チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

小包料金 第1期 1918年10月29日~1919年6月30日まで

2007年09月21日 22時22分23秒 | 郵便料金
ユーゴスラヴィア建国当時の通貨単位

1.オーストリア・ハンガリー帝国
①オーストリア帝国、占領下のボスニア・ヘルツェゴビナ: heller, Krone
②ハンガリー王国: fillér, Korona

2.SHS王国建国後
③スロヴェニア: vinar, Krona
④クロアチア: filir, Kruna
⑤ボスニア・ヘルツェゴビナ: heller, Kruna

小包第1期の郵便料金は旧オーストリア・ハンガリー帝国の料金であるため、この両国の通貨を使って記載します。
SHS王国建国後の各地域で発行された切手の額面は、各地域の通貨単位で記載します。
小額の通貨単位は小文字で記載し、大きい単位は大文字で書き始めます。
尚、1920年5月16日からセルビアとの通貨統合がおこなわれるまでは、上記の①~⑤の通貨の価値は同等でしたので以下の交換レートが成り立ちます:
100 heller = 100 fillér = 100 vinar = 100 filir = 1 Krone = 1 Korona = 1 Krona = 1 Kruna

参考文献
(1)MICHEL ÖSTERREICH-SPEZIAL 1990
(2)MICHEL Europa-Katalog Ost 1988/89
(3)MICHEL 1952年版のユーゴスラヴィア (国立国会図書館研究員・田中邦夫氏にご提供いただいたものです)
(4)Stanley Gibbons Stamp Catalogue Part 3 Balkans, 3rd edition, 1987


I. 小包料金 第1期 1918年10月29日~1919年6月30日まで

序 ---ドイツの研究者の苦労---

旧ハプスブルク帝国領土内の第1期の小包料金は、第1次世界大戦中に郵便料金が改訂されたオーストリア・ハンガリー帝国領及びボスニア・ヘルツェゴビナの料金と制度がそのまま適用されました。
第一次世界大戦末期の混乱により郵便料金の記録が完全には把握されていなかったこと、そしてチトーの共産主義時代の排他性、さらに1990年代のユーゴ内戦の混乱により調査ができなかったことにより、ドイツの研究者の方々も相当苦労されています。
ハンガリー王国やボスニア・ヘルツェゴビナの料金のように、1998年や2002年になってやっと発見されたものもあります。
特に文献(3)の1999年の発見は、ボスニア内戦が終わった後にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォでMuhasilović婦人とSarić婦人が調査してやっと発見された非常に貴重なものであり、相当な労力が費やされています。
このようなドイツの研究者の多大な努力にもかかわらず、まだ料金が不明のままになっている部分もあります。文献や私の収集品から判明する部分は備考として記載してあります。将来新しい発見が行われる可能性は十分あるため、追加・修正の可能性もあります。
以上述べたような状態であることをご理解の上お読みいただき、このブログをご覧の皆様のお手元にあるマティリアルの料金解析に応用していただければ幸いです。
ドイツの研究者も、日本で彼らの研究成果が生かされていることを知れば喜ぶものと思われます。尚、原論文は全てドイツ語で記載され、翻訳は私が行なっています。


A. 旧オーストリア帝国領(スロヴェニア、ダルマチア)(参考文献(1))

旧オーストリア帝国の料金を適用した。
通貨:オーストリア帝国100 heller = 1 Krone = SHS王国スロヴェニア100 vinar = 1 Krona

(1)重量料金
5kg以下-----------------------------100 vinar
5kgを越えて10kg以下---------220 vinar
10kgを越えて15kg以下-------320 vinar
15kgを越えて20kg以下-------420 vinar
(20kgを越える小包は重過ぎて作業が困難なため取り扱われない)

(2)価格表記料金(保険料金) 300 Kronen毎に10 vinar
(3)代金引換料金 10 vinar

(4)かさばる小包------特別料金
ブログ著者備考:
文献(1)には特別料金と記載されているだけです。しかし、同一時期のハンガリー王国とボスニア・ヘルツェゴビナでは「50%追加料金(重量料金に対して)」という扱いでした。また、私の手元にもスロヴェニアで50%追加料金を徴収したと考えられる使用例があります。このため、オーストリア帝国領でもかさばる小包は「50%追加料金(重量料金に対して)」であり、スロヴェニアの第1期の小包に適用されたと考えられます。

(5)速達料金 市内料金100 vinar, 遠隔地料金 200 vinar
文献(5)の記載:受取人が引き渡し郵便局の直接配達範囲内にいる限り、速達料金100 vinar (1 Krone)は全ての配達料金を含んでいた。
ブログ著者備考:
速達扱いの場合は配達料金を含んでいますから、通知料金や配達料金が徴収されることはありません。また、市内料金と遠隔地料金がどのように区別されるのかは文献に記載されていません。

(6)至急料金 120 vinar
文献(5)の記載: オーストリア鉄道郵便の特別な形態である「Dringend至急」は、可能な限り最も速い配達を行う輸送である。
ブログ著者備考:
ボスニア・ヘルツェゴビナの料金表では、「至急料金は速達料金に加算する」とされています。また、私の手元にもスロヴェニアで速達料金と至急料金を2つとも支払い、速達と至急扱いの2つのラベルを貼った使用例がありますので、オーストリア領でも「至急料金は速達料金に加算する」扱いがされていると考えられます。
速達料金を徴収せずに至急料金だけを徴収した使用例も私の手元にありますが、これは取扱い方法を誤っていると推定しています。

