小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

約20年前の小諸フォーラムの蹉跌に学ぶ(?):

2013年05月31日 | 社会戯評
約20年前の小諸フォーラムの蹉跌に学ぶ(?):
何とも、実に、勿体ない話である。一体、この約20年間という時間の経過と労力は、どういう形として、人々の生活、或いは、意識の中に、成果が結実されたのであろうか?ほとんど、先般のワールド・カフェで、問題提起されたことと同じ事が、そのまま、まるで、タイム・カプセルの如く、蘇っているではないか?先人の知恵をもう一度、追跡検証する必要があろう。そして、やはり、「補助金の切れ目」が、「縁の切れ目」で、又ぞろ、折角の運動は、個別のバラバラに雲散霧消してしまったのであろうか?そもそも、「組織なき組織」とは、言葉上は、美しい響きであるものの、「運動体」としての中核としては、どんなに、モチベーション・志しが高くても、やがて、腐ってきてしまうものである。やはり、5年前後が、良いところなのかも知れない。せいぜいが、講演会の後の懇親会と称する「酒飲み会」か、「名刺交換会」と化するところの自称、「人と人との交流」程度で、「下からの運動体」としては、結局、具体的な果実を結ぶことなく、何年か後には、立ち枯れ状態になってしまうものなのか?一度、旧中心メンバーから、直接、コメントを聴く機会があっても良さそうであるが、、、、、、。
それにしても、(農業)・(観光)・(商店街の活性化)・(街づくり)・(ウチ・ソトの融合の場)は、密接、且つ、不可分に、関連づけられていることは、今日的な視点からも、間違いはなさそうである。そして、「運動体へと進化する種」がないと、行政にも、メディアにも、又、そこに住んでいる住民にも、その高い志しと意図は伝わっても、受け容れられず、結局、変化の萌芽や芽生えは、生じてこないのでないだろうか?ある程度のこれまでのウチとソトとの「人と人とのネットワーク」は、出来つつあるように思えるし、もう、とうの昔に、「卒業の時期」にきているようにも思えないこともないが、、、、、。もし、目指すところの「テーマの変質や拡散」を恐れるのであれば、アメーバ状の組織体の状態を維持しながら、分科会や、大きな傘で、包含するような「柔軟な運動体」に、組織的に、「初めから、デザイン」しておかなければならないかも知れない。その為には、これまでの人的ネットワークを生かしながら、行政や現地メディア、農業・林業・酪農・商業流通・工業・飲食などの異分野との包括的な取り込み、囲い込みも、運営費の捻出の観点からも含めて、必要不可欠になろうか?やはり、最終的には、「運営能力」が問われかねないであろうか?。坂と散策中心の観光であれば、セグウェー導入や、どこかのメーカーとタイアップして、無料電動自転車貸し出しによる町歩きなども、どしどし、具体的なアイディア・知恵を出して貰って、資金がなければないで、それを逆手にとって、メーカーとタイアップして、無償で、資金を捻出しながら、駐輪場や、駐車場設置も並行して、ムーブメントに、繋げてゆく方向性を、具体的に、打ち出して行かないと、やがては、高い志しも、結局、朽ち果てかねないことを懸念しますが、、、、、、。元ビジネスマンの老犬介護・湯治客の年寄りは、気が短いので、、、、、。情報発信は、今の世の中では、いくらでも、知恵を出せば、やれる環境にあるかと思いますが、、、、、、。如何でしょうか?若い時代を担うところの現役世代の積極的な取り組みに、期待したいところです。約20年前の小諸フォーラムの蹉跌に、学ばなければならないのではないでしょうか、詳細を読んでいて、そう思いました。詳細は、下記サイト内容をご参照下さい:
http://www2.nagano.ac.jp/nagashima/sub004-08-1.htm#7 

我が老犬が、徐々に、歩かなくなってきた:

2013年05月30日 | 動物・ペット
我が老犬が、徐々に、歩かなくなってきた:
これまでは、階段をやっとの思いで、下り降り、自宅付近の道路を、朝晩、30分程度かけては、トボトボと臭いを嗅ぎながら、或いは、新鮮な空気や風を感じつつ、リードに引っ張られながらも、やっと歩いたものであるが、最近では、めっきり、その歩行スピードも遅くなり、その距離も、徐々に、落ち始めてきた。流石に、満年齢で、18歳3ヶ月となると、衰えを隠せないのだろうか?食事も細り、一日中、気持ちよさそうに、網戸からの風を受けながら、寝入ってばかりである。しかも、おやつのビーフ・ジャーキーも、これまでは、余り見かけなかったことであるが、口から、嚼んで食べているときに、ボロボロと、どういう訳か、こぼれ落ちることがしばしば見られるようになってきた。後ろ脚が、少々、弱ってきたのだろうか、排泄の時にも、しっかりと踏ん張れずに、お座りをする恰好になることも見られるようになった。この間には、前脚を交差するようにして、しっかりと踏ん張りながら、頑張っていたものである。一寸した落ち葉の斜面では、もう、途中で、踏ん張りきれずに、お座りを決め込んで、動けずに、終いには、フギャーンと助けを求めることしきりである。まだ、食事が細いながらも食べられるので、又、お水もきちんと飲んでいるので、大丈夫であろうと思われるが、実に心配なことである。まあ、昔の仕事上でのストレスや心配事に較べると、若い現役の人達からは、笑われそうであるが、人間の悩みや心配事、煩悩は、いつになっても、世に尽きせぬといったところであろうか?どうやら、穏やかな終末に近い介護の時を迎えようとしていることは、間違いなさそうである。いつのことやら、分からぬが、食事を受け付けぬようになったら、きっと、「その時」が、近いのであろう。「心配しないで、安心して、いつでも、傍にいてあげるからネ!」と言い聞かせている。通じてか、通じざるかは、分からぬが、心配はいらないと、手で体を撫でてやると、安心したのか、又、居眠りを始める。



