ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

何せむ

2018-08-09 04:19:05 | 短歌





生き方を 蝉にならひて 何せむと われにこそとへ 上弦の月





*この項を書いているのは梅雨明けしてから数日後のことです。蝉の声が聴こえ始めるころですね。

わたしたちのうたでは、みんみんぜみを「見む見むせむ」となどしゃれて、蝉を自分を実行する存在になぞらえています。

せみは「せむ」といいながら、七日しかない命を精一杯鳴き騒ぐ。言葉遊びから発したことですが、夏の盛りのあの蝉の盛んなさわぎに、自分を実行することの熱さが表現されていて、とてもいいとわたしは思っています。

その蝉に生き方を習って、何せむ、何をしようと、自分にとうのだ。上弦の月は。

上弦の月は、半身を欠くほどに大きな欠落を持った存在を表します。また命の形というものは、みな半月に似ています。蝉もまた、半月に似ている。それはこの世界に完全な存在などないということだ。どんな立派な存在にも欠落があり、欠点がある。

人は時にその欠落を悲しみ、迷いの道に潜り込むのだが。欠落があることに絶望して何もしないでいてはいけない。自分にないものばかり見て、人をうらやましがってばかりいてはいけない。自分にあるものを見て、自分を実行していくことこそが、自己存在の本道なのだ。

何をしよう。自分に今ここにあるもので、何をしようと言いながら、蝉は鳴いている。蝉にはカマキリのような鎌はない、魚のような尾ひれはない。だが翅がある、声がある。神があたえてくれた宝がある。それを精一杯に使ってひと夏を鳴く。

蝉の鳴き騒ぐ声にかきたてられて、焦るように何かをしている人もいる。蝉はただ鳴いているだけで、季節をかき回している。それは神の声でもあるようだ。何かをせよ、何かをせよと、神が鳴いている。

さあ、この項が発表されるころは夏の盛りの頃ですね。あなたは蝉の声にかきたてられながら、何をしているでしょう。






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楠の葉

2018-08-08 04:19:14 | 短歌





楠の葉の 裏も表も かはらざる 月の罪こそ かなしかりけれ





*「楠の葉の」は「裏も表も」を呼ぶための序詞のように使ってみました。

裏も表も行いの変わらない、月の罪ともいえるほど正直なことほど、かなしいことはないなあ。

まあ見ていた人は知っているでしょう。かのじょは裏表など何もなかった。真っ正直そのものだった。

馬鹿な人たちは、裏に回ればいやなことでもしているのではないかと思って、かのじょをいろんなところからのぞきまくっていたのですがね、そんなことなどまるで見つからなかった。

実際、悲しいほどにかのじょは正直なのだ。自分を裏切ることなどできない。だれも見ていないからと言って悪いことができるような人ではない。だからこそあのように美しかったのだが。

馬鹿な人たちは、その美しさを嘘にしたくて、痛いところから始終観察していたのです。

それで結局最後まで、かのじょは誰の前にも陰りない人であり続けた。あらをさがそうとやっきになって裏から見ていた人たちの方が、まるで馬鹿になった。そっちのほうがいやなことをしているいやな人間になってしまったのです。

実際、人のあらを探そうと裏からずるい手でずっと観察しているなどということが、きれいなことであるはずがない。それを平気でやれる人の方が汚い。しかしそれも、かのじょが少しでもいやなことをすれば勝ちだと踏んでやっていたわけだが、それももろくも崩れ去った。

何度も言ってあげましょう。かのじょは、悪いことができないという、ある意味、恐ろしい人なのです。本質的に、できないのです。悪いことをするために必要な何かが、全く欠けているという人なのです。

そういう人を、悪いことをしないかと裏から見ていることそのものが愚かなことなのですよ。

それがかのじょの罪かと言えば、そうではありません。かのじょはまったく悪くない。ただ自分に正直に生きていただけです。しかしそれがかえって罪かと思えるほど、馬鹿どものやったことが馬鹿すぎたのです。