(7)通知料金 5 vinar (保険有りも無しも同額)
ブログ著者備考:郵便局への小包の到着を受取人に通知する。受取人から徴収し不足切手により領収される。

(8)配達料金
①保険無し、または1000 Kronen までの保険の場合
1)5万人以上の人口の場所宛て 50 vinar
2)1万人以上の人口の場所宛て、あるいは国有郵便局のある小さい場所宛て 30 vinar
3)残りの場所 20 vinar
②1000 Kronenを越える保険付き小包の場合は、1000 Kronen毎に20 vinarを加算
ブログ著者備考:受取人の住所に配達する。受取人から徴収し不足切手により領収される。

(9)小包私書箱への小包の保管に対する小包1個当たりの料金
文献(5)の記載:
オーストリア帝国領の「Abholungsvorbehalt(受取に行くことを予約する)」扱いの小包は、現代の私書箱と同一である(小包私書箱)。受取人は自分宛ての郵便物が小包私書箱にあるかどうかを気をつけておき、あればそれを交付されて入手する。特に、定期的に高頻度に郵便物が届く商人がこの特別サービスを利用した。この扱いの小包には小包1個当たりの料金が課せられ、リュブリャナでは当時10 vinarであった。小包1個当たりの料金とは別に、月毎の小包私書箱料金は10 Kronenであった。この料金が現金で支払われたのか、該当書式に不足切手で支払われたのかは分からない。

ブログ著者備考:
(a)小包私書箱の使用者
文献(5)には「特に、定期的に高頻度に郵便物が届く商人がこの特別サービスを利用した」と記載されています。そして、リュブリャナ1郵便局での使用例が示されており、商人が自分の商店の名前の入った楕円形のスタンプを押して受取日を記入しています。この文献の著者は、商人はこのようなスタンプを使用するが、個人は通常はこのようなスタンプを使用しないと記載しています。このような商人のスタンプの存在は、小包私書箱の使用の判断の根拠になるようです。

(b)リュブリャナ以外の都市や町の料金
文献(5)に記載されているリュブリャナの使用例とは別に、小包到着地のスロヴェニアのツェリエとマリボールという大都市で10 vinarの不足切手を貼った第1期の使用例が私の手元に複数あります。このため以下のように考えられます:
①受取人から徴収し不足切手により領収される(使用例は不足切手が使用されています)
②リュブリャナ、マリボール、ツェリエ 10 vinar(これらは使用例があります)
(この料金は、第1期と次の第2期では同じ金額であると考えられる証拠があります)
③残りの全ての市町村では5 vinarの可能性があると推定(これは現段階ではC.ボスニア・ヘルツェゴビナで実施されていた料金規定からの推定です)。

(c)小包私書箱の1個当たりの料金が5 vinarの場合について
この場合は小包私書箱の1個当たりの料金5 vinar と通知料金 5 vinar は同じ5 vinar の料金で、しかも両方とも小包の受取人から不足切手により領収されるため、料金だけでは両者は区別できません。しかし、通知料金の場合は受取人の住む通りと番地まで小包送票に記載され、小包私書箱の1個当たりの料金は郵便局名までしか記載されないと考えられるため、両者の識別は可能な場合があると考えられます。
ただし、通りや番地がなくても郵便局名と受取人の名前だけ書いておけば住所が分かるような小さな町や村では、小包私書箱の1個当たりの料金5 vinar と通知料金 5 vinar の区別がつかない可能性もあります。これらは個々の小包送票の記載を検討する必要があると思われます。
ただし、小包私書箱を持つためには1ヶ月で5 Kronen (1年で60 Kronen)必要なため、大量の小包を受け取る企業や商店に限定され、それらは大きな都市や町やそのすぐ側にありますから、小さな町や村では通知料金 5 vinarである可能性の方が高いと思われます。
(小包私書箱の取り扱いは「C.ボスニア・ヘルツェゴビナ」の項も参照してください。)


(10)旧ハンガリー王国領及びボスニア・ヘルツェゴビナ宛て小包
文献(1)には明記されていませんが、旧オーストリア帝国領(スロヴェニア、ダルマチア)から、旧ハンガリー王国領及びボスニア・ヘルツェゴビナ宛て小包は、国内料金と同一料金であったと考えられます。私の手元にもこれを裏付ける使用例があります。



B. 旧ハンガリー王国領(クロアチア-スラヴォニア)(参考文献(2))

旧ハンガリー王国の料金を適用した。
通貨:オーストリア帝国100 heller = 1 Krone
= ハンガリー王国100 fillér = 1 Korona
= SHS王国クロアチア-スラヴォニア100 filir = 1 Kruna

旧オーストリア帝国領、ボスニア・ヘルツェゴビナ宛ての場合には、オーストリア帝国とハンガリー王国の間で定められた郵便協定に基づき国内宛てとは異なる高い料金が適用された。

1.国内小包(クロアチア-スラヴォニア宛て)

(1)重量料金
5kg以下-----------------------------90 fillér
5kgを越えて10kg以下---------170 fillér
10kgを越えて15kg以下-------270 fillér
15kgを越えて20kg以下-------370 fillér
(20kgを越える小包は重過ぎて作業が困難なため取り扱われない)

(2)価格表記料金(保険料金) 300 Kronen毎に10 fillér
(3)代金引換料金 10 fillér
(4)かさばる小包は、50%追加料金(重量料金に対して)
(5)速達料金 文献(2)に未記載
(6)至急料金 文献(2)に未記載
(7)通知料金 5 fillér
(8)配達料金 20 fillér
1000 Kronenを越える価格表記小包の場合には追加料金として1000 Kronen毎に10 fillér

