小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

ビデオ<新聞記者>を 観る:

2021年11月13日 | 映画・テレビ批評

ビデオ<新聞記者>を 観る:

 

GAFAと言う存在を快く思わないにもかかわらず、日常生活の中では、アマゾン・プライムの無料配達や無料ビデオで映画を観たり、本を読んだり、急いでもいないのに、無料翌日配送で、ネット注文した商品が届けられてしまうなどと、全く困ったモノで、<21 Lessons for the 21st Century>(by Yuval N. Harari)という英文の著作を読みながら、改めて、これからの自分自身の矛盾に満ちあふれた生き方も、含めて、じっくり、この映画のように、巨大権力と眼に見えないAIとSNS・メディア他との関係性の中での自身のこれからの残された短いであろう生き方を見つめ直す機会としましょうか?

それにしても、コロナ禍で、何本かの映画を見逃してしまったが、そのうちの1本である。

この映画の中で、取り上げられている<新設の大学>とか、<生物兵器研究所>(感染症研究も含めて)とか、或いは、<ジャーナリストによるレイプ事件>、<国家公務員の自死>とか、何とも、東京新聞や文春砲などによる、既存マスメディアとは一線を画したまるで独立愚連隊的な、或いは、個別ゲリラ的な<権力に忖度しない、真実に迫ろうとする取材と情報の公開>という姿勢は、ある種、獲物を追いかけ、臭いを嗅ぎ廻る、そして、獲物(真実と呼べるべきモノ?)を追い詰めてゆく飽くなき猟犬の性(さが)のような感じがしないわけではない。むろんそれが、ある範囲の倫理的なガイド・ラインや行動コードに抵触しそうなギリギリのきわどい、或いは、超えてしまうモノであったとしてもである、、、、、。そんなものは、検察審査会なるもので、再調査が行われまいが、不起訴判断(いつもの茶番劇だから、決して、驚くべき事ではないが)だろうが、そんなことは、どうでも良いほど、限りなく、噂であったとしても、証拠が見つからなくても、真実に近いモノを、人々は、どこかで、嗅ぎつけるモノであろう。確かに、この映画の中で登場するような事件というモノは、<あぁ、あれは、あの事件だったのかなぁ、>とか、<こっちの方だったのかなぁ>等と、勘ぐってしまうモノである。暗い部屋の中でモニター画面だけを凝視しながら、まるで、ロシアや北朝鮮のITハッカーのように、人々のSNS上の発言や、フェイク・ニュースやヘイト・スピーチも含めて、左から右も含めて、ありとあらゆる情報監視・操作を、<権力の犬たち>は、<嘗ての国体の護持や国家の安寧という大義・名分のため>に、日夜、この霞ヶ関のビル群の中のどこかで、或いは、オフ・サイトで、ネット・ワークに繋がれながら、<権力の走狗>として、(内閣府情報調査室?)で、この映画の中の多田役の田中哲司(NHK大河ドラマで、荒木村重役で、すっかり、私は、ファンになってしまったが、仲間由紀恵の旦那にもなってしまった事を知ったときには、一寸、驚きだったが、、、、それはさておき、)の指示・命令系統のもと、行なっているのであろうか?

 ネタばらしになってしまうから、あらすじは、割愛させていただくモノの、キャリア組の上級国家公務員の中でも、各省庁から選抜や出向されてきた人物達とそれを束ねる室長(多田)との葛藤や暗闘、或いは、仕事と情報の機密性・公益性のバランス、或いは、誰が、誰のために、何故、そうしなければならないのか、自らの愛する家族を置き去りにして、投身自殺せざるを得ないまで、<守らなければならない価値とは、一体、何なのか?> 自死と言う行為により、残された者達、とりわけ、その家族の中でも、子供という弱い、一番守られなければならない者にとっては、この映画の中での投身自殺してしまう元上司の神崎の娘や妻、ヒロインの新聞記者の吉岡(シム・ウンギョン)も、彼女自身の父の無念を晴らそうとする行動や、その自死を迫られた理由、あんなに強かった父が、何故、自死に至ったのかという理由の追求を通じての<真実を追い求める姿勢>と、皮肉にも、杉原役夫婦(松坂桃李・本田翼)が、激務の中で、破水から、赤ん坊が早産で命の危険の瀬戸際に陥る(私は、てっきり、死んでしまったと早とちりしたものだが、命が助かって 本当に安堵したものだ!)場面、そして、初めて、後日、対面するときに、3人で小さな指に触れあうところなど、黒塗りの記録といい、財務省の本省からの無言の圧力などを考えると、映画のストーリーにも、出てくる実在する記者達(本映画の原案の望月衣塑子、元文部科学省事務次官の前川喜平、日本在住のアメリカ人ジャーナリスト、マーティン・ファクラーの対談が現実のTVニュースで放映・挿入されるという形で映し出されるのも印象的で)、それは、別の意味で、象徴的に、現実の姿が、如何んなく、<現実の冷酷さと冷徹さ>という形て、まざまざと見せつけられる事になります。