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おのれある国

2018-08-07 04:18:17 | 短歌





敷島の やまとの国は 細月の ごとくなれども おのれある国





*この項を書いているのは7月10日です。西日本豪雨があってから少しあとのことです。あの豪雨は大変なことでしたね。死者行方不明者がたくさん出た。悲しいことに出会った人も多いことでしょう。

ですが、いつまでも悲しんではいられません。人間は前に進んでいかなければならない。自然界の浄化はまっすぐにうけとめ、改めねばならないことは改めつつ、なすべきことをなしていかねばなりません。

浄化とは試練を乗り越えていく人間の心の中にも起きるのです。愛を発揮し、助け合っていくなかで心が清くなっていく。他人事と見捨ててはおれない。誰にだって起こり得ることだからです。いい加減にしておかないで、できることはしていきましょう。

これが発表される頃には、事態も少し落ち着いていることでしょうか。

日本の国は、形は細月のようにたよりないが、自分というものがある国なのだ。

たしかに日本の国は東西に長く、大陸に向かって少し遠慮をするように微妙に曲がっている。その形が細い月に似ていなくもない。それは大きな欠落を持つという自己存在の特質をも表しているようです。だがそこにはまぎれもなく自分自身がある。その自分こそが、何もかもを救っていくのです。

落ちて来た山のように大きな岩が道をふさいでいる。ひとひとりの力ではいかんともしがたい、自然界からの挑戦に、人間は自分自身でどう挑んでいくか。馬鹿なことにしないで、ひとつひとつがれきを拾っていく。何もかもを失ってしまった人の心によりそい、話しかけていく。知恵を出し合い、ものを出し合い、体を出し合う。できることはたくさんある。それらのひとつひとつに愛を灯しつけ、すべてをやっていきましょう。

試練が国を美しくする。試練の時こそ、人間の真価がためされる。ほんとうに美しい人は、愛ですべてをやっていくでしょう。






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いはやど

2018-08-06 04:18:53 | 短歌





過ぎ去りて なきとなりにし 白飴の 月のねがひの こりしいはやど





*取り返しのつかないことというのはあるものです。もうわかっているでしょうが、いまだに吹っ切れていない人がいるようなのでまた言いましょう。

かのじょを惜しむ気持ちはわかる。あんなにきれいなひとはいませんでしたから。男も女も夢中になった。性欲や嫉妬や羨望の低級な感情がうずまき、あまりにも大勢の人が狂った。それほど人を揺り動かすことのできる美女などほかにいません。

天使が美女に生まれたら大変なことになったというのが、結論だ。人間はあまりにも未熟だった。たぐいまれな美女が、心まできれいだという事実に、耐えきれなかった。感情に溺れさいなまれ、人間としてやってはいけないことをやりすぎた。

故に神はもう永遠にかのじょの愛を封じたのです。悔いても戻りはしない。かのじょがいなくなればこの世界に美女がいなくなる。その現象的事実を見て驚いた人もたくさんいることでしょう。この世界の美女を作っていたのはかのじょだったからです。美女がいなくなれば世界が変わる。もう世界は今までの世界ではない。自分のしたことが、こんなことになって帰ってくるとは思わなかったでしょう。

