小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画、<田中 泯、 名付けようのないダンス>に想う:Innommable Dance

2022年02月20日 | 映画・テレビ批評

映画、<田中 泯、 名付けようのないダンス>に想う:

 

60年以上前の野球小僧は、その昔、長嶋茂雄の華麗なステップをイメージして、三遊間のゴロを、さっと左手のグローブを差し出すと、スッと、白球が入ったもので、その後の送球後の一寸した、右手首を曲げる仕草も、今や、<頭の中での空想>であって、間違いなく、華麗なステップを踏むどころか、両脚で立っているだけでも、脚もとがもつれ、フラフラ、バランスを崩すほどの身体的な衰えを自覚すると、もはや、この映画の観賞の仕方も、随分と変わってくるモノであると思われます。

昔の元若者は、60年代の後半に、何やら、白い粉を体中に塗りたくり、頭も剃髪して、ペニスも包帯でグルグル巻いたり、真っ裸同然で、まるで、脳性麻痺か、肢体不自由児のような動きを、前衛舞踏家と称されたり、アングラ演劇だとか、果ては、Street Performance とか称して、公道を何か大声で叫びながら素っ裸で疾駆したり、流石の10代後半の元若者であった私も、その記憶を辿ると、<何じゃ、こりゃぁ!>と驚きあきれ果て、単なる、<舞踊>のセオリーも知らない、素人集団の狂気であるとしか、感じられなかったと言う記憶が残っています。それから暫くして、どうやら、そうした流れは、#大野一雄、#土方巽(暗黒舞踏:肉体の反乱、1968年)、#麿赤児(大駱駝艦)、天児牛大(山海塾)、と言う形で、後年、寺山修司(天井桟敷)、唐十郎(状況劇場)、他の演劇論、或いは、文学界、評論、芸能史、民俗学史、などの分野を巻き込み、澁澤龍彦、三島由起夫(禁色)、(今日で言えば、ジェンダーの問題や女装などの今日的な課題をも取り上げていたようである)、他にも、互いに、影響を及ぼしながら、まるで、明治初期のフェノロサや岡倉天心らによる、日本美術への再評価の如く、欧米での(フランス・米国、他)一種の驚きを以てなされた海外公演の評価と賛辞(賛否両論も含めて)に伴い、<Butoh>(舞踏)という言葉と共に、凱旋帰国を果たし、今日、まさか、田中 泯にまで、連綿として、受け継がれてくるとは、流石の素人である、私のような、たまたま、同時代を共にした元若者も、もっと、当時から、この方面の勉強をして、右脳を磨いておけば良かったと、自分の肉体的な機能の低下と共に、気がつき始めた次第です。

  更に、今から、約7年程前に、<Artist-In-Residency>の運動の中で、化石化した右脳の再生に、海外の来日アーティスト達の支援活動の中で、各国のDance Performer や、Musician, 画家や、彫刻家などと、或いは、地元の関係者との交流を通じて、<表現の媒体>としての、身体(肉体)、楽器、絵画、踊り(コンテンポラリー・ダンスやクラシック・バレーやら、ジャズ・ダンス、タンゴ、インド舞踊、日本民謡、盆踊り、新日舞、など)を通じて、<自己表現>とか、<内発的な湧きい出る原動力(踊りたくなる気持ち)>とは、何か?とか、<作風の変化とは、何が原因となっているのか?>などを、話し合ったモノである。しかしながら、この映画を通じて、自分の右脳の再生も、やや、違った方向ではなかったのかとも、思い始めた次第です。海外出張などで、その土地土地の土着的な音楽や踊り、文化・歴史に触れることをモットーとして、タイやベトナム、韓国、台湾、中国、ビルマ、ネシア、ポリネシアやNZ、メキシコ、チリなども含めて、(アルゼンチン・タンゴとスペインのフラメンコは、現地には仕事の関係では、出張できなかったのは、残念ではあるものの、)休日には、美術館と土産物屋も含めて、愉しませて貰いましたが、、、、、。

  皮肉なことに、土方巽は、1928.03.09生まれで、昭和天皇の即位の日に、生まれ、田中泯は、1945.03.10という終戦の年の東京大空襲の真っ赤な炎に地上が燃えさかる中で、生まれてきたという<奇妙な共通な符号>を有しています。しかも、<一子口伝>ではないが、今風のマニュアルや、ノウハウ・ノート、日舞の流派や流儀とも、或いは、舞踊家とも、一線を画した、集団を作ることの決してない、或いは、勝手に、舞踏家などと分類化されることを断固として、拒否するような、<一つとして常に同じ踊りは存在しない>という、秘儀を内在したところの<伝授>の仕方で、従って、どうやら、正統派のお師匠さんからのお墨付きをえたお弟子さんも、とらない、何か、念仏踊りにも似たような、一遍上人ばりのOdoriとでも言えべきモノなのであろうか、<Innommable Dance>と、この映画では、表現されているが、、、、。日本語訳では、<名付けようのない踊り>のようである。