 そして、最期には、この映画のもっとも、象徴的な、シーンとして、多田から吉岡への電話:「よく書けている。お父さんにそっくりだ。あなたのお父さんの記事は誤報じゃなかった。でも死んでしまった。残念ですね!」と、そして、一方で、多田は、杉原へも、恫喝にも近い慇懃無礼な今後の身の振り方に関するオファー(こちらも、そう言えば、海外への転属をどこかの国の女性内閣広報官も、似たような事例で、異動させられたことをチラッと、脳裏をかすめましたが、、、、)と、そして、<最期の最期に一言発した捨て台詞>が、私には、気になって仕方ありません。

「これ、お前じゃないよな、お前なわけがないよな、」、「外務省に戻りたいか? しばらく外国に駐在しろ。そのうち、世間は忘れる。そのかわり、今持っている情報はすべて忘れろ!」、更には、「杉原、撤回することは恥ずかしいことじゃないぞ。この国の民主主義は形だけでいいのだ!」と、この言葉を聞いた瞬間の杉原(松坂桃李)には、妻の顔が、或いは、赤ん坊の顔、或いは、元上司の神崎の顔が、或いは、その妻や娘さんの顔が、浮かんだのでしょうか?それとも、父の自死の理由と真実を追究してやまなかった吉岡の顔が、浮かんだのでしょうか?映画のシーンでは、暗くて、その形相と心の底は、垣間見られませんでしたが、想像に余りあるモノがあることは事実でしょう。残念な事に、先日、<孤狼の血、Level 2>の中での鈴木亮平と松坂桃李との競演をみたかったのですが、生憎、映画館に、日程を問い合わせたら、既に、終演になってしまっていて、観れなかったのは、誠に、残念な事でありました。それにしても、昔の社会派映画が、今日、権力への忖度か何かは分からないが、製作自体が少なくなってしまったことは、誠に、残念な事です。マスコミ、政界、汚職事件、警察・犯罪事件内幕、ヤクザや宗教の世界、医療業界・医療行政の内幕、金融・企業の内幕他、ネタには尽きないと思われるが、、、、、。昔のような第二の山本薩夫監督や大島渚は、出てこないのであろうか?一体何処で、何をしているのであろうか?AIとの戦いが、今や不可避と言われている中で、これから先、どのように、真実とフェイクを見極めるツールを私達は、持っているのであろうか、それとも、見つけることが果たして、出来るのであろうか?又、もし可能であれば、どのように、見つけることが出来るのであろうか?まさに、現在進行形であり、喫緊の課題であろう!<答えのない答えを探す旅>を、いつまでも、続けざるを得ないのであろうか?

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映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

2021年11月08日 | 映画・テレビ批評

=映画、<モーリタニアン 黒塗りの記録> を観て、思う!