だが今さら、愛しているから戻って来てくれなどと、何度言おうともだめなものはだめなのです。

あなたがたはかのじょに、おまえなどいやだ、二度と来るなと言ったのですから。

あの人は愛のみで人類の救済を願っていました。すべての人を救いたいと願っていた。だがその願いはもうだめになった。人間はかのじょと一緒にその救いも拒否したからです。

いはと(岩戸)とか、いはやど(岩屋戸)というのは、かのじょの救いの願いの結晶のようなものだ。疲れ果てて氷のように眠っているかのじょがこもっている。

あのままかのじょは永遠に出て来はしない。自分も岩になってしまったかのように、眠り続ける。

実際の世界では、かのじょは故郷に帰ってから目を覚まし、その時にはもうすべてを忘れている。そして自分として新たな活動をはじめていくわけだが。

この世界では、永遠に岩戸にこもり続けるかのじょのイメージが、人類の夢に刻まれることでしょう。





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ちさき玉

2018-08-05 04:19:32 | 短歌





しなてるや 片身のかひを 胸にかひ ちさき玉なす おのれの玉を





*今日も一年前のツイートから持ってきました。「しなてるや」は「片」にかかる枕詞ですね。「かひ」が重なっているところがおもしろい。

片身の貝をむねに飼い、小さいけれども自分の玉をつくるのだ。

片身の貝とは、欠落の大きい自分自身のことを表します。完全ではない、完全などになれるはずのない自分自身の実相を表します。

人間の幼い頃は、全知全能だとか、完璧だとかいうものを追い求めたりする人が出るものですがね、かしこい人は、早いうちにそれが不可能なことだとわかって、やめるものだ。だが勉強の進んでいない人は、人に負けるのがいやなばかりに、無理にでも自分を完璧にしようとすることがある。

要するに、だれにもまけないすごいやつ、というものになりたがるのだ。それは幼稚な子供の願望にすぎないのだが、大人になってもこの願望を捨てきれない者がいる。そういうものは、人の心に迷惑をかけ続ける。

完璧になどなれるはずがありませんから、少しでも自分が落ち度をつくると、屁理屈をこねてそれを他人のせいにし、自分を守ろうとするのです。

何だかどこかの国を思い出してしまいそうだ。

しかし、完璧な存在になどなれないとわかっている人は、自分の間違いは間違いだと柔らかく考えることができる。落ち度を落ち度と認め、それをやり直し、いつまでも落ち度にしてはおかない。

小さくても、自分らしい自分というものがあり、それによって、あらゆることをなしていくのだ。

自分というものを、自分として、永遠に、完全に向かって、立ててゆくことができる。永遠に完全になどなれはしない。逃げることはできない自分を自分の中に認め、欠点も多いけれどもすばらしいものも持っている自分を実行していくことによって、より自分として完成していく。その過程こそがすばらしく、完全なのだ。

これがわかれば、人間、どんなに恥ずかしい失敗を犯しても、自分をなんとかしていくことができます。

自分の馬鹿を認めない馬鹿な自分を捨て、ほんとうの自分に飛び込んでいく。その勇気さえあれば、どんな壁にも挑戦していくことができる。

不可能だと思えることさえも、できるようになっていくのです。






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空蝉の身

2018-08-04 04:20:08 | 短歌





おのれなき 空蝉の身に あやかしの けものこごりて 罪を吐きつむ





*今日は一年前のツイートから持ってきました。これは沙羅の歌ですね。わたしたちの中では比較的厳しい歌を詠みます。ですが厳しい人と単純に考えてはいけませんよ。この人は本当はとてもやさしい人なのです。それが今は、かのじょのことでとても怒っているのです。

自分のない、空蝉の身の中に、あやかしのけもののようなものが凝結して、罪となることを言いては積み重ねることだ。

ツイッターでもいろんなひとがいろんなことを言っていますね。表現の自由をいいことに、人を馬鹿にするようなことを平気で言うひとがたくさんいるのだが、それはなんでかと言うと、自分の中になにもないからなのです。何もしたことがない。だから自分の中に何もいいものがない。そう思い込んでいる。だから、自分の中につらい焦りのようなもの、腹を引き絞られる不安のようなものが凝結して、それが恐怖を呼び、攻撃性に発展していく。

そう言う風にして、人を馬鹿にするようなことばかり言う。

人間、自分の言ったことには責任を持たねばならないということが、ちゃんとわかっている人なのならいいのだが、それがわかっていない人は好きなことを言いすぎます。

政治家の難点を責めるのもいいが、なら自分でやってみろと言われたらどうするのか。年金問題でも少子化問題でも、一朝一夕になんとかなるような問題ではない。やっている人はとにかく何とかしようとしている。その苦労がどんなことかも知りもしないで、軽い気持ちで馬鹿にするのはよいことではありません。

