小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

松本健一氏の死を悼む:

2014年11月30日 | 書評・絵本
松本健一氏の死を悼む:
小さな訃報を告げる記事である。あるシンガーの死亡記事の隣であった。歳で云えば、2才ほど、上の世代である。戦後精神史を、或いは、アジア文化史と云われる分野を丁寧に、様々な人物を見直すことにより、右翼とか、左翼とかという範疇ではなくて、現代史的な観点から、日本人の考え方を見直し、且つ、その思考方式や行動様式を、再考させるという地道な著作が多かったように思えてならない。それは、丸山真男や竹内好、橋川文三等の系譜にも連なるであろうし、或いは、俗に言うところの司馬遼太郎とは一寸、系譜を異なるかも知れないが、並行して流れるある種の系譜であったのかも知れない。とりわけ、学生時代、日本ファシズムの源流を勉強していた関係から、橘孝三郎などの農本主義や保田与重郎、蓮田善明らの日本浪漫派の思想や、或いは、2.26事件の黒幕と云われた北一輝の思想系譜を、広く、アジア文化史にまで遡って、三島事件で、精神的にガックリきていた僕たち世代に、「評伝 北一輝論」等は、とりわけ、アンチ・テーゼを示すきっかけにもなった気がする。戦後には、単なる右翼とかいう十把一絡げの範疇に模された大川周明や東山満、或いは、高橋和己の「邪宗門」のモデルになった大本教の教祖、出口和仁三郎などを、幕末から戦中・戦後に掛けての精神史の中で、ある意味、丁寧に、誤解を解く作業は、なかなか、当時の雰囲気の中でも、勇気の要る作業ではなかったかとも思われる。既に、谷川雁も、村上一郎も、司馬遼太郎も、ましてや、吉本龍明も、今はなく、三島由紀夫すら、遠い昔の存在になりつつある今日、又しても、近い世代で、「知の巨人達」の系譜を継ぐ松本健一も逝ってしまった。一体全体、今日の閉塞した日韓・日中の、とりわけ、アジアでの外交的な行き詰まりに対して、草の根のアンチ・テーゼたるべき大きな指針を、若い世代の中で、掲げられるそうした少壮のオピニオン・リーダーが、出てくる可能性があるのであろうか?誠に、我ら「憂鬱な世代」には、心配の種である。又、本棚を引っかき回してみることにしようか?

冬終いの準備に取りかかる:

2014年11月29日 | 自然・植物・昆虫
冬終いの準備に取りかかる:
11月も終わりに近づいてきたので、車のタイヤもスタッドレスに履き替えて、冬支度をして、東京へ戻る準備をすることにした。信州の冬の里山は、気温もだんだん、低くなり、朝起きて、洗面の時に、水道管の凍結防止のヒーターのサーモ・スタットが自動的に作動して、暖かな温水が、蛇口を捻ると出てくる。恐らく、明け方の外気温は、零度に近くなっているのであろうと想像される。ベランダには、霜よけの為に、大きなブルー・シートの覆いを掛けて、紐で、端をくくりつけておくが、例年、下からの風や、雨や積雪・氷で、冬の厳しい環境の下では、耐水性であっても、大変である。まぁ、やらないよりは、マシであると云ったところであろうか?今年の2月の大雪の時には、1ヶ月も経った後でも、膝上くらいの残雪が、固い氷と化して、ガチガチに、固まっていたものである。二重窓ではない箇所には、内側から、プチシートを窓枠に沿って貼りつけて、防寒対策とする。水廻りは、毎年、念入りに、シンクには不凍液も注いで、万全を期することにしている。それでも、冬場の寒いときには、どういうわけか、凍りつくことがある。一体、野鳥たちや、リスなどの小動物らは、どのようにして、この厳しい冬の寒さを凌ぐのであろうか?餌台に置いていった向日葵の種なども、恐らく、一日限りで、食べ尽くしてしまうのが、関の山であろう。申し訳ないが、こちら様は、里山に較べれば、ずっと暖かい都会へ、避寒では、申し訳ない。次は、年末・年始の年越しか、冬の間に、一寸、来荘するくらいかな?水廻りが、きちんとしていれば宜しいが、、、、、、。暫く、冬の間は、店終いである。次は、雪景色になっているであろうか。

へんくつ街道の対談に期待する:

2014年11月28日 | 社会戯評
へんくつ街道の対談に期待する:
20年も前に、小諸・佐久・望月・安曇野を連なる地方文化人の人的ネットワークを、どういう訳か、偏屈な人間なのであろうか(?!)、それとも、時勢に媚びない、或いは、独自の信念を以て、その地方の土地土地に根ざして、土に生きて行く、あるいは、公然と中央に刃向かい、独自の視点で、そこに固有の地方文化を構築しようとしたそういう人々を称して、良い意味で、世間の方こそ、間違っているという意味を込めて、「へんくつ街道」と名付けたのであろうか、それは定かでは無いが、時の経過とともに、様々な事業で、その土地の産業、文化に、しっかりと根を張り、海外にも、堂々と自己主張して行くようになったことは、どのようにして、成し遂げられたのであろうか?今日、官製、「地方創生」が、補助金・地方交付金と共に、声高に、人口減少対策とか、地方と都市間の格差是正という名目で、叫ばれ、ばらまかれ始めようとしているが、本当に、それで、良いのであろうか?そこに住む住民一人一人が、独自の確固たる主義主張を行わずして、或いは、ビジネス・モデルを都会と違った一味も二味も違った独自のオリジナリティー溢れるアンチ・テーゼを提供しない限り、彼らの成功は決して、今後も、継承されることはないであろう。何故、どのようにして、こんな偏屈な哲学が、構築されたのであろうか?それとも、時代が、逆に、忘れさてしまったのか、それとも、置き去りにして進んで行ってしまったのか?何故、偏屈な哲学、人生、或いは、奇妙と人の目に映る生き方で、事業に成功したのであろうか?或いは、何故、運動体として、或いは、ビジネス・モデルとして、それぞれ、成功してきたのであろうか?若い人を含めて、おおいに、傾聴に値する対談である。或る者は、地産地消、蕎麦を中心にした創作料理で、或いは、小諸の御牧ヶ原台地から、追い出されるようにして、安曇野へ移転して、世界的な評価を得るまでのチーズ作りに、成功したのか?或いは、藤村の文学的な遺産を受け継ぎながら、旅館というおもてなしを継承できたのか?そして、グリーン・ツーリズムの先駆者、何の変哲もない原風景を残す里山を、長い年月を掛けて、自然と共に、歩みながら一種独特の文化的な哲学的なレベルにまで、景観・アートや音楽や美術を通じて、自然文化資産というべき里山の付加価値を高めることに、何故、成功できたのか?今日的な食・住・観光・産業などとも密接に関係づけられる中で、その人間的な生き方と運動の在り方を鋭く、今日の都会的な考え方、生き方に、アンチ・テーゼとして、否、もはや、テーゼはなくて、ある種の運動体としての結実という形で、人々の中に、しっかりと根付いていこうとしている。そのメカニズムを何としても、直接、これらの偏屈な市井の賢人達に学び、それぞれの人生の場で、それぞれの土地土地で、伝播・実践しなければならないであろう。そういう刺激になる契機となるような対談になることを願ってやまない。

日 時: 12月13日(土)午後2時から
場 所:中棚荘旅館 、小諸市
参加費 :1000円  ブックレット付き     (出来るだけ予約)
司会 土屋和浩 定員100名

清水牧場 清水則平 :
ウォッシュタイプのチーズを日本で最初に手掛けた。岡山を皮切りに理想の牧場経営を求めて、セルフビルドで家を建て現在は終の牧場松本市奈川へ。日経の人気ランキングチーズで2度も日本一に。

中棚荘  富岡正樹 :
文学の宿 文豪島崎藤村で有名な温泉文学に造詣が深い。グリーン・ツーリズムの活動にも熱心。へんくつ街道起点荘主はソムリエでもあり、ぶどう作りに熱心。

職人館 北沢正和 ;
地域の開拓の先駆者 数年前農水省から栄えある賞を受賞した。地産地消を早くから訴える。地域おこしにもアドバイサーとして全国から呼ばれる他講演依頼も多い。

小諸市役所 土屋政紀 :
へんくつ街道の名付け親にしてへんくつツーリズム創始者。へんくつ街道の魅力そして今後に期待する事を熱く語る。

茶房 読書の森 依田雄すろうりぃ :
「里山を美しく整える」のが生き甲斐だとか、「野原アーティスト」だとか言って、二十余年来薮を切り払って過ごしている。すろうりぃ仲間が増殖中。

連絡先 中棚荘 0267-22-1511 職人館 0267-52-2010  読書の森 0267-25-6393
共催 へんくつ街道 ヤルダ兄弟舎(土屋和浩 雑誌『ターンズ』アートディレクター) 

是非、この偏屈な賢人達の念いは、聴くだけの価値があるかと思いますので、ご参集下さい。

https://www.facebook.com/events/861114003934108/

電話通信業者が、儲からないわけだ!:

2014年11月27日 | 社会戯評
電話通信業者が、儲からないわけだ!:
何でも女房殿が、突然、iPadが、欲しいと言い出した。まともに、PCも扱いこなせないのに、、、、、、以前、専用のPCを買い与えて、メールでもネットでも、勉強して使いこなせるように、薦めたのに、、、、、、結局、無駄な投資であったのに、、、、、。既に、友人やお付き合いしている人達が、みんな保有していて、しかも、使いこなしているから、結局、一人だけ、取り残されたガラパゴスの住民になってしまったらしい。もっとも、この住民は、iPadを使い出せば、友人達に、どんどん、質問して、使い方を勉強できるらしい。しかつめらしく、旦那から、馬鹿だ、チョンだと云われることもなく、懇切丁寧に、しかも、無料で使い方を教えて貰えるらしい。初期設定は、すべて、子供達にして貰って、無事、Gメールも開通したし、サクサクと、ネット・サーフィンを楽しんでいる。今日などは、iPhoneとiPadで、Face Timeを通じて、無料通話が可能であることを何処かから、聞き出してきて、結局、アプリを入れて、実験的に、テスト通信を行ってみたところ、活用出来た。更に、Skypeの無料アプリをダウンロードして、アカウントを開設して、兎に角、最低限度の使用方法を教えて、テスト通信に成功してしまった。いやはや、何とも、恐ろしい時代である。何の知識も無くても、チンパンジー同然(?)に、使い方だけを教えて貰えれば、自分で苦労することなく、苦も無く、使用できるし、更には、知恵までもが付いてくる始末である。あんなに、苦労して覚えた先駆者の苦労などは、何処へやらである。しかしながら、今日の世の中は、そんなものなのかも知れない。これでは、デジカメも、時計も、そのうち、携帯電話も必要とされなくなってしまうかも知れない。パスワードくらいは、自分で、管理して貰いたいくらいである。それにしても、電話通信業者もこれでは、一体全体、何で、儲けを出しているのであろうか?大変な世の中になったものである。便利さが、技術革新が、ITの恩恵を受けてこなかったガラパゴスの住民をも、今や、IT武装化してしまうのが現実なのであろう。いやはや、驚き入るばかりです。赤ん坊でも幼児でも、使いこなすというのは、確かに、事実なのであろう。そう言えば、弟のところの孫も、使いこなしていたのを想い出す。

一寸、気になるCM:

2014年11月26日 | 社会戯評
一寸、気になるCM:
そう言えば、最近では、ラジオを聴かなくなってしまったものである。せいぜいが、FM放送くらいだろうか?車の新しいナビには、テレビ画面が、小さく映し出されてしまうと、もう、ラジオを昔のように、聞くことはなくなってしまった。ましてや、受験勉強の頃ではないが、深夜放送などは、とんでもない話である。そんな頃には、既に、白川夜船である。何でも、「言葉が言葉を超えて膨らむ瞬間」を感じさせてくれる番組が、FM東京の深夜0時51分、月曜~金曜日で、来年の1月2日まで、「見えてくるラジオCMキャンペーン」で放送中らしいと、、、、、、、。もっとも、こんな遅くまで、起きている訳がないので、そういうリスナーには、有難くも、ウェッブ・サイトで、アーカイブまでも聴かれるサービスもあるそうである。成る程、聴いてみると面白いものである。コピー・ライターという職業も、テレビや雑誌だけでなくて、ラジオなども、面白いものである。ビジュアルではなくて、別の想像を耳からじっくりと掻き立てる手法というものがあることに気付かされる。CMは、確かに、ある種の時代の空気を読み解くものではなかろうか?商品以上に、想像が膨らまないCMもあるし、逆に、想像が膨らみすぎて、商品がなんであったのかどうかも想い出せないような、もはや、CM自身が、独立して、ひとつの思想的なメッセージ性を有して、一人歩きしてしまうような時代の瞬間瞬間を表すCMも存在する。是非、想像力を働かせて、耳を傾けてみるのも面白いものである。

「見えてくるラジオCMキャンペーン」: http://www.tfm.co.jp/mietekuru/

胡桃を味わう:

2014年11月25日 | 自然・植物・昆虫
胡桃を味わう:
季節毎に、その旬のものを味わうことは、地方都市での小さな楽しみのひとつであり、又、人生を味わう時に、ふと、何気なしに、喜びを感じるものではなかろうか?晩秋から初冬に掛けては、銀杏とか、胡桃とかの木の実が、実に、信州では豊富である。以前、くるみ割り用に、金属製のペンチのような道具を購入したものの、どうも、うまく、割れない。銀杏には、結構、役には立ったものの、、、、、、、、。採りたての固い殻に蔽われた胡桃の実は、既に、加工を施されたものに較べて、その身は、大変クリーミーで、実に美味しく、新鮮である。私は、ナッツ類に食物アレルギーがあるので、アーモンドなどの木の実類は、芳しくないのであるが、少量ならば、抗ヒスタミン剤を服用すれば、問題なく、少量のみ、毎年、旬のものを戴くことにしている。何せ、高血脂肪症も、注意しなければならないから、そんなに、馬鹿みたいに食する必要は無い。ただ、少量をワインと、ついでに、ブルーチーズか、何かを、クラコットの上に載せて、戴ければ、それで良ろしい。本当は、薪ストーブか、暖炉の暖かな炎でも眺めながら、ワイングラスを揺らしながら、ロッキング・チェアーにでも座りながら、一時の晩秋から初冬へと移ろいゆく夜の静寂を、家族や友人達と愉しめれば、これに勝るものはないであろう。今回は、日帰り温泉施設に売られていた特大粒の胡桃と、一緒に売られていた民芸品の木製のネジ式の胡桃割り器を購入して、割りながら、試してみた。一寸、中身が黒みがかった食べられそうにないものが出てきたので、こちらは、屋外の野鳥の餌台に置いておいたところ、翌朝には、ものの見事に、跡形もなく無くなっていた。翌々日の朝に、食事をしていたところ、ベランダの手摺りをリスが、ス、ス、スーと素早く、掛けて行き、餌台に顔を突っ込んで、向日葵の種を食べていたところをみると、どうやら、リスが、食べたようである。どんぐりの実といい、まさに、今は、リスの餌が、豊富な時期である。人間様も、リス同様、この季節の恩恵を少しでも、短い間に、愉しみたいものである。程なく、長い冬が訪れることになる。紅葉していた樹の葉達も、風に吹かれて、一斉に、ハラハラと、落ち始め、その枝振りを露わに見せ始めている。これから、長い冬を迎えようとしている。

非礼を恥じる:参禅その続き

2014年11月23日 | 社会戯評
非礼を恥じる:参禅その続き
時として、道元禅師が、云っていた言葉を、想い起こす。食事の時の所作・振る舞いも、挨拶も、すべて、合理性があって、それが、長い年月を積み重ねるに従って、フォルム化される。やがては、それが、眼に見えない形での礼儀や規範なり、ルールなりになり始め、その根本的な精神が忘れ去られ、形骸化や、抑圧に転化してしまいがちである。スペインの写真家に伴われて行われた玄江院での参禅体験を終えたとき、我々日本人達は、脚を揉んだりしていたが、彼だけが、恐らく、欧州で参禅をしていたのであろうか、黒墨の衣を纏い、白壁に向かって、額を床に、押しつけて、両手を上に向けて、恭しく、礼をして、若い僧侶に対しても、合掌とお辞儀をきちんとし終えた。何とも恥じ入るばかりである。日本人は、フェノロサではないが、日本文化を外国人から、改めて、その文化価値を教えられるのかも知れない。翌日、彼は、写経を行い、更に、抹茶を購入し、茶道も体験しようとしたり、貪欲に、日本文化を学ぼうとしたそうである。我々も、写経や華道、茶道も、きちんと最低限度くらいは、学んでおかなければいけないのかも知れない。更に、彼は、日常生活にでの使えるようにと、作務衣を購入したそうである。今後は、仏教美術や文化財保護活動なども、広く、視野に入れて、文化活動を実践してゆきたいものであると痛感しました。

To my overseas friends,

Am ashamed of impolite behavior:
I , at some time, recalled the word said by DOUGEN Zenji Monk. Behavior even taken at the time of having Meal or any conduct and greeting has some reasonable rationalization , and they will turn to become FORUM for a long time. Finally they will be invisible Rule, Norm, or Etiquette, etc, whatever called, in daily life, however, its original concept or philosophy is , as time goes by, apt to be forgotten and turns to depress us or become mere façade, After finishing ZEN self-meditation experience accompanied by Spanish photographer, we, all the Japanese participants, were ashamed of impolite behavior when we saw him in black-colored uniform bending down to the white wall with both hands up , forehead touching the tatami mat, and greeting Zen monk with both hands joining together.
We, Japanese, like Fenollosa in early Meiji era, are realized by the Value of Japanese Culture by foreigner again. Next day, he hand-copied Zen sutra, Hannyashingyou , though he could not write Kanji character, and studied Tea ceremony with strong passion to study spirit of Japanese culture in Komoro. We need to study and know even at minimum our own Japanese culture in the field of Flower arrangement, Tea Ceremony, Hand-copying Sutra, etc. he is said to have bought daily uniform as well to wear for daily work. We may try our best to contribute ourselves to participate in such active movement as to support conservation of old Buddhism Art or Japanese Culture in our small local town, I do really feel its importance and be realized again by foreign travelers, unknown Spanish Photographer.