以上の料金は、小包の発送人から徴収して普通切手を使用した。

ブログ作成者備考:
①ハンガリー王国では、通知料金、配達料金は小包の発送者から徴収され普通切手で領収されます。オーストリア帝国とボスニア・ヘルツェゴビナでは小包の受取人から徴収し不足切手により領収されます。
②小包私書箱への小包の保管に対する小包1個当たりの料金に関する情報は入手できていません。現時点では、旧オーストリア帝国領やボスニア・ヘルツェゴビナと同様の扱いが存在していたと推定しています。


2.旧オーストリア帝国領、ボスニア・ヘルツェゴビナ宛て小包

(1)重量料金
5kg以下-----------------------------100 fillér
5kgを越えて10kg以下---------220 fillér
10kgを越えて15kg以下-------320 fillér
15kgを越えて20kg以下-------420 fillér
(20kgを越える小包は重過ぎて作業が困難なため取り扱われない)

(2)価格表記料金(保険料金) 300 Kronen毎に10 fillér
(3)代金引換料金 10 fillér

オーストリア帝国領、ボスニア・ヘルツェゴビナ宛て小包では、通知料金と配達料金は発送者からは徴収しない。到着局で受取人から徴収した。

ブログ作成者備考:
①かさばる小包の料金は文献に未記載です。国内便と同様に「50%追加料金(重量料金に対して)」と推定しています。
②速達料金は文献に未記載です。



C. ボスニア・ヘルツェゴビナ(参考文献(3))

オーストリア・ハンガリー帝国による占領時代のボスニア・ヘルツェゴビナの料金を適用した。
通貨:オーストリア帝国100 heller = 1 Krone
= オーストリア帝国占領下ボスニア・ヘルツェゴビナ100 heller = 1 Krone
= SHS王国ボスニア・ヘルツェゴビナ100 heller = 1 Kruna

1.国内小包(ボスニア・ヘルツェゴビナ宛て)

(1)重量料金
5kg以下------------------------------80 heller
5kgを越えて10kg以下---------170 heller
10kgを越えて15kg以下-------270 heller
15kgを越えて20kg以下-------370 heller
(20kgを越える小包は重過ぎて作業が困難なため取り扱われない)

(2)価格表記料金(保険料金)
(2a)参考文献(3): 1918年9月1日から値上げ;300 Kronen毎に5 heller
(2b)参考文献(4): 1918年10月1日から値上げ;300 Kronen以下は10 heller、それを越えると300 Kronen毎に5 heller
ブログ作成者備考:
ユーゴスラヴィアの小包料金第1期では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける(2a)と(2b)の両方の使用例が参考文献(4)で報告されています。第1次大戦末期から直後の混乱期であるため、1918年9月1日の料金値上げから僅か1ヵ月後の1918年10月1日の小包料金の再改訂が領域内で徹底せず、2種の料金が適用されていたと考えられます。

(3)代金引換料金 10 heller
(4)かさばる小包は、50%追加料金(重量料金に対して)
(5)速達料金 100 heller
(6)至急料金 120 heller(速達料金に加算する)
(7)通知料金 5 heller (保険有りも無しも同額)(受取人から徴収し不足切手により領収される)
(8)配達料金(受取人から徴収し不足切手により領収される)
①保険無し、または1000 Kronen 以下の保険の場合
1)人口1万人以上の都市 30 heller
2)残りの市町村 25 heller
3)ドイツからの小包、全市町村宛て 30 heller
②1000 Kronenを越える保険の場合は、1000 Kronen毎に20 hellerを加算
③配達証明 25 heller

(9)小包私書箱への小包の保管に対する小包1個当たりの料金(受取人から徴収し不足切手により領収される)
サラエヴォ及びモスタル 10 heller
残りの全ての市町村 5 heller

ブログ著者備考:
(9)のボスニア・ヘルツェゴビナにおける小包私書箱の取り扱いに関しては、文献(4) p.16に下記のように記載されています:
「受取人への小包の引渡しの際または後の料金に関して、さらに特別な場合を指摘する。
詳しく言うと、受取人はいわゆる「受取保留」(文献(5)には「受取に行くことを予約しておく」と書かれています)を宣言することができ、受取人宛ての郵便物(小包も含む)を配達するのではなく、引渡し郵便局で受取人のために保管し、受取人の要求に基づいて供給することができる。この業務は、主として大企業の要求により行われ、我々の今日の郵便私書箱に十分に匹敵している。
受取保留を小包にまで拡大する受取人は、1ヶ月当たり一定の「小包私書箱料金」(サラエヴォとモスタルでは10 Kronen、全ての他の場所では5 Kronen)を支払い、そしてそれに加えて小包1個当たりにいわゆる「1個当たりの料金」を支払う(サラエヴォとモスタルでは10 heller、全ての他の場所では5 heller)。」


2.旧オーストリア帝国領、旧ハンガリー王国領宛て

(1)重量料金
5kg以下-----------------------------100 heller
5kgを越えて10kg以下---------220 heller
10kgを越えて15kg以下-------320 heller
15kgを越えて20kg以下-------420 heller
(20kgを越える小包は重過ぎて作業が困難なため取り扱われない)

(2)価格表記料金(保険料金) 300 Kronen毎に10 heller
(3)代金引換料金 10 heller
(4)かさばる小包は、50%追加料金(重量料金に対して)
(5)速達料金 100 heller
(6)至急料金 120 heller(速達料金に加算する)
(7)配達証明 25 heller
ブログ著者備考: 通知料金と配達料金は受取人から徴収したと考えられます。


参考文献
(1)Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 47/93, p.732-735 (1993)
Pror. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Ausgewählte Postgebühren in Slowenien 1918 bis 1921
スロヴェニアにおける1918年~1921年までの郵便料金選集

(2)Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 64/98, p.1144-1147 (1998)
Pror. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Ausgewählte Postgebühren im Königreich SHS 1918/19
SHS王国1918/1919の郵便料金選集