 1988年の頃だったか、ワシントンDC に赴任した後輩の自宅を、ロス・アンゼルスから、はるばる、大陸を空路で横断して、家族とともに、尋ねた帰途に、東海岸への旅行も兼ねて、NY観光を愉しんだが、その時に、訪問した世界貿易センタービルのツィン・タワーのキップが、たまたま、ラミネート・フィルムの中に記念に残っている。あれから、12年後に、まさか、あのビルが、9.11テロ現場として、グラウンド・ゼロになるとは、全く想像だにすらしていなかったものである。

コロナ禍が、やや、収まりつつあるせいだろうか、それとも、良い映画というモノは、時代を超えて、人々が、待ち望むせいなのだろうか、映画評論家ではないから、その辺は、不明だが、確かに、ほぼ、満席の状態であったことには、少々驚いてしまった。

それにしても、ジュディー・フォスター他、<タクシー・ドライバー>の14歳での娼婦役以来、<羊たちの沈黙>のFBI捜査官役といい、<告発の行方>、或いは、自身が監督として携わった、映画、<ジョーカー>に出てくるまさに、同じようなシーンを、取り上げた、<マネー・モンスター>など、社会派のテーマについて、圧倒的な存在価値を見せつける演技力で、この映画の中でも、両極端の弁護士として、人権弁護士役を演じている。

先般、観た映画、<ミナマタ、水俣>でのジョニー・デップといい、俳優というモノは、一方で、成功を収めて、一定の金額的な裕福さとは別に、やはり、俳優としての社会的性(さが)のようなモノを捨てきれないものなのだろうか、60歳近い年齢になっても、その演技の中には、<大義と正義のような凜とした生き方としての演技>が、自然と、一本貫かれているのだろうか?

米国という国は、世界の警察官を自負しつつ、一方で、戦争を引き起こしておきながら、或いは、Justiceという正義・大義と真実を、自らの手で、忖度することなく、片一方で、公然と否定しきれるような、そんな懐の深い、国柄なのであろうか?それとも、キリスト教的なクリスチャニティーが、どこかに、バックボーンとして、個人のアイデンティティーの中に、確固として、生き残っているのであろうか?それは、この映画の主人公の相対極に位置する一人の人権弁護士である、ナンシー・ホランダーという女性人権派弁護士と訴追する側の謂わば、米海軍側の検察官(弁護士)である元海兵隊出身で、9.11で殺害された操縦士の友人をもつ、スチュアート・カウチ中佐と言う構図の中で、キューバにある米軍のグアンタナモ収容所には当時、700人以上を裁判なしで不当に拘禁・拘留されている一人として、政府・軍組織による至上命令である、起訴の上での死刑の執行という絶対的な組織的な命令の下、モーリタニア人(=モーリタニアン)の青年モハメドゥ・オールド・サラヒ容疑者に対する、裁判の実話に基づく、社会派映画である。

警察を決して信じることのなかった青年が、奨学金を貰うことで、一族の期待を担って、初めて、警察を信じることが出来る国、ドイツに留学することになるものの、ビン・ラディン一族からの電話を受けたことや、一夜の宿として宿泊させた人物が後の9.11の実行犯だったことから、無実のいわれのなき、全く不条理な嫌疑を掛かられ、同時多発テロの容疑者達と深く関与する首謀者の1人として告発されながらも起訴も裁判もされないまま長期間身柄を拘束され、結局裁判での勝訴後も、通算すると、14年にも及ぶ長期の身柄拘束と、拷問・虐待を受ける結果になる。長いときには1日20時間も、精神的。肉体的な苦痛を味わわされ、或いは、足枷で中腰の苦痛な姿勢を強いたり、光の明滅による刺激を与えたり、ヘビメタの大音量を聞かせたり、更には、水責めをしたり、女性尋問官からの強制的な性的陵辱を受けたり、暴力を受けたり、一方的な人間性の破壊行為を強いられることになる。それでもスラヒは英語を学ながら、耐えぬくものの、姑息にも、尋問官は新たな自白用作戦として、母親を盾に取った脅しの言葉に屈して、自白・供述書へのサインを強要されます。(浅間山荘事件の時も、そうだったことを思い起こすが、、、、、、)それにもかかわらず、手記の製作を継続させ、オンライン裁判へと漕ぎつけることになる。

