チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

200201表 60 vinar 1枚貼り、スイス宛て

2009年08月30日 09時36分25秒 | 封書
200201表 60 vinar 1枚貼り、スイス宛て

切手:
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.108 60 vinar凸版、平滑白紙、目打ちがシフト
合計 60 vinar

宛先: Aarau (スイス)のスイス銀行宛て

郵便料金
外国料金
書状: 20gまで75 vinar
合計: 75 vinar (15 vinar料金不足、ただし不足料は徴収されていません)

消印: ZAGREB Y1Y 920 FEB 1 ?
クロアチアのZAGREB 1郵便局 1920年2月1日、消印識別記号Y
ハンガリー型消印

検閲印: 紫色ハンドスタンプ、キリル文字表記
Pregledala 検査
vojna cenzura 軍事検閲
暗青色の筆記体の大文字のEは、検閲官のサインだと思われます。

200201裏 3 vinar凸版3枚貼り、20 vinar凸版4枚貼り、ベオグラード宛て

2009年08月23日 08時49分31秒 | 封書
200201裏 3 vinar凸版3枚貼り、20 vinar凸版4枚貼り、ベオグラード宛て

切手:
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi. 99 3 vinar凸版、平滑白紙、3枚貼り、上からタイプ3, 2, 4、ポジション64, 84, 104
Mi.103 20 vinar凸版、平滑白紙、4枚貼り、上段左からタイプ2, 3, 4、ポジション157, 158, 159、下段タイプ5、ポジション120
合計 89 vinar

宛先: Beograd (セルビア)

郵便料金
国内料金
書状: 20gまで30 vinar
書留: 60 vinar
合計: 90 vinar (1 vinar料金不足、ただし不足料は徴収されていません)

備考: この当時の切手不足は深刻であったため、10vinar切手が不足していたため、3 vinar凸版3枚=9vinar分を10vinar切手として代用した可能性もあります。この場合は、料金は10vinarを徴収して、切手は9vinar分を貼り付けて消印することにより事務処理をしたと考えられます。このような1vinar程度の見掛けの不足の使用例はあの当時のユーゴスラヴィアでは比較的良く見られます。

書留ラベル: オーストリア占領時代のボスニア・ヘルツェゴビナのラベル Mostar 2 218

消印: MOSTAR 1 II 20 IX- S
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR郵便局 1920年2月1日9時、消印識別記号S
ドイツ語のK. UND K. MILIT. POSTを削除してユーゴ化した消印。

備考
差出人の書き込みと思われるもの: 1920年1月30日
受取人の書き込みと思われるもの: 1920年2月5日

着印
BELGRADE 4 2 20 1-2?
セルビアのBELGRADE 郵便局1920年2月4日、セルビア型の消印

200201表 3 vinar凸版3枚貼り、20 vinar凸版4枚貼り、ベオグラード宛て

2009年08月23日 08時45分23秒 | 封書
200201表 3 vinar凸版3枚貼り、20 vinar凸版4枚貼り、ベオグラード宛て

宛先: Beograd (セルビア)

書留ラベル: オーストリア占領時代のボスニア・ヘルツェゴビナのラベル Mostar 2 218

消印: MOSTAR 1 II 20 IX- S
ボスニア・ヘルツェゴビナのMOSTAR郵便局 1920年2月1日9時、消印識別記号S
ドイツ語のK. UND K. MILIT. POSTを削除してユーゴ化した消印。

備考
差出人の書き込みと思われるもの: 1920年1月30日
受取人の書き込みと思われるもの: 1920年2月5日

200129裏 15 vinar凸版2枚貼り、ザグレブ宛て

2009年08月16日 10時25分45秒 | 封書
200129裏 15 vinar凸版2枚貼り、ザグレブ宛て

切手:
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.102 15 vinar凸版、平滑白紙、2枚貼り、左からタイプ4、タイプ2
合計 30 vinar

宛先: Zagreb (クロアチア)