  2002年の映画、たそがれ清兵衛の映画初出演でも、<演技ではなく、ただ、踊ってみただけだ>とも、その演技を表している。一体、<演じる>と<踊る>とは、どう違うのであろうか?自分が、感じていた、役者の演技とは、飽くまでも、自分と言う肉体(器)を通じて、その役の人物を演じるのであり、そこには、ひたすら、その人物と、役の上で、一体化するある種の何物かであっても、そこには、ある種の役者としての、自己表現が、加味されるわけ(?)であり、だからこそ、同じ役柄でも、異なる俳優が、同じ役柄を演じても、微妙に、演技という音色は、違った響きがするのであろうか、、、、、、、と、 他方、踊りというモノは、とりわけ、田中泯のこの映画の中では、<一つとして常に同じ踊りは存在しない>という信念と<踊りは、個人に所属することは決してない>、或いは、<身体気象:Body Weather>と言う概念、<頭上の森林>と言う概念、頭の上へ、上へと、その頭上の空間に、無数の気のような何物かが、身体のありとあらゆる穴から、まるでタネが発芽するように、そしてぐんぐん育つように、樹が生えて森林を形成するようになるというもので、自然と身体を通じてコミュニケーションが出来るような状態、土方巽の肉体の反乱になぞらえると、<ありとあらゆる形象・形態の言語化により、動植物ら自身の肉体の部位すら、その動きを誘導する>とか、<千本の枝を知覚する>、<歩こうとして身体の中にカチャッと鍵が掛かった部屋がある。>やら、<左耳筋に這うナメクジ>など、<器としての身体:Body as a Vessel>へのアプローチを通じて、時間と空間の無限と極小の体感と表現、に至り、ゆっくりと見えることを理解出来ると、、、、、。もはや、この領域になると、哲学的なサトリに近い境地なのでしょうか?

  舞踏の土着的なもの、とりわけ、<東北に根ざしている所のモノは、イギリスにもある>と言う言葉を聞く限りでは、謂わば、暗黒舞踏の系譜のタネは、決して、日本では、異端やキワモノと半世紀前には、評価されなかったモノも、その後、海外、とりわけ、フランスや欧州各国での評価やNYでの賛辞により、足の長い、指先の細くてすらっとした形状のバレーや、(冬のオリンピックのフィギュアスケートの美意識が典型・主流とは言わないけれど、、、、)、寸胴・短足・がに股・のっぺり顔などの土着的な劣等感的な欠点は、場違いな治外法権的な海外からの評価で、一転してしまったのであろうか、それは、長髪とラッパズボンのビートルズが、あたかも、極東の果ての果てから、近代の超克とも言えべき欧米では考えられないような、常識を覆すような概念の紹介と具体的なデモンストレーションだったのかも知れない。<舞踊(Buyoh)は立ったところから始まるが、舞踏(Butoh)は、立てない状態から始まる>と、、、、、。<一生に一度でも良いから立ち上がりたいと思う気持ち、>と<座れるような立ち姿>、更には、<石の上>と<土の上>との違いで、踊りの思いが異なると言うことの気付き、まるで、工業と農業、狩猟と農耕の対比のようであろうか?

  田中泯は、詩人、吉田一穂の桃花村の概念に基づく、山梨での農作業実戦運動や、敬愛するロジャ・カイユワ(戦争論を著す)のお墓の前で、踊ってみて、改めて、<これからも、ずっと、名付けようのないダンスそのものを、ずっと踊り続けたい>と確信する。そして、唯一の弟子と認める、石原淋に、一子口伝のレッスンをつけるところで、115分に亘る、<自分の中の内なる子ども>との対話を通じて、これから先の自分の踊りを、どうするつもりなのかを暗示しながら、エンド・ロールとなる。

それにしても、3度目のワクチン接種を終えたであろう昔の元若者が、100席の狭い映画館には、今の若者と一緒に、70-80%を占めていたことに、驚いてしまいました。

  最期に、慶応大学のアートアーカイブに、興味深いワークショップをYouTubeで見つけたので、URLを付け加えておきます。併せて、<#土方巽>、<#肉体の反乱>、<#山海塾>も検索してみて下さい。初めて、この種の動画をみるというヒトは、事前に、右脳をしっかりと覚醒させた上で、ご覧戴くことをお薦め致します。さもなくば、当時、リアルタイムで観劇した女子大生は、一斉に、退席したとか、、、、多分、理由は、すぐに理解出来るかと思いますよ。

Dance リーグの素早い、集団の揃った振り付けのやり方にも、驚いてしまうし、又、ストリートダンス対決のような頭で、くるくる回転させたり、まるで機械体操の床運動さながらの回転を伴った攻撃的なヒップホップ張りのダンス・対決も、大変興味深いモノです。しかしながら、改めて、当時の動画を観てみると、過ぎし来し方と行く末の両方にも、人生観での新たな発見が見つけ出されそうです。

映画の予告編

https://happinet-phantom.com/unnameable-dance/

 

YouTube 慶応義塾大学アートセンター Keio University Art Center

没後26年 土方巽を語ることⅡ

https://www.youtube.com/watch?v=p_UGwSwMM6s

YouTube 土方巽 肉体の反乱(1968年) 

https://www.youtube.com/watch?v=dANmcbepNdY

YouTube Kazuo Ohno My Mother:

https://www.youtube.com/watch?v=hzmkYu0d8rM


キーワードで読み解く、<デジタル・ファシズム(堤 未果著)>:(NHK出版新書655)

2022年02月15日 | 書評・絵本

キーワードで読み解く、<デジタル・ファシズム(堤 未果著)>:(NHK出版新書655)

もう50年以上も前の事となると、今の私の脳内細胞では、全く記憶が曖昧になり、当時読んでいた著作の名前も著者の漢字も性格に想い出せないとは、全く焼きが回り始めたモノである。

