても、簡単には、描けないので、事前に、それなりのスケッチを準備しておき、大体の構想を纏めておいて、描くことにしました。取りあえず、初日の出をバックにした山に棲む山岳地帯の羊をイメージし、これに、願い事の「右脳再生」、「家内安全」、「健康第一」と書き込んで、色塗りにかかり、完成である。ミニ達磨の方も、オーソドックスな色合いで、赤を基調にして、お目出度い金色を配色して、更には、願い事でもあり、やや、既に、遅きに失した感のあるふさふさの毛髪というイメージで、ミニ達磨を塗ることで、完成させました。こちらも、むろん、「右脳再生」という願い事を、正面全面に、書き込んでみました。残念乍ら、作品は、写真公表を出来る代物ではないので、撮り忘れてしまいましたが、適当な時期が過ぎましたら、記録に保存してみたいと考えております。こういうワークショップは、想像力と創造力とを活性化するには、最適かも知れません。今後も、こうした創作活動のチャンスがあれば、是非、今後、参加してみたいと考えております。

スペインの写真家に、参禅の機会を授かる:

2014年11月20日 | イベント 祭 催し
スペインの写真家に、参禅の機会を授かる:
日本文化というものは、余りに、身近すぎて、わび・さびも、茶道も、習字も、そうであろうが、ましてや、いきなり、禅僧の話、Taisen Deshimaru を知っているか?と云われても、せいぜいが、鈴木大拙の名前ぐらいは、知っていても、曹洞宗に詳しくない限り、弟子丸泰仙なる人物が、欧州で、初めて、参禅が可能な実践的な禅道場を布教して、 Association of ZEN をパリに、設立し、その後も、北米・欧州で、禅道場の布教に尽力したなどと云うことは、知るよしもない。この影響からだろうか、ダダイズム系のスペインのこの写真家は、既に、墨染めの衣もチャンと事前に用意してきていて、参禅も他の我々日本人よりも、所謂、基本的な挨拶も含めた所作・振る舞いにも精通していたことには驚いてしまう。外人観光客に、改めて、日本文化への刮目を促されるとは、驚いてしまう。我々は、ひょっとすると、日本文化への理解などと云うものは、そんな程度なのかとも、自身も含めて、唖然とさせられてしまった。まずは、本堂で、お経を上げて戴き、別室で、参禅の基本的な説明と座り方、座禅の組み方等を、曹洞宗の若い住職と友人の僧侶に説明戴き、本来は、40分のところを、15分間、これを結局、2クール実施してもらうことになった。半畳先の畳を見つめて、背筋を伸ばして、指を開いて組み合わせ、瞑想すること、15分間、ジムで自転車を漕いでいれば、漕ぎながら、テレビでも観ながら、時間潰しに、体を動かすのであるが、それでも、15分間は、なかなかどうして、自転車でもご苦労様なことである。ましてや、瞑想で、頭の中を空っぽにする。組んだ脚も、指も、真っ直ぐに伸ばした背筋も、カチカチに、筋肉が固まり出す。さすがに、脊柱管狭窄症で腰を手術した人間にも、本来では、椅子の上での座禅というものもあると云うことであったが、今回は、座布団の上で、トライしてみた。呼吸法も、鼻から大きくゆっくりと吸い込み、口から、ゆっくり長く自然に吐き出すことで、頭の中を「無」にして行くのであるそうだ。意外と時間の経過は、あっけない程、短いものであった。参禅を終了してから、若い住職と共に、境内を案内して貰いながら、将来は、習字ならぬ、般若心経の写経とか、お茶会・野点、わび・さび文化の勉強、仏教美術品や歴史文化財の保存・修復などへのワークショップ方式による協力、連携を、若い僧侶や海外の観光客と共に、触媒としてでも、日本人として、考え直す作業を進めてゆきたいものであるとして、450年の歴史を有する玄江院を後にした。門前右手の廃仏毀釈で破壊されたであろう首をかしげた旧い石仏像や、成る程、寺の中心から一寸左にずれた正面玄関という佇まいも、説明されないと分からなかった。今度は、参禅と仏教美術鑑賞というのも、面白いかも知れない。又、ひとつ、新しい愉しみが出来た!リステランテ・エスパニョーラでは、せいぜいが、「セルベッサ、ポルファボール(ビール下さい)」くらいしか、通じなかったが、相手が英語を話せればもっと、詳しく説明出来たのであるが、、、、、、残念であったが、座禅の心は、少しでも理解して貰えただろうか?こちらも、もう少し、勉強しなければ、、、、、。