郵便料金
国内料金
書状: 20gまで30 vinar

消印: ZEMUN F1F 920 JAN 29 –N10
クロアチアのZEMUN 1郵便局 1920年1月29日昼間10時、消印識別記号F
ハンガリー型消印

備考
受取人の書き込みと思われる1920年1月30日の記載があります。

200124 30vinar石版チェコスロバキア宛て

2009年08月09日 10時53分59秒 | 封書
200124 30vinar石版チェコスロバキア宛て

切手:
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi.105 30 vinar石版、平滑白紙、タイプ2
合計 30 vinar

宛先: Brno (チェコスロバキア)

郵便料金
チェコスロバキア宛ては国内料金と同一
書状: 20gまで30 vinar

消印: ZAGREB V1V 920 JAN 24 -N9
クロアチアのZAGREB 1郵便局 1920年1月24日昼間9時、消印識別記号V
ハンガリー型消印

検閲印: 紫色ハンドスタンプ、キリル文字表記
Pregledala 検査
vojna cenzura 軍事検閲

200116裏バラーニャ占領地域でのスロヴェニア・チェインブレーカーの使用例

2009年08月02日 10時07分47秒 | 封書
200116裏バラーニャ占領地域でのスロヴェニア・チェインブレーカーの使用例

到着印
PECS Ba 1 Ba 920 JAN 30 N10
セルビア軍占領下のバラーニャのPECS 1郵便局 1920年1月30日 昼間10時、消印識別記号Ba
ハンガリー型消印

ブログ著者意見
前記のDr. LS Ettreの文献の内容をまとめると、以下の事実が明らかになります:
①この混貼りカバーは郵趣的なフィラテリック・カバーであると考えられる。
②占領していたセルビア軍の軍事的な圧力を利用して、ペーチPécsの郵便理事会の高級職員Lajos Soltiと国鉄MAVのエンジニアLaszlo Pentekが共謀して行った。バタスゼクBÁTÁSZEKのセルビア軍も関与したと思われる。
③ペーチPécs地方郵便理事会がこの件を調査した。しかし、調査の結論を示す資料は無い。
④ペーチPécs地方郵便理事会のお膝元のペーチPécsでもBaranya切手とそれとは何の関係も無いArad加刷またはTemesvar加刷切手との混貼りを行った郵便物の引き受けを行ない、しかもセルビア占領軍の検閲印まで押されていた。

この書留便にはペーチ1郵便局の到着印が押されていますから、セルビア軍占領軍の圧力をかけられていたバタスゼク郵便局で書留便として公式に引き受けられ、スロヴェニア切手もバタスゼク郵便局で公式に消印され、その後にペーチに公式に郵送されて、ペーチ郵便局で到着印を公式に押されています。
つまり、ここまでは公式ルートで郵便の引き受けと送達が行われました。
スロヴェニア切手とバラーニャ切手との混貼りに気づいたペーチPécs地方郵便理事会が、調査を開始し、スロヴェニア切手を赤鉛筆で囲んで、左側に『状況は理事会によりファイル番号775/1920として調査された』と赤インクで書きました。

理事会の調査の結論は、公式資料が見つかっていませんから分かりません。
しかし、
①この封書には不足料金を徴収した痕跡が無いため、スロヴェニア切手とバラーニャ切手の混貼りを承認した可能性がある
②この封書が郵政当局により没収・廃棄されずに、現在まで残っている(イギリスのYugoslavia Study Groupの機関誌Jugopoštaには、私が所有しているものと同じ切手を貼り、スロヴェニア切手に赤枠をつけ左側に赤インクで記載したカバーがもう1通報告されています)
③最初から占領軍のセルビア軍が関与しており、セルビア軍の圧力にはペーチ地方郵便理事会も逆らえなかった可能性がある
という事実と可能性を考慮すると、最終的には、ペーチ地方郵便理事会は、このようなスロヴェニア切手とバラーニャ切手の混貼りをしぶしぶ承認あるいは黙認した可能性があると推定されます。

証拠となる最終的な理事会決定の資料がありませんから、決定的なことは言えませんが、セルビア軍による軍事占領という何でもありの異常事態を証明する興味深い歴史的な証拠であると思われます。
日本が戦後のアメリカ軍の占領下にある時に、さまざまな郵趣的及び郵便史的なものがアメリカ軍関係者により作られてまかり通った事実を思い浮かべれば、理解は容易だと思われます。