ヤルダ兄弟舎共催の「小諸部」、ワールドカフェで考える:

2013年05月29日 | 社会戯評
ヤルダ兄弟舎共催の「小諸部」、ワールドカフェで考える:
FBに公開された5月18日、当日のワールド・カフェに書き込まれた内容を、実に身勝手ながら、下記纏めてみました。「小諸の良さとは何か?」「小諸を良くするためには、何が出来るか?」「何が必要とされているか?」、各グループの共通キーワードを抜き出すことによって、その方向性をまずは、考えて行きましょう。自ずと、次は、何をすべきかが、見えてくるのではないでしょうか?What to do ? の次は、How to do ? を考えることでしょう、そして、最後には、それは、やり遂げるのは、「今でしょう!」と言うことでしょうか?年寄りからの若い人への挑戦状でしょうか?

*「小諸の良さとは何か?」:
¬=風光明媚、豊かな自然が多い、(標高差の大きい、山々が連なる雄大なバリエーションに富んだ様々な景観、御牧ヶ原台地、坂道の街並み、日照時間が多い特性、桜が長く愉しめる地域特性)
¬=住んでいる人間が気付かない大事な自然、(空気・水・静けさ・星空・樹木の緑・新鮮な食べ物・温泉等)、都会に無いものの素晴らしさ、外国人観光客にも受け容れられている。
=400年の歴史を有する文化・昔の商都、(北国街道・海野宿、酒蔵、問屋街の街並み保存)
=昔の風景の保存の重要さ、(単なる建物保存ではなく、吊し雛等の文化や歴史・伝統の保存・継承の大切さ)
=文学・音楽・絵画・芸術・伝統の重要性とその価値(島崎藤村、高浜虚子、著名な画家達)
=何もないことの重要性(新幹線が通らないことの良さに気付いていない、弱みを強みに転化できる可能性有り)他に無いものを守り、大切にすること。
=ゆっくりと散策・散歩が出来る街並み、(タイムマシーンに乗り込んだような感覚での観光)
=ゆったりとした時間を体感できる、散策できる街づくり(そのためのカフェが必要不可欠なようである。)
=アウトドア・スポーツの潜在性(ヒル・クライムやバイク・オフロード・レース、ウォーキング・ラリー等の開催や高地トレーニングセンター開設と観光の結合の必要性、単なる一点に終わらせずに、連携・多層的な結合を目指すことの重要性)
=点と点が、繋がらず、線に、或いは、面として、拡がりがない。(例えば、懐古園から、布引観音まで、シャトル・バス・サービスがないので、繋がらない。又、駅前に、無料駐車場がないので、車での動きがとれない。分断されてしまっている)中心部回遊シャトル・バスやディマンド・バスは、何故、出来ないのか?
=坂が多い街にふさわしい自転車活用の取り組みが、必要である。(チャリンコによる街並み探索)、小諸駅前通りの活用が、物足りず、勿体ない。
=花の観賞などの歩きながらのオープン・ガーデンや散策と途中下車のカフェ一休み
=住みやすい街づくり、