当時のファシズム研究のやはり主流は、王道をゆく、丸山真男であって、どうしても、ここを入り口にして、手探りで、進んでいったことを想い出す。そのうちに、(順不同であるが)、吉本隆明、橋川文三、(日本浪曼派序説)村上一郎、磯田光一、桶谷秀昭、(思想の科学)、三島由起夫、保田輿重郎、蓮田善明、埴生雄高、司馬遼太郎、柳田国男、竹内好、神島二郎、谷川雁、谷口健一、鶴見俊輔、松本健一、猪瀬直樹、大川周明、北一輝、等の著作を片っ端から、左から右まで、読み進めるうちに、私は、どうやら、正統派よりも、野戦攻城派の考え方、とりわけ、橋川文三・松本健一らの、昭和初期の恐慌と相俟って台頭してくる農本主義(橘孝三郎、権藤成卿)や家の光運動、、アジア主義、反近代土着主義、これらに内包する体制変革志向と相反する矛盾するような逆方向の力学が、産・軍複合体と共に、大陸進出の原動力になったという考え方に、傾きつつあり、当時のメディアによる言論統制・世論情報操作は、どちらかと言えば、従属的な側面であろうと考えていました。

戦後の農地解放や、工業国家へと変貌してゆく中で、農村という地域共同体の文化的・産業的な崩壊とも相俟って、今日的には、戦後の農村から労働者として出ざるをえなかった都市労働者層の意識変化の方に、重きを置かれた研究の中で、過去の分析よりも、それでは、どのように、戦後の政治・経済・精神構造の中で、日本は変容しつつあるのか、とりわけ、戦後の経済成長期を経過した後の、失われた20年以降の、或いは、東南アジア、グローバルな位置づけの中で、、、、、、という内容が、十分解明されないうちに、テクノロジーだけは、待ったなしの状態で、どんどん進み、韓国や中国の経済的な発展、ドル通貨支配に対する日本円による国債基軸通貨たらんとした試行錯誤と蹉跌の中で、気がつけば、グローバリズムの大波に呑み込まれながら、技術大国、(嘗てのソニー、ホンダ、家電業界、半導体、ロボティックス技術、太陽光パネル、等も、今や金型の輸出だけではなしに、中堅技術者・研究者すらも国を捨てて、報酬の働く環境の良い方へとなびいていく現状)も、1stランナーのメリットも享受出来ずに、ズルズルと、世界規模の競争から脱落し初め、Japan as No. 1ともてはやされたRising Sun 陽が昇る国から、少子高齢化の波の中で、凋落し初め、実効賃金が上昇する代わりに、内部留保だけが上積み増され、国際競争力の低下、世界のGDPに対する比率も低落し、貧富の格差が拡がり、事大主義と事なかれ主義が跋扈跳梁し、訳の分からぬ忖度と不作為のなかで、一個も独立することなく、虐めと育児放棄、弱者へのSafety Netも、嘗ての福祉国家の理想も、あっけなく、コロナ禍の中で、消失し、説明責任もなされないまま、組織にひたすら従属しながら、自己保身に明け暮れしながら、戦前の下には下がいるというカーストの最下層民並の被害者意識の他者転嫁やヘイト・スピーチにみられる不遜な民族排外主義的内なる差別の壁を、トランプのアメリカ・ファーストを批判する一方で、戦後50年代の米国のよき黄金時代復活を夢想しているプアー・ホワイトや、いつかきた道の黄禍主義や大中華思想に、心の底では、無意識に、同調してしまう自分達の心とは、体力の衰えをカバーしてくれるITやAIテクノロジーの利便性や便利な無料アプリの中で、植木等の<分かっちゃいるけど、やめられない!>と言う呪文とともに、日常生活の中に、茹でがえる同然、埋没させられているという現実的自己矛盾!一体全体、何処が、昭和初期の農村荒廃と、当時の状況と、今日、異なっているのであろうか?

当時の青年将校達に匹敵する勢力など、何処を眺めても、今の日本には、右も左も、ましてや、政党支持のない無党派層も、安保法制に反対した老人左翼達も、気持ちだけは元気なものの、もはや、口番長を自覚していて、基礎疾患だらけの明日をも知れぬ、人工透析未満、車椅子、特養老人ホーム以前といった、存在と化しつつあるのが現実で、既存宗教界、戦後の新興宗教界もどっぷり、既得権享受者に、陥ってしまっているというていたらくである。

 

 そうした状況の中で、二つの著作を読み比べてみました。

年末から年初にかけて、<(ハラリ著)、21 Lessons for the 21st Century>(英語版電子書籍)と、<デジタル・ファシズム(堤 未果著)>を、同時並行しながら、読み比べながら、読み進めてきた。久しぶりに、英和辞書を引きながら、言葉の意味を反芻しながら、読み込んできたところ、様々なこれまで、漠然と感じつつあったある種の肌で実感してきた危機意識が、まんざら、間違ってはいないのではないかと、やや未だ、確信に至らずとも、そうなる可能性が、徐々に、増しつつあるのかもしれないと思い始めました。

そこで、#ハッシュタグでは、ありませんが、#キーワードを、なるべく使いながら、読み解いてみたいと考えました。

副題は、<日本の資産と主権が消える>です。ここでは、ネタバレではないので、必ず、著書を読まれることを是非とも、お願い致します。

 

プロローグ:

#技術(テクノロジー)、一般大衆が理解出来ていないことを理解している少数の人々が、大衆に対して支配的な力を手にしてしまうと言うこと、ある時点から、専門家以外には、魔法と区別がつかなくなる。既に、日常の隅々に入り込み、必要なときに、必要な情報が差し出される環境は、便利で快適である。#自動運転 #ゲノム編集 #ビッグデータ #人工知能AI #キャシュレス #バーチャルリアリティVR など、