奥底に隠した嫉妬の二文字が見え隠れする。収入がいいのがうらやましい。有名なのがうらやましい。金持ちになりたい。なったら女をなんとかするのだ。そういう低級な心が、獣のように内奥でうごめいている。

下衆の心とはそうしたものだ。自分のことしか考えていない。

ツイッターの潮流を神のように考えてはいけませんよ。あれには人間の底辺の低い心が渦巻いている。いい言葉は聞くようにして、いらぬ言葉は無視したほうがよろしい。国民の意見などといって、そこらの通行人の意見を聞くのも、あまりいいことと思いません。

何もしない人は、何も知らないからです。何もしない人の、適当にそれらしいことを言っているだけの言葉を、国民の心として重要視することには害があります。

本当に国を憂えている人の、真実の言葉を、魂のある言葉を、人間、見抜かなくてはなりません。






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自分以外

2018-08-03 04:19:52 | 短歌





なにしても 絶対おれは 悪くない 自分以外の だれかが悪い





*やあこれは痛いですね。もちろん大火の作です。こういうことはもう、くどいほど言われていることだが、こうあからさまに、こぶしをつきつけられるように言われると、みごととしかいいようがありません。

確かに、馬鹿な人というのは、いろいろなレトリックを使ってごまかしつつも、はっきりこういっているようなことをしていることが多いですね。一応形は頭を下げてあやまりつつ、心の中ではどうにかして人になすりつけて自分は逃げることはできないかと考えていたりする。

悪いことばかりしている人間は、いつも責任を取るということからはすべて逃げたがる。

かのじょを馬鹿にするために、あらゆることをやった男も女も、いまだに逃げている。責任をとるには、あまりにもやったことが恥ずかしいからです。何でそんなことをやったかといえば、悪の優位性を信じ切っていたからなのだが。まさか、もののみごとに逃げ切られるとは思っていなかったのです。

みんなで美人をいじめていたら、美人は一生懸命にそれに耐えて、清らかに生きて、人類を救える大きな一手を打ったかと思うと、何もいらぬと言って消えてしまった。

最後まで何も悪いことはしなかった。それどころかすばらしいことをしてくれた。その人に対して、馬鹿どもは、美人が欲しい、美人が妬ましいという、低レベルな欲望にからんで、すべて邪魔したのです。人類の救済を真っ向から妨害したことになった。

そんな大きすぎる罪の責任をとるのはあまりにもきつい。それゆえに、いまだに馬鹿どもは逃げているのです。自分以外の誰かのせいにできないかと。

何度も言われていることですね。くどいほど言われていることですね。ですが、この罪に真っ向からつっこんでいかない限り、永遠に言われ続けることでしょう。馬鹿どもはまだ逃げていると。

自分の方が全く悪くない、なんて人はどこにもいませんよ。落ち度などだれにでもある。だが幼稚な人は自分が馬鹿になるのが嫌なばかりに、永遠にそれから逃げるつもりなのだ。

そして逃げている限り、何にもできない馬鹿であり続けるのです。自分の方が間違っている、ということを考えることができない限り、人の進歩はないからです。






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色あり

2018-08-02 04:18:41 | 短歌





かをりなき かなしき花に 夢とひて また色ありと 月ぞいひける





*これは京極為兼の歌に寄せてつくった本歌取りですね。とはいいますが少々苦しい作品です。本歌取りとも思えぬ全然違う作品になっている。

ツイッターでは毎朝本歌取りをやっていますが、時にちょっと苦しいのもあります。そこはそれ、毎日のためしだからです。完璧を期してやっているのではない。

こんなことも毎日続けていくと、スキルアップにつながりますよ。古語の使い方がやわらかくなってきます。

香のない悲しい花に夢がやってきて、あなたにはまた色があるのだよと、月が言ったのだ。

あの人はそういう人のいいところを見つけるのが好きでした。とても上手でしたね。絵本の読み聞かせボランティアのサークル友達にも、それぞれによいところを見つけて、その完成予想図なんて絵も描いてくれました。