*「小諸を良くするためには、何が出来るか?」「何が必要とされているか?」、:
=観光は、そこに住む人とおもてなしの心こそが、大切である。
=様々な多様な市民活動が多い、
=反面、情報が内向きに終始していて、外部へ発信する拠点や場が、少なく、不得手である。
=国内・海外も含めた情報の発信、ネット環境、駅・駅前通り周辺や温泉でのWiFiも含めたインフラの整備の必要性
=NPOなどの個別の活動拠点としての点と点はあっても、それが、線や面へとなかなか拡がらないのは、何故なのであろうか?(その原因と対策とは、?)
=もっと、有志の無償外部ボランティアーを、積極的に、活用してみてはどうであろうか?
=小諸に住む住民と外部とのギャップを埋める必要性がある。(どういう場が、必要になるのか?どのような運動体が、不可欠になるのか?)
=小諸の住人と外部からの人間とを如何に、具体的に、埋め合わせるのか?
=プライドが高いのではないだろうか?
=よそ者に対して、極めて、閉鎖的ではないのだろうか?(疎開時の小林亜星や永六輔や、島崎藤村ですら、よそ者扱いされてはいなかったか?)
=閉鎖的な要素の有するよい面と悪い面の認識の必要性
=過去の先人の遺産を食いつぶしていれば、それで、よかった恵まれた境遇である。(開発する必要性も感じられないので、逆に、それが、皮肉にも、遺る文化遺産という形になった。)
=空き家や農地をよそ者に貸したがらない。(清水牧場やワイナリー開発などの例)
=農業でやっていこうという意欲的な人への様々な就農・援農プログラムの提供の必要性
=観光客やウーファーを、街の人々との交流を通じて、リピータ化する手立てが必要。
=アニメ夏まちでの一定の効果と宣伝
=観光に於ける人の顔が見えることの大切さ
=物々交換市
=産直売り場での新鮮な野菜や果物だけが、代表的な土産なのだろうか?

*共通するキーワードから、導き出される方向性とは?
様々な上記の共通するキーワードから、導き出されるまちづくりの方向性としては、基本的な要素をそれぞれの核として、それらを総合的に、横断的に、纏め上げられるような運動体、並びに、政策の実現へと結びつける必要があろう。それは、専門家の分野ではあろうが、小諸に関わる住民、観光客、NPOのそれぞれが、今後どのように、小諸市、観光推進母体、等、官民挙げて、協力する体制をとれるかに関わっているであろうと思われるが、、、、、。

小諸の街づくりの重要な要素として:
1. 恵まれた自然環境、自然保護を生かす
2. 歴史ある街並みを含めた文化遺産を保存・活用する
3. 400年に亘る文化・文学・絵画・歴史・伝統などを保存・継承する
4. 坂の街を散策し、ゆったりと回遊する歩き・休みながらの観光ルート
5. 各種アウトドアー・スポーツ・イベントと観光との融合
6. 農業就農・援農振興策との連携
7. 散策・回遊手段の具体的な検討策
8. その他

これらを、重層的に、連携・横断的に、組み合わせることで、小諸の「住みやすい」まちづくりにも、繋がって行くのではないであろうか?その為には、NPOも、これまでの点を、もっと、横断的に、結合しつつ、官民挙げての街づくりを提案して行く必要があろうし、又、具体的な運動体としての成果へと結実させなければ、意味がないであろう。具体的には、これらを専門家も含めて、何がすべきかが、ある程度、方向性が明らかになったら、How to do ? を具体的に、いつまでに、、、、、誰が、、、、、何処で、、、、、(むろん、小諸で)そして、一人一人が、役割分担で、どうしていったらよいのかを、具体的なAction Programで、落とし込んで行かないと、結局は、又、絵に描いた美しい餅で、やがて、干からびてカビが生えかねないでしょうネ!。

折角、志は高くても、結局、結果として、全く、何ひとつ生み出さないので、時間と労力の無駄以外の何ものでもなく、次のAction Programへと具体的に繋げて行かないと意味がないわけで、どのように、第二回・第三回へ、そして、その間での対費用・対効果とは言わないが、具体的な検証作業を伴わないと、結局、仲良し倶楽部に終わって、ご苦労様でした。愉しかったですね。酒もうまかったし、仲間も何となく増えましたで、終わってしまい、いつの間にか、熱き思いと高き志しは、どこかに、雲散霧消してしまい兼ねません。今後が、湯治客の老犬介護の身には、楽しみですね。



今年は、シジュウカラがやってこない!:

2013年05月28日 | 動物・ペット
今年は、シジュウカラがやってこない!:
どうしたものなのであろうか?ここ5-6年、ずっと、毎年必ず、東京の梅の樹とハナミズキの樹に懸けてある各巣箱に、別々に、或いは、ある年には、同時に、G.W.開け頃には、つがいがやってきては、巣作りを始めて、おおよそ、5月半ばから下旬頃の雨の降る夜を目安に、2週間前後で、雛たちが巣立って行くのであるが、、、、、、。今年は、どうしたものか、ちっとも、巣箱に、やってこない。3月初め頃には、チャンと、事前偵察にやってきていたのに、今年は、両方の巣箱とも、全く、つがいがやってこないのは、どうしたものだろうか?去年は、巣立ちを迎えた三羽の雛のうち、2羽が、雨の降る夕方、巣箱からの飛行に失敗して、書斎のガラス窓に、激突して、仕方なく、急遽、巣箱に、無事戻し、翌日、怪我もなく、再び、巣立って行ったものであったが、、、、、。何か、今年は、一抹の寂しさが漂う。やはり、巣箱には、初夏の頃、雛のさえずりが、ふさわしいものである。もう、巣箱も、旧くなったから、新しいものに、とりかえてやらなければならないのであろうか?それとも、先日、実施した薬剤の散布が、微妙に、影響しているのだろうか、将亦、何か、今年は、巣立って行ったシジュウカラに、不測な出来事でもあったのであろうか、餌が不足していたのであろうか、等々、思い巡らせば、気が気でない。年に、一度しかないことであるから、又、もう一年、待つしかないのであろう。アホウドリや、朱鷺やコウノトリの産卵を見守っている人達は、さぞや、大変なご苦労と心配をしながら、研究に携わっていることであろうと想像する。何やら、寂しそうな巣箱が、ガラス窓越しに、こちらを見下ろしているような気がしてならない。