 

#デジタル庁 #スーパーシティ #オンライン教育 #デジタル技術 #少子高齢化 #地方の過疎化 #貧富の格差 今日本が抱えているいくつもの課題が、解決されてゆくと言う事への疑問と、それを読み解く、<3つの要素:おカネの流れ・人事・歴史>から、全体像と、個別事象を取り上げてゆく、

#コロナ禍 #パンデミックス #東京オリンピック #新自由主義 #新しい資本主義政策 #米中デジタル戦争 (中国ファーウェイ問題に象徴される)、<誰一人取り残さない社会を作る>という虚構、

 

<今だけ、カネだけ、自分だけ>の強欲資本主義が、デジタル化によって、いよいよ、最終ステージに入り、ファシズムと組み合わされたときに、もっともその獰猛さを発揮することになる。そして、今問題なのは、そのことを良く理解しないままに、急かされていることであると、どんどん、便利な暮らしと引き換えにいつの間にか選択肢を狭められてゆく方がずっとずっと恐ろしいと、#テクノロジーのスピード #迫り来る危機 冒頭に掲げたSF作家のクラークの法則は、現代にも、今まさに、生きていて、その法則とは、いつも、後からきた誰かによって破られるためにあるから、だからこそ、著者は、この書籍を発行したのであると、、、、、、。

 

第Ⅰ部:政府が狙われる:

第1章: 最高権力と利権の舘、<デジタル庁>:

#3.11 #日本全国デジタル化計画(Society 5.0) #オンライン会議ツール #ZOOM #生体識別情報(顔・指紋・静脈識別) #TikTok生体識別情報自動収集 #GAFA #GOOGLE Amazon #Face Book (Mega) #Apple #惨事便乗型資本主義 #ショックドクトリン #アクセンチュア #データセキュリティ #無料通信アプリ #LINE #個人データ流出 #情報漏洩 #回転ドア #日米デジタル貿易協定 #クラウド法 #BATH(バイドウ・アリババ・テンセント・ファーウェイ) 

 

個人情報と言う形での資産が、海外へ、流出・漏洩、無断で使用されている現実的な事態に無自覚

グローバル企業と政府の間を理外か傾斜が頻繁に往き来するアメリカでは、#回転ドアとは、利益相反と同異義語であるインサイダー的な情報漏洩の危険性よりも、むしろ、合法的利益相反システムであると、官民人事交流という形での非常勤公務員(臨時雇用職員という身分)である。

 

第2章:スーパーシティーの主権は、誰に?

#デジタルシティー #スーパーシティの3つの落とし穴 #デジタル版国家戦略特区

#公共という名が消えた自治体 #公務員が要らなくなる事態 #福祉の不正受給者あぶり出し

#ケースワーカーのロボット化 #AIによる信用スコア化の現実味

 

無人行政、無人スーパー、無人銀行、無人ホテル、自動運転などによる究極のデジタル都市計画の推進、逆に、デジタル化が進めば進むほど、人間同士が分断化されてしまうと言う現実を、どのように防止できるのか? 違いを超えた他者の姿がよく見えなくなってしまうという現実、社会から存在を消された人達が団結したり理不尽な扱いを受けている人々が互いの苦しみや怒りを共有し、共に立ち上がり行動を起こす可能性はあるのか? 明日は我が身の自分にもなり得るという想像力とお互い様という公共精神こそがデジタル行政化には不可欠であると言われているが、機能不全に陥りつつある労働組合や政党に、果たして、何処まで期待できるのだろうか?

 

第3章:デジタル政府に必要なたった一つのこと:

#フィリピンの失敗例 #危険なRCEP #エストニアの秘策 #ブロックチェーン #グレートリセット #デジタル新世界 #ID2020計画(難民デジタル管理) #個人情報は性悪説で守秘せよ #街からGoogleを追い出した市民 #ネット検索されない権利 #一帯一路 #エストニアの事例 #デジタル・セキュリティ #第4次産業革命(4th Industrial Revolution ) #肉体とデジタルの融合 #デジタルとIdentityの融合 #忘れられる権利 #個人による個人データを消去する権利

#ネット検索されない権利

 

#RCEP(地域的包括的な経済連携協定)と#中国版TPPの陥穽とは?サーバーを制するモノが、デジタルを支配するという過酷な現実とは?最大の戦略的なツールである他国のデジタルデータへの介入を中国に譲歩してしまったという事実への無自覚さ、サーバーが北京におかれても文句を言えない現実、(GAFA vs BATH(バイドウ・アリババ・テンセント・ファーウェイ))基本的に、中国企業(中国内の外国企業も)は、中国共産党からの情報開示要求を拒むことが禁じられていると言う現実、

 

#デジタルセキュリティを国家の最優先課題とし、国家の役割を変えることと、信用を電子化すること、ハッキングを想定して、国民の個人情報や国家データの安全確保のために、海外にも、バックアップ体制を構築する必要があろうと、個人データの所有権は本人に属し、厳格な透明性と、いつ誰が、どのような目的でアクセスしたかを自由にオンラインで確認出来る担保と厳しい規制措置が保証されなければならない。又、いつでも、削除できる権利を有していなければならない。この観点からすると、大手銀行による個人情報の販売などは、交通系カードの利用データとも絡んで、一体、何処まで個人情報の守秘義務と機密性が担保されているのであろうか?甚だ、心寒い思いが否めないが、、、。#ブロックチェーン技術は、本当に、どこまで、そうした観点から、有効なツールになりうるのであろうか?東芝の事業部門の切り売りなどは、海外へ流出しないのであろうか?年寄りは、老婆心ながら、心配してしまうが、、、、、、。

 

一体、5Gで繋がったスマートシティーの世界や肉体やIdentityが、デジタルと融合したり、私達の思考方式・嗜好や行動パターンまでも巨大プラットフォームの中に組み込まれ、読み取られてしまう先にある世界は、一体どんな世界なのか? #Post Great-Reset の世界とは?