それにしても、ソ連によるアフガン侵攻以来、サウジや米国によるビン・ラディンへの支援は、公然の秘密であり、後年、これは、アルカイダやISにもつながってゆくことになるが、大国の思惑や方針の転換によって、全く一個人の人生が、踏みにじられることは、いつの時代でも、理不尽であるものの、そういうことが、決して、一個人、自分の身に降りかかってこないとも、誰しもが、言い切れるとは限りません。北朝鮮のキム・ジョンナムの暗殺や、旧KGBによるスパイに対するウラン暗殺やイスラエルのモサドによるアラブ人テロリストや岡本公三への拷問手法、或いは、韓国軍政下での一昔前のKCIAによる拷問や、戦前の特高警察・中野学校による自白強要手法など、現代ですら、中国で問題になっている少数民族への漢民族による民族浄化対策ほか、イラクの捕虜収容所の薬物投与による自白の強要他、アウシュビッツ収容所の問題だけでなく、いつの時代にも、組織的な真実隠しは、MFR (Memorandum for Record)として、我が国でも、暗黒の2.26事件・軍法会議記録や、財務省・厚生省での桜の会・森かけ問題などでも、他人ごとでは決してない。人権保護の在り方、司法の在り方、裁判の在り方、弁護の在り方、証拠・自白の手法、ビデオ公開、訴追の在り方、個人がよって立つべき宗教的・規範や信条・理念とその属する地域・組織・友人・社会的な背景との関係性の在り方、結果的に、友人を失う結果になることのリスクと、その結果への覚悟の問題、一見、イスラム教とキリスト教が、相対立するような印象をあたえるものの、最終的には、釈放されたスラヒ本人が、ボブ・ディランの曲を聞いて一緒に歌いながら、笑いながら、「拷問を受けたけれども、アッラーの神様から与えられた試練、それを私は許す」と、一種、この本人からの楽天的なコメントには、何か、<ある種の救済>を感じざるを得ません。この一言がなければ、或いは、Prosecutor からの<誰でも良いというわけにはゆかない。それが、彼であったとしも、、、、、>という言葉にも、どこか、まだ、大義とか、正義とか、Justice とかいうものが、米国には、あるのかな?と思う反面、我が国には、果たして、そんな人物や、仮に自分自身が、そんな当事者や、容疑者になったら、そこまで、不条理・理不尽さに抵抗出来るだろうかと、考えさせられてしまいます。それにしても、<組織のシステム>ではなくて、結果的には、何か、<情緒的なエモーショナルな人間関係性:友人関係>の中で、<「グアンタナモ収容所 記録用覚書」というファイル、MFR (Memorandum for the Record : 32番のボックスを開けたか?!>と言う情報を、友人であるニールから、スチュアート中佐は聴くことになり、これを、<軍からの組織的な裏切り者呼ばわり>されながらも、相手側のナンシー弁護士と情報共有することになる。

 エンドロールでは、結局、未だに、この基地収容所は廃止されることもなく、CIAも、軍当局も、政府関係機関も、関係者からの組織的な謝罪も、弁明も、改善策もないそうで、ましてや、再発防止策や、第三者委員会による検証などは、どうやら、今日、20年後に至るも、ビン・ラディンの抹殺後も、なされてはいないし、恐らくなされることはないだろう、、、(広島を訪問したオババも、結局、釈放や廃止には至らなかった事実がある。)、、、、。かつて、<日本の黒い霧>とは、良く言ったものだが、今日、こうした<黒塗りの記録は、闇の、又、闇>というような状況で、再び、同じ過ちが、繰り返されない、自分の身には、降りかかってこないと言う保証は、全くなさそうである。心して、このことを肝に銘じて、これからの時代を生き抜いてゆかなければならないような気がする。

ハリウッドと言う伏魔殿は、おかしなモノで、このBBCフィルム製作の映画を、平気で、商業主義第一優先の中で、上映公開してしまうことも、凄いことである。一方、日本の映画界の中で、こんな社会派映画を作れる監督、演じることの出来る俳優が、果たしているのだろうかと考えると、スポンサーも含めて、そんな硬派が、いるのだろうか、それとも、現れる可能性があるのかと、日本映画界で、第二の大島渚は、出現するのかとかとも考えると、暗然としてしまうが、、、、、、、。

是非、若い人にも、観て貰いたい。