屋上に太陽光パネルを設置する段取り:

2013年05月27日 | 社会戯評
屋上に太陽光パネルを設置する段取り:
東京の家に屋上へ登る階段は、今や、リハビリ歩行の身には、少々、急過ぎて、雲や星を眺め、愉しむのには、難しくなり始めてきていた。又、我が老犬も、以前には、運動も兼ねて、屋上への階段をトントンと、軽快なステップで登っていったものであるが、飼い主同様、登るのも、辛く、降りることも、今や、出来ない状態である。ましてや、飼い主が、抱きかかえるようにして、登り降りることもままならない。そんな状態で、屋上防水シートの工事を二年後に控えて、これを前倒しにして、且つ、消費税の値上げの前に、一挙に、太陽光発電パネルの取り付け工事も、済ませてしまおうかと考えた次第である。もう、屋上で、ゴルフの練習をする必要もないし、我が老犬と一緒に、ボール遊びに興ずることもなさそうである。ましてや、屋上で、星を眺めることもなかろうか?少しでも、エネルギー費用を売電で、節減し、且つ、10年程度で、投資を回収すべく、駆け込みで、補助金を貰えれば、少しでも、家計の足しになるかも知れない。それにしても、随分と色々な植木鉢やら植物が、コツコツと屋上に、置かれて、栽培されていたものである。確かに、陽当たりは良いし、屋上は、同時に、太陽光発電には、うってつけである。時というライフ・サイクルの微妙な変化と社会の変化に伴い、設置を決断するに至ったものである。亡くなった父が、電気自動車用のコンセントや太陽光発電に設計時に、拘ったことが懐かしく想い出されるが、約25年後には、現実味を帯びてきたことも、事実以外の何ものでもない。これから、更に、25年後には、どうなっているのであろうか?補助金の申請駆け込み需要が多くて、結局、工事日が、梅雨時にづれ込みそうであるが、実際、どのくらい、発電するのであろうか、興味深いものである。



QMONOSを生み出す土壌とは:

2013年05月26日 | 社会戯評
QMONOSを生み出す土壌とは:
慶応大先端生命科学研究所(鶴岡市)発のスパイバー(=スパイダー+ファイバー)というバイオ・ベンチャー企業が、バクテリアにタンパク質を作る遺伝子を組み込み、人工合成したクモ糸繊維を量産できる技術開発に成功し、世界で初めて産業化が可能になったと発表したと。新素材は「QMONOS(くものす)」と命名、自動車車体などへの利用を想定しているらしい。その強度は鉄鋼の4倍、伸縮性はナイロンを上回り、耐熱性は300度超を誇るクモ糸の特性を生かした繊維で、炭素繊維にはない伸縮性、合成ゴムにはない硬さを兼ね備え、次世代素材と目されると。これ自体も、素晴らしいことであるものの、何故、山形県の鶴岡市なのであろうか?何か、そこでなければならない理由があったのであろうか?それにしても、まだまだ、日本も、とりわけ、辺鄙なと言っては失礼であるが、一地方都市でも、こうした素晴らしい技術を開発できるだけの素地がある事自体、大変な驚きである。一体どういう条件が、どのような素地が整えば、こうした成功事例が、生まれるのであろうか?大変、興味深いことである。何も、大都市中心の研究開発拠点に頼らずとも、地方都市の活性化というキー・ワードが、これ程、耳目を集め、注目されることはないであろう。もっと詳しく、その成功事例の背景、土壌、そのビジネス・モデルが成立した理由が知りたいものである。日本もまだまだ、これから先が、楽しみである。どんな実用的な応用商品の開発がなされてくるのであろうか?