 

#忘れられる権利 #個人による個人データを消去する権利 #ネット検索されない権利 という<譲れない核心的な大切な価値観である>3大権利は、どのように担保されるのであろうか? #透明性・信頼性・協力・双方向性という要素のルール化、欧州での個人情報保護法案、#GDPR(General Data Protection Regulation:一般データ保護規則) vs GAFA 規制 (欧州でのヤフーメールのサービス停止問題)、

 

第二部:マネーが狙われる:

第4章:本当は怖いスマホ決済:

#現金大国日本 #QRコード決済 #電子マネー5大分類 #サービスデザイン推進協議会 #電通 #パソナグループ #デジタルイノベーション実現会議2018 #キャッシュレス決済第一位の韓国のカード地獄 #私生活まるごと国家管理の中国 #AIによるスピード融資審査 #改正資金決済法の改定 (Apple Pay) #全国銀行データ通信システム(全銀システム) #銀行間資金移動システム手数料 #フィンテック #ノンバンク(キャッシュレス)決済事業者 #NTTデータ利権が崩された訳 #政権関係者はペイペイ関係者 #デジタル給与 #預金者保護法は担保されるのか #地方銀行淘汰 #危険な竹中平蔵式のベーシックインカム #スマートファイナンス #AIによる信用スコア化 #SaaS(Surveillance as a Service:監視によるサービス)

 

1997年のアジア通貨危機と2008年の世界金融危機により打撃を被むり、外資金融業界の格好のターゲット(餌食)になってしまった韓国に於ける禁断の規制緩和である、#キャッシング貸出金額の上限規制の撤廃に端を発したクレジットカードの増刷とカード・ローンによる#キャッシング返済という#自転車操業キャッシングという仕組みと終わりなき#カード地獄の始まりという図式、#カード支払い遅延率の増加と#多重債務者の増加という現実 

 

コロナ禍での#非接触のツールという追い風から、#電子マネーや#モバイル決済が急速に普及し始めた現実、圧倒的に自国通貨への信頼性が低い中国での皮肉な#デジタル人民元や#デジタル通貨への移行、 しかしながら、そうした便利さとの引き換えに、国民は、知らず知らずに、デジタル社会での最大の資産を、国家へと無条件に、(私生活の情報が丸ごと監視され)、差し出しかねない自体に気がついていない。オレオレ詐欺やアポ電強盗による現金詐取被害は、外国では考えられないくらいに、日本では多いという驚くべき現実と現金への信頼、

 

学歴・勤務先・資産・人脈・行動パターン(買い物履歴・交通違反・各種トラブルなど)返済履歴(負債・支払い遅延)など、個人情報を商品化した一種の信用格付け情報サービスで、これが、今や、個人生体認証や顔認証ともバイオメトリックスとして融合すると、不愉快そうな、おどおどした状態で、スーパーに入店しただけで、いきなり、万引Gメンがピッタリとマーク監視したり、無人コンビニでは、何度入店を試みても、自動的に入り口で、入店お断りになる可能性が、現実味を帯びてきますね。ヒトは、見かけで判断されるどころか、乞食のコスプレでも大金持ちは、裸の王様でも、入店OKになるかも知れません。

 

#フィンテックの進展に伴う、ノンバンク決済業者と全銀オンラインシステムの関係、或いは、これらと政界・海外コンサル会社・銀行金融界の人脈間での利害相反が見え隠れ中で、#マイナンバーカードと#保険証や#eタックス申告による税額控除増額というインセンティブなど、年金・税金・保険・給与・ポイントカード・GoToトラベル、他のありとあらゆる生活の分野で、今や、デジタル化の統合と包括化を謳った<便利さ>と引き換えに、<撒き餌>が、公然と現在進行中であることも事実である。

これから先の世の中では、一体、誰が、蛇口の水(自分のカネと資産)を開け閉めするのであろうか

お行儀良く、よい子にならないと、蛇口は突然、締められてしまう恐れはないのであろうか?

 

第5章:熾烈なデジタルマネー戦争:

#デジタル通貨構想 #仮想通貨:リブラ、 #ビットコイン #基軸通貨 #世界金融システム #米ドルの支配 #デジタル人民元 #CIPS(人民元クロスボーダー決済システム) #世界統一デジタル通貨 #国家による通貨発行権の消滅 #高額紙幣の消滅 #体内マイクロチップによる秒速決済完了

 

どうやら、ことは、個人の生活上では、済まされずに、今や、国家間でのレベルになりつつあるようである。国家権力と通貨発行権の主体という根源的な問題に迄至りつつある。#基軸通貨という考え方と、#SWIFT(国際銀行間通信協会)も含めたドル決済による国際的な銀行間取り引きシステムとも絡んでくるし、ウクライナ危機に対する非軍事的な制裁措置としてのSWIFTからの排除とも絡んできそうである。

 

果たして、嘗て、日本がドルの支配から脱却を目論んだ、日本円の第3通貨構想を、果たして、人民元が、全く異なる視点であるデジタル通貨の普及で、一帯一路と相俟って、果たして、本当に近い将来、実現出来るのであろうか?虎の尾を踏んでしまったリブラは、あえなく頓挫してしまったが、習金平は、果たして、ゼロ・コロナや恒大グループの不動産不良債権問題」を克服して、ドル基軸通貨に風穴を開けられるのであろうか?

