楠の葉の 裏も表も かはらざる 月の罪こそ かなしかりけれ
*「楠の葉の」は「裏も表も」を呼ぶための序詞のように使ってみました。
裏も表も行いの変わらない、月の罪ともいえるほど正直なことほど、かなしいことはないなあ。
まあ見ていた人は知っているでしょう。かのじょは裏表など何もなかった。真っ正直そのものだった。
馬鹿な人たちは、裏に回ればいやなことでもしているのではないかと思って、かのじょをいろんなところからのぞきまくっていたのですがね、そんなことなどまるで見つからなかった。
実際、悲しいほどにかのじょは正直なのだ。自分を裏切ることなどできない。だれも見ていないからと言って悪いことができるような人ではない。だからこそあのように美しかったのだが。
馬鹿な人たちは、その美しさを嘘にしたくて、痛いところから始終観察していたのです。
それで結局最後まで、かのじょは誰の前にも陰りない人であり続けた。あらをさがそうとやっきになって裏から見ていた人たちの方が、まるで馬鹿になった。そっちのほうがいやなことをしているいやな人間になってしまったのです。
実際、人のあらを探そうと裏からずるい手でずっと観察しているなどということが、きれいなことであるはずがない。それを平気でやれる人の方が汚い。しかしそれも、かのじょが少しでもいやなことをすれば勝ちだと踏んでやっていたわけだが、それももろくも崩れ去った。
何度も言ってあげましょう。かのじょは、悪いことができないという、ある意味、恐ろしい人なのです。本質的に、できないのです。悪いことをするために必要な何かが、全く欠けているという人なのです。
そういう人を、悪いことをしないかと裏から見ていることそのものが愚かなことなのですよ。
それがかのじょの罪かと言えば、そうではありません。かのじょはまったく悪くない。ただ自分に正直に生きていただけです。しかしそれがかえって罪かと思えるほど、馬鹿どものやったことが馬鹿すぎたのです。