今は未熟なところも多い人たちだけど、それが成長し、高くなっていけば、こんな美人になるだろうという、予想図です。

あの人は、人のいいところばかりを見るような人だったのです。

花にもいろいろあって、中には香のない花などもありますが、心ない人はそんな小さな欠点をついて、花を全否定してしまう。香のあるほかの花とくらべたりしてね。だがそんなことには意味はない。香のない花にも、美しい色がある。色に現れる心がある。それがあなたのよさなのだよと、かのじょなら言ってくれる。

すべてが完全に備わっている花などありません。薔薇は百合のように清らかに咲くことはできない。百合は薔薇のようにあでやかに咲くことはできない。全く違うものなのだ。薔薇が百合のまねをしても、百合が薔薇の真似をしてもおかしい。

それそのものであることこそが美しいのだ。

まあ、本歌取りでも、元歌をすっかり真似しなくてもいいということでしょう。下手でも自分の良さがある。元歌を尊敬しつつ、自分なりの心を詠っていければいい。

大事なのは練習です。積み重ねです。自分を積み重ねていくこと。拙くても、自分の花を何度も咲かせること。

その努力の中で、自分の花もどんどん美しくなっていくのです。






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世間の舞台

2018-08-01 04:18:11 | 短歌





うつそみの 人はまことを 見抜かれて ひくにひかれぬ 世間の舞台





*今日は大火の歌をいきましょう。この項を書いている7月4日現在、大火はつぶやきを封じられて、自由にツイッターなどで表現することができません。ですから歌の方で少し憂さを晴らしているようなところがありますね。

わたしたちも今、ツイッターであふれるほど表現していたのを意識的にやめています。わたしたちがどんなに発信しても、表向き何の反応もないのが原因の一つです。

ツイッターの数字なんかにも如実に歪みが出ていますね。ツイート数は二万五千を越えているのに、フォロワーの数がなんせ13人だ。これはけっこうひどいですね。

実際、表向き誰も見ていないような感じにしていて、わたしたちの活動を見ている人間の数はすばらしく多いのです。人間はずるい。全然見ていないふりをして、しっかり見ている。

それが証拠に、テレビに出てくるタレントの顔が実に苦しそうだ。隠しても隠しても顔を見れば全部本音を見抜かれることを知っているからです。大火がつぶやきで教えたことを、みんなが知っているからなのです。

大火が教える細かいコツを知らなければ、そんなことはわからないはずだ。実質、芸能界のタレントなどは、どんどん正体を見抜かて、大変なことになっているのです。表舞台に出れば出るほど、恥ずかしい心の中を見抜かれるのに、でないわけにいかない。露出度の高い服を着て、人目の前に立つより恥ずかしい。いやらしいことを考えていたりすると、それが瞬時のうちに人間世界に広がる。

あんなことを考えている、という目で見られている。そういう人々の心が、自分にもわかるのが苦しい。

もうだれも自分の心を隠すことはできないというのに、世間の舞台に立たねばならない、大ウソつきの人ほど苦しいものはない。

わたしたちのブログやツイッターを、たくさんの人が見ていることも、もう筒抜けにわかるのですよ。ネットのニュースに出てくる人の顔を見て、天使のブログを見ているかと尋ねればいい。そうすれば、たいていのものは、イエスと答えます。

天使の活動というのはそういうものだ。無視しておけない何かがある。ものすごくたくさんの人が魅かれているというのに、表向き全く無視というのは、実に、本物だという証拠です。わたしたちが本物だからこそ、人間社会はわたしたちがおもてに出てきたら困るのですよ。

しかし、いつまでも無視する態度を改めないでいると、いずれ痛いことになりますよ。すべてが崩れ落ちてくる時、だれも天使に助けてを言えないことになる。

今から何らかの手は打っておいた方がいいと思いますがね。






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