大義なき選挙という考え方:

2014年11月21日 | 社会戯評
大義なき選挙という考え方:
一体全体、政治家も、マスコミも、本当にそう思っているのであろうか?所詮、歴史などと云うものは、大義を有する者が、勝った試しなど無いでは無いか!?そんなものは、勝てば官軍で、初めから、勝てる戦が出来る状況の時には、きちんと、相手もそれなりに準備周到に、考えて戦をするものであろう。つまりは、負けない戦、あわよくば、大勝利になるかも知れないそんな闘いではないだろうか?今更、大義などを声高に唱える者ほど、そんなことは、全く、政治の何たるかを知らない素人が云うものであって、メディアなどは、常に、勝ち馬に結局は、最期には、すり寄っていくものであることを忘れてはならない。それにしても、アベノミクスの失敗とか、あげつらうのは構わないが、それでは、これまで、どれ程のアンチ・テーゼを国民に提示し、且つ、どれ程までに、実行できたのであろうかと云ってしまえば、どのように応えるのであろうか?デフレ脱却でも、実質賃金の獲得でも、常に、官製春闘ではないが、官民挙げての出来レースの中で、そんなに、簡単に、ハイそうですかと、企業経営者が、利益の賃金への配分をしてくれるとでも、本当に考えているのであろうか?もし、そんな幻想を抱いているとしたら、野党も、労働組合も、お目出度い者で、困ったものである。それにしても、今日、攻める方に、こうした「したたかさ」に、欠けると言わざるを得ない感慨を抱くのは、如何なものであろうか?如何にも後手後手に廻る守りの選挙から、如何にして、攻めの選挙に、転じられるかが、鍵であるが、どんなものになるのであろうか?国内だけでなく、外交でも、こうした「したたかさ」が、欲しいものである。

スペインの写真家に、参禅の機会を授かる:

2014年11月20日 | イベント 祭 催し
スペインの写真家に、参禅の機会を授かる:
日本文化というものは、余りに、身近すぎて、わび・さびも、茶道も、習字も、そうであろうが、ましてや、いきなり、禅僧の話、Taisen Deshimaru を知っているか?と云われても、せいぜいが、鈴木大拙の名前ぐらいは、知っていても、曹洞宗に詳しくない限り、弟子丸泰仙なる人物が、欧州で、初めて、参禅が可能な実践的な禅道場を布教して、 Association of ZEN をパリに、設立し、その後も、北米・欧州で、禅道場の布教に尽力したなどと云うことは、知るよしもない。この影響からだろうか、ダダイズム系のスペインのこの写真家は、既に、墨染めの衣もチャンと事前に用意してきていて、参禅も他の我々日本人よりも、所謂、基本的な挨拶も含めた所作・振る舞いにも精通していたことには驚いてしまう。外人観光客に、改めて、日本文化への刮目を促されるとは、驚いてしまう。我々は、ひょっとすると、日本文化への理解などと云うものは、そんな程度なのかとも、自身も含めて、唖然とさせられてしまった。まずは、本堂で、お経を上げて戴き、別室で、参禅の基本的な説明と座り方、座禅の組み方等を、曹洞宗の若い住職と友人の僧侶に説明戴き、本来は、40分のところを、15分間、これを結局、2クール実施してもらうことになった。半畳先の畳を見つめて、背筋を伸ばして、指を開いて組み合わせ、瞑想すること、15分間、ジムで自転車を漕いでいれば、漕ぎながら、テレビでも観ながら、時間潰しに、体を動かすのであるが、それでも、15分間は、なかなかどうして、自転車でもご苦労様なことである。ましてや、瞑想で、頭の中を空っぽにする。組んだ脚も、指も、真っ直ぐに伸ばした背筋も、カチカチに、筋肉が固まり出す。さすがに、脊柱管狭窄症で腰を手術した人間にも、本来では、椅子の上での座禅というものもあると云うことであったが、今回は、座布団の上で、トライしてみた。呼吸法も、鼻から大きくゆっくりと吸い込み、口から、ゆっくり長く自然に吐き出すことで、頭の中を「無」にして行くのであるそうだ。意外と時間の経過は、あっけない程、短いものであった。参禅を終了してから、若い住職と共に、境内を案内して貰いながら、将来は、習字ならぬ、般若心経の写経とか、お茶会・野点、わび・さび文化の勉強、仏教美術品や歴史文化財の保存・修復などへのワークショップ方式による協力、連携を、若い僧侶や海外の観光客と共に、触媒としてでも、日本人として、考え直す作業を進めてゆきたいものであるとして、450年の歴史を有する玄江院を後にした。門前右手の廃仏毀釈で破壊されたであろう首をかしげた旧い石仏像や、成る程、寺の中心から一寸左にずれた正面玄関という佇まいも、説明されないと分からなかった。今度は、参禅と仏教美術鑑賞というのも、面白いかも知れない。又、ひとつ、新しい愉しみが出来た!リステランテ・エスパニョーラでは、せいぜいが、「セルベッサ、ポルファボール(ビール下さい)」くらいしか、通じなかったが、相手が英語を話せればもっと、詳しく説明出来たのであるが、、、、、、残念であったが、座禅の心は、少しでも理解して貰えただろうか?こちらも、もう少し、勉強しなければ、、、、、。