薬剤散布を実施する:

2013年05月25日 | 自然・植物・昆虫
薬剤散布を実施する:
年に、一度しか、電池式の農薬散布機器を使用しない。もっとも、時としては、二年に一回とか、三年に一回とかで、電池切れも甚だしく、しかも、単一の大きな電池を4個も使用するものであるから、全く効率が悪いことと言ったら甚だしい。今年は、急に暑さも増しだしたのか、姫林檎の樹木に、泡のようなものが、その枝先に目立ち始め、いよいよ、薬剤を散布しなければならないような状況に至ってしまった。有効期限は、もうとうの昔に切れてしまったであろう薬剤を、水に希釈して、更に、葉の上に、きちんと、残るように、粘着性のある溶剤も加えることにしている。それにしても、完全防護服での薬剤の散布である。ゴーグル・メガネ、使い捨てマスク、タオル、帽子、腕を蔽うべく長袖のシャツ、手には、ゴム手袋、少々、コレでは蒸し暑さを感じざるを得ない。もう、しっかりと葉が茂り始めてきているので、ノズルの先を少々延伸させて、霧状の薬剤と勢いよく、先先までにも届くように、時々、調整しながら、噴霧と散布を繰り返す。姫林檎のみならず、ついでにと言っては何であるが、山茶花や椿、梅の樹にも、散布することにした。茶毒蛾の毛虫だろうか、突然、20匹ほどの塊が、糸を引くように、連続的に、ボロボロと垂れ下がってきた。効果があったのであろうか?それにしても、素人が行う薬害の散布であるから、3リットルを3度ほどで、終了と相成るわけであるが、これが、商業ベースでの農薬散布であると、これはもう大変であろう。推して知るべしである。自分でやってみて、有り難さが身にしみて分かるものであろう。やり終えて、すべての着ていたものを別に、洗濯すべく、更に、シャワーで、念の為に、頭から洗い流しと、誠に、一仕事である。まずは、第一回目の消毒は、終了である。今年は、これで、様子を見ながら、もう一回程度、やらなければならないかな?どうであろうか?


「小満」の新緑の頃である:

2013年05月24日 | 自然・植物・昆虫
「小満」の新緑の頃である:
日常の生活では、全て、西洋暦であるのに、暮らしの中では、とりわけ、季節感を大切にする人間にとっては、結構、陰暦や「二十四節気」、「七十二候」というものは、身近なものである。何でも、「清明」が過ぎ、「穀雨」が去り、今の頃を「小満」と言うそうである。「小満」とは、命が、次第に、充ち満ちてくる頃のことで、草木も花々も鳥も虫も獣も人も、陽を浴びて輝く季節だそうである。そう言えば、陽を浴びるということ、風を感じると言うこと、新緑を眺めることは、人間の心と体には、とても、大切なことのように思われる。人間の体内時計ではないが、何か、バイオリズムのようなものが、きちんと、日本人には、季節季節毎に、そのDNAの中に、組み込まれているような気がしてならない。見上げれば、新緑の木の葉越しに、真っ青な青空が、実に綺麗である。松葉の一寸色濃い緑も悪くはないが、この季節は、わけても、その柔らかな新緑の薄緑色が、何とも、目に優しく、実に、新鮮である。ついこの間まで、景色が殺風景で、眼下の道も見渡せたのに、今では、すっかり、新緑の樹木の葉に蔽われ始めて、日々、その色を濃く増しつつある。春蝉も、いつもの騒々しい鳴き声で、けたたましく、陽が当たり始めると同時に、そこかしこで、グェ-・グェ-、ギャー・ギャー、と鳴き始める。やがて、緑が濃くなるにつれて、ベランダも、ポッカリと、緑の海の中に、浮かんだ空間のように、程なく、感じられ始めることになろう。そんな中で、読書や、お茶や、一寸したうたた寝を愉しみたいものである。我が老犬殿は、相変わらず、一日中居眠りであるが、、、、、。




海外ウーファーにみる「Gap Year」を考える:

2013年05月23日 | 社会戯評
海外ウーファーにみる「Gap Year」を考える:
我々が、未だ学生の頃には、書を棄てて街を出た挙げ句に、ヒッピーか、ドロップ・アウトしか、或いは、中途退学の選択肢しかなかったような気がしてならない。人生に「寄り道」は、必要だと思っても、なかなか、その敷かれたレールの軌道から外れて、勝負することは、極々少数派であったような気がする。せいぜいが、能動的な選択と言うよりも、どういう訳か、やむを得ぬ強制力による選択であったことの方が多いような気もしないではない。海外ウーファー達と話をしていて、面白いなと思うのは、学生でも、社会人でも、一年や二年程度の海外での体験は、全く、寄り道だとは思ってないことである。むしろ、積極的な人生経験にとって、プラスになるのではないかという「前向きな姿勢」である。それは、文化でも、アートでも、肉体労働でも、何でも自分に身につくように取り込んでしまうよい意味での貪欲さ、冒険心である。日本の社会も、徐々にではあるが、社会が成熟化して、これまでの決まり切った紋切り型のモデルでは、なかなか、現状打破が出来ずに、おまけに、発展途上国に追い上げられる始末では、確かに、机上の勉強だけでは対応不能で、そうではなくて、様々な経験を積んで、異分野で学んだこうした寄り道をした「Gap Yearの必要性」が、叫ばれるのかも知れない。残念乍ら、我々の世代は、学校生活の中で、或いは、社会で出てからの場で、逆に、色々な経験を積ませて貰ったのかも知れないし、学ばせて貰ったのかも知れない。いずれにせよ、「人生の寄り道の勧め」というものは、寄り道と思うか、それとも、役に立ったと判断するか、それは、本来、本人が決めることなのであろう。但し、それを許容できる社会の成熟と寛容さが欲しいものであるが、果たして、日本という社会は、それを許すだけの余裕と成熟度と寛容さが、家庭にも、あるのであろうか?それが試される時であろう。もっとも、人生とは、一寸、寄り道していても、容赦なく無慈悲にも時間というものは、経過してしまい、気が付けば、その寄り道が、人生そのものだったということに気付くかも知れないが、、、、、。ご用心ご用心!まぁ、それも、考えようによっては、人生そのものかも知れない。