 

キャッシュレスに始まった現金・コイン廃止の動きは、銀行にとっても、都市部のATMの廃止やオンライン通帳による経費の削減と効率化に向かい、更には犯罪の撲滅と税収の増大という二つの目標をも、その延長線上に、近い将来、同時に実現出来るのだろうか?

 

第6章:おカネの主権を手放すな

#匿名性と個人のプライバシー #違法資金洗浄 #マネーロンダリング #脱税 #犯罪対策 #サイバー犯罪 #現金がなくなることで犯罪は減るのか #預金封鎖 #タンス預金の行方 #デジタル財産税 #デジタル訪問販売サギ #改正特定商取引法改定 #18歳成人制度への移行 #改正銀行法 #韓国と連携した郵貯による信用スコア 

 

テロとの戦いの中で浮上してきた資金洗浄の対抗策としての現金との戦い、現金を悪者にする、本当の真の意図はどこにあるのであろうか?自国政府は、いつも、善い正しい行動をとる等という保証は何処にもないのであり、政府は必ず嘘をつくという名言を、どのように読み解いたら良いのだろうか?

 

昔の歴史を読み解くときに、#徳政令 #モラトリアム 等という言葉を単に、借り得だとか、支払い猶予だとか理解していたら、戦後間もない悪政インフレ退治や財政の破綻防止にとられた旧貨幣価値の更新や#預金封鎖の強行は、決して、インドの高額ルピー紙幣の廃止ではないが、まんざら、忘れやすい日本人でも、他人ごとでもなさそうであろう。これらの政策の真の狙いは、実質的な#財産税の徴収と将来的な#個々人の資産把握を可能にさせるための予備準備であろうか?

 

実際、ピケティ等が、提唱する国境を越えた富裕税の徴収や、#デジタル財産税の創設導入も含めて、1%の一部の人間のために、99%の難民も含めた全てのデジタルID総背番号管理に至る序章なのであろうか? 匿名性と個人のプライバシーとの国境を越えた両者のせめぎ合いは永遠に続きそうで、イタチごっこなのだろうか? 本当は、デジタル化で利便性が向上するのは、消費者・利用者ではなく、実のところ、サービスを提供する側とそれを統括するひと握りの組織だけなのであろうか?

 

成る程、#報道しない自由とメディアによる#報道の自由への自主規制(ある種の政治的な忖度)などは、改正特定商取引法の内包する問題、老人(かんぽ生命他で契約上の問題になったデジタル契約書を認知症の老人が告知認識せずに一方的に締結された問題)や若年層(18歳成人年齢の引き下げ問題)への具体的・潜在的な危険性は、何も、#ジャパンライフ詐欺訴訟や#マルチ商法、等を取り上げるまでもなく、十分、報道されていないことは、まことに遺憾ではなかろうか?

 

<おカネとは、思想そのものである>、<少しでも違和感を抱いたら、躊躇せずにノーと言うことだ!><まだ、声を上げられるうちに、>という著者の一言は、誠に、傾聴に十分値するモノである

確かに、言論・行動・思考・嗜好・表情、など、あらゆる分野でアルゴリズムとAIとバイオメトリックスが、複合的に融合して、瞬時にして、信用スコアが、デジタル化で判定され、みえない手で監視されてしまう未来が来る前に、、、、、、<なぜ、私達は、おカネの為に、一所(生)懸命に、働いているのか?>、又、物心がついてから、長年、働いてきたのか? 自問する必要があろう。

 

第Ⅲ部: 狙われる教育

第7章: Googleが教室に来る

#GIGAスクール構想 #生徒の個人データの収集 #デジタル改革関連法の大幅改定 #個人情報保護条例 #緩められた自治体の個人情報保護ルール #公立学校内の5G基地局設置 #電磁波健康被害と通信機器との相関関係 #デジタル教科書 #教師採用の変容 #電波規制緩和 #パンデミックスと邪魔な規制撤廃 #プログラミング教育の導入 #加速するオンライン教育 #世銀とGAFAとアフリカの子ども

 

電波通信事業という分野は、これまで、NTT電電公社の民営化で、電信電話であると理解していたが、土光民調や中曽根内閣による、事業の民営化による移管だというように、国鉄も電電公社も、更には、その後の小泉による郵政民営化も含めて、官から民への衣替えくらいにしか、当時は、感じていなかったが、上記の歴史的な一連の流れの中で、改めて検証してみると、間違いなく、ある種の<利権構造>そのものであり、しかも、とりわけ、(通信)電話・電信とは、電波であり、まさしく、今日的な広い意味での<宇宙的なサイバー空間・ネット領域>・<通信分野の国際的な自由化>を意味していることに、改めて、気づかされる。それは、もはや、単に、一世を風靡したあの<i・モード方式やPHS方式携帯電話の隆盛と衰退>と言う問題だけでなく、或いは、何故、ソフトバンクが真っ先にiphoneに飛びつき、最期まで、NTTドコモは、導入を躊躇っていたかという疑問も自然と解かれてしまう。

 