新潟県立近代美術館(長岡市)、「法隆寺―祈りとかたち」展を観る:

2014年07月06日 | イベント 祭 催し
新潟県立近代美術館(長岡市)、「法隆寺―祈りとかたち」展を観る:
今年は何でも東日本大震災から3年、中越地震から10年に当たり、震災を乗り越えられた方々に、日本美術や日本人の精神文化の再発見を供することは、復興という意味に於いて意義深い展覧会であると、、、、。従って、仙台博物館、東京芸大博物館、そして、長岡の地の3会場で、開催される運びで、たまたま、十日町の田島征三さんの関係者の方から、偶然にも、内覧会の招待券が手に入ったので、、、、、ということで、早速、足早に、出掛けることにしたものである。第一部が、美と信仰、法隆寺の仏教美術、第二部が、法隆寺と東京美術学校、第三部が、法隆寺と近代日本美術という各テーマに沿って、国宝の地蔵菩薩立像や重文の法華曼荼羅、その他が、特別に展示されるというものである。なかなか、法隆寺に、出掛けていっても、詳しく、眺められるモノではないので、実に有難いチャンスである。慶應4年、1868年に、発布された太政官布告によって、始められた神仏分離の謂わば、一種の宗教革命のなか、厳しい廃仏毀釈運動により、多くの寺院が、廃寺に陥ったり、寺宝である貴重な仏像・仏画・美術品等が、海外へ、二束三文で、数多くが、海を渡っていったが、考えてみれば、我々は、廃仏毀釈運動という言葉は、教科書では知っていても、それが、どれ程の凄まじさだったのか、宗教革命と言うよりも、日本人の精神・一種の文化革命のような様だったのであろうことを想像することは、極めて難しい物である。謂わば、中国での反右派闘争や文化大革命の最中に、打ち壊された文化遺産と同等の凄まじさだったのかも知れない。従って、そんな中で、焼却処分される運命にあった仏典や美術品を海外に、二束三文で売り払うことは、必ずしも、その後の海外での保存という観点からすれば、皮肉にも、良かったのかも知れない。それは、古代エジプトの世界遺産が、今日、植民地主義の下、奇しくも保存されていることにも等しいことなのかも知れない。そんな中で、東京美術学校の岡倉天心は、法隆寺宝物の調査と保護活動を、明治17年以降、実施し、「奈良古社寺調査手録」と言うかたちで、残したことは、明治期での日本美術史の中でも、フェノロサや、ビゲロー等と共に、大きく、評価されて然る出来事であろう。そして、今日、我々は、又、昭和24年の法隆寺金堂の壁画の火災による消失というアクシデントも、鈴木空如による献身的な模写により、その後、再建されたこと、更には、2013年が天心没後100年に当たることも何かの不思議な因縁かも知れない。知のデジタル保存の必要性も成る程、模写を通じても感じられよう。それにしても、高村光雲や平櫛田中、前田青邨、杉山寧、安田軔彦、等による彫刻・絵画等の作品は、なかなか、直には、観る機会が無いのも、事実である。又、百万塔、様々な紋様の絹製の幡等は、当時の工芸技術の高さを今日にまでも連綿と受け継がれていようか、手洗・花器・遠くペルシャを連想させるような胡面水・香炉・金銅鉢、飾り金具・火舎・香合の鳳凰の紋様・金堂天蓋付属の天人・鳳凰、等…。飽きることがない。工業デザイナーやイラストレーターなどの現代的な観点からも、これらはきっと飽きることはないであろう。それにしても、イヤホン付きの解説は、竹下景子のナレーションについ釣られて使用してしまったが、こえは、一寸、善し悪しである。美術や芸術鑑賞は、一定の基礎情報の理解は必要なのかも知れないが、余りに、その説明を真面目に聴くと、自分なりの鑑賞眼、直感力が、喪失されてしまうかも知れない。そういう危惧も併せ持っているのかも知れない。解説を聴くことと観賞する力を養うことは、必ずしも、合致するとは限らないのかも知れない。一度、聞き流しながら、観てから、今度は、解説無しに、ゆっくりと、自分の直感力と鑑賞力で以て、再度、味わうことが出来れば、これは、ベストであるが、体力と集中力も必要であることは否めないのは事実であろう。

アート・ディレクター、北川フラム講演に考える:

2013年11月25日 | イベント 祭 催し
アート・ディレクター、北川フラム講演に考える:
「大地の芸術祭越後妻有アート・トリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」でも、アート・ディレクターを務めた北川フラム氏の講演会を、NPO法人の「虔十公園林の會」主宰で、開催するというので、参加することにした。毛沢東による「農村が都市を包囲する」戦略ではないが、アートを大いなる武器として、現代アートでも、音楽でも絵画でも、舞踏でも、或いは、芸術・美術が、本来的に有する自然との関係性を大切にして、そこに住む人々が、笑顔で、幸せと感じられるようなそんなアートを国内外のアーティスト達と「協働」で、根付かせる活動を、演出している立役者である。まるで、それは、越後妻有の廃校のアートや過疎・離島のアートが、都市に訴えているかのようである。もう、これまでの都市が、地方の街や村に、埋蔵・貯蓄されていた富を分配・伝播させるという、「都市の論理」:「極端な効率化・情報の集中化・一極集中化」等では、今日、もはや、立ち至らなくなりつつあるのは、冬季長野オリンピックの時に馬鹿げたくらい創り出された不毛な日常、使用されていない農道の舗装道路化をみても、分かろうというものである。「一強多弱」の現実が、今日のグローバリゼーションの結果である。「文化」というモノは、現代の合併された「行政区」では、語り尽くすことが出来ないのも事実であろう。むしろ、逆に、各地域、各地域毎が、小さいながらも、点の中心となり、それが線に、面へと、推進されなければならないという。アートというか弱いモノを、武器に持ちながら、アートの特性を活用して、文明との関係性を、生活に密着させて、謂わば、今日の院展に象徴されるような「動産的なアート」ではなくて、自然との、土との、或いは、海や、河でも、湖でも、山でも、そこにある息づいている人間そのものの「自然との関係性」に於いて、「人間は自然の一部として、表される」ようなアートの存在を媒介に、試みたいと、、、、、、。そこに住み暮らす人々とアートや美術との関係性とは、「そういうモノ」でありたいと、、、、、、アルタミラ洞窟・ラスコーの洞窟の絵の原点のような、、、、。だからこそ、棚田が、老齢化に伴う耕作放棄を余儀なくされた場所に、先祖代々の農民の受け継がれた想いを、作品として、空間アートとして、残されたわけである。世界的なアーティスト達は、恐らく、そういう志しに、マーリア・ヴィルッカラ、クリスチャン・バスティアンス、ドミニク・ペロー、クリスチャン・ボルダンスキー等、ある種の建築家魂や芸術家魂をくすぐられたのではないだろうか? それにしても、徹底的に、しつこく、これでもか、これでもかと、やり続けること、但し、プロの手により、外部の人間を含めて、行われなければ、到底、成功には覚束ないようである。それにしても、地域の住民を巻き込んでの「運動体」たり得べき条件とは、何なのであろうか?少なくとも、運動を担うべき若い人達が、持続的に、活動できうる条件とは、勿論、運動を担うべき「個の主体」はいざ知らず、ある種の方向性とか、国内外への情報の発信とか、情熱だけではなくて、プロフェッショナルなノウハウが、やはり、そこには、総合的に集約されてこなければ立ちゆかなくなることは必至であろう。来年、2014年3月21日から始まる、「晴れたら市原 行こう」アート・プロジェクトも、一つの方向性を試みるものであるらしい。ほとんど、これまで、右脳細胞が、機能してこなかった元貿易マンの私にとっては、なかなか、刺激的な講演であり、おおいに考えさせられたし、今後、どのように、NPO活動、地域活動に関わっていったら良いかを考えさせられるモノがありました。今度は、市原にも行ってみようかな。



世界最優秀ソムリエが信州ワイナリーを訪問:

2013年10月27日 | イベント 祭 催し
世界最優秀ソムリエが信州ワイナリーを訪問:
今年の3月に東京で開催されたソムリエ・コンクールで、優勝したスイス人のソムリエが、スイス在住の日本人と長野県観光部信州ブランド推進室の仲介で、小諸・東御のワイナリーを訪問し、「高い評価」を与えたそうです。日本人は、自国の評価よりも、海外からの評価を、最優先するのは、フェノロサの幕末から明治期にかけての日本美術の再評価ではないが、元々、外国の飲み物であったワインだから、しかたのないことなのであろうか?いずれにせよ、善光寺(龍眼)などの30種類ほどの地場の品種を、その眼で確認して、改めて、赤白のワインを試飲したうえでの評価後のコメントであったらしい。とりわけ、白ワインは、優秀で、この地域が、白ワインの醸造に、適しているらしい。東御ワイン倶楽部のヴィラデストワイナリーや祢津のはすみワイナリー、リュードヴァンや、小諸のマンズ・ワイナリーを実地に、訪問して、「ブルゴーニュにも匹敵する」と絶賛したそうである。実に有難いことであり、千曲ワインバレー構想を後押しすることにもなり、又、東御市の耕作放棄地のワイナリーへの転用とか、更には、地元でのチーズや、レストランなどの観光をも含めた、ワインを中心にした地域振興や、地域経済の活性化も、十分視野に入ることではないだろうか?一時的なマスコミが、取り上げるだけでなく、地道な地域、各関係経済部や農政課などの横の観光課などとの連携も、もはや、待ったなしではなかろうか?東御ワインフェスティバルだけでなく、小諸や丸子も巻き込むような活動の拡がりを期待したいところである。これらの関係産業としてのラベルやパッケージのデザインとか、瓶のデザインも含めて、もっと、もっと、知恵を出し合って、盛り上げて行くことになれば面白いかと思うが、、、、、、。信州ワイン列車でもジビエ料理とともに、愉しめ、温泉地でも、味わえるようなそんな企画は、出てこないのであろうか?そんなことを思っていたら、小諸マンズ・ワインの収穫祭があったので、早速、試飲も兼ねて、出掛けてみた。もっとも、車では飲めないので、わざわざ、電車とシャトル・バスである。それにしても、荒天に恵まれて、すごい人の数である。芝生広場は、もう、腰掛ける席すらない盛況で、シートとテーブルを持ち込んで、家族で、ワインとチーズや焼き鳥を食べながら、小さな子供達を遊ばせている3代の家族連れもいて、ステージのフラダンスやフォークロウの音楽を愉しんでいる。成る程、ある種の場所と空間を提供すれば、明らかに、数多くの人達が、ゆっくりと、そこに、腰掛けたり、座ったりしながら、(もっとも、天気次第ではあろうが、、、、、)ゆっくり、花見ではないが、愉しめるモノなのであろうか?日本庭園脇にある旧いワイン・セラーの公開もなされていて、こちらは、有料での試飲、もっとも、グラスの3分の1以下という割には、一杯500円の試飲であったが、、、、、ワインセラーでの試飲ともあって、マニアには、ショップでの試飲とは異なる溜まらない一時であろう。それにしても、これだけの人々が、他県からも、団体バスで、訪れるのであれば、シャトル・バスも、近場の懐古園とか、温泉施設にも、無料で、回遊してくれれば、もっと、お金が地元に、落ちるのではないかとも思われるが、そうはゆかぬものなのであろうか?東御市のワイン・フェスタ、ぶどう祭りにも、参加してみたが、どうも、点と点だけのような気がして、もっと、面にも拡がりが出来ないものなのであろうか?一方で、小諸市の懐古園、もみじ祭も開催されているのであれば、もっと、広域的な行政協働の展開が、あっても良さそうなものであるが、、、、、如何なものであろうか?ついでにといっては何であるが、帰りに、駅前のドーナツやさんで、りんごのクチイナ種を使用したドーナッツを買おうと立ち寄ったところ、既に、売り切れていて、残念でした。そこで、電車の待ち時間を利用して、「なつまち」の聖地と称されている喫茶店で、「あのサンド」を戴くことにしました。年寄りに出来ることと言えば、唯々、時間を有効活用しながら、「お金を落とすこと」であろうから、すっかり寂れてしまった駅前商店街を観ながら、少々、寂しい思いを抱いていたら、通りがかりの高校生達が、すっかり、しょぼくなってしまったね、と口走って、足早に、駅に向かっていきました。何とも、残念ですね。しなの鉄道の列車も、たまに、乗ってみると、なかなか、ローカル列車の短い旅(?)も、面白いですね。帰りには、田中の駅前駐車場に止めたので、アルコール分を抜くべく、一風呂浴びて、汗を流して、暖まって、車で、帰ってきましたが、考えてみれば、どのようなルートで、人々が集い、時間を過ごすかということをもっと、調査・研究する必要が、観光業者や行政には、有るのではないでしょうか?ふと、そんなことを思いました。地ビールや信州ワインのファンが、増えることは、多いに、楽しみですね!