200116解説 バラーニャ占領地域でのスロヴェニア・チェインブレーカーの使用例

2009年08月02日 10時06分46秒 | 封書
200116解説 バラーニャ占領地域でのスロヴェニア・チェインブレーカーの使用例

この使用例では、スロヴェニア切手の部分を赤鉛筆で囲い、封筒の左側に赤インクで書込みがあります。
この件に関しては下記の文献があります。

出典: イギリスのYugoslavia Study Groupの機関誌Jugopošta No. 65, p.65/3-65/5, March, 2003
著者: Dr. LS Ettre
タイトル: Baranya 1919/20

バタスゼクBÁTÁSZEK問題
セルビア軍は定期的にハンガリーの郵便局員の活動に介入しようとした。
これを見たペーチPécsの郵便理事会の高級職員Lajos Soltiと国鉄MAVのエンジニアLaszlo Pentekは、バタスゼクでの幾つかの「特別なカバー」を作ろうと思いついた。
バタスゼクからセルビア軍による介入が報告されており、そこは中央の権限から相当遠い所だった。

彼らはスロヴェニアで発行された切手を使用した(セルビア軍占領地域ではスロヴェニア切手は無効であった)、そしてそれと一緒にBaranya加刷切手も貼った。
全てのその手紙(封書)は、通常のバタスゼクBÁTÁSZEK郵便局の消印が押され、そしてPentek宛て(訳注: 住所はペーチPécs市内)であった。

最終的に発生した事態が把握された時、ペーチPécs地方郵便理事会は、Soltiに対して懲罰活動を開始した。
そして私の知るところでは、存在する「バタスゼク・カバー」には、スロヴェニア切手の周囲に赤い線が引かれ、赤インクで次の覚書が書かれた(訳注: 封筒の左端に記載):
『状況は理事会によりファイル番号775/1920として調査された』
(Soltiに何が起きたか資料は全く無い。恐らく懲罰活動は厳しかったであろう。)
(翻訳終了)

また、Dr. LS Ettreの同文献には、他の混貼りについても下記のように書かれています:

Pentekの陰謀
Pentek (Soltiと間違いなく関係があった)は他の陰謀にも関与していた。
私はPentek宛の封書(Pecs No.1郵便局の消印)を持っている。
これらはBaranya加刷切手だけでなく、他の所の加刷切手も貼られていたが、Baranyaのセルビア占領とは何の関係もないAradまたはTemesvar加刷切手であった。
興味深い点は、これらのカバーにはセルビアの検閲印が押されており、セルビア占領軍の人々もこの「ビジネス」に巻き込まれていたことを示しているのだろう。
(翻訳終了)

ここでDr. LS Ettreが述べているBaranya加刷切手とArad加刷切手またはTemesvar加刷切手との混貼りカバーも、それぞれ1通ずつ私はコレクションしており、PECS 1郵便局の消印が押され、セルビア軍の検閲印も押されており、ペーチ市内のPentek宛てになっています。
このように、ペーチPécs地方郵便理事会のお膝元のペーチPécsでもBaranya切手とそれとは何の関係も無いArad加刷またはTemesvar加刷切手との混貼りを行った郵便物の引き受けを行ない、しかもそれにセルビア占領軍の検閲印まで押されていたのですから、セルビア占領軍の圧力は非常に強かったと考えられます。

200116表バラーニャ占領地域でのスロヴェニア・チェインブレーカーの使用例

2009年08月02日 10時05分35秒 | 封書
200116表バラーニャ占領地域でのスロヴェニア・チェインブレーカーの使用例

解説: セルビア軍占領下のバラーニャ地方
第一次世界大戦後、セルビア軍は、鉄鉱石鉱山の支配を目的として、ハンガリー南部のバラーニャBaranya地方を占領しました。
その中心都市PÉCSペーチは文化都市であり、ハンガリー最古の大学であるペーチ大学があります。
バラーニャ地方では、セルビア軍の占領下で当初はハンガリー切手がそのまま使用され、後にハンガリー切手にBaranyaと加刷した一連の切手と葉書、レターカード、書留封筒が発行されました。