嘗て、田原総一郎が、<デジタル教科書はいらない>と言う著書の中で、デジタル教科書もデジタル黒板も不要だと主張したのを記憶しているが、当時私は、国際貿易の最前線で現役ビジネスマンの真っ只中で、しかも劇的な為替変動相場の中で、必死に、日々刻々進化する黎明期のPCデジタル技術の習得に、日夜励んで、それというのも、Faxから、ワープロに、そしてNEC98から、Windows95へ、そして、テレックスから、E-Mailへ、国際電話代が高額だったから、SKYPEで、やりとりしたりしながら、海外の取引先から、花火が綺麗だからと貰ったPCのファイルが、後日、コンピューター・ウィルスだと知ったときは、もう、後の祭りだった、そんな時代背景を想い出す。

 

私は、ほとんど、運動神経は、文武両道で、負けてはいないが、それでも、左脳中心だから、最近目にした、ダンス科目の導入やヒップホップ・ダンスの履修など、流石に、右脳が化石化している自分などは、今の小学生でなくて良かったと思いました。更に追い打ちをかけるように、#プログラミングの履修必修化に至ると、もうココまで来ると、流石に、英語や貿易用語・金融用語・PCの扱い方などは、マシな方で、こちらは、飯の種だから、嫌が応にも、ツールを習得しなければ、生き残れず、<喰うための不可欠な武器・ツール>と割り切って、マスターするために自己流の勉強をせざるをえませんでした。美術や技術工芸や家庭科の裁縫や音楽のリコーダーなどはまだしも、ヒップホップやプログラミングなどは、生徒も大変だが、教える側の教師自体が、専門的な知識を持ち合わせておらず、更には、日進月歩の技術を教えるとなると採用試験自体が、教員免許制度自体が、採用自体が変容を迫られることになろう。

 

第8章:オンライン教育というドル箱:

#米国発の教育ビジネス #学校に投資する意味 #チャータースクールの陥穽 (費用は税金、運営は民間) #ベンチャー型チャリティー(寄付金控除)事業 #教育の投資商品化 #民主党オバマ大統領の功罪 #教育ビジネス #オンライン教育市場 #教育(学校運営)の外部委託 #子どもを仮想空間へ移せ #公教育解体と教育のデジタル化 #立ち上がる親と教師

 

#ヘルス産業と同じような将来まさに金の卵を産むガチョウが、#教育ビジネスで良いのであろうか?それは、もはや、昔の塾の経営とか、予備校とか、#公文式学習法とかいう範疇では、済まされないレベルになりつうあるのが、現実であろう。恐ろしいことに、公共教育という共有財産分野に、正々堂々と寄付金控除が可能な民間資金に、公金が投入され高い配当性向が還元されるというビジネス・モデルが確立されている。

 

米国に於ける公共教育の場への私的な資本が、公的資金の利用という名目で、事実上、投入されていったビジネスモデルの陥穽があるとしても、私立の教育機関では、なかなか、この流れは、流石に、<学の独立>と言う歴史的な<倫理上のリテラシー>から、飽くまでも<個人による善意での母校への寄付金>と言う形で、行われていて、あからさまな形でのリターンを求める迄には、今のところ、いっていないようであるが、私学の独自の伝統と尊厳と会計報告公開義務だけに委ねるのは、問題かも知れない。返還義務を免除された奨学金制度上の募金や運用改革など、コロナ禍で問題になった喫緊の課題でもあろう。

 

 

第9章:教科書のない学校:

#生身の教師は不要になる #タブレットなしには自分の頭で考えられない子ども #自分の子どもにスマホを持たせない #荒川区学校図書館活性化計画 #待つことの価値 #早くしないとおいていかれるという考え方#スピードこそが価値を持つという価値観 #教育改革は急いではならない #ミラーニューロン脳内細胞 #手書きと脳の関係性 #倫理を持たないAI vs 未来を選ぶ私達

 

国家公務員法には、公共のために働く条項や、憲法99条で、公務員は憲法を尊重し擁護する義務を応という一文があるが、非正規の臨時職員採用などにより、実質的な形骸化と空洞化が進む中で、単に、知識の伝達や検索する方法、ツールの使い方を教えるインストラクターさえいれば善しとする現状は、真の教育とは、教師の本当の役割とは、何かを改めて、考えさせられる。

 

幕末の松下村塾吉田松陰による教育とは、デジタル・オンライン教育と何処が違い、或いは、明治期の札幌農学校のクラーク先生や、お雇い外国人教員の教えは、一体、何処が違っていたのであろうか? 実に、興味深いところである。

 

二つの特徴ある授業とは、①すぐに答えをおしえてくれないこと。自分とは異なる考え方に傾聴する事を学び、活発に議論する。②教師が決して、生徒の答えに○×をつけないこと。正しいかどうかではなくて、その答えに辿り着いたプロセスに興味を持って貰うことに重点を置き、思ったことを自由にありのままの自分でいられるようにすること。 

生身の存在として、教師の一番重要な役割とは、違う考えのあるひとの存在を同じ空間の中で受け入れることや、想像力を駆使して、他社に共感する訓練をせざる終えないこと、又、答えの出ないことを考える道のりに何よりも価値が置かれている。(結果よりもプロセスの重視)ヒトとしての繋がりや生徒を褒め、励まし、上達を共に喜ぶことこそではないか!、

 

子どもの健康な身体、創造性と芸術性と感受性、規律と自制の習慣や 柔らかい頭と機微な精神を十分に発展させる能力が妨げられないためには、デジタル機器を13歳未満の子どもに利用させないことであるそうである。

 

#共感力を育むためには、実際に、人と対面で会う事が必要で、#ミラーニューロンと言う脳内神経細胞が機能して、他者の行動やその意図を理解出来ると、モニターやスクリーンを通じて会っても、画面を見ているだけで、生物学的なメカニズムが作動しないと、