(3)Nachrichtenblatt der Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten 67/99, p.1206-1207 (1999)
Pror. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Die Erhöhung der Postgebühren in Bosnien und der Herzegowina
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける郵便料金の値上げ

(4)Arge der Balkan Länder, No. 158, p.12-18, (2002)
Dr. Helmut Kobelbauer, Pror. Dr.-Ing. Klaus Wieland
Nochmals Postgebühren – Pakete in Bosnien und der Herzegowina
さらに郵便料金---ボスニア・ヘルツェゴビナの小包

(5)Arge der Balkan Länder, No. 161, p.28-31, (2003)
Dr. Helmut Kobelbauer
Nebenstempel der Paketabgabe beim Postamt Ljubljana
リュブリャナ1郵便局による小包引渡しの証示印

以上

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 6

2007年09月20日 19時32分17秒 | 歴史・社会的状況
6.ブログへの掲載

私の手元にある使用例は、今後このブログでご紹介するつもりですが、私自身まだ不満足で不完全なコレクションであることはあらかじめお断りしておきます。
これらは切手展で展示したことはまだ一度もありませんし、日本国内の誰にも見せたことはありません。
郵便史的に価値の高い一部のものは、イギリスのユーゴスラヴィア郵便史研究団体「Jugoslavia Study Group」の機関誌「Jugopšta」に投稿しています。
国内の切手展への出品はこれから行うかもしれません。ただし、リーフ上で説明できる量は非常に限られていますので、詳しい状況説明はブログの方が好ましいと思います。
また、切手展の会場に行くことのできる少数の人に非常に短時間見ていただくよりは、ネットで公開して多くの人にじっくり見てもらえる機会を提供した方が、この地域の特殊性を理解していただくのに好都合だと考え、ネットのブログという形で最初に公開することにしました。
ブログに掲載する画像は原則として私の収集品です。
ただし、私の収集品だけで郵便史とその背景を語ることは困難ですから、文献やカタログ類から引用する場合もあります。その場合は、その出典を記載いたします。
ブログ作成に際して使用した参考文献は記載いたしますので、関心がおありでしたらお読み下さい。

私が会員になっている研究団体は以下の通りです:
スイス Arge der Balkanländer (ドイツ語) (ただし2007年12月末から活動を一時休止の予定)
ドイツ Arbeitsgemeinschaft Jugoslawien und Nachfolgestaaten(ドイツ語)
イギリス Jugoslavia Study Group (英語)
これらの研究会の機関誌やモノグラフ類から抜粋した情報も提供できると思われます。

このブログの記載内容には著作権を主張いたします。記載内容を文献として引用されることは構いませんが、引用の際にはマナーとして、参考文献として「ブログのアドレス、ブログのタイトル、goo ID」の明記をお願いいたします。これらの記載のない引用はお断りいたします。

備考:
①外国語では複数形が厳密に適用されますので、スロヴェニアで発行された切手は「Chainbreakersチェインブレーカーズ」と呼ばれています。しかし、日本語では複数形があいまいに使用されますので「チェインブレーカー」と呼ぶことにします。
②建国当時の正式国名は「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」と非常に長いため、文章を書くのに不便ですので、南スラヴを意味するユーゴスラヴィアを使用します。
ユーゴスラヴィアも長くてわずらわしい場合には、単にユーゴと表記します。
尚、この国は欧米では1929年以前は単にSHSと呼ばれていたそうです。

謝辞:
郵便史の資料やマティーリアルの入手に際しては、多くの方々にお世話になりました。
特に、国立国会図書館研究員・田中邦夫氏、アメリカのRobert S. Tomlinson氏、カナダのA. H. Stokes博士、スイスのThomas Artel氏(スロヴェニア生まれ、スロヴェニア郵便史の大家)、私が会員になっている上記3つの研究会の皆さんから、多くの情報をご提供いただきましたことを、この場を借りましてお礼申し上げます。

参考文献:
(1)柴宜弘、ユ-ゴスラヴィア現代史、岩波書店、1996
(2)木戸蓊、バルカン現代史、山川出版社、1977
(3)KATALOG POŠTANSKIH MARAKA JUGOSLOVENSKIH ZEMALJA 1968,
翻訳: ユーゴスラヴィア郵便切手カタログ1968年版
BIRO ZA POŠTANSKE MARKE BEOGRAD 翻訳:ベオグラード郵便切手局
備考:アメリカのRobert S. Tomlinson氏から入手したもので、セルボ・クロアート語で書かれています。
(4)ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール(著)、千田善(訳)
スロヴェニア [原書名:La Slov´enie ]、白水社、2000
(5)ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン(著)、千田善、湧口清隆(訳)
クロアチア [原書名:La Croatie]、白水社、2000
(6)千田善、ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇、講談社、1993
(7)Priručnik Maraka Jugoslavenskih Zemalja, vol.4, 5, 6, 7, 1945-47, Zagreb (Croatia)
翻訳:ユーゴスラヴィア切手ハンドブック 第4, 5, 6, 7巻
備考:アメリカのRobert S. Tomlinson氏から入手したものです。これらはスロヴェニアで発行された切手のハンドブックであり、ドイツ語とセルボ・クロアート語の2ヶ国語で記載され、第二次世界大戦末期から戦後間もない混乱期にクロアチアの首都ザグレブで発行されました。私はドイツ語部分のほとんどを日本語に翻訳しています。
(8)(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944
翻訳: (英国)海軍情報部B.R. 493A、地理学ハンドブックシリーズ、ユーゴスラヴィア 第II巻、歴史、民族及び政権
備考: (BRITISH)は原本には記載されていません。発行国を明確にするために私が挿入しました。このハンドブックは英国海軍情報部が軍事目的の公的使用に制限して第二次世界大戦中の1944年に刊行したもので、「鍵をかけて保管」という指示がされています。第二次大戦後に機密解除され一般に放出されたもので、イギリスの郵趣文献専門業者から入手したものです。
(9)1987年10月8日付け、クロアチア・ザグレブのエルツェゴビッチ博士(ユーゴスラヴィア郵便史の大家・鑑定家)から国立国会図書館研究員・田中邦夫氏宛て私信(田中氏から御提供していただいたユーゴスラヴィア郵便史の解説です)

