雲雀聞く れんげ畑の わらはかな 夢詩香
*歌ばかりでは何ですので、たまには俳句をあげましょう。これもわたしが句作の初期に詠んだ句の一つです。ありがちな句ですが、情景が思い浮かぶ。調べたわけではないが、雲雀もれんげも季語でしょうね。こういうのを季重なりというのですか? あまり気にしないでいいでしょう。
季語の縛りは、あまりなくてもいいものだとわたしは考えます。17文字だけの制限だけで十分だ。季節も愛もそこに閉じ込めようとしてもできないほど大きなものだが、何かをなそうとする人間の試みがしみついていくのが面白い。
これはかのじょの幼い頃の記憶を詠んだものです。かのじょが幼かったころ、家の近くには毎年春になるとレンゲソウが咲き乱れる風景がありました。昔から田んぼが空いている季節には、田んぼにレンゲソウを咲かせる風景がありました。田んぼ一面がレンゲソウの紅に染まっている風景は実に美しかった。かのじょが大人になって、海辺の町に住んでみると、田んぼなんかはありませんでしたから、もうそんな風景は見られなくなりましたが、死ぬまでにはもう一度、あの風景を見たいと思っていましたね。
レンゲソウは漢字で書くと紫雲英と描く。ゲンゲともいう。何やら幻想的だ。咲き乱れている野の中にいると、何かを忘れてしまいそうになる。
小さい頃、かのじょは学校でいじめられていました。友達などひとりもいなかったのです。ですがあるとき、あるひとりの友達がついてきてくれて、一緒にれんげ畑で過ごしたことがあったのです。名前も覚えている。弥生ちゃんという名前でした。クラスは違いましたが、みんなでやっていたいじめの仲間に、あの子は入らなかったのです。
どんなことがあってそのとき一緒にいたのかは記憶にないが、かのじょはその時その子と一緒にレンゲ畑の中にいて、雲雀の声を聞きながら、授業で教えてもらった詩の文句みたいなことを、ふざけて言って笑っていたのです。
道ははるかに遠い。
なんでそんなことを言ったのか。ここから家に帰る道が遠い、という単純なことでしたが、深く考えれば、学校でのいじめにしろ、家庭の境遇にしろ、何か自分はみんなからはるかに遠いと、感じていたのでしょう。
たしかに、はるかに遠かった。子供のころはなにもわかりませんでしたが、かのじょは周りにいるみんなとは、何もかもがはるかに遠かったのです。
だがもうそれももう遠い記憶だ。
あの人はもう、みんなから遠いところに行ってしまった。かすめるほど近くにいた時に何もしなかったから、つなげる糸など何もなく、月は遠ざかっていく。
それははるかに遠い。