布引いちご園でのいちご狩り:

2013年05月22日 | 社会戯評
布引いちご園でのいちご狩り:
これだけ、たらふく、いちごを食べれば、当分は、いちごを食べなくても良さそうである。NHKの番組で、何でも、小諸では、トマトの栽培をITを活用して、栽培技術をソフト・データ化して、これを「スマート・アグリ」として、栽培ノウハウを水耕栽培として確立し、この技術をいちご栽培にも応用しているそうである。しかも、このノウハウをタイのチェンライでも実証実験の後、商業ベース化して、現地で、高級いちごとして販売しており、今後は、もっと商品価格帯も、ボリューム・ゾーンに拡大して行こうとしていると、、、、。
何とも、頼もしい農業技術の輸出ビジネス・モデルではないだろうか?確かに、温泉の熱を利用したり、タイでの夏の暑さ対策を施して、課題を克服して行くことは、大変なことであろうが、着実に、その実績と他国への拡がりが、今後とも、期待できよう。更に驚いたことには、日本の原種イチゴには、4つあるそうであるが、唯一今も栽培されているのはなんとこの小諸の「御牧原1号」のみで、少々、レモンの香りがする小粒な品種だそうである。この苗も布引イチゴ園さんで作っているそうである。こうなると、単に、農林水産省による補助事業だけでなく、長野県としても、もっと、きちんと、総合的な輸出モデル事業としても、支援すべきでしょう。それにしても、無我夢中で、入場料という投下資本コストを回収するために、摘み取っては、片っ端から食べていたが、ハタと気が付くと、ヘタの部分が、少し、反り返ったもので、色が赤くて、持った瞬間に、程よい硬さがあるものの方が美味しく食べ頃であることが、分かったのは、既に、腹が一杯になり、しかも、後から、やっとコンデンス・ミルクを付けて食べた後半の実に終了間際であったとは、何とも情けない!(初めのうちは、ちゃんと、ミルクを付けずに、食べていましたヨ。)それよりも、汗がしたたり落ちてきて、最後には、食べるどころではなかったが、、、、やはり、長袖は、間違いだった!確かに、夏は、暑すぎて、いちご狩りには無理であろう。6月末まで開園であるのは、得心がゆく。これで、当分は、イチゴ・パフェやショートケーキを観ても、食欲が湧くことはないであろう。



束の間の停電を愉しむ:

2013年05月21日 | 社会戯評
束の間の停電を愉しむ:
まだ、子供の頃は、よく、停電したものである。勿論、雨漏りもであるが、、、、。一寸、海外ウーファーさんのサポートのために、夕食のご相伴に預かることになり、出掛けて行く途中で、何やら、暗闇の中に、中部電力の車が、雨の中で、何やら、やっていた。余り気にしないで、入ると、何と、電気が通電していなくて、太い蝋燭の明かりが、ゆらゆらと如何にも、その存在価値を誇るように、輝いていた。考えてみれば、ついこの間まで、蝋燭とマッチは、非常時の必需品であったが、、、、、、。念の為に、車から、懐中電燈を持ってきて、いざ、食べ始めたところ、程なくして、パッと明るい電灯が、点灯した。つかぬ間の蝋燭の下での食事であったが、何とも、懐かしいものを心の何処かに感じたものである。便利であることは、便利であることで、有難いものであるが、我々は、ついそのことを忘れてしまいがちである。おまけにと行っては何であるが、この停電の為に、無線LANも突然、接続できなくなり、再起動させなくてはならなくってしまった。何とも、これ又、皮肉な余波の結果である。こんな里山では、冬場での雪害による倒木などにより、突然、電線が切れて、停電してしまい、石油ヒーターや電気カーペットが使えなくなるので、まだまだ、旧式の石油ストーブが、廃棄してはいけないと注意を喚起されたことがあることを思いだした。それにしても、束の間の停電は、色々なことを教えてくれるものである。これが、震災によるモノでなくてよかったが、、、、、。そういうことも普段から考えておかなけれなりませんね。



名刺を持たないという選択を考える:

2013年05月20日 | 社会戯評
名刺を持たないという選択を考える:
もう40有余年もの長きに亘って、人に会うときには、いつも、名刺をまずは、交換していた。今では、学生時代から、コミュニケーション・ツールとして、持っているのが常識になっているらしい。そして、案外、その呪縛に知らぬ間にとらわれていたことに気付いていなかったのかも知れない。時系列に、或いは、あいうえお順に整理したり、仕分けしたりと、、、、、。セミ・リタイヤーを契機に、自称湯治客、老犬介護者、海外ウーファー・サポーターというステイタスも居心地は、決して悪くはない。ワールド・カフェで、改めて、アイデンティティーとは何なのか?自己紹介とは何なのか?名刺とは、一体、何立ったのかということを再考するきっかけになった。成る程、人間というものは、色々な幾重もの鎧をかぶっているものである。職業、肩書き、属性、所属組織、出身地、出身校、連絡先、等、数え上げればキリが無いものである。それらを一度、消去、リセットしてみるのも、なかなか、面白いものである。逆に、どんな鎧を纏っていたかも識別出来る訳である。もっとも、それが、長ければ長い程、若干の違和感が無いわけでは無い。しかも、そこに、ある種の「呪縛」のようなものが無いわけでは無いのである。それは、同じ期間ずっと、読み続けてきた日本経済新聞を、読まないという選択をしたときのようなものである。そういう鎧を外したときに、果たして、「自分のコア」として残るものとは、一体何なのであろうか?素晴らしい斬新なデザインの名刺を両手で、押し頂くようにして受け取った瞬間に、ふと、そんなことを感じてしまった。そして、そんな瞬間に、ハタと、名刺をお返しすることを止めてしまった自分の若干の「後ろめたさ」とでも言おうか、空虚感・喪失感なるものが、何とはなしに、感じられたことも事実である。まだ、まだ、隠居・道楽の修行が足りないようですネ!残念乍ら、、、、、、。



ヤルダ兄弟舎、小諸部、ワールド・カフェに参加する:

2013年05月19日 | 社会戯評
ヤルダ兄弟舎、小諸部、ワールド・カフェに参加する:
小諸のあぐりの湯の向かいにある日清食品の創業者が設立した大自然に囲まれた素晴らしい展望と充実した設備を有する百福センターで、FBの関係で、50人程の有志が各分野から参集して、小諸の良さとは何か、そして、今後、より良くする為には、何が必要かを、自己紹介も含めて、グループをシャッフルしながら、討議する集まりである。バーベキューを食べながら、林檎栽培家や老舗の米卸販売店の話を、小布施図書館の開発に携わった花井氏の司会で、伺った後で、ディスカッションするものである。何か、40年ほど前の新入社員研修会での自己紹介を想い起こす。9枡を使用した自己紹介、それに続く、グループ毎のシャッフルを繰り返すことで、謂わば、「旅人」となり、見知らぬ新たな別の人との出逢いの中で、新しい考え方を持ち帰り、その考え方を纏めて説明し、発表するというもので、引きこもりがちの若者やコミュニケーション障害を有する人には、面白いツールであることは間違いなさそうである。もう、ビジネスの世界で、40年余りも慣れ親しんだ名刺を、セミ・リターヤーを契機として、敢えて、捨て去って、一湯治客の老犬介護役としては、実に、興味深い課題での討議である。年齢・キャリア・職歴・出身・考え方、それぞれが、異なり多種多様であるものの、小諸をよくするため、否、同様な問題を全国何処の地方都市でも、多かれ少なかれ、抱えている共通の問題点を、近隣の上田・佐久などからの或いは、県外からの参加者も含めて、考える時間を共有できたことは、それなりに、価値があろう。今後は、この討議した貴重な内容を再び、各参加者にフィード・バックして、行政サイドや、マスコミや商工会青年部なども含めて、如何に、「草の根の運動体」へと、進めてゆけるかが、新たな課題にもなるであろう。自分自身では全く、気付いていなかったことが、実は、それ自体が、素晴らしい潜在的な価値を有していること、或いは、大いなる可能性を秘めていること、一寸した工夫と知恵を出し合うだけで、大いなる草の根の変革に、繋がることを実感し得たことだけでも、多いに、価値があるのでなかろうか。しかしながら、「継続は力なり」で、一つの小さな点が、幾つかの点を生み出し、それを線に、そして、その線が、三角・四角、そして、大きな多面へと拡大、連携して行くことになれば、それは、又、「大いなる力=草の根のムーブメント」となり、新たな地方都市再生のモデルになり得るのかも知れない。それは、参加者個々人の意識と行動に裏打ちされたものでもあるが、新しい運動体として、眼に見えるような成果に、一つ一つ、結びつけ、投げられたボールに対して、どのように、草の根の下からの投げ返しの球が、今度は、出てくるのか、いつも、「理念は、よし、されど、運動体としては、何も成果が残らない、自己満足止まり」というようなものでは、実に、勿体ない話であろう。次のムーブメントとして、何が、必要とされるのか、真剣に、事務局は考えながら、この参加者の思いの成果を共有し、どのように、次回へと繋げてゆけるのか、単なる打ち上げ花火で、終わってしまうのか、それが、個々人の主体にも、又、主催者にも、鋭く、問われよう。今後に、又、期待するものです。何が、共通項で問題が浮き彫りにされ、何が、必要とされているのか?そして、それが、分かったときに、各個々人の主体は、何をなすべきなのか?それが、まさに、問われて云えよう。