我らの健さんがとうとう逝ってしまった!:

2014年11月19日 | 映画・テレビ批評
我らの健さんがとうとう逝ってしまった!:
「あなたへ」で、脇役として、競演していた俳優の大滝秀治が、亡くなったときに、高倉健が、同じ俳優として、生前に、役者の演技について、語った言葉が、今でも、脳裏に残る。後年の役者人生も、素晴らしいが、やはり、我々の世代、全共闘世代には、何と言っても、「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」、これであろう。学校帰りに、友人達と一緒に、銀座の場末の並木座に、30代の頃の健さんが、登場すると、客席から、すかさず、「ヨシ!」という掛け声がかかる。ポリ公ならぬ、敵役のヤクザの俳優がでようものなら、これ又、「ナンセンス!」とばかりに、まるで、銀幕の中の高倉健が演じきる役柄に、僕たち、若い観客は、自己投影したものである。橋本治が、駒場祭にイラストした、「とめてくれるな、おっ母さん、背中の銀杏が泣いている」というポスターにも、色濃く、反映されているように、当時のまさに、26年も経過した平成の世から、今にして思えば、昭和の香りが、残っていたのかも知れない。それにしても、何故、あんなに、尖っていた時代に、あれ程までのストイックな役柄を演じ切れたのであろうか?仮に、俳優にも、賞味期限があるとしたら、いや、人生にも、それなりの賞味期限があるとせば、若い時の短い、賞味期限である20代、30代の時には、肉体的も、鋭い眼光でも、あの短い刈り上げられた頭の形も、諸肌脱いで、唐獅子牡丹の入れ墨を見せながら、仁義を切ることも、その時の一瞬でしか、その時しか、出来ないことだったのかも知れない、改めて、もう一度、みたいものである。想い起こせば、映画を見終わった後で、鶴田浩二が、いつも、銀幕で、拳を握って、歩いていることに気付いて、外に出てからも、電車に乗ってからも、そう言えば、ある種の精神を持続するために、知らず知らずのうちに、拳を握って歩いている自分に、気付いて、笑ってしまったことを想い起こす。学歴に苦労した両親の世代から、期待されて学校に通ったものの、何か大きなエスタブリッシュメントに抗おうとする、孤高の世界の中で、高橋和己の「孤立無援の思想」の中で、尖った時代に、「内なるドス」を心の奥底に、きっと、若い観客は、一人一人が、そういう思いを持ちながら、きっと、「昭和残侠伝」を観ていたのであろうか?そんな僕たちも、高倉健のその後の俳優としての成功を追いながら、「不器用」な性格同様、いつしか、妻にも、家族にも、愛情表現がうまく出来ない男に、齢を重ねるに従って、なっていったのかも知れない。石原裕次郎のような「ジャックナイフ」とも一寸違って、「内なる心のドス」は、いつしか、錆びてしまったのか、或いは、妻や家族の愛の中で、溶けて融解してしまったのか、分からないが、あのドスのきいた声も、鋭い眼光も、齢を重ねるに従って、或いは、社会的な成功を収めるにつれて、消え失せてしまったのだろうか?銀幕の中の高倉健が演じきった様々なこうした人物像は、その後の様々な作品を観ても、それらの中に、しっかりと、燦然として、輝きを保っている。映画というものは、自分の中に在るある種の「心の有り様」を考えさせてくれる媒体で、それは、逆に、仮想の世界に、引き込まれてしまうモノではなくて、むしろ、逆に、「気付かせて貰う」ありがたいものであるのかも知れない。仮想の「生き方」を、俳優という商売は、演技を通じて、一人一人に、考えさせる職業なのかも知れない。今日、簡単に、歌手や、パフォーマーと称する者達が、いとも簡単に、ハードルが低くなった性なのか、どうかは分からぬが、俳優業に転向できるそういう、ある種の「器用さ」が、世の中に蔓延しているが、人を寄せ付けないような「孤高の不器用」というものも、確かに、演技として、演じきったことは、成る程、偉大なことであろう。仮に、今、「昭和残侠伝」をリメイク使用としたら、一体、どんな監督が、どんな無名の俳優を起用するのだろうか?どこかに、そういう若い俳優が息を潜めて、虎視眈々と狙っていることを、期待したものである。それとも、今日、そういうことは、受け入れられないという時代なのであろうか?

