しじふしの しづのをがゆく 荒野とは あるを愚かと 言ひしものの世
*今日もツイッターの歌から。これは葡萄式部が歌ってくれた歌です。葡萄式部というのはきつい名前ですね。紫式部をもじっているのだが、紫式部は偽物の作家ですから、そこに何らかの意味をくみ取れないこともありません。
「しじふしのしづのを」とは、44人の賤しい男という意味です。もちろんこれは、シジフォシアのしゃれから思いついた言葉です。シジフォスはギリシャ神話でゼウスの浮気を言いつけたため、石を背負って山に登ったと思うと石が落ちてしまう、また背負って登る、また落ちる、ということを永遠に繰り返さなければならなくなった人です。ゆえに徒労の代名詞にもなっています。
シジフォシアとは、自分というものを馬鹿にしすぎたものが行くところです。そこには何もない砂の野が広がっている。人間は何をしても徒労に終わるだけだから、ぼんやりとずっといるだけだという世界です。そういうところが、あるのです。
これはたくさんの人々に教えてあげて欲しいですね。地獄よりももっとつらい地獄です。何をしても何にもならないのです。幽霊よりもはかない姿になって、茸のように群がって存在することしか、ほとんどできないというところなのです。馬鹿なことをしすぎると、そういうところにいかねばならない。
44人の賤しい男がいくところ、という表現はおもしろいですね。洒落からおもいついた言葉だが、微妙に響きあう。44というのは、死をにおわせる四の数字が二つ重なっている。用法は違いますが、ふざけて44ers(フォーティーフォーラーズ)なんて言葉を思いついてくれた人もいました。49ers(フォーティーナイナーズ)というアメリカのNFLのチームがありますが、その元は1849年に一獲千金を夢見てカリフォルニアの金鉱に押し寄せた人たちのことを言いました。
金鉱に押し寄せるというのも品のいいことではないが、自分というものを馬鹿にすることほど愚かなことはない。44人の賤しい男というのは、そういうものの代名詞にもなるでしょう。面白い感じに使ってみればよい。馬鹿なことをした人間にこういうのです。そんなことをしていれば、45人目のしづのをになるよと。
フォーティーナイナーズには金で成功した人はいないそうです。一攫千金などほとんど夢でしかない。何の基礎的な徳も積んでいない人が、金鉱の恵みをあてこんでやってきても、何にもなりはしないのです。
歌というのはおもしろいことばが次々に生まれてきますね。「にきしねの」は枕詞として大いに育てていきたいところです。「白飴の」もなんだか「月」とか「甘し」の枕詞にできそうな雰囲気がある。歌をたくさんよんで、実例をこしらえていきたい。
こういうことは、大いに発展させていきたいものです。本当に豊かな人間になりたいのなら、こういう基本的な徳を、確実に積んでいくことが正しいのです。