空蝉を 捨てて得たるは 蝉のこゑ 夏の盛りを いかにとやせむ
*今日からしばらく、ツイッターの歌集の傑作集をやりましょう。これは銀香炉の代表作です。銀香炉というのは、このブログで最初に発表した短歌の作者です。覚えていますね。
月室に 銀の香炉を ひとつ置き うぐひの声を 焚きてもみむか
これです。この歌を詠んだことで、彼の名前のひとつが銀香炉になりました。瑠璃の籠にも出てきている人ですが、あなたがたがこの人ではないかと特定している人とは違う人ですよ。誰かは言わないでくれというので、言いません。
ツイッターではみなが好きな名を使っています。瑠璃の籠で使っている星とは特定できる人は少ないですね。だが特に深い意図はないようです。自分の名を明かすのが都合が悪いというわけではなく、なんとなくそうしたほうがいいと思うから明かさないだけなのです。
わたしたちはこの、何となくそう思うという感じが重要だということに気付いています。まだはっきりとはつかめていない感覚の中に、何かが入ってくることがある。それに従っていると後でよいことになるということを知っているのです。それはもう、空蝉を少しずつ脱いでいくような感覚だ。そのときそのときはわからなくても、あとでするりと状況が脱げて、新しい状況が広がることがあるのです。
故にこの歌の意味もそうなりますね。空蝉とは蝉の抜け殻のことだ。枕詞としては
「世」とか「命」とかにかかるが、ここでは空蝉そのものとして使っています。
幼虫の頃の抜け殻を捨てて、わたしが得たものは声だった。この声をして、この夏の盛りに何をかけようか。
すばらしい。彼らしい歌です。未知の感覚に導かれ、捨てがたいと思っているものを捨て、未知のものを選んでいくと、新たなものが授かるのだ。いえ、自分の中から芽生えてくるのだ。それをつかめば、とんでもないことができるようになる。
この歌はそういう意味です。
馬鹿になっていらぬものにこだわらず、空蝉を脱いでごらんなさい。盛りの夏を鳴き渡ることのできる、すばらしい声を授かるでしょう。