生き方を 蝉にならひて 何せむと われにこそとへ 上弦の月
*この項を書いているのは梅雨明けしてから数日後のことです。蝉の声が聴こえ始めるころですね。
わたしたちのうたでは、みんみんぜみを「見む見むせむ」となどしゃれて、蝉を自分を実行する存在になぞらえています。
せみは「せむ」といいながら、七日しかない命を精一杯鳴き騒ぐ。言葉遊びから発したことですが、夏の盛りのあの蝉の盛んなさわぎに、自分を実行することの熱さが表現されていて、とてもいいとわたしは思っています。
その蝉に生き方を習って、何せむ、何をしようと、自分にとうのだ。上弦の月は。
上弦の月は、半身を欠くほどに大きな欠落を持った存在を表します。また命の形というものは、みな半月に似ています。蝉もまた、半月に似ている。それはこの世界に完全な存在などないということだ。どんな立派な存在にも欠落があり、欠点がある。
人は時にその欠落を悲しみ、迷いの道に潜り込むのだが。欠落があることに絶望して何もしないでいてはいけない。自分にないものばかり見て、人をうらやましがってばかりいてはいけない。自分にあるものを見て、自分を実行していくことこそが、自己存在の本道なのだ。
何をしよう。自分に今ここにあるもので、何をしようと言いながら、蝉は鳴いている。蝉にはカマキリのような鎌はない、魚のような尾ひれはない。だが翅がある、声がある。神があたえてくれた宝がある。それを精一杯に使ってひと夏を鳴く。
蝉の鳴き騒ぐ声にかきたてられて、焦るように何かをしている人もいる。蝉はただ鳴いているだけで、季節をかき回している。それは神の声でもあるようだ。何かをせよ、何かをせよと、神が鳴いている。
さあ、この項が発表されるころは夏の盛りの頃ですね。あなたは蝉の声にかきたてられながら、何をしているでしょう。