白飴の 月のすくひを 甘く見て 去りし船をぞ 岸辺に思ふ
*「白飴の」は、「月」や「甘し」にかかる枕詞として使用しています。こういう新しい試みも、いいことだと思う。何も昔から伝わるものだけにこだわる必要はありません。
白飴のように甘い、月の救いを甘く見て、もうとうに去ってしまった月の救いの船のことを、岸辺にたたずみながら思うことですよ。
前から言っているように、かのじょという天使の願いは、すべての人類を救うことでした。それが可能なことであるかどうかは関係ない。ただかのじょはそれを願って、そのために活動していたのです。
そのかのじょが、生きて今も活動してくれていたなら、その夢もまだ生きていた。かのじょはひとりでも多くの人間を救うためにあらゆることをやり、そのおかげで救われる人間も多くなったことでしょう。
しかしもうそのかのじょはいない。ほかの天使も、できるだけ多くの人間を救おうとはしてくれますがね、かのじょのようにすべてを救おうとはしない。落ちる者は落ちるのだと、冷静に割り切っている。
それにしても、この度の転換の時代において、落ちる人間の多いことだ。わたしたちもまさかこれほどとはと思う数の人間が、人間を落ちている。
人間は自分を嫌がり、迷いの中で天使を盗んで自分にかぶせ、愛の姿を偽造して愛をだまそうとするのです。そんなことをすれば人間の際を落ちてすべてがだめになるというのに、やめられないのです。
本当の自分の姿がとてもいやなものになっているからです。人を盗むばかりで、本当の自分を生きたことなどほとんどないからです。
そんな馬鹿者たちが、選んだ偽物の自分が、すべてを救いたかった天使の顔の真似だとは皮肉な感じがします。すべてを救おうとしていた天使の顔を盗んで、自分が人間を落ちていく。
もしかのじょが生きてそれを見ていたら、何を思うことでしょうか。