 

子ども達の自身による<情報分析・収集能力>と<批判的な思考>を育むためにも、又、<情報の多様性を身体で感じる>ことを学ぶには、図書館活性化計画が必要であろう。 多様なヒトが集まれる場所が次々に消えていっているという現実が、コロナ禍で進行中、地域コミュニティも機能せず、子どもだけでなく大人にとっても、公共的なプラットフォームまで失いつつある。

 

SNSとは、思想を蛸壺化して囲い込むことができ、創業者のザッカーバーグ自身が20世紀最大の大衆操作ツールであるとまで、まるで、ゲッベルツもビックリするくらいの認識で語っていると、そして、その情報とはビッグテックによって意図的に操作され、作られた情報格差で、決して平等ではなく、また、万能ではない。全て、便利な機器やネット回線のインフラの提供も私企業であるという構造を、しっかりと、子ども達に、しっかり教えておく必要があろうと、実際、現実の世界は、GAFAやBATHの外にも、存在していて、そこでは何ら評価されないような人達が同じように生活しているという事実を、、、、、。

 

確かに、生まれたときからテレビがあり、スマホがあり、パソコンもタブレットある世代には、国家権力をも超える眼に見えない影響力と支配力を有する得体の知れない、利便さを提供してくれる様々なツールやアプリやサービスを、自分たちで選択しているようで、実は、思考を形成されながら生きているという現実的矛盾を、デジタル世代は、気がつくことが出来るのか?また、気がついたとしても、抵抗できうるのであろうか?そんな<心の眼と気付き(覚醒)>を、どのようにしたら、育むことが出来るのであろうか?

 

テクノロジーと人間の考える力、忘れない事、問いかける力、まつことを厭わない忍耐力、想像力、等の教育との関係性をもう一度、じっくりと考え直してみる必要がありそうである。#透明性 #説明責任 #公平性 #倫理性 #未来を選択する権利 #基本的人権 #個人情報保護 #憲法の順守 を改めて、考え直し、同時に、AIが、人間の頭脳に限りなく近づくよりも、もっと、危険なことは、どうやら、人間が知らぬ間に、茹で蛙の如く、無感覚になってしまい、AIに忖度して、コンピュータのような思考方式に、気がつかないうちに、感情も、表情も、行動も、思想も、判断も、委ねることで、考え始めたときにこそ、真の<デジタル・ファシズム>に陥り、その時には、既に手遅れになるということであろうと、そのツールを動かすのはだれなのであろうか?

 

エピローグ:

#ステークホルダー資本主義 #情報の非対称性 #個人情報保護=基本的人権 #一般データ保護規制(GDPR) #アルゴリズム #プライバシー保護 #デジタル権利法 #未来を選ぶ自由 #深く考える力 

 

#無法なネット空間で荒稼ぎをしてきた勢力に対して、企業が収集したユーザーの個人データにアクセスする権利、不正確な情報を修正したり削除したりする権利、そして、アルゴリズムが下した決定を制限する権利を手に入れること、個人情報=基本的人権であるということ

 

もう、若い頃に読んだ著者達も、数名を除いて、鬼籍に入ってしまいましたが、改めて考えてみると、今日的な課題は、エネルギー問題も、基軸通貨の問題も、貧富格差の問題も、排外主義思想も、領土・国境の問題も、違法なテロリズム・暗殺も、ナチズムや軍国主義のくびきから、多大な犠牲と生命財産を失われた上に、解放されたにもかかわらず、高邁な理想と普遍的な人権・言論の自由、安心・安全を享受しうる正当な権利すらも、70有余年の後の世には、いまや、風前の灯火であり、形を変えた新たな専制権威主義と価値観を異にした闘いの火種を、宿していることが、何とはなしに、感じられる。それは、あるときには、剥き出しの暴力であったり、また、あるときは形を変えた、眼に見えない空間で自覚することなく自身に迫り来る暗闇のような精神的な恐怖やトラウマのような未知への将来への漠然とした恐怖なのかも知れない、そんな不確実性は、新型コロナ禍の拡大と共に、一層、ヒトとヒトとの非接触と一定のSocial Distance という距離を置くという、人類がこれまで育んできた生物学的な細胞学的なメカニズムまでも、ライフ・スタイルのみならず、明らかに、年齢世代や性別・貧富の差にかかわらず、間違いなく、影響を及ぼそうとしていることは、どうやら、カミューのペストの時代のスペイン風邪やインフルエンザとは、異なる様相を呈し始めていることが、この著書を通じて、考えさせられる。とりわけ、若い世代、これからの時代を牽引するであろう、子ども達は、一体、どのような世界を過ごすことになるのであろうか?

今日では、あからさまな軍事的な謀略だけではなくて、準軍事的な、内戦型・謀略騒乱型の情報騒乱や情報・交通・基幹産業インフラを狙った事前的ななし崩し的なサイバー空間での衝突を前提にしたシナリオが、常套手段とされ、昔の中野学校的なインテリジェンス活動が、事前に、緻密に、プログラミングされていて、気がついたときには、既に、敵の術中に嵌まってしまって、身動きが取れなくなってしまう状況に陥ることも、珍しくない。

少なくとも、それ程もう、残された時間もない50年前の元若者達には、何が出来るのであろうか?少なくとも、子ども達の未来をしっかりと選べる権利を残すためにも、何をしたら良いのか、自問自答しながら、本を閉じることとしたい。