ユーゴスラヴィアの切手(スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア)の切手は、バラーニャ地方の郵便局の窓口で発売されることはなく、これらは公式にはバラーニャ地方では無効でした。また、バラーニャ加刷切手がユーゴスラヴィアの郵便局で発売されることも無く、もちろんそれらはユーゴスラヴィアでは無効でした。

しかし現実には、セルビア軍占領下のバラーニャ地方で、スロヴェニアのチェインブレーカーの使用例が非常に少数ですが報告されています。
私の知っている範囲内では3例の使用例が文献で報告されており、私はその内の2例(葉書と封書)を持っています。
私のコレクションの2つの使用例は、イギリスのYugoslavia Study Groupの機関誌Jugopošta No. 42, p.32-34, September, 1995に投稿してあります。
もう1例は封書で、Jugopošta No. 41, p.24, June, 1995に掲載されています。


ご参考までにBaranya加刷切手がユーゴスラヴィアのクロアチアのNOVA GRADIŠKA(ノヴァ グラディシュカ)で使用された郵便為替(料金計算と切手の貼り付けは郵便局員が行なう)の使用例は、
EXPONENT
SLOVENIAN ISSUES FROM 1919 TO 1920 IN MIXED FRANKING
http://www.japhila.cz/hof/0146/index0146_076.htm
に公開されています。

この他に、ユーゴスラヴィアの葉書やレターカードがセルビア軍占領下のバラーニャ地方で使用された例も報告されており、下記の文献があります。
イギリスのYugoslavia Study Groupの機関誌Jugopošta
①No. 52, December, 1995
②No. 51, Sepetember, 1995 ---これは私のコレクションの報告であり、クロアチアで発行された軍事葉書へ加刷した葉書がバラーニャのPÉCSペーチからスイス宛てに使用された例です。ただし、これはフィラテリック・メールと考えられます。

このようにバラーニャ地方の国境近辺では、ユーゴスラヴィアとバラーニャ占領地の切手が非常にまれに併用されたと考えられます。
それらは、公式に郵便局で発売されたものではなく、旅行者や軍人などが持ち込んで使用したと考えられます。


画像の使用例の解説

切手:
スロヴェニア・チェインブレーカー
Mi. 103 20 vinar 凸版、平滑白紙、2枚、左からタイプ5とタイプ1
Mi. 107 50 vinar、平滑白紙、ノコギリルレット目打ち、2枚
ハンガリー・バラーニャ地方のセルビア軍の占領加刷切手
Mi. 35 10 fillér
合計 150 vinar
備考: この使用例では、スロヴェニア切手の部分を赤鉛筆で囲い、封筒の左側に赤インクで書込みがあります。

宛先: ユーゴスラヴィア軍(実際はセルビア軍)により占領されていたハンガリー南部のバラーニャBaranya地方の中心都市であるペーチPécs
現在のこの町は、Google地図で「Pécs」と入力して検索すれば表示されます。
ペーチ (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%81
も参照してください。

書留ラベル: ハンガリー型ラベルBátászek 876

郵便料金
バラーニャ占領地域の料金
国内封書 50 fillér
国内書留 100 fillér
合計 150 fillér

参考文献:セルビア軍占領下のバラーニャ地方の郵便料金の出典
イギリスのYugoslavia Study Groupの機関誌Jugopošta No. 66, p.66/5-66/10, June, 2003
著者: Bernard Sharp
The Baranya Republic – The Serbian Occupation of 1918 to 1921 – Postal Tariffs バラーニャ共和国- 1918年から1921年のセルビア占領- 郵便料金

消印: BÁTÁSZEK 920 - JAN. 16 - N8 A
セルビア軍占領下のハンガリーのバラーニャ地方のBÁTÁSZEK郵便局 1920年1月16日、消印識別記号A
ハンガリー型消印。
現在のこの町は、Google地図で「BÁTÁSZEK」と入力して検索すれば表示されます。