備考: 文献(7)(8)は、時々、イギリスの郵趣文献専門のh h Salesのオークションに出品されますので入手するチャンスはあると思われます。
h h Sales のアドレスhttp://www.hhphilit.com/hhindex.htm
e-Bayのアドレスhttp://stores.ebay.co.uk/HH-Sales

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 5

2007年09月19日 21時57分44秒 | 歴史・社会的状況
5. チェインブレーカーの使用

スロヴェニアのチェインブレーカーは、当初はスロヴェニア地域だけで使用されることを目的として発行されました。
しかし、第一次世界大戦により中央ヨーロッパの広大な領土を支配したハプスブルク帝国が崩壊して経済システムが麻痺してしまい、経済的混乱による物資不足が発生し王国内で切手が不足したため、最終的にはセルビアとモンテネグロ(この2地域ではチェインブレーカーは無効)を除く旧ハプスブルク帝国領域内全域でチェインブレーカーが使用されました。
ただし私の手元には、セルビアの首都ベオグラードでの使用例もあります。

旧宗主国の切手、ユーゴスラヴィアの各郵政局の加刷切手及び正刷切手とチェインブレーカーの混貼りも行われました。

郵便料金は、当初は旧宗主国の料金体系と制度がそのまま使用され、その後ユーゴスラヴィア独自の料金体系と制度に変更されました。

小包送票、郵便振替などの各種書式や用紙も当初は旧宗主国のものがそのまま使用され、後に一部には加刷を行ない、その後ユーゴスラヴィア独自の形式のものが使用されました。

消印も当初は旧宗主国のものがそのまま使用されましたが、次第にドイツ語(スロヴェニア地域)、イタリア語(ダルマチア地域)、ハンガリー語(正確にはマジャル語)(旧ハンガリー王国領域)の名称が削除されました。
ハンガリー王国領域では、国王の王権を象徴する「イシュトヴァーン・クラウン」と呼ばれる王冠も消印から削除されました。
ハンガリー式消印の年月日表示順序は、左から右あるいは上から下に「年・月・日」ですが、これは次第にユーゴスラヴィア式の左から右あるいは上から下に「日・月・年」に変更されました。
消印の形式もユーゴスラヴィア独自のものへと変更されて、セルビア人が使用するキリル文字とローマ字の二文字表示へと変えられていき、いわゆる「国風化」「ユーゴ化」が行われました。

ただし、不思議なことにクロアチアでは、地方の小さな郵便局では早くから「イシュトヴァーン・クラウン」と呼ばれる王冠の削除や日付けのユーゴ化が行われましたが、セルビア軍によるクロアチア郷土防衛隊に対する虐殺が行われた首都ザグレブのような大きな郵便局では、かなり遅くまで王冠が残されたままで、また日付けもハンガリー式のままになっていました(ただしセルビア国王のザグレブ訪問の記念消印は除く)。
これは、セルビア軍による敵国扱い同然の軍事占領と虐殺を目の当たりに見せつけられて、「ある程度の自治権を与えてくれていたハンガリー王国の方がセルビアよりも良かったぞ」、という思いが根底にあり、その意思表示のための無言の抵抗ではないかと思われます。郵便が政治的プロパガンダに使用されることは良くあることですから、この例もその一つである可能性もあります。

経済的混乱による慢性的な切手不足が発生したことによる臨時措置としては、①バイセクト、②普通切手にハンドスタンプまたは手書きで加刷して不足切手として使用したもの、③普通切手を収入印紙として使用したもの、④不足切手を普通切手や収入印紙として使用したもの、⑤郵便料金の現金支払い、⑥現金支払いと切手の混貼り、などの使用例も私の手元にあります。

バイセクトが公式に認められたのは、二次チェインブレーカーの10 para切手を対角線状に2分の1に切って、国内印刷物料金5 paraとして使用する場合だけです。ただし、実際には外国宛て印刷物、郵便振替、郵便小切手にも使用された使用例が私の手元にはあります。
その他の切手のバイセクトは、何度も通達が出されて禁止されましたが、現実に切手不足が頻繁に起こったため、多くの郵便局でバイセクトが行われました。
これに対して、セルビアのベオグラード郵政局は、バイセクトを使用した郵便物の到着便に対して不足料を課した場合もあり、その使用例は私の手元にもあります。

また、ユーゴスラヴィア軍(その主体はセルビア軍)は、①オーストリアのケルンテンとシュタイアーマルク、②ハンガリーのバラーニャ、③ルーマニアのテメスヴァル(ティミショアラ)を占領し、これらの地域でチェインブレーカーを使用したり加刷切手を発行しています。

中央ヨーロッパの広大な地域を支配し1つの経済システムと産業の分業構造を持っていたハプスブルク帝国が崩壊して数多くの国に分裂し、しかも1920年代前半まで各地域で内戦や国境紛争が続いたため、地域内の経済は混乱し停滞しました。
ユーゴスラヴィアでは1921年になっても経済活動は停滞を続け、1922年頃からやっと動き出したと言われています。このため、建国当初の1922年頃までの郵便物の量は少なく、郵便史の研究対象としては難しくなっていると私には思われます。


ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 4

2007年09月18日 22時17分06秒 | 歴史・社会的状況
4. ユーゴスラヴィア建国当時の旧ハプスブルク帝国領内の郵便切手

ユーゴスラヴィアの旧オーストリア帝国領域ではオーストリア切手、旧ハンガリー王国領域ではハンガリー切手、ハプスブルク帝国の占領下にあった旧ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領域ではボスニア・ヘルツェゴヴィナ切手が、そのまま使い尽くされるまで使用されました。

新しい郵便切手は、スロヴェニアのリュブリャナ、クロアチアのザグレブ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォの各郵政局で発行されました。
クロアチアのザグレブではハンガリー切手に加刷を行い、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォではボスニア・ヘルツェゴヴィナ切手に加刷を行なうと同時に、これら2つの郵政局管内では正刷切手の発行も行いました。
その他に投機目的の私的加刷なども知られています。

スロヴェニアで発行された切手は、低額面のものは奴隷が鎖を切る図案であったため「チェインブレーカー」と呼ばれました。これは、南スラヴ人がハプスブルク家の支配から解放される象徴的な図案で、大衆受けする図案でした。

この切手は王国成立以前から準備していたため、最初は40 vinar以下の額面の普通切手などで「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」を意味するDRŽAVA SHSと表示したものを王国成立後の1919年1月3日以降に発行しました。DRŽAVAは「国」を意味しています。

SHSは、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の頭文字を取ったもので、クロアチアはセルボ・クロアート語でHrvatskaと呼ばれ頭文字はHとなるため、SHSと略して記載されました。このSHSという略号は、この当時にこの地域を呼ぶ一般名として欧米で使用されました。
国名はローマ字以外にセルビア人の使用するキリル文字でも記載されており、民族問題に配慮された表示になっています。

その後、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」を意味するKRALJEVINA SHSと表示したものが50 vinar以上の額面の普通切手で発行されました。
このKRALJEVINAは、セルビアで使用される言葉で「王国」を意味しています。

オーストリア・ハンガリー帝国通貨の価値が4分の1に下落する交換比率で流通通貨がセルビアの通貨に切り替えられた後に発行された二次チェインブレーカーの表示は、KRALJEVSTVO SHSと変えられています。
KRALJEVSTVOは、ユーゴスラヴィア西部で使用される言葉で「王国」を意味しています。
同じスロヴェニアで発行された切手でありながら、王国を意味する言葉が、セルビア系になったりスロヴェニア・クロアチア系になったりして混乱が見られます。
このように、切手の国名表示の変遷を見ても、通貨の交換比率を見ても、セルビア王国の支配力が顕著になっていることが分かります。

備考: 通貨統一政策
旧オーストリア・ハンガリー帝国の通貨の価値を、セルビア王国の通貨の4分の1に落とすという乱暴なやり方で通貨統一が行われました。
例えば、100万円が一気に25万円の価値しか持たなくなったのです。郵便料金の実例としては、国内葉書が15 vinarから一気に60 vinar (15 para)に4倍に値上げになりました。
これは、あまりにひどい交換比率であり、旧オーストリア・ハンガリー帝国の人々は、財産を一気に4分の1に減らされてしまい、経済力を奪われてしまいました。
恐らくこの政策は、セルビア人の支配力を圧倒的優位にすることを狙ったものだと思われます。
セルビア側が本心から南スラブの各民族の融和を考えていたならば、1対1に近い交換比率にしておくべきでした。このような強圧的政策がセルビアに対する反感を強め、後々の政治的対立に発展していきました。

オーストリアのケルンテン州にはスロヴェニア人が多く住み、当時はユーゴスラヴィア軍の占領下にありました。この地域の帰属は、1920年10月10日の住民投票でオーストリアかユーゴスラヴィアのどちらかを選ぶことが決定されました。
しかし、
①セルビア軍によるクロアチアの敵国扱いの軍事占領
②ザグレブにおける郷土防衛隊の虐殺
③旧オーストリア・ハンガリー帝国の通貨の価値をセルビア王国の通貨の4分の1に落とす
というセルビアによる乱暴な圧制を見せつけられたケルンテン州のスロヴェニア人は、住民投票でユーゴスラヴィアへの編入を拒否し、オーストリアへの残存を決定しました。
このようにセルビアの圧制は、建国当初から南スラヴ人に拒絶されていったのです。
尚、ケルンテンの住民投票に関しては、オーストリアとスロヴェニアの双方から切手が発行されていますので、いずれご紹介いたします。

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2007年09月17日 11時43分15秒 | 歴史・社会的状況
オーストリア・ハンガリー帝国の実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916)の在位60周年記念公式葉書
王権神授説を最後まで信じ、この皇帝の老害とともにこの帝国は滅びると言われ、実際その通りに滅亡しました。


3.南スラヴ人の国「ユーゴスラヴィア」の建国

第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国、ドナウ帝国)が崩壊し、南スラヴ地域に対するハプスブルク家の支配力が失われました。

1918年10月6日、ハプスブルク帝国内の南スラヴの政治指導者は、クロアチアのザグレブで、南スラヴ統一を目的として「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」(以下、民族会議と記載)を創設しました。

1918年10月29日、民族会議は、ハプスブルク帝国内の全ての南スラヴ地域から構成される「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の創設を宣言しました。
この民族会議の影響力は、セルビア王国と山国の小国であるモンテネグロ王国には及んでいませんでした。
あの当時のこの地域の大きな勢力は、南スラヴの盟主とみなされ南スラヴ全体の統一をもくろむ「大セルビア主義」をかかげていたセルビア王国、ザグレブの民族会議、そしてスロヴェニア・イストリア半島・ダルマチアの占領を狙うイタリア王国でした。