版画の作品を更新する:

2014年11月18日 | DIY
版画の作品を更新する:
先日、刺繍手芸にトライしてみようと簡単な犬の絵の刺繍をしてみたが、なかなか、これが、難しく、どうも、しっくり行かなかった。そこで、刺繍の方は、一寸、一休みにして、いずれ、後日、再度挑戦することにして、この図柄を版画に生かしてみようと思って、これを木版画にしてみることにした。こちらは、亡き愛犬の姿を想い起こしながら、彫刻刀で、彫ってみたが、図柄が、それ程、複雑ではないので、まぁまぁ、それなりに表情も、毛並みも、三角刀で、チョコチョコ細かく彫っていき、毛並みのような感じになったのではないだろうか?版画というものは、この辺の細かい表現が可能になるのは、なかなか、絵画とも異なり、面白いものである。もう一枚は、野鳥図鑑に出ていた啄木鳥の絵を模写して、枯れ木に、止まっているところの絵を、ゴム版に彫刻してみたものである。こちらは、なかなか、複雑な羽毛の色がしているので、多色刷りは、まだ、技術的に、稚拙なので、赤いところだけを、白く掘り抜いて、後から、着色することにしたものである。小さな木製の額に入れてみたところ、結構映えるではないか?これからは、一作品毎に、積み重ねて行けば、なかなか、興味深いコレクションが出来上がるかも知れない。やや、右脳も、すこしづつ、活性化されつつあるのかも知れない。この冬場には、どのくらいの作品が出来るであろうか?


中国船による小笠原密漁に考える:

2014年11月17日 | 社会戯評
中国船による小笠原密漁に考える:
如何せん、拝金主義者との闘いでは、初めから、勝利はない。しかも、国際的なルール、例えば、ウミガメの保護のために、網の規制を国際ルールで規定したような資源保護のルールが、出来ない以上、どんなに、罰金や、厳しい法的な規制をしても、難しいであろう。GPS記録とか、採取場所の記録、船体の記号化、網の基準、操業時間の共通化など、結局、資源保護を伴わない限り、結局、互いの、と言うよりも、一方的な日本側での反中国感情だけが、ますます、強まれこそすれ、弱まることは決してないであろう。食品のトレーサビリチーではないが、珊瑚の捕獲についても、サイズ他、DNA分析も含めて、トレーサビリティーがなされなければ、一向に実行性を伴わないであろう。(実際、中国製の鰻の蒲焼き他、この仕組みが既に、かの国でも、構築されているはずである)台湾・中国・韓国などを主たる関係国として、外交的に、世界的な情報発信をしてゆかなければ、日本は、外交的にも、商業実質ベースでも、勝利することはないであろう。拝金主義者に、罰せられても、それをカバーして余りある程の莫大な利益を得られるという確信が消えない限り、決して、止むことは無いであろう。何せ、1回で多額な利益を産む以上は、、、、、、、、。供給側のみならず、販売・卸流通の段階でも、トレーサビリティー他、厳格な国際的な規制が施されない限り、そして、ニーズがある限り、供給源は、絶たれないことになる。それにしても、中国当局も、こんな傍若無人な振る舞いを政治的に、許していたら、或いは、意図して、実行していたとするならば、本質的に、対中国感情の依然として悪化を食い止めることはないであろうに、一体、その背後に隠された意図は、何処にあるのであろうか?昼間、日本漁船が漁をした軌跡を辿って、夜間に、一網打尽に絡め取るような相手では、どんなに、中国語で冷静に訴えても、埒が明かないであろう事は、これまでの相手の反応を見てもわかろう。唯一残された途は、国際的な共通ルールと同じ土俵の上で、相互監視システムを構築して、実施できる国際会議なりを、開催しない限り、無為な追いかけごっこに、終始することになるであろう。日本という国は、本当に、こういうことを海外に向けて発信することが下手くそな国にいつからなってしまったのであろうか?