木製の木の葉型のカッティング・ボードに載せる:

2013年05月18日 | 男の手料理・食
木製の木の葉型のカッティング・ボードに載せる:
昔、フランスへ出張したときに、ボルドーのホテルで、朝食の時に、フランス・パンを木製のカッティング・ボードに載せてきて、ジャムとバターと珈琲で、朝食を摂った記憶があるが、えらく、その時に、木製のカッティング・ボードに感激して、スーパーか、何処かで、お土産に買っきたものである。時々、朝食の時に、想いだしたように今でも使用しているが、非日常的な雰囲気がして、何とも愉しいものである。食器とは、そんなもので、食事をより愉しく味わうという陰の演出をしてくれるようなモノではないだろうか?とりわけ、漆の塗り物も、陶磁器も、焼き物も、形はどうであれ、手作りであればあるほど、そんな趣きが、何とも言えずに、面白いモノで、料理自身が、より一層、味わい深く、引き立てられるようである。同じ荘内に住まわれている特注家具を製作する工房の展示会で、何とも、奇妙な木の葉型のカッティング・ボードが、展示されているのを、たまたま、見かけた。木の木目の肌具合が、何やら、葉脈のように、見えないこともない。植物オイルを手入れのために、塗って手入れをすると、もっと、肌目や木目が、よりはっきりと引き立ってくるそうである。一寸、オードブルというか、フランス・パンを軽く焼いて、オードブル風に、仕立てて、食してみることにした。なかなか、趣きがあって宜しいようである。束の間の非日常の朝食風景である。参考までに、HPを引用しておきましょう。
家具工房Shin:
http://kagukoubou-shin.com/


旧いベトナム友人の小諸凸凹二泊三日滞在記:

2013年05月17日 | 社会戯評
旧いベトナム友人の小諸凸凹二泊三日滞在記:
今や、どこもかしこも、スマホによるWiFi活用で、ノートブック型のPCですら、持参することもない状況である。それにしても、日本では、その環境整備が、大幅に、遅れている。海外ウーファー達も、皆そうであるし、無料WiFi環境の整備こそが、観光立国のキー・ポイントであろう。日本の地方都市は、それなりに、大都会に近い環境であり、インフラも、整備されていて、海外旅行者にとっては、車さえあれば、素材は、一品である。とにかく、騒音の真っ只中から、満天の星空の下、物音一つしない夜の静寂の世界へと来たわけであるから、音楽でも聴いていないと落ち着かなくなるのであろうか?水道水も飲料可能であることが、信じられないようである。生野菜も確かに、美味しく、とりわけ、旬の太いグリーン・アスパラガスなどに至っては、生まれて、初めて食したと驚嘆の叫びである。又、想像していたよりも、恐らく、街自体が、大きかったのであろう、地図上の小さな点からは、ずっと、大きな街であることに驚いていた。山並み自体が、珍しいものであり、わけても、残雪が未だ残っている雪山などは、初めて観る光景で、湖面と雪山をバックに、記念撮影である。生魚の刺身や、和牛や鶏肉の焼き肉も、現地の日本食レストランで食するものとは、その質が異なり、更に、本場産の信州蕎麦にも、おおいに、舌鼓を打ったものである。地方文化と自然環境と空気・水・食事・おもてなしの心遣いなどは、やはり、観光の根幹なのであろう?都会での味気ないホテル滞在に慣れた海外旅行者にとっては、何とも、堪らない経験であったそうである。最後に、露天風呂から、眺める雄大な浅間山に連なる山々を眺めながら、まだ、一寸、冷たいそよ風に、打たれながら、燕が飛び交う様を観ていると時間が、ゆっくりと流れて行くものである。いつも、あくせく、セカセカと、現地の騒音の中で、生活している彼らにとっては、極上の贅沢な時間の過ごし方であると言っていた。新緑の若葉の世界が、秋には、又、紅葉して、全く趣きが異なる世界に変貌すると説明しても、恐らくは、分からないことであろう。多分、違った季節に、再び、来日すれば、その理由が、おおいに、分かろうというものである。全く、嵐のような二泊三日の駆け足滞在ではあったものの、人生初めての様々な体験もしたようで、おおいに、小諸ファンとなって、東京へ戻って行った。早速、現地のスタッフに、連絡したところ、私も私もと、小諸に行ってみたいと言い始めているそうである。食に、自然に、人間に、そして、歴史・文化に触れれば、反日などという考え方は、どこかへ、一気に吹っ飛んでしまうものであろう。草の根の小さな民間外交であると考えれば、それでよいではないだろうか。未だ、山桜も咲いていたが、今度は、秋を愉しみたいそうである。