この10月29日の宣言の際にクロアチア議会は、非常に意味深な行動を取っています。
ダルマチア出身のクロアチア人議員を巻き込んで、中世以来のクロアチアの悲願であった、クロアチアとスラヴォニアとダルマチアを合わせた「三位一体王国」の創設をいったん宣言したのです。これは、明白なクロアチアの独立宣言でした。
(備考: スロヴェニアとスラヴォニアは異なる地域ですので混同なさらないで下さい。)
ここに「大クロアチア主義」と呼ばれるクロアチアの本音を見ることができます。
しかし、彼らは自分たちだけでクロアチアを狙うイタリア王国やセルビア王国に対抗する力を持っていませんでした。
このためクロアチアはやむを得ず、この「クロアチア三位一体王国」の独立宣言をした後に、この国をスロヴェニアやボスニア・ヘルツェゴビナを含む「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」(DRŽAVA SHS)の中に入れ込む形にしてセルビア王国やイタリア王国に政治的に対抗しようとしたのです。

あの当時のザグレブの民族会議を取り巻く政治状況は以下のように危機的でした:
①ロシアの共産主義革命の影響による革命気運の影響や農民による土地占拠による社会的混乱
②スロヴェニアの首都リュブリャナに向けてイタリア軍が侵攻を開始しましたが、スロヴェニア人の将校グループが進軍を阻止しました。
③決定的になったのは、ロンドン秘密条約に基づいてイタリア王国がローマ帝国の領土であったアドリア海沿岸のダルマチア地方に艦隊を派遣し軍事占領を開始したことであり、「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」はイタリア王国の軍事力により国土の一部を占領されてしまいました。ザグレブの民族会議がこのことを知ったのは11月24日でした。

イタリア王国に対する軍事的対抗力を持たなかったザグレブの民族会議は、セルビア王国の軍事的保護下に入るしか選択肢がなくなったため、1918年11月27日にセルビア王国との統一を進めるためにセルビア王国の首都ベオグラードに向かいました。
あの当時の新国家の構想としては、「コルフ宣言」と「ジュネーブ宣言」の二つが存在していました。
実際に採用されたのは、セルビア王国のカラジョルジェヴィッチ王朝のもとでスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人が居住する全ての領域からなる立憲君主国を建国する「コルフ宣言」でした。この宣言では、新国家を連邦制にするか中央集権制にするかは触れられていませんでした。
ザグレブの民族会議にとり不幸なことに、憲法制定議会により統一国家の形態を決めるまでセルビア王国政府と民族会議が共存して統治する連邦的構想であった「ジュネーブ宣言」は採用されませんでした。これは、主としてセルビア側が大セルビア主義による南スラブ全体の中央集権的支配をもくろんでいたことによると思われます。

1918年12月1日午前8時、ザグレブの民族会議から事実上の白紙委任状を渡されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」の成立を宣言しました(後に1929年にユーゴスラヴィア王国と改称)。
ここで気をつけるべきなのは、最初は「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人の国」と呼ばれセルビア人が最後に書かれていたのが、新王国では「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」とセルビア人が最初に書かれて、セルビア人に優先権が与えられていることです。この点でもセルビア王国の支配の意図は見えています。

1921年に実施された国勢調査をもとに、アメリカのユーゴスラヴィア研究者であるバーナッツは、ユーゴスラヴィア建国当時の人口1200万人の民族構成を次のようにまとめています:
セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリス人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(ルーマニア語系の言語を持つ)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%
また、宗教は、セルビア正教徒47%、カトリック教徒39%、ムスリム(イスラム教徒)11%でした。

このようにユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であったため、王国創立当初からさまざまな衝突と弾圧が起こりました。
特にセルビアとクロアチアの対立は深刻で、1918年12月からセルビア軍はクロアチアの強制的軍事占領を開始し、あたかも敵国を占領下に置くような行動をとりました。
これは、第一次世界大戦中に、クロアチア人がオーストリア・ハンガリー帝国軍の兵士としてセルビア王国に侵攻し、セルビア国民の実に43%を殺したことに対する報復であったのかもしれません。つい数ヶ月前まで激しい戦闘をしていたので、敵意は相当強いものがあったはずです。
そして、12月5日にはクロアチアの首都ザグレブで、セルビア軍による占領に抗議するクロアチア人の郷土防衛隊に対する虐殺を行ないました。これにより、クロアチアの郷土防衛隊は崩壊し、クロアチアの軍事力は失われました。

このような最初の軍事的対立が後々しこりとして残って増幅され、やがて議会の紛糾、政治家の暗殺、国王暗殺、第二次世界大戦中のクロアチアによるセルビア人虐殺の悲劇、1990年代の内戦と虐殺へと発展していきます。これらは郵便切手や郵便史にも反映されていきました。

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 2

2007年09月16日 21時00分05秒 | 歴史・社会的状況
図の出典:(BRITISH) NAVAL INTELLIGENCE DIVISION B.R. 493A, GEOGRAPHICAL HANDBOOK SERIES JUGOSLAVIA VOLUME II, HISRORY, PEOPLES AND ADMINISTRATION, 1944、 p.149、Fig.41

2.「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」、後のユーゴスラヴィアの地域構成

後で述べるユーゴスラヴィアの成立過程を理解するために、最初に地域構成を理解しておく必要がありますのでまとめておきます。

新しく建国された国は、オーストリア帝国、ハンガリー王国、セルビア王国、モンテネグロ王国という4つの国に属していた地域(それぞれ通貨も法律も社会制度も異なります)と、オーストリア・ハンガリー帝国の軍事占領地であったボスニア・ヘルツェゴビナが1つの国にまとまろうというのですから、並たいていのことではありません。
しかも、オーストリア・ハンガリー帝国側と、セルビア・モンテネグロ王国側は、つい先日まで同盟軍や連合軍として激しい戦闘を繰りひろげて、互いに多大な死者を出していたのですから、敵意や感情的なしこりを乗り越えて一つの国家にまとまるのは常識的には無理であったはずです。