水素価格は、本当に、ガソリン並になるのか?:

2014年11月16日 | 社会戯評
水素価格は、本当に、ガソリン並になるのか?:
何とも、悩ましいものである。いつも、自動車選びやPC選びでは、煮え湯を何度も飲まされているので、これが、20年後の話であれば、そんなものかとも疑わないのであるが、金未来ということであれば、やはり、疑ってしまう。何せ、官の側で、主導するものは、疑ってかからないと、太陽光発電の補助金も然りで、危なっかしくて仕方が無い。FCVの普及にしても、ハイブリッドやプラグ・イン・ハイブリッドという繋ぎのものの普及のスピードと、水素ステーションなどの普及などのインフラ整備や、FCVへの補助金などを考えると、一体全体、本当に、そのような筋書きに、2020年頃までには、なるのであろうか?官民挙げて、そういう方向性へ、動こうとしていることは分かるが、肝心の消費者の方は、もっと、したたかなのではないだろうか?間違いなく、そうなると分かっていれば、皆が皆、勝ち馬に乗ることは必至であろうが、シェールガスやら、液化天然ガスやら、果ては、メタンハイドレイド、藻類による石油化、等の開発競争激化に伴い、果たして、筋書き通りに、うまく行くのであろうか?個人所有者だけでなくて、トラックやバス・タクシー等の商業車では、果たして、採算がとれるのであろうか?30年先の大計を立てると口で言うのは、大変優しいが、今日ほど、目まぐるしく、技術開発競争が激しいとなると、一体、どれが、ベストなのか、迷わざるを得ないであろう。そうはいっても、平均的に、程々に、均等にやっていても、メリハリが付かず、誠に厄介な問題である。

Tokyo Passingは可能であると確信する!:

2014年11月15日 | 社会戯評
Tokyo Passingは可能であると確信する!:
長野県による東京・銀座へのパイロット・ショップの開設に、特段、疑問符を投げかけるモノではないが、今日のITC活用の可能性を考えたときに、もはや、東京をひとつの市場調査の場として、捉える必要性は全くないように、思えてならない。既に、海外も含めて、顧客へ、或いは、消費者へ、直接、アクセスできるツールが、揃ってさえすれば、恐らく、問題なく、直接的な情報発信やレスポンスも可能であるし、又、それらのファンを増殖させることで、彼らに、率先して、情報を、イイネをトモダチに、発信して貰い、或いは、一般公開して貰うことで、更に、効率よく、宣伝をして貰う仕組みさえ構築できれば、恐らく、東京を経由しての流れがなくても、全く、問題なく、自己のコンセプトなり、哲学を正々堂々と主張出来る訳である。しかも、日本人を相手にすることもなく、主人の哲学を理解して貰える人ならば、誰でも、何も、日本人に限らずに、海外の、とりわけ、若い海外の観光客へ、直接、アピール出来うるコンテンツを創り出せば宜しいのではないだろうか?独自のユニークなコンテンツさえ、編み出せば、今日、様々なルートで、ITCを駆使して直接的なダイレクト・アクセス、ダイレクト・マーケティングが可能になれば、如何様にも、可能性は開けてこよう。何も、田舎の僻地にいても、何も恐れることは無い。要は、独自のコンテンツと哲学に研きを掛ければ、おおいに知恵を絞り出すことで、観光でも多いに、生き残れるどころか、むしろ、積極的に、オンリー・ワンの拠点作りが可能になるのではないだろうか?それは、ひいては、結果としてのTokyo Passingになるのかも知れない。最近、地方都市で、ボランティアをお手伝いすることで、このことを強く確信するようになってきた。工業デザイナーや、IT技術者なども、フリーランスで、活躍できる場と機会が拡がっているように思えてならないが、、、、、、。後は、ノウハウとコンテンツに研きを如何にして、かけられるかと言うことだけであろうか?

黄色い景色から、茶色になりつつある:

2014年11月14日 | 自然・植物・昆虫
黄色い景色から、茶色になりつつある:
東側の窓は、ついこの間まで、真っ赤に染まったモミジの紅葉のお陰で、(流石に、カーペットを敷いているから、量との旅館のように、ピカピカな床が赤く映えることはないが、)それでも、窓が明るくなった感じがしたものの、もう、すっかりと、落葉して、枝が丸出しになり、その趣きも、一変してしまった。これに代わって、今度は、南側の窓が、取って代わり、黄色に変色したどんぐりの樹の葉や、緑色の木の葉が、見事なグラデーションを彩っている。日一日一日と、そのグラデーションも、微妙に、変わって行き、今や、茶色になりつつある。まもなく、この調子だと、冬の訪れも早まるのかも知れない。空からは、ハラハラと、落ち葉が、舞い落ちてきて、道端に、それらが、積み上がっている。いよいよ、落ち葉掃きのシーズン到来である。昔は、子供達が、小さい頃には、一緒にこれらの落ち葉を掻き集めて、サツマイモを焼いて、焼き芋を愉しんだものであるが、、、、、。確かに、こちらの落ち葉は、半端な量ではない!冬の陽の光が、家の奥までも、入ってくるようになってきた。真っ青な空には、遠く、透けてしまった枝越しに、鳶が気持ちよさそうに、丸く円を描きながら舞っている。いよいよ、冬の到来間近かかな?