第2時世界大戦勃発前までのユーゴスラヴィアは、以下の地域から構成されていました。

Slovenia: スロヴェニア。
旧オーストリア帝国領のクラインと、シュタイアーマルク、キュステンラントそれぞれの一部。大部分はスロヴェニア人で、主として北部にドイツ人も居住。

P.: Prekomurjeプレコムリエ。旧ハンガリー王国領、スロヴェニア人居住地域。

M.: Medjumurjeメジュムリエ。旧ハンガリー王国領、クロアチア人居住地域。

Crotia-Slavonia: クロアチア-スラヴォニア。
旧ハンガリー王国領、西部がクロアチア、東部がスラヴォニア。クロアチア人とセルビア人が居住。ハンガリー王国支配下である程度の「地方自治権」を与えられていた。

Vojvodina: ヴォイヴォディナ。
旧ハンガリー王国領。セルビア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ドイツ人が居住。

Bosnia: ボスニア。オーストリア・ハンガリー帝国の軍事占領地。
Herce.: Hercegovina: ヘルツェゴヴィナ。オーストリア・ハンガリー帝国の軍事占領地。
ボスニアとヘルツェゴヴィナには、クロアチア人、セルビア人、ムスリム人が居住。

Dalmatia: ダルマチア。旧オーストリア帝国領。
クロアチア人とセルビア人がほとんどで、イタリア人はほとんとがザダル(ザーラ)(当時はイタリア王国領)に居住。

Serbia: 旧セルビア王国。
セルビア人、アルバニア人、マケドニア人、ブルガリア人が居住。

Mont.: Montenegro: 旧モンテネグロ王国。
モンテネグロ人(民族的にはセルビア人と同一)とアルバニア人が居住。

備考:
ソチャ川流域(ジューリア・アルプスの流域)、イストリア半島、リエカ(フィウメ)及びフィウメ湾の幾つかの島、ザダル(ザーラ)、ラストボ島(ラゴスタ島)は、イタリア領になりました。
イタリア領に残されたスロヴェニア人とクロアチア人は、ムッソリーニによるファシズムの到来とともに、学校・文化施設・経済施設・教会でのスロヴェニア語とクロアチア語の使用を抑圧されました。

ブログ「チェインブレーカー及び関連領域の郵便史」の開設 1

2007年09月15日 19時15分25秒 | 歴史・社会的状況
スロヴェニア独立戦争(10日戦争)中のカバー
スロヴェニア独立戦争4日目の1991年6月29日に、MARIBOR(マリボール)市の南約5kmに位置する町HOČE(ホチェ)からマリボール市宛ての書留・速達便。スロヴェニア独立記念切手とユーゴスラヴィア普通切手の混貼り。
マリボール市に到着したのは7月1日(裏に到着印)です。たった5kmの距離しかなく、しかも速達便であるにも関わらず2日間もかかっています。これは、6月27日にユーゴスラヴィア連邦軍の戦車部隊がマリボール市内に突入して占拠していたためです。

1.序
私がユーゴスラヴィア(意味は「南スラヴ」)の郵便史研究のための調査を始めた1991年3月から約3カ月経過した6月末のある日(6月28日頃だったと記憶しています)、NHKの夜7時のニュースの冒頭で、ユーゴスラヴィアのスロヴェニア共和国の高速道路に止められた数台のバスのバリケードを砲撃するユーゴ連邦軍の戦車の映像が映し出され、ユーゴ内戦が始まりました(スロヴェニア独立戦争(10日戦争とも呼ばれる))。

その後あっという間に戦火がユーゴ全体に広がり、クロアチア内戦(東スラヴォニアと南西部のクライナ地方)、ボスニア内戦、マケドニア独立、コソボ紛争、ユーゴ空爆と戦乱が続き、終には2006年にセルビアとモンテネグロが分裂してユーゴスラヴィアは完全に消滅しました。
この様子は、このブログをご覧の皆様もマスコミ報道でご覧になったはずです。
このようなユーゴスラヴィアの崩壊を見ながら、それと同時並行でその国の建国当時の郵便史の収集と研究を進めるという、何とも言えない皮肉なことになったことは予想外でした。

現在、世界中で多発している民族と宗教が原因となった紛争や戦争のことは、皆さん良くご存知のことと思います。ユーゴスラヴィアは多民族・多宗教国家であり、ここで起きたことは「世界の縮図」です。
このブログをご覧になる方々が、ユーゴスラヴィアの事例をご覧なって、民族と宗教の違いによる争いが如何に無益で悲惨かをご理解いただければ幸いです。
世界の人々が多様性を互いに尊重し、人類という一つの家族の価値を認める時代がやってくれば、ユーゴスラヴィアで起きたような悲劇は避けられることでしょう。

余談ですが、宮崎駿監督のアニメ映画「紅の豚」の舞台設定として使用されたのは、1929年の世界大恐慌の後の時代のユーゴスラヴィアのアドリア海沿岸地域のダルマチアからリエカ(フィウメ)(当時はイタリア王国領)にかけての一帯です。
その中でも中心となったのは、世界遺産のドゥブロヴニク(ラグーザ)からザダル(ザーラ)(当時はイタリア王国領)にかけての地域のはずです。ただし実際には「空賊」は存在しませんし海賊がいたという記録も私は見たことはありません。